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2011年1月30日 顕現節第5主日 「山の上にある町」

マタイによる福音書5章13〜16節
説教: 北川 逸英 神学生

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
マタイによる福音書5章13〜16節


「あなたがたは地の塩である」山の上でイエスさまは弟子たちに対して語られました。塩とは、一体、何を意味するのでしょう。料理にとって塩は大切なものです。私たちは塩気のない料理を味気なく感じます。しかしまた、塩気の強い料理は食べることが出来ません。塩味を決めることが、料理人の大きな仕事です。そのために料理人は、さまざまな塩を、その食材と調理法に合わせて選びます。海の塩、山の塩、塩はそれぞれ、色も味も多種多様であります。料理の塩加減は、食べる時の温度と、食材の口触り、そして食材全体の甘さや、辛さ、酸味、苦み、全体の調和で決まります。そして塩加減は、使う塩の種類によって、大きな違いが出ます。海から取られた塩でも、その海域や製法によって様々な味の違いがあります。岩塩も、その採取場所によって、色も味わいも様々です。料理人は作る料理に合わせて、ふさわしい塩を選び、適量を、適所に加えます。塩は素材に溶け込んで働きます。肉や魚に当てる塩は、味付けだけでなく保存の働きもします。塩は他の食材を引き立てる存在なのです。塩だけでは料理になりません。また塩は毒性も持っています。定量以上の塩を取ると、生物は死にます。しかし全く塩を取らなければ、また私たちは動くことが出来ません。塩は私たちの生命に深く関わるものなのです。

 

塩が大切なものであることはわかりました。しかし、いまや私たちはいながらにして、上はヒマラヤ山脈のマグマ塩から、下は死海の海底にある塩まで世界中のさまざまな塩を買うことができます。では「あなたがたは地の塩である」とイエスさまが言われている、地の塩とはどんな塩なのでしょう。どうも私は消費文化に毒されたようです。「地の塩」とは、商品ブランドのように、他と区別する言葉ではありません。イエスさまは地の塩を、世の光と並べて言い表されます。それはこの世のどこにでもある、しかし大切なものです。そして互いに個性を持ちながら、その場で用いられるために、神さまによって用意されたものです。そしてあなたがたはそれであると、イエスさまが私たちに語られたみ言葉です。

「地の塩」は特別などこかの場所で見つかるものではありません。どこの家にも置かれている、普通の塩壺に入れられた塩なのです。食塩は器に入れて置かないと湿気ってしまいます。そして使われる時に取り出されて、食材と混ぜ合わされるのです。ですから塩が料理に用いられる時には、塩が素材とよく解け合うことが大切です。それが塩の役目です。ですから「地の塩」であるとは、調和をあらわします。塩がいつまでも固い結晶のままでは、口触りも悪く、味も強過ぎます。塩は自らの形を消して、全体にまんべんなく行き渡らなければなりません。そして素材の中に染み込んで鮮度を保ち、その持ち味を邪魔することなく、引き出す働きが求められます。

しかし光は違います。光は闇の中をまっすぐに進みます。光が闇に溶け込んでいくことはありません。そしてそこに置かれた物とぶつかって、その形や色をはっきりと照らし出します。闇と光は混じり合うことはありません。光は闇に向けて放たれていきます。そして闇を切り裂いていくのです。ですから、ともし火は燭台の上に置かれて、すべてを照らし出します。当時のともし火はオリーブオイルの中に灯芯を置いて、火を付けていたようです。そしてこのともし火は燭台の上に置かれます。この世の光をイエスさまは「山の上にある町」と表現されました。そして「山の上にある町は隠れることができない」と言われるのです。山は聖なる場所です。人はそこで神と出会います。モーセもアブラハムも、山の上で神と出会いました。山の上にある町とは聖なる光のある場所、私たちのこの教会です。聖霊によって集められた教会こそが、山の上にある町なのです。

私がこの教会にはじめて来た時は夜でした。翌朝カーテンを開いてけやき坂を望んだ時、「ここは山の上にある」そのように思いました。この六本木教会こそ「山の上の町」であります。60年前、主はこの地を選んで、聖霊の働きによって人々を集められたのです。それは今ここにおられる方々皆様が、今日ここで読まれた「地の塩、世の光」となられるためです。「山の上にある町は、隠れることができない」そのように主は言われます。教会は隠れることができません。それは光を放って、輝いているからです。教会の中に灯された聖霊の火は、消えることがありません。

確かに私たちは今、試練の中にあります。様々な思いもよらない出来事が、私たちを取り囲み、私たちは不安になります。闇が周りを囲んでいる。いっそどこかに隠れようか。そのように思うことすらあります。しかし主は言われます。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。またともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」

主は私たちに信仰をあたえて下さいました。主は私たちに希望を与えて下さいました。そして主は私たちに愛を与えて下さいました。私たちがともし火として、主によって燭台の上に置かれるのです。すでにみことばによって、信仰の火はともされています。私たちに新しい希望も示されています。私たち教会はいま互いに愛をもって仕え合うことを、主によって求められております。そしてこれこそが「家の中のものすべてを照らす」とイエスさまが、私たちに与えられた約束の言葉です。いま見える力が確実に働いて下さるのです。そして主は言われます。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」

私たちの光とは何でしょう。それは私たちのイエス・キリストです。私たちの立派な行いとは何でしょうか。それは私たちのイエス・キリストへの服従です。私たちのイエス・キリストの十字架による救いの業です。これにより私たちの主イエスは「あなたがたの天の父を、人々があがめるようになる」と言われています。私たちはこのみことばによって、もっと大胆に、私たちの光であるイエス・キリストを、人々の前に輝かせて行きましょう。私たちは塩のように、この世に溶けて行き用いられるのです。私たちの中心にはいつでも、イエスさまのみことばがあります。それを説き明かす説教と、見える形で分かち合われる聖礼典があります。私たちは今、屋根に輝く十字架の下に集まって、一つのテーブルを囲み、聖餐の喜びを共にします。主よどうかこの教会を祝してお守り下さい。私たちの教会がこの試練の時を乗り越えて一つとなり、さらに大きな発展を遂げる事ができますように、私たちに宣教の賜物をお与え下さい。私たちがただ、主を信頼し、いかなる時も、愛をもって互いに仕え合う群れとしてください。そして私たちのひとりひとりをあなたの道具として用いてください。あなたからの光をお与え下さい。

2011年1月23日 顕現節第4主日 「弟子の召命」

マタイによる福音書4章18〜25節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆四人の漁師を弟子にする

4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

◆おびただしい病人をいやす

4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。

4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

マタイによる福音書4章18〜25節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

おおよそ30歳頃、イエはいよいよご自分の使命に進むこととなり、その準備の場面が今日の福音書です。イエスはガリラヤでの伝道を開始します。その準備とはご自分働きを助ける弟子を集めることでした。最初の弟子の召命がありました。召命とは、ある使命を果たすよう神から呼びかけられることを言います。イエスの弟子とはイエスと共に福音を述べ伝えるために呼ばれたものです。イエスは弟子たちと共に、各地に福音を伝えて歩かれました。それは福音書という書物に書かれています。

少し学問的なことを話します。新約聖書には四つの福音者があります。順番に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。ふつう、最初の福音書はマルコといわれています。(AD70年)。私はそうは思いませんが、学者の一般的な意見です。福音書には「~~による福音書」と書いた人の名前がありますが、元々はなかったようです。後から付いたものです。ですから、著者について疑問視出来ますが、マルコの福音書は、昔からマルコが書いたと伝承されていますから、そう取ってもいいでしょう。マルコは伝説ではパウロやペトロと共に働いています。のちにペトロの通訳として働き、ペトロから聞いたイエスの言行を記憶する限り正しく書き記したので。彼はマルコの福音書の記者といわれています。(エウセビオス・教会史)。マタイは徴税人マタイ・・イエスに召された・・と言われています。ルカは医師ルカが、使徒言行録と共に書いたと言われています。ヨハネは最初の弟子ヨハネと言われています。異論がありますが、古くからの伝承です。

それぞれの福音書は、単にイエスの伝記(ただ、個人一生の事績を中心とした記録)を書こうというのではなく、確信を持って「イエスは神の子であり、キリストである」ということを伝えようとして書かれました。イエス・キリストはBC6年前後に生まれ、AD33年から32年の間に、エルサレムの西北のゴルゴダの丘で処刑・十字架刑・されたのですが、そのイエスを「救い主」として信じるという意味です。イエスこそがキリストであり、神の光と恵みとに満ちた方であるのです。「神の子」とか「キリスト」とはですが、これらの福音書を読んで行くと分かりますが、今は、イエスは「神から遣わされた決定的な人類の救い主」というくらいに理解しておきます。

イエスは「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われ」(マルコ1:15)て、伝道を始めています。「神の福音」ですが、神から、神についての「福音」です。「福音」とはギリシャ語で「エウアンゲリオン」ですが、英語ではGospel・Good News です。日本語では「良い知らせ・喜ばしいしらせ」です。この言葉は人々が戦争やマラソンの結果はいかにと待っているときに、「勝ったぞ!、優勝したぞ!」という喜びの知らせ、それが「福音」と言う意味です。福音書を書いた弟子たちは、イエスの喜びの知らせ、あるいは、イエスに関する本当の喜びの知らせを・・自分たちの見た、経験した喜びの知らせを書いたのです。

私たちは福音書を通してイエスを知り、見ることが出来ます。そのイエスは二千年前にローマ帝国の広大な支配の片隅・パレスチナで、当時の人々が持っていた問題と真っ向から向かい合っていた一人の人でした。貧し姿ですから、救い主という感じをしないようであったでしょう。しかし、イエスは多くの人々に救いの希望を与えましたが、最後には、弟子たちに裏切られ、死刑になったのです。

私たちはそのイエスを見つめていこうとしています。イエスを どんな目で見るかですが、イエスを過去の方・・二千年前に「神の喜びの言葉を語り、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、あらゆる病人をいやされた(マタ4:24)過去の偉大な宗教家・・と見ているわけではありません。イエスの出来事は「終わった出来事」ではないのです。イエスの言葉は過去のメッセージではないのです。

私たちはイエスを過去の方ではなく、今 私たちの中にイエスは生きていて、私たちに語りかけ、救いの手を差し出している神からの救い主として受け止めるのです。あのイエスが二千年前にガリラヤで語ったこと、イエスの周りに集まった人たちに起こったことが、今も、私たちに語られ、私たちの間で起こるのだということです。私たちは過去のイエスを喜んでいるのではなくて、今共にいるイエスを信じて喜びに満たされるのです。ペトロは「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。私たちも同じではないでしょうか。

私たちは偉大な哲学者や宗教家を知っています。その教えを、人生の導きとして多くの人が信じています。しかし、イエスがその人たち違う一点は、その人たちは死んだが、イエスは復活し、今も生きているということです。パウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(コリント15:3-5)と断言しています。福音とは「キリストが死んで、葬られたこと」です。また「キリストが復活した」ことが福音なのです。

教会はこの福音を伝えていますが、今日の福音書でも、イエスはご自分と共に神の招きを廣く伝えるために弟子を集めています。普通は12使徒がいます。弟子とは「わたしについて来なさい」イエスの言葉を受け入れた者です。そして。その役目は「人間をとる漁師に」なることです。「ガリラヤ湖のほとりを歩いているとき」とありますが、東北約22キロ、南北約18キロ相等の湖で、茨城の霞ヶ浦くらい。私は鹿嶋市に住んでいましたから、良く行きました。四季には色とりどりの花が咲いたそうです。「野の花を見よ」がイエスの言葉にあります。旧約聖書では「キンネレテ湖」といいました。

イエスはそこで、シモンとアンデレを弟子にしました。シモンは後に「ケファ」といわれましたが、「ケファ」とはアラム語(当時のヘブル語の方言)で「岩」です。で、シモンは「ペトロ」と呼ばれるようになりました。ペトロとはギリシャ語で「岩」を意味します。シモン、アンデレはギリシャ名ですが、当時の人はヘブ名とギリシャ名の二つ持っていたようです。仲間内ではヘブル名、公式にはギリシャ名と思います。次に、イエスはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネを招きました。最初の二人も、後の二人も、「網を捨てて従った」、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して・・イエスの後についていった」のです。生計の道である「網」を捨てて、あるいは「家族を残して・・」イエスについていった。イエスの最初の弟子は・・イエスの片腕として働いたのはガリラヤ湖の漁師でした。普通の人・・「無学で普通の人」(使徒言行録4:13)でした。優秀な人を選ばれたとは言えません。

彼らは声を掛けたイエスにすぐに従った・・ちょっと考えると、軽率な行動ともとられます。招いた人が悪人だったら大変です。オウム真理教では、多くの若い方が犠牲になりました。」ここでマタイが言いたいのは、弟子のあるべき姿です。弟子になるのは能力や資格は問題ではないのです。問題は声を掛けるのはイエスです。それにどう応えか、なのです。弟子とはイエスと共に歩き、生きて、神の国の現実の様を示すものです。彼らは、確かに初めはイエスを落胆させた弟子でしたが、後に、イエスのために命を捧げる者になりました。神の聖霊の助けで使命を果たしましたが、彼らの多くは殉教しました。(殉教とは自分の信ずる宗教のために命を捨てることです)。

12使徒の名前を記しておきます。マルコ、マタイとルカにあります。*「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」。(マルコ13:13-19)。*ルカ「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである」。(マタイ6:13-16)。

現在は牧師が使徒の働きを受け継いでいます。今は人手不足です。そして、優秀な牧師をという声があります。いい説教をし、いい牧会をして欲しいと会員は願います。だいぶ前に、「教会だより」に匿名の投書が載っていました。説教で教会の批判をし、文句をいわない教会に行きたいといい、また、会員を攻撃する説教をする牧師がいました。その投書をした方は「心にしみる説教を!」と言いました。それへの反応がありません。しーんとしています。私は読んで、このような牧師がいたことに複雑な気になりました。牧師は説教壇を降りるとき、貧しい内容だと感じることが多いです。勉強不足を思います。でも、精一杯語るので聖霊の働きを祈るのです。会員から今日の説教は「よかったです」と聞くと元気になります。この投書とは別ですが、牧師はなかなか批判・意見・・教会や会員への・・は言えないのです。言うことで対立が生じ、牧師が辞めるか、会員が出ていくで、決着します。そして教会はさらに小さくなります。牧師の経験です。

あの投書では牧師と会員がお互いにきつく批判し合っているようです。普段でも牧師にきつい言葉を掛けていると思います。お互いに気にくわないでしょうか。肌が合わないとか気が合わない人がいるものです。意外と会員は・・役員とか有力者は牧師を厳しく批判します。牧師は反論し難い点あります。ある時期はそうかも知れませんが、その後はお互いに話し合って行くとき、教会は成長します。全部牧師任せはいいようですが、感心しません。教会に制度があるのは・・牧師、役員などが・・あるのは、教会が正しく運営されて、聖霊がその人々を通じて働くためなのです。牧師も役員も、神様の働きを妨げる、下手な牧会や教会運営をしない限り、教会は成長していきます。 最近は信徒の方が勉強します。神学書など読んでいますから、不勉強な牧師の説教は聞くに堪えないものになります。ですから、もっとよい説教を願うのです。牧師はそれに応えて、勉強をすべきです。そういう私も恥ずかしいですが。

イエスが選んだ弟子たちは、本当にイエスを理解し、世界に福音を伝えるようになったのは、イエスの復活の後、イエスが弟子たちに現れた時からです。弟子たちはそれまでは恐れと不安に落ち、自己嫌悪に・・イエスを裏切ったという・・ありました。しかし、復活したイエスが弟子たちに前に現れたとき、彼らはイエスに愛の眼差しと赦しの心を知ったのです。復活後のイエスが弟子たちとともにいるとき、イエスの厳しい叱責の言葉でなく、愛の眼差しと赦しの眼差しを感じます。弟子たちはそれ触れ、回心し、キリストのために、立ち上がり、主のために生きる決心をしたと思います。彼らは自分の生涯をイエスの福音のために捧げたと考えても間違いでないと思います。

私たちはかって「私に従ってきなさい」というイエスの声を聞いて、従ってきました。50年、60年、あるいは数年か数十年ですが、その間私たちは決して平坦な信仰生活でなかったと思います。ある方がいいました。人間には三つの坂があると。「上り坂」「下り坂」そして、「まさか」という「坂」だと。振り返ると分かるような気がします。しかし、にもかかわらず、今も主と共にあると言うことは、私たちが主の愛と赦しの眼差しを見て来たからではないかと思います。至らぬ弟子ですが、イエスは見放すことなく、愛の目で見守ってくださるのです。だから私たちはそこから立ち上がることが出来るのではないでしょうか。私たちが変わっても、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。(ヘブル13:8)。そのイエスを見上げて生きたいと思います。

アーメン

2011年1月16日 顕現節第3主日 「多くの子を産んだ貧しい羊」

マタイによる福音書4章12〜17節
説教: 安藤 政泰 牧師

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
マタイによる福音書4章12〜17節


イザヤ書9章の予言に「ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」と言う言葉に続いて暗闇の中に住む人達に光が照らされる、と言う約束が語られている。主イエス・キリストはヨハネが捕らわれたと聞き、ガリラヤに退かれた。旧約聖書を見ると、神は常にイスラエルの民にのみ働いておられるように受け取れる。私達はいつも旧約聖書を新約聖書の光の中で読む事をしなければ、真実を見る事は出来ない。それはイエス・キリストによる新しい約束、新約聖書の時代に今私達は生きているからである。

さて、新約聖書に於いて、イエス・キリストの初めの働きは、異邦人の町から始められている。み子の誕生は、貧しいベツレヘムの馬小屋で、働きは、辺境の地カファルナウムからである。この事は異邦人とは、関係ないようにみられるが、 当時異邦人と言う表現は、貧しい人、神から離れている人の意味があった。

主イエスはこの町をこのカファルナウム地方を自分の町、自分の土地として愛され、この町で過ごされた。この地から、兄弟であるシモン・ペテロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ達が育った。そして、彼らが主の福音を全世界に伝えるのである。

当時の世界の中心は勿論ローマであった。その時の世界観からすれば、ユダヤ自体が、辺境の国であり、その中でも最も辺境な地であるカファルナウム地方が、神から選ばれた地方になったのである。なぜ、この地方が旧約聖書の予言に現れ、神に選ばれたのか。しばしば外敵からの侵略を受け、人々の心も生活も荒廃して居るような地方。この地方に住む人々は、いつしか、純粋のユダヤ人ではなくなり、多くは異邦人の血の交ざっている混血の人々が多くなったと言われている。国の中央に生活する人々はこの地方の人々を軽蔑し「異邦人のガリラヤ」と呼んでいたようである。その言葉の背後の意味は「神から見捨てられた地方」ということである。主イエスは、神は、あえてこの地方を選ばれたのである。この神の選択に私達は新約聖書のメッセージを読み取る事ができる。私達を選び、ご自分の民とされた、ご自分の子とされる神の深い愛を見ることが出来る。

私達も又、イエス・キリストのあの弟子、ヨハネ、ペテロ、アンデレ、ヤコブたちと同じように神に用いられる器とされるのである。イエス・キリストは弟子を整えて、その宣教のわざに遣わされた。

人々が軽蔑した「異邦人のガリラヤ」出身の学歴も財産も無い弟子たちが、働き、子を生み出したのである。貧しい羊が多くの羊の子を産んだのである。主が私達羊に何を望んでおられるかを知り、その働き人の教会に成りたい。

2011年1月9日 主の洗礼日(顕現節第2主日) 「イエスの洗礼と私・・・洗礼とは」

マタイによる福音書3章13〜17節
説教:五十嵐 誠 牧師

◆イエス、洗礼を受ける

3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
マタイによる福音書3章13〜17節


私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

 

さて、今日は「主の洗礼日」という教会の暦の日です。福音書も洗礼について語り、最後に、イエスの洗礼でと閉じています。3章には洗礼者ヨハネの洗礼についてありました。彼はヨルダン川で「悔い改めの洗礼」をしていましたが、多くの人々が受けていました。彼は自分の洗礼を「水で洗礼をする」といい、もう一つの洗礼について語っていました。「聖霊と火による洗礼」です。後者はイエスの、キリスト教会の洗礼を言います。今日はイエスの洗礼・・イエスが教会に命じられている洗礼とその意味について、考えていきます。

ただ、一つ蛇足ですが、誤解があるので、「聖霊と火による洗礼」に触れます。現在でも、洗礼は二つあって、二つめの洗礼を経験しないと、本当の信者でない。生まれ変わっていないと言います。二つめの洗礼とは「聖霊の洗礼」です。私が横浜教会にいたときに、そう言う方がいました。その方は自分が「聖霊の洗礼」を受けたことを、嬉々としてかたり、私のことを見て、生ぬるいと思ったんでしょうか、「先生のために祈っています」と言いました。私はからかうつもりはないのですが、正直言って、少しはからかう気で「何を祈るのですか」と聞きました。その人は「聖霊の洗礼・バプテスマを受けるようにです」と。私はお礼を言い、でも「そんなことで神さまを煩わすことないですよ。主はめぐみ深い方ですから、既に私に聖霊をくださっていますから」。すると、疑うように言いました。「本当ですか、どのようにして、いつですか」といいました。私は高校生時代に、横浜教会で、イゴルフ宣教師から洗礼を受けました。父と子と聖霊の名によってです。イゴルフ先生は、「あなたは聖霊を受けましたよ。それを用いなさい」といってくれましたし、私は牧師就任式の按手で、「さあ、あなたは聖霊を受けていますよ、行って福音を語りなさい」と告げられ。牧師として仕えています」。聖霊が、私に、お前は聖霊の賜物を用いていないねとか、聖霊で生きていないようだねとか言わない以上、私は聖霊を受けていることを否定できませんよ」といいましたが、その方は「おお!主よ」と言いました。失望したのでしょうか。変な牧師と思ったのかも。

キリスト教が衰退したり、生ぬるい様子を示しますと、聖霊運動が発生します。今もあります。ルーテル教会の行き方に失望して、その運動に参加する人がでます。私も、そんな方を経験しています。でも、よく見ると続かないで終わることが多いと思います。その人は自分の信仰は大学院クラスの信者だが、先生は高校生クラス以下と言いたいようでした。悪意はないのでしょうが、このような人は、信仰の裁判官のように振る舞いますし、自分の信仰を誇るのですね。聖霊がもたらす実の“愛、平和、優しさ、親切、柔和、誠実、節制”が見えないのは不思議でした。いい点が沢山あるのですが、なぜ、こんな間違いが起こるかですが、それは洗礼は神の業であるということをしっかりと理解しないことから起こるのです。神の業であるから、神の業を補完するような、確かにするような、別の“わざ”を待つことは要らないのです。たとえば、イエスの十字架は私たちの救いにとって十分だから、人間が何か補充する必要はないのと同じです。(反対を言うのが神人協力説があります・synergism)。私は、すべての誤りや誤解は、それが神の業であることを理解しない、見ない、知らないで、人間が何かしなければ考えることから来ていると思っています。

今日はイエスの洗礼を見ますが、普通は、イエスが洗礼を受けるとは考えられないことです。というのは、洗礼はペトロが次のように言っているからです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2:38・ペンテコステの説教)。また、イエスは罪のない方だからです。天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。

「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。)(ヘブル4:15)。

では、なぜ罪のないイエスが洗礼を受けられたかですが、・・ヨハネは自分こそ、イエスから受けるにふさわしいというのは正しいのです・・マタイはイエスが「止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15)。「正しい」とは、学者は解釈しますが、「正しい」(ツェダカー)はヘブル語では救いを意味します。救いとは神の行為であり、死ぬべき人に命を与える神ご自身の業になります。私は、イエスはご自分の救い主としての働きを始めるあたり、その第一歩として受けられたと思います。私たちと連帯するためです。ですから、イエスは洗礼を尊重し、受けられたのです。ですから、イエスご自身も教会に洗礼を命じられたのです。ですから、洗礼を軽視したり、無視することは間違いなのです。

現在、洗礼はどう受け止められているでしょうか。先の聖霊の洗礼は別にしてですが。普通は、洗礼は人がクリスチャンになる時や、教会の会員になる際に受けるものと考えています。いわば、新人の入社式・入会式的な見方です。洗礼を受けると、信仰の共同体の教会の仲間・会員になります。そして、権利と義務が生じます。洗礼は、はじめから、キリストに従うものになるとは、キリストの体である教会に繋がれることなのです。残念ことは、洗礼を受けると、そこで止まってしまう信徒があることです。俗に「卒業信者」です。これは意外に多いのです。信仰のABCで、それ以上行かない人です。卒業式ですが、日本語の感覚では、終わり、終点のように思いますが、英語では・・ラテン語ですが、コメンスメント・commencementですが、意味は始まり、開始です。ヘブライ人への手紙で、著者(パウロ?)は書いています。心して聞きたいと思います。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。(新改訳)。

洗礼は実に豊かなもので、人を導き、聖別し、祝福し、神の国へと迎え入れる、栄光に満ちたもの・神の業です。

生ぬるい生き方の信仰者への批判として、前に触れた聖霊派の動きがありますが、中には、もう一回洗礼を受けたい、・やり直しを希望する方がいました。驚きました。気持は分かりかすが、洗礼の意味を間違えています。ある意味では、洗礼について正しく理解していないから、信仰生活が、生ぬるいし、信仰の確信がつかめないと言えます。洗礼の仕方は二つあります。額か頭に水を注ぐと全身を水に入れる、です。ルーテル教会は前者です。

次の質問にどう答えますか。ルターがあるとき、したものです。「あなたはどうしたら自分がキリスト者(クリスチャン)であると、自分で知ることができるでしょうか」。また、私からの質問ですが。「自分の信仰が、揺るいだとき、悩みに落ちたとき、悪魔が信仰から引き離そうとしたとき、どこに、立ちますか」です。多くの方にとって答えにくいと聞きました。でも、ルターの質問も、答えは簡単なのですが、私たちは自分の信仰に、固い自信がないからです。たいていの方は自分の信仰は貧しいものといいますし、感じます。後者の私の質問も、うろうろしている自分を思い出します。私たちの周りには、多くの仲間が信仰から、脱落したりするのを見ます。答難いのというのは、教会が正しく教えていないと言うことも原因です。信徒も、今さらそんなことを聞けないとか、恥ずかしいと思います。で、答えを見いださないで、教会から去っていく場合もあります。

ルターは、最初の質問に答えています。「あなたはご自分が洗礼を受けていることを知っているでしょう。それならば、ほかに知らなければならないことなどありません」と、はっきり言っています。また、彼自身も、ある時、サタンが現れた時に、インク瓶を投げつけて、「私は洗礼を受けているんだ」と答えて、悪魔を追い払っています。その傷跡が部屋に今もあるそうです。私の質問への答えですが、私もルターと同じように、「洗礼こそ、私たちの帰る原点だ」と答えたいと思います。“Back to the Baptism”・・Your My Baptismです。私は自分の洗礼を自分の出発点としながら、現代の社会で、キリスト者として生きる力と意味を、今年は見直ししたいと思っています。旧約聖書で預言者イザヤは、勧めています。(46:9)「思い起こせ、初め(昔)のことを」。これは面白いですが、日本は「忘れる」ですが、ヘブル人は「忘れるな・覚えていよ」が特徴です。

洗礼とは何でしょうか、どんな意味が私にあるのでしょうか。私も復習の意味で考えて見ました。凄い内容でした。自分でも忘れていたことや、洗礼準備コースで教えたつもりですが、どれだけ皆さんが覚えているかです。共に学んでいきましょう。

1.神との永遠の契約です。私たちが神の子として、神のものだという“しるし”(十字架の)です。神に属するものとして“刻印・焼き印”額に(目には見えませんが)持つものです。大きな印鑑で押しているのです。洗礼において神はわたしたちをご自分のとものとされたのです。私たちは神に選ばれたのです。洗礼は神との永遠の契約ですから、それは永遠に有効なのです。再洗礼は不要です。ルターはこう言っています。「洗礼は、神が私たちを所有されていることを示すしるしである。神は私たちのために代価を払い、私たちに刻印・焼き印を押し、私たちを買い取られました。それ故、私たちはもはや恐れることはなく、静かな確信を持って生きることができる」と。そう思います。ルターは面白いことを言っています。「神は“嫉妬・jealousy”の神だから、ご自分の民に他の神々がちょっかいの手を出そうとするのを、決して赦しません」と。私たちは神の中にあるのです。私は確信を持っています「神は、この私を知っていてくださる」と。確かなことです。パウロは迷っていて、信仰から落ちようとしたガラテヤの教会に書いていました。「今は神を知っている、いや、むしろ神から(神に)知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(ガラテヤ4:9)。

2.洗礼はキリストと一つになること・・よく、日本では神と一つになるというと“エクスタシー・ecstasy”つまり、忘我、有頂天、恍惚、法悦にとります。えも言われぬ・何とも言い表せない感情です。私は先日、コロサイ人への手紙の注解書を翻訳しました。その中で、パウロは洗礼について書いていました。以下です。

洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。・・・罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」。(コロサイ2:12-13)。

パウロはさらに、「神は・・・わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」。(テトス3:5)とも書いています。

洗礼は古い自分がキリスト共に死んで、私たちを新しく生まれた者、新しく創られた者にするのです。素晴らしいことではないでしょうか。この罪の中にいた者が、その罪が洗われて、新しい人として変えられ、生まれるのです。自分は変わる必要がないと思う人は、変わりようがありません。手がきれいな人は洗う必要がないからです。丈夫な、健康な人には、医者は要りません。

そして、新しくされた人は、それは神がなされた業ですから、その神は必ず、最後まで導かれるのです。パウロはこう言いました。フィリピ1:6です。

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」。私はそう確信しています。

黒人霊歌に「アメージング・グレース」というのが、よく歌われます。本田美奈子さんや森山良子さんが歌います。数年前の関東地区サマーキャンプで、小坂忠先生のは、信仰がこもった歌い方でした。それは「驚くべき恵み!」と訳されます。私は今、神に見いだされたことを歌ったものです。救われた瞬間を思い起こしているのです。しかし、多くの人は、後半の言葉を忘れています。それはこうです。「これからも神の恵みが私たちを、ふるさとへ導いてくれる」と。故郷とは神の国・私たちに用意されている天です。パウロが「わたしたちの本国は天にあります」と言うとおりです。私の時は神のみ手の中にあると信じて生きたいと思う。

3.洗礼は、普通、人がクリスチャンになる時や、教会の会員になる際に受けるものと考えています。いわば、新人の入社式・入会式的な見方です。洗礼を受けると、信仰の共同体の教会の仲間・会員になります。そして、権利と義務が生じます。洗礼は、はじめから、キリストに従うものになるとは、キリストの体である教会に繋がれることなのです。教会から離れた、独身の信仰者はいないと言うことです。ぽつんと離れた、無教会的な信徒は存在しないのです。日本には無教会というのがありますが、でも仲間・グループをなしています。

教会の洗礼式で、私たちはショウ・見せ物を見ているのではないのです。私たちは新しく洗礼を受ける人の、教会の仲間・会員として集まっているのです。そこでこう言います。「今や、あなたは私たちに属する方です。そして、私たちはあなたに属する者です」。洗礼は私たちを、教会に、人々の共同体に、つまり、キリストの体に結びつけるのである。私たちはその(キリスト)の体のメンバー(部分)になるのである。だから、私たちは皆、家族です。“Christian family”です。よく“家庭的な教会”と言います。何かいい感じを思いますが、これがくせ者です。マーマー主義になります。信仰生活でお互いに見ぬふりをする、注意しない。そして、居心地のいいグループになる。それが暖かい教会と思います。それは違います。「ブロークン・ウィンドー理論・Broken window theory」と呼ばれている言葉があります。こわれ窓が放置されている学校は規律が甘いので、少々のいたずらを見過ごすだろうと思われてしまう。いたずらを見過ごすなら、少々の悪事も見過ごすと思われてしまう。やがて地域の荒廃、衰亡に至ります。教会も同じです。自分の教会を見直してみたい。会員はお互いに「切磋琢磨」したい。

私たちの交わりは、本当は“み霊による生活”です。それは相互責任の共同生活、相互に分かち合う共同生活です。パウロはこう言っています。どうですか。

「私たちは従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(ローマ7:6)。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(同12:11)。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。(フィリピ2:11ー12)。

1965年のミス・アメリカの美人コンテストで、ボンダ・ケイ・バン・ダイクは、最終審査に上がる前に祈りました。自分が最善を尽くせるように、またできれば、キリストの証人となることができるようにと。彼女はチャンスを手にしました。司会者は「あなたが、幸運をもたらすお守りのように、いつも聖書を身に付けているのを、私は知っています。あなたの宗教について一言どうぞ」と求めました。すると彼女は「私はお守りとして聖書を持っているのではありません。聖書は私にとって大切な本です。神と私の親しい交わりのことを宗教と呼びたくありません。それは信仰なのです。私は、神を信じ、信頼し、いつも神のみ心がなされるように祈っています」と。

私は彼女の言葉の「神と私の親しい交わりのことを宗教と呼びたくありません。それは信仰なのです。神を信じ、信頼し、いつも神のみ心がなされる」ことを、共にする所が教会だと思っています。宗教と信仰の違いをしっかりと見極めなくてはならない。私たちは案外、宗教的な生き方をしています。ぞれが信仰と誤解しています。

私たちは家族との生活を通して、家族とはなにかを学んだはずです。家族の中で共に生き、責任を持ち、それを果たし、相互に教え合い、共に食卓を囲み、互いに愛し、愛されることを通して学びをしたはずです。それと同じく、教会・神の家族においても、参加し、経験しながら成長していくのです。パウロは次のように勧めています。コロサイ3:12以下です。この教会の結婚式でよく読まれます。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

ルターは洗礼について、こう言っていました。「神は水の中に(洗礼に)祝福という真珠をおくのである。信仰は無代価の賜物として、これらの祝福・真珠を受ける手である」。

その洗礼を思い起こし、その原点に立って、救われた者として、日々生きたいと思います。

アーメン