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2019年6月9日 聖霊降臨祭の説教「壁を越えた助け」

「壁を越えた助け」ヨハネによる福音書16章4b ~11節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  みなさん、ペンテコステおめでとうございます。約束の聖霊が私たちに与えられました。感謝です。このペンテコステ、教会の始まり、または誕生日と言われますが、ただそのことだけを祝うのではなく、この聖霊の御力、お働きなくしては、私たちの教会の活動も歩みも全く意味をもたないということを、このペンテコステは私たちに伝えているのです。

第2日課である使徒言行録2章1節~4節を見て見ますと、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」という弟子たちの証言が記されています。弟子たちは、主イエスが語られた約束の聖霊を実際に見て、その音を聞くことができたのです。

しかし、ペンテコステの出来事が私たちに伝えようとしている大切なことは、聖霊の形や音がどうだったかということ以上に、彼らが聖霊を受けて、その御力に満たされたということであり、そして彼らはどうなったかということです。彼らは霊が語らせるままに、他の国々の言葉で、話し出しました。そして、2章5節以下で、多くの外国の名前が記され、五旬祭に集まっていた人々は弟子たちの言葉を聞き、その出来事を「神の偉大な業を見た」と証言しています。戸惑い、驚く者もいれば、彼らはぶどう酒に酔っていると言って、あざわらう人々もいました。この時、本当に異様な空気に包まれていたのでしょう。神の業が働いているその時、私たち人間の理解、その感性を越えて、出来事として私たちに伝わってくるものがあるのです。

今日の福音書の中でこの聖霊は「弁護者」と言われています。これはギリシア語でパラクレートスと言います。弁護人、助け手、慰め主と言った訳がありますが、元は「側に呼ばれた者、側に立つ者」という意味の言葉です。側にいてくださり、窮地に立たされた人の側に立って、弁護してくれる人のことを意味するのです。だから助け主とも言われます。主イエスは、弟子たちにこのパラクレートス、弁護者を送ると約束されました

彼らにとっての目に見える弁護者、それはもちろんイエスキリストです。主イエスは罪人の傍らに立ち、彼らの助けとなり、そして赦しをもたらすために十字架にかかられるのです。その神様の愛の御心を示された神様の御言葉を主イエスは語られ、ご自身の生涯をもってして、その御言葉を完成されるのです。その主イエスが弟子たちに、私たちに語ってくださった、示してくださったことすべてを私たちに思い起こさせ、わからせてくれるのが、目には見えない弁護者である聖霊なのです。それは主イエスご自身がヨハネによる福音書14章26節で「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言っているとおりです。主イエスは、この聖霊の働きを通して、あなたがたは御言葉に聞き、御言葉に立って歩んで行きなさいと導かれるのです。

しかし、この弁護者は、主イエスがどんなに慰め深い方であったのかということを思い起こさせるだけではないのです。8節で主イエスはこう言われます。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」罪と義はそれぞれ神様との関係、関わりについてです。そして、裁きはその関わりにおける結果的なあり方です。義というのは、正しさということですが、要は神様に救われるという意味です。世の誤りを明らかにする、誤りとは神様の御心に反して、世が与える、または世が認識する罪と義と裁きについて、そこには救いがないということを聖霊は明らかにするのです。「世の誤りを明らかにする」という言葉は、口語訳聖書では「世の人の目を開くであろう」と訳されています。世の人の目、すなわち私たち人間の目です。人間の目から見る罪と義と裁きです。それが聖霊によって、すなわち神様の言葉によって世の人の目が開かれるということは、世の人の目が見えていない、盲目であるということを告げているのでしょう。それを新共同訳は「誤り」だとはっきり言うのです。人間の目には誤りがあり、見えていない部分があると。それは、世に生きている私たちの目は本当に見えているのかということの神様からの問いかけでもあります。

山上の説教の中で、主イエスは人を裁くなと言われます。そしてこう言われます。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(7:3~5)

その自分の目の丸太、盲目であるということを聖霊が明らかにするのです。神様の御言葉を聞くことによって、気づかされるのです。このことを主は弟子たちに言われました。この世に生きつつも、キリストに属するあなたがたは、もはや世の掟ではなく、キリストの掟によって、キリストの言葉に立って、キリストの言葉に生きなさいということを言っているのです。弟子たちもまた盲目になるからです。盲目になって罪を犯してしまう現実の中にあるからです。それは私たちも同じです。

しかし、その丸太に気づかせ、丸太を取り除いてくださるのが、この聖霊のみ力なのです。聖霊の働きを通して思い起こされる主イエスの十字架と復活の救いの御業なのです。その主イエスに信頼せよ、委ねよということを聖霊は私たちに告げます。

パウロはエフェソの信徒への手紙でこう言います。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(6:14~18)神の武具を身に着けなさいと言われます。私たちの人生における様々な苦難や困難との戦いが現実にあるからです。それは避けようがないものです。しかし、パウロはそのためにも「霊に助けられて祈り、願い求め」と言います。霊に、すなわち聖霊の助けによって、弁護してくださるかたの導きと支えの中にあって、自分ひとりで抗うのではなく、必ず私たちを助けてくださる方の存在を御言葉は告げています。それは自分の目の中にある丸太を取り除いてくださり、赦されて、そして相手を赦すために、他者と共に生きていく道を聖霊は備えてくださいます。そのためにも御言葉を剣とし、信仰を盾とし、救いを兜としてかぶる。その神様の信頼と平安の内に生きていくこと、一人一人の存在を弁護し、御言葉に生かされるようにと、聖霊は私たちを導き、弁護者と、側に立って私たちを助け、神様の恵みへと私たちの目を開かせてくださいます。

聖霊の導きによって、本日の礼拝の中で一人の姉妹が洗礼を受けられ、一人の姉妹が転入式を迎えます。短くも長くも、主によって備えられた求道の道を歩んでこられ、今日この日を迎えられました。喜びと感謝を抱きつつ、お二人のこの教会での信仰生活の歩みの始まりを祝福し、聖霊が彼女たちを励まし、支えてくださることを私たちは切に祈り願います。私たちも自身の洗礼を想起し、ここからまた聖霊の導きによって、新しく始められていく教会生活とその活動を覚えて、祈りつつ、「霊に助けられて祈り、願い求め」てまいりたいと願います。この六本木ルーテル教会の71年のこれまでの歩みに感謝し、聖霊のみ助けによって、共に歩んでまいります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年6月2日 昇天主日の説教「ああ、大丈夫なんだ」

「ああ、大丈夫なんだ」ルカによる福音書24章44~53節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  主イエスキリストの昇天。本日私たちは、主イエスがこの地上でのご生涯を終えられ、天の神様の御許へと上って行かれた昇天主日の礼拝へと招かれております。ですから、本日の礼拝では「昇天主日」としてキリストの昇天を覚えますが、教会暦で定められている主イエスの「昇天日」は数日前の5月30日の木曜日であります。教会手帳にもそのことが記されております。

ドイツではこの昇天日に教会の鐘が一斉に鳴り始め、キリストの昇天をお祝いするために、この日は国で祝日と定められているそうです。彼らはキリストの昇天を記念日としてお祝いしています。お祝いということですから、そこには喜びがあるということです。日本の教会にはあまりない習慣です。キリストの昇天が喜びだということ、そのことは何よりも昇天を目撃した弟子たちが証ししているのです。

さて、このキリストの昇天という出来事。聖書をよく見てみますと、主イエスは天に上ったのではなく、天に上げられたということが記されています。主イエスを天に上げた方が天におられる。すなわち父なる神様です。天とは父なる神様がおられるところ、ご支配されているところです。そこは天の国とか神の国といわれるところでありますが、私たち人間が空間的、時系列的に捉えることのできる場所ではないのです。しかし、私たちに全く無縁の場所でもない、それどころか、私たちの故郷とも言えるところなのです。フィリピの信徒への手紙でパウロが「わたしたちの本国は天にあります」(3:20)と言っているとおりです。ですから、私たちのこの世での生の営みには、ちゃんとゴールがあるのです。私たちはそのゴールを、すなわち天の国、神の国を目指して歩んでいる旅路の最中にあるのです。しかし、ただの旅ではありません。マタイによる福音書の山上の説教の中で、主イエスは「神の国と神の義を求めなさい」(6:33)と言われました。神の義を求めるということ、すなわち、自分自身を絶対化するのではなく、神様の御前に自分自身を相対化して、神様に従う歩みをすることです。だからこの旅路は「信仰の旅路」とも言われるのです。この旅をしている群れは「教会」であり、その旅人は「証人」と言われるキリストの民であります。

だから、私たちの生きているこの世の世界と、天の国は全く無関係な、並列的な関係ではなく、2つの世界は神様の下にある。神様は天の国も、この世もご支配されている方です。そのことは、神様の御子であります主イエスキリストがこの世にご降誕された出来事と、そして今日の昇天された出来事を通して明確になったのです。

さて、主イエスの働きは、この地上での世界だけのものだったのでしょうか。地上でのご生涯を終えられ、天に上られてそれで終わってしまったのでしょうか。決してそうではないのです。今日の第2日課でありますエフェソの信徒への手紙にこう記されています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」(12021天に上られた主イエスは、この地上の世界の支配者となって、今も私たちと共にいてくださるということなのです。私は世の終わりまで、あなたがたと共にいるというインマヌエルの神様が共におられるということ、ですから、私たちの信仰の旅路はこのキリストと一つになるということなのです。この旅路の群れである教会はキリストの体として、わたしたちとつながっているのです。だから、私たちは信仰告白をするのです。「三日目に死人の内よりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座した給えり」。この使徒信条の告白は、現在の私たちの告白です。キリストの昇天によって、私たちと永遠にいてくださるようになり、今も生きて働いてくださる主イエスへの信頼の告白の言葉なのです。このことが明らかになったのが、主イエスの昇天の出来事なのです。

さて、弟子たちは、今この信仰の旅路を旅するための準備を、主イエスによって、整えられているのです。復活した主イエスの御姿を見て、彼らは喜びに満ち溢れていました。主イエスを裏切り、ユダヤ人たちから逃げまどい、不安の只中にあった弟子たちの前に再び現れて下さり、それも亡霊のような不確かな存在としてではなく、共に旅をしてきた自分たちの主であり、教師である主イエスが肉体をもった自分たちと同じ人間の姿として、今目の前に現れてくださったからです。この時、主イエスが真っ先に弟子たちにしたことが「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36)、口語訳聖書では「平安あれ」という言葉を通して、彼らを祝福されたことでした。それも真ん中に立って、一人一人と向き合ってくださったのです。再び弟子たちを召してくださった、弟子としてくださったのであります。彼らはここから復活の主イエスの弟子として、新しい歩みを成して行くのです。それはどのような歩みか、「キリストの証人」としての歩みです。そのために主イエスは彼らの心の目を開いて、聖書を悟らせました。モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄、すなわち旧約聖書全体の神様の約束が主イエスによって成就したということを彼らに悟らせたのです。旧約聖書の成就、すなわち長年に渡る約束、待望のメシアが彼らの前に現れてくださったことが明らかになった瞬間でした。彼らの抱いていたメシア像、ダビデ王のような目に見える力に満ちていたメシアではなく、人々の罪のため、咎のために苦しみを負われ、十字架の死を受けられたあのイザヤ書53章に出てくる苦難の僕としてのメシアです。しかし、このメシアは三日目に復活された。罪の代償としての死を滅ぼし、救いの御業を完成されたメシアが彼らと共にいてくださる。彼らがそのように信じることができたのは、心の目が開かれ、聖書を悟ったからでありました。また、弟子たちは主イエスから「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という約束の言葉を聞きました。高い所からの力、すなわち聖霊の力です。それが彼らに与えられるという約束。覆われるということは着るということ、すなわち洗礼を受けて、新しい命の中を歩むものとして、彼らは召し出されようとしているのです。それが聖霊における洗礼において与えられる新しい命であり、「キリストの証人」としての歩みであります。このようにして、主イエスは彼らを再び弟子として召し出し、彼らに全てを語り、与えたのであります。

しかし、主イエスは彼らをベタニアに連れていき、彼らを祝福しながら天に上って行かれました。彼らと共に宣教の旅路に向かうのではなく、天に上って行かれたのです。弟子たちにとっては、この地上での主イエスとのお別れとなりました。もう主イエスと直接語ったり、触れたりすることができなくなる。私たちも人との別れを人生において何度も体験します。嘆き悲しみ、涙にくれます。もう会うことができない、永遠の別れ。しかし、この時、弟子たちは大喜びでエルサレムに帰ったと福音書は記しています。主イエスが天に上って行かれ、もう姿が見えなくなるに、彼らは喜んでいた、いやむしろ大いに喜んでいたのです。別れるのに喜ぶ。そんなことがありえるのか、いやそうではないのです。別れだけれど、別れではない。むしろ、永遠の出会いだということを。どういうことでしょうか。それは、主イエスが地上における人間の姿として、語ったり触れたりするという目に見える制限された中でしか、主イエスと出会うことができなかった彼らが、天に上られ、神の右の座から、永遠に自分たちとつながっていてくださるということを確信したからであります。肉体的な制限を受けずして、彼らはいつでも主イエスと出会うことができるという希望を抱くことができたのであります。聖霊の力を通して、いつでも自分たちを祝福してくださるということに実感をもつことができたからに他なりません。目に見えなくても、いやむしろ、目に見える制限された出会いではないということ。共にいてくださるとは、空間的、時系列的なものを超えた永遠の出会いだということなのです。別れが別れではなくなったということ。私たちとの永遠の出会いだということを示してくださったキリスト。ですから、キリストの昇天、それは私たちを喜びの希望へと招くのです。

彼らは主イエスが自分たちを祝福されながら、天に上っていかれたのを見つめていました。その時彼らはひれ伏していた、すなわち礼拝をしていたのです。祝福しながら、絶えず自分たちを祝福しながら天に上り、常に自分たちが祝福の共同体として恵みを頂けるということに大きな喜びを抱いたのです。そして、一番最後の53節で、彼らは神殿の境内にいて、神様をほめたたえていました。このほめたたえるとは、実は祝福するという言葉と同じ言葉が使われているのです。ですから、彼らも神様を祝福していたのでした。変なニュアンスかも知れません。神様を祝福するというのは。だから、日本語の聖書では、ほめたたえていたと訳されているのですが、彼らの想いは神様への祝福に満ちていたのです。それは神様への讃美であり、喜び、感謝であります。祝福の共同体の中心には、常に私たちを祝福してくださるキリストが共におられるのです。

ヨハネによる福音書15章1節から17節で主イエスがご自身のことを「ぶどうの木」であると弟子たちに言われた箇所であります。そして、弟子たちは「その枝である」と主イエスは言われました。ぶどうの木である主イエスを離れては、あなたがたは何もできないと主イエスは弟子たちに言われました。そして、「わたしの愛にとどまりなさい」と弟子たちに言われたのです。このたとえから聞こえてくるのが、わたしの命につながっていなさいということではないでしょうか。キリストの命につながるということ、すなわち「キリストの愛にとどまる」ということ。パウロはローマ書8章39節でこう言っています。「他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」その愛につながっているのが、ぶどうの木であるキリストに連なるぶどうの木の枝としての私たちの存在なのです。たとえ目には見えなくとも、私たちはつながっているのです。神様に愛され続けているのです。祝福されているのです。だから「互いに愛し合いなさい、祝福しないさい」と言われるのです。ここに礼拝をする教会があるのです。教会はキリストの証人として呼び集められた者たちの、祝福の共同体なのです。弟子たちはこの神様の愛に包まれて、喜んだのです。私たちもこの祝福の共同体の中で、神様の愛に結ばれて生きているのです。ここには大きな喜びがあるのです。絶えず、神様をほめたたえる共同体として、今私たちの信仰の旅路は始まったのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

2019年5月26日 復活後第5主日の説教「共に生きる平和」

「共に生きる平和」 ヨハネによる福音書14章23~29節 藤木 智広  牧師

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 

今日の福音書の中で主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27節)と言われました。わたしの、すなわちキリストの平和と、世が与えるという平和、ふたつの平和ということを言います。平安とも訳せる言葉です。平和、平安、それは誰しもが望んでいることです。ただ、主イエスが与える平和とこの世がもたらす平和は根本的に違うのだと言うのです。

少し先のところで主イエスは、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18)と言われ、この世の彼らに対する迫害がいづれ起こるということを預言しています。このヨハネによる福音書が書かれた90年頃という時代は、教会がユダヤ教徒やローマ帝国といったこの世の支配層、権力者の迫害下にあり、その只中でこの福音書が記されたと言われています。弟子たちに「心を騒がせるな、おびえるな」と言われた主イエスの言葉は、福音書が書かれた時代の教会の人々の心にも深く浸透するものであったでしょう。また、世が与える平和という意味では、当時、キリスト教会の人々にローマ皇帝への皇帝崇拝を強要するということが行われていて、それは、ローマ帝国の皇帝こそ、この世に平和をもたらす偉大な君主であると讃えることが背景にありました。いわゆるローマの平和(パックスロマーナ)と言われるもので、強大なローマ帝国の軍事力における武力、その武力を背景とした力によってもたらされる平和であり、平和のための戦いが繰り広げられていたのです。

ローマの平和を背景に、厳しい迫害下の中にあった教会、キリスト者は逮捕され、殉死していきました。キリスト者、教会というだけで不当に逮捕され、その理不尽さの中で教会は歩んできました。現代の私たちは迫害と聞いても、過去の出来事として、リアルにそのことを受け止めることはできないかもしれませんが、迫害は外からの力であって、それは理不尽さをもたらすものではないでしょうか。キリスト者は何の罪もなく、逮捕され、殉死していったのです。自分には非がないはずなのに、なぜ自分がこんな目に遭わないといけないのか、そういう理不尽との戦いの中に私たちの歩みもあります。この理不尽さとは別のところに、理不尽とは無関係なところに、本当の平和、平安があるように思えるのです。理不尽さとは無関係なところで平安の内に生きていきたいという私たちの思いがあるかと思います。

しかし、主イエスは16章33節で弟子たちにこう言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」世に生きるあなたがたには現実の苦難(迫害)、理不尽さがあるが、その苦難ある世に私は勝っていると言われます。それが「あなたがたがわたしによって平和を得る」、主イエスが与える平和、キリストの平和だと言うのです。

今日の福音書の中で、主イエスは弟子たちに「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(23節)、また「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。」と言われました。わたしの言葉というのは、神様の教えであり、具体的に言えばそれは先週の福音の中で聞いた「新しい掟」のことです。神様の教えである律法の本質を示された新しい掟、すなわち互いに愛し合いなさいという愛の掟です。この愛の掟に生きる人が、主を愛する人、それは愛の神様のもとに生きる人であります。神様の愛に信頼して生きていく人です。この神様の愛とは何か。この言葉を語られた時、弟子のユダの裏切りが明らかになりますが、ユダの裏切りによって、栄光が示されたと言います。また、後には弟子たちも主イエスのもとから離れ去り、主イエスを愛するどころか、心を騒がし、おびえ、逃げ去ってしまうのです。誰一人として、主イエスの十字架に従うことはできず、自身の弱さや小ささ、無力さが顕になりました。

主イエスの十字架の死の後、弟子たちはユダヤ人たちの目を気にして、鍵をかけて家に閉じこもってしまいます。いつ見つかるかわからないという不安と恐れの中にありました。しかし、そこに復活の主イエスが彼らの真ん中に顕れてこう言われるのです。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)。主イエスが与える平和、それは弟子たちの不安と恐れの真ん中、また彼らの弱さや小ささ、無力さといった闇深きところにもたらされた赦しと愛の平和でした。主イエスが与える平和は、苦難や理不尽さ極まる十字架の死を通って、その闇の只中からの復活の光であり、その平和は罪の最大の敵である死を突き抜けられた神様の平和なのです。弟子たちを裁かれず、見捨てず、その弱さをも受け止められた神様の愛からもたらされる平和なのです。弟子たちはここから立ち上がっていくのです。そして、彼らは、また私たちはそこから主の平和を告げ知らせる福音の使者として、新たな場所に出て行くのです。

「あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」主イエスは力によってではなく、赦しと愛をもってして、ご自身の平和を私たちに与えてくださり、この平和に生きることを伝えています。「わたしは既に世に勝っている。」世を力で打ち倒して実現する神の平和ではなく、世を愛することにおいて、ひとりひとりの存在を愛し、尊重し、弱さ、みじめさを受け入れ、大切にしてくださる神様の慈しみによって、神の平和は実現し、世の平和に勝るのです。それは、同じヨハネによる福音書3章16節で「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。」と主イエスが言ってくださっているところに、神の平和が明らかにされているのです。

だから、心を騒がせるな、おびえるな、主イエスはそう言われます。主イエスご自身の十字架と復活を通して、平和を与えてくださり、そして弟子たちがその平和を経験して、立ち上がることができたのです。キリストの平和の内に、本当の自分を取り戻し、平和によって示された愛の内に、自分の命を見出すことができたのです。私たちもそのように招かれているのです。この平和にある私たちの命、命のありかを希望の内に見出していきたい。その希望の内にあって、神の平和を求め、世に生きつつも、キリストに属して、キリストの言葉から平和について問い続け、歩んでまいりたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年5月19日 復活後第4主日の説教「互いに愛し合いなさい」

「互いに愛し合いなさい」ヨハネによる福音書13章31~35節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  今日の福音書であるヨハネ福音書13章からは、主イエスの告別説教と言われる箇所です。弟子たちとの最後の語らいの時、この章ので主イエスは弟子たちをこのうえなく愛し抜かれたとあります。その後に、洗足の話が記されています。主イエスは弟子たちの足を洗った後、「あなたがたも足を洗い合いなさい」と言われました。それは愛し合いなさいという掟と同じ響きがあります。しかし、その直後、ユダの裏切りが発覚します。27節で、サタンが彼の中に入ったとあります。ユダはサタンの思い、すなわち人間の思いに立ち、主イエスのもとを離れていくのです。その時、夜であったと30節に記されています。ユダの裏切りが、人間の闇の部分がこの夜という暗さを表わしているかのようにです。主イエスはその闇と向き合いました。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのです。そして今日の福音書、31節で、ユダが出て行くと同時に、主イエスはご自身の栄光を顕されたのです。神様の御姿を現したということです。何が原因か、それはユダによってでした。ユダの裏切りという臨場感の中で、すなわちご自身が捕えられ、十字架の死が確定したということが、主の御心を成し遂げたということにおいて、神様の御姿がそこに顕されているのです。

私たちは、この主イエスの御姿から、みすぼらしく、無残な死を遂げてしまう無力なる「人」を思い浮かべるでしょう。どうして、栄光なのか、敗北ではないのかと。しかし、福音書は語ってまいりました。主イエスご自身のお言葉を。「私は復活であり、命であると」。この栄光の中に、その甦りの主が既におられる。失われる命を通り越して、それが死という終わりではなく、永遠の命が輝いているのです。主イエスの十字架という死、その失われる命の中に、ユダの裏切りという闇の勢力が一層際立つように思えるのですが、その闇の只中で、メシアなる主イエスは栄光に満ちているのです。この闇にまさる光を顕している。ユダの裏切り、またそのことに動揺する弟子たちの不安、恐れという闇がここにある。その闇をも照らす光、闇を甘んじて受け入れる神の愛、人間の闇にまさる神の愛が、栄光のメシアとしての主イエスに顕されているのです。わたしがあなたがたを愛した、その愛とは十字架の死という命の消失において、頂点を極めるのです。すなわち、私たちを愛されるが故に、命を捨てたということなのです。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさいという主イエスのお言葉を聞いた時、私たちはどのようにして互いに愛し合うのでしょうか。神の愛が、十字架の死というメシアの命の消失において、頂点を極めるのであれば、それでは私たちも、互いに愛するというとき、命を捨てるということなのでしょうか。ヨハネの手紙では、互いに愛し合うということについて、こう記しています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(ヨハネの手紙Ⅰ31618)。命を捨てるということは、命を与えて下さった方に、自分の命を委ねるということ、人生の歩みを、その方に委ねるということです。兄弟のために命を捨てる、すなわち委ねるということにおいて、他者を真っ向から受け入れる。優しくする、支える、与える以上に、その人と生きるということ、そばにいて、共に歩むということに他ならないのです。そのための命、他者を生かす、他者する命として、その灯は燃え続けているのです。なぜそのようなことができるのか、それは私たちが神の愛を知り、永遠の命という希望を見据えて、歩むことが許されているからに他ならないからです。

永遠の命を見据えて、今ある命を委ねる。私たちは命を失うことを恐れます。手放すことを恐れます。安全な囲いの中で、命を守りつつ、歩んでいきたい、その思いがあります。命を粗末にするな、大切にしろ、その通りです。そのことを否定しているわけではありません。粗末にせず、大切にするからこそ、この命を豊かな命として、用いていきたい。失うことを恐れて、この命を守りたいが故に、自分自身の力量や知識に頼って、生きて行こうとする私たちの姿があります。しかし、私たちは、自分の命をコントロールすることはできないのです。いつ失われるかわからない、死という恐怖と向き合いつつ、生きていかなくてはいけないというこの世での生活があります。しかし、主イエスの死と復活によって知りえた神の愛、永遠の命の中に、自分の命、人生を委ねることができたとき、もはや死という闇に恐れることはないのです。死と墓を打ち破った復活のキリストと共に、愛の共同体の中で、羊が緑豊かな牧草地で、草を食むことができるように、その豊かな命の中で生きることができるのです。

主イエスは最後に「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(35節)と言われました。わたしの弟子というのはキリスト者のことですが、それは主イエスと共にあって、喜びも苦しみも共に共有し、分かち合う共同体であります。この同じ告別説教のところで、主イエスは自らをぶどうの木に例えられ、あなたがたはその枝であると言われました。(15:5)枝は木の幹から来る養分がないと生きてはいけないのです。つまり、ぶどうの木である主イエスの愛なくして、私たちが互いに愛し合うことはできないのです。またパウロは言います。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」(Ⅰコリント122627一つの部分が苦しめば、全体が苦しむと。一つの部分、それはもしかしたら私たちの欠けている部分かもしれない。私たちの破れそのものかもしれません。しかし、それをひとりが背負うことではないのです。私たちの苦しみは全体の苦しみ、皆が背負う苦しみなのです。また一つの部分が、あなた一人が尊ばれ、大切にされることは私やあなただけの喜びではない、全体の喜びなのです。それがキリストの体に連なる私たちであり、キリストにある愛の共同体なのです。

ですから、互いに愛し合う。共に寄り添い、共有していく、その中で自分たちができることをしていくのです。そして共に負っていく友として、互いに愛し合うということにおいて、私たちはもはや孤独ではないのです。愛の頭であるキリストが私たちの根っこから私たちを支え、今も生きて共にいてくださるからです。この生きた愛の内に共に歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。