「見えるようになれ」ルカによる福音書18章31~43節 藤木智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
人間の行動の8割は視覚に制御されていると言われています。そのことから、いかに私たちはこの視覚を頼りにして生きているのかということがわかります。ただ、パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節でこう言います。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」見えないものに目を注ぎなさいとパウロは教えます。私たちは時には目に見えるものに束縛されて、本当に大切なこと、真実が見えていない自分の盲目さに気づかされることがあります。またパウロはフィリピの信徒への手紙1章9節から10節でこう言います。「知る力と見抜く力を身に着けてあなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」見えないものに目を注ぐのは、重要なことを見分けて、愛がますます豊かになるためです。愛の豊かさは見た目にはわからない「愛」を知る経験から育まれるものではないでしょうか。その愛を知るということが、愛を見つめるということ、見えないものに目を注いでいくことです。
エルサレムへの途上にあるエリコの町で、道端に座って物乞いをしていた盲人がいました。盲人と記されているだけで、この人が全盲なのか、または生まれつき目が見えないのかはわかりませんが、物乞いをしていた彼の姿から、働くこともできず、一人で生活することもできず、人々からの助けがないと生きてはいけない状況にあったのでしょう。彼にとって、この道端とは自分の生活圏とも言える領域です。その自分の生活圏の中に、エルサレムへ上っていく主イエスがお通りになるという情報を彼は聞きます。そこで彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。彼には主イエスの姿が見えなかったでしょう。今どこを通っているのかもわからなかったはずです。しかし、主イエスが自分の近くに来ていることは確かであるから、彼は力いっぱいに、先に行く人々が叱りつけようとするぐらいに、叫び続けました。この叫び声は単にボリュームの大きさだけではなく、彼の苦しみがその叫び声に現されているのでしょう。声の大きさだけでなく、苦しみの大きさが現れているのです。彼は神様の憐れみに全てをかけました。
主イエスは立ち止まり、盲人が言います。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。すると主イエスは、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」と言われ、「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。」ということが起こりました。主イエスに視力の回復を願い出て、視力を回復してもらったということではなく、主イエスはあなたの信仰がと言われ、盲人の信仰が盲人を救ったと言われているのです。この盲人の信仰とは一体何なのでしょうか。盲人は一体何が見えるようになったのでしょうか。
「わたしを憐れんでください。」この一言を盲人は叫び続けただけでした。いや、そう叫ぶことしかできなかったのです。「ナザレのイエスのお通りだ」と聞いて、人々の反応は様々だったでしょう。主イエスに期待をもっていた人で賑やかになっていたと思います。盲人は目が見えない故に、生きていくことの大変さを噛み締めています。物乞いをして、やっと自分の生活を支え、それを頼りにしていました。自分自身に頼れるものは何もないのです。「わたしを憐れんでください。」この叫び声は、自分の中には何もない、何も頼れるものがないという者の声です。ですから、主イエスはその彼の叫び声に応えられた、憐れみを求める彼に憐れみをもってして応えたということです。
ユダヤ人にとって忘れられない、神様の大いなる救いの出来後であるあの「出エジプト」は、まさにエジプトで奴隷状態にあって、苦しみ抜いていたユダヤ人の叫び声から始まったのです。そのことを出エジプト記にはこう記されています。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。/神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。/神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。(出エジプト記2:23~25)助けを求める叫び声に、神様は応えられ、モーセを遣わして、彼らをエジプトから、奴隷状態から救い出されたのが出エジプトの出来事です。彼らはただ助けを叫び求めた、いやもう叫ぶことしか出来なかったのです。あのユダヤ人たちも、この盲人も、自分に持てるものは何もない、その無力さの中で苦しみを背負っていました。彼らの叫び声はその全貌を明らかにしているのです。
主イエスは盲人の叫び声に応えられました。そして、その叫び声をあなたの信仰と受け止められたのです。彼自身は本当に必死に叫んだだけでした。その叫び声は自分の力ではどうにもならない者の叫びであり、自分に土台を据えることはできない声でした。それがあなたを救う信仰であると主イエスは言われたのです。それは神様が憐れみに必ず応えてくださる方であり、その叫び声を無視する方ではないということです。盲人の信仰が盲人を救ったというのは、神様の憐れみが先行して盲人に応えてくださっているからです。この憐れみにおいて、主イエスはこの盲人を愛し、受け止めておられるということが明らかにされているのです。
盲人は見えるようになり、そして主イエスを賛美して、主イエスに従ったと言います。目が見えるようになって喜んだだけではないのです。主イエスを賛美して、主イエスに従った、盲人はそういう生き方へと変えられていったというのです。盲人は主イエスに従って信じる自分の人生を見つめているのです。このことはまた、何を見て、何が見えるようになって、主を賛美し、主に従っているのかということを私たちに問いかけているのではないでしょうか。
この出来事の直前で、主イエスは3度目の受難と十字架、復活の予告を弟子たちに告げられました。3度目にも関わらず、弟子たちはそのことが全く理解できなかったと言います。その言葉の意味が隠されていたという神様の働きがあったということですが、それは弟子たちですら、主イエスが成し遂げられようとしている救いの御業を人間的な期待の中で理解しようとしていた節があったからでしょう。少なくとも、主イエスがエルサレムで死ぬということを弟子たちは到底受け止められなかったはずです。なぜ神の子である救い主が理不尽な死を迎えるのか、そのことが私たちの救いとどう関わるのかということです。この時弟子たちは主イエスの御業が隠されていて、それを見ることができませんでした。十字架の理不尽な死という現実だけが彼らに見えていたのでしょう。この後、弟子たちは主イエスのもとを離れて、逃げ出してしまいます。弟子たちもまた主イエスの救いのみ業に対して盲目であったということです。しかし、敢えて、「その言葉の意味が隠されていたという神様の働きがあった」ということは、その弟子たちの弱さ、小ささ、いや無力さが明らかにされる必要があったということです。主イエスを信じて従っていくということは、自分の力や知恵で歩んでいくことではなく、自分が空っぽにされ、あの盲人と同じように、叫ぶことしかできないほどに、自分の中には何も頼れるものはないということが明らかにされる必要があったのです。神様はその叫び声を通して示される無力さの中に、憐れみを示してくださる、憐れみを持って応えてくださる方なのです。それはやがて、十字架と復活を通して成し遂げられる神様の人間への憐れみとなるのです。
この盲人が真に見えたものとは、神様の憐れみでした。十字架と復活における神様の働きはまだ彼にも隠されています。しかし、「見えないものに目を注ぐ」というように、実際に見たからということではなく、主イエスと自分との関わりにおいて、自分の叫び声に応えてくださった主イエスの中に、それを見出したのです。主イエスが彼に見せたものはその憐れみでした。自分のことを絶対に見捨てない愛であり、盲人をそのままに受け止めてくださった慈しみでした。その神様の憐れみと愛が見えるようになったから、主イエスを賛美し、主に従っていったのです。盲人の信仰による救いがその彼の行動に現れています。彼自身の自分の力における神様に対する正しい自分の生き方、姿勢ではなく、無力なままに神様によって肯定され、愛されていることに信頼していけるという喜び示されているのではないでしょうか。
「見えるようになれ」。主は私たちひとりひとりにこう言ってくださいます。私たちも現実の中で叫びます。苦しみを大にして叫びます。声にはならない叫び声もあります。その声に必ず応えてくださる神の憐れみがあなたを見捨てず、あなたを救い出す、その神様の憐れみと愛が見えるようにと、主は御言葉を通して私たちに語られます。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」見えないものに目を注ぐことによって、見えてくる神の憐れみと愛があるからです。その憐れみと愛によって生かされて本当の自分の姿が見えてくるからです。だから、私たちは自分を偽る必要はないのです。神様の前に叫び続けていいのです。いや、主に従うものとは、主に叫ぶものでもあるのです。自分を拠り所とせず、神を拠り所とするものの歩みだからです。見えるものだけに縛られている私たちの目を回復され、神様の憐れみによって生かされる歩みがこれからも守られるように願います。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。