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2011年4月3日 四旬節第4主日 「ユダヤ会堂からの追放」

ヨハネによる福音書9章13〜25節
説教:高野 公雄 牧師

人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

ヨハネによる福音書9章13〜25節

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

体の具合が悪くなると、お腹を冷やしてしまったからかなとか、夜更かししすぎたからかななどと、思い当たる原因を考えて、対処の仕方を考えるのではないでしょうか。体の不調の原因は、自分が罪を犯したためとまでは考えないにしても、自分の不注意とか不摂生のせいだと反省することしばしばです。

障がい者に対しても同じような考え方をすることが多いと思います。わたしの経験ですが、生まれつき目の不自由な人が教会に訪ねてきました。わたしが彼女にまず尋ねたのは、目が悪いのは小さいときからなのかとか、いまどの程度目が効いているのか、というようなことでした。彼女は、わたしの問いに誠実に答えてくれたのですが、わたしの質問は彼女にとって何の意味があったでしょうか。

二千年前のイエスさまの弟子たちにも同じようなことが起こったことが聖書に述べられています。

≪さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」≫

目の見えないこの男は物乞いをするしかありませんでした。そんな社会の片隅に追いやられている人に、イエスさまは目を向けられます。弟子たちは彼の目が見えないのは「生まれつき」だと知っていたということは、すでに何度かこの男の前を通っていて、彼の噂を聞いていたのかもしれません。しかし、素通りしたのではこの人の人生はなにも変わりません。イエスさまが目を留め近づかれたということが、一切の始まりです。イエスさまは弟子たちに答えます。

≪「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」≫

福島県に住む人々は津波と原発事故で苦しい状況に置かれただけでなく、放射線の影響についての誤った風評による被害にも遭っています。二重の痛みを負うことになり、本当に気の毒です。この男の場合も、生まれながらに目が見えないだけでなく、それは本人の罪のためだ、いや親の罪のためだと論じられることで、さらなる痛みを負わされていたのです。イエスさまはこの負の連鎖をきっぱりと断ち切ります。これは本人のせいでも親のせいでもない。ひとごとのように因果応報を論じる、そんなことはこの人にとって何の役に立つと言うのか。むしろ、神さまがこれからこの人をどう恵まれるか、どう導かれるかということに目を向けようではないか。こうイエスさまは諭されます。これはすでにこの人にとって望外の福音であったに違いありません。

わたしが出会った目の不自由な人の場合を思い起こします。彼女が求めていたのは、人生の指針であり、人生の支えです。彼女は先に光が見えない、出口が分からない、暗いトンネルの中にいるような心境で、明かりとなってくれるキリストを求めていたのでしょう。彼女は当時、大学3年生で、大人として生きるために道を求めていたのだと思います。実は、わたしも大学生になって初めて教会を尋ねたのですが、社会人として、大人として生きるために、自分の生き方の芯となるものとしてキリスト教を学ぼうとしたのでした。五里霧中の状態で自分がどう生きるべきかを探し求めていました。それはまさに、生まれつき目の見えない人が、物乞いをしている状態だったと言えます。

聖書の中のこの人は、イエスさまと出会って、視力を回復させてもらいました。しかし、神のみ業は、この奇跡的な癒しに限られません。むしろ、聖書がわたしたちに語るところによれば、彼の心眼が開かれたことの方が重要です。

四旬節は、もともと復活祭に洗礼を受ける志願者が信仰を告白する準備のときでした。今日の福音、ヨハネ9章もこの時期に読まれる伝統的な個所です。生まれつき目の見えない人がイエスさまと出会い、闇から光へと移される、闇から光へと生まれ変わる物語です。

聖書の表現では、目が見えないこと、耳が聞こえないことは、神を知らずに、または神を信じずに生きていることのたとえです。聖書は、その状態を「罪」と言い表しています。イエスさまを世の光として認めることができない状態です。しかし、イエスさまは自らその盲人に近づき、彼の目を開かれます。自分を照らす世の光としてイエスさまを知ること、それが救いであり、新しい命を生きることであります。

ですから、盲人が見えるようになることは、聖書の表現では、神のみ業が現われたことであり、世の救い主が現われたことであり、イエスさまこそまことの救い主であることを指示しているのです。イエスさまのみ言葉≪シロアムに行って洗いなさい≫は、イエスさまを救い主と信じて洗礼を受けなさい、新しく生まれ変わりなさいという福音的な勧めに他なりません。

自分が目の見えないこと、耳の聞こえないことを認めて、門をたたく者、求める者には、必ず門が開かれ、探すものが見つかります。しかし、見えると言い張る者は、実は見るべきものを見てはおらず、闇に留っていて、それが闇であることを知りません。

さらに、聖書は、イエスさまを自分の目を開いてくださった方と知った男は、ユダヤ教の会堂から追放されることをも辞さず、イエスさまをメシア、キリストであると告白したと語ります。

≪ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。≫

このことは、少し説明を要します。イエスさまの在世中には、キリスト教徒という概念はありませんでしたし、キリスト教徒をユダヤ人社会から追放するという決定もありませんでした。ヨハネ先生は福音書を、ただ過去の出来事を歴史として書いたのではなく、自分の教会の信者たちの直面している状況に合わせて書いています。ヨハネ先生が福音書を書いたのは一世紀の末だと考えられていますが、その当時には、キリスト教はユダヤ教の一派とは認めらなくなり、クリスチャンはユダヤ教の会堂から締め出され、破門されるようになっていたのです。ヨハネ先生は自分の教会に集う者に向かって、イエスさまは信じる者を必ず守ってくださるから、追放されることを恐れずに信ぜよ、と教えているのです。

ところで、今日の日本社会でキリストを信じて生きることもまた、容易なことではありません。世俗的、実利的なものの見方、考え方が行きわたり、神を仰ぎ見るわたしたちは昔の人か異星人のような異質の存在となっています。また、地鎮祭や法事との付き合いも欠かせないのが悩ましいところです。そんな中でも、キリスト者として気骨をもって生きよ、もう一度その覚悟を固めよ、とイエスさまはわたしたちに呼びかけています。イエスさま自身、わたしたちの救いのために罪人としてユダヤ教指導者によって棄てられました。イエスさまを信じ従うわたしたちもまた、イエスさまと同様の道を歩み、苦難をとおって栄光へと至るのです。しかし、わたしたちはこの点において、あまりに不徹底であると思います。わたしたちはかつては闇の中に住んでいましたが、いまは主の恵みを知り、命の光の中に生かされています。この幸いを喜び、イエスさまと出会った盲人のように、決然と、心の底から主に感謝し、主を賛美しましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン

2011年3月27日 四旬節第3主日 「それは、私である・・出会いの恵み」

ヨハネによる福音書4章5〜26節
説教:五十嵐 誠 牧師

それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた.すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
ヨハネによる福音書4章5〜26節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

世界各地で起こっていることに「差別」があります。 人種差別、宗教的差別、同じ民族による階級的差別・インドのカースト制度、日本では部落問題などです。一昔前の「ルーツ」というアメリカの黒人奴隷の映画が印象的でした。今はアメリカの大統領にオバマさんがなる時代ですから、大部変わったとは言えますが、去年の中間選挙で、ティー・パーティとか言う集会の影響で大敗しましたが、その根底に人種差別があると言います。やはり根深いなと思いました。イエスの時代にもありました。かつては同じ仲間でしたが、お互いに付き合わない状態でした。「サマリア人」と「ユダヤ人」でした。サマリア人(サマリアじん)はユダヤ教に対抗して特別な教派を形成していた、サマリア地方の人々を指した。今のパレスチナの半分の上部がサマリアで、下方がユダヤになります。死海がある方です。
紀元前721年アッシリアの王サルゴン2世のサマリア攻略後、アッシリアの各地から集められた人々がサマリアに移住し、自分たちの宗教とユダヤ教とを混ぜ合わせたものを信じました。(列王下 17:24-34)。独自の聖書(モーセの五書)と神殿を持っていました。そのことからユダヤ人はサマリア人を正統信仰から離れたものと見なし(ヨハネ:4:8参照)、交わりを絶っていました。(ヨハネ 4:9)。福音書にもしばしば現れ(ヨハネ 4:39-42、ルカ 9:52,53など)、使徒言行録の中では彼らがイエスの福音を受け入れた様が語られている(使徒 8:5-25)。

今朝はイエスとサマリアの女との出会いから学びたいと思います。出会いの場所は「ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町」でした。そこに「ヤコブの井戸」がありました。ヤコブとは旧約聖書ではユダヤ人の祖先とされている人物です。その井戸はサマリヤ人の伝承によるとヤコブが掘ったとされていました。いわば、名所・旧蹟です。今聖地に行くといろんな名所旧蹟があります。
イエスは「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」とあります。疲れたなんてちらっと書いていますが、イエスの人間性を感じます。ヨハネ福音書は特色が合って「時・時刻」を書いています。今日の出来事は「正午ごろ」、「夜」とかです。印象深さを与えます。

会話の発端はイエスが「水を飲ませてください」と言われ、女が「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですかと言った」所から始まりました。その理由は、先ほどいいました「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」からでした。

イエスと女の人の始まりは「水」の問題でした。砂漠や荒れ地では「水」が大変です。TVでは水源地や井戸に子供が来て、女子がバケツや天秤棒に水かめを吊って、日に何回か遠くまで通うのを見ます。女と子供が水くみ役です。日本NPOが村に井戸を掘って贈る運動をしています。ですから、この女の人も、仕事を減らしたいと思ったのかも知れません。イエスが「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と。ですから「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」から分かります。蛇足ですが、「主よ」(11節も)という言葉をカトリックの神父は「旦那さん」と岩波書店の聖書は「旅の人」と訳しました。主というのは神的な意味があるからです。

禅問答的な面もありますが、次第にイエスのこと、ふさわしい礼拝へ、そして、彼女が待っていた方との出会いへと進んでいます。キリスト出会うことで起きることがあると思います。彼女はイエスと出会い・・偶然であれ、そうでない場合でも・・コミュニケーションが出来て、誤解やら反感があり、そんな思いを正されて、ついにユダヤ人を避けていては出会うことの出来ないメシア・救い主に心を開かれて、導かれて出会ったのでした。彼女はこの後、「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。この方がメシアかもしれません」と。大事な水がめを放っておいた程の出来事と言えます。

この出来事から、今私たちはなにを学ぶかですが、私は信仰に関して一つ思います。世間では信仰は困ったときのもの・・病気になったとき、困ったとき、追い詰められたとき、年老いたとき、場合によっては、受験や就活、婚活・・今は離活も・・に必要なものだと考えています。だから、今は目の前のことに専念し、楽しみ、自由に勝手に生きようと思うのではないかと思います。しかし、サマリヤの出来事は、日常生活に起きています。信仰とか宗教は、生活の状況に左右されないことを示していると私は思います。信仰とか宗教は、どう生きるかの根底に関わるものですから、順境の時にも、否、順境の時こそ、真剣に向かい合うべきものです。そう思いますが、どうでしょうか。苦しいときの神頼み式の生き方でなくて、信仰は自分の生き方の「中心」においたとき、私たちを生かす力となります。昔、修道女・シスターたちを見たとき、多くの人は彼女は、彼女たちは何か大きな悩みや苦しみをしたからと思ったものです。でもそうではないのです。そんな人はほとんど、いないと言います。あるシスターに会った時、すばらしい方で、活発なかたでした、外の社会で働いたら、もっと良い働き、結婚したら良妻賢母だろうなと見えたかたでしたが、失礼と思いましたが、「あなたなら、もっと良い働きの場所があるのでは・・」と聞きました。すると、そのシスターは「そうなんですけど、神様に会ったから、しょうがないんですね」と淡々と答えてくれました。ある日、ある時、神がその方に出会って、いや、シスターが神と出会ってたのです。そんな時が多くの方にと願っています。

イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と。ちょっと抽象的で分かりにくい表現ですが、イエスを信じる者の持つ信仰の姿を描いているのです。キリスト教は何か暗いと言うか、弱さを言われます。韓国から来たキリスト教の高校生が「日本教会はお葬式の雰囲気がしている」といいました。韓国の教会は元気だそうです。生き生きした雰囲気が一杯だそうです。私がアメリカの教会を訪問したとき、牧師が一段高い説教壇から・・ルーテル教会は説教壇が・・日本のように平面の床にあるか、少し高い祭壇の横・・この教会のようなものでなく、上の方、見上げるような所に・・劇場の貴賓席のように・・高いのです・・身振り手振りで、声だかに説教していました。日本人牧師は原稿を読んでいる感じがします。講義をしているみたいです。また、信徒も、額に八の字をしているような暗い、悩んでいる顔をしているといわれます。真面目過ぎるとも。でも、そういう顔は・・暗い顔は形容矛盾です。本当は「明るい」が正しい形容詞であるはずだからです。

去年の暮れに、秋田の田沢湖で絶滅したと言われた「クニマス」が静岡の「西湖」で発見されました。私もキャンプに行ったことありました。サカナ君がTVに登場して話題を蒔きました。田沢湖に帰そうというのですが、だめだそうです。それは湖に酸性河川水が流入して、湖水が生きていない、つまり死んだような湖らしいのです。水のたまった湖が澱んで、魚も住まない、水も飲めない。死んでいる信仰はそれに似ています。生きている信仰は淀みなく流れる泉に似ています。水はいつも澄んでいます。泉はこんこんと湧き続けます。そのように流れ続ける信仰が生き生きとしています。イエスの「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」からです。また、イエスは「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)とも言われています。泉と生きた水・生ける水とは何でしょうか。

今、私たち信仰者は「泉・井戸」と「生きた水・生ける水」(4:10,7:38)を持つものです。それはイエスご自身と聖霊です。それはこんこんとわき出る泉・尽きることのない井戸を持つことであり、生きるすべての道で、信仰者を導き、助け、励まし、慰め、信仰者を生き生きとした、元気な者に導いてくれるのです。
イエスはご自分のことを、「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である」(ヨハネ黙示録1:17-18)と言っていますが、最初の者、最後の者とは聖書では「神」としてのイエスを表します。(黙示録2:8)*参照最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方・キリストが、次のように言われる。
しかし、文語訳聖書はこんな風に訳しています。「恐れるな、我はいやさき(最先)なり、いやはて(最後)、生ける者なり」と。私は旧約聖書の言葉の詩人の「主よ、あなたはわたしを知っておられる。・・わたしの道にことごとく通じておられる・・前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる」(詩編139:1-4)を思い出しました。皆さんは列車が高い山や峠を喘ぎながら上る時、スイスのアルプスや日本では前と後ろに機関車を連結(重連)しました。時には機関車三台の三重連もありました。徳川家康は「人の世は重荷を負って行くようなもの」と言いましたが、恐れや苦難、心配などの中で、生きているイエスが、私たちを引っ張り、押し上げてくださるという信仰と信頼を持つとき、一歩を踏み出す勇気が出るのです。

今年(2010)の1月7日の朝日新聞の「天声人語」におもしろい記事がありました。岡本眸さんという方の俳句に「温めるも冷ますも 息や日々の冬」というのがあります。息というものは重宝なもので、かじかむ指を温められるし、熱い雑炊を冷ますことも出来ます。生きることのささやかな幸せを感じさせる名句です。寒い季節ほど、人は「幸せ」への感度をふくらませるように思う。その幸福感は、収入が多いほど大きいものでもないらしい。米国で調査したら、日々の幸せを感じる度合いは年収7万5千ドル(620万円)で頭打ちになるという結果が出たと言います。プリンストン大のカーネーマン名誉教授でノーベル賞受賞者が45万人を電話で調査しました。教授は「高い年収で満足は買えるが、幸せは買えない」と結論づけました。幸せ者とは小さな喜びを十分に味わえる人、ということになろうと言います。人は幸せを願っています。どのような状態を幸せと見るかは、人によって違ってきます。有り余る程の財産があっても、不幸と見るし、そうでなくても幸いと見ることもあります。

聖書は幸せをどう見るかですが旧約聖書から見ます。ヘブル語で幸いは「アシュレー」と言います。それは43回使われ、詩編26回と箴言7回で、77パーセントが二つの文書で占められています。人生の哀歓や知恵を語る本にあります。幸いとはですが、長くなりますから、纏めて行きます。1,主を神とする人・神の所有とされた人*(詩編33:12。2)。2,主に身を寄せる人*(詩編34:9)。3,主に信頼する人*詩編40:5)。4,主を畏れ、主の戒めを愛する人*(詩編112:1)。5,主の律法に歩む人*(詩編119:1-2)。6,知恵に到達した人*(箴言3:13)。7,罪を赦された人*詩編32:1-2)。これが「幸い観」です。

新約聖書では、イエスは「山上の説教」のはじめで、クリスチャンの幸福一覧表を述べています。八つの「さいわいである」(マタイ5:3-12。ルカ6:20-26))を揚げています。1,貧しい人、2,悲しむ人、3,飢え渇く人、4,憐れみ深い人、5,心の清い人、6,平和を実現する人、7,迫害を受ける人、8,キリストのために悪口に合う人です。旧約聖書とは違った新しさ・・常識的には幸いとは結びつきそうもない人が幸いだとされていることが言われています。一方、ルカは富んでいる人、豊かな人への、それは「不幸」だと言う言葉があります。私は常識的に幸福と思えないのが幸福とはなぜかと思いました。それは神が彼らを・・悲しむ人、飢え渇く人を・・慰め、満たし、憐れむからです。貧しい人を慰め、飢え渇きを満たす神が、その人を包み込むから幸いなのです。

人生はジグソーパズル・Jigsaw puzzleだと言います。このゲームは何十、何百のピースをはめ込んで完成します。私たちは日々、完全な絵が出来ることを願いながら、ばらばらのピースをつなぎ合わせて生きています。しかし、ピースが足りないと思うことがあります。それは合わないピースを探していたのかも知れません。神を中心としない人生は、最も大切なピースを欠いた人生です。もしも、自分の人生には何か足りないと感じたら、感じているなら、唯一の神だけが豊かに、そして完全に満足させる方であることを思い出して、人生というジグソーパズルを、神に完成してもらうようにしたいと思います。神は預言者イザヤを通して、私たちに訴えています。聞きましょう。
「なぜ、あなたがたは、糧にもならぬもののために金を費し、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる」。(イザヤ55:2)。 アーメン
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私の礼拝担当は本日で終了します。担当牧師としての約一年でしたが奉仕が出来て幸いでした。楽しく出来ました。私の貧しい説教に耳を傾けてくださって有り難うございました。この年になって今までにない勉強をしました。私には、この教会の前身の教会に最初の牧師として赴任した教会でしたが、今、最後の牧師としての奉仕を、その教会で終わるのは、不思議なことでしたが、それは恵みでした。そんな機会をくださった神と六本木教会の役員、会員に心から感謝します。有り難うございました。来週から新しい牧師の下で進んでください。神の大いなる恵みを心から祈ります。本当の有り難う、感謝します。

2010年11月7日 聖霊降臨後第24主日 全聖徒主日 「帰る家がありますか」

ヨハネによる福音書16章25〜33節

説教:安藤 政泰 牧師

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」


今日は全聖徒の主日です。自分が生きること、死ぬことを共に考える時でもあります。

 

同時に、この世の命を終わった者の事を「思い起こす」主日でもあります。

「思い起こすとき」、聖書的には、思い起こしたことが、実際に現実に再現される事でもあります。それが 今日聖餐式で行われます。聖餐式は最後の晩餐の再現とも 復活後のイエスと弟子とのエマオへの道での食事の再現とも言われています。その事を行ったとき、弟子たちはキリストとは意識しなかったが、食事を共にしたときに「キリスト」だと認識したのです(ルカによる福音書24章13節以下)

今日 私たちは、主のもとにある全ての人々(聖徒)と共に、天国での主の食卓に招かれるです。

16:25節 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」

キリストの弟子への別離を前提に言われていることです。イエスは今、たとえではなく、直接に弟子に話そうとしています。何を話そうとしているのでしょうか?その話しが、これからの関係を暗示しているのです。喩えでは、このことは 決して話すことが出来ない内容です。それは 弟子とイエスの関係が変化することだからです。同時に 私たちと、イエスとの現在の関係でもあります。

16:26節 「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。」

キリストは もやは 一人一人を思いやり、各自の願いを推測して、父なる神に願う事はされないと、言われています。それは イエスの十字架の死を前提しているからです。

その代わり、直接、父なる神に、キリストの名によって願うように、指示されています。

これは 当時の弟子とイエスとの関係の性格の変化です。今まで、弟子たちはイエスに父なる神への祈りをしてもらっていたのです。しかし、これからは、イエスに自分に代わって祈っていただくという、イエスの文字通りの仲介は必要がない、と宣言されているのです。

その理由は

16:27節 「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」

私たちがイエスを愛し、イエスが神から来たことを信じたので、神の愛の中に抱きいれられるのです。イエスを神の御子と信じるから、神は信じるあなたの願を直接聞いて下さるのです。

16:28節 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

イエスは神のもとに帰られるが、神と人との関係は継続するのです。もはや 神と私たちの関係は、イエスの直接的な仲介なしに、その関係が復活することを予言されているのです。それは あたかも 創世記のアダムのイブの楽園追放以前の神と人間の関係に戻るということで、イエスの仲介により イエスの十字架の死と復活により完成するのです。

父なる神のもとに、帰られたキリストがおられるから、私たちは、父なる神との直接的な関係があるのではなく、父なる神ご自身がキリストの十字架の死と復活により、神ご自身があなたを愛してくださり、そのふところに迎い入れて下さるのです。

だから キリストは死に勝ったのだ、と私たちは証することが出来るのです。

このキリストは死に勝たれたからこそ、今日私たちは全聖徒の主日を祝うことができるのです。「死」は、私たちに取りこの世の生命の終わりであって、それは新しい世界の、生命の始まりを意味しています。悪魔とその力、死に勝利れたキリストのゆえに、今、私たちは 天使とその軍勢と共に先に召された方々と共に、今日ここで 再会し、共に天国の食卓につくのです。

2010年10月31日 宗教改革記念日 「真理はあなたを自由にする」

説教: 五十嵐 誠 牧師

ヨハネによる福音書8章31〜38節

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

真理はあなたたちを自由にする」は国会図書館の銘板に書かれています。この図書館の「真理」とは「存在と思惟の一致としての普遍妥当的知識,あるいは存在と行為の一致としての真実の」ことを言います。哲学的な真理です。アリスとテレスは「在るものを在ると言い、在らぬものを在らぬと言うことが真理である」と言っています。。

しかし、聖書では・・旧約聖書では、ヘブル語では「真理」または「真実」「まこと」などと訳されています。真実であられる神の御性格(詩57:10,117:2)を表し、また、神のみことば(詩119:160)、神の戒め(または仰せ)(詩119:151)、神のさばき(詩19:9)の真理性、真実性を表現しています。新約聖書では、ギリシャ語ですが、・・真理は救いのために啓示された神のみこころとしての「福音そのもの」を意味しています。「福音の真理があなたがたの間で常に保たれる」(ガラ2:5)ように書いています。また、「真理はイエスにある」(エペ4:21)。真理はイエスの中にあるのです。さらに、このイエスにある真理に私たちを導いてくださるのは「真理の御霊」(ヨハ14:17,15:26,16:13)である聖霊でもあります。さらに,この救いを宣べ伝える教会の正しい教義が真理と呼ばれています。(ヘブ10:26,Ⅱペテ1:12)、教会が「真理の柱また土台」(Ⅰテモ3:15)とも呼ばれています。所で、イエスの言う真理とは何かです。

私はイエスの「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」から、私は「イエスご自身とその言葉」であると思います。それが人々を自由にすると言うのです。

自由とは何か。自由を巡って議論があります。哲学、社会、政治、経済、文学、宗教での論議もあります。辞典を引きますと、勝手気まま、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと、個人の権利(人権)が侵されないこと、自身の立てた規範に従って行動すること、自分の思いどおりにできることなどです。私たちの自由とは、何ものにも束縛されないで、自分の思い通りに出来ることが大きいと言えます。中世から近代へは人間の束縛から自由でした。宗教的な束縛からの自由でした。近代人とは神を脇に追いやるものでした。人間中心です。イエスの譬えの、あの放蕩息子のように、自分の思う通りに生きるのが自由と思います。いわゆる、自主独立を果たした人間が、自由人だと言います。

イエスの言う自由とは・・「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」・・イエスが、イエスの言葉が与える自由とは何であろうか。ユダヤ人たちは誤解して、自分たちはアブラハムの子孫だ、神に選ばれた民だ、律法や儀式制度もある、自分たちはイスラエルの民で、神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は自分たちものである」(ロマ9:4)と言って、「今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と言う民族的な誇りが、イエスの言葉に耳をふさがせる結果になりました。

*アブラムという意味については,アブは「父」を意味し,アブラハムとは「多くの国民の父」という意味で、カナンの地目指して生れ故郷であるカルデヤのウルを出発した。ユダヤ人の祖先で、信仰の父として尊敬されていた。

イエスの言う自由とは、そういう「 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢(ごうまん)、誇りと言う「罪」・・人間に巣くっている強力な、支配の力からの・・からの自由・解放」

を意味しています。この罪の束縛からの解放をもたらす方としてイエス・キリストが示されています。

パウロという使徒は罪についての自覚を語っています。私たちはそれほどには感じない点があります。彼は「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。「自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。彼は叫びます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。そして、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。と言い、救いがイエス・キリストから来ることを確信して、神に感謝を表しています。(ローマ7:14ー25)。

今日は教会暦では「宗教改革記念日」です。世界のプロテスタントの教会の、そして特別に、ルーテル教会の記念日です。世界史で学んだと思いますが、プロテスタント教会がローマ・カトリック教会と、教義の相違から、分かれたことを覚えて守ります。主人公はマルチン・ルター(ルーテル)というドイツの神学者で牧師でした。時は1517年10月31日ヴィッテンベルクの城教会の扉に、あの有名な「95箇条の提題・・贖宥(しよくゆう)の効力を明らかにするための討論」を張り出しました。その日がルターの改革の第一歩になりました。ルターは「免罪符」の発売を取り上げて、真のキリストの救いの福音を回復しようとしたのでした。

*しょくゆう・贖宥(indulgence)。カトリック教会で、すでにゆるされた罪の長期的な償いを、教会の権能をもって免除すること。

*免罪符・・贖宥しょくゆうのしるしとして中世カトリック教会が発行した証書。ローマのバチカンの大聖堂を修理するために売り出されたのが免罪符。贖宥状。賽銭箱にお金が入り、チャリーンと音がした瞬間、死者の魂は直ちに、天国に入るという宣伝文句が有名。

世界中におおくの宗教と信仰があります。千差万別・いろいろな種類があって、その違いもさまざまです。しかし、ただ、二つの宗教・信仰しかありません。世界の聖典・教典を翻訳したマックス・ミュラーという学者はこう言いました。それは「これこれを行いなさい。そうしたら救われます」と、「信じなさい。そうしたら救われます」だと。前者を「律法の宗教・業の信仰」といい、後者を「福音の宗教・信仰の宗教」と言います。つまり、「律法」と「福音」です。もちろん、キリスト教は唯一の福音・信仰の宗教です。じゃ、なぜ宗教改革が生じたかですが、当時のカトリック教会が福音を変えてしまったからです。問題は、どうしたら、その恵みの神を持つことが出来るかですが、・・この問は今月の31日の「宗教改革記念日」の中心テーマでした。マルチン・ルターは「如何にして私は恵み深い神を見いだすこと出来るであろうか」(Wie Kriege ich einen gnadigen Gott?)と言う問を抱いていました。ルターは修道院で、救われるためにはキリストのようになるように努力し、夜も眠らず、断食をし、祈り、自分の体を折檻し苦しめて、自分が忠実にかつ簡素に生き続けるように努めた」のでしたが、こんな方法ではキリストを見いだすことが不可能であり、キリストは、なおも、「あなたは罪と死に留まっている」と言われることに気がついたのでした。ルターは苦しみました。

*マックス・ミュラーという宗教学者は「東洋聖典全集」51巻)と言う東洋の宗教の教典を翻訳した本を出しました。彼は教典を訳して分かったことは、宗教には「これこれをせよ!そうしたら救われる」というのと「信じなさい、そうしたら救われる」とう二つしかないことだと。つまり、「律法」と「福音」です。

16世紀のカトリック教会は救いの道をコンクリートできっちりと固めていました。天国への階段を整えて、救いのシステムを作りました。信者の天国への保証を三つ階段で設けました。難しくなりますか簡単に言いますが、第一段は自助・selfhelp・すなわち善行による救いでした。「天は・神は自ら助ける者を助ける」です。第二段は「聖人の功績」でした。聖人とはカトリックでは特に信仰と徳にすぐれた信徒として崇敬され、自分の救いに必要以上の善行を果たした者で、その余得は教会で管理し、必要に応じて分配されるものでした。第三段は神と人が神秘的に合一することでした。日本にも「われ主に、主われに ありてやすし」という賛美歌があります。(旧賛美歌361)。これ以上のさいわいはない。

しかし、ルターはこの三段で悩みました。第一はどれだけ善行・よい業を充分に積まねばならないかでした。ルターは厳格に戒律を守ったので「自分は天国に入れただろう」と言いましたが、しかし、彼は充分な善行を確信できなかった。だから、彼は「キリストは恐ろしい方」と言っています。第二は聖人の余禄を受けるためには「懺悔」をすることが必要でした。しかし、ルターは人は果たして、自分の罪を全部知ることが出来るか、そうすると「懺悔」から「赦し」の道は閉ざされてしまいます。救いの保証はありません。絶望です。第三は「果たした罪深い被造物の人間が、全能の神と一つになれるか」という疑念でした。ルターは絶望した。ルターは良心的な人間で、罪に対して鋭い感受性を持っていました。そんなかで彼は、教会が失っていた宝を・・福音を再発見することになります。それは何処に?

福音の再発見。それは聖書でした。彼は聖書を深く学び、遂に「イエスを信じる信仰」と言う宝を回復しました。その中で、一つの出来事が起きました。それは「免罪符」問題

でした。聞いた言葉でしょう。免罪符は正式には「贖宥状(しょくゆうじょう)」と言います。英語では(indulgenc・ラテン語indulgentia)です。それはシステムの第二段の「聖人の功績・余得」から考えられました。ローマのヴァチカン・聖ペトロ大聖堂の増改築と修理で発行されました。その余得を原資に売り出されました。「贖宥状」とは「罪を赦す札・書面・証明書」です。ルターがこれを批判して「宗教改革」が始まりました。ルターは95箇条27条に当時のカトリック教会の「あなたの金が、賽銭箱に入り、“チャリン”と音がしたとき、煉獄(天国の手前で苦しんでいる)の魂は天国に入る、さー、さー買った」という宣伝文句を書いています。驚くべきことです。さらに、今までの罪ばかりか、これからの罪も、全部帳消しになるのだと説教しました。お金が救い主です。これは売れますね!

ルターが聖書から(再)発見し、ルーテル教会が宗教改革の精神としている三大原理があります。「信仰のみ」、「恵みのみ」、「聖書のみ」ですが、この教会の正面の壁面にあります。イスの背中のタイルにもあります。ラテン語で「Sola Fide」、「Sola gratia」、「Sola Scriputura」です。英語では「Only Faith」、「Only grace」、「Only Scripture」です。ルターは「律法の行いか信仰か」に対して、律法の行いでなく、信仰によるというのは、「信仰のみ、恵みのみ」ということであり、それは「聖書」しかも「聖書のみ」に由由来すると言ったのです。

ルターはキリストを小さくしたり、キリストを無視することに反対しました。ルターは聖書から見い出した教会の宝・福音を示しました。それが今朝の第二聖書日課のパウロの言葉「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義・神の愛と救いです。わたしたちは、人が義とされるのは(救われるのは)律法の行いによるのではなく、信仰による」の福音です。福音とは喜びの知らせです。パウロはローマ人への手紙3:22以下でも同じように書いていますが、今日は分かりやすい意訳(原文の一語一語にこだわらず、全体の意味に重点をおいて訳す)した文章を紹介します。リビングバイブルという翻訳ですが。「しかし今や、神は、天国へ行く別の道を示してくださいました。その新しい道は、「善人になる」とか、神のおきてを守ろうと努力するような道ではありません。神は どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです」。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義(救い)であって、すべて信じる人に与えられるものである」私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、恵みにより、無償(無料・信仰)で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです」。この福音をルーテル教会は受け継いでいます。それで、宗教改革記念日を守るのです。

ルターの再発見した福音は救いのシステムを簡略化したと言えます。ローマカトリック教会が築いた救いのシステムを破壊しました。イエスは救いの近道を造りました。カトリック教会はイエスを非難しました。パソコンでショートカットというアイコンがあります。それはそのアイコンをクリックするだけで、ソフトが立ち上がります。イエスは救いの近道・ショートカットを・・信仰による救いという道でした。それは証拠があります。

イエスが十字架に」付けられた時、二人の犯罪人も一緒に付けられていました。「ルカ24:39-43」です。十字架は三本です。状況は以下のようでした。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた」。

イエスが同僚をたしなめた犯罪人に「今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いましたが、そのことによって「救い」を直ちに保証したのです。犯罪人は「御国においでになるとき」という言葉で、イエスがメシア・救い主であることを認めていたからです。(*「み国と「神の国」です)。このイエスを弁護した犯罪人は、心を入れ替えて善行に励んだから、救いを保証されたのではないのです。この犯罪人は証人です。人間は神に立ち帰る時、それは悔い改めてですが、罪が赦され救いに招き入れられることを、彼は証ししているのです。美しい場面です。その証し聞きたいと思います。

今朝、イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われています。自由にする・・自分は思い通りに生きていると思っています。信仰なんか関係ないとも。在る学者は宗教は要らないとさえ言います。しかし、宗教が示す人間の生き方・人間を人間として生かす宗教は必ず必要なのです。生きると言うことは実に多種多様な経験をするものです。信じる宗教を持つことは、どんな時でも、恐れず、真実な生き方が出来ると思います。

難しいことは言いませんが、人生を生きるとき、どんなときでも、信仰を持ち、信じて生き、希望を持って、自由な喜びを与えるのは「律法」か「福音・イエス」かを、見つめる日としていただきたいと思います。イエスは「真理はあなたたちを自由にする」と言われました、その真理をどこにみいだすでしょうか。

「真理」を考え、見いだす日となるように祈ります。

アーメン