ヨハネによる福音書16章12-15節
説教: 江本 真理牧師
+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。
神のなさることは私たちの理解を越えている。キリストの言葉・福音には私たちの理解力を越えた真理が隠されており、今はまだ理解できないことがある。しかしその真理は隠されたままにされるのではなく、真理の霊の導きによってことごとく悟らされるのだ、と主イエスは言われます。
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて 真理をことごとく悟らせる」(12-13a)。
ここで「理解できない」と訳されている語は、「堪えられない」「耐える力がない」とも訳すことができます(これは元来「担う」「携える」という意味の動詞です)。しかしこれは、恐ろしくて聞くにたえないという意味ではなく、弟子たちの理解を越えた真理がなお隠されているという意味です。つまり、福音 の真理には、その時にならないと理解し尽くせない秘密が背後に隠されているという含みがあるのです。
ヨハネ福音書2章では、主イエスが神殿で商売をしていた人たちを「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われて追い出された出来事が記されていますが、そのときに人々からしるしを求められた主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われました。それを聞いたユダヤ人 たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と問い詰めます。その場に一緒にいた弟子たちもこのやりとりを不思 議に思ったことでしょう。実はここでイエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことであったのですが、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、 イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(2:22)と伝えられています。
また12章では、主イエスのエルサレム入城の場面が記されていますが、そのときに起こった事柄に関しても、「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出し た」(12:16)とあります。
これらの箇所には、常に主イエスの側にいた弟子たちでさえ、主イエスの復活・昇天の後になってはじめて本当に理解できるようになった真理のあることが示されています。
しかしこの16章においては、ただ時間的に復活以後になって初めてわかるというだけのことではなく、この真理を弟子たちの心に伝えるためには、聖霊の仲立ちがどうしても必要であることが強調されています。これは私たちにとってもとても大切なことが言われています。私たちは主イエスと同じ時代に生きているわけではありませんし、直接イエス御自身にお会いしたわけでもありません。主イエスが生きておられたときとは、時間的にも、空間的にも隔たっているわ けです。しかしそのような私たちであっても、「真理の霊」、神のもとから送られる聖霊の働きによって、福音の真理をことごとく知ることができるのだと、主 イエスはそのように言われ、約束してくださっているのです。
先週、私たちはペンテコステ・聖霊降臨日の礼拝を守りました。主イエスが天へと上げられた後、弟子たちの上にこの約束されていた神の霊が降り、それによって弟子たちは新しい力を得てイエス・キリストの福音を宣べ伝える福音宣教の歩みを始めました。それはまた教会の歩みの始まりでもあったわけです。このペンテコステの出来事は、弟子たちが聖霊を送るという主イエスの約束を信じて待つことから始まりました。まだよく理解していなかった、わかっていなかった。しかし、主イエスの言葉を信じ、その約束に希望を置いたのです。まずは、「信じること」。そして、すべては「信じること」から始まるのです。
私たちは普段の日常生活の中であまり意識していないかもしれませんけれども、誰であれ常に何かを信じているものだと思いますし、信じることができなければ日々の生活すらままならないのではと思います。例えば、毎日の食事、その食べ物が安全だと信じているから食べるわけです。私たちが飛行機に乗ると き、あんなに重たいものが空を飛ぶのかとも思うわけですが、しかしその重い機体を安全に飛ばすことのできる現代の科学技術を信じて飛行機に乗るのです。車に乗るのもそうでしょう。またタクシーに乗るのも、運転手を信じるから乗ることができるわけです。銀行にお金を預けることも・・・
そういう意味では、もしも「信じる」ということが全くできないならば、人は一瞬にして身動きが取れなくなってしまうでしょう。
ところが現代は不信の時代であります。確かに今の時代には不信をあおるような事件や事故、虚偽や隠蔽が溢れています。人間関係のモラルも変容し、信じても裏切られることばかり・・・そんな中でお互いに他人が信じられない。身近な人でさえも信じられない。政治やマスコミはもちろん、科学や宗教も、自分自身すらも信じられない。だから未来が信じられない。そして不信に疲れている。今の社会にはそんな雰囲気が漂っているように思えます。しかし、そんな時代だからこそ、逆に素朴に「信じる」という行為が必要とされているのではないでしょうか。人々は「信じる」ということを求めているのではないでしょうか。なぜならば、あらゆる問題が、最後は「信じる」ことでしか解決できないからです。
疑いは対立を生みます。お互いの関係をギクシャクさせ、関係そのものを絶ってしまいます。また疑いは疲労を生みます。そして疑いはさらなる疑いを生むのです。それに対し、信じることはそのまま力になる、エネルギーになるのです。信じれば信じるほど生きる力、前に進んでいく力が生まれるのです。私たち にとって未来は、一瞬先のことであっても、どのみち誰にも分かりません。どれだけ疑っても、疑いからは答えは出ませんし、前に進むことはできません。新しい道を切り開くことはできないのです。信じた者だけが、その一瞬先を切り開く。決して希望を捨てない。あきらめない。たとえ今が暗闇であっても、夜明けの来ない夜はないのだから、夜明けを信じて、太陽が昇り光に包まれるのを信じて待つ。・・・人間関係においても、相手を疑うことをやめたとき、新しい関係が 生まれていきます。だれでも疑われれば閉じこもり、他者から信じられることで開かれていくのだと思います。そうして信じるほどに、実際に喜びが増し、信じるほどに仲間が増えていく。「信じるものは救われる」と言いますが、実は「信じること」そのもの、信じることができるということが私たちにとって救いなのです。
信じることは、新しい道を切り開く「力」であり、救いであると言いました。疑うことではなく、信じることが大切なのです。確かに、そう言われて頭では分かっていても、実際私たちはなかなか単純に信じるということができません。疑いの心、不信の心がむくむくと湧きあがってくる。そこで苦しむのです。疑いの心は、自分が信じても裏切られてしまうのではないかという恐れから生まれます。また自分の知識や経験を越えたことを信じることには絶えず疑いの思いがつきまとうのです。
しかし私たちの信仰の対象はイエス・キリストです。私たちを決して裏切ることのない方を信じるのであります。私たちがその弱さゆえに、約束を信じとおすことができずに、キリストから離れてしまうことはあります。・・・しかし神はどこまでもそんな私たちのことを信じておられる。この信じることのできない私自身がもう一度信じ始めるのを待っておられる。信じて待つことのできないこのわたしをどこまでも信じ待っていてくださる。そのような私たちに対する神からの働きかけ、それが私たちを導いて真理をことごとく悟らせる真理の霊、聖霊の働きなのであります。私たちを導く神の霊の働きによって、私たちは福音の真理を知らされる。疑いと恐れという罪にとらわれてしまっている私たちを、そこから解放し、再び信じ始め、希望をもって歩みだすことができるようにと、ひとり十字架にかかってくださったイエス・キリストの恵みを知らされるのです。私たちが福音の真理、神の大いなる恵みに気づかされる、それがわかるということは聖霊の賜物であります。しかし、自分にはまだわからないと言って嘆く必要はないのです。私たちは霊の導きのうちにあります。聖霊に導かれているので す。その導きを信じるならば、その霊の働きの中に既におかれているのです。
疑いではなく信じること。聖霊の導きのうちにあることを信じて歩んでまいりましょう。
疑いではなく“信じること”。あなたに対する神の愛、キリストの恵みを信じて、将に来たらんとする将来へと一歩を踏み出していく者でありたいと願います。
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」詩編37:23
「主は助け求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される」詩編34:18
どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン