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2010年5月30日 三位一体主日説教 「私たちを生かす力」

ヨハネによる福音書16章12-15節

説教: 江本 真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

神のなさることは私たちの理解を越えている。キリストの言葉・福音には私たちの理解力を越えた真理が隠されており、今はまだ理解できないことがある。しかしその真理は隠されたままにされるのではなく、真理の霊の導きによってことごとく悟らされるのだ、と主イエスは言われます。

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて 真理をことごとく悟らせる」(12-13a)。

ここで「理解できない」と訳されている語は、「堪えられない」「耐える力がない」とも訳すことができます(これは元来「担う」「携える」という意味の動詞です)。しかしこれは、恐ろしくて聞くにたえないという意味ではなく、弟子たちの理解を越えた真理がなお隠されているという意味です。つまり、福音 の真理には、その時にならないと理解し尽くせない秘密が背後に隠されているという含みがあるのです。

ヨハネ福音書2章では、主イエスが神殿で商売をしていた人たちを「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われて追い出された出来事が記されていますが、そのときに人々からしるしを求められた主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われました。それを聞いたユダヤ人 たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と問い詰めます。その場に一緒にいた弟子たちもこのやりとりを不思 議に思ったことでしょう。実はここでイエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことであったのですが、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、 イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(2:22)と伝えられています。

また12章では、主イエスのエルサレム入城の場面が記されていますが、そのときに起こった事柄に関しても、「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出し た」(12:16)とあります。

これらの箇所には、常に主イエスの側にいた弟子たちでさえ、主イエスの復活・昇天の後になってはじめて本当に理解できるようになった真理のあることが示されています。

しかしこの16章においては、ただ時間的に復活以後になって初めてわかるというだけのことではなく、この真理を弟子たちの心に伝えるためには、聖霊の仲立ちがどうしても必要であることが強調されています。これは私たちにとってもとても大切なことが言われています。私たちは主イエスと同じ時代に生きているわけではありませんし、直接イエス御自身にお会いしたわけでもありません。主イエスが生きておられたときとは、時間的にも、空間的にも隔たっているわ けです。しかしそのような私たちであっても、「真理の霊」、神のもとから送られる聖霊の働きによって、福音の真理をことごとく知ることができるのだと、主 イエスはそのように言われ、約束してくださっているのです。

先週、私たちはペンテコステ・聖霊降臨日の礼拝を守りました。主イエスが天へと上げられた後、弟子たちの上にこの約束されていた神の霊が降り、それによって弟子たちは新しい力を得てイエス・キリストの福音を宣べ伝える福音宣教の歩みを始めました。それはまた教会の歩みの始まりでもあったわけです。このペンテコステの出来事は、弟子たちが聖霊を送るという主イエスの約束を信じて待つことから始まりました。まだよく理解していなかった、わかっていなかった。しかし、主イエスの言葉を信じ、その約束に希望を置いたのです。まずは、「信じること」。そして、すべては「信じること」から始まるのです。

私たちは普段の日常生活の中であまり意識していないかもしれませんけれども、誰であれ常に何かを信じているものだと思いますし、信じることができなければ日々の生活すらままならないのではと思います。例えば、毎日の食事、その食べ物が安全だと信じているから食べるわけです。私たちが飛行機に乗ると き、あんなに重たいものが空を飛ぶのかとも思うわけですが、しかしその重い機体を安全に飛ばすことのできる現代の科学技術を信じて飛行機に乗るのです。車に乗るのもそうでしょう。またタクシーに乗るのも、運転手を信じるから乗ることができるわけです。銀行にお金を預けることも・・・

そういう意味では、もしも「信じる」ということが全くできないならば、人は一瞬にして身動きが取れなくなってしまうでしょう。

ところが現代は不信の時代であります。確かに今の時代には不信をあおるような事件や事故、虚偽や隠蔽が溢れています。人間関係のモラルも変容し、信じても裏切られることばかり・・・そんな中でお互いに他人が信じられない。身近な人でさえも信じられない。政治やマスコミはもちろん、科学や宗教も、自分自身すらも信じられない。だから未来が信じられない。そして不信に疲れている。今の社会にはそんな雰囲気が漂っているように思えます。しかし、そんな時代だからこそ、逆に素朴に「信じる」という行為が必要とされているのではないでしょうか。人々は「信じる」ということを求めているのではないでしょうか。なぜならば、あらゆる問題が、最後は「信じる」ことでしか解決できないからです。

疑いは対立を生みます。お互いの関係をギクシャクさせ、関係そのものを絶ってしまいます。また疑いは疲労を生みます。そして疑いはさらなる疑いを生むのです。それに対し、信じることはそのまま力になる、エネルギーになるのです。信じれば信じるほど生きる力、前に進んでいく力が生まれるのです。私たち にとって未来は、一瞬先のことであっても、どのみち誰にも分かりません。どれだけ疑っても、疑いからは答えは出ませんし、前に進むことはできません。新しい道を切り開くことはできないのです。信じた者だけが、その一瞬先を切り開く。決して希望を捨てない。あきらめない。たとえ今が暗闇であっても、夜明けの来ない夜はないのだから、夜明けを信じて、太陽が昇り光に包まれるのを信じて待つ。・・・人間関係においても、相手を疑うことをやめたとき、新しい関係が 生まれていきます。だれでも疑われれば閉じこもり、他者から信じられることで開かれていくのだと思います。そうして信じるほどに、実際に喜びが増し、信じるほどに仲間が増えていく。「信じるものは救われる」と言いますが、実は「信じること」そのもの、信じることができるということが私たちにとって救いなのです。

信じることは、新しい道を切り開く「力」であり、救いであると言いました。疑うことではなく、信じることが大切なのです。確かに、そう言われて頭では分かっていても、実際私たちはなかなか単純に信じるということができません。疑いの心、不信の心がむくむくと湧きあがってくる。そこで苦しむのです。疑いの心は、自分が信じても裏切られてしまうのではないかという恐れから生まれます。また自分の知識や経験を越えたことを信じることには絶えず疑いの思いがつきまとうのです。

しかし私たちの信仰の対象はイエス・キリストです。私たちを決して裏切ることのない方を信じるのであります。私たちがその弱さゆえに、約束を信じとおすことができずに、キリストから離れてしまうことはあります。・・・しかし神はどこまでもそんな私たちのことを信じておられる。この信じることのできない私自身がもう一度信じ始めるのを待っておられる。信じて待つことのできないこのわたしをどこまでも信じ待っていてくださる。そのような私たちに対する神からの働きかけ、それが私たちを導いて真理をことごとく悟らせる真理の霊、聖霊の働きなのであります。私たちを導く神の霊の働きによって、私たちは福音の真理を知らされる。疑いと恐れという罪にとらわれてしまっている私たちを、そこから解放し、再び信じ始め、希望をもって歩みだすことができるようにと、ひとり十字架にかかってくださったイエス・キリストの恵みを知らされるのです。私たちが福音の真理、神の大いなる恵みに気づかされる、それがわかるということは聖霊の賜物であります。しかし、自分にはまだわからないと言って嘆く必要はないのです。私たちは霊の導きのうちにあります。聖霊に導かれているので す。その導きを信じるならば、その霊の働きの中に既におかれているのです。

疑いではなく信じること。聖霊の導きのうちにあることを信じて歩んでまいりましょう。

疑いではなく“信じること”。あなたに対する神の愛、キリストの恵みを信じて、将に来たらんとする将来へと一歩を踏み出していく者でありたいと願います。

「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」詩編37:23

「主は助け求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される」詩編34:18

どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン

2010年4月25日 復活節第3主日 「神殿回廊にて・・・」

ヨハネによる福音書10章22-30節
五十嵐 誠 師

◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」 ◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」

(説教要旨)

冒頭に「神殿奉献記念祭」がありますが、それはエルサレムでは、毎年12月、冬の季節にありました。これは紀元前168年にシリヤの王によって汚された神殿を紀元前165年にユダ・マッカバイオスが問い返し、再びきよめて奉献したことを記念する行事です。(Ⅰマカベア4:59),新約聖書では「宮きよめの祭り」(ヨハネ10:22‐23)がこれに当ります。

その神殿の回廊でイエスはユダヤ人と問答をしました。ソロモンの回廊というもので、500メーターくらいの長い廊でした。回廊を歩いていたイエスを捕まえてユダヤ人達は、イエスの正体を問いただしています。「あなたは私たちが待望しているメシアであるかそうでないのか」と。私たちに余り気をもませないでほしいと迫りました。イエスのことは人々の口にのぼっていました。イエスはメシアだという意見とそうではないというかたがありました。

イエスは簡潔明瞭に答えています。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と。イエスは今日の福音書少し前で「私はよい羊飼いである」という話をしていますが、それに対しても「なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか」と反対しています。ですから、彼らが気をもんでいるのは、イエスがご自分について明らかに語らなかったからでなくて、不信仰のために、明らかにされていることを見分けられないからだったのです。で、イエスはご自分が目の前で行っている業・行いを見なさいと言います。そうすれば分かると。言葉が信じられないなら、行為・業を見よです。そうすれば、イエスが神から来た方と知るはずだと。しかし、それもユダヤ人は信じませんでした。イエスは陰に陽に自分が何者かを語ったいますが、ユダヤ人やファリサイ派は信じなかった。

ユダヤ人全てがイエスを拒否したわけではありません。メシアを待望してイエスに出会って喜ん人もいました。こんな人がいました。シメオンですが、幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。(ルカ2:25以下)

イエスに会っから死んでもいいとさえ言っているのです。驚くべき言葉です。普通は立派な働きをし、財産を築き、子孫を残して、天寿を全うして死を迎えたいが、願いだろうと思います。とにかく死ぬ前にイエスに出会うことが願いでした。凄いと思う。

ユダヤ人がパレスチナに国家を作らない前、一つの願いがありました。死ぬ前にエルサレムに行き、そこで死にたいでした。老人は死ぬためにエルサレムに来たのでした。1948年パレスチナにイスラエル国家が出来たときに、世界各国からユダヤ人がエルサレム目指して帰ってきました。飛行機で空輸されたので、「空飛ぶじゅうたん作戦」と言われました。ある日、年老いた病気の老人が少年に負ぶわれて飛行機から降りて来ました。老人は背中から降ろされました。老人は地にひざまずき、大地に接吻して、死にました。エルサレムで死にたいが願い・信仰でした。それが実現しています。

論語に「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」と言うのがありますが、信仰とはそういうものとも思います。人間の生き方やあり方を知ることは、それほど重大なのだと言うことです。

今日私たちは聖書の中でイエスに出会います。どこでイエスの言葉を行いを見るかと言えば聖書です。聖書はイエスに出会い、共に歩き、イエスの話に耳を傾け、イエスの行いの全てを目で見た弟子たちの言葉です。それは証言です。信じるに値する言葉です。作り話・フィクションではなく、真実の・ノンフィクションです。聖書というか、弟子たちが私たちに語っているのは、生けるイエス・キリストに出会ました、そのイエスはあなたに力を与えますよ、そのイエスに信頼して生きていきなさい、これが、聖書の言うところです。ですから 、余り知らなくても、「イエスさま、私は余り知りませんが、でも、あなたを信じて生きて行きます」という一言が大事なのです。

生けるイエスに出会い、力をうけて、新しい出発が始まります。そこからなにが起こるかと言えば、それは不可能が可能になるということです。神、イエス・キリストが生きているから、不可能と思われることが可能になるという生き方が生まれてきます。信じるものには、全てのことが出来るという信仰が起こって来ます。だから、信仰者は強いのです。そういう生き方を聖書は約束しています。

イエスは羊でさえ羊飼いの声を知っていて、その声を聞き分け、ついていくのに、あなた方、ユダヤ人は真の羊飼いであるイエスを知らず、従って来ないと非難しています。が一方、イエスはイエスとイエスを信じる者との信頼の堅いきずなで結ばれていることを強調しています。イエスは「わたしと父とは一つである」(30)と言っています。これはユダヤ人に取っては神を汚す言葉でした。イエスは神だということだからです。ユダヤ人には神は唯一だからです。だから、ユダヤ人は石を投げようとしたのです。(10:31節)。

しかし、イエスが神と等しい方だからこそ、私たちは信頼出来るのです。神の救いの目的のためにイエスは送られて来たイエスです。従って、だれもイエスの働きを、力を妨げられないのです。イエスと結ばれている者は神の大きな笠の下に、腕の中にあるのです。私の好きな聖句に「My times in His hand」というのがります。(詩編32:15・口語訳) 「私の全ては神のみ手に中に」です。
イエスは人生は悲しいとか空しいものだとかあきらめを説きませんでした。イエスはいつでも希望を、歓喜を、光明を説きました。だから、イエスはよく、天国を宴会に譬えました。一杯ご馳走のある、豊かな振る舞いです。(ルカ14:15以下、15:22以下)

現在もいろんな声が聞こえて来ます。大きな声も、小さな声もあります。耳障りのいい声も、欲望をそそるような声もあります。しかし、私たちは聖書からイエスの声を聞く者でありたいと思います。イエスの声に従った人はクリスチャンです。クリスチャンとはなにかと言えば、ただ座って天を見上げている人ではありません。ある先生が言われたように、クリスチャンとはキリストと共に冒険・アドベンチャーの旅に歩む人に与えられた名称なのです。ですから、クリスチャンとは、古い生活から抜け出して、身支度をして旅を歩む者となることです。私たちがクリスチャンになるとは、神の国に向かって歩く冒険の旅に加わるように選ばれることを意味しています。この冒険の旅に加わることによって、私たちは恐れから解放されます」ということです。この旅に加わり、喜びと確信の日々を過ごしたいと思います。

2009年6月7日 三位一体主日 「風は愛するままに吹く」

ヨハネ3章1節~12節

 
説教  「風は愛するままに吹く」  大和 淳 師
ところが、パリサイ人の一人で、名をニコデモというユダヤ人の指導者がいた。
この人が、夜イエスの所に来て言った、「ラビ、わたしたちは、あなたが神から来られた教師であることを知っています.神が共におられるのでなければ、あなたが行なっておられるこれらのしるしを、だれも行なうことはできないからです」。
イエスは彼に答えて言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたに言う.人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年老いてから、どうして生まれることができるでしょう? もう一度、母の胎内に入って、生まれることができるのでしょうか?」
イエスは答えられた、「まことに、まことに、わたしはあなたに言う.人は水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることはできない。
肉から生まれるのは肉であり、その霊から生まれるのは霊である。
わたしがあなたに、『あなたがたは新しく生まれなければならない』と言ったことを、不思議に思ってはならない。
風は思いのままに吹く.あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない.その霊から生まれる者もみなそうである」。
ニコデモは彼に尋ねて言った、「どうして、そのような事があり得るのでしょう?」
イエスは答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師であるのに、このような事がわからないのか?
まことに、まことに、わたしはあなたに言う.わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
わたしがあなたがたに、地上の事柄を告げても信じないとしたら、天の事柄を告げたところで、どうして信じるだろうか?

 子どもの頃、故郷では山の向こうに富士山が見えました。晴れた日に、その美しい姿が見えると何か憧れのような思いでじっとよく見つめていたことを覚えています。そして、曇りや雨で見えない時も、ふと、ああ、あそこに富士山があるんだ、そう思ってその方向を見ていたことがありました。さて今日、ご一緒に読む福音書、そこには、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、そういうキリストの言葉が記されています。大変不可思議な言葉であると言っていいでしょう。「新たに生まれる」 ― 私たちもこのニコデモのように、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」、あるいは「どうして、そんなことがありえましょうか」、そう困惑しながら問うてしまうでしょう。けれども、わたしたちは、これらの言葉の上に、ちょうどあの富士山のように高く聳え立っているキリストの言葉を仰ぐことが出来ます。それは、今日の福音書の日課の後3章16節以下に、こう記されている言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16-17)。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、したがって、このニコデモもまた「愛された」者であり続けるのです。そして、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」、わたしどもは、ここでこのキリストが語っておられること、それはまさにそこから語っておられるのであり、そのようにニコデモに相対しておられるのだということを知るのです。

  もちろん、「夜」、キリストの下に訪れたニコデモの眼にはちょうど夜には見えないあの富士山のように見ることができないのです。したがって、「どうして、そんなことがありえましょうか」と声をあげてしまう彼なのです。そのように「新しく生まれる」、それはこの地上に生きるわたしたちにとっては、全く疑わしく思えることです。だが、ニコデモ、そして、わたしたちの眼にはたとえ見えなくても、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである・・・」、この御言葉は、常に富士山はそこにそびえ立っているように、いや神の言葉は永遠であるが故に、それ以上確かに、そして吹いてくる風のようにわたしたちに働きかけてくる、そのことが心にくっきりと浮かび上がってくる出来事なのです。そして、この3章16節以下のこの御言葉と今日の個所の真中には、こういうことが語られています。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(3:13-14)。わたしたちが、まさにニコデモのように、この地上で、わたしたちは誰一人「失われていく」「滅びていく」、そのようにこの眼には写るこの現実、まさに「夜」そのもののような生活、「どうして、そんなことが」とため息をもらす、苦悶している私たちのこの現実、だが、見上げるものがそこにある、「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」 ― キリストは、ご自身の十字架をはるか指差しておられるのです。復活の命、そして、昇天の出来事を!ペトロはその手紙の中で、この富士山のようにそびえる私たちの希望についてこう記しています、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(1ペトロ1:3-4)。この望みのもとにある生活!

   だが、しかし、ニコデモはそこを見上げることが出来ません。ただ下を、地上を見続けるのです。ニコデモは、そのときこの方イエス・キリストご自身を見る代わりに、自分自身を見つめてしまうのです。それが、神が、したがって、この方が愛されておられるこの世の姿なのです。しかし、キリストはそんな彼の不可能さに対して更に助け舟を出すようにご自身を示されます、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「水と霊とによって生まれる」。つまり、「新しく生まれる」それは全く雲をつかむようなことではなく「水から生まれる」ことなのだ、と。もちろん、この水とはわたしたちにとって洗礼の水のことですが、「ファリサイ派に属する」、「ユダヤ人たちの議員であった」この「イスラエルの教師」ニコデモ、したがって、聖書を熟知し、人々を教え続けてきたニコデモ、その彼もまた、生まれた赤ん坊が産湯につかるように、水から生まれなければならない。今や彼に必要なのは、この地上のことにどれだけ熟知しえるか、ということではなく、またどれだけ確かな、そして豊かな知識と経験があるか、そういうことでもなく、まったくに子どものように、「水から生まれ」なくてはならない。彼に必要なのは、根本から必要なこと、それは霊、霊から裸で生まれることなのです。

   ところで、福音書は、このニコデモがキリストを訪れたのは「夜」であったとわざわざ記しています。それが夜であったというのには、色々な意味が込められているのでしょう。ある人は、その立派な肩書き、そして指導者と呼ばれる地位も名誉もあるニコデモが、夜、キリストを訪ねたのは、彼がそのような特別な地位にあるが故に、人目を避けてのことであったからと述べています。確かにそのような皮肉な眼をもって読むことも出来るでしょう。けれでも、また別の人は、彼がキリストを訪ね、そして、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」、そう告白するのは勇気がいったことであろう、そう言うのです。すでに彼の属するファリサイ派の人々は、このキリストと対立していたからです。ニコデモが勇気のある人であったのか、あるいはそうでないのかはともかく、そのようにわたしたちが考える「勇気」とは、何かに敢然として立ち向かい、征服・克服していこうとする、逆境に負けない気持ち、変えていく力、それを勇気と考えます。つまり、ともかく何かを変えようと立ち上がることです。若い時はそれでいい、と言うより、そのような勇気こそ若さの特権であり、向上心ということでしょう。

   けれども、人生にはもっと違った勇気が必要です。それは、一言で言えば、受け入れがたいものを受け入れる勇気と言ったらいいでしょうか。それで、このニコデモのことですが、彼は、結局、人は生まれ変わることは出来ないと言う。そういう意味では自分は変われない、そう言っているのだと言えるでしょう。では、そのことをニコデモが自分自身に本当に受け入れているかと言えば、むしろ、そうではないのではないか。ニコデモがここで受け入れられなかったこと、それは、キリストのこれらの言葉以上に、彼自身が言う他ならないこのこと、わたしは自分で新たに生まれることはできません、それを本当に率直に受け入れてはいない、本当にはできなかった、結局そういうことではないでしょうか。

   でも、キリストは、決してあなたは、あなた自身で変われ、そうおっしゃってはいないのです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」、あなたは肉から生まれたものに過ぎないのだ、と。なるほど、そうなのです。しかし、その「母親の胎内」から生まれたのも、決して、わたしたちは、わたしたち自身で、自分から生まれたのではない。そのようにして母の胎を通して命を与えられたもの、だから同じように、霊から生まれる、同じように命を与えられる、キリストはそうおっしゃっている。
そして、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と。これは確かに全く禅問答のように捕らえどころがないように思えるかも知れません。しかし、そのような者であることをただここで率直に認める、受け入れるしかない。ありのままの姿で、このキリストの前に立つ以外にない。でも、それは決して、恐らくニコデモにとって承伏しがたかったように、いわば情けないことではないのだ、むしろ、そのような裸の自分、何々に属して、何々をしている、出来る人間であるとか、こういうことを知っている、分かっている、そんな背伸びをもうしなくていいのだ、ということ。

   更にそれをもっと身近に言い換えれば、どんな姿の自分も嫌うことなく、その自分と仲良く生きる勇気といったらいいでしょうか、他人の助けなしには結局生き得なくなっていく、情けない自分を受け入れる勇気、年と共に休型が変わり、背も丸くなったり、しわが増えていくような、そんな自分を惨めに思わない勇気、そしてあれこれの病に無力になっていく自分を、しかしそれでも生かされていることを喜ぶ勇気、そのように、さまざまに味わう悲しさを一つひとつ〝我が物″として認める、受け入れがたいものを受け入れる勇気、キリストは、まさにそれをニコデモに与えようとしている、そう言えるのではないでしょうか。

  なるほど、「風は思いのままに吹く」、わたしたちがこっちだ、あっちだ、そう定めようとしても、決してその通りにならない。ではどうするのか、風の吹くままに生きる、ありのままにその風に身をさらす以外にない。そのように言うと、まことに無責任といいうか、心許ない思いをなされるかも知れません。吹けば飛ぶような自分を思わざる得ないのです。しかし、その「風は思いのままに吹く」、その風の思い、あるいは、「、それがどこから来て、どこへ行くか」、風の心 ― キリストは、そのことについて、はっきりとこう語っておられるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

   みなさん、これが、風の思い、キリストの風なのです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、「一人も滅びない」、まことにそれが今日、わたしたち、吹けば飛ぶようなわたしに向けられた言葉、風なのです。つまり、こういうことです、「風は思いのままに吹く」、それは風は勝手気ままに、ということではなく、まさに風は〈愛するがままに吹く〉。それ故、「一人も滅びない」、決して滅びることはない、この風の中に、わたしもあなたもあるのだ、ということ。そして、単に「滅びない」というだけでなく「永遠の命を得る」。命、このわたしが生きるものとされている。

   まことに自分自身を真に見つめれば、情けない自分、みじめな自分、しかし、今やそのわたしに「風は思いのままに」〈愛するがままに吹く〉、生きるものとされている、そのような力を与えられるのです。わたしどもは、新しく生まれる、生まれ変わる、それを、まさにニコデモのようにまことにとてつもない、途方もないことのように思うのです。あるいは、あのまことに小さな自分、この平凡な生活、つまり、今わたしたちが実際に生き、そこで愚痴をこぼしたり、途方に暮れたりしながら、自分のわがまま、情けなさを感じているその生活と切り離して考える、あるいは、その自分がまことに見事な、堂々たる自分に変わるかのように。

   しかし、キリストのおっしゃることは、実は本当にささやかなこと、全く確かに目立たないことです。何故なら、このわたしたちのその平凡な生活、小さな自分を受け入れることだからです。そのようなわたしに途方もない大きな愛が注がれている、失われてはならないかけがえのないものとして慈しみ、命につないでくださっているからです。それを信じること!この受け入れがたいものを受け入れること!何故なら、神こそ、この受け入れがたいもの、受け入れがたいわたしをあるがままに受け入れてくださっておられるからです。それは具体的に言えば、たとえば人を笑顔で迎えようとか、あるいは他人と比較しないで自分の生活を大切にするという決意、実はそのようなほんのささやかな勇気、決意ではないでしょうか。日常生活の中でどんな自分も受け入れる、受け入れていこうとする勇気です。この大きな愛、命の流れの中に生かされているからこそ、わたしどもは、まことにこ些細な、小さな、取るに足らないと思えることにも忠実に生きていくのです。

   それ故、わたしたちに与えられている永遠の命とは、単に死後のことではありません。今をわたしたちが生き生きと生きていく力、希望です。希望は、常に誰か自分以外の者と共に持つもの、愛し、愛されているが故に生まれるものです。共に苦しみ、共に喜ぶこと、それが希望です。そのように永遠の命とは、わたしひとりの命のことではありません。キリストが与えてくださるように、キリストと、神と分かち合って生きる命のことです。そして、あなたなしにわたしが生きるのではなく、<一人も滅びない>と言われるように、わたしもあなたも共に生きる命です。一緒にキリストと共に生きることです。そこに教会の原点があるのです。共に生きるからこそ、苦しみもある、悲しみもあるでしょう。だからこそ、かつて旧約の民は、モーセが主の命令に従って造った<炎の蛇>を見上げて<命を得>ました。わたしたちは今、このキリスト、十字架を見上げましょう。主はこう言われるのです、「あなた自身の中を見下ろすのはではない。耐えきれないときに、憎しみに負け、不安、恐れに戦くとき、もう歩けないと立ち止まり、崩れ落ちてしまうとき、わたしの十字架を見上げよ、あなたは滅びてはならない、あなたはわたしと共に生きるのだ。<わたしが生きるのであなたがたも生きる>」と!

   今日も、あの富士山のように、わたしたちにこの御言葉が聳え立っているのです。だから、見えなくても、いや、見えないからこそ「新しく生まれる」― わたしたちはそれを信じる!この世の力がわたしたちを今わたしたちを脅かし、苦しめるこのとき、たとえ、わたしの眼には何も見えなくても、あのニコデモのように、「どうして、そんなことがありえましょうか」、ただ出てくるのはそのような結論だけだとしても(実際、わたしたち自身からはそれ以外の結論はないのですから)、そうであるが故に、そのニコデモの前に立っておられる方、共に立ち続ける方、見捨てることのない方、イエス・キリストを仰ぐのです。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」、まさに、わたしたちはどこへ行くかをなるほど知らない。この身が明日どうなるか知りません。すでに齢を重ねてきたわたしにはできないことがある。しかし、そうだとしてもわたしには今なし得ることがあるのです!何故なら「風は吹いている」のです、わたしに、あなたに!キリストの風は、愛するままに吹くからです。

2009年5月17日 復活後第5主日 「喜び」

ヨハネ15章11~17節
大和 淳 師

これらの事をあなたがたに語ったのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい.これがわたしの戒めである。
人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛を、だれも持つことはない。
わたしが命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友である。
わたしはもはや、あなたがたを奴隷とは呼ばない.奴隷は主人が行なっていることを知らないからである.わたしはあなたがたを友と呼んだ.わたしは父から聞いたすべての事を、あなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない.むしろ、わたしがあなたがたを選んだのである.そしてあなたがたを立てた.それは、あなたがたが出て行って実を結び、あなたがたの実が残るためであり、あなたがたがわたしの名の中で父に求めるものは何でも、彼があなたがたに与えてくださるためである。
わたしがこれらの事をあなたがたに命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節) ― 「わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるため」、そのために、キリストはわたしたちにみ言葉を語られる、全てはこのためであると言うのです。キリストの言葉、わたしたちがそれを聞くのは、まさにこの喜びのためなのだ、と。つまり、これは「今あなたがたの持っている不確かな喜びを全く揺るがない、確かな喜びとするために、わたしはこれらの言葉を語ったのである」、そういうことです。

と言うことは、キリストは、当然わたしたちの喜び、わたしたちが今持っている喜びとは、如何に弱く、不確かなものであるかを、わたしたちは本当には喜べないものであるということを、この方は本当によく知っておられるのです。いや、それどころかもっと直接に、19節では「世はあなたがたを憎む」、あるいは16章20節では「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」、その16章の終りでは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、そのようにキリストは言われるように、わたしたちが、今ここでは苦しみを持ち、泣き悲しむような人間であり、憂いて生活し、悩みを抱えて生きている、それがわたしちの真の姿であることを、本当に御存知であり、それ故、「喜びが満たされるため」、そうおっしゃっておられるのです。

ですから、わたしたちが、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」、このキリストの言葉に耳を傾け、自分のものにするということ、それは、でも自分のことを振り替えれば、どうしたって本当には喜べない、むしろ悩んだり、悲しんだり、苦しんでいるものであること、そういう自分であることを忘れて、謂わば無理にでも喜ぶ、喜ばなければならない、そういうことではないのです。

むしろ、それはこういうことです。わたしたちは、やはり喜べない、喜びたい、本当の喜びが欲しいのに、いやそれ故に悩んだり、苦しんだりする、悲しまなければならない、そういう自分であるということ、そのことを、この方の前に隠す必要はない、むしろそのようなありのままの自分を本当に思っていいのだ、ということです。それ故にこそ、キリストはあなたに言われるのです。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」「わたしの喜びがあなたがたのうちにある」ようにして下さるのです。キリストご自身の喜びを、またあなたのものに、あなたの喜びとして下さるというのです。

ですから、思い切って主に言っていいのです。「でも主よ、どこに喜びがあるのでしょうか。このわたしの中に・・・。主よ、喜びを求めて様々なことをしてきたのです。でも、いつも喜びは裏切られました。泡のように浮かんでは消えました。だから思い悩むのです。苦しいのです。人一人も愛し通せない自分です。いや、自分自身さえ本当に大事にできないのです。だから、本当は忘れていたいのです。そんな自分を真剣に考えることは、ただあまりにも悲しいからです。あまりにも自分が惨めだからです。汚れてしみだらけの自分を取り替えることはできないからです。主よ、だから、あなたの言われるような、一点の曇りもない喜びは、今更どこにもないのです。わたしの中にも、わたしの周囲にも。」と。

そもそも、わたしたちが本当に喜べない、それは、たとえば、希望、本当に確かな希望を持っていない、それゆえ、今ある喜びも全くつかの間の喜びになってしまう、そう言えるでしょう。だから、それこそ今あること、周囲のことに常に引きずり回されてしまう訳です。他人と比べて、ああ何て自分は不幸だろうと思ったり、あるいはこの方はるかにが多いかも知れませんが、自分より不幸な人、みじめな境遇な人を見て、自分はまだましだ、いい方だとか思ったりする、そういうどこか気楽な人生を歩んだりする訳です。しかし、本当に確かな希望を持っていないがゆえに、たとえば災難や、あるいは周囲にちょっとした暗いことがあると、もう動揺してしまって、自分を見失ってしまう訳です。それは明日がない、本当の希望がないからです。だから、重い過去を引きずるようにしか、人生を感じられなくなってしまう、そう言えるのです。言い換えれば、本当の意味で明日がない、明日を感じられない、そういうところでは、逆につかの間の喜びというか、刹那的な人生観しか持てなくなる。人生が投げやりになっていく。それは今が楽しければそれでいいという風な生き方になりかねません。つかの間の喜びでしかなくなるわけです。

しかし、何と言ってもわたしたちが喜びを失うのは、この後、キリストが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)と言われている、このことに関わります。つまり、わたしたちが喜びを失うのは、「たがいに愛し合う」ような、愛し、愛される、共にいる人間がいないときです。独りぼっちであるからです。つまり、こういうことです。たとえば、宝くじで一億円当たったところで、やっぱり自分ひとりだけでそれを使うことを考えれば、最初は嬉しいでしょうが、むしろ、大金を独り占めしようとし始めるなら、一億円は喜びであることから、苦痛、重荷になっていくでしょう。何故なら、喜びとは、本来誰かと一緒に喜ぶことだからです。あなたを喜んでくれる人がいる、あるいはまた一緒に悲しんでくれる人がいるということです。もっとも、それにも関わらず、一億円あったら、そんな浅ましい思いを持ち続けるわたしがいるわけですが・・・。

それで、9節でキリストは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」、そのように言われ、そして、だから「わたしの愛にとどまりなさい」と命じておられます。原文を見ますと、この「愛にとどまりなさい」という「とどまりなさい」という言葉と、この「わたしの喜びがあなたがたの内にあり」の「内にある」は同じ言葉です。一方でキリストの愛のうちに留まりなさいと言われ、同じように、ここではキリストの喜びが留まるためである、そう言われているわけです。実に愛と喜びは切り離せないものなのです。それが、このキリストであり、この神の愛なのです。そして、ここでキリストの言われる愛にしろ、喜びにしろ、ともかく主語は、全くキリスト、つまりこの喜び、あるいは愛する主体は常にキリストです。その意味では、わたしたちは、その愛、喜びを徹底してただ受けるだけなのです。つまり、一方的に、このキリストから、わたしたちに与えられる、やってくるものである訳です。実は、そのことがこの15章のはじめから一貫していることなのです。

少し振り返りますと、キリストは、はじめに「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、わたしたちに言われました。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と。わたしたちは、このキリストにおいて、キリストと言う「ぶどうの木」の枝であるとされていました。だから、このキリストにつながっていれば「豊かな実を結ぶ」(〃)けれど、もしキリストから離れるなら「あなたがたは何一つできない」(〃)。ここで、ともかくわたしたちはキリストから離れることはできないと言われている。「あなたがたは何もできない」、これは実にはっきりとした、強い言葉です。全く、ことごとく何もできないと言われるのです。したがって、もし、わたしたちが喜べない、喜びのないものに人生がなってしまっている、あるいは端的に愛することができないということ、それはただ、わたしたちは決して幹、木そのものではなく、一本の枝、折られてしまったら「投げ捨てられて枯れる」枝だからだと言うのです。しかし、わたしたちは、既にキリストというぶどうの木の枝なんだということ、いや、わたしだけではない、一人ひとり、わたしたちの目にはバラバラに見える一人ひとりが、同じ幹から命をもらって生きている、実がなるよう支えられている同じ木の枝なんだということ。 ですから、わたしたちはこの自分自身、この自分で「実を結ぶ」、そういう風に、あたかも自分自身が「ぶどうの木」であるかのように考え、生きている訳ですが、しかし、実はその自分の足元、その下に、このわたしが今このありのままで「実を結ぶ」ようにしっかりとわたしをつないでいるキリストという命の木、支えがあるのだ、ということ。だから、「喜びが満ちあふれる」、それはただこのキリストの愛、大きな力強い、そのぶどうの木に、枝として留まる、ただそれだけがここで求められている、あえて言えば、それだけでいいのだと。このキリストの愛のうちに生きる、しかも、わたしだけではない、すべての人が愛され、大切な枝として、わたしと共に生かされている、そのことを知ることが求められているわけです。

もちろん、最初に申しましたとおり、わたしたちの内には絶えず不安がある訳です。そうは言ってもこの木から、自分は離されてしまっているのではないか、というような不安、あるいは苦しみがあるわけです。あるいは、やはり自分は本当に人を愛することはできない、あるいは、むしろ、愛されていないのではないかという苦しみ、不安です。希望がないと感じる悩みです。孤独を感じる悲しみです。わたしたちの眼には、何と言っても闇の深さしか写らないからです。

しかし、そういうわたしたちに、このキリストは力強く、そのわたしたちのぶどうの木として、わたしと共にい給うのです。十字架という死の苦しみ、その深い人生の谷底まで降り給い、死さえも、この方から、わたしたちを離すことができないほどに、わたしを結び付けていてくれる、その愛を貫かれたのです。あなたの苦しみ、悲しみ、悩み、それはあなたひとりの、その枝だけの痛みではないのです。一つの枝、一本の枝の痛みは、そのまま木全体の苦しみであり、このキリストの苦しみであるのです。

全くに、このキリストは、それだからこそ、枝であるわたしたちなしには存在し給わない。幹のない、幹から離れた枝は枯れるように、しかし、またその幹、ぶどうの木は、枝なしには存在しないのです。キリストは、あなたなしにい給わないのだということ。わたしたちは、キリストというぶどうの木の枝であるということ、それは、キリストかわたしたちなしには存在しようとされないし、それ故にこそ、わたしたちはこのキリストなしには存在しないということなのです。 それ故、今日のみ言葉の真ん中で、こういうことが語られています。キリストは、このように言われるのです。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」 ― この15章の少し前、同じヨハネ福音書10章では主イエスはご自身を「わたしは良い羊飼いである」とされ、わたしたちを羊にたとえられていました。そして、この15章の冒頭では今度は、ぶどうの木とぶどうの枝にたとえられました。それで、この羊飼いとぶどうの木の比喩を比較してみますと、羊飼いと羊の関係より、ぶどうの木とぶどうの枝は、更にキリストとわたしたちとの関係がよりはるかに緊密な、強く結ばれた関係として語られていると言えるでしょう。羊飼いと羊は、何と言っても別々の二つのもの、つまり、導く者と導かれる者、師と弟子の関係のように、親密であっても、しかし、両者には決定的に相違があると言わなくてはならないのですが、しかし、ぶどうの木とぶどうの枝は、何と言っても同じ一つのもの、どちらも一方を欠いては存在し得ないような、まさに一体化された、羊飼いと羊の関係より一層強い緊密な関係として、主イエスはわたしたちを見ておられるということ。そして、それに続く今日のこの箇所では、更に強まって更にその緊密さ、密接さを増すように「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、この方は、ご自身とわたしたちを更にもっと暖かな親密さの中に立たれる、そのようにわたしたちに中に踏み行って来られてくるのです。そのようにして、十字架のキリスト、復活された方は、わたしたちの希望、支えとしてわたしたちの中に立っているのです。

わたしたちの愛は喜びよりも、あるいはそれと同時に、どこかに必ず悲しみ、痛みを伴います。何と言っても不完全だからです。そのことは本当は、わたしたちを全くぶちのめすようなことです。どんなに人を愛そうとも、限界がある。相手に届かない、苦しんでいる兄弟姉妹を前に無力にならざる得ないのです。私事で恐縮ですが、長女を授かったとき、この子を愛する深い喜びを与えられました。しかし、まだその小さかった命を抱いていたとき、あぁ、やがて、この子と別れる時が来るのだ、そういうことを思ったのです。どんなに愛しても、限界がある、そのことにあらためて愕然としたのですが、だが、しかし、この子を、わたしを導くのは、このわたしではない、このお方がおられる。このお方が必ず、このわたしの不完全さ、いや、どんなに罪にまみれた愛であろうと、最もよきことを必ずしてくださる、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、だから、お前はなし得ることを最善を尽くすがいい。そのことを知ったとき、むしろ、限界があり、不完全であるが故に、弱さの故に、感謝と喜びがあることを知ったのです。「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、この主があなたの足元で、あなたを支え、いつくしみ、養ってくださっています。勇気をもって、わたしたちの前に立ちはだかる困難、闇に立ち向かっていきましょう。あなたはひとりではないのです。