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2011年3月13日 四旬節第1主日 「誘惑をどうする・・・」

マタイによる福音書4章1〜11節
説教:五十嵐 誠 牧師

◆誘惑を受ける

4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」

4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

マタイによる福音書4章1〜11節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

(今朝は、始めに東日本大地震のことを覚えています。TVで地震と津波による災害の大きさを見まして、災害に遭われた方がたを思い、心が痛んでいます。その方々の上に、平安があるようにと祈ります。

今日から教会の暦が「四旬節」にかわります。前には「受難節」と言いました。四旬とは40日の意味です。今日から復活祭の前日まで、主の受難・・十字架を覚えて過ごします。十字架の主を見上げて、悔い改めの生活を送ります。そしてキリストの「復活祭」を迎えます。教会のカラーは「紫」になります。祭壇、牧師のストールも紫です。紫は悔い改めを意味しています。

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悪魔・・もしいるとすれば、悪魔の最大の勝利は、人々が悪魔というものは存在しないと、悪魔の存在を否定したことと言えます。現代人は天使的存在を・・良いにつけ、悪いにつけ・・信じません。結婚式を挙げる方に私はオリエンテーションで「天使があなたがたと共にいますように」と祈りますといいますが、はじめきょとんとしています。無理もありません。で私は天使論を述べますが、皆さんはどうでしょうか。いると思いますか。天使の存在は信じるが、悪魔はどうもという人が多い。

でも、私は両方の存在を信じています。天使の働きを言うと、結婚する方は喜んでいました。一寸メルヘンチックですから、良い天使がいて二人のために働いているなんてです。悪魔という存在を私は信じます。そうとかしか思えないような事が起こるからです。犯罪ですが、想像を超えるような凶悪な犯罪があります。最近の犯罪には・・あげませんが、殺人事件で、人間のすることかというようなのがあります。バラバラにしたり、火をつけて殺傷したり、無差別に刃物で襲ったりです。裁判になると、弁護士はたいてい、心神耗弱とか心神喪失とかで責任能力ないと無罪を主張します。

しかし、やはり、何か異常な力が、悪魔的な力が働いているという感じは捨てきれません。聖書でもユダ・・イエスを裏切ったイスカリオテのユダはイエスの弟子でしたが、「銀30枚」でイエスを売るわけですが、悪魔は彼の中に入って、イエスを売ったと言われています。(マタイ、ヨハネ福音書から)。悪魔が入ると言いますが、そう思うことがあります。

人が悪魔に誘われるのは、どんな場合かをイエスは、今日の福音書から教えています。

人間はいろんな欲望を持っています。名誉欲、権力欲、金銭欲、所有欲、性欲などです。人間が死ぬまで無くさないものは、名誉欲と食欲と性欲だと言います。他にあるかもです。

誘惑とは人に罪を犯させるように仕向けることを指します。聖書はあくま・サタンがその原因です。誘惑の手段は「肉の欲,目の欲,暮らし向きの自慢」(ヨハネⅠ・2:16)だと警告しています。アダムとエバもそうですし、キリストもそうです。(創世記3:1-13、マタイ4:1-14)。しかし、キリストはその全てに勝利・克服しました。

私たちの周りには誘惑の手が伸びていますし、内には自分の中にも誘惑の種がありますから、私たちは日常でも、誘惑との戦いがあります。人間は楽なこと易しいことを求めますから、それに悪魔が乗じる事になります。エバは蛇・悪魔の耳によいささやきに負けました。

イエスが受けて誘惑は三つ(ルカとは順序が違っています)ですが、1,名誉欲、2,権力欲、3、自己顕示欲でしょうか。これ誰でもあります。イエスは洗礼を受けて、いよいよ自分の使命に進むのですが、適性検査を受けているようです。もちろん神からです。仕事の免許状を神から与えられるためのテストです。イエスは合格して、メシア・世の救い主、はっきり言えば「世の中の人を救う方」としての働きに立つのです。ある意味では、イエスが誘惑に負けていたら、イエスの十字架も復活もなくて、人々から拍手喝采で迎えられたと思います。イエスは悪魔にひれ伏したら、大きな権威、力を持つ王として、期待していたメシア・王として、ユダヤ人は迎えたでしょう。イエスが期待に反したから、殺されたのです。

イエスは誘惑にあったとき、一言でかたづけました。議論はしませんでした。エバのように。(創世記3:1以下)。神の言葉・聖書の言葉です。「人はパンだけで生きるものではない」、(申命記8:3)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、(申命記6:13)「あなたの神である主を試してはならない」(詩編91:11-12)です。

*「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。(申命記8:3)

*「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」。(申命記6:13)

*「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。(詩編91:11-12)

このイエスの聖書の引用は旧約聖書の「申命記」と「詩編」です。読んでみると、二つの点が分かります。それは、神第一にして、その言葉を聞き、その神に信頼していることです。イエスはご自分の経験を示していると思います。イエスという方は別世界に済んだ方ではなく、人間と共にいる方でした。イエスは人間の弱さ、もろさ、悩み、苦しみ、強がりなどを知っている方です。イエスは「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練(誘惑)に遭われたのです」。(ヘブル4:15)。私は思いますが、そういうイエスだからこそ、イエスに聞くことが出来るのです。体験なしに言っているのではないからです。

パウロは教会の信者にこう言っています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と、続けて「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と。「神の武具」とはパウロは続いて書いています。ナイト・騎士のスタイル・服装をあげています。彼の言葉で聞きましょう。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソ6:11-18)。完全武装です。

私たちは完全装備をするほどの誘惑や罪に出会った事はないと言えます。初代教会でも「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。(ヘブル12:4)とありました。平和ですから誘惑なんかないと思っています。

いろいろとパウロは述べていますが、信仰・信頼と神の言葉と祈りになります。神は世界に介入して、創造の業をしているのです。神は悪と戦っているのです。

その戦場に私たちはいるのです。しかし、絶望はありません。なぜなら、その戦いの結末が分かっているからです。パウロはそれについて書いています。ローマの信徒にです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができません。・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。(8:31-39)。

一体誰が私たちの将来を握っているのかを、私たちは知っています。だから、私たちは様々な出来事に遭っても、忍耐をし、戦うことが出来るのです。私の好きな聖句の一つですが「わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください(口語訳)(詩編31:15)。新共同訳と違います。

注・「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、「あなたこそわたしの神」と申します。(新共同訳)

神のみ手の中にあるから、私たちは信仰の道を歩くことが出来るのです。

パウロはこんなすすめをフィリピの教会の信徒に勧めています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょ」。(フィリピ4:-7)。

ある先生は私たちは「祈ることで悪魔や誘惑から解放」言いました。はじめ私はよく理解できなかったのですが、それは自分が膝を屈めている相手・悪魔より強い、大きな力のある方・・神・キリストに向かっているし、必ず助けてくださるという安心があるからです。それは「虎の威を借る狐」ではなく、また、空元気ではなく、「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって」、歩くことが出来るからです。(エフェソ3:12)。また、神が私たちの中に計画したことは。必ず「その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しているからです。(フィリピ1:6)。

キリストはゲッセマネの園で弟子たちに言われました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」からと。(マタイ26:41)。また、ペトロも自分の経験からですが勧めています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。(ペトロ5:7-9)。悪魔が・・誘惑するものがほえ猛る獅子のようにとは大げさですが、悪魔がそんな姿で来たら構えて、用心しますが、美しい天使のようだと負けます。悪魔は天使の姿で来ると言いますからです。パウロも「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」と言いました。(コリントⅡ11:14)。

今日の説教は少し時代遅れの感があるように思いますが、神の良き国に抵抗する陰謀のようなものが存在していること、そして悪魔という人格を持った存在がいるということを意識して、信仰を全うしたいと思います。            アーメン

2011年3月6日 変容主日(顕現節最終主日) 「人はみかけによるのでしょうか」

マタイによる福音書17章1〜9節
説教:安藤 政泰 牧師

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
マタイによる福音書17章1〜9節


私たちの日常生活は小さな出来事の繰り返しです。そして、その小さな出来事につまずきます。風邪がなおらないと何か悪い病気にかかっているのではないかと考えます。特にある年令に達しているとよけいそうです。

主はこうした日常生活の中にいつでも来ておられることを思い出してください。
日常生活の中で私たちがあまり意識してない行動や言動を主は、聖なるものと結びつけて下さるのです。私たちは同じ行動や言動でも、それを否定的に受け止める時も、肯定的に受け止める時もあります。

教職や信徒は誰によって養育されるのでしょうか。それは、もちろん神により導かれ育てられます。具体的には人を通して実際には行われることがあります。
教会を通して、信徒を通して、教職も信徒も養育されます。相互に養育しあう関係です。人がそれを行うのではなく、神が介在して行われます。

さて、主の変容は私達に隠れた主の姿を見させてくださいます。この主イエス・キリストの姿は私達には顔覆いで隠されているのではなく、主イエス・キリストの受難によって隠されているものです。
16章21節以下に、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

主はご自身の受難について弟子たちに明らかにされていますが、弟子はそれと理解することはできない。しかし、この主の変容で弟子達は主の蘇りの姿を知る事ができたはずです。しかし、本当に弟子たちは理解したのでしょうか
残念ながら聖書を読む限りそのようには読み取れません。
17章9節で「一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。」

主はこの事を秘密にするように弟子に命じています。何故イエス・キリストはこの事を秘密にされたのでしょうか。私達にとって日常的な事と非日常的な事があります。主イエス・キリストの変容の出来事はこの両方を持っています。それゆえに、人は誤解をする可能性があります。外見によって判断したり、自分の解釈で不思議、不可思議な事を解釈してしまう危険性があるからです。
弟子たちも同じようにこの変容の出来事を本当に理解できたのでしょうか。
ペテロの言動を見ても、決して本当に理解したとは考えにくいです。その時起こった現象に目を奪われてその背後の真実を見ることが出来ないのが通常です。

いわば現象に目を奪われてしまい、真実を見ることが出来ないのです。見かけで判断してしまうのです。
「人は見掛けによらない」と言います。このことの本当の意味は「人は見掛けによる」と言うことです。見掛けで人を判断するのがこの世の中の常です。

この外見で、見掛けで判断する事の危険は、自分のイメージでその人を判断することです。特に外見から判断してしまいがちになることです。自分の中にあるパターンにその人を照らし合わせて、判断するのです。自分の過去の経験を照らし合わせて 理解しようとします。
変容の現状に立ち会った弟子たちがそうであったようです。旧約の記述、自分の見聞、経験などを 尺度に考え判断してしまします。

しかし、こうした誘惑を乗り越えて本当の姿を見ることが出来るようになるのは信仰の目 聖霊の導きにより開かれた目でしか見ることができません。

変容日主の真実は 復活の主の姿 昇天の主の姿です。
それを 主のご受難の前に示された神の恩寵を私たちは知るべきです。
しかも 日常生活の中で、聖霊の導きになりのみ神の恩寵を受けられます。

2011年2月27日 顕現節第9主日 「人生と歴史が変わるとき・・」

マタイによる福音書7章15〜29節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆実によって木を知る
7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

◆あなたたちのことは知らない。7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

◆家と土台
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。
7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
マタイによる福音書7章15〜29節


私たちの父なると主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

イエスの「山上の説教・垂訓」の結末に来ました。イエスのフアンだから言うのではないのですが、イエスは偉大な説教家だと思いました。また、人々を引きつける魅力を持った方だと思いました。古今東西、偉大な説教家は言葉にも行動にも人々に強力な影響を与えています。新約聖書はギリシャ語で書かれました。イエスはどんな言語を話したかですが、当時のアラム語・・ヘブライ語の方言・・を話したと言いますが、ギリシャ語だろうとも思います。ギリシャ人と話しているからです。(ヨハネ12:20以下)。通訳を通してではないと思います。聖書の翻訳ですが、今まで、文語訳、口語訳とかあります。文語訳は重々しく、いかにも宗教的な雰囲気に満ちた訳です。たとえば、「さいわいなるかな、心の貧しき者、天国は彼らのもなればなり」です。アラム語をギリシャ語に翻訳したという学者もいますが、私はギリシャ語だと思います。ギリシャ語ですが、当初は新約聖書特有のギリシャ語・・聖霊による・・と考えられましたが、A・ダイスマンという学者の研究で、それは当時・ヘレニズム時代の共通語・標準語と分かりました。それを「コイネー」と言います。意味は「共通」です。今の英語と言えます。ですから、聖書は普通の言葉で書かれました。だからと言って翻訳はどうでもいいとはいえません。ですから、尊厳を持ち、読みやすい翻訳がなされます。私は昔若い頃、今の「新改訳聖書」の翻訳を手伝いました。旧約聖書の「詩編」の下訳で全て訳をしました。私の下訳を専門家が見て直していました。しかし、私が立教大学大学院「本文批評学」(ホンモンヒヒョウ学)を履修しました。それは紀元後2世紀以後の新約聖書の写本を研究して、原本を求める作業です。今では、現在の新約聖書の99パーセントは、原文・・著者が書いたもの・・と言われています。自筆原本を読んでいることになります。有名な外人教授がいましたが、私たちの「新改訳聖書」を「説教している訳」だと言いました。悪口です。みんなヘブル語、ギリシャ語を読めればいいのですが、翻訳は難しい。

聖書をどう見るかが教会内外で論議が盛んです。聖書を特別な書物でこの上もなく重要な書物・・神の言葉と見るか、人間の言葉であり、自由に批判し、分析して扱うことが出来るかで、大きな相違があります。去年の10月に「キリスト教成立の謎を解く」という本が出ました。教会員から、正月にお読みになったらということでしたので、読ませていただきました。聖書を人間の書物として扱い、いろんなテクニックを駆使して批判しておりました。著者のB.D.アーマンは、はじめ、聖書は神の言葉と信じ、すべては正しく、誤りはない(聖書無謬説・むびゅうせつ)を信じていましたが、聖書の矛盾や人生経験から、従来の信仰を捨てて聖書の分析に入りました。専門家でも解きにくい問題もありますし、視点を変えたらと思う点もあり、聖書は聖書で解釈すると言う原則を考えたらとか思います。ただ、今から2000年前ですし、時代の状況が現代と違いますし、多くの資料が存在しないので解釈次第だったり、前提が間違っていたりします。私はこういう問題は、初代教会で・・紀元3-5世紀にすでに起こっていたと感じました。今も姿形を変えて出ていると言えます。私は今の異端・誤った考えとかは、すでにその世紀に起きていたし、今はその亜流・まねをするだけで独創性のないこと・・だと思っています。

聖書の見方はキリスト教会・教団間でも違います。ですから多くの教派・教会・教団があります。さらに一つの教会の中でも違います。年を取った牧師と若い牧師とでも違います。同床異夢・同じ仲間うちでありながら、異なった考えを持つこと・と思うことあります。一つの教会は同じ聖書観、同じ信仰かと思うと、そうでないことが起きます。ルーテル教会は信条・信仰告白・信仰の箇条・堅く信じ守っている事柄を持つ教会ですが、時代で古いとか、合わないと言われます。信条集が本棚で塵をかぶっています。最近は、ポスト・モダン・post-modern・とかパラダイム・paradigm・の転換とかいって、古い考えを超えようとか、一時代の支配的な見方や思考の枠組を抜け出すことが主張されました。特に、人権・・男と女の権利が問題になりました。多分気がついているでしょうが、議長・司会は英語でChairmanでしたが、今はChairairpersonです。看護婦が看護師になりました。英語の書物でよく三人称を「She・he」と併記して書いているのを見ます。デリケートな問題です。教会でも女性の地位の向上を求めて、聖書の考えを否定することがあります。女性は牧師になれるか、なれないかという問題が起こりました。

聖書の読み方、理解の仕方で、論争しています。女性を認めないのは、男性上位の考えだとか、時代遅れの、恥ずかしい考えだとか聞きました。自分の教会の教えを恥ずかしいとは分かりません。ある責任ある牧師は教理は時代で変えることが出来ると発言していましたが、どんな聖書観をしているのか疑問でした。

特に、私は最近の不毛な論争を見ていて、もっと聖書を信徒の方々が読んで欲しいと思います。自分の教団・教会の聖書理解を知っているべきですし、自分の教会の教えをしっかりと持つべきです。牧師が間違ったら、信徒が正すべきです。きつい言葉ですが、知らな過ぎると言えます。そんなところに教勢の不振があると思いますが。自分の教会を愛する信徒になって欲しい。

今朝のイエスの言葉は、神の言葉である聖書を正しく語る者とそうでない者に注意を向けています。なぜなら正しくない教え・教理は誤った道に導き、神の備えている恵みと救いを失う危険があるからです。イエスは二つ見分け方を示しました。「偽預言者を警戒しなさい」とは言葉がきついですが、ですが、警戒するのは彼らが「羊の皮を身にまとって来る」からです。言葉を換えれば「天使の姿」をして来るからです。パウロは「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」と言いました。(二コリ 11:14)。

教会の中に巧言令色・言葉をかざり、顔色をうまくつくろって来るのです。こうしたら、教会は盛んになるとか、誠実で信徒ために深い心遣いなど・・隙を突いて来ます。イエス彼らは「その内側は貪欲な狼」だと。グリムの童話に「赤ずきんちゃん」とい童話がありますが、オオカミの甘い言葉にだまされて、オオカミに食べられます。水面に一滴垂らすと、波紋が広がりますが、いつの時代も教会は、混乱を招いています。

さらに、イエスは実・Fruitsで見分けよとも言います。その正体を見破ることですが、「実」とは何か。外形的姿・形なものですから、「教理・教え」LCMSは言いました。LCMSはアメリカのルーテル教会・ミゾーリー・シノッドですが、私たち日本のルーテル教団の母教会です。厳格な、保守的な教理を保持しています。よく「実」を見るために、私たちは聖書・神の言葉をしっかりと学びたいと思います。

「山上の説教・垂訓」も終わり・クライマックスに来ました。最後の6節ですが、「そこで」という言葉が示すように、この全体の説教のまとめとして話しています。この説教の最初の聞き手は、世の救い主の言葉を聞いて、うっとりとしていたと察します。イエスの説教は終わりますが、決して終わっていません。

ある教会でこんな会話がありました。礼拝が終わって帰り始めた信徒に、外にいた信徒が聞きました。「説教は終わったか」と聞いた。熱心な信徒は「いや、説教は終わっていない。始まったばかりだ!説教を私たちの日常生活の中に取り入れることが、私たちに期されているのだ。私たちの生命が終わるまで、この説教の言葉は終わらないのだ」と答えました。本当にそうです。聖書は時代に沿って訳されます。最良の翻訳を求めて、いろんな訳の聖書が出版されます。日本でもそうです。では、最上の聖書の翻訳はどれでしょうか。皆さんはどう思いますか。私のパソコンには世界の各国の翻訳が入っています。英語?日本語?フランス語ですか。私は一番最良の訳は、誰であろう、私やあなたなのです。自分の体で聖書を翻訳するのです。イエスは少し前でこんなこと言いました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。翻訳という言葉は英語ではTranslateですが、通訳する、解釈する、言い換えるなどです。イエスの言葉を心の中に保ち、それを日々のクリスチャン生活で、行為と行動で通訳し、翻訳する、言い換えるようにとのすすめです。その時に、堅固な永遠の建物を私たちは建てることが出来るのです。

結びの建物に関する譬えは有名です。聖書はクリスチャン・ライフ・生活をしばしば、建物・家について・・まだ未完成の・・しかし、完成に向かっている課程として言及しています。この意味は、私たちが神の国に入る(ゴールする)まで、信仰に、知識に、聖化に・・罪打ち勝って、神のみ心を行う、よい業に・・成長することです。

砂の上の家と岩の上の岩の譬えは説明はいりません。イエス自身が説明しています。「賢い人」「愚かな人」の対比があります。私は新潟地震(1964年)の時、その後、佐渡に行きましたが、6階建ての県営住宅が横転しているのを見ました。地盤が地震時に液体のようにふるまう液状化現象で倒れました。今でも欠陥住宅を見ます。地盤が弱い住宅です。最近のニュージーランドの地震でもありました。

イエスは言います。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と。反対に、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と。私たちはどちらの中に入るでしょうか。「賢いひと」、「愚かなひと」ですが。イエスの言うように、彼らが建てた家は同じような天候似合います。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲う」のです。結果は大いに違います。これらの現象はなにを言うのでしょうか。私は同じような人生で出会う様々な出来事だと思います。二人は幸福や豊かさ、順調な生活をしていますが、人生にはしばしば起こる悩み、苦しみ、死への恐れや心配などがあります。あるいは死の時を迎えるときでしょうか。あなたの人生は何だったのかと問われる時でしょうか。そんな時に私たちは、立つべき、頼るべき保証・保証人・セキュリティを持っているかです。キリスト教信仰は確かな保証を与えてくれます。それはイエス・キリストです。キリストこそ、Rock of Ages 賛美歌では「岩なるイエス」・「代々の岩」と歌われます。その巌(いわお)の陰に守られるのです。だから私たちは試練や誘惑、恐れや悩み、悲しみ、死の恐れ、迫害などの嵐に、身支度出来るのです。

イエスは唯一の誤りのないカウンセラーです。イエスは、私たちの様々な問題に答えを与えてくれますし、その答えは正しいのです。イエスの説教が終わったときに、人々は、その教えに驚いたとありました。それはイエスが神の権威を持って語ったからです。このイエスを自分の主・岩にして、人生と歴史が変わるときを経験してください。アーメン

2011年2月20日 顕現節第8主日 「一人の主人に仕える」

マタイによる福音書6章24〜34節
説教: 安藤 政泰 牧師

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」   マタイによる福音書6章24〜34節


当時のユダヤ社会では、一人の奴隷を2人で所有することが出来ました。しかし、奴隷にとっては二人の主人が居ることは大変苦労の多い事で、また同時に、耐え難いような事が起こっても不思議ではありません。どちらの主人も、自分だけの所有のように扱うからです。聖書では、そうした日常起こるトラブルを題材にして二人の主人に仕える難しさを述べています。

 

「富と神」と言う二人の主人に同時に仕えれば、問題が起こる、と警告しているのです。仕えて何が得られるのでしょうか。仕えると言うことに、どんな意味があるのでしょうか。従うということです。少なくとも聖書では「あなたの生命に関わる事」だと記しています。生命、聖書では「たましい」「霊」の事です。神は与えられた生命を養って下さいます。この生命は人間の存在すべてを意味しているのです。その生命「たましい」を創造された神が、それより次元の低い衣類、食物を人間に用意されないはずが無いと、述べています。

信仰とは何でしょうか。それは、神に信頼し、神により頼む事です。それは、部分的な信頼ではなく、全面的な信頼です。しかし、信仰自体、神から賜ったものです。戴いた信仰を育てるには、人はどうすれば良いのでしょうか?

人生のほんの些細な、小さな事をでも、完全に神により頼めるようにする事です。どんな小さな事でも神により頼めるのでしょうか。それには、「所有」と言うことを考えてみましょう。もっている、所有しているとはどんな意味があるのでしょうか。よく「お金は墓場まではもって行けない」と言います。しかし、よく考えると、私たちは、神が造られたすべてを所有しているのです。だからことさら自己主張するような「所有」は必要ないと聖書は言うのです。別な表現では、必要なものは必ず与えられるのですから、今更何を所有したいのか、と言うことです。「与えられる」と確信した時、ささいな事でも神を信頼し、問いかけられるようになります。

自分の生命の終わり近づいても、ヨブのように 裸で生まれたのだから 裸で神のもとに 帰る覚悟が出来ないのが、悲しい私たちの現実です。たしかに、富を貯える事を聖書は否定しているのではありません。富に仕えるなと警告しているのです。富ではなく、神に仕える時、富も地位も、必要はすべて満たされる、今満たされて居るのです。あなたは今満たされていますよ。あなたは今恵まれていますと、互いに確信し、共に神に感謝し、支え合うことが出来る教会員の交わりが出来ればと願います。それが 神様に仕える道となりますように祈ります。