2004年8月29日 「主よ、それでも、あなたは」

詩篇第3篇

 
説教  「主よ、それでも、あなたは」  大和 淳 師
1賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき。
2主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい
3多くの者がわたしに言います、「彼に神の救などあるものか」と。
4主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。
5主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。
6身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。
7いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。
8主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください。
9救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。

 今朝は詩篇第3篇からみ言葉を聴きます。それで、1節はこの詩編の表題ですが、「ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」とあります。ダビデは、聖書の中でしばしば出てくるモーセやエリヤと並んで最も重要な人物、イスラエルの王ですが、もともとダビデは王でありながら、竪琴の名手、また優れた詩人であったと伝えられています。それでこの標題はその「ダビデが作った」歌、という意味なのか、それとも、更にこの標題は「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」と説明書きがありますので、その「ダビデのための」歌、あるいはその「ダビデに寄せての」歌なのだ、そのように解釈が分かれています。いずれにせよ、「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」というのは、どういうことかを知ることが ― ですから、詩編の本文とは離れたところから見ていくことになりますが ― わたしたちがこの詩編を理解する道でしょう。

  それで「ダビデがその子アブサロムを逃れた」、その物語はサムエル記下15章以下(旧約聖書582頁)に書かれていますが、そのサムエル記下15章の少し前に記されていることから触れますと、サムエル記下13章(旧約499頁)ですが、ダビデの息子の一人であったこのアブサロムは、妹タマルを辱めた異母兄弟、もともとダビデの長男、王位筆頭継承者であったアムノンを、そのタマルの復讐のため殺害してしまうのです。そして、サムエル記下13章38節以下によれば、「アブサロムはゲシュルに逃げ、三年間そこにいた。アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた」、そう記されています。つまり、ダビデは、殺されたアムノンを愛していたのですが、またこのアブサロムも愛していた。それ故アムノンを失った悲しみの中でも、ダビデは、アムノンを殺してしまったそのアブサロムの罪をゆるすのです。つまり、そうしてアブサロムがこのとき事実上の王位継承者となったのです。実際には、この反乱によってアブサロムは死に、結局末っ子のソロモンが後継者となるのですが。
  ところが、アブサロムは王位継承まで待てず、その父ダビデに対して謀反を起こしたのです。既にダビデは老いていました。やがて遠からず、黙っていても彼は王になることが約束され、何よりダビデもそれを望んでいた、それなのになぜ、その父ダビデに謀反を起こすようになったのか。一体アブサロムはなぜ待てなかったのか。
  その次第がサムエル記下15章に語られています。それで、その15章2節に、「アブサロムは朝早く起き、城門への道の傍らに立った。争いがあり、王に裁定を求めに来る者をだれかれなく呼び止めて、その出身地を尋ね、『僕はイスラエル諸部族の一つに属しています』と答えると、アブサロムはその人に向かってこう言うことにしていた。『いいか。お前の訴えは正しいし、弁護できる。だがあの王の下では聞いてくれる者はいない。』」、そう記されています。城門への道の傍らとは、人びと、民衆が問題を訴え、調停を求める、いわば裁判所でした。
アブサロムはそもそも初めから王になる野心に動かされて、そういうことをしていた、そのように理解することもできるかも知れません。しかし、(左近 淑先生が全く違ったすぐれた読みをなされており、わたしは深く教えられ、以下はそれに従いながら読んでいくことになるのですが)アブサロムは妹タマルが辱められたのを知り、激情に駆られてアムノンに復讐したように、このアブサロムはまことに気性の激しい人であったのでしょう。しかし、それは逆に言えば、このアブサロムは極めて情が深く、また正義漢の強い人であったことを物語っています。そんなアブサロムですから、最初は、父ダビデと和解できた、許された喜びから、少しでもその王のために、国のために、人びとのために役立とうとしたのではないか。そうして毎日朝早くから熱心に勤勉に城門への道の傍らに出かけ、人びとの調停を行った。そして、彼はまた施政者としてもすぐれた素質をもっていたのでしょう、難問を次々に解決することができた。そうしてアブサロムのうわさが広まり、われもわれもと早朝からアブサロムの前に人々は長蛇の列をなしていったのでしょう。まだダビデによる国の統一は整っていない、むしろまだ混乱状態が続いていたからです。(イスラエルが王国として安定したのは、このダビデの後のソロモン王の時代でした。)アブサロムは、持ち前の熱心さから、次第にやがて政治的野心をもつようになったのではないでしょうか。
  やがて、アブサロムは「・・・お前の訴えは正しいし、弁護できる。だがあの王の下では聞いてくれる者はいない。」(3節)、そして「わたしがこの地の裁き人であれば」(4節)とそう言うようになったというのです。次第に父ダビデを生ぬるく思い始めた、父は老いて決断力がにぶい、優柔不断ではないか、そのような不満と批判が彼の心を占めるようになっていった。「わたしがこの地の裁き人であれば」、そのようにアブサロムは思い詰めるようになったというのです。早く、老いた父に代わって王となることが国家のため、人びとのためだ、そう思うようになったのだと。
  アブサロムは、ダビデに対する不満をとくにもっていた当時の王国の北イスラエルの人びと ― それは先のサウル家につらなるイスラエル諸族の不満分子といっていいでしょう ― そして、更に、そしてダビデが首都を聖都へブロンから異教の都エルサレムへ移したことへの不満をもつユダ族の人びとを加え、いわば保守派の連合体によるクーデターを起こします。そしてアブサロムは、自分の特別補佐官にはアヒトぺルという老人をかつぎ出します。アヒトぺルは、ダビデの忠臣であったウリヤの妻バト・シェバの祖父でしたが、ウリヤに恋したダビデが謀略によってウリヤを死なしてしまい、バト・シェバの結婚を破壊してしまったのです。ですから、アヒトぺルはその祖父として、ダビデに対して並々ならぬ批判と憤りをいだいていたのでしょう。そのようにアブサロムの周囲には不満や不幸、更に欺きやだまし合いが渦巻いており、彼らを露骨な野心が支配しています。いわば人間の底によどむどす黒いものが満ちていたのです。これは、今も変わらない政治の世界、戦争の絶えない人間の現実であると言えるでしょう。だが、聖書はその中に、真に希望の光ともいうべきあたたかな<こころ>が灯っていることを示すのです。その希望を担っているのが、このダビデなのです。

 さて、ダビデはそのアブサロムの謀反の知らせを聞いて、エルサレムを放棄し、逃亡します。しかし、そもそもなぜダビデはすぐに都エルサレムの放棄を決め、なぜ逃げることにしたのでしょうか。と言うのも、そもそもエルサレムは難攻不落の要塞であって、篭城するには最善の場所でしたし、それに15章13節以下を読みますと、完全に人びとの心がダビデを離れたわけではないことが伺えます。そして何と言ってもダビデに忠誠を誓う勇敢な兵士たちがまだ多数仕えていたのです。何より老いたとは言え、ダビデも勇気を持った優れた軍略家でした。戦って決して勝ち目が全くなかったというのではなかったのです。
  しかし、なぜダビデは逃げることにしたのか、その理由をサムエル記下15章14節のダビデの言葉を通して知ることができます。ダビデはこう言うのです。「直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐ我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう」。つまり、町を戦火から守りたい、民衆を犠牲にしたくないという、あのアブサロム、そしてその周囲にあるどす黒いものとは対照的に、ここにはダビデのあたたかな<こころ>がにじみ出ています。まさにそれが故に、ダビデは、一切を捨てて逃亡したのだ、と語られているのです。
そして、更にそのあたたかな<こころ>は外国の寄留人、ガド人イタイに対するダビデの思いやり(サムエル記下15章19-20節)に満ちた言葉からも伺えます。 ダビデは、この火急の時、自分の生命の不安の高まる時にもかかわらず、自分の面前を粛々と進む大勢の兵隊の中の一人の男に目を留め、声をかけるのです。「なぜあなたまでが、我々と行動を共にするのか」と。そして説得します。「戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ」と。わたしに義理立てることはない。わたしは落ちのびて行く人間、あなたにわたしと同じ運命を味わわせるには忍びない、と。ここには、この一人の外国人亡命者に対するダビデの思いやり、いたわり、あたたかな<こころ>があります。それに対して、この外国人イタイがまたこう答えるのです、「主は生きておられる。わが君、王は生きておられる。わが君、王のおられる所に、死ぬも生きるも、しもべもまたそこにおります」(21節)。
あまりにも痛々しい、悲劇のおとずれ、しかしその火急の中にあっても少しも変わらずに互いに通わせ続ける〈こころ〉が生きています。イタイばかりではなく、このサムエル記下15章にはなおダビデの周囲の人々の心にはまごころがあふれ、忠誠心が燃え、誠実さがきらめいているのです。聖書は、あの時の勢いにまかせて戦いを起こすアブサロムと彼取り囲んでいる人間の底によどむどす黒いものと、まさに対照をなす、悲しく、辛い、しかし、その時にこそ気高い、暖かい人間の姿を描いています。
しかし、何と言っても、そのような高貴な人々、暖かい心を持ち続ける人々は、あまりに悲しい、惨めさの中にあるのです。「その地全体が大声をあげて泣く中を、兵士全員が通って行った。王はキドロンの谷を渡り、兵士も全員荒れ野に向かう道を進んだ」(15:23)。真に胸を打つような光景です。憂いの人、ダビデ。これ以上ない深い悲しみ、惨めさ、その中で、しかも、その上ダビデは、王であるしるし、最後の拠り所とも言うべき「神の箱」、神の臨在のしるしを、アブサロムの元へ送り返してしまうのです。 そして、言うのです、「主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」(15章26節)。これは直訳すれば「もし主が『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」と。ダビデは、絶望してそのように言ったのでしょうか。すっかり心弱くなり、あきらめて「神の箱」を手放してしまったのでしょうか。深いどん底の中で、「・・・どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」、そのように言うダビデ。しかし、その彼に尚あたたかな<こころ>が脈打っています。悲しみの底、苦しみのどん底で。
わたしたちは、こうした人の<こころ>にふれたとき、その気高さに触れたときこそ、また自らのこころを動かされ、希望を持つことができるのです。そして、わたしたちもまた、どんなにかこのように気高くあることを願い、あたたかなこころを持ち続けて生きたいと願うことができるのです。悲しみの底、苦しみのどん底にあっても!いや、その中にあるからこそ!
しかし、ここで心に留めなくてはならないことがあります。かつてあのアブサロムも、そうあろうとしたのです。たとえば、サムエル記には「また、彼に近づいて礼をする者があれば、手を差し伸べて彼を抱き、口づけした」(15:5)、 そのように人に<こころ>を通わせようとし、「アブサロムは、王に裁定を求めてやって来るイスラエル人すべてにこのようにふるま」(15:6)ったことが記されています。しかし、彼はそのあたたかい<こころ>を持ち続けることができなかったのです。
  そして更に言わなければならないことは、このアブサロムの人間の底によどむどす黒さ、野心、憎しみ、欲望、それらは、またこのダビデの中にもあったことなのです。かつてダビデの邪な欲望が、自分の忠実な部下ウリヤを死なせてしまったのです(サムエル記下11章以下)。であれば、どうしたら、わたしたちは、あのあたたかい<こころ>に触れ、それを持ち続けることができるのでしょうか。

 わたしたちはこのサムエル記下15章の真ん中に記されている、先ほどの「もし主が『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」(15:26)、その言葉を心に留めなければなりません。ダビデや彼の周囲の人々の気高さ、あたたかな通い合う<こころ>、一切はここから来るのです。どんな低みにあっても、悲しみの中にあっても尚、人間らしさを失わない、それはここから出ているのです。それは私どもが思うよき人間性、よき性格からくるのはないのです。人間性を言うなら、ダビデは自分のうちにある、人間のどす黒さを知っています。それがかつて自分の部下を殺したのです。あのアブサロムと自分の間に何の違いもないことを身にしみて知っているのです。それ故、ダビデは「オリーブ山の坂道を泣きながら上って」いくのです。一切を捨てて、泣きながら、その主のもとへ、主のもとへと。
今日のこの詩編3編は、そこから生まれたのです。この詩編は「多くの者がわたしに言います、『彼に神の救などあるものか』と」(3節)、そう訴えています。もうダビデには救いがない、神の御手はアブサロムに移った、恐らくそのような言葉が触れ回っていたし、また実際このダビデたちの姿は人びとにそう映ったことでしょう。しかし、この詩編がすぐにこう歌います、「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。」(4節)
  「主よ、それでも、あなたは」、わたしの気高さによらず、また罪、あのどす黒さによらず、いえ、それにも関わらず、「主よ、それでも、あなた」は御自身の救い、愛を貫き給うでしょう、と。自分め王位は踏みにじられ、自分の栄え、栄光は今や血にまみれた、しかし、だがこの神こそ「わたしの栄え」であるというのです。何故なら、主なる神は、「わたしの頭を高くあげてくださる方」であるから、と。誰もがこういう状況の中では、首がうなだれ、頭を垂れ、がっくりしてしまうのです。そんなときには決して自分の力で頭は持ち上げられないのです。しかし、神は「わたしの頭を高くあげてくださる」、前の口語訳は「わたしの頭を、もたげてくださるかた」、絶望からそっと頭をもたげて希望を与えてくれるというのです。
  みなさん、わたしたちは誰も、このダビデのように、泣きながらこのオリーブ山に上るときがある。いやかつて、そうして上られた方もいる、そして今、泣きながらこのオリーブ山に上ろうとしている方もおられるかも知れない。誰もが首をうなだれてしまうのです、絶望の底、悲しみの底で。でも、決して誰も奪うことはできないのです、わたしの中にあるあたたな<こころ>、どんなどす黒いものが渦巻いていようとも、それでも尚、人はあたたな<こころ>を抱いて、希望を抱いて生きることができるのです。
  何故なら、神は「わたしの頭を、もたげてくださるかた」だからです。「主が・・・どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」、このダビデ、このダビデが泣きながら登ったオリーブ山でこそ、あの主イエスがゲッセマネの祈りを祈ったのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のまま。」(マタイ26章39節)と。
  今日の黙想にティヤール・ド・シャルダンという人のこんな言葉を紹介しました。
  「人生にはただ一つの義務しかない。
    それは、愛することを学ぶことだ。
   人生にはただ一つの幸せしかない。
    それは、愛することを知ることだ。」
  人生のただ一つの義務、ただ一つの幸せ、愛することを学ぶこと、愛することを知ること ― そのようにあたたかな<こころ>を持ち続けること!わたしたちは、しばしばこのダビデのように破れるでしょう。しかし、「主よ、それでも、あなたは」愛!そこに「わたしの頭を高くあげてくださる方」主イエスがおられのです。そうです、だからこそ繰り返し、繰り返し、わたしたちは、この主のもとに帰るのです。愛することを学び、愛することを知るために。たとえどんなにどす黒い中にいたとしても、また自分がそれをもっていたとしても、神が必ず与えてくださるあたたかい<こころ>を抱きつづけるために、<こころ>と<こころ>を通わせるために。

2004年8月15日 平和の日 「平和」

ルカ12章49~53節

 
説教  「平和」  大和 淳 師
 主イエスは言われます、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と。だが、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。しかし、「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と。イエスは深い悲しみの中にあるのです。苦しんでおられるのです。
  ここで「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(51節)とこのように言われ給う、わたしたちは、この言葉に戸惑いを覚えるかも知れません。しかし、何よりここで主イエスは厳格な、怒りに満ちて語っているのではなく、この方はまさにそれを誰より深く悲しみ苦しんでおられる、これは悲しみの人の言葉なのです。
  そのわたしたちは、平和を求めてここに座っている、そう言っていいでしょう。キリストを信じる、キリスト者である、それは、父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと互いに平和に暮らす、暮らしていける、そのようであって欲しい、その慰めを求めてここにいると言っていい。何故なら、何と言ってもわたしたち自身も、それぞれに分裂、対立の中で生きているからです。そのわたしたちのためにこの方はただ深く悲しむ、彼が悲しみの人、苦しみの人となられたのです。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」これらのわたしたちについての言葉は誰よりこのお方の苦しみ、悲しみが包んでいるのだ、わたしどもはそのことを深く心に留めたいのです。

  それ故、何よりわたしたちはマタイ福音書5章の山上の説教の中のこの主イエスご自身のこのような言葉をここで思い起こすべきかも知れません。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5章4節)ルターは、この「悲しむ人々」を、単刀直入に苦しみを負っている人は幸いである、と訳しています。「苦しみを負っている」、ここでイエスが悲しみ、苦しんでおられるということ、それは、実に、わたしたちの分裂、対立を負っておられる悲しみ、苦しみなのです。
  そして、何と言っても「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(5章9節)、そのように主イエスは約束されたのです。 なるほど、今日の「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」、この主イエスの言葉は、それらの約束の言葉と相容れない言葉に聞こえるかも知れません。けれども、これらはことごとく、このお方、主イエス・キリストにおいて起きたこと、何よりこのお方ご自身が負われたことなのです。
とは言え、「今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」、確かにこの言葉はわたしどもにショックを与えるでしょう。しかしながら、こういうことを考えさせられます。
先日、14歳の少年が、母親と姉たちに熱湯を浴びせられ虐殺されたという事件が起こりました。聞けば、少年の胃袋は空っぽであった、ろくに食べさえてもらっていなかった。つまり、日頃から虐待され続けていたと言います。もしこれが事実であるとすれば、確かに愕然とするような事件です。たまたま観ていたテレビで、この母親は愛情のかけらもない人間であると、そして現代では、そういう家族愛が変質してしまっているのではないかというコメントを耳にしました。なるほど確かに一面、そう言えるでしょう。しかし、愛情がないから、そのような虐待を起こすというだけでは、あまりに短絡的です。こうしたドメスティック・ヴァイオレンスの現場に関わっている、ケースワーカーの方々は、こうした幼児虐待は、いずれにせよ身内だから、近い関係ほどこそ起こると指摘しています。父であるが故に、母であるが故に、あるいは子である、しゅうとや嫁であるが故に、友人であるが故に、むしろ、そこで起こる対立はしばしば深刻になるのです。わたしどもの愛情は、容易に憎しみに変わるのです。そのような虐待という表面化しなくても、どのような家庭にも言葉により、態度により、小さなヴァイオレンスはあるのだ、と。
たとえ家族であっても一人ひとり互いに違う存在だからです。親子だから、夫婦だから、あるいは姉妹兄弟だから同じ思い、互いに一つの思いでいられる、平和があるというのは幻想、甘えである、そう言っていいでしょう。だから、たとえ家族の間であっても同じ思い、互いに一つの思いでいられるよう、平和のために日々コツコツと積み重ねてゆく、そんな地道さが、勇気が必要なのです。しかし、人はまたまさに家族という最も近しい結合体の中でこそ、しばしば自分とは違う、他者の<異物性>に耐えられなくなるのです。
  そもそも親であれば、誰しもわが子に、こうあってほしい、こう育ってほしいという願いを持っています。そういう望みにかなうことがあたかも平和であるかのように。しかし、本当のわが子は、そのわたしの願い、望みの先にあるのではなく、今、そこにあるがままあるその子なのです。たとえ親子でもわたしはわたし、あなたはあなたなのです。しばしばそれが見えない、見ようとしなくなるのです。
  それとは逆に「小さいときから人間の恐ろしさを見てきた。一皮向けば、自分もそういう人間になってしまう。何もしないうちに死ねればそれでよかった・・・・」。数年前になりますが、悲しいことに、こんな言葉、遺書を残して自ら13才の命を絶ってしまった少年のことを思うのです。どんな人間の醜さを見続けてきたのか、「人間の恐ろしさを見てきた」と言うのです。何より、この少年が恐ろしかったのは、同じものが自分の中にあることに気づいたからでしょう。<わたしがわたしであること>に耐えられなかったのす。これもまたただただ胸痛みます。恐らく他人の眼から見れば、この少年には何か特別欠けたところなど見えなかったでしょう。わが子に一生懸命な立派な両親がいて、良い環境にいて、学校でも問題ではなかった・・・・でも決定的に与えられなかったもの、あなたはあなた、かけがえのないあなたであるということ。
  そもそも生きていくことは、絶えずわたしはわたしであることが脅かされていくこと、そう言っていいでしょう。人間、赤ん坊は、誕生の時に包まれていたいわゆる<母子一体感>から引き離されていくとき、わたしはわたしであることに不安を感じはじめます。子どもが成長していく限り、いやどんなに大人になっても常に<わたしはわたしであること>の不安と常に戦っていかねばならないのです。そして更に、子どもから大人へとなっていくそのとき、大人になることは、反面、自分の中にさまざまな、それこそ醜い心や、自分にとっては嫌な面が見えてくるのです。それが人間、わたしたちなのです。
  よくこんな風なことを聞きませんか?たとえば、あの人は口ではこう言っているが、腹の底では何を考えているか、分からない、そんな悪口というか、評価です。あるいは、先の13歳の悲しい少年のように、自分の中にある人には言えない醜さに悩む。それがなくならない限り、わたしは本当のわたしではないという思いこみ。
しかし、主イエスはあえて言うのです、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」 それ故、わたしもあえて言います、そう腹の底では何を考えてしまってもいい、自分の中にどんな恐ろしい醜さがあってもいいのです。あるいは我が子に、あるいは親に、妻や夫に、これは受け入れられない、そういうものがあってもいい。しかし、「だから、この人はいなければいい」、決してそうではないのです。あるいは、こんな自分がいない方が良い、決してそう思う必要はないし、それは間違っているのです。腹の底、自分の中にどんな恐ろしい醜さがあってもいい、けれど、その腹の底にあるものに、自分の中にある恐ろしい醜さ、そのようなものがあなたを支配するのではないのです。だから、何であれ駄目だと、諦め、切って捨ててしまってはならないのです。何故なら、主イエスは、それだから、あなたを見捨てる、あなたはいらない、そう言われるのではないのです。悪にせよ、醜さにせよ、そのようなものがなくなることが人間らしい人間ではなく、むしろそのような悪、醜さの中で、それにうち負けない、立ち上がっていく、主イエスがその力となってくださる、それが真の人間らしさ、人間なのです。
そもそも、この主イエスの言葉は、旧約聖書の預言者ミカの「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」(ミカ書7章6節)、この預言の引用であると言われています。つまり、主イエスは、このミカの言葉を心に思い浮かべて語っておられる、そう考えていい。それで、あらためてそのミカ書の箇所を読んでみますと、そのすぐ後に、ミカは、こういう言葉を記しているのです。「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」(ミカ7章7-8節)。そこに主イエスが立っておられるのです。「たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」、これがイエス・キリストなのです。
今丁度オリンピックが始まりました。テレビでアナウンサーがしきりに「平和の祭典」と叫んでいました。それは、その一方でイラクでますます紛争が激化した、戦闘が行われ、たくさんの死者が出た、そういうニュースが流れているからでしょう。そういう中で、何がオリンピックだ、平和の祭典だ、そう叫びたくなるかも知れません。でも、それが人間なのです。聖書には「偽善者」という言葉がしばしばでてきます。聖書のいう偽善とは、そのような人間の悲しみを悲しまないこと、苦しまないこと、戦わないこと、そうして他者を非難することです。人は誰も愚かで悲しいのです。「(わたしたちの間で)どんなに正しさの主張、真理の追求が一瞬にして手の裏を返したように利己心と虚栄になることだろう」とカール・バルトは言っていますが、利己心と虚栄、これはフィリピ2章3節の言葉ですが、そのようにして、「テロを許すな」「テロに屈しない」、新たな憎しみから殺戮を繰り返すのです。利己心と虚栄が憎しみを生み出すからです。
しかし、そのようなわたしどもであっても、決してわたしたちは空しい存在、命なのではない。何故なら、わたしたちは決して独りではないからです。だから決して絶望しないのです、「たとえ倒れても、わたしは起き上がる」、わたしたちは静かにそう言うことができるのです。それは決してわたしたちが強いからではありません。そうではなく「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12章9節)、そのように言われるお方がわたしと共におられるからです。それ故ミカも「たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」と歌うのです。それはまた言い換えればこういうことです。
人間の争い、混乱に、神さまがいるなら何でこんなことが起こるのか、そういうことを耳にしたり、またわたしたち自身、そのように言うこともあるでしょう。わたしもしばしばそう訊かれます。それは確かにもっともな思いかも知れませんが、それは人の愚かさ、醜さ、恐ろしさ、その理不尽さに耐えられなくなるからでしょう。つまり、わたしたちはいわば短気になってしまうからではないでしょうか。
でも、わたしはこう思うのです、神さまがいないからこんなことになるのではないかと言うよりも、神さまがおられるから、その愚かさ、醜さ、恐ろしさの中でも、わたしたちは生きてこられたし、どんなに深い絶望の中にあっても立ち上がれて来られた、これからも立ち上がれるのではないか、と。むしろ、神さまがおられるからこそ、こんなわたしでも、またこんな世の中でも、辛うじて滅びずにいるのだ、と。つまり、神さまは恐ろしく気が長い。もし、神さまがわたしたちと同じくらい短気であったら、もう世界はとっくに終わっていたし、わたしも審かれていることでしょう。
気が長いというと、何かのんびりとして無責任な印象を与えてしまうかも知れません。言葉を換えて言えば、どこまでもご自身痛み、誰よりも苦しみ、悲しみながら、それでもどこまでも人間と共に歩み、命へと召し出す神、それが主イエス・キリストなのです。どんなに悪であろうと、また醜さをもっていようと、決してそれで審いたり、見捨てようとされない神、それだからこそわたしたち一人ひとりを愛してやまない神なのです。だから、「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」、そうわたしたちは叫ぶことができる。たとえどんなに闇が深く見えていても、また道が遠く思えても、何度転んでも平和の道を歩くことができるのです。そして、どんなに倒れても、わたしたちは必ず立ち上がれるのです。平和を「実現する」、「つくり出す」ために。このキリストと共にあるわたし、このキリストによるわたしなのです。平和、キリストの平和、それは争い、醜さ、苦しみがないことではなく、その中でも静かに立ち上がっていく、この方によっていつも立ち上がっていくことなのです。

2004年8月8日 聖霊降臨後第10主日 「今夜命が与えられる」

ルカ12章13~21節

 
説教  「今夜命が与えられる」  大和 淳 師
 今日は、ある金持ちの譬えからみ言葉を聴きたいと思いますが、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」一人の人のこの願いから始まります。ところが、それに対して、主イエスは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」、そうお答えになった。これは実にとりつくしまもない程厳しい拒否です。主イエスがこれほどまでに厳しく拒否なさったのは実に珍しいことです。そして「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」、そのように警告され、この金持ちの譬えを話されるわけです。
  ここで、「貪欲」という言葉が出てきます。貪る欲と書いて貪欲、必要以上に欲しがることと辞書には出ていますが、そのような貪欲、しかも「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と主イエスは言われています。そうすると、主イエスは、わたしどもの貪欲さ一切を誡めるために、つまり清貧の生活、禁欲的生活を勧めるためにこの譬えを語られ給うのでしょうか。
  それで、この譬えを見ていきますと、この譬えは非常に分かり易い、いわばすっと読める、分かる気がするのですが、しかし、あらためてよく読みますと、もし、主イエスが単にここで、ただ単に貪欲さを誡めるためにこの譬えを話されたと考えますと、この譬えの結末は非常に不自然なことに気が付きます。
  この譬えでは、最後に神さまが登場します。そもそも、主イエスの話されたたくさんの譬えの中で、神さまが父とか主人とかではなく、神そのものとして直接登場してくる、介入してくる譬話は、この譬えだけです。第一、神さまが父とか主人に、旅人にたとえられるから、<たとえ>話なのであり、直接、神が神として登場してきたら、<たとえ>話とは言えないわけですけれども。

  けれども、もし単に貪欲への、道徳的な戒めであったら、あえてこのように直接神が登場し、語りかける必要はないでしょう。つまり、もし、貪欲さへの警告だけを主イエスがここで語ろうとされていたのなら、この金持ちが、たとえばその晩、火事に遭い、すべて焼けてしまったのだとか、天災が起きたとか、と言うように、そう言う災害や思いがけない事故の方がこれを聴いている当時の人びとにとってもはるかにリアリティーがあるでしょうし、貪欲な生き方の空しさがはるかによく伝わるでしょう。
  そして、更に細かいことを言いますと、「神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(20節)、譬えはここで終わっているのですが、この結末は、何と言っても、決して、彼への罰、報いとして語られていません。「今夜、お前の命は取り上げられる」、それは彼の思いや、あるいはしたこととは関係なく、ただまったくいわば寿命が尽きることになっていた、言ってみればそういうことなのです。
  なるほど聖書の中には、貪欲は確かに罪のひとつです。むさぼりの罪です。しかし、ここで彼は「愚かな者」と呼ばれるのであり、決して罪人、悪人、神に逆らう者とは呼ばれていないのです。つまり、この金持ちが、考えたことが、あるいは彼がともかく大金持ちだったからとか、それを貧しい人に施そうとしなかったからだとか、いわば彼への罰として命が今夜取られるということを(倫理、道徳を)イエスは語っているのではなく、ただ命が今夜取られることになっていると言うのであり、そして「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」という問いかけで終わり、実際、この金持ちがどうなったかは一切語られていないのです。これは人生、生き方、その根に迫る言葉なのです。
  そうすると、ともかく言えることは、あえて主イエスは神さまを登場させた、ここは直接神でなければならないからだ、そう言っていいでしょう。何故なら、ここでまさに問題は死、死の宣告、しかもいつかではなく、まさに今夜、今の死だからです。「今夜、お前の命は取り上げられる」、それはまことに神にしか言えないことだからです。しかも、全くそれまでのこの金持ちの生き方をことごとく打ち砕くように、神の突然の介入が起きてくる。人生がぶち壊しになるかのように。
  それ故、ともかく何よりこの主イエスの言葉を理解する鍵は、この異常な神の介入の言葉にあります。これをわたしたちがどう受け止めるのか。この一点です。この一点を、わたしの人生においてどう受け止めるのか。然り、というのか、あるいは否(もちろん否と言っても、否とならない、事柄から言えば、最早然りしかないのですが)、それでも否を言うのか。つまり、それでもわたしたちは希望があるのか、あるとすればどこにあるのか、ということ。

 それで、まず「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」。この「愚か者よ」と言われる、わたしたちはさしあたって、その愚かさとは、何にあるのか?何故、主イエスは愚かと言われるのか、そのことから考えていきましょう。
  実はその神の宣告、「今夜、お前の命は取り上げられる」と訳されたその「命」の元の言葉は、プシュケーという言葉なのですが、「今夜、お前のプシュケーは取り上げられる」、そう言っていますが、この「命」と訳されているプシュケーという言葉は、既にこの金持ちの台詞の中にも出てきているのです。
  新共同訳は大変読みやすくならして訳していて、同じ言葉、プシュケーだとは分かりにくいのですが、19節に「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」は、直訳すると「そしてわたしは、わたしのプシュケーにこう言ってやるのだ。『プシュケーよ、お前は多くのものを長年に渡って得ている。さぁおまえは安らげ、食べよ、飲め、そして喜べ』」、そのようにわざわざ「プシュケーよ」と自分が自分のプシュケーに呼びかけているのです。ともかくこの金持ちは、まったく自分で自分に言う、自分で自分に言ったという構図がとてつもなく強調されているのです。おおよそ不自然な位、この金持ちは一人芝居を始め、一人舞台で幕を閉じようとする。そして彼はその自分のプシュケー、すなわち自分の命、魂に、つまりまるで神のごとく、「さあ、・・・楽しめ」と命令した、しかしその「プシュケー」こそが今まさに取り去られるのだと。
  それで、ある人がこういうことを言っています。「(この金持ちが愚かと呼ばれるのは)、それは彼は彼の熟慮のためのパートナー、神も人も持たないが故に、それ故に、あたかも彼が彼自身を自由に処理し得るかのように、自分自身のまわりを巡り回っているだけなのである」(E.シュヴァイツァー)。
  つまり、この金持ちが考えたことそのもの、それは貧しい人に施そうとしなかったから、いわば罰として命が今夜取られるということを主イエスはおっしゃっているのではなく、この金持ちは、自分で自分のプシュケー ― プシュケーはそのように命とか、魂などと訳される、いわば肉体的存在を除いた人間の心というか、つまり自分自身ということ、自我、哲学的に言えば主体とも訳す言葉ですが ― その自分自身について一人ですっかりお膳立てしてしまって、主イエスが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(11章9節)、そうおっしゃった、そのような自分・自我ではない他なる存在、神、自分の真の主に願い求める必要は彼の人生に最早あたかも一切必要ないかのようになってしまっている。つまり彼はもう自分の人生に神様の出番の余地がなくなってしまった。そういう風に自分で自分をふるまっている。真に問題はすっかり自分で自分を用意してしまったことにあるのではないでしょうか。
  つまり、こういうことです。それなら、もう神さまの出番は、この「命が今夜取られる」、死ということしか残っていないではないか、そう主イエスは問いかけているのです。そのような生き方に対して、それなら最早神とは、命を今夜取る、そのような冷酷、無慈悲な暴君のような役割しか残されていないではないか、と。確かに自分が自分の主人となってしまった人間に対して、神は、そのような自分と真っ向から対立してくる。それどころか、その自分、わたしを砕くように登場するのです。汝、忘れるな、汝は有限なり、と。
  ともかく、一人芝居を演じている、自分が自分の主人公になってしまっているが故に、この金持ちは愚かなのです。ところが、これはわたしたちの眼から見れば、本来賢い生き方に見えるのではないでしょうか。むしろ、賢い生き方とはこういう生き方だというように。
  それで18節で共同訳が「思い巡らし」と訳している元々の言葉は、よーく考える、熟考する、つまりこれは本来賢い行為です。そういう風に、人生を熟慮する ― もっともその人間の熟慮の目的が、要するに「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」という「怠け」であるところに、主イエスの鋭いユーモアがあると思うのですが、しかし、これは実にそうで、わたしなどはまことに耳が痛いわけでして、わたしたちも人生をよーく考える、そして計画を立て実行していく、これは大変大切なこと、欠くことに出来ないことなのですけれど、でもその目的が、うかうかするとただ老後を楽に過ごすためとか、ただ好きなことをして過ごすというような、この金持ちのような単なる怠けになっていってしまう・・・。これは実によくあることで、あえて言えば、個人のことのみならず、たとえば教会の将来計画などというものも、「よーく考えないと」、自分たちが楽をしようとするものになってしまう。
  つまり、貪欲というのは、何も眼をギラギラさせてモノや何かに執着していく様だけを言うのではなく、むしろ、全くそう気づかずになっていく、うかうかすると結局気が付いたときには貪欲というしかない、そういうものになってしまう、そう言っていいでしょう。だから、本当によーく考える、よくよく考える、今を自覚して真剣に考える、主イエスの語られていることは、まさにそこにかかっていると言える。ぬるま湯につかって、のんべんくだりと人生を考えていいのか、一方でそう言うことな訳です。汝は有限なり、ということ。
  ともかく先々をよく考え、計画・準備する、これは本来賢い生き方なはずです。ところが、わたしどもにとっては、先々をよく考えるとなると、確かに神を信じるという生き方より、神なんて信じない、あるいは信じられないもの、その方が実に賢く思える(あるいは楽だと言う方が合っていますが)、そうなるわけです。しかし、主イエスはそれが愚かだ、と言われる。何故なら結局、ただ独り芝居を演じてしまっているからだ、と。「パートナー」がいない。全く独り芝居、独り舞台を演じている。あなたの人生に真の「パートナー」を持っているのか、そう問うている。
  それで、ここで最初の「あるの人」の願いに対するあのイエスの拒否、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」にかえりたいのですが、それは実は単なる拒否ではなく、主イエスは、まさにわたしたちの「裁判官や調停人」ではなく、人生のパートナーとして立っておられたからではないかということ。つまり、主イエスは遺産相続なぞの次元の低い問題に巻き込むな、と言うのではなく、この金持ちのように人生の独り舞台を演じて、そうして最後には暴君のようにしか神を感じなくなってしまう、そうした人生ではなく、そうしてビクビクして暮らす ― それ故、人は貪欲になってしまう訳ですが ― そうではなく、言ってみれば、「命が今夜取られる」、たとえそうでも、いわばどうどうと生きる、限りあるわたしの生を生きることができる、つまり本当の自由への招きを語られようとされている。
  そもそも自由とは、自分独りでなれるのではなく、いつも必ず誰かと、自分を愛し、また自分も愛する人、存在と共になるものです。つまり自分一人が望むように、人生、事が進む、自分の思いが実現する、つまり人生の一人芝居を演じる、それが自由なのではなく、それはむしろ、いわば欲望の奴隷に過ぎない、まさにそれが「貪欲」ということなのだ、と。ですから、ここで言われる「貪欲」とは、繰り返し申しますがモノや何かへの執着ではなく、いわば自分で自分の人生の一人芝居を演じることです。パートナーのいない、したがって喜びのない人生のことです。これが聖書のいう「罪」なのです。
  でも、それに対して神さまは「命が今夜取られる」、ただそこで単なる暴君なのか、冷たい運命や宿命のようなものしか、あなたの人生に登場しないのか、そういう風にしか神さまの出番がなくなってしまっていいのか、主イエスは、そうわたしたちに問いかけておられる。
  確かに心配事、厄介ごとの中で、いつのまにか自分ひとりで、わたしの人生を演じてしまって、本当の神さまの出番、パートナーをなくしてしまっている人生、それをうかうかと歩んでしまう、隙間だらけのわたしどもになってしまうのです。そうして結局そこでは全く暴君のように、冷たい運命のようなものしか、神を考えられなくなる。本当の人生のパートナーが、わたしの傍におられることを忘れてしまうのです。
  だが、たとえ今どんなに素晴らしい、恵まれた人生を歩んでいると思えても、一瞬にして一切が愚かとなる、あの一点が誰にもあるのです。わたしどもは性懲りもなく、この金持ちのように一人芝居を演じてしまう、そのようなとき、まさに神は敵として登場してくるのです。しかし、この譬えの後、主イエスのこのような言葉が後に続きます。「・・・あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(29-32節)つまり、こういうことです。なるほど、神と相容れない、神の介入の余地のない、そのようにまさに神に敵対してい歩むわたしどもには、だから思い悩みがある。今どんなに素晴らしい、恵まれた人生を歩んでいると思えても、一瞬にして一切が愚かとなるあの一点!だが、その一点、それは、全く逆から見れば、つまり、この主イエスから見れば、この信じるという生き方からは、それは今どんなに惨めで、辛い困難な人生を歩んでいるのだとしても、そのわたしの惨めさも辛さも本当に喜びに満ちた、豊かな人生となる一点があるのです。その一点を主イエスは指し示すのです。神からわたしに歩み寄り、和解し、わたしを伴っていく一点を。すなわち、十字架を!
  十字架とは、この一人芝居をしてしまう、自分で自分の主人になろうとするわたしが砕かれることです。ルターはもっと端的に、我々は日々死ななければならない、と言うのです。死ぬ者、神に、キリストに打ち砕かれた者こそ生きるのだ、と。つまり、このわたしが打ち砕かれた時、つまり、神がわたしの敵となる時、そうしてわたしが死ぬ、死ななければならない時、つまり、一人芝居をいやでも止めなければならない時、しかし、そこでこそ真に暴君、情け容赦のない「裁判官や調停人」ではない、真の神、憐れみの神、このキリストが、わたしと共にいる神が、わたしの命がそこにこそある、おられる。「必要なことをご存じである」神、わたしの「裁判官や調停人」ではない、愛する神が!このキリストに実は本当にわたしが生かされている、わたしが生きているのではなく、わたしは生かされている。
  主は、こうわたしたちに呼びかけてい給うのです、「そんな無意味な人生は愚かだと思わないか。あなたのプシュケー、人生、魂、命はそんな無意味なものではない、あなたの人生はそんな無駄なものではない。死を貫いて、あなたと共にあるものがあなたにあるのだから・・・・・・」。だから、まさに「今夜、お前の命は取り上げられる」、だが絶望しない、いやそれどころか、そのような限りある人生だからこそ、そのままに、あるがままにこのお方にことごとく生かされる、まさに全能の神がわたしの全てを支配しておられることに委ねて、信頼して生きていくことができる、そのような一点、真の命が誰にもある、このキリストにおいて、全ての人に今やある。「今夜命が取られる」、だが「今夜命が与えられる」!限りあるこのわたしが、そのままに、あるがままに生かされる!何故なら、ことごとく、この命、このわたしのプシュケー、わたし自身は一切、主のものだから!主イエスをわたしの人生のパートナーとしていくとは、そいうことなのです。そのような力が、わたしの力ではなく、主イエスの十字架を通して、わたしの中に必ず起きてくるのです。

2004年8月1日 聖霊降臨後第9主日 「目覚めよ」

詩篇第2篇

 
説教  「目覚めよ」  大和 淳 師
 「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか」。この詩編第2篇は、そのように国々が「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」と語っています。それは、まさしく人間の歴史が繰り返してきたことです。「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」、わたしたちは、歴史の至るところで、こういう声を聞いてこなかったでしょうか。そして、それはまた今のこの時代にもあがる声でもある、そう言っていいでしょう。それは単に「地上の王」、「支配者」と呼ばれるような人だけではない、「人々は」とまた言われているように、「地上の王」「支配者」でもない者もまた、この地上での生活、自分の生そのものに「かせ」を感じ、「縄目」を負っている、と、いや、むしろ、そのように力のない者、弱者であれば、あるほど、その「かせ」は、その「縄目」は重く、二重、三重にのしかかってくる、それがわたしたちの実感です。この詩篇が聞く「国々の騒ぎ立ち」、「むなしい声」とは、まさしくそのようなわたしたちの声なのです。
  そのわたしたちの「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」、そこにあるのは、こういうことです。ただ、その支配者と、弱者である者との違いは、それを「はずし」、「投げ捨てる」ことができるか、否かである。力を得る、力を持っているとは、その「かせ」が軽くなっていくこと、はずれていくこと、「縄目」がほどけていくことであるかのように、あたかもそうであるかのように、わたしたちは考えている。そのように、この世は成り立っていると。だから、この世の底の中に生きている人ほど、下にあればあるほど、その「かせ」は重くなり、「縄目」はますますきつくなる、全くそのようである、と。したがって、人々は、あいもかわらず、「下」から「上」へ、力のために、「王」、「支配者」へと、その目を向けていくのです。何故なら、わたしたちには、絶えず、

この生に対する「かせ」、「縄目」があるからです。
  ある人はとっては、現実の「貧しさ」が「かせ」となる。その「かせをはずす」ことは、したがって、富を得ること。地位のない者は、それは、地位であり、したがって、かせをはずすことは地位を得ることに他なりません。病気もまた、そのような「かせ」、「縄目」として、わたしたちを縛ってきます。不幸であること、能力に欠けることも。いや、富に恵まれ、地位もあり、健康であり、幸福であったとしても、たとえば、人間関係の煩わしさが、「かせ」になり、「縄目」にもなります。時には、私たちの安らぎであるはずのもの、家族や友人さえ「かせ」になり、「縄目」にもなる。本当に自分の生きがいに感じていることさえ「かせ」「縄目」になってしまう。そのように二重に三重に「かせ」がはめられ、「縄目」に縛られている、その最大の「かせ」、「縄目」とは「死」であることは言うまでもありません。死の「かせ」がある限り、わたしたちが所有していく一切のものも、また「その「縄目」となるのです。聖書は言います、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6章23節)、すなわち、罪の「縄目」は死であると。死は、わたしたちから、一切を奪う。それ故、死は、それまで結んでいた生のきずな、親子であれ、夫婦であれ、友人であれ、そのように、わたしの支えであったはずのものを一切切り離し、わたしたちを不安と孤独に陥れます。だから、頂点に立つ「地上の王」、「支配者」さえ、「かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」とするのです死、わたしたちの最大の「かせ」、「縄目」、たとえ、どれほど、偉大な王であれ、支配者であれ、この死の「かせ」、「縄目」からのがれることができない、詩編はそこに立っているのです。
  この詩篇は繰返し、二度も「なにゆえ」「なにゆえ」と問いかけています。この死の現実を見ないこと、そのことの「むなしさ」、愚かさ、「なにゆえ」それに気付かないのか、と。何故なら、それは、まさしく「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」ことに他ならないのだ、と。わたしたちは、この詩篇の冷めた眼に驚かずにはいられないのではないでしょうか。そのような「かせ」、「縄目」を前にして、彼は落ち着いています。いわばこの詩編は、まさしく死を前にして、独り立ち、目覚めています。そして、「目覚めよ」と呼かけています。
  わたしたちが「騒ぎ立つ」、「構え」「結束する」、それは、その「かせ」、「縄目」を恐れているからです。わたしたちの眼には、それはわたしたちを圧倒し、打ちのめす、恐るべきもの、忌まわしきもの、そのようにしか見えないのです。いや、その「かせ」、「縄目」が、そのようにわたしたちの眼を塞ぐと言っていいでしょう。しかし、この詩人はひとり目覚めて、そのわたしたちの眼が決して見ない、見えないものを、その「かせ」、「縄目」の中に見ているのです。それは、「天を王座とする方」です。詩篇は、その冷めた目で「かせ」、「縄目」の中に「天を王座とする方」を見るのです。そのお方とはどんな方なのか。詩編は言います、「天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り/憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。」(4-5節)
  それは、わたしたちの「かせ」、「縄目」、即ち、「死」を前にして、笑い給う「神」、死を嘲り給う神、死に対し、憤り、怖れさし、怒り給う神なのです。したがって、既に死に対して勝利し給う神です。それが、わたしたちの神、主であり給うのだ、と言うのです。そして、それこそ、わたしたちが最も驚き、そして畏れなければならないと言うのです。それ故、この神が宣言し、なし給うことを、わたしちは聴き、そして従わねばならない、と。
  その神の宣言し給うこと、そして、なし遂げ給うことを、彼は7節以下に記していきます。そして、この7節で、突然「主語」が「わたし」に変わります。詩篇が、そのように落ち着いている、冷めている、目覚めている、それは、このように、まことにこの「わたし」と言われる方、「主の定めたところに従う」、「主が告げられる」、「わたし」、その方が、彼と共に立っているからです。この神が宣言し給う、それ故、ご自分の意志をなし給うとき、その時、この「わたし」と言われる方がおられる、その「かせ」、「縄目」の中に。そのお方が、わたしたちの代わりに、笑い給う「神」、嘲り給う神、憤り、怖れさし、怒り給う神の前におられ給うのです。そのようにして、この方は、神と共にあり、そして、そのようにして、我らと共にい給うのです。
  その「わたし」というこの方に向かって、主は「お前はわたしの子 今日わたしはお前を生んだ」と言われます。これは、もともと王の即位の言葉です。主なる神は、この方に、その全権を与え、委ねたということです。そのようにして、今や、この方が、主なる神の代わりに、わたしたちの前に立っておられます。「主なる神の代わりに」です。わたしたちの主として、です。そして、「求めよ、わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く」。しかし、わたしたちがここで忘れてはならないことは、たとえわたしたちの眼に、あの「かせ」、「縄目」がどれほど大きくうつろうとも、この方が、その真実の支配者であるということは、その「かせ」、「縄目」からまたわたしたちを解き放つ方であるということです。死の「かせ」、その「縄目」から、わたしたちを解放するお方であるということです。この「わたし」、そのお方、即ち、イエス・キリスト、主イエスがどのようにして、その「かせ」から、わたしたちを切り離し、「縄目」をほどいて下さったのか。それは、この方ご自身が、自らその「かせ」を負い、「縄目」につかれたのです。わたしたちのために。そのようにして十字架につかれた方、この方は、自ら、その「かせ」を負い、「縄目」につかれ、苦しみ痛んでわたしたちの代わりにこの神のみ前に立って下さっている。そのようにして、この方は、ご自分の支配を確立されたのです。
  それは、こういうことです。わたしたちが、最早どうにもならない「かせ」、束縛する「縄目」、その中で、即ち、死を前にして、本当に孤独であるとき、しかし、そこにも、この方の支配は及ぶのです。どのように、死が、わたしに「かせ」をはめ、どれほど、頑丈に「縄」をもって、縛りつけようとも、わたしは、最早独りではないということです。その「かせ」、「縄目」はわたしを縛ったままではないということです。最後に笑うのは死ではなく、この方、そしてこの方と共にいるわたしたちであるということです。それ故、騒ぎ立つことなく、虚しい声をあげることなく、本当に落ち着いている、冷めている、目覚めていることができる。
  何と言っても、この方において、主なる神は、その死に対して笑い、嘲り、憤り、怖れさせ、怒り給うのです。この方をよみがえらせ給うのです。そのようにして、十字架と復活によって、「鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕」き給うのは、わたしたちの「かせ」、「縄目」、死です。それ故、パウロは叫びます、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15章55節)と。
  同じようにこの詩篇は呼かけます、「目覚めよ」と。勝ちどきの声を挙げます、「喜び躍れ」と。わたしたちを今も苦しめる「かせ」、「縄目」、しかし、それは、最早わたしから何も奪うことはないのだから、と。詩編は呼びかけます。目覚めよ、と。それは言い換えれば、こういうことです。自分を苦しめる「かせ」、「縄目」がある、しかし、それらによって決して自分自身を失ってはならないし、またあなたは失うことはないのだ、ということ。それ故、パウロと共にわたしたちもまたこう言うことができるのです、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4章2節)そうです、わたしたちは大胆にこういうことができるのです、自分を苦しめる「かせ」、「縄目」、そして、死!だが、見よ、キリストこそが今やわたしである。わたしが苦しめば苦しむほど、わたしの中のキリストは生きる、生きているのわたしではなく、わたしの中のキリストである!
  みなさん、たとえ、どんなに重い「かせ」、きつい「縄目」を負っても、今日の「主日の黙想」にも書きましたが、不如意、まったく自分の思いどおりにならない中にあってもわたしは自由であるということ。むしろ、「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」とすることは、ただ自分中心・自分だけの世界、他者不在、わたしだけの世界、他者をはずし、隣人を投げ捨てるのです。そうしてわたしどもは、またわたし自身そのものを失っていくのです。わたしを支えるものを。
  確かにみなさんはそれぞれ実際に様々な「かせ」、「縄目」を負って、その中にいます。その中で痛み、時に大きな心の傷を受けているのです。悲しい、つらいことでしょう。しかし、その傷が本当に癒されるには、ただ一つの方法しかありません。それは自分の「かせ」、「縄目」の中で、ただわたし自身は無力になって、他の人の「かせ」、「縄目」を、他者の痛みを、他者の傷を知る、ただそのことを通してのみです。自分の「かせ」、「縄目」の中で、他の人の悲しみに目を向けることのよってのみ、わたしたちのその悲しみ、痛みは癒されていくのです。
  (週報にもお断りしましたが今日は本来「平和の日」としてまもろうとしたのですが)アメリカの平和運動を続けている9・11犠牲者遺族の会「ピースフル・トモロウズ」のディビット・ポトーティさんという方、彼もまたあのビルで肉親を失ったのですが、来日し、各地で講演されました。そのポトーティさんはこういうことを語っているのです。「9・11で死んだ私たちの愛する人々の死は世界で毎日殺されているたくさんの人々の一部に過ぎないと思います。軍隊は私たちを守ってくれない。そうであるなら、私たちはともに生きるしかありません。私たちは『米国は善良で強大な国家だ』という妄想を捨てなければならない。米国人の多くは恐怖に支配されているために、こうした考えに立てませんでした。そしてアフガンへの爆撃を支持し、『愛国法』を支持し、不法なイラク爆撃を支持しました。恐怖と不安による暴力で報復することで、更なる恐怖と不安、暴力を生み出しました。
  しかし、この間、私たちの言葉と思想には力があることも学びました。人間的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うことで、大きな力が生まれることも知りました。私の母は事件の直後に『息子の死で、私がいま味わっている悲しみを世界の他の人々に決して味あわせたくない』といいました。彼女は世界の人びとの悲しみに目を向けることで、自分の悲しみを癒したのです。この訴えを広げる中で、同じように考えるピースフル・トモロウズの他のメンバーと知り合いました。私たちは、どんなときでも、どんな理由があっても、殺戮はいけないということを学びました。私の国がアフガニスタンやイラクにやっていることはあの国にも、また攻撃した側の米国の兵士にも10年も、20年も後遺症を残します。彼らは怒りを体の中に抱え込んで生きていくのです。
  ・・・テロは本当の問題の現象にすぎません。私たちが本当に闘うべきものはテロではなくて、帝国主義だとか、物質主義だとか、軍事主義、愛国主義、そして自分の命は他のものよりずっと価値があると考えるような思い込み、それらと闘わなくてはなりません。」
  ポトーティさんたちは、いわば自らの「かせ」、「縄目」を負うことで、「人間的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うこと」によって、共に生きる喜びを得、そしてその喜びを分かち合うために闘っておられるのです。パウロは言います、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテア5章1節)。「軍隊は私たちを守ってくれない」!そうです、力によって自分を失ってはならない。いや、あなたはどんな「かせ」、「縄目」の中にあろうと、自分を失うことはない。自らの「かせ」、「縄目」の中にこそ、主イエス・キリストはおられるからです。