2009年7月26日 聖霊降臨後第8主日 「死の傍らに命が始まる!」

マルコ5章21節~43節

 
説教  「死の傍らに命が始まる!」  大和 淳 師
さて、イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大群衆が彼の所に集まって来た.そして彼は海辺におられた。
すると、会堂管理人の一人で、ヤイロという名の者が来て、イエスを見ると、彼の足もとにひれ伏した.
そして、しきりに彼に懇願して言った、「わたしの小さい娘が死にそうです。どうか、おいでになって、手を置いてやっていただき、娘がいやされ、生きるようにしてください」。
そこでイエスは彼と共に行かれた.大群衆は彼について行き、彼に押し迫った。
そこに十二年間も血の流出を患っている女がいた。
彼女は多くの医者にかかってさんざん苦しめられ、持ち物を使い果たしたのに、何の効果もなく、かえって悪くなる一方であった。
彼女はイエスのことを聞くと、群衆にまぎれて彼の後ろに近づき、彼の衣に触った.
「彼の衣に触りさえすれば、わたしはいやされる」と言っていたからである。
すると直ちに、彼女の血の源が枯れて、彼女はその病苦がいやされたことを体に感じた。
イエスは直ちに、力がご自分から出て行ったことを感じ、群衆の中で振り向いて、「わたしの衣に触ったのはだれか?」と言われた。
弟子たちは彼に言った、「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っているのに、『わたしに触ったのはだれか?』とおっしゃるのですか」。
イエスはこのことをした女を見つけようとして、見回された。
その女は、自分に起こったことを知って、恐れおののきながら、彼の前に出てひれ伏し、ありのまますべてを彼に告げた。
イエスは彼女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたをいやしたのです。平安のうちに行きなさい.あなたの病気は良くなりました」。
イエスがまだ話しておられる間に、人々が会堂管理人の家から来て言った、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすこともないのですが?」
しかし、その言が耳に入ると、イエスは会堂管理人に言われた、「恐れることはない.ただ信じなさい」。
そして彼は、ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほか、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
そして彼らが会堂管理人の家に入って行くと、人々が取り乱して、泣いたり、わめいたりしているのを、イエスは見られた。
イエスは中に入って、彼らに言われた、「なぜ取り乱して泣いているのか? この子供は死んだのではない.眠っているのだ」。
すると人々は彼をあざ笑った。しかし、彼は人々をみな外に出し、子供の父と母と彼の供の者たちを連れて、子供のいる所に入って行かれた。
そして子供の手を取って、彼女に「タリタ、クミ!」と言われた.それは、「少女よ、わたしはあなたに言う.起きなさい!」という意味である。
すると、直ちに少女は起き上がり、歩き回った.彼女はすでに十二歳であった。彼らは非常に驚いた。
イエスは彼らに、だれにもこのことを知らせないようにと厳しく命じ、彼女に何か食べる物を与えるようにと言われた。

 主イエスの一行は、会堂長であるヤイロ、その彼の死にかけた娘を救うべく彼の家へと、その道を急いでいました。ところが、ひとりの女性によって、その主イエスの足は止まってしまいす。「十二年間も出血の止まらな」い、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」、そんな人生をまさに12年間苦しみ続けたその女性が、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」のです。「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」。すると、「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。」そうしてイエスはそこにそのまま立ち止まってしまいます。そこでイエスに癒されたこの人は「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話し」ました。その彼女に主イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」、そう命じられます。だがその後もイエスはそこに立ち止まってなおもまだ、この女に語られていたのです。主イエスはそこに立ち止まり続られた。主は、このひとりの女のために惜しみ無く時間をおさきになります。まるで彼女が苦しみ続けた12年間の年月を取り戻されるかのように。その命を慈しむかのように。イエス、このかたは、福音、命をもたらすおかただからです。

  しかし、それは一方で、待たされているこの道を急ぐヤイロをはじめどんなに周囲の人々をやきもきさせたことでしょうか。わたしたちにもこのヤイロの気持ちが良く分かるでしょう。そして、更にわたしどももまた、このヤイロのように、いわばこの主、神に放っておかれたように感じる経験があるのではないでしょうか。「主は、もうわたしのことなど忘れたのではないか」、そう感じる、思わざる得ないときです。そのようなすべてに見捨てられたような孤独に、まさにヤイロはいるのです。イエスは、何かお話しておられます。けれど彼、ヤイロの耳には入らなかったでしょう。案の定、最も恐れていた知らせがもたらされるです。「あなたの娘はなくなりました。このうえは先生を煩わすには及びますまい」。

 イエス、このかたは、福音、命をもたらすお方、その命の使者と、死の使者が路上で遭遇、激突したのです。しかも、死が、一歩はやく、一足はやく少女をとらえたのです。「・・・この上は先生を煩わすには及びますまい」、死は、もう無駄だ、勝ち誇りながら、福音、命の知らせをあざわらうのです。この方の十字架を人々が、すべての者があざ笑い、罵ったように!

  わたしどもの人生の路上で、今もこのように死の知らせが耳元に届けられるのです。「このうえは、主をお連れして煩わせるに及ばない」、所詮、信仰といっても、この死の一歩手前のところでのことだ、と。ヤイロに既に主の語られている御言葉が耳に入ってこなかったように、そのとき、わたしどももまた御言葉、聖書は耳に入らず、その死の声の方がはるかに深刻に、圧倒的にリアルに耳元に響くのです。人は誰もなかばあきらめたように、その死の路上に立ち尽くすのです。

  しかし、驚くのはそのとき、主イエスがお語りになったことです。「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」(36節)この「イエスはその話をそばで聞いて」と訳された原文をそのまま直訳しますと、「しかし、イエスは語られた言葉を聞き流して・・・」、イエスはその死の知らせを〈聞き流された〉のです。このうえは、イエスを信じても無駄である、その声、思わずわたしどもが耳を傾け、そして捉えられてしまっているその声を聞き流されるのです。それが、わたしどもの信じる、わたしどもの主なのです。主は、命の主であり給います。命、福音を告げ知らせ給うおかたです。わたしどもにとって、死の、あの知らせが、既に勝利していると思える時にも、真の命の主であり給うのです。それ故、言われます、「恐れるな。ただ信ぜよ」。

 さて、ヤイロはここで一方から死の知らせを聞き、一方から命のおとづれを聞く板ばさみになります。ちょうどそのようにわたしたちにも自分自身の敗北と悲しみを告げる知らせが刻々と届けられます。御言葉、福音よりもはるかにリアリティーをもって、あのこの世の声、「キリストは、信仰は無駄だ」と言う声が圧倒してきます。たとえどれほどの強い信仰をもっていたとしても、確かに死の知らせは常に一足はやく力をもってくるのです。わたしどもの力ではどうにもならないものとしてわたしどもの足をからめとるのです。誰が、それを聞き流すことができるでしょうか。誰が恐れずにいられるてでしょうか。それを聞き流し、恐れずに信じることができる、それはこの死の力に対して、勝ちえるかた、そのかた以外にないのです。主は言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」。

 このヤイロはそもそもすでにイエスのひざもとに平伏すだけの信仰を持っていました。そのヤイロの信仰は、イエスを連れてきた、イエスを動かしたのだ、と言えるのです。そのようなひたむきさがイエスを引っ張ってきたのです。しかし、わたしども自身の持ちえる信仰とは、それまでなのです。わたしどもの「ただ信じる」とは、そこまでなのです。信仰はただ死のこちら側でしか意味をなさないかのように、死を前に音を立てて崩れていくのです。あの死の知らせと、このいのちの知らせと板ばさみになったとき、立ち往生してしまうのです。今度はヤイロの足が止まってしまうのです。いえ、わたしたちの足はこの死を前にして、そこから一歩も進めないのです。

 死、それは、わたしどもの人生に対する壁のように突然わたしどもの前に立ちはだかります。路上でヤイロを襲ったように。わたしどもは、この壁の一歩手前にいるときに、この壁のこちら側でなら、信じていることもできる。恐れずに生きていられるかも知れない。このヤイロのように。まさにヤイロは会堂長、本来ならイエスと既に敵対している陣営に属するこの人は、しかし愛する娘のために、全てを投げ打って、このイエスの足元に平伏しました。その死によって立ち塞がれる壁の一歩手前までの真剣な努力、その愛・・・。彼のそのひたむきな信仰、その努力、その誠実さ、その愛情、彼は、ぎりぎりまで努力した、為しうる限りのことをしたのです。だが、あの死の知らせ、その使者の言葉、「あなたの娘はなくなりました。このうえは先生を煩わすには及びますまい」それは、「よくやった。だが、ここまでだよ」、そう告げます。そこでわたしどもは信じること、信仰の空しさも感じてしまうのです。わたしどもの生、その無意味さを感じてしまうのです。その限りの人生、信仰であると。どうしても、わたしどもがこの壁を乗り越えることはできないからです。どれほどひたむき、純粋な信仰であれ、この壁を乗り越えることはできないのです。この壁の先は、「このうえは先生を煩わすには及びますまい」、諦めなくてはいけない、もうこれ以上はしょうがないではないか、と。だから、それ故、わたしどもは、この壁の前、死の直前まで、結局どう生きるかである。どれだけ生きたか、ではないか、と。だが、それは結局は、この死の壁、この世の力に押しつぶされているのです。限りある命である。だから、その限り真剣に生きる、精一杯努力する。確かに、それがわたしどもに、究極的に残された生き方でしす。そして、それ自体、本当に困難な、尊い生き方であるでしょう。何故なら、彼の娘が死に至ったときに、もし、所詮もうどうにもならない、どんなに努力しても、自分は駄目なんだ。そういう風にヤイロが考えたとしたら、この出来事は起こらなかったし、彼は、はるか以前に、この世の力に押しつぶされてしまっている訳です。しかし、限りある命である。だから、その限り真剣に生きる、精一杯努力する、その生き方自体もまた、この世の力、死の力に押しつぶされた生き方となるのです。謂わば、この死の壁、その力に駆り立てられてあるに過ぎないからです。この世の力、その支配されているからです。わたしどもは、やっぱりそこで恐れ、恐怖によって生きているのです。この壁のこちら側で、いたちごっこのように、この恐怖と戦っている訳です。

 だが、それから先がある。今やここに転換が起きます。ここから先は、このかたがヤイロを、弟子たちを、わたしたちを連れていくのです。ここから先は、イエスが、わたしどもを引っ張っていくのです。それは、死の克服という事実の前です。「恐れることはない。ただ信じなさい」、その御言葉がわたしどもを伴っていく道がそこから通じていくのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」。主は、ヤイロにそう言われました。「恐れてはならない」、「ただ信じる」。わたしどもは今、このヤイロとともにそのようなイエス・キリストの現実に立っているのです。

 「恐れてはならない」。したがって、この主の言葉は、敢然とこの死の壁を突破するということです。わたしどもが、この壁の手前で、もうそこで終わりだと感じている、そこから先のこと、それはもう、本当に、夢物語、このヤイロの家で、泣き叫んでいた人々が、イエスをあざわらったように、愚かしいこととしか思えない、その限り深刻そのものである。その死の現実が、終わりどころか、始まりである、思いも依らず、そこでこそ「信じる」ことが始まる、全く新しい命の現実が指し示されているのです。それは、このヤイロのように、これまでの努力は全くの無駄、最早何も残らない、そういうこの世の力によって全てが奪われていくその現実の中でなのです。死の支配、この世の力が、わたしどもを根こそぎ押しつぶし、打ちのめすときに、驚くことに、なおそこでわたしたちには信じられるものがある、信じることができると言うのです。いや、そのときに信じなければならないのです。信じることが始まるのです。何故なら、わたしどもは、そこで空手であるからです。そこでわたしどもの手の中に確かなものは、あの死の壁そのものを突破しうる保証、力も何もないからです。

 しかし、主は、泣き叫んでいる人々に言います。「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。それは、あたかもこういうことです。何故深刻なそぶりを見せているのだ、と。わたしどもは、確かにこの世の力、死を目の前で、全く深刻にふるまう、いやそうせざる得ないでしょう。これ以上ない深刻、厳粛なもの、人の死!しかし、一方でまさしくこの40節「イエスをあざ笑った」人々のように、その涙のかわかぬうちに、人をあざわらうような姿がわたしたちの中にもあるのです。何故なら、わたしどもは死を決して、本当には真剣に受け取ることができないのです。それは裏を返せば、生、命を本当には真剣に受け取ることができないということですが、もし、本当に真剣に死を考えたなら、わたしどもは、全く根こそぎ打ちのめされるからです。ですから、わたしどもは、この壁の一歩手前までは、本当に真剣になれます。この壁を忘れられる限り、わたしたちは、あらゆることにおいて真剣に、真実でありうる気がするのです。しかし、一度この壁が、わたしどもの前に塞がると、信仰でさえ、真実に思えず、真剣になれなくなるのです。そして、この壁の前で、真剣であり、真実であるのは、ただこの力に、ただ無考え、無反省に隷属していくことです。どうせ、こんな世の中だから、そうして、人はまた命がけにもなれるのです。それこそ、戦争に行くし、権力争い、憎しみ合いのために命まで捨てるのです。死の法則に従っているから、その時にだけ、真剣である、真実であるように思えるのです。そのように、わたしどもの深刻さは、あのこの世の力、死の力そのものに押しつぶされているからです。決してあの壁を乗り越えることができないと信じているからです。ただこの世の力、その支配に、隷属しているに過ぎないからです。諦めている、仕方がない、そういう風にしか、死を、したがって生を、命を大切に考えられなくなっているからです。

 しかし、わたしどもは、真実の涙、本当にただ一人、深刻に死の事実と戦ったかたの涙を知っています。他ならぬこのかた、イエス・キリストご自身であります。ゲッセマネでの、あの十字架を前にしての祈りの真実であります。そのとき、誰も、この方以外に起きていることができなかったと言います。眠ってしまった弟子たち、わたしどもの不真実、眠っている現実・・・。そして、十字架、このかたの死。そして、復活。それは、この御方だげが、この死の支配のもとで、真実に戦い、ご自分のものとし、そして、突破された、ということです。だから、この御方によって担われているからこそ、わたしどもの死は、「ただ眠っているだけである」となるのです。この御方は命にお向き合うお方だからです。「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」、それは、したがって、誰よりも真剣に死を担われ、しかし、そうして命を担われるお方の言葉、事実なのであります。そして、ただ一人、あのこの世の力に勝利されたお方の言葉なのです。しかし、この世の力に屈服し、押しつぶされ、本当にはその恐ろしさを知らない人間にとっては、むしろ全く不真実なものに見えます。一かけらの深刻さも感じないからです。わたしどもと一緒に、死に突っ伏していないからです。この方だけが命に対して本当に真実、真剣であり給うからです。

 そうして、「少女よ、起きなさい」。それは、さしずめ「さぁお嬢ちゃん、起きなさい」と言うことです。「少女よ、復活せよ」とか、大仰な言葉ではなく、全く平凡な、そう、母親が、朝そっと自分の子供を起こすような日常の言葉であります。そして、起き上がった少女のために「食物をあたえるように」と言われます。まさにそこは日常生活そのものです。復活、それはキリスト教信仰において、秘義の中の秘義、そう言えるかも知れません。それ故、この出来事の前に「ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを許されなかった」のです。しかし、そこで現出する世界は、全くのわたしどもの日常そのものの世界であるのです。復活は、まさにわたしたちのこの日常生活そのものの中にもたらされるのです。

 「恐れるな。ただ信ぜよ」。わたしどもが、この主の言葉を聞くのは、したがって、このわたしどものこの日常そのものの中で、であります。わたしどもが、あの壁の前で、ゲッセマネの園で眠りこけている弟子たちのようなこの生活のただ中で、であります。それはこういうことです。既に、わたしどものこの平凡なこの生活、食べ、飲み、寝る、働く、この日常の行為、わたしどもが日々繰り返し、時に無意味にも思えるそれは、もはやこの死の力、この世の力に呪われたもの、支配されたものではないのです。この御方によって、新しい命そのものへ踏みだしているのです。この方の苦しみ、十字架と復活に支えられているのです。

 それ故、ヤイロは、あの死の路上で、決して放って置かれていたのではなかったのです。彼にとってはすべては徒労に思えたその瞬間も、人生の空白のように思えたその苦しみ、悲しみも、その一切は決して無駄とはならないのです。既にこのお方がそれら一切を受け取り、引き受けてくださっているのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」とはそういうことです。そのことは、また「十二年間も出血の止まらな」かったこの女性にも起きたことなのです。彼女の「十二年間」、「ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけ」、それが彼女の人生のすべてではなかったのです。いいえ、あなたが、あなたの人生をそのようにまさに感じる、あの死の知らせが、一切は最早無駄である、そうわたしたちに語る時にこそ、この方の声はわたしたちを招くのです、命へ、命へと。「恐れるな。ただ信ぜよ」、何もないが故に、「恐れるな。ただ信ぜよ」、そこから命の道が始まっている、この方に導かれて、従いつつ歩むわたしの命の道が始まるのです。そうです、ヤイロも、この長血の女にも、そしてあなたにも今既に復活が起きているのです。真に死の傍らに命が始まる!このお方があなた、その命の傍らにおられるからです!

2009年7月19日 聖霊降臨後第7主日 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」

マルコ4章35節~41節

 
説教  「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」  大和 淳 師
その日の夕方になって、イエスは彼らに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスが舟に乗っておられるのを、そのまま連れて行った.他の舟も彼と一緒であった。
すると大きな突風が起こって、波が舟に打ち込み、そのために舟は水浸しになりそうであった。
ところが、イエスはともで枕をして眠っておられた。そこで、彼らは彼を起こして言った、「先生、わたしたちが滅びても構わないのですか?」
イエスは目を覚まして、風をしかりつけ、海に「黙れ! 静まれ!」と言われた。すると風はやんで、大なぎになった。
イエスは彼らに言われた、「なぜそんなに臆病なのか? 信仰のないのはどうしたことか?」
彼らはひどくおびえて、互いに言った、「この方はいったいどなただろう.風や海でさえ彼に従うとは?」

 今日の福音書は主イエスが嵐を鎮め給うたという出来事です。聖書は、この弟子たちが夜、湖を舟で渡っていて、突然嵐にあった、しかし、イエスがそれを一言で鎮めたというこの不思議な出来事を通して、一体、何を伝えようとしているのでしょうか。それは単にイエスは嵐を静めることができる、そういうことを聖書は私たちに伝えようとしているのではありません。あるいは、何か人生の困難に直面した時、神に頼れば切り抜けられるというようないわば便法のようなものを語っているのでのありません。そうではなく、嵐を鎮めるという出来事を通して、聖書はわたしたちに対して今もこのキリストはどのようなお方であるのか。わたしたちの人生の根本的意味を、わたしたちに伝えているのです。そのように、この福音書の語るところを見ていきたいのですが、それは「さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、『向こう岸へ渡ろう』と言われた。そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。」(35、36節)、そのように始まります。既に日が暮れている。その夜の暗闇の中へ舟が漕ぎ出されていきます。「すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。」(37節)そこで弟子たちは、思いがけない危機に直面したのです。

  この弟子たちは漁師でした。つまり、海について誰よりも知っている彼らであったのです。だから、主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われたとき、彼らはすぐさま「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」と言えるでしょう。しかし、「すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」。それで、そもそも、ことここに至るまで、ペトロをはじめ、弟子たちは、イエスの存在を忘れていたのではないか。漁師の彼らにとって、舟の中、それは、まさに彼らの生活そのものと言っていい訳ですが、海に関する知識、技術、経験を持っている彼らには、イエス、先生は忘れていい、何の役に立たない無用の存在でしかなかったのではないかということです。そうして「イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた」(38節)。
 しかし、突然の嵐に漁師の彼らは、自分たちが直面している事態から、どのような恐ろしい結末が起こるのかを直感した。「そこで、弟子たちはイエスをおこして、『先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか』と言った。」(〃)何と言ってもわたしどもは、この物語で主イエスが、「風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」(39節)、そのことに目をやり、驚いたり、また訝しんだりするわけですが、しかし、そもそもその嵐の中で、「舳の方でまくらをして、眠って」いたと記されていること自体、何よりまず驚くべきことなのではないでしょうか。実際誰も嵐の海の中、沈みかけている舟の中で全く眠っていることなど出来ないはずです。誰もが助かろうと懸命になっている。必死に闘っている。ところがあろうことに、このお方は無神経にも眠っておられた。みなさんも経験があるでしょう。もう切羽詰まって、どうしてよいか分からない、そういうようなとき、その傍らに我関せずとばかりにしている人がいたら、腹が立つ。何だ、この人は!と。弟子たちもまさに、そのように主イエスに腹を立てているわけです。
 しかし、ここでこそ何より、最も大事なことを、福音書は我々に告げています。それは、単に主が嵐を鎮めることが出来たということより、もっと大事なことと言えるかも知れません。それはこういうことです。ここで弟子たちが自分たちの身に及んだその危機の中で、そのように怒って訴えることができる方がいるということ自体、既に彼らには希望があり、救われているのです。つまり、彼らは決して孤独ではない。何で自分たちがこんな苦しまねばならないのか、まことに腹ただしい、恨むような思いであっても、その苦しみのそこから見つめることのできる、それどころか、それまで全く眠るままにしていた、無用の存在としてたにもかかわらず、こうしてくってかかることの出来る方が既におられるのです。(イエスと弟子たちとどちらが無神経なのか、わたしたちは考えずにはいられません。)

 さて実は聖書の中で「眠る」ことは、特に旧約聖書では多くの場合、死に関わっています。そしてここでのイエスの「枕して」は、わたしたちが直ぐ想像するように、安らに寝入っている様を表しているというより、イエスは完全に横になっていた、そこ、舟の後ろの方で頭を横たえていた状態をそのまま表現し伝えているとも言えます。つまり、言葉を換えて言えば、全くの無力でおられた、もっとはっきり言えばイエスは死んでいる、死んだも同然の状態であったということを暗示しているのです。それは、また弟子たちがそのようにしたと言えるわけですが、まるで墓の中にあるように横たえていた、と。弟子たちの「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」というこのイエスへの非難の言葉、弟子たちの叫びは、そのイエスの無力、死が、まさに自分たちの滅びに関わっているということを言い表しているのです。
 と言うのも、この「おぼれる」と新共同訳聖書が訳しているもともとのギリシャ語は、本来、滅びる、死ぬ、消滅するという意味の言葉で、たとえばヨハネ3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とこの「滅びる」と同じ言葉です。あるいは、マルコ8章35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」の「失う」、また3章6節では「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」という「殺そう」と訳されています。昔の文語訳聖書は「師よ、われらの亡ぶるを顧み給はわぬか」となっていました。つまり大変強い表現を聖書はここで使っています。ここでイエスの眠りとは、彼ら自身の滅び、死に関わっている、そう言い表されているのです。ですから、彼らは、そこで苦しいときの神頼みのように「助けてください」と願ったというのではないのです。キリストの無力に耐えられなくなって「我々が滅んでもかまわないのか」、なりふり構わずそう訴える。真に福音書は全く赤裸に人間の姿を描き出しているのです。それが、十字架を前にしたわたしたちの等しい姿である、と。
 ここでわたしたちが聴くのはこう言うことです、夕方、すなわち、暗闇のとき。そして嵐、荒波。沈みかける舟。すなわち、滅び、死。つまりそれはそのまま私たちの現実なのです。ところが4章1節以下によれば、この弟子たちは、「神の国の奥義」を既に聞いていたのです。そうです。私たちと同じようにみ言葉を聞いてきたのです。いわば、その礼拝からこの世へと、自分たちの生活の中へと出ていったのです。イエスと共に!
 だから、ここで大事なことは、わたしたちがイエスについて何かを、教義、聖書の教えを納得している、知っているということではない。ただ、このイエスがこのわたしという舟、現実の中に、信仰のないままに共におられるということなのです。しかし、そのイエスこそ、まさに十字架で死なれたキリストなのです。わたしたちは既にその十字架のイエスと共にいるのだ、そういうことです。だから、苦しみの中でイエスは眠っておられる、少なくともわたしたちの眼にはそうとしか見えない。いや、実は、わたしたちがそうしたのです。だあから、イエスと共にいるということはだから、イエスと、神と共に生きるということは、何も人生に重荷がない、教会の中に問題がないということではない。むしろ、問題がある、しかしそこにこの十字架の主がおられる。
 それで、弟子たちの叫びに〈イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。〉(39節)この起きあがると言う言葉も、実はまさに復活すると同じ言葉が使われています。そして、ここでもわたしたちは、この海ということに特別な意味が聖書にあるということを読みとらなければなりません。旧約聖書において、荒れる海、嵐の海は、神の怒りを象徴しました。旧約聖書の中のヨナ書では(これも不思議な物語ですが)、神の怒りをかったヨナは海に捨てられることによって、嵐、波が収まった、そのように、この方イエスもご自身を捨てて神の怒りを収め給うのです。眠っておられたとは、実はそのように全くご自身を捨ててわたしたちの中に、共にいるということ、 まさにいつもわたしたち一つ一つの舟が重荷を抱え、大きな問題を担っているのです。しかし、問題がないこと、重荷がないこと、苦しみ、悲しみはないこと、それが平安ではないのです。むしろ、わたしの重荷、苦しみ、悲しみを通してじっと耳を傾けるものがある、そこに十字架の主がおられる、それが、わたしたちの人生なのです。
 だから、わたしたちが、また人生の嵐に遭うとき、この弟子たちのように、主イエスが眠っておられるのを見る、つまり、この人生の真ん中で「イエスよ、わたしたちが滅びてもかまわないのですか」、そうわたしが叫びたくなる、叫んでしまうようなとき、それは、そもそも、わたしたち自身がまた、この弟子たちのように、この方が共にいてくださるのに、この方をただ心に留めていなかっただけ、忘れ去っていただけ、中心ではなく片隅に追いやっていたのです。そうして、わたしどもは、この方を十字架につけたのです。そのようにして、このイエス・キリストは、わたしたちの苦難、滅びの中で、わたしたちのために十字架にかかっておられるお方なのです。
 イエスは言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」これは聖書の私たちへの問いかけです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」あなたがたが、ここから自分の生活に出ていく、そこに共におられるのは誰か。この週も、私たちは嵐に出会うかも知れません。イエスよ、わたしたちが滅びてもかまわないのですか、そう叫びたくなることが待っている。わたしたちのこの眼には、もう滅ぶしかない、それしか写らない。でもあなたには、あなたのためにご自身を棄ててまであなたと共におられる、十字架の主が共におられるのだと。力強くあなたと共に。だから「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」、わたしたちにそ語りかけてくださる、この主の言葉を心に刻んで重荷、苦しみ、悲しみの中を歩み通していけるのです。

2009年7月12日 聖霊降臨後第6主日 「芥子種のわたしだから」

マルコ4章26節~34節

 
説教  「芥子種のわたしだから」  大和 淳 師
イエスはまた言われた、「神の王国はこのようなものである.ある人が地に種をまき、
そして夜昼、寝起きしていると、その種は芽を出し伸びていくが、どのようにしてそうなるのか、その人は知らない。
地は自ずから実を結ぶのであり、初めに葉、次に穂、次に穂の中に十分実った穀粒ができる。
しかし実が熟すると、直ちに人はかまを入れる.刈り入れ時が来たからである」。
イエスはまた言われた、「神の王国をどのようにたとえようか、またどんなたとえで言い表そうか?
それは一粒のからし種のようなものである.それは地にまかれる時、地上のどの種よりも小さい。
それがまかれると、伸びてどの野菜よりも大きくなり、大きな枝を出して、空の鳥がその陰に宿ることができるほどになる」。
イエスはそのような多くのたとえで、彼らの聞くことができる力に応じて、御言を語られた.
彼はたとえによらないでは、何も語られなかった.しかしご自分の弟子たちには、ひそかにすべての事を解き明かされた。

 マルコ福音書の4章には主イエスの譬話がまとめて記されていますが、今日の日課は神の国が成長する種にたとえられています。今日は特に後半の譬、30節以下の「からし種の譬」を中心にみ言葉を聴いてまいりたいと思うのですが、「神の国を何に比べようか。また、どんなたとえで示そうか」、主イエスはまずそう言われます。

 さて「神の国を何に比べようか。また、どんなたとえで示そうか」 ― 恐らく主イエスはそう切り出されて、そしてここでいったん言葉を切られたのでしょう。イエスは静かな間を置いて、そうしてしばらく聴いている弟子たちや人々をじっと見つめられておられる ― そんな光景が浮かんできます。そして、その主イエスに耳を傾けている人々も、今や神の国が、どんなものにたとえられるのか、また、かたずをのんで主を見つめていたことでしょう。

 そのそこにいる人々、それは様々な苦しみをもった人々でした。たとえばこの後5章25節に登場する「十二年間も長血に苦しめられていた」女性、あるいは、エルサレムの神殿で、全財産の「レプタ2枚」を捧げたやもめのような境遇の人がそこにいたことでしょう。またレビのような徴税人として誰より蔑まれていた人々もいたでしょう。そして、病や悪霊に苦しむ人々、つまり、そこにいる人々、この主イエスの言葉に耳を傾けているのは「神の国」とはほど遠い、少なくともそう思われ、そして何より自らもそう思っていた人々なのです。それらの人々に、いやそのような人々にこそ主イエスは神の国を語られようとされる、その一人ひとりに、主は神の国を語り給うのです。しかも、最も小さなもの、芥子種として・・・。
 主イエスは、よく吟味し、神の国にふさわしいものとしてここで一粒の芥子種を、地上の中で最も小さい種として、たとえに引かれます。つまり主イエスは、「神の国」を譬えようとされたとき、地上で何より最も小さいものを考えられたのです。何よりも最も小さなものを指し示されようとされた。そうして、真に種の中でも最も小さい、砂粒のような芥子種を選ばれたのです。しかも、最も小さなものでありながら、「どんな野菜より大きくなる」、最も大きなものとしての芥子種なのです。そのようにして神の国を示されるのです。神の国とは何と意外なものでしょう。何と想像もつかないものでしょうか。
 それ故、驚くほかはない神の国なのです。芥子種、わたしどもの目に最も小さく見えるそれは、よくよく注意して見なければ、見過ごしてしまう、なくしてしまうほどの小ささ、今は何の役にも立たないように見えるものなのです。だか、驚くことに、それは、巨大な木となる。
そのように神の国は、わたしどもの前に、わたしたちのうちにある。わたしたちが、気づかず、目にも止めない小さな、もっとも小さなもの、それが神の国なのだ、と・・・。「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」もっとも小さな種が「どんな野菜よりも大きくなる」、あんな小さな種、目にも留めなかったのに、と驚く他ない大きなもの、それが神の国なのだ、と。
 主イエスは、人々を見つめながら語られたのです。誰一人神の国に相応しいとは思っていないそれらの人々を。神の国から閉め出されている、そう思わざる得なかった人々。真に神の国からほど遠い人生、そこにあるのは病、不幸、貧しさ、そして罪深さ・・・何処をどう探しても神の国など見あたらない、このわたしの人生・・・。それがありのままのわたしの人生。だから、このイエスの前にいる人々は、こう思っていたと言っていいでしょう。「神の国、主よ、一体何処をどう探せばいいのでしょう。そのかけらさえ、わたしたちにはないのです」と。
 だが、「神の国」、それは芥子種、わたしたちの眼には見えない程の小さな小さな芥子種、主イエスは慈しみを込めて、その人々に語り給うのです。何一つ相応しくない、全くそのかけらもないかのように見えるこの生活、だが、芥子種、神の国は芥子種、あなたに既に神の国は来ている。あなたの内に既に神の国はある、芥子種のように!と。
 しかし、その最も小さな芥子種、それは何と言ってもこのかた、何よりこの主イエス・キリストご自身ではないでしょうか。このかたは、いと小さきものとして地上を歩まれた方、キリストが世に来ておられることは、地上の最も小さなものであったのです。実際人々は貧しいこのナザレ人、十字架の刑死人が主であり給う事実に、誰も目をくれませんでした。まことに「見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解でき」なかったのです。地に落ちる一粒の芥子種と同じように、誰からも無視され、気にも止められなかったのです。そのようにして、神は、芥子種、即ち、主なるキリストを地上に植えられたのです。神の大いさ、その御心は、最も小さなもの、このキリストを通して、十字架を通して現されるのです。
 何よりこの世は、大きなもの、最大なものに向かっていくことを思います。最大を求めてやまない、そう言っていいでしょう。個人においても、また国家、社会の単位においても。誰もができるだけ大いなる者となろう、あるいは大きなものに目を向けてしまうのです。それ故、今もまた、この芥子種、キリストのいと小ささ、その貧しさを、今も誰も顧みようとはしないのだと言ってもいいでしょう。人は十字架の小ささ、その愚かさにつまづくのです。
 それにしてもこのキリスト、この神はなんと小さなものとなられたことでしょうか。なんと貧しいものとなられたことでしょうか。クリスマスの出来事を思い起こしてみましょう。この主がこの世に来られ給うときのその晩のことを。家畜小屋の飼い葉桶の中のキリストを。ただ羊飼いたちと、三人の異邦の人だけが訪れた、ベツレヘムの片田舎の出来事を。しかし、御使いは天上で歌います。「天にはみさかえ、地には平和」と。そして、何と言っても十字架、主の受難。打ち捨てられたこの神の栄光を・・・・・。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、そう叫んだこれ以上ないみじめな死。最も小さな者となられた神、主イエス・キリスト。 主は、わたしどもにとって、いつも最も小さなものであり給うのです。あなたよりもっと小さなものとなられておられるのです。あなたよりもっと小さなもの、芥子種に。
 そうです、主イエスこそ芥子種、わたしたちの芥子種、そのようにわたしたちの中におられるのです。何故なら、まことにわたしどもが、実際、この世において、真に小さなからし種であるからです。そうです、主は見ておられます、わたしたち一人ひとりを見つめておられます。まことに小さな小さな芥子粒のようなあなたを。ありのままのあなたを。
 だがしかし、わたしたち自身は、実はそのように自分を見ようとしないのです。大木とは言わないまでも、襲い来る嵐や風をしのげる位の安心を得られるような、せめてそれ位の太い幹を持ち、しっかりと根を張り、安らぐことの出来る枝と葉を茂らせるものでありたいとどこかで常に願っているからです。少しでも力を、あるいは数を多くしようと。それは、わたしたちの地位とか才能、能力というようなことだけではありません。たとえば、この信仰と言うことさえ、わたしたちはそのように願い、考えるのです。揺るぎない、強い信仰というように。それがあれば、苦しみなど無い、悲しみもない、平安が得られるかのように。
 しかし、主は見ておられます、わたしたち一人ひとりを、ありのままのあなたを見つめておられます。まことにあなたがたは小さな小さな芥子種。今は何もない小さな芥子種。しかし、そのあなたが神の国、何故なら、私が共にいるからだ。だから、自分の小ささを恐れなくてよい。何もないことに絶望する必要もない。たとえあなたの目には見えず、耳には聞こえなくても、理解できなくても、あなたは芥子種、苦しみを通して、悲しみを通して種は生きている、成長している。「成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 いと小さき芥子種、それは、この主のほかに依るべきものを持たないもののことです。なにもないが故に、この主に愛されるもののことです。最早どうしようもないほどに、救われるすべがないが故に、ただこの主の愛、まことの愛だけが現れるために、もっとも小さなものとして、わたしどもは、この主の前に立っている、生かされているのです。この主のほかに依るべきものを持たないわたしたちなのです。なにもないが故に、主に愛さていれる、そこに、わたしたちの中に神の国は既にあるのです。
 それ故、それはその小さき者であるわたしたち、なにもないわたし、しかし、本当に何もないのではない。たとえ、わたしの目には見えず、耳には聞こえなくても、理解できなくても、まさに27節で「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」、そう語られているように、この芥子種は成長している、わたしたちの中で働いているのだということ。
 だから、何もない、小さなわたしであっても、生きていい、生きていくことができる、ありのままに生きる、つまり、どんなわたしであっても出来ることがあるのです。むしろ、自分がいかほどか出来る人間であると思っている限り、わたしどもは、この主によって今を生かされている、わたしたちの内に蒔かれてある芥子種のことを忘れてしまう、そう言ってもいいでしょう。そして、それはやがて、あれが出来ないこれが出来ない、そのような他者を蔑んだり、あるいは羨んだりしていく生活となってします。でも、キリストはあの十字架を通して、決して失われることなく、ありのままに、何もないわたしと共にいてくださるのです。
 だから、苦しみの中で、決してあきらめる必要はない。悲しみの中で絶望してしまう必要もないのです。自分の不信仰、罪に失望する必要はないのです。いいえ、主イエスはそのわたしの中でこそ、悲しみを通して、苦しみを通して働く、そのようにわたしたちは生かされていく、そのようにしっかりとこの方はわたしたちをつないでくだっているのです。

2009年7月5日 聖霊降臨後第5主日

マルコ3章20節~30節

 
説教    大和 淳 師
それからイエスが家に入られると、再び群衆が集まって来たので、彼らはパンを食べることさえできなかった。
イエスの身内の者たちはそれを聞くと、彼を取り押さえに出て来た.人々が、「彼は気が狂っている」と言ったからである。
さて、エルサレムから下って来た聖書学者たちは、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「彼は悪鬼どものかしらによって、悪鬼どもを追い出しているのだ」と言った。
イエスは彼らを呼び寄せ、たとえで彼らに言われた、「どうしてサタンがサタンを追い出すことができるのか?
もし国が自ら分かれ争えば、その国は立ち行かなくなる.
もし家が自ら分かれ争えば、その家は立ち行かなくなる.
もしサタンが自分自身に逆らって分裂するなら、彼は立ち行かなくなり、滅びてしまう。
だれでもまず強い人を縛り上げなければ、その強い人の家に入って、彼の家財を奪い取ることはできない.縛ってはじめて、彼の家を徹底的に奪い取るのである。
まことに、わたしはあなたがたに言う.人の子らは、すべての罪と、彼らが冒とくするどのような冒とくも赦されるであろうが、
だれでも聖霊に逆らって冒とくする者は、永遠に赦されず、永遠の罪を負う」。
これは、彼らが「彼は汚れた霊にとりつかれている」と言ったからである。

 今日の福音書には、主イエスが「あの男は気が変になっている」とか「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、あるいは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」、「彼は汚れた霊に取りつかれている」、そう言われたということが記されています。「気が変になっている」はともかく、「ベルゼブルに取りつかれている」とか「汚れた霊に取りつかれている」というようなことは、現代のわたしたちには違和感を覚えるかも知れません。それだけで何か非科学的、迷信のように思ってしまう、おぞましいわけです。確かにそうであるかも知れません。それだけ、今日の箇所は難解な箇所の一つに挙げられています。

  しかし、それでは、この聖書の時代、およそ約2千年前の時代、その頃の人々にとって「悪霊」、「汚れた霊」、そして「サタン」という存在がもっと身近にいた、信じられていたと言うことでしょうか。もちろん、こういうことは言えます。この聖書の時代、その舞台はとりわけ砂漠圏の世界ですから、広大な不毛な大地が広がり、そこでは常に死と隣り合わせに生きている、という厳しい環境にあったのですから、否応なしに人間の小ささ、無力さ、はかなさを実感しなければならなかったでしょう。つまり、もはや人間の知恵、力を超えた、しかも怖ろしい、神に反する力が常に自分たちを脅かす、常にそれを身近に実感していた、とは言えるでしょう。かたや、わたしたち現代の人間は、もはや、科学や知識の発展によって、人間以上に優れており、力を持った存在はない、言うなれば、もはや、そういう風に考えている、すべてのことにおいて、そのことが前提となっているわけです。だから、おおよそほとんど科学によって、それはとどのつまり人間によって証明されない、克服し得ないものなど存在しない、だから、人間に理解できないものなど存在しないし、そういうものがあるということは、ともかく頭から馬鹿げてる、そう思うわけです。ですから、「悪霊」、「サタン」、そういうものがわたしたちの心に占める余地はなくなっている、そう言っていいでしょう。いすれにせよ、わたしどもは、この聖書の時代の人々ほど、そういう存在を実感できなくなっていることは確かであり、何かおぞましいものにしか感じない、したがって、いや、そういうものが今もいて、働いているのだ、そういう風にはっきりと断言できることはできないでしょう。第一、「悪霊」とは何か、知ったところで意味がない。もちろん、いつの時代でもそういう存在に熱中する人たちは絶えないのですけれども。しかしながら、だからといって、現代のわたしたちと、聖書の時代の人間とはもはや根本的に違うのだ、そういう風にも言えないのではないか、そう思うのです。と言うのは、この今日の福音書をあらためて考えますと、イエスを「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた、と言うのは、「エルサレムから下って来た律法学者たち」、つまり、宗教家であり、そして、実は、その「ベルゼブル」にせよ、「悪霊の頭」にせよ、よく分からないで言っていることになるわけです。しかし、まず、ここにイエスの「身内の人たち」のこと真っ先にが出てきますが、彼らはただイエスは「気が変になっている」、そう聞いて取り押さえに来た、まずそう記されている。つまり、このイエスの「身内の人たち」や民衆は、イエスが「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」、そんな風に考えたのではなく、実に普通に「気が変になっている」、そう考えて、イエスを「取り押さえに来た」と言うわけです。これは、ある意味で、わたしたちもそう考えることに実に近い、いや、同じ感覚と言えるのではないでしょうか?とは言え、彼らもまたよく分からないでいるわけです。誰も本当にはこのイエスを理解し得ない、あるいは信じ得なかったということです。
 つまり、福音書がここで何より第一にわたしたちに伝えようとしていることは、わたしたちは、わたしたち自身からイエスを理解したり、信じたりはできないということです。と言うのも、この福音書において、イエスが誰か、理解し知っているのは、何とその当の「悪霊」自身だけだと言うのです。この悪霊について福音書は、「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」(1章34節)と記しています。ところが人間は、イエスが誰か、誰も知らないのです。しかし、イエスが誰か知らないだけではなくて、言ってみれば、問題は、それは結局、自分が何ものなのか分からないのだということなのです。何より、自分が何ものなのか分からない、それがここでの根本的人間の姿なのだ、ということ。実は、今日の福音書のイエスのたとえを通してのことば、分かりやすく言えば、それはそういうことを語っている、そう言えるでしょう。そして、わたしたち、この二十一世紀の現代のわたしたちは、自分が何ものか、わたしは誰なのか、この聖書の人々以上に本当に分かっているでしょうか?いったい、わたしたちは誰、あなたは何ものなのでしょうか?実は、分からない、それが聖書の時代であろうと現代であろうと、変わらぬわたしたち人間のありのままの姿なのです。
 だから、たとえば、親は自分の子に対して「自分が産んだ子供だから」と何でも知っているつもりになっていて、そのような眼で子どもを見てしまうなら、挙句の果てに現在だけではなく、将来まで子供が安全であるような保証を求めて、自分で心配を作り出していきます。だから、子どもが自分の思いとは違っていくと、どうしてこんな子に育っちゃったんだろうとか、こんな子に育てた覚えはないとか。そうしてどうすればいいのか、途方に暮れるということがあるわけです。けれども親はただ親だということを忘れているわけです。親は子供を、いわば「作り直せる」力もなければ、子供の将来まで知り、それを保証できる神のようなものでもありません。親として子供のそばに立って、要求されたときにそのニーズに答えることぐらいしかできないという自分の限界を認めることが必要なのです。自分の教育のしかたのために悩み、自分を責めたりすることは意味のないことです。神経質になって、うるさく子供にあれこれさせようと思っても、子供にとってはますます負担になり、子供自身のやりがいを失わせていきます。親にとって子供はたしかに大事な宝ではありますが、それに対して親としての自分の、いわば全面的な絶対的な責任をもつ所有物ではありません。子供は親と違った個性であり、自由をもっているユニークな存在です。子供は人に頼りたいときもあれば、一人でやっていきたいときもあると思います。頼りたいのは、母親だけではありません。父親も子供のそばに自分の「場」を持ち、かけがえのない役割を果たす「責任」がある、そう言えるでしょう。そして、それは実は親子の関係だけではない、夫婦、兄弟、いやもっと広く、ようするに他者に対するわたしたちの根源的あり方であり、もっと言えば、いや、そこで何より重要なのは、神に対する責任なのです。それもしかし、将来まで知り、それを保証できるような絶対的責任と言うより、明日は分からなくてもしかし今このときの限界の中の責任なのです。
 ここであらためて聖書に戻って考えさせられるのは、先に申したとおり、実に「エルサレムから下って来た律法学者たち」、つまり、宗教家がイエスが「ベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」、そう解釈した、そう断定していることです。これは単なる宗教家と言うより、わざわざ「エルサレムから下って来た」、そう記されていますから、言うなれば、権威をもった指導者たちという風に考えるべきでしょう。その彼らは、実に、そういう断定をしたということ。「彼は汚れた霊に取りつかれている」と。最初に、現代のわたしたちには、こういうことに違和感を覚えるかも知れない、そう申し上げましたが、しかし、では、この現代にそういう考えはなくなったのか、というと、そうではないわけです。最近では、たとえば北朝鮮が悪魔の国だとか、その指導者を悪魔呼ばわりするわけです。つまり、自分に敵対する、そして何か計り知れないような力を感じる、その行動が理解し得ないものに対し、そういう断定が働くわけです。あの人は何かに取り憑かれている、そんな風に考えたり、言ったりする。これが国家同士だと、互いに相手を悪魔の手先とみなし、戦争になる、それが今のテロ戦争でしょう。つまり、悪魔とか悪霊をわたしたちが持ち出すのは、結局は自己正当化なのです。何故、自己正当化するのか?自分が分からない、つまり、どう生きるべきか、本当には分からないからです。自分が分かっていれば、どんな相手、状況だろうと、冷静に対処できるはずです。
 一体、わたしたちは何ものなのか?聖書はどうわたしたちに語りかけるのか?それは今日最初に読んだあの創世記3章、いわゆる堕罪後の人間に、「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」という問いを聴き、応えることです。あなたはどこにいるのか、原語ではアイェーカとただ一語、しかし、この一言から神の人間の救済、人間を取り戻す闘いがはじまり、そしてこの一語にすべては尽きていくと言っていいでしょう。それにその時々にひたすら応えていく、それが人間なのです。それ故、創世記では、神はその取って食べるなと命じられていた木から食べてしまった男と女に対して ― 彼らは自己正当化を試み、それによって神ご自身に反発さえるするのですが ― それにも関わらず、いきなり裁いたりされないのです。応答を求めるのです。と言うのも、かたや蛇に対しては、何の弁明も要求せず、応答を求めることなく、その裁き、運命を告げるのです。そして、そのことを一層明らかにするのが、創世記3章21節です。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。なるほどアダムとイブはエデンの園を追われます。しかし、神はその彼らに、自ら衣を作って着せられるのです。それは、彼らが何処にいようとも、どのような苦難にあろうとも、神はご一緒におられるしるし、あなたはどこにいるのか、アイェーカと求めつづけられることを暗示しているのです。そして、人間とはそれに結局その時々の姿で、そまさに罪にまみれた存在であっても、そのままに応えていく存在である、そうあることが許されているということです。そのような責任をもっている、そうあることが許されているのです。
 ところで「責任」というのは英語でresponsibility(リスボンシビリティ)ですが、この名詞はrespond(リスボンド)という動詞から作られていて、その意味はただ「応える」ということです。たとえば親の「責任」というのは子供のニーズに応えることだと思います。子供の代わりになって、何でも考え、してあげる「責任」ではない。そういう意味でも、母親にとって父親にとって「あなた、だれ、何者か」という質問は、自分自身を顧みると同時に、逆に言えば、その問いをもつ限り、その限界の中にとどまるからこそ、必ず新鮮な生きる喜びを与えられるのです。それは他者と出会うわたしたちの根本的あり方です。他者への尊敬と感謝をもつ続けるからです。福音書の中で、群衆は主イエスのわざにしばしば驚き、感動しつつ敬意を込めて「この人は何者か」と声をあげています。しかし、ここでの律法学者は、もはや応答responseではありません。心で受けとめる責任responsibilityを忘れている、失っています。「彼は汚れた霊に取りつかれている」、それは同時に、限界を踏み越えた絶対的責任を追及する、つまり、同時にどこまでも自己正当化を試みる、わたし自身を失った人間の声です。それ故、大変厳しい断言を主イエスはなされるのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。それにしても聖霊を冒涜する者は永遠に赦されない、何故でしょうか。
 青野太潮先生という新約の先生が「どう読むか、聖書」というご著書のなかで、それについて、こう述べています。全ての罪も神を汚す言葉も許される。しかし、その許しが成立するためには、<その許しそのものを否定すること>だけは、決して許されるわけにはいかない。」(同書P52より)「サタンの支配を既に打ち破り、その支配下の悪霊どもを現に追い出しているイエスを指して、<ベルゼブルに取り付かれている>と言うものは、イエスに働いている聖霊を汚すもので有り、<現に出来事となっている救いを拒むもの>である。他のどんな事も許されるとしても、<この拒絶だけ>は致命的なのだ。」(同書P202より)つまり、全てのことが許されている。しかし、だから、どんな罪を犯してもいいというのではない。赦し、救いを拒むことは許されない、ということ。聖霊を冒涜するとはそういう意味だというのです。
 今若い人々、また子どもたち自身のみならず、大人も老人もそこで本当に悩んでいる、苦しんでいることは「わたしは何者なのか」ということ、「わたしは誰」ということではないでしょうか。その答えが見えない、応えることができない、聖書から言えば、「あなたは何処にいるのか」という問いが聴こえないことからくるのではないでしょうか。そして、「わたしは何者なのか」ということ、わたしは、この神の愛に応えて生きるようにされているいうことが実感できたとき、たとえ、どんな苦難の中にあろうと、重荷を負うていようと、いえそうであるからこそ、希望をもち、喜びに溢れることができるのです。そのことをパウロはこう語っているのです、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。それはこういうことです。苦しみの底で、自分自身を失ってしまう、したがって神を失ったわたし、神無きわたしとなるそこで、しっかりとあの「あなたは何処にいるのか」という声が聴こえるということです。その自らの限界を引き受けるとき、それは真実が見えるときなのです。「”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」、わたしの口からはうめきに過ぎない、無残な弱きわたし、だが”霊”自らが執り成してくださる、そこに神はおられる!わたしと神はいっしょなのだ!「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章35-39節)。これが、あの「あなたは何処にいるのか」への神からの応答なのです。神ご自身から与えられている、わたし自身なのです。この神の「あなたは何処にいるのか」、「あなたは何者なのか」、それは、どこか高みからなされる問いかけではないからです。わたしたちは、この問いがまさにこの方キリストの十字架において起きていることを知ります。それはわたしたち一人残らず、この十字架のもとに見出されるためです。それはどれほどわたしがこの神から離れようとも、いや実際見失い、打ち捨てられた者のようなわたしであろうと、今や、この神は「あなたは何処にいるのか」と探し、追い求め、私を見出してやまないのです。パウロは言います、「人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます」、神はわたしたちのその心を見抜き、見抜きながら、見抜くが故に、裁くのではなく、見捨てるのではなく、”霊”の思いが何であるかを知っておられる、”霊”の思い、キリストの十字架、その心を真中にしてわたしたちを受け止めてくださるのです。だから、聖霊、この”霊”を冒涜してはならないのです。なぜなら、聖霊はこの神の愛の力、愛そのものだからです。自ら神のこの愛を拒んではならないのです。わたしの犯す罪、わたしの不信仰が、この”霊”の思い、この愛、この十字架のキリストはもはや克服されないと思ってはならないのです。断じて私たちは誰一人救われないと思ってはならないのです。いえ、むしろ、そうであればあるほど、この十字架のもとにある人間なのです。たとえすべての人が私を見捨てようとも、今この瞬間死がわたしを襲おうとも、主よ、わたしはここにおります、主よ、わたしはあなたに見出されてここにいます!それが、わたしなのです。
 わたしたちは、自分が誰か、つまり、どうこれから生きていく人間か、本当には分からないし、またすっかり分かる必要もない。そんな責任、応答を神は求めておられない。それは、まったく「神様のお仕事」です。だから、分からない、できないことも、自己正当化ももはやする必要もない。ただ、この神が愛する、その愛に見出されるがままに生きる!それが、わたしなのであり、あなたなのであり、いや、今、ここにいる一人、誰一人、もれることなくそうなのす。