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2013年1月13日 主の洗礼日主日 「主イエスの洗礼」

ルカによる福音書3章15〜22節
高野 公雄 牧師

民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ルカによる福音書3章15~22節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

きょうは、「主の洗礼」の祝日です。イエスさまがおよそ30歳のころ、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったことを記念し、お祝いする日です。この日が最上級の祝日であることは、典礼色が白色(本当は金色)であることで示されていますが、今日、私たちはさほど重要な日という認識をもっていないように思います。しかし、その昔は違いました。実は、この祝日はイエスさまのご降誕が祝われるよりも、もっと古くから祝われていました。きょうはまず、イエスさまが洗礼を受けたことを祝うことにどんな意味があるのか、それを話すことから始めようと思います。

キリスト教もその母胎となったユダヤ教も唯一神教です。神は神、人は人であって、神と人とは隔絶した存在であって、神が人となることも、人が神となることも、とうてい考えられないことです。ですから、イエスさまを信じる者の中には、イエスさまは生まれたときはふつうの人にすぎなかったのだけれど、洗礼のときの「あなたはわたしの愛する子」という神の宣言によって、養子として「神の子」になったと考える人たちがいました。彼らにとって、この「主の洗礼」こそが「顕現」つまりイエスさまが神の子、救い主であることが明らかに示された出来事だったのです。その後、イエスさまの人格についての教理が整ってくると、この養子説は異端とされ、否定されました。そして、「イエスさまは誕生の時から神の子であった」、「神が人イエスさまとなって地上に降り立った」という教理が正しい教えとして確立します。それにともなって、クリスマスが盛大に祝われるようになりました。それ以来、「主の洗礼」は新しい意味づけをもつようになり、今日に至っています。

《民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。》

今日「主の洗礼」を祝う意味は、三つの点にまとめることができます。第一点は、イエスさまの洗礼において、三位一体の神が啓示されたということです。「顕現」を祝うことは昔と変わりませんが、「キリストの顕現」から「三一神の顕現」へと強調点が移ります。「主の洗礼」において、天の声によって「父なる神」が現わされ、鳩のような形で「聖霊なる神」が現わされ、そしてイエスさまによって神の子つまり「子なる神」が現わされたことを祝います。

第二点と第三点は、イエスさまがなぜ洗礼をお受けになられたのかということに関わります。第二点は、神の子であるイエスさまは悔い改めを必要としない身でありながら、自ら洗礼を受けて身を低めることを通して、悔い改めを必要とするすべての人とひとつとなられたということです。イエスさまが洗礼を受けたことは、イエスさまが神の子、救い主としての使命を自覚し、その使命を生き始めたことを祝います。

第三点は、イエスさまが洗礼をお受けになられたのは、洗礼によってイエスさまが清められるためではなくて、イエスさまによって洗礼が清められるためであったいうことです。イエスさまの洗礼は、キリスト教の洗礼の源となりました。私たちはこの洗礼を通して、イエスさまとひとつになることができようになったことを祝います。

ところでイエスさまに洗礼を授けたヨハネは、ヨハネ福音書を書いたとされる使徒ヨハネ、ヨハネの手紙の著者である長老ヨハネ、黙示録の著者ヨハネらと区別するために、洗礼者ヨハネ(またはバプテスマのヨハネ)と呼ばれます。「主の洗礼」の祝いでは、以上で見てきたように、誰がイエスさまに洗礼を授けたかということは大きな意味を持ちません。しかし、伝統的には、教会はイエスさまに洗礼を授けたヨハネに対して、イエスさまの先駆者として、また聖人つまり私たちの模範として、特別な崇敬の念を寄せてきました。

《民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。》

洗礼者ヨハネは、旧約聖書の預言者のような出で立ちでユダの荒れ野に現われて、人々に悔い改めを勧める説教をし、ヨルダン川で洗礼を施していました。彼は人々の人気を得て、もしや彼が待望のメシアではないかと期待されるまでになっていました。しかし、ヨハネは自分の後から「わたしよりも優れた方が来られる」と言って、自分はメシアではなく、イエスさま登場の先駆けにすぎないとはっきりと証しした、というのです。また、ヨハネは「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」とも言います。「霊」は「息」とか「風」をも意味します。聖霊と火による洗礼は、風と火のイメージにつながります。脱穀の道具を使って麦の穂から実ともみ殻を分離させ、それを箕であおって、もみ殻やゴミを吹き払い、実を集めて倉に納め、殻を集めて火で焼く、というものです。悔い改めて洗礼を受ける者は神が救ってくださるが、悔い改めない者はゲヘナ(地獄)の火に焼かれて滅びる、と言っているのでしょう。

ところで、ヨハネもイエスさまも、説教の中心は《悔い改めよ。天の国は近づいた》(マタイ2章2と4章17)というものでした。聖書のいう「悔い改め」とは、私たちのひとつひとつの行いを反省するという倫理を意味するものではありません。私たちの生き方、あり方の全体を神の招きに応えて翻して、神に立ち帰るという宗教的な意味合いの言葉です。私たちの心の向きはそれぞれ自分勝手な方向に向いていますが、その心を翻して、神の方に向き直す、あるいはイエスさまとひとつになって心をつなげるという意味です。それは、「悔い改め」と訳すよりも「回心」と訳すのがふさわしいことかもしれません。

ヨハネ福音1章35以下によると、イエスさまご自身だけでなく、イエスさまの最初の弟子となる二人、アンデレともう一人(おそらくはヨハネ)も洗礼者ヨハネの集団の中にいたのですが、のちにそこからイエスさまの集団は分かれて行きました。使徒言行録によると、洗礼者ヨハネの集団による「水の洗礼」とイエスさまの弟子たちによる「聖霊による洗礼」という理解との間に確執があったようです。《アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。》(使徒言行録19章1~7)

このパウロの言葉にあるように、イエスさまが洗礼を受けて「神の子宣言」を聞いたと同じように、私たちも洗礼を受けてイエスさまの仲間にされるとき、神の子とされるのです。きょうの礼拝の初めの「主日の祈り」で、私たちは声を合わせてこう祈りました。「天の父なる神さま。あなたはヨルダン川でイエス・キリストに聖霊を注いで『わたしの愛する子』と言われました。み名による洗礼によって、あなたの子どもとされた私たちがみ心に従って歩み、永遠の命を受ける者となるようにしてください」と。そしてまた、「主の洗礼」において、イエスさまが神の子の自覚をもって福音宣教の使命に生き始めたように、それを祝う私たちもまた、きょう心を翻して神に立ち帰り、ともに力を合わせてみ国の福音の証人となることができるよう祈りつつ、新しい年の歩みを進めましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年12月30日 待降後主日

ルカによる福音書2章25〜40節
高野 公雄 牧師

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり

この僕を安らかに去らせてくださいます。

わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

これは万民のために整えてくださった救いで、

異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

ルカによる福音書1章25~40節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週クリスマスを祝ったあとの、きょうは今年最後の主日礼拝となりました。教会の暦では降誕後主日といいます。この日にはイエスさまの年少時代の記事を読む習わしになっており、カトリック教会では聖家族の主日と呼んでいます。聖家族とは、幼子のイエスさまと父ヨセフと母マリアの三人を指します。

今年は、ルカ福音2章の赤ちゃんイエスさまのお宮参りの記事が選ばれています。ルカ福音は、これまで洗礼者ヨハネとイエスさまの物語を交互に書いてきましたが、この物語からは、イエスさまひとりに焦点をしぼって語られるようになります。

《八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である》(21節)。きょうの福音の前に、こう記されています。ヨセフとマリアは信仰の篤い親として律法の決まりのとおりに、イエスさま誕生の一週間後に割礼を施し、天使の命じた名を付けます。律法にはこう定められています。《イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない》(レビ12章2~4)。

《さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った》(22節)。

上記レビ記12章のとおり、清めの期間は7日プラス33日で40日間です。それで、昔はヨセフとマリアがイエスさまを伴って神殿に上る出来事は、12月25日のちょうど40日後にあたる2月2日に祝われていました。

清めのための献げ物については、こう定められています。《男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前にささげて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。これが男児もしくは女児を出産した産婦についての指示である。なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる》(レビ12章6~8)。本来は雄羊一匹と鳩一羽を献げるのですが、貧しい者は、鳩二羽に代えることが認められていました。

聖家族がお宮参りをしたのは、マリアの清めのためだけでなく、イエスさまを主に献げるためでもありました。そのことをルカは、《それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである》と説明しています。これは、《すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである》(出エジプト13章2)を自由に引用したものでしょう。

主に献げるといっても、動物の初子と違って、人間の赤ちゃんはいけにえにするのではありません。銀貨五シェケルを祭司に支払って自分たちの長子を贖い出すのです。《人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなたのものとなる。ただし、人の初子は必ず贖わねばならない。また、汚れた家畜の初子も贖わねばならない。初子は、生後一か月を経た後、銀五シェケル、つまり一シェケル当たり二十ゲラの聖所シェケルの贖い金を支払う》(民数記18章15~16)。1シェケルは4デナリオンに相当すると言われますから、初子の身請けに10万円以上かかったようです。

《シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。》

きょうの福音は、ここから始まりますが、聖家族は上記のような律法の定めにしたがって神殿にやって来ました。一方、メシアを持ち望んでいたシメオンとアンナも、霊に満たされて神殿に入って来ました。そして、ちょうどタイミング良く両者が出会います。シメオンは幼子を腕に抱き、アンナもそばにきてイエスさまを礼拝します。とつぜんシメオンとアンナが登場しますが、二人は神の約束を信じて、救い主の到来を待ち望んでいたイスラエルの善男善女の代表として描かれているのでしょう。

《主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。》

私たちは23日の礼拝で安藤先生の指導によって「やわらかくこの胸に」を歌い、マリアやヨセフになった思いで幼い命が与える温もりを受けとりました。シメオンも幼子イエスを抱きかかえ、神をたたえて歌います。この賛歌は、ラテン語の最初の二語をとってヌンク・ディミティス nunc dimittis(「今こそあなたは去らせてくださいます」という意味)または日本語で「シメオンの賛歌」と呼ばれます。この賛歌は、カトリック教会では「寝る前の祈り」の福音の歌として毎日となえられているものですが、私たちのルーテル教会では礼拝の終わりの部分で毎週歌われます。

そして、きょうのように、一年の最後の礼拝でも読まれます。確かに「今こそあなたは去らせてくださいます」という言葉は、一年を終わる時にふさわしいものでしょう。私たちもこのシメオンの賛歌の心を私たちの心とすることによって、この年末の礼拝を守りましょう。そして私たちは、その年に限らず、まさに終わりに向かって生きている存在でありますので、そのことを改めて覚える機会にしたいと思います。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。救い主を信じ、滅ぶべき自分の受容を必要とするとするのは、シメオンやアンナのように余命の短い老人に限られるものではありません。それは、人生の盛りの時を過ごしている者であっても目指すべきことです。そこにこそ、本当に幸せな、充実した人生があると思います。なぜなら、この言葉は、どのような思いを抱いて死ぬかというよりも、むしろどのような思いを抱いて生きているかを語っている言葉であって、なにもこう言ったからといって別にすぐに死ななくてもよいのです。このような安らかな思いを抱いて生きることができるかどうかこそが、私たちの人生の課題であると言えるでしょう。

「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があります。これは「論語」にある孔子の言葉で、注によると、「朝、道(事物当然の理)を聞いたら、それで修学の目的を達したわけだから、その夕には死んでもいい」という、求道への熱情の吐露だということです。シメオンもアンナも、満足できる幸福な生活を送っていたからこのように語ったり、神を賛美することができたのではありません。シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいた、と25節にありますが、シメオンもアンナも、慰めと救いがない状態の中で、長くそれを待ち望みつつ、忍耐しつつ生きてきたのです。その慰めが、救いがようやく与えられた時に、アンナは神を賛美してそのことを人々に伝えたし、シメオンは「いま、わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉のとおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のために、お備えになられたもの、異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光です」(ルーテル教会式文)と喜びをもって歌ったのです。

私たちは、さまざまな課題、悩みを抱えたまま新しい年へ進みゆこうとしています。そうした厳しい現実の中で、歴史の終わり・私たちの人生の終わりから今の現実を振り返り見る視点を、きょうの福音をとおして与えられています。そして私たちはすでにそれを得た者として、喜びの歌を歌うことができるのです。思いを新たにし、そこに心をしっかりと定め、心安んじて、主のご用のために働くものでありたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年12月23日 待降節第4主日 「マリアのエリサベト訪問」

ルカによる福音書1章39〜45節
高野 公雄 牧師

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

ルカによる福音書1章39~45節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

アドベント・クランツのローソクが四本点灯しました。待降節が四週目に入り、今週、クリスマスがやって来るしるしです。と言っても、もう明日がイヴです。私たちは今日の礼拝のあとクリスマス祝会をするのですから、日にちを逆にして祝うことになります。

四週目には毎年、イエスさま誕生の直前の出来事を読むことになっていますが、今年はマリアのエリサベト訪問が選ばれています。この聖書個所を味わうことをとおして、クリスマスを迎える喜びとその準備について教えていただきましょう。

ルカ福音の1章では、まず洗礼者ヨハネの誕生を天使が祭司ザカリアに予告し、次にイエスさまの誕生をマリアに予告します。そして、このマリアの訪問の記事によって、二つの予告が一つの話につながります。

《そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。》

「そのころ」とは、マリアさんが天使ガブリエルからイエスさま受胎を告げられて、それを謹んでお受けした、また叔母のエリサベトの懐妊を教えられた出来事から「間もなく」ということです。マリアは天使のお告げを受けると間もなく、エリサベトを訪問します。

マリアはガリラヤ地方のナザレ村に住み、エリサベトはユダヤ地方の村に住んでいます。イスラエルの伝承では、父祖ヤコブの十二人の息子たちが十二の部族の元になったのですが、その内のユダの子孫たちが住んだ地方がユダヤと呼ばれます。人名ユダを地名に変えるとユダヤとなります。ガリラヤからユダヤまでは四日間の旅だといいます。マリアにとってはかなり大変な旅だったことでしょう。この同じ旅を、後にはいいなずけのヨセフとともに住民登録をするために繰り返すことになります。

伝承によると、ザカリアとエリサベトが住んでいた村、つまりマリアが尋ねて行き、洗礼者ヨハネが生まれた村は、エルサレムの南西8KMにある村エイン・カレム Ein Karem(「ぶどう園の泉」という意味)だと言われます。史実である証拠はありませんが、その村にはマリア訪問を記念する教会や洗礼者ヨハネを記念する教会が建っているそうです。なお、銀座にあるキリスト教書店「教文館」の四階の雑貨売り場はこの村の名をもらって「エインカレム」と名づけられています。

《そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。》

マリアがエリサベトのところへ行ったのは、《あなたの親類のエルサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女なのに、もう六か月。神にできないことは何一つない》(1章36~37)、と天使のお告げを受けたからです。会いに行った動機については、いろいろな解釈がありますが、身ごもったことが露見しないように避難したのだとか、天使が告げたことの真偽を確かめに行ったのだという見方は、当たらないでしょう。マリアはすでに敬虔に《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》(1章38)と天使に答えていますから。ほかの見方として、マリアは自分の身に起こったことを同様な経験をした伯母さんに相談しに行ったのだ。高齢の伯母さんの手伝いに行ったのだ。お祝いを言いに行ったのだ、などなど。これらは皆それなりに当たっているでしょうが、聖書は、神から特別な務めを託された二人の女性が出会うことと、その交わりの大切さを伝えたかったようです。

1章24に《エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた》とありました。彼女は不思議な体験をしましたが、それを分かち合う相手が見つかりません。マリアもまた、天使から告げられた言葉を誰にも説明できなかったでしょう。二人は互いに自分の身に起こったことを話し、分かってもらう相手を必要としていました。マリアはエリザベトを助けたいという気持ちと、自分もまた話を聞いてもらい、分かってもらうことで助けてもらいたいという思いから出かけたのだと思います。

「その胎内の子がおどった」とは、マリアの訪問を受けた大きな喜びだけでなく、胎内の子の動きはその子の将来に対する神の意思をも表しています。故事としては、創世記25章に、エサウとヤコブが胎内で押し合いましたが、それは「兄(年長者)が弟(年下)に仕える」ことを表わしました。ここでも、年長のエリサベトが年下のマリアを敬うことを、そして年長の洗礼者ヨハネが年下のイエスさまを敬うことになることを示しています。

《エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」》

このように天使のお告げをうけて子供を宿した二人が出会います。エリザベトは子を宿したためらいをマリアに理解してもらって喜びました。マリアは天使に答えた生き方について、「主がおっしゃったことを必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とエリザベトの賞賛を受け、理解されました。マリアの小さな確信はエリザベトの祝福によって確かなものとなり、大きなものとなります。ここには、人と人との最高の対話が成り立っています。伝えたい気持ちが十分に理解され、お互いに喜び合う姿です。

「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする」、とドイツの詩人・劇作家シラーが言いました。一つの幸せを、二人で喜べば、幸福感が共鳴して大きくなります。また、問題を共有し、協力し合えば、負担は軽くなります。聖書も、《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》(ローマ12章15)と勧めています。

神に対する共通の想いを交わし、その不安や期待を共有することほど喜ばしいことはありません。人は、一人では生きられません。自らの確信や不安を隣人との交わりの中で交流させ、そこに共通の意味を見いだすとき、それは、大きな喜びとなって人の心を満たすのです。信仰者である兄弟姉妹の交わりにおける、この分かち合いこそが、教会の意義です。この分かり合いのために、私たちは毎週、礼拝に集い、共々に祈りと賛美を献げ、み言葉に聞くのです。

なお、エリサベトの冒頭の言葉「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」ですが、「女の中で祝福された方」は最上級を表わす表現方法です。つまり「女の中で最も祝福された方」を意味します。また「胎内のお子さまも」という表現は、マリアさんが祝福されているので、二次的にイエスさまも二次的に祝福されている、というふうにも読めますが、実際はイエスさまが祝福された方だからこそ、その方を宿したマリアも祝福されているのです。

 

先週聞いた《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》(1章38)というマリアの信仰の言葉、今週聞いた《主がおっしゃったことを必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう》というエリサベトの信仰の言葉は、この季節に私たちが深く心に留めて、導きとすべき言葉です。私たちもまた神さまの救いの約束を信じて歩む者でありたいし、クリスマスにはその約束の到来を期待と喜びをもって迎えたいものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年12月16日 待降節第3主日 「マリアへのお告げ」

ルカによる福音書1章26〜38節
高野 公雄 牧師

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

ルカによる福音書1章26~38節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週の福音はルカ3章の初めの部分から、洗礼者ヨハネの活動とイエスさまがヨハネから洗礼を受ける出来事を読みました。それがイエスさまの活動の始まりであり、ルカ福音の本論の始まりでした。その前に置かれているルカ1~2章は、本論に入る前の序言であり、イエスさまの公生涯を読む者に心備えを与える役割をもっています。旧約聖書の雰囲気の濃い、ヨハネとイエスさまの誕生の話でもって、新約聖書への橋渡しをしています。

《六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。》

六か月前の出来事は、この前の段落に記されています。天使ガブリエルが祭司ザカリアに現われて、年老いた妻エリサベトが男の子を産む、その子をヨハネと名付けなさいと告げたのでした。

天使ですが、ヘブライ語でもギリシア語でも、「使者」とか「伝令」という意味の言葉です。旧約聖書でも初めは、神が人に現われたときの仮の姿を指しており、神さまと同一視してよいものでした。しかし、後に、バビロン捕囚の中でオリエントの宗教の影響を受けて、次第に神と人との仲立ちをする霊的な存在とみなされるようになりました。神の化身としての使者でなく、天使という固有の存在と認められ、ガブリエルとかミカエルとか名前をもつようになりました。キリスト教でも初期には、天使は翼をもっていなかったのですが、後に持つものとイメージされるようになりました。天的存在であり、天と地を往復する彼らの務めから生じたイメージでしょう。

天使ガブリエルがナザレの町に遣わされ、神の言葉を伝えます。イスラム教でも、預言者ムハンマドに神の言葉である『クルアーン』を伝えたのはガブリエルであり、このために天使の中で最高位に位置づけられています。

《ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」》

天使はナザレの町のおとめマリアのところに遣わされました。当時の社会の通例から、マリアは10代前半の少女だったと考えられます。婚約者のヨセフは、ここではただ、生まれる子がダビデ王家に連なる者であることを示すために登場します。

この天使の言葉は、「アヴェ・マリアの祈り」に採りいれられています。カトリック教会によるこの祈りの公式口語訳はこうです。「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン」。

「おめでとう」と訳された言葉カイレを、フランシスコ会訳聖書は直訳して「喜びなさい」と訳しています。しかし、この言葉は挨拶として日常的に用いられる言葉なので、岩波訳聖書では「こんにちは」と訳されています。公式口語訳の祈りでは訳されず、「アヴェ」とラテン語の挨拶の言葉がそのまま用いられています。聖書には、呼びかけの「マリア」という名はありませんが、補足の言葉として付け加えられています。

「主があなたと共におられる」、この天使の言葉は、非力な少女マリアが神の救いの器として用いられるとき、神が助けてくださることを約束する言葉です。

《マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」》

マリアは天使の出現に戸惑うばかりだったことでしょう。そこで、天使は神からの伝言を伝えます。マリアが恵まれているのは、彼女が身ごもる子が、ダビデの王座を継ぐ神の子だからだと言います。伝言の中心は、マリア自身ではなくて、マリアから生まれるイエスさまだったことが分かります。

《マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」》

マリアは天使に、自分はまだおとめであるから、身ごもることなどありえないと疑義を呈します。天使はそれに答えて、神の霊が、つまり神の力があなたに降って、そういうことが実現するのだと説明します。そして最後に、神信仰の基本中の基本である信条「神にできないことは何一つない」をマリアに説きます。信仰とは、神さまの力、愛、信実に対する信頼にほかなりません。同じ言葉が創世記18章14に記されています、《主に不可能なことがあろうか》。高齢になっても跡継ぎができないアブラハムとサラの夫婦に、神が男の子の受胎を告知した場面での言葉です。

《マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。》

マリアは深く頭を垂れて神さまの言葉を受け入れます。クリスマスを間近にひかえて、私たちはきょう、このマリアの答を深く味わいたいと思います。

マリアの「わたしは主のはしためです」という言葉ですが、これは、「どうせ自分は奴隷なのだから、主人がどんな無理難題を言おうが、逆らうことはできないし、唯々諾々と従うしかない」というような自嘲の言葉ではありません。「自分は神の奴隷だ」ということは、神の強さと自分の弱さ、神の高さと自分の低さを素直に認めるだけではなく、その神さまが弱きを助け、低きを高めてくださる慈悲深いお方であることに依り頼む者だと言っているのです。このマリアさんの信仰は、私たちすべての模範とすべきものです。

私は、宗教改革者マルティン・ルターの言葉を思い出します。それは、ルターが死の二日前に書き残したメモ「私たちは神の乞食だ」という言葉です。すべてのものを神からのみ与えられて、それのみに頼って生きていく、与えられた一つひとつに感謝して生きていく、一日一日を生きていく、そういうルターの信仰の姿勢を表わす言葉だと思います。

次は、「お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉です。マリアは神さまから負いきれない重荷を背負わせられることになりました。おとめが身ごもって男の子を産むなどとは、マリアにとってまったく受け入れがたいことです。しかし、神の信実にすべてを委ねる生き方に徹しようと答えました。

イエスさまもオリーブ山の西麓ゲツセマネの園で祈りました、《父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください》(ルカ22章42)。私たちも日々祈っています、《御心が行われますように、天におけるように地の上にも》(マタイ6章10)。この「成りますように」「行ってください」「行われますように」は同じ言葉が使われています。

「お言葉どおり」とか「御心のままに」とは、どうあがいても仕方がないことは、あるがままに平静に受け止めようということだと思います。英語のことわざにも「人生は10パーセントは自分でつくり、90パーセントはどう受け止めるかだ」とあります。知恵ある言葉だと思います。以前にも一度引いたことがありますが、ニーバーの祈りを祈って、きょうの説教を終わります。

平静な心を求める祈り ラインホールド・ニーバー作

神よ 変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。アーメン。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン