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2019年12月8日 待降節第2主日礼拝の説教 「共に喜ぶために」

「共に喜ぶために」マタイによる福音書3章1~12節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 待降節第2主日の礼拝を迎え、アドベントクランツに二つ目の火が灯されました。先週も言いましたが、アドベントとは「到来する、近づく」という意味です。今日の日課、洗礼者ヨハネの記事の冒頭でも「悔い改めよ、天の国は近づいた」とありますように、「近づく」という聖書のメッセージが記されています。ヨハネは天の国、すなわち神の国が近づいたと言うのです。天の国とはこの世の特定の時や場所を指すものではなく、神様のご支配、ご意志、その御心を指し示します。
 
 さて、ヨハネは天の国が近づいた、だからもう安心だ、大丈夫だとは言いません。まず冒頭に、「悔い改めよ」と言いました。「悔い改め」とは、反省するということではなく、向きを全く変えて、「方向転換」するということです。神様の方に方向転換する、すなわち神様に立ち返るということであります。自分の所業を反省するとか、悪い習慣を改善していくという自分自身の出来事ではなく、自分の存在そのものを神様に向けていくということ、生き方そのものが変えられていく、180度思いが変えられていくということです。
 
 そして、ヨハネの一連の宣教活動は悔い改めに導くために、水で洗礼を授けることでした。実は、この洗礼の行為は、ヨハネが最初に始めたことではなく、既にユダヤ教の中でも行われていました。洗礼を受ける対象は、ユダヤ人ではない、ユダヤ教への改宗を望む異邦人でした。ユダヤの神を真に信じる信仰告白の行為として、洗礼が授けられ、神の民となるために、水で清められる必要がありました。ユダヤ人の信仰の父(祖先)と呼ばれるアブラハムの子孫であるユダヤ人たちは、既に神の民であるから、洗礼を受ける必要はなく、神様の恵みと祝福に与っている民であるという自覚がありました。
 
 しかしヨハネは、この洗礼の意義をそのようには考えませんでした。血筋における神の民であるかどうかということによって、洗礼を受ける必要があるか、ないかということを洗礼の本質とは受け止めなかったのです。そういう物差しではかったのではなく、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、悔い改めること、すなわち神様のもとに立ち返ることが大切であると説いたのです。この悔い改めの洗礼を受ける資格は全ての人にあったのです。
 
 このヨハネの叫び声を聞いて、パレスチナとユダヤ全土、ヨルダン川の地方一帯という広範囲における人々がヨハネのもとに来て、罪を告白して悔い改め、洗礼を受けました。その中には、ファリサイ派やサドカイ派というユダヤの宗教指導者たちもいました。彼らもまた、人々の模範として、神様の律法を忠実に守り、宣教して人々を導き、神様の恵みに生きようと一生懸命な人たちでした。神様の掟から曲がることなく生きようと熱心でした。彼らも神様のもとに常に立ち返ること、悔い改めの大切さを知っていたのです。ヨハネの運動に共鳴して、彼のもとを訪ねて、洗礼を受けようとしたのでしょう。
 
 しかし、ヨハネは彼らにこう言います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(7―9節)非常に厳しい言葉を投げかけました。自分たちは神様から選ばれた神の民イスラエルの民であり、神様の怒りからは遠く免れている。アブラハムという信仰の父を祖先に持つのだから、自分たちは神様から近い、救われるに値する者だと自負していた。その彼らが、洗礼を受ければ神の怒りから免れると思っていたのかもしれません。
 
 また、「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と言います。アブラハムの子孫、血筋と言うことに拘るのではく、アブラハムのような信仰の父にあなたがたもなりなさいとは言いません。目に見える血筋が重要なのではなく、ヨハネは神様との関係について、その辺の石に目を向けさせるのです。石からでも造り出せる。アブラハムはもちろん、誰でも造ることができる。その「創造主」である命の神と、造られたあなたがた被造物との関係ということに目を向けさせるのです。アブラハムや彼の血筋は関係ない。そういう関係よりも、神様と自分との直接的な関係です。神様と一人一人との関係です。関係する神、交わる神が証しされている。関係する、交わるということは、時間的、場所的な有限性というものはないのです。信仰の父、アブラハムの子孫であるイスラエルの民、選ばれた神の民ということは、それはもう救いが約束されていて、安全が約束されている、だから神様から自立していくということではない、絶えず神様との関係において、共に歩んでいく、その過程において、救いが示されている。だから絶えず神様の元に立ち返れとヨハネは言うのです。
 
 石ころからでも造られる命の神様によって、自分も造られ、生かされている。アブラハムの子孫であろうとなかろうと、自分は石ころのようなちっぽけな存在でしかないのかもしれない。しかし、信仰の父と呼ばれたアブラハムもまた、自分たちと変わりない石ころのようなちっぽけな存在だった。だから、こんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。アブラハムの血筋、子孫であるという事実が神様の恵みの中にある、救いの中にあるというのではなく、石ころのようなちっぽけさの中にも、神様の創造の御業が現されている。一人一人が造られ、命を与えられ、愛されている大切な存在であるということ。ちっぽけでみすぼらしくても、神様が造られ、関わられ、愛してくださっているという真実こそが恵みであり、救いであるということなのです。悔い改めにふさわしい実、その実りは、命の神様との関係に生き、共に歩んでいくひとつひとつの出来事の中に示されています。何か良いことをした、成果を示したといういうことではなく、悔い改めて神様のもとに立ち返り、日々の歩み、日常の中における命の恵みを体現して生き、喜びと感謝をもって神様と共に生きていく姿の中に、悔い改めの実は豊かに実っているのです。
 
 ヨハネは続けて言います。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」神様の怒りは差し迫っていて、自分の水による悔い改めの洗礼が救いを保証することではないとヨハネは自覚します。そして、自分より後に来られる方を示し、その履物をお脱がせする値打ちもない。と、自分の洗礼よりも、真の洗礼を授けられる方が来られると言います。それは聖霊と火における洗礼であると。そのイメージを、実った麦は倉に入れられ、使い物にならない殻は火で焼き払われるように、神様の裁きというふるいにかけられる。使い物にならない殻、それは神様に悔い改めない罪人はその火で焼き払われる、そういう火の洗礼であると言うのです。しかし、ヨハネのイメージ、教えを越えて、この差し迫る神様の裁き、火で焼き払われるのは、私たちではなく、火で焼き払われかの如く、十字架の死を遂げたのは、後から来られる救い主イエスご自身に他ならないのです。そうして、神様との関係を回復されたのです。
 
 ヨハネは悔い改めの洗礼を通して、私たちを脅かしているのではなく、石ころからでもアブラハムの子孫を造ることができる命の神様との関係において、私たち一人一人が神様の愛と恵みの中に生き続けていることを教えています。そこには血筋とか、そういう条件は関係ないのです。私たちの人間的な価値云々ではなく、今この時も、神様は私たちを招いていてくださるということです。ヨハネが神の言葉を叫び続けた荒野という寂しい場所、作物がろくに実らない命の輝きが見いだせないような只中で、そこにこそ天の国が近づいたと、語りました。命の神様によって命与えられ、すべての人がその命の只中にあって豊かに生きることができるように、神様は私たちを招くために、天の国の方から近づいてこられたのです。その呼びかけに応答し、感謝して生きて歩んでいくところに、悔い改めの実が形となって現されています。その神様を知り、立ち返りなさい。立ち返って、その恵みの内に生きなさいとヨハネは叫びます。
 
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」。ヨハネは悔い改めに導く洗礼を私たちに伝え、主イエスご自身は、十字架の死という自らの御身をもって、罪の贖いという救いの完成を実現されたのです。そのキリスト、その救い主こそが私たちが待ち望む主イエスであります。今この時を待つ私たちは、洗礼者ヨハネを通して神様に悔い改める時でもあるのです。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年12月1日 待降節第1主日の説教 「夜明け」

「夜明け」 マタイによる福音書24章36~44節 藤木 智広 牧師

 
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 新しい教会暦を迎え、本日からクリスマスまでの4週間の期間をアドベントと言います。アドベントというのは、ラテン語で到来する、近づいてくるという意味の言葉です。到来するのは救い主イエスキリストであり、主イエスを待ち望み、お迎えすることがアドベントの意味です。このアドベントは英語のアドベンチャー(冒険)の語源になった言葉だと言われています。
 
 アドベンチャー、冒険と聞けば、まだ訪れたことのないところに行ってみたり、誰もやったことのないことに挑戦してみたりなど、自分から何か新しいことをしていくというイメージがあるかと思いますが、ある人はこう言います。「アドベンチャーとは、突然目の前に起こった予期せぬことを受け止め、自分自身を変革させること、その経験を通して新しい人間になることを意味していた。」と。自分の意志で何か新しいことに挑戦していく、していかないに関わらず、私たちの日常生活の只中においても、誰しもが突然目の前に起こることを体験し、戸惑うこともたくさんあるでしょう。様々な出来事を体験し、そのひとつひとつを受け止め、新しい自分にっていくことがアドベンチャーであると言います。ですから、私たちが主イエスを待ち望むこのアドベントという季節は、クリスマスの準備等で忙しく、楽しみに暮らしていく季節であるのと同時に、様々な突然の喜びや悲しみ、苦しみを体験する日常生活の中で、この主イエスこそが私たちを活かす神の言葉であり、必ず私たちのその様々な出来事の只中に来て下さり、私たちを恵み、導いてくださることに望みを置いて、歩んでいく季節なのです。ただ待つのではなく、望みをもってしてこの救い主を一人一人が心からお迎えしていくのが、このアドベントの時を歩んでいく私たちの姿なのです。
 
 さて、今日は最初のアドベントの主日です。聖書日課の改定に伴い、お聞きした福音書は、例年とは違う個所で、マタイによる福音書の24章冒頭から主イエスが語られている終末の徴です。私たちは先週の聖霊降臨後の最終主日の礼拝で、終末についてみ言葉を聞きました。終末の終わりという言葉は、目的、完成という意味の言葉で、様々な苦難や天変地異が起こっていく只中にあって、神様は私たちに向けて、その只中で神の愛が完成する終わりについて語られました。一連の終末の出来事は避けられませんが、髪の毛一本ですら失わせないという神様の愛の目的を私たちは聞きました。この神の愛に望みを置き、主に委ねて生きていく私たちに、神様は人の子である救い主を送ると約束してくださいます。
 
 では救い主はいったいどこに来るのか。今日の福音書の冒頭を読みますと、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」と主イエスは言われます。この終末の日はいつ来るか、主イエスですらわからないと言うのです。その日、その時とは一連の終末の出来事に他なりませんが、すぐ前の35節には、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と主イエスは語っています。天地の滅び、それは神様がお造りになったこの世界であり、私たち一人一人です。私たちも有限なる存在であり、永遠ではありません。やがて死ぬ時がきます。その日、その時はわかりません。ずっと後のことなのか、もしかしたら明日のことかもしれません。わからないけれど、いずれは来る。しかし、神の言葉は滅びないと言われます。主イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けられた時、主イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と。神の言葉と私たちが無関係ではないのです。むしろ、私たちの存在そのものがこの神のいのちの言葉によって成り立っている。そもそも、この天地だって、神様の創造の御業であり、私たちが自分たちで造ったものではないのです。今見に見えるものが全てではなく、見えなくても、私たちをちゃんと生かしてくださり、支えてくださる神の命の言葉は私たちにしっかり向けられているのです。滅びの時がくるのを天の父だけはご存じであるが故に、その滅びを貫いて生きていくための命の言葉を私たちに授けてくださっているのです。
 
 主イエスは「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」と言われ、ノアの洪水が来た時に誰も築かなかったあり様と同じく、人の子が来るときも、このノアの洪水の時と同じであると言われるのです。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。」とあるように、人々はいつもの日常の日々を送っていました。人々はノアの言葉を信じず、洪水なんてくるわけがないだろうと思っていたわけです。そんなこと信じられるわけがない。ノアは箱舟を作っているが、私たちは日常生活を送ろうではないか。そんな声が聞こえてきます。そして洪水に飲まれてしまいますが、彼らを愚かであると一方的に思うことができるでしょうか。人の子が来る場合も、このようであると言われる時、主イエスも人々から疑われるということにおいてノアの姿と重なりますが、さらには逮捕され、弟子たちからも見捨てられ、最後は十字架にかかって死んでしまうのです。
 
 しかし、主イエスご自身の死という滅びがただここで語られているわけではありません。滅びに備えて、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりするなと言われているわけでもないのです。食べたり飲んだりというのは、天の父が備え、与えてくださる恵みです。空の鳥が蒔くことをしなくても天の父がその鳥を養ってくださるように、食べ物や飲み物は私たちの肉体を生かしてくださる父からの恵みであり、愛です。人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によって生きる。神の言葉を聞くためにパンを捨てろと言っているのではないのです。そのパンを与えてくださる天の父に感謝の思いを向けて生きていくこと。その感謝の日々を忘れてはならないということです。
 
 それで主イエスは42節で「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」と言われます。主人は必ず帰ってくるから、目を覚ましていて迎えなさいと言われます。今日の第2日課のローマの信徒への手紙で、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」とありました。夜明けは来ているのだと言います。主人である主イエスが来て下るという救いはもう近くまで来ている。それまでは夜の闇の世界の如く、不安や恐れが蔓延っているという姿が私たちにあります。先の見えない絶望は暗闇そのものです。その暗闇の只中に光はもう射し込んでいるのだと言われます。私たちが抱える日常の予期せぬ出来事の只中に、あたふたし、戸惑ってしまう私たちの姿を主はご存じです。故に、主イエスも私たちと同じ人となられて、私たちの日常の出来事ひとつひとつに関わられ、共に歩んでくださるために、私たちの闇を照らす曙の光として、既に近くまで来ているのです。
 
 だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。と聞きました。武具を身に着けるということは、そこに戦いがあるからです。単に闇を打ち砕く戦いというよりも、光を受け入れるための戦いであると言えるでしょう。だから、光の武具である主イエスを身にまといなさいと言われるのです。今日の福音書には強盗の姿が描かれていますが、私たちを脅かす闇の力が私たちの心と魂を蝕み、飢え渇きをもたらします。強盗はその象徴です。いつ、そのようなことが起こるかわからない、不安定な世の中を私たちは生きています。目を疑うような凄惨なニュースが連日流れ、他人ごとではない真実に目を向けさせられます。時に他者を思いやる心すら忘れてしまう私たちの心の焦り様、余裕の無さが垣間見えます。主イエスは私たちに光である神の武具を身につけなさいと言われました。光の武具である神の言葉、光を身に着けよと。光である主イエスを身に着けて、闇を知り、闇と向き合えと言います。思いもかけないことを受け止めて、そこにこそ照らされる神の光に希望を持ち、己の闇を照らしていくのです。主イエスを迎えて、照らしていくのです。そのようなアドベンチャーを体験するものとして、私たちはこれからのアドベントの季節を歩んでまいります。誰しもが冒険者として、それぞれの日常生活、人生の中で思わぬ出来事を体験するでしょう。その中で、目を覚ましていない。主イエスという光の武具を身に着け、神の言葉に聞き続けて生きていきないと。そして私たちもその光の武具を通して、主イエスの光を反射して、他者への思いやりの心を回復し、共に歩んでいくのです。主イエスの光を今度は私たちが、それぞれの賜物を持って、照らしていくのです。自分が目立つのではなく、他者の心に灯を灯すようにして、仕えて生きていくのです。必ず来てくださる主イエスの光を身にまとい、歩んでまいりましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年11月24日 聖霊降臨後最終主日の説教 「証しをする機会」

「証しをする機会」ルカによる福音書21章5~19節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 本日は聖霊降臨後の最終主日、教会の大晦日と言われる教会歴の最後の日です。来週からの待降節、アドベントから教会暦は新しく始まるのです。新しい暦、新しい時を迎える前に、終末、世の終わりについて今日の福音書から聞きました。いずれの出来事も、もはや私たち人間には手に負えないことばかりです。本当にそのようなことが起こるのかどうかもよくわかりません。また、聖書から聞かなくても、世の終わりについての教え、あらゆるものが崩壊するという教えは、聖書以外にもたくさんあります。様々な終末についての教えがある中で、聖書では、主イエスが気を付けないさいと警告しつつ、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」と、そのような慰めを語っておられます。終末が避けらない、故に終末の只中を生きていく私たちに、終末は全ての滅び、単なる終着点ではないということを語っておられるのです。
 
 終わりというのは、英語でENDと言い、このENDというのは「目的、成就、完成」という意味の言葉です。ただ終わるのではなく、目的があり、その目的が成就し、完成するという意味があるわけです。この終わりを通して、終わりの只中を生きていく私たちに、神様は滅びではなく、救い(の目的)を明らかにされていくのです。これが聖書における終わりを迎えることの本質なのです。
 
 主イエスが世の終わりについて語られたきっかけは、5節、6節で「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」ということでした。この神殿というのはエルサレムの神殿で、ユダヤ教の中心的な祭儀、礼拝が行われていたところです。多くの人々が巡礼に来て、賑わっていました。ローマ帝国の力を借りて、当時ユダヤを支配していたヘロデ大王が実に約46年もかけて、この神殿を豪華絢爛に造り変えたと言われています。「見事な石と奉納物で飾られている神殿に見とれるほど」に、その偉大さが伝わってきます。この神殿は権力の象徴だけに留まらず、ユダヤ人にとっても自分たちのアイデンティティーとも言える象徴、拠り所となっていた所でした。彼らにとっての目に見える確かなところ、信頼できるものであると言えるでしょう。
 
 彼らの言葉と思いに対して、主イエスは「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」とはっきり言われました。そして、終末の徴について語り始めたのです。今ある確かな目に見えるもの、それに頼って生きている彼らの姿は、現代の私たちの姿と変わりはないかと思います。むしろ、より目に見えて便利な世の中になっているので、それらがいずれは崩さってしまうなどと、想像することもできないでしょう。ただ、いずれは終わりが来るということを私たちは知っていますし、主イエスが語られる戦争や環境問題、天変地異の前触れの中に、世の終わりを想像することが多くあるかと思います。それらがいつ起こるかはわからないけれど、その只中にあっても、神様の目的は変わることはないのだと主イエスは約束されているのです。
 
 主イエスは天変地異の前に起こることを12節から言われます。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」このルカによる福音書が書かれた時代は、迫害の只中にあり、多くのキリスト者が殉教した生と死の隣り合わせの時代でした。ここで言う証しとは、殉教という意味の言葉からきています。証しをするとは殉教することなのかと考えると、恐ろしくなるかもしれませんが、それはただ死ぬことを目的としているのではなく、キリストのために生きて、その命に自分を委ねて生きていくことであると言えます。神と共に、他者と共に生きていく姿であると言えます。単に自分を犠牲にするということではないのです。
 
 主イエスは最後に「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言われました。辛いけれど、我慢しろということではなく、これは積極的な待つ姿勢を意味します。ある人は忍ぶという字と、耐えるという字を次のように説明しています。「忍ぶは上からの愛で、覆う、かばうと言った姿、耐えるは下から支える、持ちこたえる姿である」と。これはどちらも自分ひとりではできない、耐えられない姿です。上からの愛によって生かされ、下からの土台、砦となる支える力によって、地に足をつけて歩んでいくことができるのです。それで、ここでの「忍耐」という言葉を原語で調べますと、ふたつの言葉から成り立っていることがわかります。ひとつは「重荷の下で」、もうひとつは「とどまる」という言葉です。合わせて「重荷の下で留まる」ということです。主イエスがぶどうの木のたとえ話で、「私にとどまりなさい」と言う招きの言葉を私たちに語っています。ぶどうの木である主イエスに、枝として私たちが結びつく、そこに留まるということです。主イエスが共におられるということは、忍耐するということでもあり、それが証しをするということになります。重荷のある現実の只中で、このキリストの愛に覆われ、愛の下に留まって、共に生きていくのです。
 
 また「命をかち取りなさい」という、この命は「魂」とも訳せます。単なる肉体的な命のことだけを指しているわけではなく、私たちの生き方、人生そのものと言えるかもしれません。私たちは昔の教会の中で起こっていた迫害を経験することがないかもしれませんが、この魂を蝕む様々な出来事が現代でも起こり、このことを経験しています。飢え渇きを覚え、希望を見出せない闇がこの現代社会の中でも蔓延っています。故に、目に見える確かなものに信頼を置き、時にいともたやすくその確かだと思っていたものに裏切られる経験をしています。命を、魂をかちとるために、何に信頼して生きていくのか、何を指針として己の人生の導き手とするのか。私たちはそのことを模索しています。
 
 その私たちに、主イエスは世の終わりの出来事を通して明らかにされていく神様の目的、神の愛の完成を示されました。根本からの支え、ぶれることのない神の愛こそが私たちひとりひとりの命、魂を支え、決して滅びることはないと約束してくださいました。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント13章4節、7節)とパウロは言います。この神の愛を、それぞれが与えられた賜物を通して形にしていくために、私たちは証しをして、他者と共に歩んでいくのです。来週からの新しい教会暦を、この終わりに向けての神の愛の完成を約束してくださっている主に喜びと信頼をもって、共々迎えてまいりたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年11月17日 聖霊降臨後第23主日の説教 「跡継ぎ」

「跡継ぎ」 ルカによる福音書20章27~40節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 今日の福音書の中で、復活を否定するサドカイ派の人々が、ある女性の結婚生活を事例に、主イエスと復活の本質について議論しています。跡継ぎを残さないまま夫と死別した女性は、跡継ぎを残すために夫の兄弟とも結婚し、7人もの男性と結婚しました。この結婚の制度はレビラト婚と言って、その掟が申命記25章5節に記されています。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」(25:5~6)その家を絶やさないようにするため、妻はその家の一族の者と再婚しなくてはならないということでした。
 
 この女性には跡継ぎを残すという結婚のプレッシャーがあったのかもしれません。子宝に恵まれず、夫と死別し、夫の弟とも結婚し、子宝に恵まれず、夫と死別し・・・ということを7回も繰り返し、その都度悲しみや苦しみを背負わなくてはならなかったでしょう。心から結婚の喜び、子宝に恵まれる喜びを感じることはできなかったのかもしれません。ただ、サドカイの人々は、女性の結婚生活の中身より、復活があるならば、掟に従って、7人の夫を持った女性は、復活したら、どの男性と夫婦関係を結ぶのかということに関心を持っています。
 
 彼らの問いに対して、主イエスは、結婚関係はこの世限りであって、復活に与る次の世においては、そのような関係はもう生じないとはっきりと答えられました。それは、この世の習慣が次の世において、そのまま続くことではないということです。私たちの習慣や価値観の延長線上に復活の時がやってくるわけではないということです。
 
 私たちも復活について考えることがあります。復活というよりも、「死後の世界」についてと言った方が、現実味があるかもしれません。そう、私たちは死を迎えるということを知っているから、その後の状態について関心を持つのです。不安な思いから、そう訪ねたくなると言う思いもあるでしょう。しかし、復活について考える、関心を持つということは、いずれは死を迎えるという先の出来事に対することだけでしょうか。
 
 主イエスは結婚の制度を含め、復活の時には人間の価値観などは及ばないとだけ言っているわけではないのです。36節でこう言われます。「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」人は神によって生きるものであり、神との交わりの中で生かされる。天使に等しい者、神の子というのは、まず神様に属するものとしての命の生があると言えるでしょう。それはまた神様の愛の中で生かされているということです。
 
 この女性の結婚生活の中における彼女の心情はわかりませんが、ここには跡継ぎをもうける義務や、イスラエルの名を絶やさないための兄弟の義務といったものがこのレビラト婚という結婚制度の中に示されていますが、このレビラト婚に関連するお話が他にもあります。旧約聖書の創世記38章にユダとタマルのお話があります。ユダはアブラハムの孫のヤコブの息子で、イスラエルの12部族のひとつ、ユダ族の祖先にあたる人です。主イエスの時代のユダヤ人は、このユダ族の血筋を最も深く受け継いでいます。ユダと妻の間には3人の息子がいて、長男がタマルと結婚しますが、跡継ぎを残さずに長男は死んでしまいます。そして、彼女はユダの次男と結婚しますが、次男も彼女との間に跡継ぎを残さずして、死んでしまいます。相次ぐ二人の息子の死をユダは悲しみ、すぐに死んでしまう息子たちの死因はタマルにあるのではないかと疑い、ユダの三男であるシェラはまだ成人していないと説明してシェラとは結婚させず、彼女を実家に帰してしまいます。しかも、シェラが成人したあとも、ユダは嘘をつき、タマルと結婚させません。その結果、タマルはやもめとなり、厳しい生活を送っていくことになります。しかし、その後ユダの妻が亡くなり、喪の期間が明けた頃、タマルは遊女の姿となってユダを誘い、ユダの私物であるひもの付いた印章と杖を預かります。ユダはタマルだとは知らず、遊女の姿となったタマルと関係をもって、彼女との間に子供をふたり設けますが、もちろんユダはその事実を知りません。三か月ほどたって、タマルが姦淫の罪を犯し、身ごもったとの知らせがユダのもとに入ると、ユダは怒って、焼き殺してしまえと言いますが、タマルはユダの使いのものに、「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」と告発し、姦淫の相手がユダであることがわかってしまいます。ユダは自らの罪を告白し、タマルとの関係は持ちませんでした。タマルはふたりの息子を産んで、育てていきます。このユダとタマルの間にできた息子たちがユダ族の一族となり、やがてダビデ王が誕生し、イエスキリストがこのユダ族から誕生するのです。
 
 このドロドロとした物語において、ユダの罪やタマルの執念という姿が見れますが、誰が正しく、正しくかないかというより、掟にこだわり、嘘を隠し、それに振り回され続けた人間の苦しみと悲しみが描かれています。そのような罪の姿がそのままに描かれています。体裁を保つために生きているのか、ただ子供に恵まれれば良いのか。私たちもまた何をもってして生きているのかということを考えます。
 
 主イエスは「罪からの救い」をもたらすために、このユダ族の中から、一人の人として生まれ、罪の只中に神の子として、私たちの只中に来てくださいました。罪があるままに人を迎え、私たちと共におられ、私たちを愛し、共に生きて下さる方なのです。
 
 天使に等しい者、神の子とされるというのは、神様に属するものとされる、つまり罪が赦され、神様の愛の内に迎えられ、生きているものです。罪故に裁かれて、死んで終わりではないのです。私たちはこの世にあって、そここそ掟などの人間の習慣の中で生きています。喜びや楽しみだけでなく、悲しみや苦しみも背負って生きています。ユダやタマル、またサドカイ派の人や、7人の夫をもった女性と同じような体験をして生きています。罪を犯して、罪の上にたって自分の生を保っている姿もあるのかもしれません。それは自分が自分のために生きるからです。しかし、私たちが神によって生きるものとなるために、主イエスは十字架に死なれ、復活しました。私たちが罪赦されて、神の愛のうちに生きるためです。
 
 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と主イエスは約束してくださいました。神に生きる、神に対して生きる、それは神様との関係において、交わりにおいて生きるということです。ただ神様から生かされているということではなく、神様が私たちに関わって下さる、愛してくださっている真実において、私たちが真に生かされているということを知るのです。
 
 パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱでこう言います。「すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(5:15)死んで復活してくださった方のために生きる、それは復活の命をもたらすキリストの内に私たちが生きていくということです。神の子とされ、天使のような存在として神に従って生きていくということです。人の価値観を越えた神の赦しの愛に招かれて、神に対して、今与えられている自分の命を各々歩んでまいりたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。