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2010年12月24日 聖降誕祭燭火礼拝 「あなたがたのために救い主がお生まれになった」

今日 救い主 誕生!
ルカによる福音書2章1〜20節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆イエスの誕生

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

◆羊飼いと天使

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ルカによる福音書2章1〜20節


私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

 

今日の説教題は「今日 救い主 誕生!」という題ですが、正しくは「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の言葉です。その言葉を今日一緒に聞きたいと思います。

クリスマスというのは、いきなり来たのではありません。旧約聖書の時代から連結した時間の流れの中でおきました。パウロはガラテヤの手紙で「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」言い、クリスマスは「時が満ちて」起きた事で、それは「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れ」(テトス2:11)た日だと書いています。クリスマスは、旧約の、神の約束の成就・実現した事を私たちは知る日でもあるのです。その時間的な流れを追体験するために、クリスマスの四週間前の「待降節」という期間が守られ、心の準備をするといわれています。一番顕著なことは、クリスマスクランツです。四本のローソクを、毎週一本ずつ点灯して、四本つけるとクリスマスがくるのです。心をワクワクしてクリスマスを迎えることになります。その意味では今日は本当にうれしい、喜びの日です。

今ではクリスマスは大きな祭りですが、最初のクリスマスは貧しいものですし、人々の目を引かない出来事でした。

また、クリスマスは驚きで充ちています。受胎告知でもマリアは驚いています。「どうしてそんなことが・・」と言っています。ヨセフも驚きました。慌てて婚約解消を考えていました。荒野の羊飼いも天使の出現に驚いています。東方の博士たちは星を見て、驚いてエルサレムに向かって旅をしました。宿屋の人たちも驚いたでしょう。なぜなら羊飼いたちがやってきたからです。なんだこれはです。何故人々は驚いたかですが、それは思いがけないことが起きたから驚くということです。驚かない人もいました。それは赤ん坊が生まれたという普通の出来事と考えるからです。生まれた方が神の子であると気が付かないからです。当時の人はクリスマスを前もって知っていた人はいませんでした。神が計画し、実行したからです。こんな仕方で神の御業が起こるとは、予想できませんでした。

クリスマスはイエス・キリストの誕生日ですと言います。ご承知のように戸籍が残っているわけではありませんから、正確ではありません。当時の他宗教の祝祭日を、意味を変えて転用したと言われています。そういうことはよくあります。また。イエスの誕生が歴史というか年代を決めています。つまり、BC、ADです。BCは英語ではBEFORE CHRIST・キリスト前を意味します。ADはAnno Domini・ラテン語・the year of Our Lordで、西暦・紀元を意味します。キリスト誕生を紀元元年としています。今はAD、BCを使わず、CEを使います。the Christian Era・キリスト紀元、西暦紀元です。あるいはCommon Eraとも言います。それは他宗教を尊重してです。

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」とあります。ヘロデ大王の時代にイエスはベツレヘムに生まれたとされています。しかし、ヘロデは紀元前37年にユダヤの王になったヘロデは紀元前4年に死んでいます。天文学者たちの研究で、今日では紀元前7-6年をイエスの誕生と見ている人が多いです。ですから、紀元後の29-30年にイエスが十字架に付けられたとすると、イエスの生涯は大体37年位でしょう。イエスが伝道した期間・イエスの公生涯は最後の1-3年であろうと思われます。

クリスマスは神が計画し、実行したことといいます。聖書ではそれを預言と成就と言います。イエスが生まれるところも預言されていました。聖書はその場所は「ベツレヘム」だと言います。

普通クリスマスは誰のためかと言いますと、こんな答えが出ます。1.人間のため。2.世のため・世界のため。3.自分のためです。この3の答えが出来る人に、クリスマスの意味が出て来ます。しかし、よく見ると、クリスマスは神が必要としたものだと言うことです。神の側から見たクリスマスの意味です。人間の救いを見ますと、いつも神が先手を取っていると知るのです。私たちもそうです。イエスは言っています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。

クリスマスは神のためとは?それは親と子供を考えると分かります。子供は親が何くれとしますと、いやがります。経験です。子供は、自分は自分なりにやっていると考えます。しかし、親がそうするのは「親の愛」と言えます。親の愛がそうさせるのです。それを五月蠅いと思うのですが、親は子供のためにしているのです。

これをクリスマスに適用します。神がひとり子イエス・キリストをこの世に送ることを決意し、実行したのは、そうせざるを得なかったのは、神がそうする情況が私たちの方にあったということです。「神の愛・こころ」がそうさせたのです。神は天より人間を見て、どうしても放っておけないので、イエス・キリストを、この世に遣わされたのです。神が放っておけないと考えたのは人間の罪でした。こんなことをというと奇妙に思うでしょうが、それは私たちが余り罪について考えないからです。たいしたことではないと思います。昔も今も変わりません。人間が罪を犯している、それを見ない振りをしているのが人間ですが、神は違います。神は罪の恐ろしさをよく知っているからです。ですから、神は手を差し伸べられたのです。それがクリスマスの出来事です。

マリアとヨセフは人口登録のために、ナザレからベツレヘムに向かいました。約140キロの旅です。二人はダビデの血筋のため、登録のために故郷の町・ダビデの町に行きました。ベツレヘムはダビデ王の生誕地で、ダビデはここで父の羊を飼い、預言者サムエルによって王として油を注がれています。(Ⅰサム16:13)。それ以来ベツレヘムは、「ダビデの町」(ルカ2:4,11)として知られるようになった。

町は混雑で、泊まるところはなかった。で、彼らは馬小屋を借りました。そこで、マリアはイエスを生むことになりました。多くの人は気がつきませんでしたが、その赤ちゃんイエスこそが神の子・メシア・救い主でした。

クリスマスの使信は単純です。神の子がおいでになったことによって、私たちはすぐ側に神がいつもいてくださるということが確信できるようになった。すぐ側にというと何ですから、どんな時でも、神が一緒にいてくださることを確信出来るようになったと言ってもいいのです。それをヨハネはこう言いました。「言・イエス・は肉となって・人間となって、わたしたちの間に宿られた・テントを張った」と。(1:14)。テントとは天幕を張ったということです。これは遊牧人・草原を移動して歩く民族・でないと理解が難しい。ユダヤ人はすぐ理解できました。エジプトから約束の地パレスチナにいく途中、彼らはテントを張っていました。移動式住居です。その中に特別なテントがありました。それは、神の住まいとしてのテント・天幕・「幕屋」(出40:1など)とも呼ばれていました。「彼らがわたしのために(幕屋)・聖所を造らされる第1の目的は、主がイスラエルの民の中に住むためでした。このことから、幕屋、わたしは彼らの中に住む」(出25:8)と主が言われるように、幕屋は「聖所」とも呼ばれています。で、旅の途中でも、そこに行けば神に会えると言うことです。つまり、いつも神が民と共に居るということです。

クリスマスは救い主の誕生日ですが、救いとは何でしょうか。宗教は救いを言います。いろんな救いがあります。困っているから助けるとか、人間の欲望を満たそうという信仰、いわゆる、御利益です。キリストはそんなことは言いません。確かにキリスト教にも、御利益はありますが。イエスとは天使が告げられたように「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。(マタイ1:21)。「罪」は神にとっても、人間にとっても放っておけないことです。前にも言いましたが。神は罪の恐ろしさをよく知っているからです。ですから、神は手を差し伸べられたのです。それがクリスマスの出来事です。

私はクリスマスは人間のあるべき姿、状態にすること、回復することだと思っています。旧約聖書の創世記は天地の神による創造を書いています。神は各創造の日の終わりに、「神はこれを見て、良しとされた」と言っています。英語では it was goodです。ヘブル語ではbAj-yKi(キー・トーブ)です。意味は「確かに よいです」。英語でCOSMOSというのがあります。意味は宇宙・調和・秩序です。調和とは美しい状態です。そこから、COSMETIC・化粧品がでました。ですから、ある先生は「美しい」と訳しました。神は六日目に創造のすべてを見て、「それは極めて良かった」と言いました。極めて美しかったです。でも、今はどうですか。その神の創造の美しさはありません。人間をとってもそうです。人間は美しいと言うより、汚れているのです。パウロはいみじく書いています。

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。(エフェソ2:2-3)。

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」。

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」。(コロサイ1:21)。

パウロは結論します。「正しい者はいない。一人もいない」と。(ロマ3:10)。ですから、人間は調和のない状態にあります。つまり、罪に、悪魔、神に敵対し、神の怒りを受けるべき者でした。そんな状態から、神との調和・神との完全な交わりの状態の美しさを回復するために、クリスマスがあるのです。パウロはこう言います。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。(エフェソ2:4-5)

年末になると、二つの鐘がなります。ヨーロッパに行った方が、日曜日の朝、町中の教会の鐘が一斉に鳴るそうです。それは至るところに神の救いが満ちあふれていることを語っているように感じると言いました。日本の年末の鐘は除夜の鐘です。大晦日にNHKのTVで有名なお寺の鐘の音を聞くことが出来ます。除夜の鐘は、夜中の12時に諸方の寺々で、百八煩悩を除去する意を寓して108回撞つく鐘を言います。百八煩悩とは人間の心身を迷わせる一〇八種の煩悩・一切の煩悩をいいます。

ある方が面白いことを言いました。お寺の鐘は“ゴーン”、「ゴーン」となる。教会の鐘は「カーン」、「カーン」となる。「ゴーン」は英語のgoneだ、教会の鐘はcanである。ゴーンは、(過ぎ)去った、過去の、いなくなって、見込みのない、尽きた、古くなったと言う意味である。響きは暗い。しかし、カーンは出来る、可能性がある、力がある、明るい響きがあります。ギリシャ語で「救い」は「変える」という意味があります。

私たちを・・心の定まらない私たちを・・造り変えようとされて、イエス・キリストをこの世に送り、十字架にあけられたのです。神はあなたを変えようとされているのです。

どうでしょうか。

羊飼いたちは「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と書いてありました。私たちはどうでしょうか。今日、同じように「神をあがめ、賛美しながら」帰ることが出来るでしょうか。「崇める」とは何か。それは心からへりくだって、神を讃えると言うことです。「賛美」とは普通、ほめたたえると言います。しかし、ある先生によると、「賛美」は「神をなだめる」という意味があると言います。クリスマスに神を賛美するというのに、なだめるとはですが。ここにクリスマスの意味があるのです。クリスマスに生まれたイエスが、やがて、私たちのために十字架にかかります。そういう方が生まれたということがうれしいのです。分かると思います。うれしいことです。でも、考えたら、そのような方を送ってくださった神に対する感謝をして、罪を悔い改めて、神を崇め、賛美したい思いが沸くのではないでしょうか。

アーメン

2010年12月19日 待降節第4主日 「謙虚な女マリア」

ルカによる福音書1章46〜55節
説教: 安藤 政泰 牧師

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

ルカによる福音書1章46〜55節


ルカによる福音書に、私達はあの有名な二つの賛歌を読むことが出来ます。

1、マリヤの賛歌      1章46節~55節

2、シメオンの賛歌    2章29節~32節

今日の主日の主題はマリヤの賛歌ですがこの記事の前にありますエリザベツへの訪問から考えてみたいと思います。「主の母となることを告げられたマリヤは、親族でヨハネの母であるエルザベツを訪ねます」

この光景についてルターは 「マルヤは真実の生みの母たるべきものでありました。しかも彼女は、エリザベツのために、手伝い女の仕事をするよう、歩いて2日-3日の旅にでかけたのです。 私達は皆、自分達の誇りを、恥なければなりません。」ルターは聖母像を彼の食堂に掛けていた、といわれています。

それはマリヤを信仰者の代表として神に向かう姿と考えていたからです。

01:45  主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」エリザベツがマリアをその信仰の故に讃えたという事実です。この場面の中心は勿論その偉大さを讃えられたマリアにありますが、しかし、このマリアよりかなり年上のエリザベツが「しるし」となっています。それは マリアの信仰に確証を与えているのです。このことを更に強調しているのが、マリアがエリザベツの挨拶に答えるという形で、記述されている賛歌です。それは マリアの喜びにあふれる確信を表現しています。この冒頭が Magunificat anima mea Dominumとなっており、マグニフィカートと省略して使っています。

この賛歌はサムエル上2:1-10のハンナの賛歌によっています。

2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。

2:2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。2:3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか・・・と続いています

マリアの賛歌の内容は、はじめに、神が彼女に与えられた恵みの故に、神を讃えます。選ばれた民の救いのためになしたもう神の業の豊かさを讃ます。

神はマリアに、ご自身を救い主として示されたように、父祖達に与えられた約束を成就してくださいます。聖にして、憐れみ深い方である神が、その恵みを、真に全てを包むような仕方で自分に与えてくださったことを告白しています。

マリア自身、その恵みのために、卑しい道具となり、神が彼女をもちいられると言う事柄自体の背後に身を隠すのです。マリアに関する記事はこの誕生にだけ集中しています。この事が成就した現在は、旧約の側からみると、それは未来であるし、復活の後の時代からみると、過去のように感じられますが、決してそうではなく、イエスの誕生は現在の出来事であり、また未来の出来事でもあります。そうした意味でこのマリア賛歌は大きな意味があります。単に、マリアを信仰の先輩として敬うだけのものだとしたら、現在の教会にとりマグニフィカートはそれほどの意味が無いと考えます。成就した未来を現在として記されています。私達にとっての未来は、神が最終的に罪により人をこの世を破壊し裁くのではなく、人々の救いの成就の時となるのです。神は未来において、その全能をもって、登場し、時代と一切の物を排除されるのです。神が王として支配される終わりの時は、これまでの基準は完全に打ち砕かれ、これまでの価値観は消滅するのです。

最終目的はそうした価値観の破壊にあるのではなりません。むしろ救いが必要とされ、神の約束にしたがってそれを待つ全ての人々に本当に救いが到来するのです。私達がマリヤの賛歌を見るときに、そこに、一人の謙虚な女の人を見ることができます。彼女は決して自分を高くすることをしませんでした。 それどころかあくまでも謙虚に、神のかえりみを感謝してしかも賛美しているのです。クリスマスになると、いつもマリヤのことを考えます。ひとりの乙女が男の子を宿す、そしてその思いがけない出来事に驚き怪しむ、又、悩む。 しかし、かみの祝福であると知り、その現実をそのまま受け入れる、そこまでの、激しい感情の動きと、受け入れるまでになった信仰、 私達の悩み、怒り、悲しみ、はマリヤの経験から考えるとはるかに軽く凌ぎやすいのもではないでしょうか。マリヤを考える時、私達は自分の誇りを 恥ずかしい、と感じざるをえない。それはマリア自身、その恵みのために、卑しい道具となり、神が彼女をもちいられると言う事柄自体の背後に身を隠すのです。それが神の器となることです。

2010年11月21日 聖霊降臨後最終主日 「明日の生命の心配は無用」

ルカによる福音書21章5〜19節

説教:安藤 政泰 牧師

ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石 も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こ るときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と か、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっている が、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や 疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡 し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決 めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで 裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくなら ない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」


私達にとって終末について考える事はなかなか難しい事のように感じます。

 

それは、自分の今の問題として考えにくい、と言う点があるからです。

21:06  「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

さてキリストの6節の言葉は、紀元70年に起こったエルサレム神殿の崩壊の予告とされています。それまではエルサレムに神殿を持ち、ユダヤ人社会、 国家を曲がりなりにも形勢していましたが、神殿の崩壊と共に国家も崩壊していくのです。その後約2000年の後にイスラエル共和国が誕生する事はよくご存 じの事です。

しかしこのイエス・キリストの予言は単に、エルサレム神殿の崩壊だけを述べているのでは在りません。そうではなく、終末の前兆とその危険のなかで、 それは現在も継続しているが、総てのクリスチャンへの警告と祝福なのです。

それでは、具体的に私達はどのように終末を自分の生活の中で考え受け止めているでしょうか。私達の姉妹教会であるアメリカのミズリー派ルーテル教会 の一部の人達は決して、火葬に伏す事を良しとしません。それは、蘇りの時に自分の戻る身体の事を考えるからです。葬る時は、足を十字架の根元に向けていた します。それは、蘇りの時に十字架を見上げるようにな姿勢になる事を意図してのことです。

私達はこの事の善悪を論じる必要はありません。しかし、甚だ具体的に自分達の問題として、身体の蘇りを考えて居る、と言うことには注目する必要があ ります。礼拝毎に告白する私達の使徒信条では、その最後の条項で「我は聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、身体のよみがえ り、限りなきいのちを信ず」と言っています。この、信条は単なる題目ではありません。私達が告白する内容がどのように自分自身の中で具体的になっている か、が問われるはずです。

21:07  そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」

7節の弟子の質問、「終末の前兆について」は誰でも関心を持っています。聖書によれば、偽キリストの出現、戦争、暴動、大地震、疫病、飢餓、天地異 変があると言っています。

私達の世界を考えると、聖書で述べている終末の前兆は起こり続けて居るように思えます。中東では利害関係とイデオロギーを交えた、宗教戦争が起こっ ている、と言ってよいでしょう。テロ活動が今でも続発し、子供達の間では生命に付いての価値観が混乱し、いじめなどが起こっています。

気候の不順は作物に影響を与え、深刻な食糧問題ともなってきています。

このような事はいつの時代にも起こったはずです。ただ現代は情報がよく伝わるので世界の出来事がまるで自分の出来事のように感じてしまうということ でしょう。

紀元51年ごろすでに偽の終末についての情報が流されています。(第2テサロニケ2章2節)

私達は偽の、みせかけのものに惑わされてはなりません。キリスト教と言う名のもとに、キリスト教でないものがそれらしく振る舞っています。

終末、再臨の前兆、といったものは、私達人間が自分勝手にそのように解釈してでっち上げているものが大部分です。その前兆は、終末や再臨の本質的意 味から考えるとほんの枝葉の事です。そのような前兆に惑わされて主イエス・キリストから離れてしまう事、に警告を発しているのです。

変わった何かに、新しい何かに飛び付くのではなく、今の与えられた自分の場所で、自分の信仰をよく見詰めて行くことが大切です。

「21:19  忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

19節、自分勝手にその前兆を解釈せず、主の約束を信じて耐え忍ぶ事が勧められています。それは又、今日の生活を大切にする事が、具体的には主の再 臨に備える事でもあります。それは16~18節 たとえ肉体は殺されても、「しかし、あなたがたの髪の毛ひとすじも失われる事はない」ほど私達の魂の平安は必ず守られる、と言う約束があるからです。

先の事を心配のあまり、色々労して元のものをなくしてします、そのような誘惑に強く立ち向かいたい。

2010年11月14日 聖霊降臨後第25主日 「生きるとは・・なにに対してですか」

ルカによる福音書20章27〜40節

説教:五十嵐 誠 牧師

◆復活についての問答

さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン


サドカイ派のグループがイエスと問答をしているところが出ています。サドカイ派とはイエスと論争をしたユダヤ教の一派です。新約聖書では14回出てきます。サドカイ派は紀元前・BC6世紀の第二神殿の再建から紀元・AD70年の神殿崩壊するまでの間、神殿でのユダヤ教の祭儀を執行していたグループで、社会的、宗教的な地位を持っていました。神殿での権益を持っていました。また、ユダヤ人の国会に相当する「サンヘドリン」(最高法院)の大祭司と多くの議員を持っていました。彼らは復や天使の存在を否定していた。(マタ22:23、 ルカ20:27)。

 

*◆最高法院(さいこうほういん) ユダヤ人の自治機関。イエスの時代には,大祭司を議長とする71人の議員で構成され、行政と司法の権限を持つ会議であった。ユダヤ教の律法に関する最高法廷として、死刑を含む判決を下す権限を持っていたが、最終的にはローマ総督の裁断を仰がなければならなかった(マタ26:57~27:26,使5:17-42,22:30~23:3。

*◆サドカイ派(Sadducees)・イエス時代のユダヤ教の三大教派の一つ。モーセ五書だけを正典とし、復活や天使を否認。祭司層が多かった。

復活を否定するサドカイ派は結婚制度を取り上げています。これはかっては日本でも、農村にありました。普通「レビレート・levirate」と言いますが、寡婦・未亡人・やもめの処遇に関する慣行の一つで、夫が死んだ後、その妻が夫の兄弟に引き取られる制度。財産と家名をも守る役目を持っていた。(申命記25:5-10,創世記38:8-9)昔は戦争中にありました。

◆申命記・25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、(家名の存続)。*この逆を「ソロレート・sororate」と言い、妻が死んだ後、その夫が妻の姉妹と再婚する制度になる。

サドカイ派の想定は、七人兄弟の兄が死んで、その後そのやもめが、次々と夫を亡くし、その兄弟と次々と結婚していきます。あまりないことですが、イエスを試すためにしたと思います。一人の妻と七人の夫がいることになります。当然、復活を信じる者にとっては復活が生じたら、どうなるかは興味があります。サドカイ派のようなためにするような興味ではなくてです。クリスチャンは時には、からかわれて質問されます。学生の頃に「泥棒が捕まらないように祈ったら、神は聞くか」とか、「戦争で敵味方が、お互いに勝利を神に祈るがどうなるか」なんて言うのがありました。質問する方は真剣でなく、自分の答えを持っているのです。私は逆襲して、同じように聞き返したことを覚えています。

私はイエスの答えに、一種のユーモア、皮肉を感じます。サドカイ派の質問そのものが愚かしいものです。確かに聖書に関する質問しましたが、同じ話のマタイの福音書(22:29)では、イエスはきっぱりと「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」言っています。彼らなりに聖書を学んで質問をしたが、イエスは一言で彼らを撃退しました。サドカイ派のうろたえた姿があるようです。イエスは笑ったのではと思います。ルカはそれを省いていますが、イエスは単刀直入に答えています。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。

イエスは「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」。イエスは、私たちは神の力により、復活の時には天の御使い(天使)のように、霊の体に変えられるので、子孫を残す必要がないから、もはや結婚する必要はないと言う。サドカイ派は常識の範囲で復活を考えていたのであり、復活は常識を越えた超自然的な力・神の力であることを知らなかった。そこに彼らの誤りがあった。

かつてイエスはこんなことを言っていました。「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」。(ヨハ 3:12)。これはこうも言えると思います。「私が常識的なこと(人間的には普通に見えること)を話しても信じないなら、どうして常識を越えたことを話して(人間的に非常識に見えることを話たこと)信じないだろう」です。

イエスの答えは一見して言い逃れのように取れますし、上手い返答だなとも言えます。「あっと」いうような答えです。同じような、こんなことがありました。それはローマ皇帝への税金に関するものでした。律法学者やサドカイ派のものたちが、イエスに「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」とたずねました。イエスは「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。(ルカ 20:22-25)。聞いた連中は「その答えに驚いて黙ってしまった」のです。イエスというのは頭の回転が速い方のようです。肯定・否定に答えても問題が起こるので、鮮やかに回避したからです。肯定と律法違反、否定するとローマへの反逆です。

イエスは揚げ足を取られないようにとか、問題のすり替えで答えたりしているわけではありません。きちんと正しい答えをしています。少し分かりにくいですが。イエスはこう言っています。旧約聖書の背景を知っていないと分かりにくいので説明します。

このイエスの「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。

モーセの「柴」の個所とは出エジプト記の出来事です。イスラエル人がエジプトで奴隷のような過酷な境遇に苦しんでいました。そこから神の民を救うために、神はモーセを選びました。詳しいことは出エジプト記3:1-14を読んで下さい。以下にあります。

◆モーセの召命

3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。3:2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトかき出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

モーセはある日、羊を追って行き、ホレブ山で柴が燃えているのを見て、不思議に思い近づくと神の声が彼に掛けられる。神は燃える柴の炎として現れています。神はモーセを奴隷として苦しんでいる民を、エジプトから助けるべく呼ばれる。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と。その時、神の「名前」が出てきます。エジプトでモーセが行った時、だれがモーセを遣わしたかと、「彼らは、「その名は一体何か」と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。神の自己紹介があります。英語で言うと「Iam」です。ここからユダヤ人の神は「ヤハウェ」と言われます。ユダヤ人は神の名を呼ぶのを恐れて、「主・アドナイ」と呼びました。余り恐れたので正しい神の名を忘れたと言われます。エホバというのがあります。今、町で見かけますし、訪問伝道しています。それは神を表すヘブル語の四文字(YHWH・ヤハウェ)にアドナイの母音を付けて16世紀から使われています。この「ヤハウェ」の神は御自身を永遠の自存者、不変の絶対的存在として啓示しています(出6:2)。神は独立自存者であって、現在も生きており、人間を救い、助け、祝福し、契約を守られる方であることを意味しています。

イエスはサドカイ派に聖書から、復活の存在を示しました。モーセが・・ユダヤ人が尊敬する・の言葉を取り上げています。少し分かりにくい点があります。イエスの独特のレトリック・rhetoric・ 巧みな表現をする技法・があります。イエスという方はディベイトにたけていたと思います。今ではそういうテクニックを教える所があると言います。

イエスは「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と言いました。

中心は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」にあります。その証拠に「主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」です。これは旧約聖書出エジプト記3章の柴が燃えているところを見ないと分かりにくいです。そこでは、神はご自身のことを「わたし(神)はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。(出エジプト3:6)とモーセに告げているのです。(出エジプト記はモーセによって書かれたというのが、ユダヤ人の伝統です。だから、権威があるのです。モーセの五書ともいい、創世記、出エジプト記、民数記、申命記、レビ記はモーセが書いたという)。ですから、少し分かりにくいので、これは次のように言い換えると分かります。「主はアブラハムの神である、イサクの神である、ヤコブの神である」とモーセは書いて示しているのであって、「主はアブラハムの神であった、イサクの神であった、ヤコブの神であった」と過去形で、つまり、墓の中の彼らを懐かしんで言っているのではないのです。彼らを過去に死んだ人ではなく、「主はアブラハムの神である、イサクの神である、ヤコブの神である」と現在形で言い、「彼らは今も生きている、今も神は彼らの神である」。だから、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なの」です。今も彼らは復活を待っているのだと、イエスは言ったのです。すごい論理です。イエスはサドカイ派が最も信頼するモーセの書・・彼らの権威の書から回答しました。サドカイ派は聖書への無知を露呈しました。だから、「彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」のです。「聖書読みの聖書知らず」です。

イエスは生きていると言いましたが、大事なことは「なにに対して生きているか」なのです。今朝の聖書は「神によって生きている」と訳していますが、別の新改訳聖書は「神に対して生きている」と訳しています。そうすると、イエスは「神に対して」(新改訳)と言われたのです。

この言葉は大事です。今の私たちにとってもです。それは生きると言うことの根源的な、おおもとの意味が明らかにされているからです。人が生きる、生きているとは、自然に対してでも、金銭や物のためでもなく、まして人のためでもなく、神に対して生きるためです。これ抽象的ですから、易しく言うと、「神を愛して、神に愛されて生きる」ことです。私たちはどうでしょうか。なにに対して、今、生きていますか?それが今朝の問になります。

私はこの説教を書いていて、思ったのは、私たちの神は私たちを墓の中に安らかに導く神ではなく、私たちを今も後も、信じる私たちの神として、神の傍で、神を仰いで、喜びで充たされて生きる者としてくださり、終わりの日、イエス・キリストが来られるとき、復活の命、そして永遠の命を私たちにくださる神だと確信しました。真に「私たちの神は、今も後も、ずーと私たちの、私の神である」のです。そう信じて生き、そう信じて死を迎えたいと思います。            アーメン