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2010年9月19日 聖霊降臨後第17主日 「行動しながら考える人」

ルカによる福音書  16:1~13

説教:安藤 政泰 牧師

説教概要

不正な家令の物語りと言われている、この福音書の箇所は又理解するのに難しいところとしても有名です。

8節 「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。」また聖書は9節ではその友人のつくりかたについて「不正の富を用いてでも、自分のために友をつくるがよい」とも述べています。

この箇所が何故理解するのに難しいのでしょうか。それは、倫理的に聖書の述べるところを考えようと無意識のうちにしているからではないでしょうか。

私達は聖書に倫理的基準を求めているのでしょうか。または具体的に生活の指針を見付けようとしているのでしょうか。聖書に記されている文字道理の生活をし、そこに記されている通りの倫理的基準に従って生活しようとしているのでしょうか。

先に引用したように主人はその不正な家令をほめました。しかし、その家令の何をほめたのでしょうか。その不正そのものを褒めたのでしょうか。

主人のものをくすねたこの家令は、その主人から会計報告を求められました。この家令は色々と策を考えます。そして、一層悪いことに、主人の負債をまけてやる事を思いついきます。それは、首になった時の事を考えて、後の生活の道をつける、という事です。

主イエス・キリストはこのような、「不正の家令のやり方を褒めて」います。友人をつくるさいの仕方についても考えてみたい。

自分自身の身に迫った危険に対して、この家令は有りったけの知恵を働かせて対処しました。

私達はこのような実行する力を持って信仰について考え行動しているでしょうか。様々な問題を考えてなかなか実行出来ないのが私達の現実では無いでしょうか。特に信仰にもとずく愛の行動、行動については、即座の判断と実行が必要ですし、自分自身の信仰については厳格である必要があるでしょう。

自分の力の限界を考え、自分の思いの不純さを考え、更に相手にどの要に受け取られるかをおもんばかり、実行に映せないのが今の私達の現実ではないでしょうか。

聖書はこの不正な家令の行動そのものを褒めて、また勧めているわけではありません。聖書は私達と神との関係の持ちかたについて述べています。

人には、考えてから行動する人、行動しながら考える人の二つのパターンがあると言います。

私達は信仰に於いては考えてから厳格に行動に映すものであり、又、その愛の行為に於いては、主イエス・キリストに導かれるままに、行動しながら考える者でありたいです。

2010年9月12日 聖霊降臨後第16主日 「共に喜ぶ」

ルカによる福音書15章1〜10節

説教:樫木 芳昭 牧師

(要約)

◇今日の福音書は徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たと始まっている。

X-st.は、彼ら徴税人や罪人をたびたび訪ねているので、この徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たことは特別のことでない。

◇が、ファイリサイ派の人々や律法学者たちには、このX-st.の姿勢が理解できなかった。

◇神の掟に従って清く正しく生きようとするファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、征服者Rm.のために税金を手数料込みで取り立てる徴税人は、忌み嫌うべき穢れた人間であった。

◇罪人とは、律法学者が定めた解釈に従って生活しない人びとで、実態は今の世なら不道徳な人、恥ずべき職業についている人びと。

◇こうした人びとは、ファリサイ派の人々や律法学者たちから蔑まれ、白い目で見られていた。

◇また、律法学者やファリサイ派の影響を受けた人びとも、彼らを軽蔑し、白い目で見ていた。

◇ここで問題は、神が聖なるお方であると考え信じることは信仰の基でだが、その神の聖なることを、人間が多分こうだろうと想像し、それを尺度にすること。

ファリサイ派や律法学者たちは、神は聖なるお方であるから、当然人間も聖なる者であることを厳しく求めると考えた。

律法学者とは、この様な考えに基づいて、人間が聖なる者となるための神が形と道を定めたのが、所謂、律法・掟だとした。

◇このような道は人間の努力目標としてはよいが、それが基準となると、彼らの定めた道を歩めない者は皆、穢れた脱落者、神から見捨てられたものとなる。

◇そして、同時に求められた能力のない者は、所謂、脱落者、落ち零(こぼ)と切り捨てられる。

◇換言すると、弱い人間、恵まれない人間は切り捨てご免、絶望するより他に道がないことになる。

◇今日の日課に登場するファイリサイ派の人々や律法学者たちは、善く言えば、何があっても揺らぐことのない信念の人、悪く言えば天井天下唯我独尊、手に負えない頑固・頑迷な人びと

ファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、徴税人や罪人は、言葉を交わすことはおろか、傍に近付くのも忌み嫌い、避けるべき人びと。

X-st.は、その徴税人罪人が話を聞こうとして近寄って来るままにしているどころか、罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている

◇これはファイリサイ派の人々や律法学者たちには言語道断。

◇それで、彼らは口々に不平を言いだした

◇この不平を言うという語の原語、新共同訳聖書で、他に囁く、呟くと訳されている、自分の期待に反していることを口にするを表す語。

◇そして今日の日課の不平を言うは、その強調形、つまりその不平の激しさを示している。

NT.不平を言う強調形は、今日の日課と、これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」Lk. 19;07.X-st.徴税人ザアカイの家に入って行った場面の二箇所だけ。

◇つまり、不平を言う強調形は、ファイリサイ派の人々や律法学者たちとその考えに同調する人びとが、罪人を迎え入れるX-st.を理解できなかったことを示している。

◇今日の二つのX-st.たとえは、そのファイリサイ派の人々や律法学者たちの考え方の誤りを指摘する話。

◇この二つのたとえ三つの共通点がある。

◇第一、この二つのたとえが共に神の憐れみを語っている。

聖なる神の憐れみは、欠けを許すことが出来ない。

◇だから徹底的に失われた羊、失われた銀貨を捜したようにその欠け、人間のマイナスである欠点を覆う。

神は人間の欠点や汚れを絶対に赦すことが出来ないが故に、その欠点、汚れを覆われる。

◇つまり聖なる神であればこそ、神は厳しく人の欠点や穢れを糾弾し、そしてその欠点や穢れ憐れみによって人を覆われる。

◇そう、欠点や穢れの故にをご自分の前から排除して切り捨てるのではなく、賛美歌No.303.このまま、我を愛し召し給うと歌うように、あるが侭の人を受け容れる。

◇第二、は、迷い出た1のために99を残して捜しまわる羊飼いのように、9も残っているのに、失われた1を見付けるまで家中を捜すのように、欠点や汚れがあるからと弾き出されるを捜し求める。

◇残りが99もあろうと、残りが9あろうと、失われたを見つけるまで捜す、此処に、神の不思議な計算、福音の計算がある。

◇私たちの計算は合計を出して+か−を重く見、+を良しとする利益の計算。

◇だが、神の計算は常に−を重視する計算。

100匹の羊の内のが失われる、これはの−。

10枚の銀貨の内のを見失う、これは10の−。

◇も実感として、千円入れた財布から10円失われて、私たちは痛みを感じるか。

10円硬貨10入れたつもりの小銭入れ、開けたら9、そのとき、私たちは大騒ぎをするか。

◇私たちの計算ではの損失は殆ど問題ではない。

◇また10の損失も、それほどの打撃でない。

◇しかし、神の計算では%ではれ、10%であれ、失われたこと、−が問題。

神の計算は常に残された者の側でなく、失われた者の側に立っている。

◇第三は、今日の日課の中で、見つけたから、喜んでその羊を担いで、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい、大きな喜びが天にある、無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください、神の天使たちの間に喜びがある喜びという語が5回も用いられている。

◇この喜び神の喜びを指している。

◇この神の姿は、世界で一番信仰深いと自認するファリサイ派や律法学者たちの考えた正義の神の姿からは思いもつかぬもの。

X-st.はこの例えで、その神の喜び自分の喜びとして受け容れるか、あるいは、神が喜ぼうとも、正義は正義、罪人は罪人断罪するかと問われている。

は、人の義ではなく、ご自信の義で人を裁き、判決を下す。

は、迷い出たことを迷い出た、失われたことを失われと、人の罪を罪と認めた上で赦される

◇換言すると、は人の過去をすべてご存じで、人には情状酌量の余地はないとハッキリと認めた上で、その過去、その罪を問わないという判決、赦しを与えられる。

◇神が失われた者を捜し出すのは、その人を断罪するためではなく、その人を赦すため。

◇このの私たちに対する思いを具体的に表す方が人となられたX-st.

◇故に、今日の例えに記されている喜び神の喜びである。

X-st.のみが、失われた者を見つけ出して喜ばれる方。

◇これは他人事ではない!

◇そのX-st.が捜し出してくださったので、あなたは今日ここにいる。

◇あなたを探し出し、そして一番喜んでおられるのはX-st.

X-st.はあなただけを探し出し、そして一番喜んでいるのではない。

X-st.は、仮にあなたがファリサイ派や律法学者たちの眼鏡をかけたら、穢れた者、罪人と映る人を捜し出し、そして一番喜んでおられる。

◇そう、あなたも、あなたの隣人も、神の喜び、X-st.の喜びなのです。

◇共に神に喜ばれる者として互いに受け容れ、共に喜び、共にこの世をみ許に至る日まで歩もう!

2010年9月5日 聖霊降臨後第15主日 「捨てる勇気」

ルカによる福音書14章25節~33節

説教:安藤 政泰 牧師

説教概要

今日の福音書のテキストは、よく誤解を招きやすい箇所です。

聖書は決して親、兄弟を粗末に扱ってよいとは教えていません。

しかし、25節だけを読んでそのように解釈してしまうと困ります。

14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

昔キリスト教会に親が子供を行かせなかった理由に、教会では親を粗末にする教えをするからだ、と言った、と聞いたことがあります。

聖書はけっしてそのように教えていません。これは誤解です。

さて、今日の話の内容はイエス・キリストご自身が経験された事、又はこれから経験されるであろう事を土台として話されているのです。又、そのイエス・キリストの行われる事業についてご自身をその証拠として示されているのです。

1)キリストはご自身の両親、兄弟のことを第1に考えましたか?

2)キリストが第1に考えた事は、人々の救いです。世界の救いです。

まず自分の兄弟、親を救ってから、世界の、全人類の救いを考えようとしたでしょうか?

28以下の話は「救いに入ることの出来る」と言う確証を持って従う事ができる事を見せて下さるのが、イエス・キリストの生涯である、と示しています。

誰でも先の見とおしを考えてから行動します。

建設を考えるとき同じような規模、同じような状態の例をまず研究したいと願います。そして自分の建設計画を立てます。経済的うらずけはもとより、設計図、その他を吟味します。

私達の命、救いに就いても十分に吟味されることに堪えられる内容をキリストは提供しておられます。それでもなを、吟味したり、検討したりする必要があれば幾らでも出来ます。そのように検討、吟味した結果であろうとなかろうと、

まず。その約束は見せられています。

それに従い、その約束に入るにはどのようにすればよいのでしょうか。

信仰の問題です。信仰者の生活の問題です。

信仰は個人の問題です。家族関係や親族関係に関係はありません。私と神とのかかわりあいの中で救いの問題が問われるのです。たとえ夫婦であっても、こと信仰に関しては別々です。 夫婦の一人が救われ一人が救われないと言うことも起こり得るのです。あくまでも個人の問題です。

自分の信仰の事が大切です。自分を捨てる、自分の十字架を負う、自分の財産をことごとく捨てる、これはどんな意味でしょうか。

自分の生活の判断基準、生活そのものを支えていた考えかた、総てを捨てることです。例えば、財産はすべて自分の力だけで得たものでしょうか。神から与えられ又、神に帰すものではないでしょうか。それも、神の助けにより、自分の殻から出て古い自分を捨てることが出来るのです。言いかえれば、自分を空にすることです。

私たちは、食事に呼ばれる前に、スナックのようなものを

自分で何か食べて、それで、お腹が半分ぐらいいっぱいにして

出かけることもあります。特に、パーティーに行くときには、トーストを1枚食べていけば席上、余裕をもって、食事が出来るからだと考えます。

がつがつ、したくないからです。しかし、それが、個人の家でしたら、どうでしょうか? 招いた人がそれを知ったら、ちょっと、考えてしまいます。

お腹を空かせて食事には来てほしい。

今までのしがらみを吸い込んだ食物、今、自分の前にある自前の食物を捨て、主から与えられる新鮮な食物で自分を満たしたい。そのために、自分を空にして、空腹にしなければなりません。自前の食物を捨てる勇気をお与え下さい。

新しい主から与えられる食物で満たしたい。

そのためには、まず、自分のという器をを空にしなくてはなりません

自分の前にある、自前のものを捨てる勇気を与えて下さい。

2010年8月29日 聖霊降臨後第14主日 「まことの謙虚さ」

ルカによる福音書14章7〜14節

説教: 粂井 豊 牧師

ルカによる福音書14章7〜14節

イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


始めまして。札幌にあります札幌中央ルーテル教会の牧会の責任を負っています、粂井です。多くの方々が、初めてお会いするか、または、どこかでお顔を会わせていても、言葉を交わす機会をあまりもてていない皆さまがほとんどと思いますが、主にあって兄弟である皆さま方と、初めてこのようにして共に、礼拝をすることができることをうれしく思います。

 

今、この六本木ルーテル教会は、専任の牧師がいません。責任教職者である江本牧師を中心に、定年後の安藤牧師や五十嵐牧師のお手伝いをいただき、役員の方々や会員のみなさまの支えによって、毎週の礼拝が守られていることを、主にあって感謝いたします。教会の中心は、安息日を覚えてこれを聖とすることです。神さまは、モーセを通して十の戒めを与えられました。その戒めの一つに、安息日を覚えて聖とするようにと教えています。専従の牧師がいない中にあって、礼拝を守り支えていくことは大変なことと思いますが、毎週の礼拝を休むことなく続け、み言葉に生かされた歩みをしていただきたいと願っています。

さて、今日の福音書の日課は、イエスさまが招待受けた客が上席を選ぶ様子をごらんになって、その方々にたとえ話で語りかけられた内容の箇所です。

たとえは二つ語られていますが、ふたつとも、話としては、それほど難しいものではありません。

一つは、日本人には、むかしから教えられている、謙遜の美徳の精神に通じるお話しです。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て『この方に席を譲ってください』と言うかも知れない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。・・・・・・・・・。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と綴られているイエスさまのお話しは抵抗なく聴き取れます。

二つ目は、“招いてお返しできるような人々を招かないで、お返しできないような、身体にさまざまな不自由がある人々や、貧しい人々を食事に招きなさい”という無償の精神を示そうともしているように受け取れる話です。多くの人たちが、スムーズに聞き取り、良い考えだと思う話だと思います。けれど、実際に実行することは、なかなか困難なことです。イエスさまは、何故、このような話をされたのでしょうか。このような歩みをするようにと、教訓を語ろうとしたのでしょうか。人は、とかく、聖書の言葉を教訓として聴き取ろうとしがちなのですが、聖書は、私たちに教訓を示そうとしていません。

イエスさまを招待した人や、そこに招待された人たちの多くは、ファリサイ人や議員たちであると、今日の日課の前のセンテンスに記しています。いわゆる、社会的に立派であり、神さまのことを大切にし、それ故に、律法を大事にして歩んでいる人たちでした。彼らは、神さまが与えてくださった律法を忠実に守り、神さまに従って行くことによって、自分たちの国を再び復興できると真剣に思い、律法を守る事を実行していた人たちです。今日の聖句の後に記されている(18章)箇所では、一週間に二度断食し、神さまに従う正しい歩みを誠実に行うことができている事を感謝する、と祈っているファリサイ派の人の話しがあります。彼らは、そう祈るように、実際に、そのように歩んでいたのです。口先だけでなく、そう祈ることを実行する歩みをしていたのです。ある意味で、上席についてもおかしくない人たちです。その彼らに向かってイエスさまは語られています。

それは、上席に着くことを問題にしておられるのでなく、上席についてもおかしくないと思う、彼らの心の問題を問題にしておられるのです。彼らが、律法を誠実に守り実行しているという、自らの信仰による自己正当化と、それによる他者断罪に陥っている彼らの心の奥底にある傲慢さに矛先が向けられているのです。マルコ12章39節以下で、「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席に座ることを望み、云々・・・」と、記しているように、律法を守り、神さまに従う歩みをしているうちに起こってきている、傲慢さに囚われた律法学者たちの罪ということを問題にされているのです。

しかし、このファリサイ派の人や、律法学者たちの中に起こってくる、罪という心の問題は、彼らだけでしょうか。ルカ22章24節-27節を見ると、弟子たちも、自分たちのうちで、誰が一番偉いだろうかと議論した話しがあります。弟子たちでさえ、自分のことの評価にふりまわされたように、人は、皆、自分の中にある自分の中の、傲慢という罪の問題をもっているのです。

上席に着く、着かないという問題に対して、たとえ、末席に座っていたとしても、それは、末席に座る謙虚な人だと思われるためのものであって、心の奥底には、自分が他者に敬われようとする心に振り回されているのです。

私たちは、謙遜でありたいと思って、へりくだる中にあっても、自分を良く見せようとする欲に振り回されています。そのような驕る罪に振り回されていることさえも分からないでいるのです。

まことの謙遜の中で生きられるのはイエスさまだけです。私たちは、まことの謙遜の中に立っておられるイエスさまに出会い、そのイエスさまを通して、自分が、真の謙遜の中で立ち得ない、自分の欲に振り回される存在であることに気づかされるのです。そんな罪に囚われている私たちを、神さまは赦してくださっているのです。神さまに赦されて生きる中で、神さまに赦されているだけでなく、人にも赦されながら生きていることに気づかされるのです。

イエスさまは、“謙遜になりなさい、無償の愛の中にいきなさい”と、教え諭しているのではなく、まずは、まことの謙遜の中で生き得ない私たちの罪を明らかにされながら、その私たちを裁くのではなく、まことの謙遜の中で生きる者へと導こうとされているのです。