ルカによる福音書15章1〜10節
説教:樫木 芳昭 牧師
(要約)
◇今日の福音書は徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たと始まっている。
◇X-st.は、彼ら徴税人や罪人をたびたび訪ねているので、この徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たことは特別のことでない。
◇が、ファイリサイ派の人々や律法学者たちには、このX-st.の姿勢が理解できなかった。
◇神の掟に従って清く正しく生きようとするファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、征服者Rm.のために税金を手数料込みで取り立てる徴税人は、忌み嫌うべき穢れた人間であった。
◇罪人とは、律法学者が定めた解釈に従って生活しない人びとで、実態は今の世なら不道徳な人、恥ずべき職業についている人びと。
◇こうした人びとは、ファリサイ派の人々や律法学者たちから蔑まれ、白い目で見られていた。
◇また、律法学者やファリサイ派の影響を受けた人びとも、彼らを軽蔑し、白い目で見ていた。
◇ここで問題は、神が聖なるお方であると考え信じることは信仰の基でだが、その神の聖なることを、人間が多分こうだろうと想像し、それを尺度にすること。
◇ファリサイ派や律法学者たちは、神は聖なるお方であるから、当然人間も聖なる者であることを厳しく求めると考えた。
◇律法学者とは、この様な考えに基づいて、人間が聖なる者となるための神が形と道を定めたのが、所謂、律法・掟だとした。
◇このような道は人間の努力目標としてはよいが、それが基準となると、彼らの定めた道を歩めない者は皆、穢れた脱落者、神から見捨てられたものとなる。
◇そして、同時に求められた能力のない者は、所謂、脱落者、落ち零(こぼ)れと切り捨てられる。
◇換言すると、弱い人間、恵まれない人間は切り捨てご免、絶望するより他に道がないことになる。
◇今日の日課に登場するファイリサイ派の人々や律法学者たちは、善く言えば、何があっても揺らぐことのない信念の人、悪く言えば天井天下唯我独尊、手に負えない頑固・頑迷な人びと。
◇ファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、徴税人や罪人は、言葉を交わすことはおろか、傍に近付くのも忌み嫌い、避けるべき人びと。
◇X-st.は、その徴税人罪人が話を聞こうとして近寄って来るままにしているどころか、罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている。
◇これはファイリサイ派の人々や律法学者たちには言語道断。
◇それで、彼らは口々に不平を言いだした。
◇この不平を言うという語の原語、新共同訳聖書で、他に囁く、呟くと訳されている、自分の期待に反していることを口にするを表す語。
◇そして今日の日課の不平を言うは、その強調形、つまりその不平の激しさを示している。
◇NT.で不平を言うの強調形は、今日の日課と、これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とLk. 19;07.のX-st.が徴税人ザアカイの家に入って行った場面の二箇所だけ。
◇つまり、不平を言うの強調形は、ファイリサイ派の人々や律法学者たちとその考えに同調する人びとが、罪人を迎え入れるX-st.を理解できなかったことを示している。
◇今日の二つのX-st.のたとえは、そのファイリサイ派の人々や律法学者たちの考え方の誤りを指摘する話。
◇この二つのたとえに三つの共通点がある。
◇第一、この二つのたとえが共に神の憐れみを語っている。
◇聖なる神の憐れみは、欠けを許すことが出来ない。
◇だから徹底的に失われた羊、失われた銀貨を捜したようにその欠け、人間のマイナスである欠点を覆う。
◇神は人間の欠点や汚れを絶対に赦すことが出来ないが故に、その欠点、汚れを覆われる。
◇つまり聖なる神であればこそ、神は厳しく人の欠点や穢れを糾弾し、そしてその欠点や穢れを憐れみによって人を覆われる。
◇そう、神は欠点や穢れの故に人をご自分の前から排除して切り捨てるのではなく、賛美歌No.303.がこのまま、我を愛し召し給うと歌うように、あるが侭の人を受け容れる。
◇第二、神は、迷い出た羊1匹のために99匹を残して捜しまわる羊飼いのように、9枚も残っているのに、失われた1枚を見付けるまで家中を捜す女のように、欠点や汚れがあるからと弾き出される人を捜し求める。
◇残りが99もあろうと、残りが9あろうと、失われた1を見つけるまで捜す、此処に、神の不思議な計算、福音の計算がある。
◇私たちの計算は合計を出して+か−を重く見、+を良しとする利益の計算。
◇だが、神の計算は常に−を重視する計算。
◇100匹の羊の内の1匹が失われる、これは1%の−。
◇10枚の銀貨の内の1枚を見失う、これは10%の−。
◇も実感として、千円入れた財布から10円失われて、私たちは痛みを感じるか。
◇10円硬貨10枚入れたつもりの小銭入れ、開けたら9枚、そのとき、私たちは大騒ぎをするか。
◇私たちの計算では1%の損失は殆ど問題ではない。
◇また10%の損失も、それほどの打撃でない。
◇しかし、神の計算では1%ではれ、10%であれ、失われたこと、−が問題。
◇神の計算は常に残された者の側でなく、失われた者の側に立っている。
◇第三は、今日の日課の中で、見つけたから、喜んでその羊を担いで、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい、大きな喜びが天にある、無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください、神の天使たちの間に喜びがあると喜びという語が5回も用いられている。
◇この喜びは神の喜びを指している。
◇この神の姿は、世界で一番信仰深いと自認するファリサイ派や律法学者たちの考えた正義の神の姿からは思いもつかぬもの。
◇X-st.はこの例えで、その神の喜びを自分の喜びとして受け容れるか、あるいは、神が喜ぼうとも、正義は正義、罪人は罪人と断罪するかと問われている。
◇神は、人の義ではなく、ご自信の義で人を裁き、判決を下す。
◇神は、迷い出たことを迷い出た、失われたことを失われと、人の罪を罪と認めた上で赦される。
◇換言すると、神は人の過去をすべてご存じで、人には情状酌量の余地はないとハッキリと認めた上で、その過去、その罪を問わないという判決、赦しを与えられる。
◇神が失われた者を捜し出すのは、その人を断罪するためではなく、その人を赦すため。
◇この神の私たちに対する思いを具体的に表す方が人となられたX-st.。
◇故に、今日の例えに記されている喜びは神の喜びである。
◇X-st.のみが、失われた者を見つけ出して喜ばれる方。
◇これは他人事ではない!
◇そのX-st.が捜し出してくださったので、あなたは今日ここにいる。
◇あなたを探し出し、そして一番喜んでおられるのはX-st.。
◇X-st.はあなただけを探し出し、そして一番喜んでいるのではない。
◇X-st.は、仮にあなたがファリサイ派や律法学者たちの眼鏡をかけたら、穢れた者、罪人と映る人を捜し出し、そして一番喜んでおられる。
◇そう、あなたも、あなたの隣人も、神の喜び、X-st.の喜びなのです。
◇共に神に喜ばれる者として互いに受け容れ、共に喜び、共にこの世をみ許に至る日まで歩もう!