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2010年7月4日 聖霊降臨後第6主日 「あなたがたは私をだれと言うか」

ルカによる福音書9章18-26節

説教:安藤 政泰 牧師

日本人として聖書を読むときに、どうしても仏教的は背景や、影響を受けて読むということがあります。それは日本に内在している仏教の影響とでもいうことができます。 ちなみに、欧米語にはキリスト教的な背景があります。

私たちは、日本語の中に含まれている、仏教的な意味合いを否定して、聖書を読んでも、それはほんとうに自分の身になるのかと、思うこともあります。

そうではなく、自分の信仰を外国語を借りて考えるのではなく、日本語の中で、自分の信仰を考えることをしてみるべきでしょう。そのことにチャレンジした私たちの先輩の牧師、神父、芸術家も多くおられます。

さて、仏教には因果の法則といわれる考え方があります。一般的には、善い行いをすれば、良い結果が得られる、良い報酬を期待できる。悪い行いをすれが、悪い結果が与えられ、悪い報いがある。と考えられています。しかし、これは「因果応報」の考え方です。因果の法則は、善因善果 悪因悪果と言われています。良い行いをして、良い報いを期待するのではなく、良いことが出来る喜びを感じる。それにより、自分が喜びに満たされる。悪い行いをしたろきには、自分自身をみて、悪い行いをする自分を悲しむ。それは 原因と結果が同じである、というこだそうです。

さて今日の日課は、「あなたがたは私をだれと言うか」 (20節)と私たちに問いかけています。この問いに今まで多くの人が、それぞれの仕方で答えてきています。

絵画で、音楽で、小説で、詩で。

大阪の玉造にあるカトリック教会の聖壇には、着物姿のマリアと幼子キリストが描かれています。もちろん、キリストも着物姿です。伝統的なキリスト像は、西洋の教会がその歴史の中で作り上げてきました。しかし、このいずれにしても外見的なキリスト像でしかありません。その外見的な姿の中から本質的なものを表現しようとしているわけですが、幸いそれらの作品が自分の真実の答えと一致したら、それは 幸いなことです。

聖書は「あなたがたは私をだれと言うか」 20節 と私たちに責任を持って答える事を要求されています。この問いに答える時、私達はただ口先だけで、言葉だけで答えることはできません。ペテロは弟子たちを代表して答えています。しかし、彼の答えは人間としては完全な答えであったかもしれませんが、又、正しい答えでもあったわけですが、主イエスはその弟子たちを戒めています。

何故イエス・キリストはペテロの答えをそのまま容認しなかったのでしょうか。ペテロの答えは先にのべてように正しいこたえでした。しかし、その答えの中には、含み切れていない内容をイエスは見ていたのです。別な意味ではそれは口先だけの答えでは、到底対応できないような内容を持っているのです。

主イエスの示そうとしておられる事は、主ご自身の身のまぎれもない宣言、「主イエスが救い主・キリストである、」ということです。

口先だけの答えでは到底応じる事が出来ないような内容を見せ、それに対する対応の仕方を主イエスは次に示しておられるのです。

「自分を捨て、自分の十字架を負てついてきなさい」23節

自分を捨てる、とはどのようなことでしょうか?

自分の要求を捨てる事でしょうか

禁欲生活をすることでしょうか

中世のキリスト教会に於いて、特に修道院の中に於いては、この禁欲的生活が強調されていました。明治時代に日本に入ってきたキリスト教は、武士道と結びついて無教会主義を生みだし、純正な精神性を追求する傾向も生まれました。また、アメリカの開拓時代にはこのような禁欲的生活が強調されていました。清教徒たちはそのような傾向を強く出していました。開拓時代のアメリカでは、禁欲的な生活をしなければならない理由があったのです。それは、そうしなければ、生活が成り立たないくらい苦しいものであったのです。酒、たばこ、コーヒーすら飲まないで、倹約しなければ、生活が成り立たない、今度の秋の収穫で、生きられるかどうかが決まる、そんなときに、贅沢は許されなかったのです。清教徒のみならず、ヨーロッパからアメリカに逃れてきたキリスト教徒はそれぞれに、問題解決の糸口を求めて新天地来たのです。

私たちの母教会LC-MSの人たちも教理的な問題で、当時のドイツのルーテル教会に問題を感じ、とうてい受け入れることが出来ないと判断し、自分たちの平和な生活を信仰のゆえに捨てて、アメリカに移住してきたのです。横道に入りますが、このLCMSの歴史と「女性教職」の問題が大きな関係があります。

明治時代に入って来たキリスト教は、そのような影響の下にあったのです。残念ながらそれが今でも尾をひいているのです。ある意味では間違ったキリスト教の姿を示してしまいました。

自分を捨て、自分の十字架を負うとは、禁欲的な生活をすることではありません。完全に自分の欲望を捨てることでもありません。人間が人間であるかぎり、完全な自己放棄はとうてい出来ません。どんなに自分を捨てようとしても、そう努めれば努めるほど自分を意識してしまいます。禁欲的な生活をすればするほど、自分の欲望の深さをみることになります。そこで「自分を捨てる」ことの次にイエスは何と示しておられるのでしょうか。

「わたしに従ってきなさい」です。この従っていくとはどのようなことでしょうか。

自分の主として仰ぎ見ることです。美しい山を見上げる時、美しい絵に見とれるとき、美しい音楽に身を浸す時、私達は自分を感じません、それに、同化してしまいます。

その一部になっています。

芸術が、絵画、演劇、小説、詩、音楽が私たちにそのことを実感させてくれます。

自分がその作品と一体化していると、感じさせてくれます。

あなたはどのような仕方で主を仰ぎ見ますか?

それぞれの仕方でよいのです。そのとき、私たちを主は包み込んでくださいます。

主を仰ぎ見る時、そのとき私達は自分を捨てる事が出来るようになります。それは、もはや自分が自分をコントロールしている状態では無いような気がします。自分の思った通りに生きる事ではなく、神を見あげ、ついて行く事が出来ます。自分の考え、思いのままに生きる者はそれを失い、従うものはそれを得る事ができるのです。

はじめに仏教の因果の法則のお話をしました。

主に従う時に、主に何かを求めるより、まず従える喜びを自分が感じ、また、主を裏切るとき、主を裏切った悲しさを自分に見、そんな自分に、主が同席してくださっていることを知ることです。

今も共にいてくださる主イエスキリストに感謝。

2010年6月27日 聖霊降臨後第5主日

ルカによる福音書7章36-50節

説教: 五十嵐 誠牧師

◆罪深い女を赦す
7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン

 

ゆるしは日本語では「赦し」、「許し」とがあります、「赦し」と「許し」をどう区別するかです。本来の意味では固く締められたものを「ゆるくすること」に由来していると言われます。私たちは混同して使っているように思います。でも、これらはずいぶん異なっていると思います。たとえば、「許し」の同意語は「許可」(承諾)ですが、その反意語は「禁止」です。他方、「赦し」は罪やそれの伴う罰、責務を免ずることでえあり、その反意語は「断罪」とか「処罰」を思います。ある先生はこの二つを厳密に区別しなくてはならないと言います。聖書を読む場合に「許し」と「赦し」を区別して読むことは大切で、これを安易に混同してはならないだろうと言います。特に。「赦し」は神と人との間を理解する上で大切なポイントであると言う。人に赦しを乞うことと神に赦しを祈ることとどちらが容易であろうか。ある方が、人に赦しを求めるのはしんどいいました。一方、神に赦しを求めるのはずっと気楽に出来ると。皆さんはどう答えますか。

ゆるしには広辞苑によると、もう一つ「聴し」があるようです。はじめて知りました。

さて、今朝は罪やその行為の「赦し」について学びたいと思います。実際の例は今日の福音書にあります。イエスはあるファリサイ派の招待を受け、食事を共にしました。招待者はシモンという名前でした。福音書には「ファリサイ派」という語が98回出て来ます。ですから一番イエスと接触したグループです。よく見ると、高慢で、鼻持ちならぬファリサイ派・・罪人を見下し、長い祈りで見せびらかし、自慢する・・もいましたが、イエスに好意的なファリサイ派もいました。イエスに誉められた律法学者、また、イエスを招待して、イエスの教えを聞こうとした、今日のようなファリサイ派もいました。私たちは彼らを「偽善者」と言いますが、そうでない点もあります出来事を見ましょう。

「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。「罪深い」(aJmartwlov”)・罪深い・罪を犯すなどの意)とありますが、ある写本は「不道徳な女」といいます。言えば彼女は「娼婦」でしょう。彼女は持って来た香油を、イエスのに塗ったのです。しかも、泣きながら、涙で濡れたイエスの足を、その髪でぬぐいながらでした。若い頃、わたしはイエスの生涯を描いた映画で、彼女の心・・感謝と(大いに残念がる、悔やむこと)と愛を見ていました。このシーンを見た記憶があります。じーんとくる場面でした。どうして、この女はこのような態度を取ったのかです。この女にとって、イエスは誰だったのかです。

イエスの後の言葉から分かることは、罪の赦しが問題になっていると言うことです。ただ、イエスとこの女との出会いが、いつか、どこでかが不明ですが。そんなことは別にして、彼女はイエスの語った福音の言葉によって、自分の罪の赦しを確信したと、私は思います。そんなことがあるかと言う人がいますが、これはいつの時代でも起こることです。

アウグスティヌス・Aurelius Augustinus・ですが、彼は初期キリスト教会最大の思想家です。彼は初めマニ教を奉じ、ふしだらな生活を送っていました。ある日、赤ん坊の泣き声と共に「とりて読め、とりて読め」という声を聞いて、それはパウロのローマの信徒への手紙の13:12-13でした。こう書いてありました。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい」。彼は読んで回心して、洗礼を受けました。後に北アフリカに帰りヒッポの司教になりました。その神学の核心は「人間は神の絶対的恩恵によってのみ救われる」でしたが、彼の経験だと言えます。彼女は日々、悩み、赦されない自分を思い、悲観的に過ごしていたでしょう。そんな時イエスの言葉を聞き、救い主の権威ある言葉(律法学者にような言葉でなく)であると確信したときは、喜んで飛び上がったに違いないと思います。いつの時代でも、罪を自覚する者には、その者にだけ、イエスの言葉は良い知らせ、福音となるのです。だから、彼女はそれを行為で示しているのです。

その女の行為を理解できないファリサイ派であるシモンは「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。イエスを非難する顔つきだったのでしょう。前に言いましたが、彼らは罪人という部類の者を軽蔑して寄せ付けなかったのです。壁を造って・・かってのベルリンの壁や現在のイスラエルの分断壁のようにな・・差別しました。シモンはましてイエスが預言者なら・・この女のような者には自分を触れさせないはずだし、預言者はその慧眼(物事の本質也裏面を見抜く、すぐれた願力)を持っているはずだ。イエスは両方の性質を欠いていると思った。イエスはそれを見抜いて、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。(イエスを「先生」と呼ぶのが弟子以外が使う)。そこでイエスが一つの譬え話をした。

「イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。「二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた」。(一デナリは当時では一日の賃金)。

常識でもその通りです。誰でもそう答える。誰だって沢山の借金を免除してもらったら、貸してくれた人に、最大の感謝の行為をします。私だってそうです。イエスはこの世の習わしを持って、神と人との関係をイエスは語ります。その中心は「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。

問題は何かですが、イエスを救い主・神からのメシアと見るかで福音を聞くか、聞かないかの分離点になります。シモンは多分、イエスを「預言者とか「先生」と呼んではいますが、イエスに好意を持っていたが、内心は普通の人に見ていたと思います。ですから、「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかった」、「あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかった」、「あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかった」で分かります。ファリサイ派ですから、自分は神に愛されている思っていたのです。彼らは律法を守らない一般の人から自分たちを「分離した」という意味でファリサイ派でした。

この女のは前に言いましたが、イエスが語った福音・・罪の赦し・・を聞いて「いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」(詩32:1・今朝の第二聖書日課)ということを、また、「悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる」。(マタイ5:4)という言葉を経験したのです。心底知ったのでしょう。で、イエスがいることを知って、人の目をもかまわずに、ある意味では、居ても立ってもおられず、イエスのところに来て、精一杯の感謝を、喜びを表した。イエスは彼女の思いを知って・・彼女に言葉を掛けた。

「イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。 彼女は直に罪の赦しを聞いた。「安心して行きなさい」。彼女は喜びで満たされたと思います。

「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」。罪の赦しと愛が比例するとは面白いです。多く赦された人は愛が大きいです。私はどうかなと考えました。キリストに対する愛の大きさは、小さいような気がします。この女に比べて、少し恥ずかしいような気がしました。私たちはキリストによって、自分の罪・・大きな・・が 赦していただいた・・赦しの大きさを思います。その喜びは、キリストに対する愛の大きさとなって現れているかを、今日は考えさせられました。

しかし、多く赦された者の愛は大きいと言うと、分かるような気がしますが、日常的な経験はあまりありませんから、ピント来ない点あります。面白い例がありました。セム族・アラブ人の例です。日本での仕事が終わり、アラブ人が「女房にお土産を買って帰るのんだが・・」と言いました。同行していた日本人が「じゃ!私が適当なものを選んであげますよ。気は心ですから・・」と言いますと、アラブ人は「それは違いますよ」と言いました。説明として、アラブでは愛は金の高さで計るのが普通なんです。だから、千円のお土産を買って来る夫と一万円のお土産を買って来る夫と比べたら、一万円の夫の方が十倍愛しているのだ・・と言うことでした。うーん、成る程と思いました。

*セム族・セム語系の言語を話す諸民族の総称。アラビア人・エチオピア人・ユダヤ人が含まれ、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教を生んだ。ノアの長子セムの名に因んで命名。

しかし、聖書をよく読むと、女性が自分の出来ることをして、イエスに対する自分の喜びを・・イエスに対する愛を現しているのを知ります。イエスと弟子たちの宣教の旅に、出先で、多くの女性が・・女の信徒が仕えていました。たとえば、マグダラのマリア、ヨセフノ母マリア、サロメ、ヨハンナなど(ルカ8:1-3を参照のこと)。また、使徒たちを助けた女性もいます。使徒言行録、パウロの手紙の終わりの言葉に出てくる多くの女性信徒たちです。、

数年前のサマー・キャンプで、歌手の小坂忠さんが、素晴らしい証しをしました。1975年に、娘さんが台所で熱湯を浴びて、叫び声をあげていました。大変な火傷でした。体中包帯でぐるぐる巻きにされて、重傷でした。その包帯が取れるまで、頃の休まらない日々が続きました。ある日、奥さんのお母さんが・・熱心なクリスチャンでした・・きて、教会の牧師に、娘のために祈ってもらおうとさそわれた。生まれて初めての教会に行くことになりました。小坂さんは当時はヒッピー族でドラッグ野郎のような生活をしていたようです。ところが、牧師や教会の人が熱心に祈ってくれたそうで、祈り会が終わると、不思議に小坂さんの心は平安に包まれていいたそうです。

やがて、娘さんの包帯が取れる日が来ました。なんと娘さんの皮膚は、生まれた時のような新しい皮膚が再生していたのです。喜びで、その時、小坂さんは、牧師の祈りを思い出したそうです。あの祈りに神が応えてくれたのだと自然に思えたそうです。それから教会に行くようになりました。

牧師の説教でイエス・キリストの十字架について聞き、十字架が、それがどんなに大きい愛であるかを知ったのです。それが分かったとき、涙があふれ出してました。小坂さんは「僕もこの神の愛が必要だ。救いが必要だ、それを受けるのは今しかないと感じた」のです。小坂さんはイエス・キリストを受け入れるために祈りました。イエスは私の人生も、音楽も、僕のすべてを変えた」と語りました。そして小坂さんは、牧師となり、音楽を通してキリストに仕えているのです。キリストへの愛です。各地を廻って音楽をもって伝道に飛び回っています。小坂さんにとって、香油は音楽と言えましょう。

私たちもイエスの愛を受けた者です。喜びに満たされていました。そして、主を愛して生きてきました。その愛し方は様々です。自分に出来ることをして、イエスに対する自分の喜びを現してきたと思います。今朝、自分の香油はなにかを考えてもう一度、主に対する愛の表し方を考えて見たいと思います。

アーメン

2010年6月13日 聖霊降臨後第3主日 「信仰と信頼・・・」

説教: 五十嵐 誠牧師

◆百人隊長の僕をいやす

7:1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。7:2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。

7:3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。7:5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」7:6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。

7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」7:9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」7:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと永安が あるように  アーメン

 

今日はイエスの奇跡・・癒しの奇跡を学びます。主要登場人物はイエスと百人隊長です。 「百人隊長」とはですが、当時のパレスチナがローマの支配下にあったことを示す用語です。百人隊長ちは、 その名が示すように、これはローマの軍隊の歩兵100人の指揮官・将校を指します。その隊長の重要な部下が死に瀕していました。(マタイでは中風で寝込んでいて苦しんでいたとあります)。そこから、この出来事が始まります。この隊長・将校はユダヤ教の求道者・信者になる準備をしていたようです。ユダヤ教の長老・指導者がこう言っています。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」。(マタイでは隊長自身がイエスのところに来ています)。「わたしたちユダヤ人を愛して」とは・・ユダヤ人は異邦人とは付き合わないからです。

この熱心な願いを聞いてイエスは共に出かけています。その途中に隊長の部下が来てイエスに伝言を伝えます。その言葉は一寸、普通とは違っていました。早く来てくださいではなくて、ただ、「お言葉」をくださいでした。友人を通して「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」でした。彼は真に権威ある方は、その言葉で、すべてを可能にすると信じた。新約聖書・ヘブル人への手紙には、こんな言葉があります。「神の言葉は生きており、力を発揮する」と。(4:12)。神の言葉には絶対的な力があるのです。旧約聖書で預言者イザヤは神の言葉について書いています。「そのように、わたし(神)の口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」。(イザヤ55:11)。

この隊長はそういう聖書の言葉を聞いたいたと思います。

隊長は軍隊の経験から話をしています。軍隊というのは「絶対服従」です。日本でもありました。アメリカと戦った東条英機という方が「戦陣訓」を1941年に軍の大臣の名で全陸軍に下された、戦時下における将兵の心得があります。上官への服従や捕虜の恥辱などありました。軍隊では上官が「白といえば、たとえ黒くても白である」です。「上官の命令は天皇の命令だ」でした。隊長の彼は同じようなことを述べていました。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。です。

彼・隊長はイエスが直接来て触るとか声を掛けるとかしなくても、言葉を・・その場で頂ければ治ると信じたのです。マタイによると「そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」とあるとおりです。「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」のです。おそらく、隊長はあとでそれを聞いて、イエスの言葉の力を知ったと思います。

イエスは隊長のことばを聞いて「従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。マタイでは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。当時の多くのユダヤ人の信仰はそうでなかったことが浮かび上がります。異邦人の隊長の真実な信仰が目立っています。

イエスから癒しの約束の言葉さえ頂ければ、その言葉には力と権威があり、遠く離れていようとも、自分の僕・部下はすぐに直ると信じたのです。似たような話があります。ヨハネの福音書が書いています。カファルナウム(カペナウム)の役人の子供が死にかかっていて、イエスに助けを求めた。死なないうちに来てくださいと懇願した。すると「イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。・・・僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた」。

今の時代は言葉が軽んじられ、力がありません。言葉は信じられない・・特に政治家はです。最近は鳩山総理の沖縄の基地問題で経験しました。朝日新聞がCMで「言葉は力・・言葉は・・」とか言って、言葉の強さを述べていました。ペンクラブの「ペンは剣より寄り強い」というのがあります。しかし、この世的には剣が強いようです。

しかし、神の言葉、イエスの言葉は先に言ったように力があります。旧約聖書の創世記で、神の言葉が「・・・であれ」というと創造されました。「光あれ。こうして、光があった」ようにです。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」です。

*ペンクラブ【国際―】世界各国の詩人・劇作家・編集者・評論家・小説家などの文筆従事者の友好と親睦を通じて国際間の理解を深めようとする団体。

信仰にとって、神の言葉を信じ、従うことは重要です。もしそうでなければ、私たちは疑いの中に沈没します。私たちが今まで、何十年と信仰を持続出来たのは、神を信じて来たからです。しかし、私たちは中で、ずーと変わらないで来たわけではありません。それは、一旦信じたのに、そこから漏れる人が・・仲間がいるのも否定できません。わたしはどうしたら、神を信じて・・いろんなことがあっても、歩めるか・・を考えたことあります。皆さんはどうですか。皆さんはいままで信仰の道を歩んできましたが、何が支えでしたしょうかか。わたしは牧師ですから、自分の信仰を支えたのは・・特に「聖餐」でした。キリストの体とその血の聖餐式というのは、弱いときわたしを助ける神の言葉でした。洗礼と聖餐は眼に見える神の言葉なのです。共に「あなたは私の者」だという神の言葉です。それを聞きます。また、私は神の恵みによって養われていると言うことを知るのです。

ある方がこう言いました。イエスの十字架を仰ぐことだと。「十字架を仰いだものは、誰も神の愛を疑いません」と。十字架は神の愛を確信させるからです。英国の詩人のR. .ブラウニング・Robert Browning(イギリス、ヴィクトリア朝の抒情詩人。劇的独白の形式で性格解剖や心理描写を試みた・1812~18)はこんな詩を残しています。

神よ、あなたは愛です。  わたしの信仰をその上に築きます。
あなたがわたしの道を守られたのを知っています。
あなたは暗闇の中でわたしの光りとなり、悲しみを和らげ、
あなたの愛はわたしに厳粛な喜びとして訪れます。
だから、わたしはあなたの愛を疑いません。
パウロはローマ信徒への手紙の中で、こう書いています。8:32です。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。

私たちは有限なものです。神は無限な方ですから、神を完全に、充分に理解することは決して出来ません。ですから、数学的な、幾何学的に説明出来るような神は神ではないのです。G,K、チェスタートン・Gilbert Keith Chesterton・イギリスの作家・批評家。カトリックの伝統主義の立場に立ち、逆説趣味を駆使した知的で諷刺的な作風を示す。探偵小説「木曜日の男」「ブラウン神父の童心」が有名。(1874~1936)。わたしは彼の探偵小説は殆ど読みました。彼はこう書いていました。「天国を自分の頭の中に閉じこめようとする者は愚かであり、そんなことをすれば、自分の頭が爆発しても不思議ではない。賢い者は、その頭を天国の中に入れるだけで満足する」。パウロという弟子は神についてこう言っています。

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」。(ローマの信徒への手紙11:33)。3世紀の教父・学者のテルトリァスは言いました。「わたしが理解できるものを、どうして賛美出来るか」と。そして、「不合理で〈あるゆえに〉、われ信じる」とも言いました。そう思います。

ウェルズ・Herbert George Wells・イギリスの作家・評論家。大衆の啓蒙・教化のために「タイム‐マシン」や「世界史概観」などを著す。また、原子爆弾を予想し、SFの祖ともいえる。(1866~1946)は書いています。「わたしの耳には、神の声よりは隣人の声の方が大きく響くものである」と。イエスの弟子とは世間の人がいっていることに注意を払わなくなった人間のことである。弟子とは神の言われたことしか考えられないからである。

「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とイエスは隊長を賞賛していますが、私たちはそんな誉めことばを頂くほどの信仰はないと考えます。良くお祈りで「信仰を強めてください」とか「増してください」と祈ります。弟子たちでさえ願っていました。ルカ17:5「わたしどもの信仰を増してください」と。それに対してイエスは答えています。有名なからし種程の信仰です。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。同じようにマタイ17:20では「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」。山が動くです。「山が動く」とは、随分前に、野党が政権を取った歴史的勝利の選挙で、元社会党党首の土井たか子さんが言いました。*からし種は聖書では「一番小さい」ことを言います。

信仰を増したいとはよく分かります。自分もかってそうでした。信仰の大小が問題でした。信仰の力はその大小にあると考えるのです。ですから、大きくしたいと考えます。考えなくてはならないのは、信仰の力は信仰そのものにあるのではないことです。信仰の力とはキリストの弟子が・・クリスチャンがその信じている神の力に信頼することなのです。なぜなら、神には出来ないことがないからです。ここが大事なのです。

ギリシャ語で信仰はピステス(hJ pivsti”)です。普通は信仰と訳されますが、広義には(広い意味では)「信頼」(trust)を意味します。ですから、わたしは、ここではイエスに対する「信頼」と思います。イエスは隊長の「信頼」に応えて、部下の病を癒されたのです。

イエスは信仰の大小やなにかでうろうろする私たちに、「からし種一つほど」の信仰・すなわち、「信頼」を言うことによって、力づけているのです。あなた方は「神の力」に信頼しなさいと言われているのです。その例はあります。それはルカも書いています。8:40-56の中の十二年間も病にかかり、財産も使い果たした女の人がイエスの背後から、その服の房(束ねた糸・毛糸などの先を散らして垂らしたもの)に触れると、直ちに病が

治った出来事です。イエスは 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」 と語やさしくりかけています。これも「信仰」は「信頼」です。イエスは「娘よ」と呼びかけましたが、この場合はこの女に対する親愛の情を示しますが、同時に、苦しみからの解放を求め、必死になってイエスに取りすがり、その後ろからその服に触れようとする、この女の人のけなげなまでの「信頼」も含まれた「娘よ」です。イエスの心が分かります。

私たちも自分の信仰について、動揺することがあるでしょう。こんな信仰ではといって悩むこともあるでしょう、。しかし、イエスは言われます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・」と。それは「もし、からし種一粒ほどの信頼があれば・・」というイエスの言葉なのです。その「信頼」に対して・・「からし種一つほどの信頼」に対してイエスは答えられるのです。「良く分かった。安心しなさい。信頼しなさい」と。そう信頼して生きたいと思います。

アーメン

2010年6月6日 聖霊降臨後第2主日 「従う難しさ」

ルカによる福音書6章37ー49節

説教:安藤 政泰 牧師

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦し なさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、 ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることがで きようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄 弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるお が屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目に あるおが屑を取り除くことができる。」「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨から いちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを 出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来 て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。 洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に 家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」 ルカによる福音書6章37ー49節


今日の日課は平野の説教の結びの部分といわれています。6章28節から38節は弟子たちの愛の義務について語られ、39節から46節は、弟子達の服従の義 務について語られています。今日はこの説教の最後の部分を共に読んでみましょう。

 

06:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り 動かすことができなかった。
06:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

この箇所ではギリシャ人にもよく解釈出来るように説明されています。それは、ギリシャでの建築は、慎重に穴を掘って、土台を据えていますが、パレスチナの 農夫は、せいぜい漆喰で固めたでけの土台を据えます。

私達は行いにより救いに入るのではありません、信仰により救われるのですこれはよく知っている事です。しかし、今日の日課を読みますと、良い行いが 求められているようにも読めます。

06:37 人を裁くな、人を罪人だと決めつけるな、ゆるせ
06:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分 の量る秤で量り返されるからである。」
06:39 「盲人が盲人の道案内をすることができようか。
06:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
06:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
06:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の 目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
06:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
06:45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

とあります。それでは、こうした行いにより弟子は弟子たることが出来るのでしょうか。
やはり、行いが大切でると教えているのでしょうか。
勿論、平野の説教の最後の部分では、イエスの弟子がどのようにあるべきかを教えています。弟子は自ら、弟子としての存在を守り続けなければならなくなるこ とを預言しています。06:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。弟子が弟子であるためには 何をしたらよいのでしょうか。それは、弟子が 「それ」を行うかどうかが問われています。「それ」を行うことにより、弟子としての未来が決まります。「その時」弟子達は、大地としっかり結びついて堅固 で動かされないもの
とされているかどうか、が問題です。または、弟子達が、うわべだけの弟子であったかどうかが、明らかにされる時でもありましょう。「その時」とは危機的な 状況にある、今の事です。イエスが言葉を聞いてそれを行うかどうかが弟子である者のひとつの標識であるとされるのは、こうした理由によります。ですから、 弟子の生活全体を、弟子達のために「岩の上に建てるよう」ような仕方を要求しておられるのです。

さあ、ここで行いについてもう一度考えてみましょう。良い行いすることだけを本当にイエスは弟子に求めておられるのでしょうか。弟子とは、勿論私達 をも含みます。

06:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り 動かすことができなかった。06:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

この「岩の上に建てる」とは、イエスとの人格的な関係を正しくするかどうかにかかっていると言う事です。ですから、平野の説教の最後に、主イエスは 弟子達に真剣な信仰を持つ事を強く求めておられるのです。「聞いて行う」者だけが弟子として、とどまる、その意味は、イエスを信じ、信仰においてイエスに 従う者だけが弟子としてとどまる、と言う意味です。イエスに具体的に決心して従うという行為の事です。決して善行を積むことでは無いのです。しかし、従う と口だけで告白してもそれはダメだと言っておられます。そうではなく、具体的にイエスに従う事です。
その具体的にイエスに従う仕方が今日の第1日課に示されています。

今日の第1日課を読んでみましょう。

第1コリント 15章12〜20
15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。15:15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言っ て、神に反して証しをしたことになるからです。15:16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。15:17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。15:18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。15:19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

このキリストの復活を信じる信仰を主は求めておられるのです。そのキリストの復活に私たち自身もあずかる事が出来ると確信し、この自分の命を主にゆ だねる行為こそが、主が求めておられることなのです。

善行によって救いに入れるのはなく、この復活の主イエスを信じる信仰により、新しい生命に生きる事が出来るとのです。