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2014年5月4日 復活後第2主日 「見える事実、見えない真実」

ヨハネによる福音書20章24〜29節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

復活後第2主日を迎え、本日の福音はディディモと呼ばれる12弟子の一人、トマスの物語です。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったこのトマスの言葉から、「疑い深いトマス」という呼び名が生まれました。または英語の「doubt」疑いという言葉の関連用語に「doubting Thomas」という言葉があります。Read more

2014年4月27日 復活後第1主日 「心を開いて」

ヨハネによる福音書20章19〜23節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

2日前の4月25日はこの六本木ルーテル教会にとって、特別な記念日であります。今から10年前に、新会堂が完成し、現在の建物になったこの教会で献堂式が執り行われました。私は前の建物を直接見たことはないので、この六本木教会が歩んできた歴史の生き証人ではありませんが、この新会堂が出来上がるまでには、多くの困難と苦悩があったということを聞き及んでいます。新しい会堂に対する期待の声だけがあったわけではなく、教会が、この六本木ルーテル教会が、森ビルの開発に伴って、建物も新しくされていく中で、周りの激的な環境の変化の中に立たされて、教会がどのような宣教をして活動していくのか、地域教会としてどのように立たされていくのかなどの多くの課題を抱えていたのではないかと思います。資金面や建物の形といった外面的な問題だけでなく、この六本木ルーテル教会の教会としてのあり方、その本質といった内面的な様々な課題を、新会堂が完成してからも、共に担い考えながら、歩んできた10年の歴史があり、そしてこれからの教会の歩みがあります。こういう観点からも、まだまだこの教会は開拓伝道の最中にあるとも言えるのかもしれませんが、教会は世にあって、この世と共に共存しつつも、世に属するものではなく、神に属するものであるということ、教会の土台は、真の要石はキリストであります。復活のキリストのみ体であります。その最初の証人たちはあの12弟子、いや12弟子を含む婦人たち、他の弟子たちであります。彼らの下に、復活の主が現れました。Read more

2014年4月6日 四旬節第5主日 「死の支配を打ち破って」

ヨハネによる福音書11章17〜53節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

四旬節の第5主日を迎えました。来週は受難主日、そして聖週間、再来週にはいよいよイースターを迎えます。イースター、主イエスの復活が近づいてきたという感じが致しますが、未だ四旬節の只中にある私たちに与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書11章のラザロの復活物語であります。大変長い物語ではありますが、ラザロの死と復活を通して、四旬節を過ごす私たちに復活の命がここで示されています。それはまず何よりも、25節で主イエスご自身が「私は命であり、復活である」と、ご自身の栄光を語っていることに強調されています。しかし、改めてこの四旬節を振り返ってみますと、私たちは主イエスの受難と十字架、復活の予告を既に聞いているのです。福音書の中で実に3度も聞いているのです。私たちはよく、その予告を「受難予告」と呼びます。弟子たちがこれら3度の予告を聞いて、動揺し、悲しみを覚えたように、私たちも主イエスの「受難と十字架」だけに思いが向いてしまう。イースターはまだ先なんだから、四旬節を過ごす今の時期は、主イエスの受難と十字架だけに思いを向けなくてはならない。それは確かに大切なことではありますが、今日の御言葉も含めて、この四旬節を歩むというのは、「受難と十字架」を覚えつつも、そこから先がないということではありません。復活を信じるという信仰のプロセスへと向けられているのです。私たちはイースターの日時を既に知っていますが、復活の命を信じる、命に与るということと、受難と十字架を覚えるということは結びついているのです。四旬節を過ごす大切な気づきではないかと思います。Read more

2014年3月30日 四旬節第4主日 「真実の眼」

ヨハネによる福音書9章13〜25節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

春の日差しが心地よくなってまいりました。この礼拝堂の正面の障子を開けますと、麗しい桜並木に思わず目を奪われます。心地よいこの春の日差し、新しい年度の歩みに向けての希望の光であるかのように、私たちを照らしています。

ですが、本日の第2日課エフェソの信徒への手紙5章8節から9節の中で、パウロは光についてこう言うのです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」「以前に」と「今は」という状況が語られています。以前は暗闇、闇だった。見えなかったのだ。でも今は違う。今は光となっている、光が見える。それも、その光は「ただあなたがたを照らしている」と言っているのではなく、むしろ「あなたがた自身が光となっている、だから光の子として歩みなさい」とパウロは言うのです。闇から光への転換。ここに主との結びつきがある。私たちは主に結ばれて光とされているということです。私たちが自然に光とされているということではなく、主の御心が、暗闇に輝く光であるキリストとして、このキリストに結ばれることによって、私たち一人一人がキリストの光を反射して生きていると言えるのであります。主に結ばれて、私たち自身が希望の光として、光の子として歩んでいく、新しい年度を歩んでいく。主はそのようにして、私たちを新しい歩みへと遣わされていくのです。Read more