マルコによる福音書5章21〜43節
高野 公雄 牧師
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
マルコによる福音書5章25~34 (日課の一部)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
きょうの福音は、聖書の小見出しにあるように、「ヤイロの娘」の話と「イエスの服に触れる女」の話とが入り組んでつながった長い段落となっています。そして、この二つの話はどちらも信仰の大切さを強調しています。イエスさまは服に触れた女性に対しては《娘よ、あなたの信仰があなたを救った》と言い、会堂長のヤイロに対しては《恐れることはない。ただ信じなさい》と言っています。
きょうは、焦点を「イエスの服に触れる女」の話にしぼって、この話が私たちに告げる福音をご一緒に聞きとっていきましょう。
イエスさまがガリラヤ湖の西岸に戻って来られると、大勢の群衆が集まってきました。そこへ会堂長のヤイロが来て、イエスさまの足元にひれ伏して、《わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう》としきりに願います。そこで、イエスさまがヤイロと一緒に出発すると、群衆も押し合い圧し合い従います。その時です。その女性が人ごみに紛れてイエスさまの服に触れたのは。
《さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである》。
彼女についてマルコはこのように紹介します。「出血が止まらない」とは、月経の出血が七日間を越えて異常に長引く病気をいうのでしょう。この病気については律法の規定があります。
《もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている》(レビ記15章25~27)。
古代の人々は死者に触れたり、出血に触ることによって、病気が感染すると考えて、これらの人々を汚れとして排斥していました。この女性は「汚れた者」とされて神との交わりを断たれ、汚れを人に移さないように人に近づくことを禁じられて人との交わりも断たれていたのです。十二年間とありますが、十二という数はイスラエルの十二部族とか、イエスさまの十二弟子とか、全体を象徴する数で、彼女の苦しみの深さ、その歳月の長さを表わしています。彼女は治療に全財産を費やしましたが、医者は直せませんでした。イエスさまの評判を聞いて、《この方の服にでも触れればいやしていただける》と思って、掟破り、律法違反ですが、群衆の中に入り込み、イエスさまの服に触れたのです。ルカ8章44には《この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった》とあります。房(ふさ)とは上着の四隅に付けた青い紐で、神への誠実を覚える目印です。会堂長のヤイロはイエスさまの足元にひれ伏して、《どうか、おいでになって手を置いてやってください》と願っています。しかし、この女性は汚れの身としてひそかにイエスさまに近づき、後ろからおずおずと衣服の裾に触ったのです。
《すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた》。
彼女はすぐに癒やされたことを感じます。同時にイエスさまも力が出て行ったことに気づきます。彼女の汚れがイエスさまに移され、イエスさまの清さが彼女に移されました。しかし、弟子たちはこの密かに起こった出来事を知りません。
《そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」》。
これだけ大勢の群衆が集まっていれば、誰がイエスさまの服に触ったかを問題にする方がおかしい。そんなことに手間取っていないで、早くヤイロの家に行きましょう。こう弟子たちは考えたことでしょう。ヤイロも娘の身を案じて、気が気ではなかったでしょう。
また、その女性にしてもイエスさまには見逃して欲しかったはずです。人に近づいてはいけないのに群衆の中に紛れ込んだのですし、イエスさまの癒しの力を黙って盗み取ったのですから。それに自分が服の裾に触れてイエスさまを汚したため、会堂長の家に行けなくなってしまったかもしれません。どうしましょうか。
《しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した》。
彼女は不治の病を癒してくれた方のまなざしを感じると、群衆の中に匿名で隠れていることができなくなりました。み前に進み出て、ありのままの自分としてイエスさまと向き合います。このひれ伏した姿はイエスさまへの徹底的な謙遜と服従を表します。病気さえ直れば、もうイエスさまは不要というのではなく、むしろ病気の癒しがイエスさまとの親しい交わりの始まりとなりました。
《イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」》。
ここでイエスさまはこの女性の汚れを問題にしていません。ご自分が汚れたことも気にしていません。イエスさまは律法の規定を超える「権威ある者」(マルコ1章22)なのです。そして、不治と思われた病をも征服する権威をもっておられます。
彼女はいままで、罪を犯したから病気になった神にのろわれた者、不信仰な者とみなされてきました。しかし、長く深い苦しみにもかかわらず、イエスさまの「服にでも触れればいやしていただける」という彼女の信頼(信仰)に目を留めて、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と宣言されます。これは、不信仰というレッテルを貼られた女性の名誉を回復させる言葉です。もちろん、癒したのはイエスさまの力であって、彼女ではないのですが。
きょうの第一朗読で《主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない》(哀歌3章31~33)と聞いたとおりに、重荷を負う者に対する神の慈しみがこの女性の上にも明らかに示されたのです。
また、イエスさまは彼女に「安心して行きなさい」、「元気に暮らしなさい」と祝福のことばを贈ります。イエスさまとの交わりを通して、彼女は病が完治しただけではありません。神との関係が回復されたのです。
ここで起こっていることを、著書『キリスト者の自由』12節で、ルターは「喜ばしき交換」(der froehliche Wechsel, the Joyous Exchange)と呼んでいます。イエスさまは彼女の汚れを引き受け、自ら汚れた者となりました。病気の彼女に代わってその重荷を引き受けたのです。《彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた》(イザヤ53章4~5)。イエスさまは自らの豊かさと私たちの貧しさ、自らの清さと私たちの汚れ、自らの義と私たちの罪とを交換してくださったのです。
きょうの福音が私たちに伝えようとしていることは、初めに言いましたように、信仰の大切さです。信仰とは、神は存在するとか、イエスはキリストであると頭で知ることではありません。苦しみ悩みを乗り越えて、人間に対する神の信実に信頼して生きることです。私たちは神に希望をもつことができるのです。神は、信じる者とイエスさまの間に「喜ばしい交換」という救いの手をお持ちです。私たちが差し伸べられた神の手をしっかりと握り返すよう招いてくださっています。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン