タグ Archives: マルコ

2012年7月29日 聖霊降臨後第9主日 「イエスの服に触れる女」

マルコによる福音書5章21〜43節
高野 公雄 牧師

さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

マルコによる福音書5章25~34 (日課の一部)


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、聖書の小見出しにあるように、「ヤイロの娘」の話と「イエスの服に触れる女」の話とが入り組んでつながった長い段落となっています。そして、この二つの話はどちらも信仰の大切さを強調しています。イエスさまは服に触れた女性に対しては《娘よ、あなたの信仰があなたを救った》と言い、会堂長のヤイロに対しては《恐れることはない。ただ信じなさい》と言っています。

きょうは、焦点を「イエスの服に触れる女」の話にしぼって、この話が私たちに告げる福音をご一緒に聞きとっていきましょう。

イエスさまがガリラヤ湖の西岸に戻って来られると、大勢の群衆が集まってきました。そこへ会堂長のヤイロが来て、イエスさまの足元にひれ伏して、《わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう》としきりに願います。そこで、イエスさまがヤイロと一緒に出発すると、群衆も押し合い圧し合い従います。その時です。その女性が人ごみに紛れてイエスさまの服に触れたのは。

《さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである》。

彼女についてマルコはこのように紹介します。「出血が止まらない」とは、月経の出血が七日間を越えて異常に長引く病気をいうのでしょう。この病気については律法の規定があります。

《もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている》(レビ記15章25~27)。

古代の人々は死者に触れたり、出血に触ることによって、病気が感染すると考えて、これらの人々を汚れとして排斥していました。この女性は「汚れた者」とされて神との交わりを断たれ、汚れを人に移さないように人に近づくことを禁じられて人との交わりも断たれていたのです。十二年間とありますが、十二という数はイスラエルの十二部族とか、イエスさまの十二弟子とか、全体を象徴する数で、彼女の苦しみの深さ、その歳月の長さを表わしています。彼女は治療に全財産を費やしましたが、医者は直せませんでした。イエスさまの評判を聞いて、《この方の服にでも触れればいやしていただける》と思って、掟破り、律法違反ですが、群衆の中に入り込み、イエスさまの服に触れたのです。ルカ8章44には《この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった》とあります。房(ふさ)とは上着の四隅に付けた青い紐で、神への誠実を覚える目印です。会堂長のヤイロはイエスさまの足元にひれ伏して、《どうか、おいでになって手を置いてやってください》と願っています。しかし、この女性は汚れの身としてひそかにイエスさまに近づき、後ろからおずおずと衣服の裾に触ったのです。

《すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた》。

彼女はすぐに癒やされたことを感じます。同時にイエスさまも力が出て行ったことに気づきます。彼女の汚れがイエスさまに移され、イエスさまの清さが彼女に移されました。しかし、弟子たちはこの密かに起こった出来事を知りません。

《そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」》。

これだけ大勢の群衆が集まっていれば、誰がイエスさまの服に触ったかを問題にする方がおかしい。そんなことに手間取っていないで、早くヤイロの家に行きましょう。こう弟子たちは考えたことでしょう。ヤイロも娘の身を案じて、気が気ではなかったでしょう。

また、その女性にしてもイエスさまには見逃して欲しかったはずです。人に近づいてはいけないのに群衆の中に紛れ込んだのですし、イエスさまの癒しの力を黙って盗み取ったのですから。それに自分が服の裾に触れてイエスさまを汚したため、会堂長の家に行けなくなってしまったかもしれません。どうしましょうか。

《しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した》。

彼女は不治の病を癒してくれた方のまなざしを感じると、群衆の中に匿名で隠れていることができなくなりました。み前に進み出て、ありのままの自分としてイエスさまと向き合います。このひれ伏した姿はイエスさまへの徹底的な謙遜と服従を表します。病気さえ直れば、もうイエスさまは不要というのではなく、むしろ病気の癒しがイエスさまとの親しい交わりの始まりとなりました。

《イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」》。

ここでイエスさまはこの女性の汚れを問題にしていません。ご自分が汚れたことも気にしていません。イエスさまは律法の規定を超える「権威ある者」(マルコ1章22)なのです。そして、不治と思われた病をも征服する権威をもっておられます。

彼女はいままで、罪を犯したから病気になった神にのろわれた者、不信仰な者とみなされてきました。しかし、長く深い苦しみにもかかわらず、イエスさまの「服にでも触れればいやしていただける」という彼女の信頼(信仰)に目を留めて、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と宣言されます。これは、不信仰というレッテルを貼られた女性の名誉を回復させる言葉です。もちろん、癒したのはイエスさまの力であって、彼女ではないのですが。

きょうの第一朗読で《主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない》(哀歌3章31~33)と聞いたとおりに、重荷を負う者に対する神の慈しみがこの女性の上にも明らかに示されたのです。

また、イエスさまは彼女に「安心して行きなさい」、「元気に暮らしなさい」と祝福のことばを贈ります。イエスさまとの交わりを通して、彼女は病が完治しただけではありません。神との関係が回復されたのです。

ここで起こっていることを、著書『キリスト者の自由』12節で、ルターは「喜ばしき交換」(der froehliche Wechsel, the Joyous Exchange)と呼んでいます。イエスさまは彼女の汚れを引き受け、自ら汚れた者となりました。病気の彼女に代わってその重荷を引き受けたのです。《彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた》(イザヤ53章4~5)。イエスさまは自らの豊かさと私たちの貧しさ、自らの清さと私たちの汚れ、自らの義と私たちの罪とを交換してくださったのです。

きょうの福音が私たちに伝えようとしていることは、初めに言いましたように、信仰の大切さです。信仰とは、神は存在するとか、イエスはキリストであると頭で知ることではありません。苦しみ悩みを乗り越えて、人間に対する神の信実に信頼して生きることです。私たちは神に希望をもつことができるのです。神は、信じる者とイエスさまの間に「喜ばしい交換」という救いの手をお持ちです。私たちが差し伸べられた神の手をしっかりと握り返すよう招いてくださっています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年7月22日 聖霊降臨後第8主日 「嵐を静める」

マルコによる福音書4章35〜41節
高野 公雄 牧師

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

マルコによる福音書4章35〜41節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

マルコは4章1~34にたとえ話を集めたあと、こんどは4章35~5章43に奇跡物語を集めています。きょうの福音は、その中の「突風を静める」物語から福音を聞きとりたいと思います。

《その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった》。

「イエスを舟に乗せたまま」とありますが、それは4章1に《イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた》とあるように、イエスさまはガリラヤ湖のほとりに集まった群衆に対して舟の中からたとえ話で教えられました。そして、夕方になって話を終えると、群衆の待つ所には戻らず、向こう岸に渡ることにしたのです。

《激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った》。

ガリラヤ湖は、地中海の海面より212メートルも低いところにあり、西岸はなだらかな丘陵ですが、東岸は断崖が迫っていました。このすり鉢状の地形のために陽が沈むとしばしば突風が吹き降ろして湖が荒れたのです。イエスさまの弟子には漁師がいましたから、こういう気象をも舟の操縦をも知り尽くしていたはずですが、それでも、波が舟の中に打ち込んできて、命の危険にさらされることになりました。しかし、イエスさまは弟子たちの窮状も知らぬげに、舟の後ろの方で枕をして眠っていました。弟子たちはイエスさまを呼び起して、《先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか》と訴えています。パニックに陥った弟子たちの言葉にはイエスさまをなじるようなニュアンスが感じられます。本当は舟を出したくなかったのに、先生が「向こう岸に渡ろう」などと言うので、漕ぎ出したのです。それで私たちはこんな目に遭っているのに、助けてくらないのですか。こんな気持ちでしょうか。

《イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った》。

イエスさまがこの急場に眠っているとは信じがたいことですが、さらに驚くことが描かれます。目を醒ましたイエスさまが、嵐に向かって「黙れ」と

2012年7月15日 聖霊降臨後第7主日 「神の国のたとえ」

マルコによる福音書4章26〜34節
高野 公雄 牧師

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

マルコによる福音書4章26〜34節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

マルコ4章には、イエスさまの語ったたとえ話が集められています。3章までは教えの中身についてはほとんど触れずに、活動の報告をテンポ良く進めてきました。マルコはここで初めてイエスさまの教えについて取り上げます。

きょうは、そのたとえ話集の中から二つを読みますが、たとえ話を読むとき、たとえの意味ばかりに関心が向きますが、イエスさまが語るたとえ話の場合は、語るお方と語られる内容が結びついていて、切り離せませんから、そのことを意識して読むことが大切です。まずは「成長する種」のたとえです。

《また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」》。

「神の国は次のようなものである」という言葉で始まります。イエスさまが人々に伝えようとしたことは、福音書の冒頭に、《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》(マルコ1章14~15)とあるように、「神の福音」であり、「神の国は近づいた」ということでした。この世の混乱、惨状は見逃しがたく、いまや神は沈黙を破り、直接に危機介入に乗り出された、秩序の立て直しに着手されたというのです。「神の国」とは「神の目指す新しい秩序」と思えば良いでしょう。具体的には、神は独り子イエスをこの世に遣わし、悩む者・苦しむ者を助け、神が人間の一人ひとりを心底から大事に思っておられることを証しされました。イエスさまは、この神の秩序立て直しを「成長する種」にたとえられる、と言います。

ある農夫が畑に種を蒔きました。麦の種と考えて良いでしょうが、それは「神の福音」、宣教のことばのたとえです。蒔かれた種は相当の期間は土の中に隠れたままです。農夫は「夜昼、寝起きして」、忍耐して芽が出るのを待ちます。しかしやがて、芽が出て、茎が伸び、穂が立ち、実が充実してきます。その間、農夫は水をやったり肥料をやったり雑草を取ったりするでしょう。でも、麦の成長それ自体は農夫の働きではなく、種と土の働きです。「ひとりでに」育つとは、そのことです。また、農夫は種がどんな仕組みで成長するのか理解しているわけでもありません。農夫はただ、実りをもたらしてくれる神に信頼して働いています。そしてついに刈り入れを迎えます。

種まきの場合、農夫の働きではなく種がもつ成長する力こそが肝心要であって、それを信頼することで人の働きが成り立ちます。人の救いの場合も同じです。神はイエスさまにおいて始めた救いのわざを必ず完成させて、人に救いをもたらします。「収穫の時」とは、信じた救いが実現する時です。神のみことばの人を救う力が人を救うのであって、信仰生活にかかわる人のさまざまな営みは神の救いの確かさがあってはじめて意味をもちます。私たちの信仰生活は問題に満ちています。そのことを思うと、救われた喜びもしぼんでしまいます。でも、信仰とは、神に加勢して私が何かをすることではなく、神の人間に対する真実のお心を知って、喜びと感謝をもって私の心を神に向けること、救いの賜物を受け取ることです。それが信仰の根本です。

私たちの教会の館名文字にあるように、SOLA GRATIA(ソラ・グラツィア)、すなわち神の「恵みによってのみ」人は救われます。神の人間に対する無償の愛、一方的な善意によります。したがって SOLA FIDE(ソラ・フィデ)、人の働きによらず神の恵みのみ心に信頼して受け取る「信仰によってのみ」人は救われます。そのことは SOLA SCRIPTURA(ソラ・スクリプトゥラ)、「聖書によってのみ」信じることができるのです。このように、「成長する種」のたとえは、神の好意的な働きに信頼することを呼びかけているのです。

《更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」》。

次は「からし種」のたとえです。このたとえもまた、始まりは小さな目立たないものが、ついには目を見張るほどに大きく育つことを強調しています。

イエスさまの「神の福音」を宣べ伝える活動、これはふつう「神の国運動」と呼ばれていますが、これは、世界の片隅で始まったことであり、集まった人々も権力を持たないふつうの人たちでした。その小さな運動もイエスさまが十字架につけられ墓に葬られて、ついえ去ってしまったように見えました。しかし、神がイエスさまを復活させたことに、弟子たちはふたたび力を得て、神の国運動を引き継ぐことになりました。小さな種が芽を吹きました。

弟子たちによる宣教活動は、ローマ帝国からと同胞のユダヤ人からの迫害に挟み撃ちされて、非常に困難な状況での出発でした。しかし、次第に人々の心を引きつけ、キリストの教会が大きく育ってきました。ただし、一直線に成長したわけではありません。教会の歩みもまた人間の歩みですから、それは問題だらけでした。指導者たちの権力闘争とか堕落とか、躓きが繰り返えされました。しかしまた内部から刷新の運動も絶えず起こって、今日の教会があるのです。小さな芽が成長して、大きな木になりました。それはまさに、神が始めたことは、神ご自身が必ず実現させる姿だと言えるでしょう。きょうの第一朗読におけるエゼキエルの預言のことば、《主であるわたしがこれを語り、実行する》(エゼキエル17章24)とあるとおりです。

《イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された》。

ところで、問題を抱えているのは、昔の、あるいは他所の教会だけのことではありません。私たち自身の六本木ルーテル教会も同じだと認めなければならないでしょう。私たちは弱く小さな群れにとどまっています。しかし、そんな私たちにも、イエスさまは「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」とあるように、神の国運動を受け継ぐ使命を与えてくださり、期待を寄せてくれています。昔の、あるいは他所の教会に対してと同じように。そして、私たちが定期的にみことばと聖礼典にかずかることができるように備えてくださっています。私たちはあまりに弱々しく、努力が空しく感じられることもあると思います。しかし、たとえが教えるように、いつか芽が出ます。今も変化が起こっているのです。神さまの圧倒的な力の許にあること、またイエスさまの期待を受けていることに励まされて、礼拝を守り、教会に託された使命を担ってまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年7月8日 聖霊降臨後第6主日 「悪霊を追い出す」

マルコによる福音書3章20〜30節

高野 公雄 牧師

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

マルコによる福音書3章20〜30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

《イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった》

きょうの福音は、大勢の弟子たちの中から側近におく弟子として十二人を選んだという記事に続きます。家に帰られたのは、十二人と共に過ごして、親しく教えようとなさったのではないでしょうか。ところが、群衆が押しよせて来て、「一同は食事をする暇もないほど」のありさまでした。

イエスさまは人々と親しく接して、言葉と行いをとおして神さまの人を愛する真実の思いを伝えました。しかし、生前のイエスさまは、自分が誰であるかを自らはっきりと言いあらわすことは滅多になく、人々の受け取り方に任せておられたようです。イエスさまは「救い主」として世に来られたとしても、「救い主」として救いのわざは十字架の死と復活によって完成するのであって、この完成の仕方を見ずして生前のイエスさま、途上にあるイエスさまを先取りして「救い主」と信じることは、「救い主」についての正しい理解に基づくものではなく、必ず誤解を生むことになったのです。

ところで、イエスさまの許に大勢の人々が集まりましたが、皆が皆、イエスさまを慕って集まったわけではありません。中には、イエスさまに敵対する人々もいました。きょうの福音は、そのうちの二つのグループについて語っています。

《身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。》

ここに、身内の人たちと律法学者たちという二つのグループが書かれています。イエスさまのことを正しく洞察できる人がいるとすれば、真っ先に思い浮かぶのが、生身のイエスさまを良く知る身内の人と、聖書に精通しているはずの律法学者ではないでしょうか。しかし、現実はそうはなりませんでした。

イエスさまの身内の人たちは「あの男は気が変になっている」という評判を聞いて、自分たちもそう思って、イエスさまを「取り押さえに来た」のです。また、律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言っていました。ベルゼブルとはバレスチナの先住民族の信じる異教の神の名前です。それをユダヤ人は「悪霊の頭」つまりサタン、悪魔を指す言葉として使っていました。

当時、人が病気や障がいを負うのは、悪霊の仕業と考えられていました。悪霊は30節では「汚れた霊」とも呼ばれています。イエスさまは霊能者、奇跡による癒し手として評判となり、人々は病気や障がいのある人たちを伴って押し寄せていました。イエスさまは悪霊を追い払う人、と広く認められていたのです。

そういうイエスさまに対して、律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、また「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていたというのです。これは、これまでのイエスさまの言行を慎重に見守ってきた律法学者たちがユダヤの都エルサレムの権威をもってガリラヤ地方に下って来て、イエスさまに有罪宣告をする彼らの公式見解です。イエスさまはそれに対して、二つのたとえをもってご自分が誰であるかを示します。

《そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」》。

国でも家でも会社でも教会でも、内輪もめしていれば、早晩、存続の危機に陥るでしょう。サタンの王国も同じです。もしイエスさまがサタンの力によって悪霊どもを追い出しているとするなら、それはサタンの王国が内部分裂を起こしていることになりますが、ありえないことです。イエスさまが悪霊どもを追い出しているなら、イエスさまがサタンに仕える者ではありえません。最初のたとえは、こう言っています。

《また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ》。

病気や障がいのある人たちは悪霊どもに取りつかれているということは、彼らは悪霊どもに人さらいされている、または捕虜となって支配されている状態だということです。二番目のたとえは、彼らの救出を、サタンの王国に押し入って、捕虜になっている人々を解放する救出劇として描いています。サタンの王国に押し入って「家財道具を奪い取る」すなわち人質の解放に成功するためには、悪霊どもにとどまらず、悪霊の頭である強い人つまりサタン自身を無力にしなければなりません。このたとえも、イエスさまはサタンの力を借りているどころか、反対にサタンを縛り上げる方であることを主張しています。

このたとえは、旧約聖書が伝える、エジプトでの隷属からの救出、バビロンでの虜囚からの解放という神の力ある恵みのみわざを思い出せます。人の隷属状態からの神による解放ということは、イエスさまの活動が、病気や障がいのある人たちに限られず、すべての悩む者、苦しむ者に希望と慰めと喜びをもたらすものであり、私たち一人ひとりに関わるものであったことに気づかされます。

このように二つのたとえで律法学者たちの見方を退けたあと、イエスさまは、この議論を締めくくる言葉を発します。

《はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う》。

「はっきり言っておく」は、原文を直訳すると「アーメン。わたしはあなたがたに言う」という言葉です。以下に言われることは、イエスさまの大事な言葉であって、教会に属する人々の信仰と生活の規範となることを意味しています。二つのことが言われています。一つには、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」であり、二つには、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」です。当然のことですが、一番目の言葉が「主」たる言葉であって、二番目の言葉は「従」の言葉です。

罪も冒涜も一切が人間には赦される。これはイエスさまのみが口にすることのできる言葉です。そしてイエスさまから発せられたものとしてのみ、理解でき受け入れることのできる言葉です。神の律法に違反する罪は世にはびこり、人に不幸をもたらしています。違反行為はけっして簡単に見逃して良いことではありません。だからこそ、世には罪の責任転嫁と自己正当化もまたはびこるのでしょう。そのさまは、きょうの旧約聖書、創世記3章が鮮やかに描いています。これこそ、罪を罪として認めず、罪の連鎖から抜け出ることのできない、赦され難い状況に陥っている私たちの真の姿です。このような私たちの姿が、罪に捕らわれている、悪魔の支配に服している者として描かれているのです。イエスさまは、罪の鎖に繋がれた私たちを解放するために、私たちの犯した罪を赦して私たちを立ち直らせるために、私たちを新たに生まれ返らせるために、世に来て救いのわざをなし遂げてくださいました。ご自身の十字架の死によって私たちの罪をあがなってくださいました。この方のゆえにこそ、すべての罪は赦されるのです。イエスさまが、唯一の救い主であり、罪のあがない主です。

ペトロはこう説教しています。《この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです》(使徒言行録4章11~12)。また、こういう言葉もあります。《イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」》(ヨハネ14章6)。また、こうも記されています。《神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました》(Ⅰテモテ2章5~6)。

責任転嫁、自己正当化、自己愛に捕らわれた私たちを解き放ち、神と隣人に対して開かれた生き方へと変革させるのは、イエスさまの神的な救いの力によります。このイエスさまを悪霊の頭と言って敢えて拒み続ける者は、イエスさまのあがないの功徳にあずかることはできません。

きょうの福音を深く心に留めて、いったいイエスさまは私にとって何者であるのか理解を深める。これこそが、私たちの最優先の務めです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン