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2019年8月4日 聖霊降臨後第8主日の説教 「真に必要なもの」

「真に必要なもの」ルカによる福音書11章1~13節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

祈りを教えてください。これはキリスト教の祈りを知らない人だけが言う問いかけではありません。何十年と信仰生活を送り、祈り続けている人も問いかける大切な言葉です。祈ることを体験する、この祈りの出来事は、私たち人間の内から出るものではなく、神様から示されるからです。キリスト者だから祈れるとか、何十年と祈っているから、祈りのベテランということでもないのです。あのパウロでさえ「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」(ローマ8:26)と言っているのですから、祈りは個人プレーではなく、神様との共同作業、神様との関係において祈りは起こるのです。

マザーテレサは祈りとはキリストと一つになることだと言います。また祈れない私たちに対して、「単純になればいい。わたしの心の内にいるキリストに祈ってもらえばいい・・・・わたしの内にいるイエスよ、あなたの、わたしへの誠実な愛を信じます」と祈ればいいと言います。祈りを教えてください。それは教えてくださるキリストと一つになり、キリストに信頼して委ねることでもあります。祈れない私たちに対して、キリストは常に誠実な愛を向けて下さり、祈れない私たちのことをよくよく知っていてくださるからです。だから祈れないことで、一人で不安になることはないのです。

主イエスの弟子たちはユダヤ人です。彼らは主イエスに祈りについて尋ねるまでもなく、祈ることはしていたし、祈りを知っていたはずです。しかし彼らが知っていた祈りは、主イエスの祈りとどう違っていたのでしょうか。彼らが知っていた祈り、模範となり、祈る者として身近にいた人たちは、ファリサイ派の人たちではないかと思います。彼らの祈り、その姿勢を後に主イエスが批判しますが、それは大勢の人の前で祈る、人に見てもらう祈り、内容が整った立派な祈りというものだったでしょう。祈りは立派なものでなければいけない、律法の知識をしっかりともった立派な人でなければ祈るに相応しくない、そういったイメージを弟子たちはもっていたのか知れません。

この主の祈りは、神様が私たち一人の一人のことを知っていて、受け止めてくださり、必要なものを惜しみなく全てを与えてくださるという信頼から来る祈りです。祈れば与えられるかもしれない、祈れば希望通りのことが叶い、希望通りのものが与えられるということではなく、与えてくださる方が、私たちに必要なものを全てご存知であるということです。だから信頼して祈り始めることができるのです。

その信頼の内に私たちは「父よ」と呼びかけて祈り始めます。これはお父さん、お父ちゃんという表現です、子供が親を呼ぶ時の表現です。かしこまって、他人行儀のように呼びかけるのではなく、子どもが親を自然な呼び方で呼ぶように、親と子どもの関係のように、私たちは初めに父よと言って、祈り始めるのです。この父よという呼びかけ、子ども、幼子が呼びかけるかの如く、祈るということは、祈る者は子供や幼子のように、小さきものであり、何も持っていないものということを表しているのでしょう。神様に対して、また隣人に対して良いことをしているから、良いものを捧げ、与えているから堂々と神様のみ前で祈ることができるということではないのです。また気持ちに余裕があるから祈れるわけでもないのです。父よ、お父さん、お父ちゃんというこの呼びかけから祈りが始まるというのは、祈るものは根本的には自分の中には何も頼れるものがない、与えられるものがないという自分の姿を見出されるわけです。父なる神様はそんな私のことをご存知であり、そのままに私たちの祈りを聞き、祈りに応え、与えてくださる方なのです。だから、安心して、この父の懐に飛び込んでくればいいと、主イエスは私たちに教えてくださるのです。これが主の祈りを祈り、この祈りに生きる私たちの真の姿なのです。

主イエスは5節からのたとえを話されます。旅行中の友人が訪ねてきたが、食べるものがない。なんとか友人に食べ物を出してあげたいために、真夜中に、別の友人の家を訪れます。そこでパンを3つ貸してほしいと願いますが、友人は言います。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』(7節)この後の8節はこのたとえ話の結論へと続きますが、8節冒頭の「しかし、言っておく」という主イエスの言葉は、何かの発言があって、それに対する答えだったのではないかという解説があります。主イエスはこのお話を弟子たちにされています。途中で話を止めて、弟子たちに感想を聞いたのかもしれません。それは、旅行で尋ねた友人のために、真夜中にも拘らず、友人のもとを訪ねたが、友人はパンを貸してくれなかった。その友人を薄情者だと、弟子たちは感想を述べた、非難したのかもしれません。

そんな感想を述べたであろう弟子たちの思いとは予想を遥かに超えて、主イエスはこのたとえ話の結びを話します。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(8節)友人だからということは関係ない、しつように頼めば、何でも必要なものを与えると主イエスは言われます。しつように頼めば与えられる。そう言われます。諦めずに何度も何度も頼みこむということでしょうか。この「しつように頼む」と言う言葉、これは「強情な」とも訳せますが、元の言葉は「廉恥心」とか「恥知らず」、「厚かましい」という意味があります。しつように頼むということですが、その頼みこんでいる者の姿がここで示されています。全く遠慮なんてしていられない、恥知らずな厚かましい思いで、態度で、頼み続ける。求め続ける。人の迷惑なんて考えない、そんな姿が見えます。そうすれば、必要なものが与えられると主イエスは言うのです。このお話の後に、主イエスは「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(9~10節)と言われました。求める者、探す者、門をたたく者。たとえ話から結びつけると、その者たちはあたかも恥知らずな、厚かましい思い、態度で求め、探し、門をたたいていると言っているようなものです。しかし、そういった者たちに、与えられる、見つかる、開かれるというのです。

真夜中に扉を叩いて、懇願する人。願い求める姿、祈る者の姿は、この人のように見えます。しかし、家にいる友人の目から見たらそうではない。そこには恥知らずで、厚かましい思い、態度である人の姿がある。そういう人が懇願している。着飾るどころか、全く恥知らずな者の姿があるのです。そう、この恥知らずで、厚かましい者の姿、この者こそ祈る者の姿なのです。この者の祈りこそ聞いて下さるのです。その恥知らずな者の願いを聞き入れて、必要なものを何でも与えてくれる方がおられる。扉の向こうにいてくださるのです。

私たちはなぜ自分がこんな目に合わなければいけないのですかと、神様に尋ね求めるでしょう。理不尽な目に遭って苦しんでいる時、そのように嘆き祈ることがあります。旧約聖書の詩篇は嘆きの祈りがたくさんあります。恨みつらみを述べているような言葉もあるのです。何故ですかという求めに対して、具体的にこうこうだからという答えが返ってこないかもしれません。しかし、ここでその求めに対しても、神様は与えるかたです。何を与えるのか、その理不尽な環境を一変に吹き飛ばし、解決へと導いてくれるという自分の望みを超えて、今その理不尽さを通して、主はあなたにこういう意味を与えている、あなたにこういう気づきを与えられるということです。何故ですかという、人間の中では答えが出ようのない理不尽な求めに対して、神様は意味を与えられる。その闇を通して、神様は光の道を備え、与えてくださるのです。求めなさい、そうすれば与えられる。自分ではもはや解決の糸口がなく、答えがないという嘆きに対して、神様はそこに意味を与える方なのです。本当にあなたに必要なもの、道を備え、与えてくださるのです。だから、主イエスはこう言われるのです。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。(1113節)」あなたが必要なものに対して、神様は的外れで無駄なものは与えない方であると、主イエスは言われます。私たちを裁き、殺すためではなく、真に救い、生きることができるようにと、私たちに御心を示し、与えて続ける方なのです。

そして主イエスは「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(13節)と約束してくださっています。聖霊という神様の御力、導きが与えられている。それはどういうことかと言いますと、この聖霊の賜物を通して、この働きを通して、神様は今も生きて、私たちと共にいてくださることを教えてくださるのです。この聖霊が神様の愛の御心を教えてくださいます。与えてくださる神様の働きを、私たちに示してくださる方なのです。

祈りは力、人を変える力です。なぜか、それは私たち人間には全くないもの、全くない力です。この神様の霊が働かれる力だからです。祈り求める私たち、それは恥知らずな、厚かましい姿の私たちかも知れない。空っぽで裸な、無力な者の姿かも知れない。だからこそ、神様は顧みて下さる、扉を開いて、必要なものを与えて下さるために、私たちを迎えてくださいます。その信仰と信頼をもって、私たちは祈り求めるのです。門は必ず開かれます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年7月28日 聖霊降臨後第7主日の説教 「あなたの安息」

「あなたの安息」 ルカによる福音書10章38~42節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 

今日はマルタとマリアの物語から福音書の言葉を聞きました。ここに「もてなし」という言葉が出てきます。私たち日本人にとって「おもてなし」という言葉は非常に身近に感じるのではないでしょうか。賛否両論ありますが、トランプ大統領が日本に来日した時の安倍首相の対応はおもてなし外交と言われたのが記録に新しいかと思います。そして、来年はいよいよオリンピックです。この六本木教会にも外国からのお客さんがいつもより多く礼拝に来られるかもしれませんので、これからオリンピックに向けて、役員会でその対応を協議してまいります。お客さんが教会に来て下さることはうれしいことですが、教会は何よりも共にその方々といっしょに賛美し、聖書の言葉を聞き、祝福をいただく礼拝の恵みを恵みとして喜びと感謝の内に共に過ごせることをまず願っております。

この「もてなし」と訳された言葉は、原語のギリシア語ではディアコニアと言い、これは「仕える、奉仕」と訳される言葉です。英語ではサービスです。そして、サービスと言えば礼拝のことを指します。私たちが礼拝をする、礼拝を守るというと、私たちが神様にお仕えし、神様に奉仕する。または神様をおもてなしするということを思い浮かべるかもしれませんが、ルターは礼拝のことをドイツ語でゴッデスディーンスト「神奉仕」と言いました。私たちが奉仕する以前に、神様が私たちを奉仕してくださる、それが礼拝だと言いました。何よりもまず私たちが神様の奉仕、もてなしに与っているのだということ。その姿勢を今日の福音書は私たちに伝えているのです。

主イエスと弟子たちはある村に入って、マルタとマリアの家に迎えられました。歩いて行くうちとありますが、口語訳聖書では「旅を続けているうちに」とあるので、結構な距離を歩いて旅していたのでしょう。彼らを迎え入れたマルタとマリアは主イエスと顔見知りで、以前から交流があったのかもしれません。長旅の中、ようこそ我が家にお越しくださいましたと、主イエスたちを迎え入れ、もてなしました。この時代に宿屋やホテルと言った施設はほとんどなかったので、埃まみれで、空腹の旅人をもてなすということはユダヤの社会でとても大切にされていました。旅人はもてなしを受けて、身も心も安息を得ることができたでしょう。

姉妹は主イエスと弟子たちをもてなしますが、妹のマリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」と言います。「聞き入っていた」というのは、夢中になって聞いていたということです。夢中になっていて、主イエスの言葉を、神の言葉を聞いていました。一方で姉のマルタは尚も彼らをもてなすためにせわしく立ち働いていたと言います。もっとお料理をださなきゃとか、あれもしないとこれもしないと、という具合に忙しくしていたのでしょう。ところが、彼女のもてなしの心は違う方向に向いていました。自分の手伝いをしない妹のマリアに、不満を抱いていたのです。主イエスの前に座して神の言葉を聞くマリアを、もてなしをしない怠け者と映ったのかもしれません。なぜあなたはもてなしをせず、ただ座って話を聞いているのか。

そこで彼女は、マリア本人にではなく、主イエスにこう言います。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。」不平不満だと言います。せっかくのおもてなしの心が、自分だけがやらされている感があって、彼女は訴え出ました。そして、あなたからマリアに手伝うように言ってくださいというのです。このマルタの思いには、マリアに対する非難以上に、主イエスに対する非難があったのでしょう。そして非難であるのと同時に、自分のもてなす行為を認めてほしいという気持ちがあったのでしょう。私はこれだけあなたをもてなして、あなたに仕えているのに、マリアは何もしてません。何もしていないマリアになぜあなたは何も言わないのですか。私だけに働かせて、マリアに何も言わない主イエスに腹を立てているのです。

このマルタの心情を明らかにするように、主イエスは彼女に「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と言われました。心を乱すというのは、心を配っているということです。彼女は主イエスと弟子たちをもてなすために一生懸命に心配りをしているのです。真面目に、真剣にやっているのです。しかし、その心配りは、多くのことに思い悩み、今や心を乱すという彼女の心が主イエスに映し出されています。自分の判断で、自分の力量で、あれもこれも心配りをして、もてなしをしようとしている。それがマリアの姿を見て、自分のもてなす行為を手伝わないという不平不満に心を支配され、もてなしがもてなしではなくなってしまっている。やられている感があり、彼女は不自由で窮屈な思いに縛られているのです。

マルタの姿は私たちの姿と重なりやすいかと思います。敢えて何か事例を出すまでもないでしょう。皆さん一人一人、思い当たることがあり、経験されていることかと思います。マリアの態度が、その姿が許せないのです。なぜ私だけがこんなに役割を背負わされているのか。私のことは誰も評価してくれないのか。自分はこんなにやっているのに。そして、なぜ手伝いもしないマリアは咎められないのかと。不公平だと思う。マルタの姿、思いは決して自分とは無関係だとは言い切れないどこか共感できるものがあるでしょう。また、逆にマルタは自分のことだけに気が向いていて、本当のもてなす心になっていないという非難もあるかと思います。主イエスを心からもてなそうとはしていない。自分の力量に過信して、自分の思い通りにもてなそうとして、自分の側に喜びを見出そうとしている。だからマリアの姿が許せず、挙句の果てにはもてなしの対象である主イエスにその不満をぶつけている。マルタこそ自分勝手な人物だという思いもあるでしょう。

ところが、主イエスはマルタに対して、あなたは喜びをもって真のもてなしをしていないからだめだと言われたのではないのです。マルタのもてなす行為を責めたのではないのです。主イエスはこう言われました。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」必要なことはひとつであって、あれやこれやではなく、またそれらに心配りをするのではなく、ただ一つであると。それはマリアが選んだものであるというのです。それを取り上げてはならないというのは厳しい言葉に聞こえますが、だからこそそれがマルタにとっても必要なただひとつのことであり、主イエスはマルタもまたそのひとつのことに彼女を招こうとされているのです。

マリアの「足もとに座って、その話に聞き入っていた」という姿は、律法学者などの神様の律法、掟を教える人から、教えを聞く姿勢を表しています。ただ、これは男性に限られたことであって、女性がこのようにして神様の教えを聞くという姿、習わしはありませんでした。ですから、マリアのこの行為自体が驚くべきものでありました。けれど、主イエスは彼女の行為を非難することなく、良いほうを選んだというのです。男性とか女性とか子供とか関係なく、ただマリアは主の足元に座って、神様の言葉に聞き入っていたのです。申命記33章3節で、モーセは神様にこう言っています。「あなたは民らを慈しみ/すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。彼らはあなたの足もとにひれ伏し/あなたの御告げを受ける。民とはイスラエルの民を指します。そして、主の言葉を聞くのは主に男性を対象としていました。マリアは壁を破って、主イエスに信頼し、神様の言葉に耳を傾け、聞いているのです。自分もまた神様の慈しみの内にあり、神様から愛されている。自分を窮屈にする言葉としてではなく、真にこの私の人生に語りかけているその命の言葉として、マリアは主イエスの言葉を聞いているのです。マリアは良いほうを選んだ、それは彼女が主イエスを自分の心に招き入れ、み言葉を通して彼女をもてなしている主イエスの姿があるのです。

あなたは民らを慈しみ/すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。」この愛と命の言葉は、この私に語られている。この私の人生のひと時ひと時、決して途絶えることなく、私に語り続けてくださっている。この私はあなたの御手の内に合って、真に安息を得ることができる。マリアの確信と信頼の心はここにあります。み言葉を通して、私の人生に語りかけ、決して私を見捨てることなく、私を常に気にかけてくださっている神様の愛と慈しみに満ちた手でこの私を包み、支えてくださっているのだと。そのようにして私をもてなしてくださっている主イエスの姿がここに映し出されているのです。マリアは自分のもてなしの自分の業にではなく、主イエスの御業の内に、自分の人生があり、自分自身を振り返っているのです。真の安息を得ているのです。マルタは自分のもてなしの業に信頼して、主イエスをもてなし、主イエスを迎えようとしました。一生懸命に真面目に。それこそマルタの働きを非難する資格など毛頭ありません。しかし、マルタのもてなしは思い煩いと背中合わせでした。自分のもてなしの業に委ねるあまり、マリアの姿に思い煩い、心を乱してしまったのです。マリアの姿を受け入れる心の持ちようがありませんでした。それほどまでに、彼女の心は縛られ、不自由にされていたのです。マリアという相手を裁いて傷つける以上に、その思い煩い故に、マルタ自身が傷ついていたのです。主イエスはそのマルタを招き入れようとしているのです。実はあなたが一番心乱し、思い煩い、傷ついているのではないかと。縛られ、不自由の中を苦しんでいるのではないかと。あなたの中にではなく、神様の、主イエスのみわざの中にあなたの人生があって、そこであなたは生かされているのだと。この神様からのあなたへのもてなしを受けてほしい。それが主イエスを自分の心に招き入れ、主イエスの言葉を聞いて主イエスと共に生きていくことなのです。

聖書の言葉、神様の言葉は私たち一人一人に語られています。日ごとの様々な働きに心を乱し、疲れ切っているこの私に聖書は語っています。あなたの働き、あなた自身のもてなしの行為があなたを自由にするのではなく、この私があなたをもてなし、あなたを自由にするのだと。それは主イエスが片時も私たちの歩みの中に働きかけてくださっているからです。その神様の愛のご意志を私たちは聖書から聞いていくのです。その言葉に聞いて歩むところから、私たちのもてなしの働きは生まれます。自分に委ねて、他者の姿を気にして裁いてしまうその不自由さから解放され、自分ではなく、神様の御業によって自分がもてなされ、生かされている喜びを知るところから、私たちの他者へのもてなしが生まれるのです。自由にもてなす心が主によって養われ、そこに生きることができるのです。私たちのもてなしは主の足元に座り、み言葉を聞くところからまた新たに始まります。始めることができるのです。主イエスと共に、互いにもてなし、互いに他者を思いやって、歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年7月21日 聖霊降臨後第6主日の説教 「痛みを共に」

「痛みを共に」ルカによる福音書10章25~37節 藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  皆さん、「友人」がいらっしゃると思いますが、自分が信頼して、どんな悩みも打ち明けることができ、どんな時にもいっしょにいてくれて、どんな時にも助けてくれる人がいるならば、大きな支えになるでしょう。しかしそういう意味で、本当に互いに信頼しあうことの出来る友はいるか、それは切実な問題です。

しかし今朝、私たちが問われているのは、私たちが他者のために本当の友人になれるのか、ということです。他方、聖書は真の友となることについて語っています。

この福音書の「善いサマリア人」のお話もそのひとつです。これは大変有名な箇所です。みなさんもよく読まれるでしょう。このお話はとてもわかりやすく、人を愛することの大切さを伝えています。誰もが冷酷なレビ人や祭司ではなく、サマリア人のようになりたい、分け隔てなく人を愛する人になりたい、そういう理想のようなものが描かれているからです。しかし、実際に難しいのは、この譬えの中に示されている愛の戒めを実行することではないでしょうか。

さて、この譬え話に入る前、ひとりの律法の専門家が主イエスにいかにすれば永遠の命が得られるか問うています。しかし、その問いの背後には、主イエスを罠に落しいれる意図があるので、わざわざ聖書は「イエスを試そうとして」問うたと示しています。主イエスの答えは、実に明瞭でした。ふたつの律法を守ることが永遠の命を得るために必要なのです。第一の律法は申命記6章4節から5節です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4~5)そして、もうひとつの律法はレビ記19章18節からの引用です。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)すなわち、神を愛し、隣人を愛することであり、このふたつは切っても切れないほど結びついているというのが主イエスの主張なのです。これらは、ユダヤ教の根本的精神ですが、同時に主イエスはクリスチャンに対する愛の戒めとして教えているのです。大切なのは、それらの戒めを理解するだけでなく、実践することにある、と語ったところに主イエスの教えの根本があるのです。

この主イエスの教えに対して、律法の専門家は次のように答えました。「私の隣人とは誰ですか」と。神さまを愛することはもちろん当然のことであり、いわれるまでもなく自分は隣人を愛していると、胸を張って主張するのです。自分は、人々の模範でありこれ以上に誰が、私の隣人なのか、自分を正当化しようとして、主イエスに反論しているのです。まさにこれは神様の御前にあって、とてもある傲慢な姿であり、ある意味で開き直りです。自分だけが正しい、そういうエゴイズムがこの反論の中に見え隠れています。このような硬直化したひとりよがりの、誤った信仰の態度に対して、主イエスは今や譬え話を用いて語るのです。愛と勇気と信仰の、あるべき姿、生き方を具体的に指し示したのがいわゆる後半にある「善きサマリア人」の譬え話なのです。

  ここで譬えの筋についてはもはや詳しい説明は不要でしょう。神様を愛すること、隣人を愛することが信仰の本質であると人前では胸を張って主張している人が自らの身の安全を最優先して、倒れている者を見捨てしまうのです。危険を冒してまで助ける勇気も、また他人への関心すらもない。そういう人間の身勝手さ弱さが描かれているのです。ここで描かれた人物こそまさしく今、主イエスを罠に落としいれようとしている律法の専門家彼自身なのです。

他方、そのようなわがままな見栄っ張りの登場人物たちとは全く対照的な、あのサマリア人は登場するのです。サマリア人というのは、もともとはユダヤ人とはライバル関係にあったイスラエル人です。国が滅んだ後、他民族との混血が進んだゆえに、純潔主義のユダヤ人からは汚れた民として蔑視され、差別されていた人々だったのです。そのようなサマリア人が倒れていたユダヤ人を、自らの危険を冒して介護し、近くの宿屋に連れて行き、宿代まで支払っていった。この予想もできないサマリア人の愛と勇気が見事に描かれている。これぞ、神様を愛し、隣人を愛することの実践であると語りきったところに、この譬え話の本質がある。ではいったいなぜ、どんなメリットがあって、あるいはどのような動機で自らのリスクを冒し、自らの費用でサマリア人はこの倒れたユダヤ人を助けたのでしょうか。聖書はたった一言、その動機について語っています。それは、彼がユダヤ人を憐れんだということです。サマリア人にとってこのユダヤ人を助けることには何のメリットもない、見返りもまったくない。まさに無償の愛こそが勇気あるサマリア人の行動を特徴づけているのです。

主イエスは最後に律法の専門家にこう問いました「あなたはこの三人の中で、誰がおいはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と。大事なことは誰が私の隣人かではなく、誰が隣人になったかということです。つまり、神様を愛し、隣人を愛することを実践したのは誰か。律法の専門家がまさに、言ったように、「その人を助けた人です」

さて、今朝この善きサマリア人の譬え話を通して、私たちに求められていることは何でありましょうか。それは主イエスが律法の専門家に37節で語ったように、「行ってあなたも同じようにしなさい」ということなのではないでしょうか。もし私たちの交わりが単なる気休めや、不満の捌け口の場ならば、私たちの交わりは律法の専門家と同じように、やがては自己正当化、自己満足の手段と化してしまうでしょう。神様に仕え、隣人に仕える使命があるからこそ、教会にはキリストの体としての価値があるのです。地の塩、世の光としての役割があるのです。しかし、どうしたら私たちが神様に仕え、隣人に仕えることができるのでしょうか。愛と勇気を持つことができるでしょうか。

その解決の鍵は、やはり聖書の中にあるのです。サマリア人のほうから倒れている人を憐れみ、サマリア人のほうから近寄る愛の姿勢。この愛の姿こそ実はキリストの十字架からあふれ出る憐れみと無償の愛を写し出してはいなのではないでしょうか。

実は、この「憐れむ」という言葉は、ルカによる福音書ではこの箇所以外ではもっぱらキリストの憐れみを描き出すのに用いられているのです。例えば、放蕩息子の譬え話で、神やキリストに譬えられている父親が、悔い改めた息子を憐れに思って家に迎え入れた箇所(ルカ15・20)や、ナインの村で息子を失った一人のやもめの話(7・13)などには、キリストの愛や神の愛を表すのに用いられているのであります。放蕩息子の譬え話にはこうあります。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(15:20)そして、ナインのやもめの話にはこうあります。

 「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。(7:13)したがってこのサマリア人の愛の行為の背後には、キリストの愛が暗示されている、主の憐れみ深さがその行動の中に刻まれているのであります。

この真実の善きサマリア人となりえた人物こそまさしくナザレのイエスではないでしょうか。主イエスこそが私たちの隣人、真実の友となってくれたのです。それがまさしく、十字架の真実なのです。この方こそが私たちを憐れみ、どんな時にもあなたに寄り添い、あなたが信頼できる唯一の友となってくれたのです。だからこそ、私たちはこのキリストの愛に応えて、神様を愛し、隣人に仕えることができるのです。

主イエスは私たちひとりひとりに、やはり同じようにキリストの大いなる憐れみの下で語りかけています。「行ってあなたも同じようにしなさい。」と。みなさん、これは新しい戒めではなく、わたしたちに近づき愛してくださるリストの愛に応えて生きる、新しい人生への招きの声であります。私たちはただその御声に聴き従うのであります。ただ、キリストを仰ぎつつ、神様に仕え、隣人に仕えることを願いたいのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年7月14日 聖霊降臨後第5主日の説教「惜しみなく注がれる神の愛」

「惜しみなく注がれる神の愛」ルカによる福音書9章51~62節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書の冒頭に『イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。』(51節)とあります。天に上げられる時期というのは、主イエスが昇天される出来事だけを指しているのではなく、それは以前、弟子たちに証ししたように、ご自身の死と復活を予告し(ルカ9:21~27)、エルサレムで遂げようとしておられる最期について(9:31)証ししている出来事を指します。エルサレムで遂げようとしておられる最期、それは十字架の死を指しますが、その死を受けるために決意したのがエルサレムへの旅路であり、十字架への道なのです。

その主イエスの決意を阻むかのように、道中、準備と休息を取るために立ち寄ったサマリア人の村で、サマリア人たちから拒絶されました。そこには数百年に及ぶ民族同士の深い対立が背景にあります。お互いに交流はなく、嫌な印象をお互いに抱いていました。だから、ユダヤ人である主イエスを歓迎する気など毛頭ないのです。その憎しみに拍車をかけるように、弟子のヤコブとヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54節)と主イエスに言います。自分たちにとっての敵である、主イエスの旅路を阻むこの者たちを、神様の裁きで排除してしまえばよいではないかと考えたわけです。

このヤコブとヨハネの声は、現代版のヘイトスピーチであると言えるのではないでしょうか。「彼らを焼き滅ぼしましょうか」、それは憎悪をむき出しにし、自分の正しさに立つ発言です。この時代であればサマリア人がその対象なのです。しかし、主イエスは彼らを戒められました。それには及ばないということではなく、彼らを叱って、それは違うとはっきりと言いました。それは、彼らの思いから来る発言がエルサレムに向かう主イエスの決意ではなかったからです。主イエスの決意から外れていたのです。ユダヤ人であるこの弟子たちから見て、サマリア人は神様からの救いの対象から離れていたという印象がありました。彼らを罪人と見なし、裁きの対象に見ていたという思いがここで顕になったのです。主イエスの戒めは、ご自分の決意から遠ざかっているのはむしろこの弟子たちであり、サマリア人への憐れみを持てない彼らの思いというより、自分たちはサマリア人よりも神様の救いに近く、正しいものであるという彼らの思いに向けた戒めであったと言えるしょう。私たちも自分の価値観に基づいた正義を振りかざし、他者の救いのためではなく、裁いてしまうということがないとは言い切れません。そして、本当の意味で救いから遠ざかっているのは、そのような価値観に縛られている不自由さからくるものではないでしょうか。主イエスの戒めはそのことに向けられ、主イエスの決意からは遠ざかっているのです。

この後、3人の弟子志願者が登場します。一人目は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)と言う人でした。対して主イエスの答えは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(58節)と言われます。狐にとっての穴、空の鳥にとっての巣、それらは命を、存在を、生活を守るものです。ところが人の子である主イエスにはそれがないと言います。それは、主イエスが人々によって片隅に負われ、枕するところを奪われる救い主だからです。枕するところを自分のためにではなく、人々のために、人々に与えるということなのです。どこへでも従って参りますという主イエスに続く道は、主イエスご自身がそのように辿る道であり、その決意に従っていくことなのです。

主イエスは二人目の人には従いなさいと言われます。すると、その人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(59節)と言います。父親が亡くなられたばかりだったのでしょうか、今は葬儀をまずしなくてはいけないという彼の心境は最もなことだと思います。しかし、主イエスは言います。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」(60節)死の世界に行ったものをこの世に生きるものではどうにもならない、死んでいるものたちにまかせるしかないと。けれど、主イエスはここで葬儀に出るな、葬儀などする必要はないと言っているわけではありません。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」神の国を言い広める、他の訳では明確に「神の国を宣べ伝えよ」となっています。この神の国、神のご支配する領域の中に死者も含まれているのです。この神の国という言葉は神様のご支配する領域という意味において、神の愛とも言える言葉です。神の愛がそこにある、神の愛によって、亡くなられた者は神と繋がっている。それは死から復活する主イエスにおいて明らかになることで、この復活の主イエスに繋がることにおいて、先に亡くなられた愛する者たちとも繋がっているという慰めを与える。それが主イエスに従い、神の国を言い広めて、神の愛を明らかに告げることです。

パウロはローマの信徒への手紙でこう言います。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。(83539)神の国を言い広める、それは神の愛が及ばないところはないということ、この愛によって私たちは生きている、死の力も、この愛の前には無力であるということです。命の望みはつきることがないのです。

  さて、最後の三人目はこう言います。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」(61節)ようするに、家族に別れの挨拶をさせてくださいと言います。しかし、主イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(62節)と厳しいことを言われます。鋤は土を掘り起こす道具ですが、その仕事は主イエスと出会ったときから与えられているので、もはや後ろを振り向いている時などないと言われるのです。家族のことを心配するのは誰もがそうです。主イエスに従っていくと、もう会えないかもしれない、だから正式にお別れをさせてほしいと頼むのはよくわかります。しかし、主イエスはそれは神の国にふさわしくないと言われます。ただしてはならないと言っているわけではありません。神の国にふさわしくない、ようするに、あなたとあなたの家族は神の国に生きているのであるから、神の国、すなわち神の愛におけるあなたがたの交わりが、交流がある。神の愛を抜きにして、あなたがたの関わりはないのだと言っているのだと思います。だから、神の国にふさわしくないと主は言われるのです。家族との関わりを二度ともつなとか、絶縁しろと言っているわけではないのです。そして、主イエスに従うことが、神の国に生きるということであれば、家族のこともそれは、この私以上に主イエスが気にかけ、心を砕いてくださっているということではないでしょうか。もちろん家族の心配は誰だってします。しかし、心配や不安から神の国が揺らぐことはないのです。私が気にかける以上に、主イエスが気にかけてくださっている、主がその愛の御手で包んでくださっている。大切な私たちの家族を、神の国は生かされるのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロⅠ57家族との関わりも、この神の国において、結ばれている。だから、神の国をもたらす主イエスの後についていくのです。

この3人の志願者が弟子になったかどうかはわかりませんが、ヤコブとヨハネを含めて、主イエスの決意から離れていた姿がありました。主イエスの言葉は確かに厳しいものでありますが、この厳しさの中に主の決意があります。それはエルサレムで、十字架を通して成し遂げる神の愛の実現であり、赦しと愛に基づく主イエスの決意です。この決意は、さきほどパウロの言葉から言いましたが、絶対に私たちを引き離さない神の愛です。だから、神の愛に示される神の国とはどこか遠い理想郷ではなく、理想郷とは言えないような弟子たち、また私たちの小ささ、弱さ、惨めさの中に、起こしてくださるのです。

主イエスは同じルカによる福音書でこう言われます。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(172021実にあなたがたの間にあるのだと。そう、今を生きている私たちの只中に。それこそ厳しいこの現実世界、ヘイトスピーチなどが飛び交うこの世に、主イエスは神の国をもたらされるのです。主イエスの決意に私たちも従い、私たちの都合や不安、悩みと共に歩んで下る主イエスに信頼して、この神の国を、神の愛を広めていきたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。