マルコによる福音書3章1〜12節
高野 公雄 牧師
イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。だから、人の子は安息日の主でもある。」
マルコによる福音書3章1〜12節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。
アーメン
《イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた》。
きょうの福音は、聖書の小見出しにあるように、イエスさまが「手の萎えた人をいやす」奇跡物語が語られるのですが、それが安息日のことであったことから、安息日の掟をめぐる論争物語へと重心が移って行きます。
先週の福音も安息日の掟をめぐる議論でしたが、安息日の掟というのは、聖書に、こうあることに基づいています。《安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである》(出エジプト記20章8~11)。この掟によって、安息日に病人をいやすのは医療行為という労働であり、律法違反と見なされていたのです。
《イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった》。
片手の麻痺した男を癒す話は、このようにとても短く、あっさりと終わっています。しかし、イエスさまは、この男をいやすことで安息日の掟を犯したと訴えようと注目している人々に向かって問いかけます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
ここで、問題の核心は、安息日の掟にあることが明らかになります。そして、安息日の掟を犯してこの男をいやしたことは、重大な結果を招きます。
《ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた》。
ここで、ユダヤ教にとって安息日の掟がなぜそれほどまでに重要なのかについて理解を深めておきましょう。
私たち日本人の生き方は、「郷に入りては郷に従え」ということわざが示すようなものになり勝ちです。どこかの地域に住むときには、(たとえそれが自分の価値観に反していても)そこの習慣に従うのが賢い生き方だというものです。ところが、ユダヤ人の生き方は違いました。ユダヤは、エジプトという大国と、メソポタミアの大国ニネベやバビロンの間に挟まれたパレスチナ地方の小国でした。つねに大国の圧力の下にありましたが、ついには国を失って上層の人たちは国外に強制移住させられ、母国語であるヘブライ語も失いました。ユダヤ人という民族が消えそうでした。その危機を救ったのが、割礼と安息日の掟と食物規定を厳格に守ることでした。それによって、他の民族から自分たちを切り離したおかげで、生き延びることができたのです。国を失おうと母国語を失おうと、ユダヤ人は自分たちの宗教と民族性を保つことができたのです。それで、ユダヤには「ユダヤ人が安息日を守ったのでなく、安息日がユダヤ人を守った」という格言まであります。このように、安息日の掟は、ユダヤ人たちにとって特別の意味をもつものだったのです。
《安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか》。
安息日は仕事をしてはいけないという規定をそれほどまでに大事にしている人々に向かって、イエスさまはこう問いかけます。安息日厳守を主張するファリサイ派の人たちも、人命にかかわる緊急の場合は例外を認めて、援助して良いとしていました。ですから、後半の問いかけに対しては、命を救うことは許されていると答えることができたはずです。しかし、善を行うことができると答えることはできませんでした。命に別状がない場合には、善行であっても、安息日にはしてはいけないというのが彼らの教えだったからです。安息日に麻痺した手を治すことは、律法違反だったのです。安息日の律法は、隣人愛に優先していました。
先週の福音にあったイエスさまの言葉「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(2章27)と、ユダヤの格言「ユダヤ人が安息日を守ったのでなく、安息日がユダヤ人を守った」では、掟と人の優先順位が正反対であり、とうてい両立できません。ファリサイ派の人たちが指導するユダヤ教は、イエスさまの教えをけっして受け入れることはできません。イエスさまの教えは、神と律法に対する冒涜であって、人々の間から取り除かなければならない害毒と見られたのです。それゆえに、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々は友好関係にないにもかかわらず、反イエスという一点で手を組んで、イエス殺害の相談をはじめました。
この出来事までは、《ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された》(マルコ1章39)とあるように、イエスさま一行はガリラヤ地方の町々村々にあるユダヤ教の会堂シナゴーグで安息日ごとに説教をするという仕方で活動していました。しかし、マルコ福音によりますと、これ以降、6章で故郷ナザレの会堂で教えたことを除いて、会堂に入ることはありません。
社会の上層の人たちが、イエスさまを受け入れず、むしろ圧殺しようとたくらむ反面、ガリラヤ地方の群衆はイエスさまに従い、周辺地域の群衆はイエスさまの許にやって来ます。彼らはイエスさまに大きな期待を寄せます。その様子がきょうの福音の後半7~12節「湖の岸辺の群衆」に描かれています。このように、イエスさまを信じるか否かで人々の間に分裂が生じ、亀裂が深まり、緊張が高まっていきます。その結果が、イエスさまの十字架です。
安息日の掟をめぐる論争をふり返ってみましょう。要点は、イエスさまが指摘するとおり、ファリサイ派の人々の視点が本末転倒しており、安息日律法の中心ポイントを外している、ということです。彼らが安息日の律法をとくに大事な律法としたことは、正しい判断です。神は世界と人を創造し、維持し、困難に陥ったイスラエルを救い出してくださった。そのことを覚えて、安息日を聖なる日として守り、働く人々の安息の日を与え、心をこめて神に賛美と感謝をささげ、神の配慮を祈り求める。これが安息日の掟の根本精神です。
そうであれば、安息日にユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝に出席し、神の助けを祈る片手の麻痺した男をどう見るのが正しいのでしょうか。この男の重荷を取り除いてやろう、麻痺した手を治してやろうと思うのが、安息日を定めた精神に適ったことなのです。私たちは、イエスさまの振る舞いから、このことを学びます。
ファリサイ派の人たちは、安息日の律法を大事にするのは良いのですが、今この具体的な現場において、その律法が何を許し、何を禁じているかという枝葉末節に囚われるあまりに、イエスさまが律法の規定を守るがどうかという方に注意が向いてしまって、あの男の困窮に目を向けることができませんでした。これは、安息日の律法が定められた根幹の理念に反します。
イエスさまは、悩む者・苦しむ者を見逃さず、特別に目を向けて配慮してくださる神の愛の真実を、ご自分の身をもって証ししておられます。前に読んだ福音にこういう言葉がありました。
《一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである》(マルコ1章21~22)。
イエスさまの教え、振る舞いの権威は、それによって証しされる神の真実にあります。安息日は、主日は、この証しを聞いて、神よりの平安を受け取るためにこそ定められているのです。
先週の福音でイエスさまは《人の子は安息日の主でもある》(2章28)と言っておられます。イエスさまは私たちの救い主であって、私たちに神との平和を得させるために十字架のあがないを成し遂げてくださいました。きょうはこのあと聖餐式が続きます。主イエスさまの恵みに、感謝と喜びをもって与からせていただきましょう。主イエスさまこそが、私たちの平和、安息の基です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン