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2019年4月21日 復活祭の説教「射し込む命の光」

「射し込む命の光」ルカによる福音書24章1~12節 藤木智広牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

イースターおめでとうございます。復活の喜びを喜びとして受け止めるようにと、私たちは四旬節、受難週を過ごしてまいりました。死の闇を受け止めて、復活の光を知るのです。光が闇の中で輝くように、主の十字架と復活は決して別々のものではなく、切っても切り離せないものなのです。死の闇の中で、命の終着点と思われるところで、キリストの復活を通して、新しい命のありかとなりました。私は復活であり、命である(ヨハネによる福音書11:25)。死者の復活のために、キリストが神様によって復活させられたということです。そして、パウロの言葉を借りれば、このキリストは「復活の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」方であり、(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:20)私たちもこのキリストに結ばれることによって、復活の命に与るということが約束されているのです。また、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:14)とも言いました。だから、このイースター、復活祭はキリスト教教会の最も重要な祝祭で、一番古い祝祭なのです。このイースター、復活祭を中心に、クリスマスやペンテコステなど祝祭と教会の暦が作られていきました。

さて、今年はルカによる福音書から、復活の物語を読みました。ルカ福音書には、多くの婦人が描かれています。10節には「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」とあります。名前の記されている3人の婦人たちは、前の8章1節から3節に登場しています。そこにはこう記されています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(8:1~3)この女性たちも主イエスと出会い、主イエスと共に、神の国を宣べ伝える途上にありました。自分の持ち物を出し合って、主イエスと弟子たちを助けていたのです。しかし、主イエスが捕らえられ、十字架上で死なれたことによって、神の国を宣べ伝える宣教も頓挫してしまったかのように思われました。

また彼女たちは、逃げてしまった弟子たちとは違い、主イエスが十字架上で死なれたその一部始終を見届けていました。すぐ前の23章にこう記されています。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」(235556)」愛する主の無残な死を見つめ、さらに翌日が安息日ということで、ちゃんとした埋葬もできないまま、墓に葬られてしまいました。そのことがより一層彼女たちの悲しみを大きなものにしていたでしょう。

ですから、「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」もうだいぶ日が経ってしまったけれど、やっと香料を塗ってあげられる、愛する主が死に、その死に報いるように、埋葬してあげられるという思いが顕されているのです。

しかし、墓に着いた彼女たちは、衝撃的な光景を目の当たりにします。「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」(2423他の福音書とは少し描き方が違いますが、彼女たちはその時途方に暮れていました。主のご遺体はどこにいったのか。そしてルカ福音書が描く状況から察すると、墓が荒らされ、誰かにご遺体が持ち去られたのではないのか。そのように彼女たちが考えてもおかしくはないでしょう。香料を塗ってあげられるどころか、ご遺体すらない、主の面影そのものが全くなくなってしまったのです。もうどうしていいのかわからなくなっていたでしょう。

彼女たちが途方に暮れ、絶望する中で、神様の御言葉が聞こえくるのです。ふたりの神様の御使いが現れて、神様の言葉を告げます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(2556)。ここというのはお墓ですが、ご遺体があるところ、人生の終着点、命の終着点と言われるこの墓にはいないというのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」、それは見当違いの場所を探しているということを意味します。あなたたちはなぜそこを探しているのかというこの御使い、主の言葉の問いかけは、もうだめだ、もうここにしか行き着くところがない、もうこの手段しか思い浮かばないという私たちの歩みに、私たちの目を真に開かれるきっかけとなります。神様、もうこれしかないではないですか、ここにしか自分たちのたどり着くところはないではないですか、その私たちの問いに、神様は、180度違う視点、見える世界の限界を超えて、見えない世界に触れさせようとするのです。今あなたが描いている全く真逆のところに答えは示されている。それがあなたを生かす道となり、糧となる。そのように主は私たちを導かれ、私たちの目を見開かれるのです。

御使いはこうも言います。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」。(2467ガリラヤ、それは先ほどお読みした8章の場面で、彼女たちが主イエスと出会った場所です。神の国の宣教を共にしていた時です。そのガリラヤで既にお話になっていたこと、それは「十字架につけられ、三日目に復活することになっている」ということでした。十字架と復活のことが既に予告されていました。神の国という福音、その本質は実は、主イエスの十字架と復活であるということ。十字架の死によって、神の国の宣教が頓挫したのではないのです。十字架の死を通って、復活の命が明らかとなったのです。

神の国は神の愛に満ちているところです。この神の愛は十字架と復活を通して完成しました。神の愛は死んだのでなく、今も生きているのです。またそれは、婦人たちに、そして私たちにも「思い出しなさい。」とみ使いは言います。それはただ過去の出来事をなつかしむのではなく、主が絶えずあなたがたと共にいるということをくり返し思い起こしなさいということを伝えているのです。既に神の愛の只中にあったこと、そして今もその中にあるということを受け止めることです。それは主イエスが今も生きているからに他なりません。生きていて、彼女たちのことを忘れてはいないのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。・・・・その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。」(ルカ1474854とマリアの賛歌は歌います。身分の低い、取るに足らないこの私にも目を留めて慈しんでくださる神の愛は、決して忘れ去られるものではない。この時も、今も神様の愛と共に、自分は生きている。生かされている。罪のとりこに苛まれ、立ち直れなくなってしまうものたちに、主の復活はそのものたちを、再び神の愛の希望の内に立ち上げてくれることを意味するのです。

聖書は旧約聖書、新約聖書と言います。約というのは、約束の言葉です。神様の約束の言葉が記されているのが、聖書であり、神様の御言葉です。ただ、道徳の本や、歴史の書、教訓の書という類のものではないのです。一見理不尽に感じることも書いてあります。しかし、これらはすべて神様の愛の約束が記されており、それはひとりひとりを慈しみ、忘れることのない神様のご計画が表されているのです。だから、打ちひしがれ、傷つき、倒されてしまっても、それで終わりではないということなのです。今私たちは、その神様の愛の約束を「思い出したい」。主が今も生きて私たちと共にいてくださるからこそ、私たちは絶えず、主の愛を思い出し、繰り返し繰り返し、主の愛に立ち返ることができるのです。主の復活は、神様の愛を明らかにした神様の私たちへの答えです。だから、この神様の愛は決して死ぬことはないのです。私たちは忘れ去られてしまうことはなく、主の愛の中にあります。主は生きて、私たちと今も共にいてくださるからです。神の国の宣教は続いています。神の愛は死なず、今も生きているからです。私たちの宣教も、主の復活と共に、再び始まったばかりなのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年4月14日 受難主日の説教「立ち直るために」

「立ち直るために」ルカによる福音書22章31~34節 藤木智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。あ

受難主日を迎え、本日から聖週間を過ごしてまいります。長い受難主日の福音書の日課から、今日はルカによる福音書22章31~34節のみ言葉を中心に受難物語を聞いてまいります。

今日の福音書の32節で主イエスは「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われます。わたしはあなたのために祈った。この主イエスの祈り、この恵みが私たちの信仰、私たちの歩みの土台になっていることを改めて覚え、受け止めてまいりたいと思うのです。祈ったといいますから、既に祈られているのです。既に主イエスの祈りのうちに私たちは主に生かされ、支えられているのです。しかも、信仰が無くならないように、と言われています。信仰とは信頼とも言えます。それは信じる対象がいるわけですから、一方的なものではなく、互いの関係性によるものです。自分と他者がいるように、神様と自分との関係を指します。だから、信仰が無くならないようにと言われる主イエスのほうから、その相手との関係を大切になさってくださっている。無くならないようにというのは、相手との関係、関りを断ち切るということを決して望んではおられないということであります。ですから、主イエスの祈りの内にあるということは、主イエスが絶えず私たちと共におられ、関わられ、共に生きていてくださるということを私たちに告げておられるのです。

この主イエスの言葉は、最後の晩餐の席上で言われました。晩餐ですから、食卓の恵みです。この食卓の恵みを弟子たちは繰り返し主イエスと共に与ってきました。そして今その最後の時を迎えているということです。この恵みを共にしながら、主イエスはこれから起こることを言われます。少し前の22章21節、22節にこう記されています。「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。主イエスは既に裏切るものがいると言われ、弟子たちはその言葉に動揺します。次の24節では「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。とあります。主イエスを裏切ることなく、最後まで主イエスと共にいて、主イエスの弟子にふさわしい人物は誰か。弟子たちはそのような議論をしていたのかもしれません。しかし、主イエスはその弟子たちを咎めてはいません。むしろ、28節で主イエスは「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。22:29だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。とまで弟子たちに言われたのです。主イエスはそのように弟子たちに約束をされました。あなたがたもまた給仕するものたちとして、神の国をのべつたえていくものとなる。その大きな役割を弟子たちに約束され、その使命を与えているのです。

ところが、その後に、弟子たちのリーダー格であるシモンに主イエスは言われるのです。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」あなたがた弟子たちがと言われるので、サタンにふるいにかけられるのは弟子全員ですが、ここでは明らかにシモンを中心に主イエスはそのように言われています。シモンはペトロのことです。ペトロとは主イエスから与えられた名です。マタイによる福音書で主イエスはペトロに言います。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:18)と言われました。その言葉の通り、教会の礎をペトロは築いていく中心人物となります。そのペトロたち弟子が今サタンからふるいをかけられると言い、しかもそれは神に願い出たものでした。ふるいをかけるとは、多くの中から良いもの、基準にかなったものを選び出すという意味があります。サタンは誘惑するものであり、ペトロたちの信仰をふるいにかけ、揺さぶってくると主イエスは言われるのです。選び出すという意味合いから、そのことによって真の信仰が明らかになるとも言えますが、続く主イエスの信仰が無くならないようにという言葉から、そのサタンのふるいの前に、弟子たちの本当の姿が明らかにされ、選び出すどころか、何も残らなくなるという意味合いのほうが近いようです。今まで見えなかったものが、ふるいにかけられることによって、見えてくる。砂をふるいにかけて揺さぶると、小さな砂利がそこに残って、それが見えてくるように、見えなかったもの明らかになってくるのです。

けれど、信仰が無くならないようにという主イエスの言葉から、そこで真の信仰が残るどころか、何もなくなってしまうかもしれないというということが言われています。今までよく一緒に耐えて従ってきたけれど、サタンのふるいの前に、あなたがたの信仰が揺さぶられてしまう。それは、あなたがた自身の力で耐えることはできず、ふるいにかけられ、あなたがたの本当の弱さ、無力さが明らかになってくると主イエスは言われるのです。ふるいにかけられ、見えてくる砂利は、彼らの信仰の粗さであり、もろくも崩れやすいものです。

ペトロは非常に驚いたかと思います。そして自分はそのふるいにかけられても、最後まで主イエスへの信仰を貫きとおす決心と強さがあり、他の人とは違うという気持ちがあったでしょう。主イエスに「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とまで言いました。主イエスと共に名誉の死を遂げる覚悟であったかと思います。自分は踏み絵をふまない。主イエスとならどこまでもついていく。ついていける。そんな思いであったでしょう。

主イエスはペトロに言います。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」この後すぐ主イエスは捕まり、裁判にかけられていきます。ユダヤの宗教指導者や群衆たちのほとんどが、主イエスをひとりの罪人として裁きのまなざしを向け、誰も主イエスのもとにかけよるものはいなくなります。弟子たちの足並みもそろわなくなります。そして、ペトロは主イエスが捕まっている大祭司の邸宅の中庭で、ひとりの女性から、あなたは主イエスの弟子ではなかったかという質問に対し、いや自分は違うと、ペトロは答えてしまうのです。サタンのふるいにおける結果がそのペトロの答えであったとも言えます。ペトロの信仰が、その姿が明らかになりました。

しかし、この時、ペトロは主イエスの姿を見ています。先の22章61節、62節にこうあります。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。主イエスのまなざしを見て、主の言葉を思い出し、そして激しく泣いた。ペトロの涙は自責の念からくるものにも思えます。自分は主イエスを裏切ってしまった。自分に誇れる信仰なんて何もない。ここにきてそれが目に見える形で明らかになってしまった。そんな思いもあったかと思います。けれど、同時に主イエスが自分のほうを振り向いて、まなざしを向けた主イエスの姿を生涯目に焼き付けたはずです。恨みに満ちたまなざしではなく、それが本当のあなたの姿。そのあなたを私は愛しているという赦しのまなざしをペトロはこの後も生涯忘れなかったでしょう。

なぜ、そう思えるか。それは既に、ペトロがまだふるいにかけられる前に、主イエスの約束と恵みの祈りが彼を支えたからです。あなたの信仰が強くなるようにとか、立派な信仰者になるようにとか、そういうことではない。信仰が無くならないようにと言われた。自分の信仰を、自分自身で守り、耐え抜いていくことではなく、主イエスの祈りが自分の信仰の最後の砦、むしろそれが全てであると言わんばかりに、主イエスは共にいてくださる。その真実が明らかにされていくのです。

主イエスは続けてこう言われました。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」立ち直るというのは、」もとの状態に戻るという意味です。ようするに立ち返るということです。帰えるべきところに帰っていくのです。ペトロが帰るところは主イエスの愛と赦しの眼差しによって生かされている本来の自分自身です。主イエスと共にある本当の自分の姿です。立ち直るとは、もう二度とあんな罪を犯さないと反省することではありません。常に罪をおかし、信仰が揺さぶられてしまうそんな自分とどこまでも共に生きて歩んでくださるかたと共に歩んでいく新しい出発への旅路を指します。立ち直るとは、自分はひとりではないということ、主のまなざしの中にある自分を見つめ、自分の人生が主によって再び整えられ、備えられていることを受けとめていくことなのです。

それは主イエスが今も祈り続けてくださっているかに他なりません。信仰が無くならないようにと祈ってくださっているからです。自分たちの思いや気持ち、環境の変化などで、信仰の強さ、弱さがはかれるものではないのです。それよりも、あなたの信仰が無くならないようにと祈り続ける主イエスがひとりひとりと共におられることを私たちは喜びとしたいのです。

マタイの福音書18章13、14節で主イエスは言われます。「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」この神様の心こそが私たちの信仰の土台なのです。立ち直れず、滅びてしまうことを主は望まれません。立ち直れるようにと、主が私たちを探し出してくださり、共にいてくださるからです。そして、岩の上に建てられた教会は、その神様の心を表す器です。ペトロの立ち直りは教会に表され、私たちもまた立ち直ることができるのです。

イースターまでの聖週間を、十字架への道のりを覚えつつ、信仰が無くならないように祈り続けてくださる主イエスの祈りの中で、共に歩んでまいりたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

2019年4月7日 四旬節第5主日の説教「無駄なものはない」

「無駄なものはない」ルカによる福音書20章9~19節 藤木智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

四旬節も半ばを過ぎ、来週からはもう受難週、また聖週間と言われる主イエスのこの地上での最後の一週間の歩みを覚える季節に入ります。十字架の死を前にして、今日与えられました福音書は、ルカ福音書における主イエスの最後のたとえ話しです。最後に人々に語られたこのたとえ話は、非常にインパクトのある、衝撃としか言い様がない厳しい物語です。袋叩き、侮辱、傷を負わせる、そして殺してしまう。そういう人間の闇を描いている物語です。戸惑いを覚えるでしょう。

話の舞台はぶどう園での出来事です。イスラエルではぶどうが至るところで栽培されていたので、聖書の中にはたくさんぶどう畑に関する話が出てまいります。豊かなぶどうの実が成るぶどう園は、神様の恵みと祝福の象徴であり、それは神の民であるイスラエルの国を表します。神様によって与えられた土地であり、豊かなぶどうの実りは日々の糧でした。主人からぶどう園を貸してもらった農夫たちは、せっせとぶどう園を耕しました。たとえ話には記されていませんが、収穫をもたらすまでには、多くの苦労を重ねたことでしょう。知恵を使い効率的な作業を作案したり、または飢饉などの被害に合うことがあったかも知れませんが、彼らは一生懸命に働きました。そしてその結果が表れました。収穫が実ったというのです。きっと大いに彼らは喜んだはずです。ところが、収穫の時、収穫を納めるために主人から遣わされた僕を袋叩きにし、何ももたせないで追い返すという悪行を行います。困った主人はまた僕を遣わしますが、最初の僕と同様に、袋叩きにし、さらに侮辱して、また追いかえしてしまいます。また主人は僕を遣わしますが、この僕は傷まで負わせられて、ほうり出されます。それでも主人はあきらめず、最後の手段として、自分の愛する子を遣わすことにします。しかし、農夫たちはさらに悪知恵を働かして、土地の相続を企んで、この息子を殺して捨ててしまったというのです。主人は最後まで現れませんが、主イエスはこの農夫たちが主人に殺され、与えた土地を取り上げて、他の人に取り上げるという結末を話されて話を終えました。

この農夫たちの姿から、彼らの心境として、主人は見えていなかった、いないものとしていたと思えます。僕や息子は来ても、主人は来ない。主人がこなければ恐れることはない。これだけの収穫を得ることができたのは、自分たちの努力や力、工夫によるものだという確信があったでしょうし、もうこの土地で、自分たちだけで生きていけるという思いがあったでしょう。

農夫たちがぶどう畑を一生懸命に耕したように、私たちも自分の人生を一生懸命に耕して生きています。自分を磨いて整え、培ったものを存分に発揮しているでしょう。ただそれは何のために、誰のために発揮する自分の人生なのでしょうか。それは自分の幸せと他者への感謝、社会貢献のためだと言えるのかもしれません。しかし、そこには常に自分の正義が土台としてあるように思えるのです。自分を軸とし、自分の思うがままに力を発揮している自分の姿がある。自分の気に入らないものは切り捨てたり、無視したりする。また感謝への気持ちを忘れてしまうこともあります。自分の力量に対して、与えられて当たり前だと思っている、どこかにそういう自分の姿があるのではないでしょうか。むしろ、その力量を培うことのできるこの人生という土台は自分自身で得ることができたわけではないでしょう。気づかないところで、この土台がすり替えられている、自分の正義という土台にです。それは何とも限定されている自分の視野に基づいた狭いものでしょうか。それだけ私たちは盲目的になってしまう危険があるのです。

このたとえ話自体は、息子が殺された場面で終わっています。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」(1516節)当然のことと言えば、当然のことでしょう。しかし、これを聞いた民衆は主イエスに言います。「そんなことがあってはなりません」(16節)と。これは決してそうではない、断じてそうではないという言い回しです。この民衆の言葉は、同じマタイ、マルコの同じたとえ話には出てきません。ルカ福音書にしかない言葉です。民衆がこの農夫のことを悪く思い、非難したともとれますし、自分たちはこんな人間ではないと否定したとも考えられます。解釈は様々ですが、民主の中でこのたとえ話の意味に確実に気付いた人たちが律法学者や祭司長たちでした。彼らは民衆の指導者たちです。イスラエルの権力の中にいる人たちです。聖書の専門家であり、礼拝を司る彼らは、この農夫の姿を自分たちへの当てつけ、すなわち主イエスがこの農夫の姿はあなたがたそのものだと言われたと自覚したのです。

農夫たちの姿が彼らイスラエルの民であれば、ぶどう園を貸してくれた主人は神様です。その土地は神様のものですが、彼らは神様への感謝どころか、収穫を独り占めにします。神様から遣わされた僕という御使いや預言者の言葉に耳を貸さず、彼らは神様から離れ、神様の目から見て悪いことばかりをすると言う罪を犯し続けます。最後に神様である主人は愛する息子をぶどう園に遣わされました。もうお気づきでしょうが、この息子は主イエスです。たとえ話にはこの息子が殺害されることまで記されていますから、これは主イエスの十字架を予告していると言えます。ですから、私はあなたがたに殺されるとまで主イエスは律法学者や祭司長たちに向かって言っているようなものなのです。

農夫たちは悪意に満ちた人間に見えますが、彼らは恐れを知らない知恵ある者たちです。確かに収穫をもたらしました。苦労だってたくさんしたでしょう。努力しているはずです。彼らは自分たちの才覚を信じて疑わなかった。主人の愛する息子を見て、相続財産を頂こうと企みます。息子にはその価値があった。またその価値しかなかった。自分たちの利益、必要な物だけが欲しい。

息子を遣わした主人の思いは、「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」ということです。息子に対する愛もさながら、この主人は尚も農夫たちを愛してやまなかったのです。3人の僕に対する仕打ちを見ても、そうでした。農夫たちとの関係を断ち切ろうとは為さらなかったのです。農夫たちというイスラエルを含めた全世界の救い主と、この世界を愛するために来られた主イエスは、無力な、飼い葉家に寝かされているみすぼらしいみどりごとして、私たちの間にきてくださいました。

そして今、主イエスが殺される、それも捨てられたかのように。誰からも必要とされないかの如く無残にです。そう、主イエスは十字架を語っているのです。十字架に自分をつける者たちの前で。また私たちの前で。農夫たちに捨てられる姿を、御自身に重ね合わせて言われます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」建築現場の隅に放り出されて、無視されている石です。石屑です。特に必要とされない石です。その石に自分が譬えられている。神様の福音がそこで示されている。主イエスの生涯は、見捨てられた者たちとの交わりでした。愛の交わりでした。徴税人や罪人と食卓を囲みました。律法学者や祭司長たちから罪人だと嘲られ、社会に必要ないかのように見られていた彼らは、主イエスと交わり、神様の愛の大きさ、自分という存在を取り戻していったのです。自分はこの方に委ねて生きていいのだと。

律法学者や祭司長たちは主イエスをメシアとはみなしません。自分たちは聖書を教える立場、礼拝を司る立場にあり、ここにいる民衆を導かなくてはならない。模範とならなくてはならない。決して農夫のような存在ではいけないのです。自分こそが正しくあらねばならないと、本当の自分を何ものにも委ねることができないのです。主イエスの存在が、彼らにとってつまずきの石、妨げの岩としてはばかっています。自己中心的な生き方に、この石は立ちはだかるのです。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」主イエスは人々に見捨てられたかのように、十字架につけて殺されます。弟子たちは恐れて逃げて行きました。絶望に打ちひしがれ、彼らも主を見捨てて、暗闇の中に留まっていきました。主イエスの十字架の御前に立つことは出来ず、自分という存在を隠して、神様との関係を拒絶しようとするのです。この弟子たちの姿は私たち教会の姿です。教会の歴史は、彼らの姿に見えるように、暗闇から始まるのです。挫折し、絶望の淵からです。

しかし、主イエスキリストの十字架、人々に捨てられ、殺された、闇という象徴を滾らせるこの十字架こそが隅の親石となるのです。建物を支える命の柱として、息づくのです。私たちの目には見えなくとも、通り過ぎてしまうものであっても、根本的な土台となるものです。なぜか、この隅の親石こそが、罪を打ち砕く神様の不思議な御業だからです。

神様が与えて下さったぶどう園というこの世界で、この命が与えられ、私が私として生かされる。私を知り、私を知る神様を私たちは知るのです。神様の恵みの中で喜びの内に生きるようにと、主イエスはあなたの心の内に語られています。

私たちはこの世界で生きるもの、生かされているものです。私たちは主イエスの十字架につまずいた者たちを知っています。律法学者、祭司長、民衆を含むイスラエルの民全体、弟子たち、そして私たち自身。しかし、この十字架は私たちのための救いのための隅の親石として、私たちの内にあります。私たちの罪はこの隅の親石に打ち砕かれたのです。もはや自分を閉ざす必要はないのです。私たちの生き方はこの方に変えられます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年3月31日 四旬節第4主日の説教 「帰るところ」

「帰るところ」 ルカによる福音書15章11~32節 藤木智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

マザーテレサがこういうことを言っています。「わたしたちはとてもすばらしいことのために創られました。それは生きて愛されるということです。」愛されるために人は創られた、生まれてきた。「君は愛されるために生まれてきた」という有名な韓国の賛美歌もあります。誰から愛されるかというと、もちろん私たちを創られた神様です。神様から愛されて生きる、それは神様の愛のご支配の中で私たちは生きているということです。

神様の愛、それは人間が思いつく気分的なものでもなく、条件づけられた縛られたものではありません。パウロはローマ書で「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と、その計り知れない神様の愛を語っています。しかし、私たちは本当のところ、神様の愛をどのようにして知ることができるのでしょうか。それとも私たちはこの愛を見失ってはいないでしょうか。「愛されている」、実はその言葉だけがむなしく先走ってはいないでしょうか。言葉だけが先走って通り過ぎてしまい、自分の中に何も残らないということがあります。最も大切なことを、最も大切な自分の心の奥深くに迎え入れることができないというもどかしさを私たちは経験します。

本日の福音である放蕩息子のたとえ話は、ふたりの兄弟の視点を通して、遠いのに気付かされ、近いのに気付けないという不可思議さともどかしさに包まれた神様の愛について主イエスが語られる愛の物語であります。

愛の物語というからには、スポットライトが当てられているのは、放蕩息子の弟だけではなく、25節から登場する兄にも同様に当てられています。ふたりは似ているのです。人生の道は違っても、やはり兄弟です。父親の財産を分け与えられる兄弟であり、父親から両方とも同じように愛されている兄弟なのです。

弟は父親の財産の分け前を、父親が生きているにも関わらず、父親に頼んで貰い受けます。あたかももう父親が死んだかのように、彼は自分の都合で財産を相続しました。そして旅に出て、放蕩の限りを尽くす、すなわち自分勝手にありのままに人生を歩み出したのです。彼は豊かであったでしょうし、父親から離れることによって、父親のしがらみから抜けて、自由を得たという思いにあったかと思います。もう父親、家のために働かなくていいのです、奉仕しなくていいのです。さらに、父親からの助けも必要ないし、愛も必要ないと感じたでしょう。彼は独立して、気ままに暮らしたかった、それで生き続けられるという自信があったのです。

しかし、彼の境遇は一変します。財産を使い果たし、彼が住んでいた地方で飢饉が起きて食べることにも困り果て、挙句の果てに、ある地主の家の豚の世話をし、豚の餌にありつこうとしてまで、飢えを満たそうとするのです。豚、それはユダヤ人にとって忌むべき家畜です。その豚の世話をする、豚の餌を求めるということは、彼がどれほど落ちぶれたのかということがよくわかります。そんな彼を助けてくれる人は誰もいなかった。彼はこの時ほど孤独を感じたことでしょう。財産で何でもそろうことができた、孤独感をまぎらわすことだってできたでしょうし、そのような安心感の中で生き続けることができるという自信があったでしょう。しかし、今まで彼と共にいた人は皆彼の下を去って行ったのです。結局誰も助けてくれず、愛してくれなかった。この世界の常識が、彼の現実そのものを表している。放蕩の限りを尽くし、自由を得た生活は、一気に崩壊したのです。

私たちの生きるこの現実世界、富みのあるところに人も集まり、富が無くなるのと同時に、人も去っていくという現実の姿があります。それを非情と捉えるか、いやそれはごくあたりまえのことかも知れない。あたりまえだけど、認めなくてはいけない現実の姿ではあるが、そこで気付かされるのです。生きていくとはどういうことかと。放蕩の限りを尽くし、自由気ままに生きられるという生き方、裏を返せば、その生き方しかできないということです。限りあるものへの執着は、限りある生きざまに縛られるということです。「私」という生きざま、その人生を見失うのです。

しかし、彼は全てを失い、見失いつつある己の生きざまに向き合い、我に返って、父親を、父親の愛を慕い求めたのです。私は罪を犯したという告白をする、すなわち悔い改めたのです。悔い改め、そう方向転換です。主なる神様に立ち返るように、彼は父親の下に立ち返るのです。放蕩の限りを尽くし、好き勝手に生きた揚句、全てを失った自分は、もはや父親の息子とも呼ばれる資格はないというけじめをつけるのです。彼の決意はごく普通の筋の通った理屈です。さらに言えば、彼がそのけじめをつけても、父親が彼を許してくれるという保証は全くないのです。雇人として迎えられるどころか、門前払いをくらい、追放されてもおかしくないのです。父親の愛の懐に自分が入れる隙間すらあるのだろうかという心境です。

しかし、彼は父親の愛の懐に全身全霊包み込まれる体験をするのです。父親は彼を見つけ、彼に走り寄って、接吻します。そして、弟の弁解を聞くまでもなく、父親は弟に良い服を着せ、指輪をはめるなど、彼を愛してやまない父親の愛が彼をしっかりと包み込んでいるのです。弟息子の弁解も筋の取ったものでしょうが、そんなことを超える喜びが祝宴という形で催されています。

物語はここで終わりません。兄が登場します。15章の1節から3節に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。」と記されています。ファリサイ派と律法学者は、徴税人や罪人と交わる主イエスに対する不満を「不平」という態度で示しているのです。彼らは主イエスその人より、徴税人や罪人を気にしています。自分たちではなく、神様の前で罪深い徴税人や罪人を迎えるとは考えられないし、筋が通っていないという気持ちがあったのでしょう。その気持ちがこの兄の気持ちとシンクロしているかの如く、弟への接し方に不満を抱くのです。それは弟に対する不平でした。父親に訴え出ます。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』兄は弟に対する父親の態度が許せないのです。しかるべき筋を通すやり方で、弟を戒めるべきであるのに、父親はむしろ弟を愛しているのだから。父親の弟に対する愛が納得いかないし、理解できない。兄は、むしろ長年仕えてきたこの私こそが、真っ先に愛されて、それ相応の報いを受けるべきではないのか、という思いを父親にぶつけるのです。そう、この兄も、弟と同じように、父親からの財産という報いが欲しかった、その証が欲しかったのです。

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。父親は兄にこう言います。兄に対する特別な配慮でもなく、あなたは私と共にいて、私の愛がわかるはずではないかと語るのです。一緒にいる、全部お前のものだ。その父親の計り知れない愛の懐に、兄も招かれているのです。ここで一緒に生きようと。しかし、兄は、父親の弟に対する愛の深さ、非常識な愛に躓いた。自分の筋、自分の良心にそぐわない神様の愛にこそ、兄は反発を抱く。不平をいう。近くにいるのに、その愛に躓くという罪を犯している兄の姿が垣間見えるのです。そう、それは今このたとえ話を聴いているファリサイ派や律法学者が不平をいうように。主イエスが語られる神様の愛に、彼らも躓いているのです。そして、彼らは、その躓きから、主イエスを十字架につけて殺してしまいます。彼らは彼らなりに、自分たちの良心を通そうとするために、筋を通すために、主イエスを十字架への道と追いやるのです。この兄の思い、非常識だとも思える父親の愛を受け入れることができないという罪の姿を、私たちも担っています。主イエスの十字架は、そんなかたくなな私たちの思いを打ち砕く、赦しの愛そのものです。主イエスは、私たち自身の良心という筋を通そうとする自分の思いを打ち砕いて、私たちを神様の愛の懐に招いて下さる愛を示してくださるために、この世界にご降誕されたのです。

兄は父親に悔い改めたのか、弟と一緒に父親の祝宴に出て共に喜んだのかとうことはわかりません。父親は兄を招き続けたでしょう。お前はいつも私と一緒にいる、私の愛の懐にいて、安心して生きていきなさいと、その恩寵の愛を示し続けたことでしょう。わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

私たちは神様の愛のご支配の中で生かされ、その時と場が与えられています。どんな境遇にあり、その心が様々な方向を向いていようとも、主に立ち返るようにと、神様の愛は私たちを引き離すことはありません。そして、教会は地上における神様の愛の御国を指し示し、私たちの信仰が養われる場であります。今そのことを新たに確信して、今日も神様の愛の懐に招かれ、返ってきた私たちひとりひとりを神様が迎えてくださっています。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。