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2012年3月25日 四旬節第5主日 「イエスに神を見る」

ヨハネによる福音書3章36b〜50節
説教: 高野 公雄 牧師

イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」

イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

ヨハネによる福音書3章36b〜50節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

ヨハネ福音書は、前半と後半の二つに大きく分けることができます。前半では、イエスさまが人々の間で語った言葉、行った奇跡的な癒しのわざが語られ、後半ではイエスさまの苦難と死、そして復活して弟子たちに現われ聖霊を与えることが語られます。きょう読んだのは12章の最後の部分ですが、これは福音書の前半を締めくくる部分であって、これが人々の間で話をする最後の機会となります。13章からはもはや人々への語りかけは無くなります。

きょうの福音は二つのパラグラフを含む長い個所なので、最初のパラグラフに焦点を絞って見て行きたいと思います。

《イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった》。

きょうの福音の、この始めの言葉は、物語の前半を締めくくる言葉です。イエスさまはこれらの言葉を最後に、地上での教えと行ないを終えて人びとの前から消え去る、と言っているのです。12章までに書かれた人々の間でのイエスさまの公の活動、福音の宣教にもかかわらず、人びとは「イエスを信じなかった」のです。そのことが13章以降に記される、イエスさまが十字架につけられ、苦しみを受けることへと繋がります。

イエスさまの時代にも弟子たちの時代にも、同胞のユダヤ人たちの間に、信じる人も生まれましたが、ほとんどの人々はイエスさまを信じませんでした。殉教死する弟子たちも出ました。そのことが、弟子たちが周辺の国々に出て行って宣教活動を始めるきっかけにもなったのです。そこでも、信じる人々も生まれましたが、ほとんどの人々は信じませんでした。そこでも殉教死する人がでました。信じる人々が少ないのは、日本だけのことではないのです。

では、人びとがイエスさまを信じないのは、なぜでしょうか。それは、イエスさまの福音が理解されなかったからです。聖書が証しする神・救い主が、人びとが期待する神さま像・救い主像と違うからです。イエスさま当時のことで言えば、人びとがメシア・救い主に期待することは、昔のダビデ王が力でもって外敵を追い払ったように、強大な支配者ローマ帝国をユダヤから追い払い、人びとを抑圧する悪い支配者たちを駆逐することでした。また、病気やけがや不和など人々を悩み苦しめる悪からすぐに解放することでした。

しかし、イエスさまを通して神がなさろうとしたことは、そうした人々の悩み苦しみに対する対症療法ではなくて、それを根もとから癒そうとする根治療法でした。イエスさまは重荷を負って労苦し、救いを求める人に対症療法的に癒しを与えることもありましたが、それはイエスさまがなさろうとすることの「しるし」であって、それは人々の中に信仰を惹き起こすための行いでした。イエスさまは本来は、悩む人・苦しむ人と共に歩む中で、その悩み・苦しみを共に担い、そのことを通して、私たちもまたそれに習うべき愛をお示しになり、またそのことを通して、抑圧者の側にも抑圧される側にもある愛の欠如・罪を示しつつ、イエスさま自らがその罪を身代わりに背負って、十字架につき、自らの命をもって私たちの罪責をあがなう、そういう仕方で私たちを救おうとなさったのです。

人々は、悩み・苦しみを共に担うような、まだるっこいやり方は、望みませんでした。また、自分たちの内なる罪を認めませんでした。人々はイエスさまを役立たずと思って捨てました。そして十字架につけました。そこに人々の罪が現われています。イエスさまはその人々の罪を身代わりに引き受けて十字架につきました。イエスさまは人々にご自分の命を与えました。それが人々を救うイエスさまの愛の極限の姿です。こうしてイエスさまは、ひとりをも漏らさず、万人を救おうとなさる神の愛と真実の心を示したのです。

《預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか」》。

人々は、自分たちが見捨てたイエスさまの十字架の死を見て、それを神の愛と真実の心の究極的な現われと知ったでしょうか。いや、むしろ、ただただ惨めな男の死にざまを見ただけです。預言者イザヤがこう嘆くのも無理ありません。イエスさまを救い主と信じる者は、ほんとうに少数にとどまります。

この言葉は、イザヤ52章13~53章12は「苦難の僕」をうたう詩の中の一節、53章1からの引用です。この「苦難の僕」の歌は、イエスさまの無残な姿の死の意味を解き明かす預言のことばとして有名な個所です。

次に、ヨハネはイザヤのことばをもうひとつ引用します。《神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない》。これは、イザヤ6章10の逐語的な引用ではなく、自由に敷衍した引用のため、引用元とは異なります。人々の心は罪に汚れているために、イエスさまの言葉と行いを見聞きしても、そこに神の真実の愛が体現されていることを見ぬくことができません。イエスさまは神の子であり、私たちの救い主であることを信じることができません。しかし、本当は、このイエスさまの言葉と行いを通してのみ、私たちは真の神のみ心を知ることができるのです。

《イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである》。

イザヤは「苦難の僕」の惨めな姿の中に、人びとの罪を一身に負って人々をあがなう救い主の栄光を見た、とヨハネは書いています。私たちはヨハネ福音書を終わりまで読んで、十字架の先に復活があることを知っています。イザヤの時代の人々よりも、イエスさまの時代の人々よりも、私たちはだんぜん有利な立場にいます。ヨハネはこの言葉を通して、私たちに、こう問いかけているのです。「あなたたちは、イエスさまの言葉と行いにおいて、とくにも十字架において、神の私たちへの愛と真実の心が示されていることを見ることができますか。イエスさまを神が遣わした私たちの救い主と信じますか」と。

《とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである》。

きょうの福音の初めに「彼らはイエスを信じなかった」とあったように、イエスさまを神の子・救い主と信じる人は少なかった。イエスさまは自分の期待する像とは違うから役に立たないと思う人が多数を占めていたことでしょう。けれども、信じる人の中にもユダヤ会堂からの破門を恐れて、信仰を隠していた者も少なからずいました。ヨハネが福音書を書いた時期には、ユダヤ教からキリスト信仰を排除することが正式に決まって、キリストの名を唱える者は破門されることになりました。ユダヤ人であることとユダヤ教徒であることは一つでしたから、社会的地位のあった人は、キリスト信仰をひた隠しに隠したことでしょう。

日本にもそういう時代がありました。秀吉の切支丹禁制以来の長い時代、そして第二次世界大戦下で「天皇とキリストとどっちが偉いか」と問い詰められた時代です。そういう状況下で信仰を公に言い表すことができる力を恵まれた人は多くはないでしょう。たとえ踏み絵を踏んでも、キリストを捨てますと宣誓書を書いたとしても、人の弱さを思いやることのできるイエスさまは、きっと赦してくれると思います。ヨハネは転ぶ弱さを非難しようとしているのではありません。

ここで、私たちが立ち止まらなければならないのは、《彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである》という指摘です。社会的な制裁を恐れることは、人の弱さであって、仕方がないとしても、私たちは心の奥底で神の意思を第一とするという信仰を失っていないか、世の大勢に迎合しきっていないかと自らを省みることは必要です。私たちの立ち帰るべき本当の故郷を忘れないように、ヨハネの言葉を深く心に留めたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年3月18日 四旬節第4主日 「永遠の命を得る」

ヨハネによる福音書3章13〜21節
説教: 高野 公雄 師

天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

ヨハネによる福音書3章13〜21節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、イエスさまとニコデモとの問答の後半部分です。ニコデモという人は、3章1に、ファリサイ派の属する者、ユダヤ人たちの議員であったと紹介されています。つまり、ユダヤ人の国会である最高法院の議員七十人のひとりで、当時のユダヤ人社会の有力者です。そのニコデモが、人目をはばかって夜ひそかにイエスさまに会いにきます。教えを受けるためでしょう。イエスさまは彼に《はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない》(3節)と教えを説きます。《するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか》(9~10節)。こういう会話の続きとして、きょうの福音は語られています。

ところで、二千年前のギリシア語原文には句読点もカギ括弧もなく、白文つまり返り点などの付いていない漢文と同じようにべた書きです。聖書学者が、白文のどこが文の切れ目か、どこが段落の切れ目か、また、どこが話者のセリフで、どこが著者の地の文か、と著者の思いを読み解いて、各国語に翻訳する元になる校訂本を作っているのですが、きょうの福音は解釈が分かれ、検討が続けられている個所です。私たちが用いている新共同訳聖書では16節で改行されてはいるものの、21節まで全部がイエスさまの言葉とされています。しかし、新改訳聖書とか岩波書店版などでは、イエスさまの言葉は15節で閉じられ、16~21節はカギ括弧の外に出されて、著者ヨハネがイエスさまの言葉の真意を解き明かす地の文とされています。「人の子」がイエスさまの自称なら、16節以下は地の文なのかも知れません。どちらを採るか、微妙です。

《天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである》。

ここで、イエスさまはご自分の使命を、旧約聖書にある故事を引き合いに出して述べています。先ほど第一朗読で聞いた個所、民数記21章に書かれている出来事です。紀元前13世紀のことですが、イエスラエルの民はエジプトで塗炭の苦しみにあえぐ奴隷でした。彼らの嘆きの叫びを聞いた神は、モーセを指導者として送り、エジプトから脱出させます。イスラエルの人々は、エジプト人の奴隷から自由な身分へと解放されます。ところが、脱出した先は、荒れ野です。彼らは水にも食べ物にも不自由し始めます。そのとたんに、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、エジプトにいた時の苦難も、そこから救い出された喜びも忘れて、目先の苦労からただ逃れたくて、彼らは「何のために自分たちをこんなところに引っ張り出したのだ」とモーセと神に食ってかかります。神は毒ヘビを送って民をいましめます。民はモーセに助けを求め、モーセは神にとりなします。すると、神はモーセに「青銅でヘビを造り、旗竿の先に掲げよ、ヘビに嚙まれた者がこれを見上げると救われる」と約束されました。

民は、空腹な自由人であるよりも、奴隷でもいいから旨いものを食いたいと言います。なんと卑しい根性なんだろうと思いますが、私たちも自分の思いを振り返ってみれば、本音は同じようなものではないでしょうか。旗竿に掲げられた青銅のヘビは、そういうげすな者、不信実な者をも見捨てず、なおも愛し続ける神の信実な心の現われです。この昔の出来事は、「人の子」つまりイエスさまの十字架に人間に対する神の究極の愛を見、信頼を持って十字架を仰ぐ者は皆、救われる、神の国に入る、永遠の命を得ることを前もって証ししていたのです。

ここで、もうひとつの点に目を向けたいと思います。《人の子も上げられねばならない》とは、イエスさまが十字架の木に架けられることを指しているのですが、その前に《天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない》という言葉があります。これはイエスさまが天に上げられて誉れを得たこと、高挙を意味しています。「上げる」という言葉は、物理的にものを持ち上げるという意味と、精神的に人格が高く評価されるという意味とを持っています。著者ヨハネは、二重の意味をもつ言葉を利用して、イエスさまが十字架に釘づけにされて高く上げられたことと、イエスさまが天に上げられて神の右の座を与えられたこととはひとつであるという理解を示しています。首を垂れて瀕死の十字架像の他に、しっかり顔を上げて、両手を大きく広げて、私たちに祝福を与えているような、私たちをみ許に招いているような十字架像があるのをご存じでしょう。それがヨハネが強調する十字架像です。イエスさまは人間の救いのために天から降って人となり、十字架上で救いのわざを完成して、再び神の許へと帰っていたお方である、とヨハネは言っているのです。

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。

これが福音中の福音と言われる有名なヨハネ3章16です。キリスト教とは何か、それを一言で表わすのがこの一節です。創世記22章に、神がアブラハムに一人息子のイサクを献げ物としてささげよとお命じになった記事がありますが、ここでは神自らが独り子を与えて、私たちを永遠の命へと招いてくださっている、と説かれています。十字架は人に対する神の愛の究極の姿です。イエスさまはモーセのような偉大な指導者であるどころか、全人類に対する神からの唯一無比の、最善の贈り物であり、いのちの言葉そのものだ、これが著者ヨハネの信仰です。

《神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである》。

この言葉は、前節の言い換えですが、新しい考え方をも含んでいます。それは、「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」という言葉に如実に表われています。どういうことかと言いますと、どの宗教でも、「救い」とか「裁き」は、将来死んだ後で天国に入るとか地獄に落ちることと教えています。ところが著者ヨハネによりますと、神の御子イエスさまのことが宣べ伝えられている今この時、将来の裁きが今すでに行われるのだというのです。イエスさまを救い主と信じる者は今すでに救われ、私たちの有限な命において、神の永遠の命にあずかれるし、信じない者は救いのなさを手にして生きることになるというのです。このことを、ヨハネはさらに次のように言い直して述べています。

《光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために》。

私たちは、ものごとを判断するとき、何が神のみ心であるかまっさきに考えるでしょうか、それとも、そんなことは無視して、他人を蹴落としてでも、自分がしたいこと、自分が得をすることを第一に考えるでしょうか。神の愛、神の信実な心を自分のためと知り、それを喜びと感謝をもって受け入れる人は、つまり信じる人は救われます。物の見方、考え方が変わり、自分が変わります。人生が明るくなります。イエスさまの福音は、誰か他人が救われるか裁かれるかという問題ではありません。徹頭徹尾、自分が問題です。神の愛、イエスさまの恵みが自分に注がれていること、そこに自分の光と救いと命があると信じることが問題です。それに目が開かれること、気づくことがすべてです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年3月11日 四旬節第3主日 「真の神殿とは」

ヨハネによる福音書2章13〜22節
説教: 高野 公雄 師

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

ヨハネによる福音書2章13〜22節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、イエスさまがエルサレムの神殿で犠牲として捧げる動物を売っている店や両替の店を境内から追い出した出来事とその意味について、イエスさまご自身が語っている個所です。この事件は従来、「宮潔め(みやきよめ)」という名で呼ばれてきました。

聖書に親しんでいる人はすでにお気づきでしょうが、他の福音書では、イエスさまはずっとガリラヤ地方で活動していて、最後に一度だけエルサレムの都に上り、そこでこの「宮潔め」を行ないます。そして、そのことが直接のきっかけとなって逮捕され、十字架刑によって殺されることになります。このことは、小見出しの下にある参照個所、つまりマタイ21章、マルコ11章、ルカ19章に共通して描かれています。

ところが、ヨハネ福音では、イエスさまは活動の初期に、過越祭のころエルサレムに上り、この事件を引き起こします。また、過越祭はほかにも6章と11章に現われますし、最後も過越祭でした。このことから、昔からイエスさまの活動期間は三年間とみなされてきました。しかし近年、福音書に描かれた出来事の順序は必ずしも年代順ではないと考えられるようになり、活動期間は一年とか二年とか短かめにみなされています。

《ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた》。きょうの福音は、この言葉から始まります。過越祭はユダヤ教の巡礼祭です。ユダヤ人の男子はこの祭には毎年エルサレムの神殿に巡礼することが求められていました。なぜなら、過越祭が記念する出来事こそが、イスラエルの民をユダヤ人とし、ユダヤ教徒とした、大事な祭りだからです。

その出来事は、旧約聖書の出エジプト記12章その他数か所に記されています。神はモーセを指導者として立てて、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を紅海を渡ってエジプトを脱出させてくださいました。エジプトを脱出できる決め手となったのは、春分の後の満月の日に神の怒りが降り、エジプト人の初子が殺されるという出来事でした。合理的に考えれば、伝染病が広がったのかも知れません。その際、ユダヤ人たちにはあらかじめ、しるしとして子羊の血を家の入口の鴨居と柱に塗っておけという命令が伝えられており、神はそのしるしの付いた家は通り過ごしたので、ユダヤ人の初子は神の怒りを免れました。この出来事によってユダヤ人たちはエジプトを脱出できたのです。出エジプトの出来事は、奴隷身分の者たちが自由身分への解放された出来事であり、彼らがこの救いの神を信じるユダヤ教徒として新たに自分たちの社会と国を形成する基礎となったのです。

あの日、過越しのために子羊が屠られ、その血が家の入口に塗られて、その家の者たちが救われました。後にイエスさまは過越しの子羊として十字架上で殺されます。これを私たちを救うための出来事、神の愛の真実を証しするわざと信じる者は救われると宣べ伝えられるようになります。ユダヤ教の過越祭と、それに代わるキリスト教の復活祭が対比して並べられているのです。

《そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」》。

ユダヤ人たちは巡礼の旅をして過越祭に神の宮であるエルサレム神殿に上ってきます。そして、神殿に感謝の献げ物をささげます。そのための牛や羊や鳩が、境内で売られていたのです。お賽銭を献る人は、そのために当時流通していたギリシアやローマの通貨を昔のユダヤの貨幣に両替する必要がありました。ローマの通貨には、神として礼拝することを求める皇帝の肖像が刻まれていたからです。それで両替商もいたのです。動物商も両替商も神殿には必要なものではありました。

では、なぜイエスさまはこのような乱暴狼藉を働いたのでしょうか。悪徳商人を懲らしめて、神殿を本来の祈りの場とするためだったのでしょうか。確かにそういう思いもあったでしょう。しかしむしろ、イエスさまは、「宮潔め」において、当時の宗教家たち、政治家たち、実業界の者たちが日頃の対立を越えて利害を共有し、ユダヤ教の行方を、国の行方を危うくしている神殿体制に「否」を言い、新しい信仰、新しい社会のあり方を教えているようです。

イエスさまの行為自体は小さなものに過ぎず、その日のうちに何事もなかったかのように、すっかり元に戻ってしまったことでしょう。イエスさまの行為そのものよりも、ここではその行為に託した象徴的意味を読み取ることが大事なのです。

《弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した》。これは詩編69編10の言葉です。ユダヤ社会の上層にいた人たちは、彼らは主観的には神を思い、国を思っていると自覚していたのでしょう。しかし、実は彼らは神殿を食い物にしていたのです。そういう神殿は必ず滅びてしまいます。彼らは立場の違いを越えて手を結び、イエスさまを亡き者としました。さらに彼らは、祖国が戦争に走るのを止められず、神殿体制は完全に崩壊しました。ユダヤ人たちがローマ帝国に対して仕掛けたユダヤ戦争(66~70年)の結末です。ヨハネが福音書を書いたときには、このことはすでに起こっていました。イエスさまが在世当時は分からなかったのですが、イエスさまの宮潔めは、神殿礼拝の終わりを告げていたのです。イエスさまの出現とともに、すでに新しい神礼拝の時代が始まっていたのです。

《ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである》。

イエスさまにおいて示された神の真実を受け入れない指導層の者たちは不信仰の道を突き進んで、イエスさまを殺すが良かろう、神殿を破壊するが良かろう。だが、イエスさまは十字架上の死と三日目の復活によって、救いの完成を告げる新しい時代を切り開く、新しい神殿を造ると宣言なさっています。この神殿ではもはや牛も羊も鳩も要りません。イエスさまが犠牲となられたからです。

そもそも神殿とは、神の住まいであり、神と人がそこで出会う場所を意味しています。死んで復活したイエスさまにおいて、神は人と共におられ、人は神に出会うことができるのです。神を信じる者が集まって、真の礼拝を献げることができるのは、イエスさまのからだとしての神殿においてです。この神の宮、父の家、イエスさまの身体として教会を、ふたたび商売の家としてはなりません。

私たちのこの世の旅路は、このイエスさまの十字架と復活によって与えられた神の命を求める歩みです。ものが溢れ、また、いろんなシステムが私たちの周りにある中で、私たちはただそれらに流されて生きてしまいます。今あらためて神を見つめ、イエスさまの十字架への歩みに従い、復活に希望を置く生き方をしたい、また、そこからこの世を見つめ直して歩んでいきたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年12月25日 降誕祭 「真の光は世に来た」

ヨハネによる福音書1章1〜14節

説教: 高野 公雄 牧師

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネによる福音書1章1〜14節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

例年であればクリスマスは夕べの礼拝として祝うところですが、今年はめずらしくクリスマス当日が日曜日に当たりましたので、このように午前11時からの主日礼拝として守っています。

本日の福音はヨハネによる福音書1章1~14節です。この個所は学者たちによれば、福音書が書かれる前から歌われていた古い賛美歌がもとになっているそうです。私たちが礼拝を賛美歌で始めるように、ヨハネ福音も賛美歌で始めているのです。これは、他の福音書が地味な始まり方をするのと比べて、ヨハネ福音の目立った特徴です。

この個所には、「言」(ことば)という珍しい訳語が繰り返し現れます。これは新約聖書の言葉、ギリシア語ではロゴス logos といいます。「ロゴス」とは何でしょうか。イエスさまは2000年前にユダのベツレヘムで、おとめマリアから人としてお生まれになりました。そして30歳か33歳くらいで十字架に架けられて殺されてしまいました。キリスト教の信じるところによれば、その死は私たち人間を罪から救うための贖い(あがない)すなわち身代金にほかなりません。つまりイエスさまはご自分の命と引き換えに、私たちを死の闇から救い出してくださったのです。神はそういうイエスさまの贖罪死を良しとし、イエスさまが朽ち果てるのを見棄てず、死の三日後に復活させました。復活とは、この地上で息をふき返すことではなく、イエスさまが神の右に高く挙げられたこと、生きている人と死んだ人との永遠の支配者となったということです。この、救い主であり永遠の支配者であるイエスさまは、その十字架と復活によって初めて、いわば養子として受け入れられるように神の独り子となったのではありません。イエスさまは永遠の昔から神の独り子であったのです。イエスさまは2000年前に人として生まれる前から神と共に存在しているのです。昔も今ものちも生きているイエス・キリストを、福音書記者ヨハネは「神の独り子」とか「言」と言い表します。「言 logos」とは永遠の神の子イエス・キリストのことだったのです。

きょうの聖書本文から、元の賛美歌を完全に復元することは難しく、学者によってさまざまな意見が出されています。しかし、6~8節など、洗礼者ヨハネについての言及は元の賛美歌にはなかったもので、福音書記者のヨハネがあとから付け加えたものという点は一致しています。

もともとの賛美歌は、神による救いの歴史を三つの段階に分けて歌ったものです。

第一段落は1~4節です。《初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった》。そもそも「言」によって天地が創造されたこと、「言」が人に命の輝きを与える方である、と歌っています。

第二段落は9~11節です。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった》。これは旧約聖書時代の「言」の働きについて歌っています。「言」はまだ人となっていません。モーセを通して律法という形でユダヤ人に与えられました。しかし、彼らは「言」を受け入れませんでした。

第三段落は14節と16~17節です。《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである》。これは新約聖書時代の「言」の働きについて歌っています。「言」は人となった。私たちはクリスマスにおいてこの方を祝っているのですが、2000年前だけでなく今も、「言」すなわちイエス・キリストは、信じる私たちと共におられ、つねに豊かな恵みを注いでくださっていると、ユダヤ教の律法にまさるイエス・キリストの恵みを賛美しています。

クリスマスが来ても、私たちの闇・苦しみ・問題が消えて無くなるわけではありません。しかし、今やまことの光は世に来て、すべての人を照らしています。それは2000年の昔のことではなく、今日まで続いていることです。その光は聖書を通して、闇を照らし続けています。私たちはそのことを知った喜び、その解放感を感じとることができるでしょうか。

現代に生きる私たち日本人は、クリスマスに関する情報、聖書やキリスト教に関する知識をすでにたくさん得ていると思います。その知識を自分の身に着けて、自分の血肉と化して、生活を明かるくするもの、温かくするものとして活用できているでしょうか。私たちはキリスト教についての知識 knowledge を自分の生活に生きる知恵 wisdom、心の働きに変えていく必要があります。

教会において、私たちが互いに目指すのは、このことです。毎週の礼拝を通して、イエス・キリストの福音、喜ばしい知らせを聞き、それを自分の人生の価値観とし、行動の指針として身に着けていきたいと思います。神さまの大きな愛をいただいて、一緒に生きていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン