All posts by wpmaster

2014年1月12日 主の洗礼日 「天地を結ぶ使者」

マタイによる福音書3章13〜17節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日は主の洗礼日として、礼拝を守っています。主イエスの洗礼は私たちに何を告げているのでしょうか。16節から17節に「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」と、ありますように、天が開いた、地に向かって開いた。天という神様の領域と地に住む私たち人間の領域が結び合わさった出来事、主イエスキリストを通して、神の救いが全世界の人々に告げ知らされる、そのときが来たという大いなる出来事を私たちに伝えています。

今、聖書を分かち合う会では創世記を読んでいますので、記録に新しいかと思いますが、アダムとエバは天のエデンの園を追放されたことによって、彼らは地に属すものとなりました。天が閉じたのです。ここから地に住む人間の歴史が始まり、それは同時に罪の歴史の始まりでありました。また、つい最近までノアの洪水を読んでまいりました。洪水の後、神様はノアと契約を結び、二度と洪水によって人間を滅ぼすことはしないと約束し、ノアを祝福します。その印として、神様は虹を置きます。神様はノアにこう言いました。「すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」(創世記9:13)。わたしというのは神様であり、天であります。大地というのは私たちが住むこの地上、人間を指します。すなわち神様と人間の和解の印として、虹が置かれました。そしてこの和解の印である虹は、イエスキリストという真の神の子、真の人間として、私たちに関わるものとなったのです。

主イエスの洗礼の出来事は、天と地が再び結びついた壮大な出来事として語られているのでありますが、その真髄は何かということであります。天と地、神様と私たちの関係を結ぶ者として来られたキリスト、このキリストが神様の救いを人々に宣べ伝える前に、地上での最初の出発点をこの洗礼の出来事に記すとはどういうことなのでしょうか。

この主イエスの洗礼の記事は、4つの福音書に記されています。ヨハネ福音書は少し視点が違いますが、内容は重なります。この4つの中で、今日お読みしましたマタイ福音書だけには、洗礼者ヨハネと主イエスとの会話があります。主イエスの受洗は気まぐれでも偶然でもない、最初から目的をもっていました。その主イエスに対してヨハネは14節でこう言います。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

ヨハネにとって、このことは信じられない出来事でした。ヨハネは悔い改めの洗礼を授け、アブラハムの子孫で、自分たちは神様の救いから近いという認識をもっていたユダヤ人たちを激しく批判し、自分自身を含め、悔い改めて、洗礼を受けるべきであると人々に訴えていたからです。そして、ヨハネは、主イエスの存在を知っていました。いずれ自分より後から来る人こそがキリスト、真に洗礼を授ける資格のある方であると。

しかし、ここに福音の驚きとでも言いましょうか、価値観の大逆転が起こるのです。主イエスご自身が、ヨハネから洗礼を受けると。洗礼を受けるというその姿は、一人の罪人以外に他なりません。罪があるから洗礼を受ける、それは全ての人に当てはまる、洗礼を真に執行できる方以外、ヨハネを含め全ての人にあてはまること。それが洗礼であり、罪を告白して、神様の方向に自分の人生を方向転換するということであるとヨハネは考えていたのです。

ここにあの占星術の学者たちと同じものを感じます。それはキリストとはどういう方か、どういう救いを与えてくれるのかという人間側の思いです。占星術の学者たちがストレートに幼子イエスと出会うことができなかったように、救い主というキリストの本質を見いだせなかったのです。ヨハネもここでひたすら、主イエスの要求を思いとどまらせた、すなわち妨げたのであります。

マタイ福音書は特にこのことを強調しています。占星術の学者たち、ヨハネ、そして私たちもまた、地に属する者です。人間の思いを基軸として生きている者です。はたまたそれは自分自身の思いです。他者とは異質な存在であり、どこかしら誰とでも隔たりをもっているものです。立場が違うとまでは言わなくても、何か同じ場所に、自分と相手を置くことができない。人間関係の複雑さ、地球という同じ屋根の下に住む者同士でありますが、しかし、実は同じフィールには立っていない、ああ、あの人と私は違うんだなと、後ずさりしてしまうものです。

もちろんヨハネはここで、他の人と主イエスを同じ立場に置いているわけではありません。主イエスに対してあとずさりしているわけでもなく、主イエスに対して恐れ多いというか、ありえない心境を語っています。主イエスは異質な存在なのです。自分たち人間とは全く別の存在、天と地ほどの存在であると。しかし、主イエスはこういうのです。

しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

正しいことというのは、「義」という言葉です。マタイ福音書には特にたくさんでてくる重要な言葉でありますが、義というのは、神様のめにかなう正しいこということです。神様のめにかなうということは、救われるということです。そしてここでいう正しいことというのは、主イエスが洗礼を受けるか否かということにかかっているのです。神様の目にかなうこと、神様の御心が成就するためには・・・・とヨハネにこう語っているのです。

ヨハネは、この主イエスの言葉に、福音を見出しました。主イエスが罪人、すなわち私たちと同じように、歩まれていくということのご決断。罪なき方が罪をまとっていく生き方をする。それは人間と生きていくということ、天に属する者が地に属する者となったという出来事です。地に属する罪あるものたちと共に生きていくという道を選ばれた。否、天はその道を望んだということです。地に属する私たち一人一人の罪の只中で共に歩んでいくということであり、わたしたちの罪の中に入り込んでこられたキリストであります。

そして、主イエスが洗礼を受けると、天が開いたのです。地が天に近づいたのではなく、天が地に近づいたのです。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえたのです。主イエスという天の者が地に属する者として歩むこと、それは神様の御心に適うものであると言います。この方を通して、天と地は再び結びついた。神と人間がひとつになることを望まれた。その妨げとなっている罪を取り除くために、主イエスは天と地を結ぶ使者、キリストとして、その罪を負われるのです。罪の重石に苦しむ私たちの苦しみを担うかたとして、私たちと同じフィールドに立たれました。主イエスの宣教は、この立ち位置、地に属する罪人たちの立ち位置から始まるのです。

皆さんはダミアン神父というベルギーのカトリック司祭をご存知でしょうか。彼は1864年から、ハワイの宣教師として活動していましたが、当時この地では多くのハンセン病にかかった人々がいました。当時ハンセン病は伝染病だと言われ、ハワイ政府はハンセン病患者たちをモロカイ島に移住させ、他の人々との交流を一切絶たせ、彼らは誰からの世話も受けることがなく、死ぬまでその地で過ごさなくてはなりませんでした。社会と家族から見捨てられ、肉体的にも精神的にも、どん底の状態だった彼らの中には、多くのカトリック信者がおり、彼らは、ハワイの司教に司祭を送って欲しいと手紙を出します。彼らの願いに対して、同地に派遣を願い出たのがダミアン神父でした。彼は単独モロカイ島に渡り、同地の宣教師として、彼らの世話をし、生活を助け、次第に交わりをもつことができたのですが、島の人々は唯一健康な彼を、心から受け入れることはできませんでした。ダミアン神父自身も、その隔たりに胸を痛めており、ミサの説教の時には「患者であるあなたがたは・・・」という言い方しかできなかったそうです。

しかし、患者と直接触れることをためらうことなく、彼らと関わる生活を続け、ある日、ダミアン神父は足に湯をこぼしても熱さを感じず、手首に黒い斑点が表れたのを見て、ハンセン病のしるしだと思い、翌朝のミサの説教で彼は「患者であるわたしたちは・・・」と、心から喜びにあふれて人々に語りかけたそうです。

彼は数年後にハンセン病を発症し、1889年49年の生涯を閉じました。ハンセン病を研究する学者の見解によると、彼がハンセン病にかかった原因はモロカイ島で患者と毎日直接触れていたことだけでなく、彼自身の免疫状態が発病に感染しやすい環境を作っていたそうです。

主イエスは「わたしたち」として、わたしたちと歩まれるのです。主イエスがわたしたちと関わってくださったから、主イエスが人間となったのではなく、天に属している時から、この世を愛するがために、人となる御心があったのです。人として、心から喜ぶことを教えてくださいました。共に生きるということの喜びです。共に生きてこそ、同じ立ち位置に立ってこそ、知りえることができない深い喜び、神秘がどれほど私たちの周りにあることでしょうか。ダミアン親父はその出来事を経験したのではないでしょうか。今日の福音もまたその大いなる喜び、神秘を私たちに伝えています。天が地に近づいた、天と地がひとつとなったそれは人間が神様のものなり、愛されるということです。それはわたしたち同じように、洗礼を受けられたこの主イエスを通して、真実となったのであります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年1月5日 顕現主日 「別の道を通って」

マタイによる福音書2章1〜12節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

新年最初の主日を迎えることができ、感謝でございます。新年を迎えるということについて、先日の新年礼拝で私は、ルターの言葉を引用して「主イエスのご降誕日こそが新年の始まりである」ということを申しました。それはただ1月1日という暦に限られたことではなく、主イエスが私たちの只中に宿られた、その喜びをもって、その喜びから新年を迎えるということです。無論、新年を歩んでいくという歩みの中には喜びだけがあるわけではありませんし、聖書も主イエスの降誕の喜びだけを語ってはいないのです。先週の降誕後主日に聞いたヘロデ王による幼児虐殺という悲惨な現実を、それが殺された子供の母親の心情を代弁するかのように、イスラエルの母親的存在であるラケルの嘆き声として木霊している、そういう闇、現実の闇を語っているのです。この現実の闇の只中に輝く光、この光を見出す喜びを聖書は私たちに語りかけています。

さて、新年最初の主日を顕現主日として守っています。この日は主イエスがこの世に生まれて最初に成された礼拝を記念しています。それも幼子イエスを最初に拝み、礼拝に招かれたのは、神の民であるユダヤ人ではなく、神の民からは程遠いと言われていた異邦人、それも占星術という星占いの学者たちでありました。聖書には9節から11節で「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とありますように、彼らは星の導きによって、幼子の下に止まった星を見て「喜びにあふれた」、口語訳では「非常な喜びにあふれた」とありますように、自分たちの力、知恵といった見解を超えて、この世では理解のしようがないほどの大喜びをしたというのです。そう、拝むこと、礼拝とは喜びです。喜びの出来事です。それが今起こっているのです。主イエスの降誕をもって迎える新年の喜びは、この礼拝において具現化していると言えるでしょう。

しかし、学者たちが喜ぶ喜びは一言で言えば、「見出される喜び」とでも言いましょうか、例えばルカ福音書15章にある3つのたとえ話には、共通して失ったものが見つかるという喜びがテーマとして語られています。この喜びは何か私たちが思い描く楽しげな、全てことがうまくいくような喜びではないのです。そしてこの喜びの背景には、「失った」ということもそうですが、やはり人間の挫折、苦難といった闇が語られているのであります。

学者たちは何を経験し、喜びを見出したのでしょうか。彼らは星を研究する占星術の学者で、エルサレムの東の方から来たペルシャの人だと言われています。後世になって、彼らは異邦の王様としてそれぞれ名前がつけられと言いますし、または東方から来た博士として、伝えられていき、今の私たちが知るところとなりました。彼らは専門家としての自分たちの知恵を働かせて、ユダヤの方に光る曙の星を発見します。ただならぬその星の輝きから、それが救い主が宿ったというしるしをみたのでしょう、彼らは早速その星を見に旅立ちます。今日の聖書日課にも記されていましたが、彼らがその星を頼りに、救い主に会うために旅立っていったというこの出来事は、相当な覚悟と決断があったのではないかと思いますが、彼らの胸の内は喜び勇んでいたことでしょう。けれど、彼らはそのまま救い主の下にたどり着くことはなかった、というより、できなかったのです。彼らが訪れたのは首都エルサレムのヘロデの王宮、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と人々に聞く彼らの姿、その心情の中に、あの飼い葉桶に宿ったみすぼらしい幼子を救い主として、喜びをもって見出すことなどは到底できなかったでしょう。

彼らはなぜストレートに幼子の下にたどり着くことができなかったのでしょうか。彼らが見た星はどこにいったのでしょうか。この時学者たちは星を見失って、迷子になったのだと言う人がいます。また学者たちは自分たちの知恵ばかりに頼ったから、ヘロデの王宮を訪ねてしまった、または彼らは不信仰に陥ったから、星を見失ってしまったのだと、様々な説を聞いたことがあるのですが、少なくともこの学者たちの旅、救い主を求める旅路は一度中断されてしまったということであります。

自分たちの研究で、まばゆく星の輝きを見つけたとき、それが救い主のしるしであるとして彼らは大いに喜んだでしょう、希望をもったことでしょう、覚悟と決断を伴ったこの旅路には、そういう彼らの心情があってもおかしくはないと思います。ある意味では、自分たちの長年の研究が功を奏し、報われた、これからはうまく行く、自分たちはとんでもない発見をしたんだからという自信もあったことでしょう。自分たちが求めていたものに出会える、見ることができる、そんな期待を抱いていたはずです。

私たちも人生において彼らのような体験を何回もしたことがありませんか。初めて教会を訪れようとしたとき、今まで忙しくて全然いけなかったけど、やっとその忙しさから解放されて、行く機会が与えられた。小さい頃から憧れていた教会のイメージ、素敵なイメージが頭に浮かぶ。きっと教会にいけば素敵な出会いがあり、幸せになれる。もちろん求めるものが教会だけに限った事ではありません。また、人生において、何かしら好機が訪れる、チャンスにめぐり合う、何かやりがいがある仕事にめぐり合う、そんな可能性がある。今やらなくてはいけない、今がまさにその時だと言えることだってたくさんあります。時、場所、内容など様々な次元の中で、小さいことから大きいことまで、私たちの人生は留まることを知りません。

しかし、私たちはまた途中で歩みを止めざるえない体験をします。挫折したとき、苦難に遭遇したとき、傷つけられて、身体的にも精神的にも動けなくなったとき、こんなはずではなかったと失望したとき、予想外の出来事など、たくさんあります。それらの出来事が、その時に良いこととして受け止めるか悪いこととして受け止めるか、どちらにせよ、そこで自分の歩みが一旦止まる。自分の考えが、思考が、計画が、止められてしまうのです。新年に立てた計画が機能しない、それどころか台無しになることがある。一見、何か目に見えない力が働いて、自分たちの歩みを妨害しているように思えてくる、そんなことがよくあります。けれど、そのことは果たしてメリット、デメリットという二択だけで処理できることなのでしょうか、受け止めることができるのでしょうか。

学者たちは、自分たちの研究で探し当てた星を頼りに、旅に出ましたが、それでは救い主に出会うことができませんでした。確かに彼らはそこで歩みを止めざるえなかったのです。そこに彼らが抱く救い主はいなかったのです。ユダヤ人の王として生まれた、あたかもそれはダビデやソロモンといった、力や知恵に満ちた王という救い主というしるしではなかったのです。彼らは確かに星を見失ったのかもしれませんが、見失う必要があったのです。その必然性に立たされのです。

そして、途方にくれていたであろう彼らを導いたのは、神の御言葉でした。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」(2:4~6)この御言葉は彼らが歩みを中断した、いや中断させられた彼らにこそ響き渡った御言葉だったのでしょう。御言葉を聞くと彼らはすぐに立ち上がって、あたかもその御言葉の力によって立ち上がったかのように、彼らの歩みは、旅は再会するのです。救い主を求めて

星が彼らの目に止まりました。星は確かに彼らと共にあったのです。星が彼らを確かに招く、その確信を抱くことができたのは、神の御言葉です。歩みを中断し、己を無にして、心の奥底に御言葉を戴いた、すなわち恵みとして受け止めることができたのです。彼らの挫折から、思わぬ人生のブレーキがきき、自分の思いが打ち砕かれたとき、その時にこそ開かれる道がある、しばしの中断が時に必要だったのです。彼らは救い主を拝む、礼拝に招かれています。

そう、今の私たちと同じように。私たちもしばしの中断です。悩み事、心配事は尽きないかもしれない、何か解決策を考えているかもしれない。しかし、それらの思いをしばし中断して、一度今行くべき歩みにブレーキをかけて、神の御言葉、神の導きに思いを向ける。それがこの日曜日、礼拝に集う私たちに神様が呼びかけておられる声です。救い主を受け入れるためにも、幼子という小ささ、無力さ、そこに神は御旨を向けて下さるその声を聞くためにも、私たちは今この場に留まっているのです。救い主が確かに私たちの只中に宿ってくださった、その救い主が共におられるという真実、この神の真実こそが神の顕現です。神は無力さの中に、留まることを知らない私たちの人生、思わぬブレーキが働き、中断した時に、見えてくるものがある、聞こえてくるものがある。自分の無力さに打ち砕かれ、御言葉を聞き受け止めるときに、その自分の無力さの中に、救い主は宿る、顕れるのです。

学者たちはまた、夢のお告げ、すなわち神の御言葉に従って、別の道を通って帰って行きました。ブレーキがきき、方向転換していくように、神の御言葉が示す神の道へと方向を定める。この幼子イエスと共にある道。この幼子イエスは後にこう言います。「私は道であり、真理であり、命である」と。彼らが通っていった別の道、この新しい道こそが主イエスの道です。

新年を迎え、新しい道が私たちに広がっています。私たちに救い主の道が与えられました。救い主と共に歩む道です。この道の主は主イエスです。私たちが今立っているところは、御言葉が読まれ、聞かれるところは、星に導かれてたどり着いた幼子がいるところであります。学者たちが喜びにあふれたように、新年を歩んでいく私たちも、幼子の救い主に出会い、この喜びにあふれつつも、そこでまた立ち止まるのではなく、一度立ち止まった、中断したからこそ、御言葉が力強く幼子の下に、礼拝に招かれたという真実を受けとめて、喜びに見出される別の道、新しい道を歩んでまいりましょう。そして、自分の思いにかられ、この道をふみはずしそうになったときは、一度立ち止まって、中断して、神の御言葉に聞く時です。幼子の救い主の下に、礼拝に招かれる時なのです

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年12月29日 降誕後主日 「私たちの苦難を生きる神」

マタイによる福音書2章13〜23節
藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 2013年最後の主日を皆様とお迎えすることができました。感謝でございます。世の中は年末年始の慌ただしさの中にありますが、今はクリスマスの時期であります。

 御子イエスキリストが私たちの救い主として与えられ、その喜びを分かち合うように、祝会の時をもつことができました。様々なご事情があって、教会に来られない方とも、再会のひと時が与えられ、真に祝福に満ちた時を過ごしてまいりました。この喜びの只中に、真ん中に主イエスがおられるということではありますが、主イエスはあの飼い葉桶にご降誕されたのです。私たちと同じ人として、人となった神様である主イエス。それは布にくるまった幼子、無力な人間として、飼い葉桶という貧しさ、みすぼらしさの中に宿られた救い主であります。

 今日私たちに与えられた福音もクリスマス物語です。この箇所を読み、聞いた人は、悲しみに満ちたクリスマス物語だという人もいますが、神秘的で喜びだけに包まれているのがクリスマスではありません。クリスマスはこの世という現実、人間の苦難、闇をそのままに語っているのです。ここに大きな悲劇が語られています。ヘロデ王による幼児虐殺事件です。2歳以下の男の子が、理不尽にも権力者の手によって親から突き放され、彼らの手によって殺されていくのです。「ヘロデによる幼児虐殺」として知られる新約聖書の中でも、特に悲劇的な物哀しい出来事であります。その時の母親の嘆きの声が木霊しているかのように、17節から18節にこういう言葉が記されています。

こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」

 ラマという地名は諸説ありますが、ベツレヘム周辺の古代の町のことだと言われています。ここにアブラハムの孫にあたるヤコブの妻ラケルのお墓がありました。ヤコブは神様と格闘して、「イスラエル」という名前を神様から授けられた人です。イスラエルの12部族の祖先はこのイスラエルと言われるヤコブから来ているのです。そのイスラエルの妻であるラケルは、イスラエル民族の母親的存在とも言えるでしょう。このラケルが子供を失った母親の嘆きとして、エレミヤが預言しているのです。この言葉はエレミヤ書31章15節に記されています。こういう言葉です。

「主はこう言われる。
ラマで声が聞こえる。
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む。
息子はもういないのだから」。

 エレミヤは主イエスが生まれる約600年前のイスラエルの預言者でした。当時イスラエルは北と南の2つの王国に分裂していて、この時代に南のユダ王国はバビロニアという外国に攻め滅ぼされてしまいます。その際、多くのユダヤ人、イスラエルの民がバビロニアに奴隷として連れて行かれてしまいました。いわゆる「バビロン捕囚」と言われる出来事です。バビロニアに連れて行かれる時の通過点がラマでした。もう故郷には帰ってこられないイスラエルの子孫たちの姿を、墓の中から先祖のラケルが嘆き悲しんでいると、エレミヤは言うのです。もう子供達、子孫は戻ってこないのだから、慰めてもらっても仕方ない、慰めすら拒否をするという真に深い嘆きであります。

 マタイはヘロデ王による幼児虐殺事件をこのエレミヤの言葉と重ねました。ラケルが子孫のため、子供のために嘆き悲しんでいる。その声は今まさに聞こえてくるというのです。主イエスがお生まれになったこのクリスマスの只中で聞こえてくるのです。そしてこの嘆きの声が、今の私たちの世界でも木霊しています。イスラエルとパレスチナの対立から、多くの人が犠牲になり、子供たちが無残にも殺されています。それは遠い外国の出来事に過ぎないとは言い切れません。この日本を含め世界中で、不可解で、理不尽な事件に巻き込まれて、子供の命が失われている。子を失った親たちへの慰めなんてどこにあるのかと、叫びたくなるような出来事が繰り返し起こっています。ラケルの嘆き声は現代へ叫び続けられているのです

 幼子イエスは、救い主として、飼い葉桶に宿られ、このラケルの嘆き声が木霊する、すなわち慰めなんてどこにあるのかと嘆くこの現実の只中ですくすくと育ち、成長していくのです。この救い主を拒む敵対勢力がヘロデを筆頭に描かれています。この敵対勢力に対して、幼子は無力です。敵対勢力、いわば権力者に振り回されながら生きていていく。それは理不尽さの中で、人間の苦難を背負って生きていくということです。しかしそれは一種のあきらめというか、運命を受け入れていくしかないという生き方ではありません。この幼子、キリストの一生を一言で歌っているフィリピの信徒への手紙2章6―8節にこう記されているからです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 十字架の死に至るまでとありますように、キリストの生涯は生まれた時から十字架へと向けられています。それも人間としての弱さ、小ささを背負いながら、へりくだって、その道を歩まれていくのです。このキリストを十字架につけて殺したのは、ヘロデ王ではありませんが、あのラケルの子孫であるイスラエルの民、ユダヤ人たちがキリストを十字架につけるのです。

 この幼子、キリストもラケルの嘆き声が叫ばれるかのように、無残に殺されるのですが、このキリストの死は十字架の死、贖いの死です。ヘロデなどの敵対勢力に対して、武力でも神の子としての奇跡的な力をもってして反抗したのではなく、十字架をもってして、対抗したのでした。真にこの嘆き声の只中に、慰めなども見いだせないような闇の只中に、その身を置かれ、嘆きを受け入れた、すなわち死の嘆きを受け入れたのです。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く者となられたのです。ただ泣き叫ぶことしかできない現実の私たちの世界で、神も共に泣き叫ぶ。神もまた嘆くのです。あの十字架上でのキリストの言葉を思い出してください。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」そう叫ばれたのです。そう嘆かれたのです。どうして私がこんな目に、どうして私の子供が、私の子孫がこんな目に合わないといけないのかと、私たちと同じように嘆かれました。

 しかし嘆きは嘆きのままで終わらないのです。十字架の死は復活へと続いているのです。パウロはコリントの信徒への手紙15章55節から58節で言います。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しようわたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないのです。主に結ばれる、それは主と共にあるということです。この世の理不尽さの中に、慰めなど見いだせようか、そのように嘆く私たちの姿があります。しかし、主イエスは私たちが抱く嘆き、究極的には嘆きの試金石である死を打ち破った、復活によって打ち破る救い主として、「神は我々と共におられる」救い主として、私たちの只中に宿られ、幼子として、私たちの前にみ姿を現されているのです。

 この救い主の父親として、幼子を抱いて、母マリアと共に、ヘロデから逃れるヨセフの姿があります。彼は夢で天使のお告げを聞いて、その言葉、すなわち神様の御言葉に導かれて、幼子と共に、ラケルの嘆きが絶えないベツレヘムの途上を歩み続けました。彼はマリアと共に、この幼子をおぶって、必死に逃げ続けました。幼子イエスはただこの父親であるヨセフに抱かれているだけなのです。幼子を抱いている、おぶっているヨセフの姿は私たちに何を示しているのでしょうか。

 今日の第一日課のイザヤ書63章8―9節にこう記されています。主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。

 彼らというのはイスラエルの民を指しますが、ここでは苦難を共にする者ですから、今の私たちの姿でもあります。わたしの民と主が言われるとき、それは私たちが神の子として招かれている、受け止められている、神の愛する子として、私たち一人ひとりを忘れることなく、憐れんでくださる神の恵みに他なりません。そのために私たちの救い主となられた御心は、私たちの苦難、嘆きを、ご自分のものとされるために、幼子としてこの世に宿られたということです。この幼子は神の御言葉に導かれるヨセフに抱かれ、逃げ続けます。神の御言葉がヨセフを通して働かなければ、幼子イエスは殺されていたでしょう。

 幼子は神の子です。しかし、人間の苦難をご自分のものとして生きていくと決断されたということは、目の前にある現実には、幼児虐殺という苦難の現実が待ち受けている。その苦難の前には、この真の人としての幼子ではどうすることもできない、それは私たちの人生と同じように、目の前の苦難を前にして、時にどうあらがっても、どうすることもできない現実の壁、苦難の壁を乗り越えることができないという状況にたたされること同じことです。幼子は神の子として、人間の苦難をそのままに、自分の歩みとして生きていかれる。けれどヨセフを、神の御言葉に導かれるヨセフなくして生きていくことはできないのです。だから、この幼子を抱いているヨセフ、神の御言葉に導かれるヨセフを必要するということは、この幼子が神の御言葉と共に生きていく、真の人として苦難の只中を生きていくというとき、神の御言葉こそが、自分を導く、働かれる、担われるということであります。ヨセフは幼子を抱いていますが、彼を導くのは神の御言葉であり、マリアとこの幼子との歩みを真に担ってくださるのは、神様にほかなりません。

 そして神の御言葉に導かれて、ヨセフが幼子を抱いて歩む姿は、主に従って歩んでいく、自分の十字架を背負って、主と共に歩んでいくということに映されています。もちろんそこには苦難があり、嘆きがあり、理不尽さが付きまといます。しかし、それらの困難と共に、むしろ私たちの苦難をご自分の苦難として、主は歩まれる、共に歩んでくださる。それがこの無力な幼子の姿に示されています

 キリストは私たちの苦難をご自分の苦難とされました。それが今、私たちの目の前に示されている幼子の姿に表されています。今年一年を振り返った時、思い出したくもない苦難があったかもしれない、また新しい年もどんな苦難が待ち受けているかわかりません。しかし、幼子イエスは私たちと共におられます。私たちの苦難をご自分の苦難とされる神様が共におられます。この悲しみの物語の中に、クリスマスの喜びは、この幼子を通して、私たちにはっきりと示されているのです。新しい年もまた、このキリストが共にいてくださると固く信じて、希望をもってこの救い主と共に歩んでまいりたいと節に願います。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年12月22日 待降節第4主日 「神の偉大を知った者の歌」

ルカによる福音書1章46〜55節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

アドベントクランツの4本目のキャンドルに火が灯りました。本日の礼拝後にクリスマスの祝会を致しますが、教会暦では待降節第4主日、最後のアドベントの週を迎えたので、本日は待降節第4主日の日課から、福音を聞いてまいります。

本日の福音として与えられましたルカによる福音書1章46~55節、これは伝統的に「マリアの讃歌」と言われている箇所でありますが、この歌はラテン語で「マグニフィカート」と言いまして、「大きくする」という意味です。47節の「あがめ」、崇めるという言葉が「大きくする」という意味から取られているものです。すなわち、主を崇めるということは、主を大きくすると、このように歌われているのです。

このマリアの讃歌ですが、そのタイトルの通り、マリアが歌ったと言われる歌ですが、マリアはこの時、ナザレという田舎町に住む14~15歳程度の少女であったと言われています。ごく普通の農家の娘だったのでしょう、そんな少女が、このような神様を讃える歌を誇らしげに歌っているのです。特に後半の51節からは、私たち人間の価値観をひっくり返す、とんでもないことが主の御業として起こると歌われています。ようするに、主の御業の前には、人間の力、知恵、繁栄などといったものは、無に等しいということ、そんな人間の無力さがここでは同時に歌われている激的な歌、激しい歌がこのマリアの讃歌なのであります。

「マリア」と聞けば、主イエスの母親としての「聖母のマリア」、また、このように神様に対する絶大な信頼と力強さに満ちた歌を歌っている「信仰深い人」、「敬虔な信仰者」というイメージを持っている方が多いかと思います。確かにマリアは特別な人なのかも知れません。そもそもマリアに起こった出来事そのものが、この賛歌を歌ったという驚くべきことに結びついていると言えるでしょう

先週私たちはマタイ福音書から、マリアの夫のヨセフに起こった出来事を聞いてまいりましたが、その状況と重なるように、マリア自身も天使からお告げを聞きました。それはルカ福音書1章26節からの受胎告知と言われる場面であります。彼女も天使から、聖霊によって男の子を身ごもったことを聞きました。ヨセフと違い、マリアには言葉がありますから、そこから、その時の彼女の心情が伝わってまいります。天使のお告げに対してマリアは言います。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34)こんなことは信じられない、この世の価値観、人間の常識ではありえないと彼女は言いますが、それは驚きだけではなく、彼女自身の不安と恐れがあったのです。なぜなら、このことは明らかにヨセフとの婚約生活に支障をきたしてしまう危機的な状況を生み出す出来事だったからです。

しかし天使は彼女の問いに答えます。「神にできないことは何一つない」と。その言葉を聞いた彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」と言います。神様が全ての出来事を導き、働かれる、マリアはその確信を抱いたというより、信じて委ねたのでしょう。私たちはこのマリアの気持ちに疑問を抱くかも知れません。どうして、そう簡単に天使の言葉を受け入れることができたのかと。もう打つ手がないから、神頼みにかけたのでしょうか。神様に運命を委ねたのでしょうか。それとも単純な諦めでしょうか。

決してそういうことではありません。そうでなければ、またそんな思いからはこのような歌は歌えないでしょう。この歌は確かに神様の御業の絶大さを歌ってはいますが、それが自分にとってどのようなことなのかということがはっきりと歌われているからであります。神様から見て、自分とはどのような存在なのか、そんな自分のために神様は何をしてくださったのかということを彼女ははっきりと歌っているのです。まわりの状況が自分にとって都合よく、がらっと変わってくれたのではなく、自分という存在としっかりと向き合って、自分こそが変えられたということを、人間の力ではなく、神様の御力によって成されるということを信じているのです。彼女を取り巻く状況は変わっていない、現実そのものは全く変わっていないのです。でも彼女は魂、心の底から神様を讃美し、ほめたたえています。その理由が48節から記されています。

48節で「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」と彼女は自分自身についてこう言っています。身分の低い主のはしため、はしためというのは奴隷という意味ですが、身分が低いというのは口語訳聖書では「この卑しい女をさえ」となっています。それは周りの人間から、ヨセフと同居する前に妊娠したという出来事を通して、彼女は卑しい女性だと見られていた。そういった現実そのものを表していると言えるかも知れませんが、彼女自身は神様のみ前で、自分はそんな存在ではないと弁明しているわけでもなく、卑下しているわけでもないのです。

この「卑しい」という言葉ですが、これは謙虚、謙遜ということではありません。最近ではあまり使われない言葉ですが、この言葉を広辞苑で調べて見ますと、たくさんの意味が書いてありました。源氏物語や伊勢物語などの古典文学にはたくさん出てくる表現ですが、これは忌み言葉です。身分や地位が低いという意味から始まって、他には「貧しい、みすぼらしい、とるにたりない、下品である、おとっている、さもしい、いじきたない」など、人間の惨めな存在として、この言葉は使われているのです。つまりマリアは、人間にとって、全く評価されない人、無価値な存在として、ここに描かれているのです。

主をあがめる、すなわち主を大きくするということは、自分自身は小さいのです。取るに足りない存在、卑しい存在なのです。ヨセフとの結婚生活さえ危機的な状況を迎え、普通の人としてではなく、卑しい存在となってしまったという境遇を通して、神様の大きさが見えてくる。神様からの大いなる恵みがわかるのです。神様は彼女の卑しさそのものに、目を留めてくださったと彼女は歌うのです。神様を讃えているのです。こんな私にも、こんな私でさえ、神様は見放さない、それどころか神様の方から目を向けて下さる、気にかけてくださる、私の存在を受け留めてくださると、彼女は言うのです。

そんな自分は幸いな者、つまり幸せ者だと彼女は言うのです。神様が彼女に目を留められた、受け止めてくださったということですが、実際に神様は彼女に何をしてくださったのかということが、49節の御言葉です。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」神様がマリアに偉大なことをなさったというのです。「偉大」という言葉もまた「大きい」という言葉が元となっています。他にも「広い、強い、重要な、立派な」という意味を総称して偉大となっているのでしょう。だから偉大というのは、単なる表向きな姿勢だけではありませんし、神様が人間を無視している行為でもない、卑しさを通して、真に重要なことを彼女に託したのであります。彼女を必要とした、それは偉大なことを成し遂げるために、まだ15歳にも満たない農家の少女が選ばれたのでした。彼女の卑しさの中に、救い主が宿ったのです。それは人間の卑しさの中で、神が生きて働いていかれるというご決断、人間が忌み嫌う場所で、神の子が宿った、それがあの悪臭漂う飼い葉桶に、真に実現するのです。

私たちは人間の卑しさ、この世の卑しさの只中で、生きています。けれど私たちは卑しさを嫌います。受け止めようとはしません。大きいとまでは言わなくとも、自分は清い存在でありたいと願うものです。しかし、時にこの世界に蔓延る人間の卑しさ故に、いつ自分が理不尽な目に会うのか、わかりません。突然愛する人を失うかも知れませんし、病気になるかも知れませんし、職を失うかも知れません。ヨセフとマリアに起こった現実は私たちの現実となりうるのです。信じられない事件が毎日たくさん、私たちの間近で起きています。ヨセフは密かに縁を切ろうと一大決心し、マリアはなぜそんなことが起こるのかと、それぞれに葛藤を抱きます。私たちも抱く葛藤であります。自分たちで何とかしようともがき苦しみます。そして自分の卑しさ、無力さに気づかされ、卑下する自分の姿があるのかも知れません。

しかし、人間の常識を超えて、また理不尽さを超えて、神は働かれる。奇跡と言っても言いのかもしれません。神はそうご決断されました。偉大なことをご決断された。マリアが選ばれ、救い主が宿られた。何の価値もない卑しい人の中に宿られたのです。私たちもマリアのように招かれ、選ばれてこの場におり、神の御言葉を、生きて働いてくださるキリストを心に宿すために、神様の愛によって目を留められているのであります。人間的な価値感という縛りを打ち破って、真の自由を人にもたらすために、神は我々と共におられる。共にいるものとして、私たちの人生に関わってくださる方として、この世に救い主が与えられるのです。だから、私たちは、その理不尽さ故に、どうしようもない状況の中で、自分を卑下して嘆きつづけるのではなく、自分の中にある卑しさそのものに神様が目を留めてくださっているという真実に目を向けて、マリアを通して救い主を与えてくださった神様の愛に導かれて、歩んでいけばいいのです。人間は卑しさに対して、嫌悪感を抱きますが、神様は卑しさに対して、愛をもって応えられます。まわりは変わらなくとも、あなたを卑しいままに愛される方は、あなたを導く、あなたを変えます。そしてあなた自身が変わるのです。

いよいよクリスマスを迎えます。毎年来るのが当然だと思ってしまう私たちのところに、神様は一人ひとりを目に留めてくださる故に、救い主を与えてくださいます。神様は卑しい者、無力な者に、偉大なことをしてくださる方です。神様の御心は主イエスを通して、私たちの卑しさに宿られました。そしてご自身は最も卑しい者となって、私たちと共にいてくださるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。