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2013年12月15日 待降節第3主日 「人となりし神」

マタイによる福音書1章18〜23節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

アドベントクランツの3つめのロウソクに火が灯り、待降節第3主日の礼拝を私たちは迎えました。アドベントも中盤を過ぎた今日では、各地でクリスマスコンサートが開催され、お出かけになって聞かれた方や、演奏された方がたくさんおられるかと思います。この六本木教会でも今年は実に多くの団体の方がこの会堂でクリスマスコンサートをされ、既に2つのコンサートが一昨日、昨日と行われました。また本日もハンドベルの皆様が礼拝の中で演奏していただき、また礼拝後にコンサートをしていただきます。
クリスマスの喜びを、コンサートで聞き、または演奏しつつ受け止めながら、この喜びをコンサートだけでなく、改めてこのアドベントの時を過ごす私たちは御言葉を通して、来るべきクリスマスの喜びを聞いてまいりたいと思います。

マタイによる福音書1章18節~23節が本日の福音として与えられました。最後の23節の御言葉「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」という救いのメッセージが記されている箇所であります。インマヌエル、神様が人間と共におられる、それが真となる、本当に起こる、それは人間の想像を超えた出来事、思いもよらぬ喜び、そして何よりも神様の決断という御心が真に示されている、全知全能の創造主なる神様が、被造物と共に歩む、そのような壮大なご決断をされた神様の御心がここで明確になっているのです。神が共におられる、それは神が真の人間となったという出来事に顕されています。共にいる、共にいてくれるということ。ひとりではない、孤独ではない。これは非常に嬉しいことです。詩篇もこう歌っています。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(133:1)そう、共にいてくれるということは、恵みであり、喜びであるということです。一緒にいてくれる存在と聞いてすぐ思い浮かべる人は、親、親戚、友人、恋人、またはペット(人ではありませんが)でしょうか。他にもいろんな仲間の存在を思い描くかと思います。しかし、常に一緒にいるのが当たり前だという感覚に私たちはついつい陥ってしまい、喜びとか恵みというものを見失ってしまうものです。あの放蕩息子のたとえ話に出てくる兄のように。でも、私たちを支え、助けてくれるという存在、共にいてくれる存在があって、今の自分がいる、今の自分が生かされているということに気付かされるのです。他者の存在が、わたしの存在理由ということです。それを共にいる、共に関わるということを通して、私たちは知るのです。そして神が共におられるとは、関わってくださるとは真にどういうことなのでしょうか。私たちはその真実において、どう変えられていくのでしょうか。ご一緒に御言葉から聞いてまいりたいと思います。

神は我々と共におられる。その救いのメッセージをヨセフは夢の中で、天使から聞かされました。それはヨセフがある大きな決断をした後の出来事でした。ヨセフはマリアと婚約していました。結婚の約束をしていました。しかし、まだ同居は許されていません。体の関係を持つことは禁じられていたのです。ふたりはいずれ一緒に暮らして、夫婦仲良く、幸せな家庭を築いていきたいと願っていたことでしょう。誰しも普通に願う人間の幸せです。ところが、ふたりが一緒になる前に、マリアが聖霊によって赤ちゃんを身ごもってしまったというとんでもないことが起こりました。「夫ヨセフは正しい人であった」とありますから、マリアと関係を持つということはなかったはずです。自分には全く身に覚えがない、ありえないことが起こった。「そこでヨセフはマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」というのです。マリアとのことを表ざたにする、つまり公にすれば、マリアが姦淫の罪を犯したことになり、マリアが罰せられる。社会的に抹殺されるというのです。公になればマリアは行きてゆけないことは確実です。それでヨセフは密かに縁を切る、離縁を申し出ようとするのです。申命記24章1節に「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」という掟に従って、マリアと離縁する。そうすればヨセフは自分の都合でマリアと離縁した。マリアは子供を産みますが、再婚の可能性は十分にあるのです。ヨセフは正しい人だったので、という正しさは、社会通念としての正しさ、宗教的な正しさに縛られたものではなく、相手の立場にたち、相手を思いやった正しさ、すなわち愛するという正しさでした

福音書はヨセフの心情について何一つ記してはいません。たった2節しか記していないこの出来事の中で、ヨセフの苦悩は計り知れないものだったはずです。なんとか自体を収拾しようと、それもマリアを思って、本当ならマリアを疑ってしまうはずなのに、マリアを愛し、マリアを見捨てることなく、事を収めようとした。公にすることができないのですから、親にも友人にも言えない、本当に心の奥深くで悩み苦しんだヨセフの姿があるのです。親にも友人にも言えない、身近にいるものでさえ、言えない出来事、自分の思いを抱えていく。一人で抱えていく。正しい人、愛する人故に、正しさを全うするが故に、抱え込まなくてはいけない思い悩みをヨセフは背負っている、そして背負っていこうと決心したことでしょう。

このヨセフとマリアに起こった出来事、旧約聖書のヨブ記を連想させるかのように、真に理不尽な出来事だった。そう言えるでしょう。特に何か悪いことをしたわけではない、静かにひっそりと暮らしていた二人、普通の幸せを願っていた二人に突如襲った理不尽な不可解な出来事。そこには嘆きがあったはずです。誰にも理解してもらえないという嘆きです。私たちも嘆きます。自分を分かってくれない、自分の状況を分かってくれない、受け止めてくれないということに、嘆きます。本当に自分のことを助けてくれる人、共にいて寄り添ってくれる人、たとえその人が物凄く頼りになる人でも、本当に自分の心の奥深くにある闇を照らしてくれる光となってくれるのか、自分の闇を分かってくれるのかと悩みます。ヨセフの内面的な心情は定かではありませんが、彼は真に孤独だったでしょう。事を収めようと決心する傍ら、彼の心は深く傷つき、その傷を背負っていくこととなる。誰にも分かってもらえないこの傷を背負うという孤独感があるのです。

そのヨセフの内面的な心情、孤独を表しているかのように、主の天使は、彼の夢に現れて、御言葉を告げるのです。そこは彼の思いそのもの、深い深い彼の心に迫るものです。そこに御言葉が語られる。「恐れるな、マリアを妻として迎えなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿り、その子供をイエスと名づけよ。その子は自分民を罪から救うからというのです。そして乙女が身ごもって、男の子を産むという神の御業が告げ知らされる。旧約の預言がここに成就する、つまり神の言葉は必ず成就するという約束の御言葉でした。ここでもヨセフは驚きを隠しきれなかったはずです。しかし、今日の日課の後で、24節では天使の言われた通りに、マリアを妻として迎え入れ、主イエスの父親として、主イエスを迎え入れるのです。神は我々と共におられる、そのインマヌエルなる救い主が、今マリアの中に、宿っている。密かに縁を切ろうとして、孤独のただ中にあった自分の思いの中で、不思議なことが起こった。恐れるな、この神様の導きがヨセフを変えていったのです。真に孤独な只中で、神が出会ってくださる、共にいてくださる。そのしるしが真の人となりたもう神、神が人となり、私たちと同じように、汗を流し、血を流し、泥沼の中に自分の人生の中に宿られた。共におられる神として、救い主が与えられた。新しい生がヨセフに与えられたのです。

ルカ福音書にザアカイの物語(ルカ19:1-10)があります。もちろん彼はヨセフのように、「正しい人」とは記されていない「徴税人」と言われている人です。彼はその職業柄、人々から忌み嫌われていました。誰も彼に近づこうとはせず、彼を受け止める人はいなかったのかもしれません。彼も孤独でした。主イエスが来られても、彼だけは木の上から眺めるだけで、近づけなかった。人々と、そして神様との距離が彼にはあったのです。しかし、彼の下に主イエスが近づいていかれます。そこで主イエスは彼を更生させるような言葉でもなく、「悔い改めよ」と言われたわけではありません。彼にこう言ったのです。「ザアカイ、あなたの家に泊まりたい」。家に訪れたい、ただその一言です。しかし、その一言が彼を変えた。財産の半分を貧しい人に施し、だれかからだまし取っていたら、4倍にして返しますと、主イエスの前で約束するのです。今日、救いがこの家を訪れた。主イエスはそう言います。「家」、それは日常生活の場、自分の生活する場であり、そのまま人には見せられないものがある自分の住まいです。安心していられる場所であり、同時に最も奥深い自分のスペースです。その人の内面が示されているといっても過言ではない。その内面、奥深いところに主イエスは語りかけられた。訪れたのです。ザアカイの内面、孤独のただ中にこの主イエスが訪れた。そこにこそ救いが訪れたのです。主がザアカイと共にいてくださる、また、それだけではなく、ザアカイは変えられたということです。自分の富を隣人に、すなわち天に富を積むかのごとく、神様の救いの御業に、自分も巻き込まれていくかの如く、関わっていくのです。

ヨセフもそうでした。マリアを妻として迎え、主イエスの父親として、神様の救いの御業にヨセフ自身も関わっていくのです。ヨセフもザアカイも、もちろんマリアみたく直接主イエスを宿らせたというわけではありません。しかし、彼らの姿、その思いの根底には神様の御言葉を宿らせた人として、神様と共にいる人としての姿があるのです。コロサイの信徒への手紙3章16節で「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」という御言葉に示されている通りです。また20世紀の神学者であり、牧師であったディートリッヒ・ボンヘッファーは「共に生きる生活」という著作の中でこう述べています。
「神が、わたしたちの今日の生活の見守り手であり、参与者であることではなく、わたしたちが、聖なる歴史における神の行為に対し、地上におけるキリストの歴史に対して、心を傾けた聞き手となり、また参与者となることが重要なのであり、そしてわたしたちがそこにいる限りにおいて、神もまた今日、わたしたちと共におられるのである。」
「参与者」と言われます。それは「神が」ではなく、「わたしたちが」と、主語が変わっています。神が共におられる、それは生活の見守り手、お守りみたいな存在ではなく、神様と出会い、そしてわたしたち自身が変えられていく、つまり「神様と共に」自分たちも行動し、実践していくということ。神が共におられる、共に歩んでいくということがそこに示されている。インマヌエルなる神が私たちの歩みの土台となり、私たちを導いていかれる。困難の只中で、孤独の只中で「恐れるな」と言って、導かれるのです。

このマタイによる福音書は「インマヌエルの福音書」と呼ばれています。このインマヌエルの預言に始まり、そして最後の28章18―20節で主イエスご自身がこう言われるからです。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
あなたがと共にいる、だからあなたがたは~と招かれるのです。主イエスが共におられるという真実の下で、私たちも変えられていく、困難や苦悩、孤独に思えるような状況の只中でも、真に孤独ではない。恐れるな、私が共にいる、その確信の只中で歩んでいくのです。

アドベント、クリスマスの只中で、御言葉が聞かれ、ヨセフやマリアと言った人物に焦点が当てられている救いの物語が語られています。私たちも様々な思いを抱いて、時には人にも言えないような孤独の只中で、このアドベント、クリスマスに招かれています。私たちはただ外野に座って、好奇心だけでこの救いの物語を聞いているのではなく、私たちもこの救いの物語に巻き込まれていく、そして変えられていくのです。この物語は私たちのストーリーでもあるのです。2000年たっても変わらない一人一人のストーリーであり、神と出会う時であります。どうぞ、その思いを心に抱いて、共におられる神として、私たちのただ中に宿って下さる救い主を待ち望みましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年12月8日 待降節第2主日 「荒れ野で叫ぶ者の声」

マタイによる福音書3章1〜12節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

待降節第2主日の礼拝を迎え、アドベントクランツに二つ目の火が灯されました。先週も言いましたが、アドベントとは「近づく」という意味です。今日の日課、洗礼者ヨハネの記事の冒頭でも「悔い改めよ、天の国は近づいた」とありますように、「近づく」という聖書のメッセージが記されています。ヨハネは天の国、すなわち神の国が近づいたと言うのです。天の国とはこの世の特定の時や場所を指すものではなく、神様のご支配、ご意志、その御心を指し示します。その御心は救い主イエスキリストを通して示されているのでありますから、キリストのご降誕を待ち望むこのアドベントの時に、聖書はヨハネを通して、天の国が近づいた、すなわち神様の御心であるキリスト(救い主)が近づいた、そのように語っているのであります。そして「天の国が近づいた」、このメッセージから、ヨハネの伝道と、主イエスのガリラヤでの伝道が始まったのです。何よりもまず神様の方から近づいてくださったというこの確信、救いの確かさを信じているからこそ、伝道していくことができる。私たちの伝道の出発点も、この救いの確かさを信じ、委ねるところから始まるのです。

天の国が近づいたという神様の先行する御心を聞いている私たちに、ヨハネとそして後に主イエスも言います。「悔い改めよ」と。天の国が近づいた、だからもう大丈夫だ、安心していいとは安易に言わないのです。「悔い改めよ」、と言われる。「悔い改め」、それは「方向転換」するということです。何からの方向転換かと言いますと、「罪」からの方向転換です。罪の悔い改めです。神様の方に方向転換する、立ち返るということであります。自分の所業を反省するとか、悪い習慣を改善していくという自分自身の出来事ではなく、自分の存在そのものを神様に向けていくということ、生き方そのものが変えられていく、180度思いが変えられていくということです。そのような壮大かつ厳格な神様からの中心的なメッセージを、ヨハネは「荒れ野」で説いたというのです。荒れ野という場所は、砂漠ではありませんが、旧約聖書の記述によれば、草も木も作物も実らない荒涼とした土地を指します。そして「荒れ野」とは、「寂しい、人里離れた」という意味がありますように、人々が全然住んでいない活気のない場所でもあります。ですから、この荒野とは、命の兆しというものをほとんど感じない、人が避ける場所、伝統的に悪魔が住む場所とされてきた所、闇であり死の象徴を指し示している、まして神様の恵みなどなく、神様など存在しないかのような雰囲気に満ちた場である、そう言えるでしょう。しかし、ヨハネは3節で「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』という旧約の預言者イザヤの預言をここで語るのです。荒れ野という命の兆しとは皆無な、まして神様の存在などほとんど見いだせないような場所で、ヨハネは神様の言葉を、叫び続けたのです。私たちは自分の住まいを考えるとき、または商売をされる方は、その土地を徹底的に調べます。立地の良い場所を探します。人が集まるところ、交通の便が良いところ、買い物が便利なところ、または作物が豊かに育つのどかなところ、いづれも荒れ野とは無縁なところに住みたい、お店を出したいと考えます。人々が賑わう場所、作物が豊かに実る場所に神様の恵みを感じます。神様がそこにいてくださると感じます。神様との出会いがそこにあると感じることがあります。しかし、神の御言葉は、ヨハネの叫び声を通して、荒野で響いているのです。人々が関心を持たない、この世で価値を見いだせないような場所でこそ、神は語られる、神様との出会いがそこにあるのです。そのためには私たちが荒野に行かなくてはなりません。荒野に目を向けなくてはなりません。荒野という闇、死を覚える、さらに自分たちもその只中で歩んでいる、この世の価値観とは異なった、いや全く逆の世界に目を向けるのです。私たちの思い、イメージからかけ離れた神の世界です。そこに立ち返れとヨハネは言うのです。

不思議なことに、このヨハネの叫び声を聞いて、パレスチナとユダヤ全土、ヨルダン川の地方一帯という広範囲における人々がヨハネのもとに来たのです。その中には、神様の律法を守り、敬虔な信仰生活を送っているファりサイ派やサドカイ派の人もいたのでした。罪を告白し、悔い改める人々にヨハネは洗礼を授ける一方で、大勢のファりサイ派やサドカイ派の人に対して、ヨハネは厳しい言葉を投げかけます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(7―9節)このヨハネの言葉は、彼らの思いをそのまま露呈していると言えるでしょう。彼らの思いの中には「悔い改める」ということがなかった。自分たちは神様から選ばれた神の民イスラエルの民であり、神様の怒りからは遠く免れている。アブラハムという信仰の父を祖先に持つのだから、自分たちは神様から近い、救われるに値する者だと自負していた。彼らにとってヨハネの洗礼は水という清めの徴、神様の祝福というイメージだけがあったのかもしれません。だからヨハネは彼らに迫った、いやむしろ彼らのその思いの中にこそ、罪深さがあると、彼らの罪を指摘したのです。場所は荒野でも、彼らの思いは、荒野にあらず。もう神様の救いが自分たちの中で自己完結している、ヨハネから洗礼を授かっている人を日和見しているかの如く、自分たちを特等席に置いた。ヨハネは彼らのそんな思いを打ち砕くのです。神様は荒れ野に転がっているその辺のちっぽけな石からでも、アブラハムの子ら、すなわちあなたがたをいともたやすく作られると言います。それはすなわち、アブラハムという信仰の父を祖先に持とうと持たなかろうと、あなた方は信仰深いという存在どころか、その辺のちっぽけな石、信仰なんて全く持っていない存在であるとヨハネは言うのです。さらに、ヨハネは神様について語っています。石からも作られる、すなわち「創造主」であるということ、命の神であるということを証ししているのです。ヨハネがここで証ししている創造なる神様ということは、当然彼らを含めた私たち人間は神様の「被造物」ということでありますが、それは大きな意味があります。それは関係するということです。神と人との関係です。神様と一人一人との関係です。関係する神、交わる神が証しされている。関係する、交わるということは、時間的、場所的な有限性というものはないのです。信仰の父、アブラハムの子孫であるイスラエルの民、選ばれた神の民ということは、それはもう救いが約束されていて、安全が約束されている、だから神様から自立していくということではない、絶えず神様との関係において、共に歩んでいく、その過程において、救いが示されている。だから絶えず神様の元に立ち返れとヨハネは言うのです。救われるということは、ただ一回きりの神様からの恵みを受けるということではなく、神と共にある今の自分、神に従う今の歩みの中で、体験している出来事、すなわち信仰の旅路、救いの道への只中で経験していくことなのです。

繰り返しますが、天の国が近づいた、ヨハネも主イエスもこの言葉をもって、宣教を開始しました。しかし、ヨハネはその神様の御心を10節で「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と受け止めたのです。斧は既に木の根元にあり、いつ切り倒されてもわからない、こう譬えられるように、神様の裁きはいつきてもおかしくないと、それほどまでに激しいことを語られているのです。自分が授ける水の洗礼が救いの徴となるとは言わない、だから次の11節でヨハネは「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが」、とここまでしか語らないのです。悔い改めに導くとまでしか言わないのです。だから大勢のファリサイ派やサドカイ派の人に対して、悔い改めにふさわしい実を結べというのです。実を結べということも、まだ実がなっていない、悔い改めになっていないというのです。ヨハネは自分が、キリストでない、救い主ではないと断言しています。だから、11節の続き、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」そしてヨハネは、救い主の御業について「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と預言します。真の洗礼を授けられる方、聖霊と火における洗礼、真の洗礼は、実った麦は倉に入れられ、使い物にならない殻は火で焼き払われるように、神様の裁きというふるいにかけられる。使い物にならない殻、それは神様に悔い改めない罪人はその火で焼き払われる、とこう言うのです。しかし、この差し迫る神様の裁き、火で焼き払われるように、十字架の死を遂げたのは、「天の近づいた」と自ら宣言なされた救い主イエスご自身に他ならないのです。

天の国が近づいた、ヨハネは悔い改めに導く洗礼を私たちに伝え、主イエスご自身は、十字架の死という自らの御身をもって、罪の贖いという救いの完成を実現されたのです。そのキリスト、その救い主こそが私たちが待ち望む主イエスであります。今この時を待つ私たちは、洗礼者ヨハネを通して神様に悔い改める時でもあるのです。それは荒野において、闇に覆われた只中で、自らの罪と向き合いつつ待ち望むという時であります。

私たちは、この礼拝に招かれ、罪の告白を通して、洗礼という恵みを日毎に思い返します。まだ洗礼を受けておられないかたは、神様が今あなたを招いています。洗礼を受けてからも、わたしたちは神と共に歩む、悔い改めにふさわしい実を結んでいく、それは絶えず神と共に歩む、神に対して生きていくということなのであります

昨日は大高芭瑠子姉の納骨の祈りが執り行われ、次の御言葉が与えられました。
イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネによる福音書11章25~26)
この御言葉を聞き、死という闇の只中で、まさに荒野の只中にある私たちに、復活の光、希望が神様から示されました。そして納骨の際に、骨壷や写真だけでなく、おふたりの洗礼章がいっしょに収められたのです。私はそのときローマの信徒への手紙6章1節~12節の、言葉を思い起こしました。ここでは罪に死に、復活のキリストに生きるという新しい命に生きる、その出来事が洗礼であるということをパウロが語っているところでありますが、6章10―11節の言葉にこういう言葉があります。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
キリストに結ばれて、神に対して生きている、肉体的な死を遂げた後も、神の側では生きている。神に対して生きているという慰めの言葉が同時に与えられました。私たちが自分の洗礼を思い起こすということは、日毎に悔い改めて、神様の方に向き、神に対して生きていく、そういうことであります。逆に言えば、私たちが神様と共に歩み、神様に対して生きていくということは、悔い改める、神様の元に立ち返っていくということの繰り返しであります。

神様の御言葉は「荒野」で叫び続けられています。私たちも闇を経験し、人の死を経験します。命の兆し、その輝きを見失う時がある。生きる希望を失う時がある。そこは荒野です。荒野の中を歩んでいる私たちの姿がある。そこにこそ神様の御言葉が聞こえてくる。そして、クリスマスの時、あのみすぼらしい「飼い葉桶」というところで、そこもまた荒野に象徴されるように、夜、闇という暗闇の中で、神様の御言葉が肉体となった救い主イエスキリストが降誕されたのです。「荒れ野で叫ぶ者の声」が救い主となって実現する、今その希望を抱いて、このアドベントのひと時を共に過ごしてまいりましょう。天の国は近づいたのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年12月1日 待降節第1主日 「救いの創始者」

マタイによる福音書21章1〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

教会の新年とも言えます、教会暦の始まりの時が私たちに与えられました。教会暦は救い主イエスキリストのご降誕を待ち望む待降節、アドベントから始まります。アドベントとは、アドベントゥスというラテン語から来た言葉で、「~に向かって接近する、近づくという意味です。」それは私たちの救いのために、神様が接近してくださる、近づいてくださるということです。その神様の御心を顕すために、御子イエスキリストがこの世に遣わされる、その時を待ち望むのがアドベントです。

この教会暦の始まり、待降節の第1主日に毎年私たちは主イエスのエルサレム入場の場面から御言葉を聞きます。福音書全体の後半部分、それはエルサレムでの伝道が展開されていく場面ですが、その旅路は十字架に向かっています。死への旅路であります。十字架へと赴く、この主のみ姿に、救いの始まりをもたらす、救いの創始者としてのキリストを見出す、教会暦の始まりに私たちが聞くべき大切な御言葉であります。

主イエスのエルサレム入場を迎える人々は活気に溢れていました。人々は主イエスのエルサレム入場を、歓呼の声を持って、歓迎したのです。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
(21:9)ホサナ、それは「主よ救ってください」という言葉、今すぐに救ってくださいという人々の期待が込められた声でした。主イエスご自身のことは既にエルサレム中に広まっていました。待ちに待った救い主がやっと自分たちのところにやってきた、人々は「自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。」とありますように、旧約聖書に描かれている新しい王様を迎えるようにして、主イエスを、期待を持って迎え入れたのです。そして、その王様としての姿は、かつてのイスラエルの英雄であるダビデ王に重ねていました。ダビデ王がもたらしたかつての繁栄を再び垣間見ることができる。神様が約束してくださった救いとはこういうことだ、彼らはそう信じて疑わなかったはずです。しかし、期待の声は、数日後に裏切りの声に変わってしまうのです。「十字架につけろ」と。それは憎しみの叫びだけではありません。失望の叫びでもあり、諦めの叫びでもあります。こんなはずではなかったのに。あれだけ歓呼の叫びをあげた自分自身に失望する、後悔する、期待を裏切られるという体験をしたものの叫びです。現実を受け入れたくない叫びだけがむなしく木霊しているのです。

彼らは主イエスを王様として迎えた、そのイメージはダビデ王と重なりました。しかし、ダビデ王の繁栄の先には国の分裂、滅びが民に待ち受けていたのです。国も家族も財産も失い、彼らの祖先は囚われの身となったのでした。その最大の原因は、「偶像崇拝」という彼らの思い、心にありました。神様を信頼できなかったのです。力強く、豊穣をもたらす神様を求めた、期待が持てる神様を求めた。すぐにでも自分たちの苦しみを解き放ってくれる期待通りの存在を頼みとしたのです。しかし、それは自分たちの「期待」という枠にはめた制限された神様、ようするに人間が造った神様です。突き詰めれば、そこで立場は逆転している、人間が神様となっている、そういうことです。

自分の期待通りにことがはこぶ、それは喜び、楽しみだけがあるということでしょう。それだけが私たちの人生でしょうか。いやでも私たちは苦難や困難を経験しなくてはなりません。されど、その只中にあるからこそ、人生の意味が見えてくる、生きるという活力が生まれるのではないでしょうか。それを示してくださるのが、今まさに人々の前を行かれる、十字架へと向かわれる主イエスのみ姿にあります。ここに旧約の預言が記されています。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(21:5)そして、この預言が実現します。弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(21:6-7)馬ではなく、ろばに乗って、主イエスは入場しました。荷を負うろばです。馬に跨って、華麗に駆け巡ったのではなく、ろばに跨って、とぼとぼと歩まれた。馬に跨って、王としての威厳を人々に示したのではなく、ろばに跨って、荷を負うろばのように、重荷を背負われた。馬に乗り、爽快に駆け抜けるかのように、順風満帆な人生を歩んでいくということではなく、ろばに乗り、とぼとぼと一歩一歩歩む。それは様々な問題とぶつかり向き合いながら、決して思い通りにはならなくとも、その時その時に新しい発見があり、視点が与えられ、今までに見えなかった美しさが備えられていることに気づかされるということ。神様を受け入れられる始まり、それは期待通りの自分が造った神様ではなく、困難や苦難の中で、全てを失い空っぽになった自分の中に、受けいれられる隙間ができるから、その方を受け入れることができるということです。期待で胸がいっぱいだと、どこにも隙間がない、受け入れられる隙間がないのです。

今日は12月1日です。日本人の学生にとってはとても重要な日です。それは就活解禁日という日だからです。2015年の内定が決まる就職活動(就活)が始まった日です。そんな中、株式会社マイナビが「2014卒の学生を対象に就活時に受けたプレッシャーについてアンケート調査をした」というニュースの記事がありました。実に8割以上の人が就活にプレッシャーを感じたそうです。他にいろんな声がアンケートに載せられていましたが、その中で、「就活の失敗は人生の失敗」、「内定が取れないということは、自分は社会から必要とされていない、自分を否定されたと」いうアンケートの答えがありました。例年景気の悪化という状況の中で、就職活動に関する苦労話というのは日常茶飯事に聞きますが、この答えからして、自体は相当に深刻であるということを受け止めざる得ません。肉体的にも精神的にもきつい中で、頑張って就活しているのに、全然報われない、全く期待通りの結果にならない、就活生は全員というわけではありませんが、ほとんどの方がいやでもそのことを体験します。そして人生の挫折以上に、自分の人生全体に亀裂が走る、自分の存在すら危機的な状況を迎えるという深刻さを味わう。決してそれは大げさな声、思いではありません。本当に助けて欲しい、救って欲しいという切実な願いです。しかし、それは果たして仕事が得られれば、問題が解決する、救われるのかというと、そうではないということを私たちは知っています。そこで働いていけるという保証はどこにもないし、必要とされていたのではなくて、実は利用するために過酷な労働をさせるという話はいくらでもあるからです。そこでは人生の失敗では済まされない、人生の滅びという状況に遭遇するかもしれない、また自己否定ではすまされない、自己の消滅を招くかもしれないのです。ルカによる福音書9章25節に「人はたとえ、全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何の得があろうか。」という主イエスの言葉がありますように、たとえ期待通りの、順風満帆な就活ができても、現場に行って働いてみないとわからない、働く、働いていくという実存的な自分の土台を築いていけるという確証はないのです。されど、就職活動に限らず、人生の失敗、自己が否定されない安全な生き方などあるのでしょうか。むしろ、私たちは常に、そういった状況の中で、人生を歩んではいないだろうか、その只中でしかやり遂げられないことだってたくさんある、気づかされることはたくさんあるのです。

主イエスはろばに跨り、静かにゆっくりと、みすぼらしく十字架への道を歩んで行かれます。そして人々から罵られます。救い主としてのご自身の存在を否定され、歪められます。彼らの手によって、十字架につけられ、死を迎えます。彼らへの伝道が失敗したかのに、無駄であったかのように、壮絶な最期を迎えるのです。しかし、それで終わったわけではない。三日後に復活したのです。それは彼らの期待が答えられたのではなく、全世界の人が救われるという出来事が起こったということ、人生の終着点だと思われていた「死」が滅ぼされたのです。私たちの期待とか願望といった枠を破って、神様の御業が成就した。完成したのです。救いの完成です。死が否定され、生が、存在が根本的に肯定されたのです。その救いをもたらすために、救いの創始者として、主イエスは子ろばにまたがり、人生の失敗や困難、苦労を担いつつ歩む私たちと共に歩んでくださるのです。神様は近づかれた、救いは近づいているのです。

だから、救い主イエスは私たちの、まさにろばに跨り期待通りの順風満帆な人生ではない私たちの歩みの中にこそ来てくださったのであります。人生の失敗、自己を否定されつつも、神様は御言葉を通して、あなたに語り続けます。この価値観に縛られ、奴隷にならないようにと、新しい命、歩みに私たちを立たせて下さる。

旧約の預言は「ろばに跨る柔和な王」を記しています。マタイ福音書11章28~30節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」という主イエスの言葉、招きの言葉があります。主イエスは柔和な方です。私たちを受け止めてくださる柔和、包容力のある方です。そしてわたしのもとに来なさい、わたしに学びなさいと私たちを招かれる。主イエスの軛を共に負わせていただく人生。その荷は軽いと言われます。苦労が減るとか楽な人生が歩めるとか、そういうことではありません。わたしたちが背負う重荷、困難、苦労です。しかし、私たちの重荷を真に重荷にしているのは、私たちが抱いているもの、期待するものです。それ故に、重たくなる重荷という重荷を背負う人生。その重荷からこそ主イエスは軽くしてくださるというのです。それらの縛りから開放してくださるからです。

日々忙しさの中に私たちの歩みがあります。重荷に押しつぶされてしまうほどのプレッシャーを感じます。結果だけを見つめて、真実を見失います。理想や期待の果てに疲れを経験します。そんな私たちを主イエスは招かれるのです。休ませて下さり、真実を語ってくださる。よけいな重荷を降ろして、生きるために必要な重荷を共に背負って下さる。御言葉を通して私たちにそう神様は語られる。少し荷が軽くなりませんか。期待通り、理想通りにいかないという重荷を手放して、主イエスという軽いくびきを共に背負い、共に歩んでまいりましょう。神様は近づいておられる。だから、あなたの救いのドラマはもう始まっているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年11月24日 聖霊降臨後最終主日 「キリストを迎える」

ルカによる福音書21章5〜19節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先週の木曜日、私と山口さんと、澤田さんの3人で、元村さんのご自宅を訪ねました。退院されてから初めて元村さんとお会いすることができ、至ってご本人はお元気な様子で、交わりのひと時を過ごし、聖餐の恵みに共に与ることができました。この時に、また入院されている時も元村さんはこういうことを言っていました。「まさか自分がこんなにも早く、このような病にかかり、不自由な状態になるなどとは夢にも思いませんでしたよ。それに自分だけがそう思っていたわけではなく、周りの人からも、私は人一倍健康で、病とは縁がないのだろうと言われていましたから、尚更今の状態が信じられませんでした。健康な内は、自分はいつまでも健康で、何でもできて、好きな所に、好きな時に行ける。そんな自由があった。自分の肉体が思い通りになると思い込んでいました。しかし、今回このように病を患って、苦しみを経験して、自分の肉体を初めて知りました。いつまでも健康でいられると思っていたけど、それ故に、かなり無理をしていたのだと振り返れば思い起こしますね。今思うことは、今まで自分が守られ、支えられてきたのは、信仰のおかげだと思います。」元村さんが言われた信仰のおかげというのは、神様との関係において、その交わりにおいて自分が生かされてきたという感謝の思いから出た言葉だと思います。元村さんのこの言葉を聞いて、私は、自分の力でなくして、他者のおかげ、他の力において生かされている自分の存在というものに改めて気づかされました。自分の思い通りになっていると思える自分の肉体、自分の人生が、どれほどはかなく有限なものであるか。病を患ったり、傷ついて初めて知ることができる自分の欠けというもの。私たちは普段そういうことをあまり認識しません。認識できないのかも知れません。そうすると、感謝をしなくなる、祈らなくなる、物事の結果だけを見つめて、損得勘定に縛られる。うまくいかないと、そこに生じるのは不平不満が多く、理不尽さにばかり目が行き、なかなか自分を顧みようとすることができなくなってしまう。自分の欠けというものに気付くことができないものです。

どんなに立派で、どんなに美しく、どんなに力強く雄々しいものでも、形あるものはいずれ崩れ落ちる。私たちの目に見えるこの世界は有限なるものに満ちています。私たちはそのことを知っているようで、知らない。知る機会が非常に少ないのかも知れません。

今日の福音の冒頭で、ある人たちが、見事な石と奉納物で飾られている神殿について話し、それに見とれている場面があります。この神殿とはエルサレムの神殿です。彼らが見とれていたその時代の神殿は、クリスマス物語に登場するあのヘロデ大王が増築し、立派なものにしたものだと言われています。イスラエルの王様としての立場と、その自らの権力と繁栄を象徴しているのが美しく装飾されているこのエルサレム神殿です。その神殿に見とれている人々に対して、主イエスの言葉は手厳しいものです。この立派な神殿も、あとかたもなく、崩れ去る日が来るだろうと予告するのです。この神殿も人間が造った有限なものの一部に過ぎないと言うことです。

彼らは戸惑いを隠せなかったでしょう。ただ事ではない、大変なことが起こる、そういった不安な思いから、主イエスに尋ねたことでしょう。「そのことはいつ起こり、どんな徴があるのですか」と。主イエスは予告します。天変地異があり、戦争があり、人々の間に混乱がると。だから、惑わされるな、怯えるなと言われます。しかし、主イエスがここで語っているのは「世の終りとはこういうことだ」ということではありません。世の終りはすぐには来ないというのです。世の終り、終末と聞けば、私たちは全てのものの滅びを想像します。それが天変地異や戦争などによって引き起こされるかと考えます。主イエスの言われる「終わり」とはそういうことではない、それらは世の終りに来る前の徴に過ぎないというのです。ですから、完全な滅びが「終わり」ではない、その先があるということです。

「終わり」という言葉ですが、英語ではEND。誰でも知っている簡単な英単語ですが、このENDは他にも「目的」という意味があります。ここで使われている「終わり」という言葉も、元の原語では「テロス」という言葉ですが、この言葉も「終わり、目標、目的」という意味があります。目標、目的があるのです。物事には終わりがある。終わりがあるのは始まりがあるからです。その目的は始まりからあります。どんな目的を持って、物事を終えるのか。様々です。世の終りという主イエスが言われる目的は何でしょうか。神様が創ったこの世界、そこに終わりが来る。神様が目的を持って、この世を愛するためにこの世界を創られたのですから、終わりにも意味があります。それは完全な救いです。主イエスキリストが再びこの世に来られて、死者が復活する。ようするに死が滅ぼされるのです。その救いが完成される、成就するということ、それがこの世の終わりです。神様の全き愛の内に、この世界にはじめと終りがある。ですから、終わりには希望が示されているのです。その希望を見据えて、今の私たちの生き方が問われています。しかし、先に希望があるから、もう安心だ、何もしなくていいとは、聖書は言わないのです。12節以降で語っている主イエスの言葉は、そういうことです。

世の終り、終末の徴の前に、迫害が起こる、牢に投獄される。家族と言う身近な人にさえ裏切られ、殺される者も出てくる。そんな嵐の只中に置かれている現状で、主イエスは19節で言います。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」世の終り、終末の徴の前に、今の私たちに主イエスはこう語ります。忍耐するということ。私たちは忍耐を教えられます。忍耐を経験します。そういう時がある、でもそれは一時的なこと、特別なことで、普段は忍耐しない、そもそも忍耐なんて出来れば誰しもしたくないと感じるのではないでしょうか。重荷を背負いたいと思いますか。忍耐することを教えられたって、理不尽なことに遭遇すれば、忍耐するどころか不平不満がまず出る。なんで自分がこんな目に合わないといけないのかという本音が出る。今遭遇している環境を嘆き、自分の苦しみを知ってほしいと訴えたくなる。そういうことはよくあります。そして、忍耐できるとすれば、その先に希望があるという確信を抱くという理解があります。「忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というパウロの言葉を聞いたことがあるかと思います。希望があるから、忍耐できる。教会も激しい迫害下の中にあって、彼らを支え、希望を与えたのは、主イエスキリストが再びこの世に来られるという希望を抱き続けたという側面もあるからです。

「忍耐」という言葉ですが、主イエスは19節で「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言いました。忍耐してとは言わず、~によってという手段です。逆説的に言えば、忍耐しないと、命はかち取れないということです。「忍耐」という言葉を原語で調べますと、ふたつの言葉から成り立っていることがわかりました。ひとつは「重荷の下で」、もうひとつは「とどまる」という言葉です。合わせて「重荷の下で留まる」ということです。主イエスがぶどうの木のたとえ話で、「私にとどまりなさい」と言う招きの言葉を私たちに語っています。ぶどうの木である主イエスに、枝として私たちが結びつく、そこに留まるということです。主イエスが共におられるということは、忍耐するということです。忍耐するということは、重荷を背負います。主イエスの名によって、王や総督の前に引きずり出されるということは、主イエスに名に留まる、忍耐するということです。

「命をかち取りなさい」、この命は「魂」とも訳せます。単なる肉体的な命のことだけを指しているわけではなく、私たちの生き方、人生そのものと言えるかもしれません。忍耐する、主イエスの御許に留まるということは、主イエスの復活の命に与るとも言えるでしょう。復活の命に与るということは、古い自分を殺すと言うことです。古い人に死に、新しい人に生きる。そうしますと、忍耐するということがどういうことなのか、具体的になってくる気がいたします。

昨日、私は、山口さんと一緒に、渡辺和子先生という、カトリックのシスターの方の講演を聞きに、立教大学まで行ってまいりました。以前説教の中でも、渡辺先生の本をご紹介したことがありましたが、渡辺先生は岡山県にあるノートルダム清心学園の理事長をされている方で、かなりの高齢の方ですが、未だに週4回ほど学校の授業を受け持ち、さらに年に50回ほどの講演をするために、全国を回っておられるお忙しい現役の先生です。昨日初めて先生の講演を聞く機会が与えられました。昨日の講演のテーマは「幸せのありか」という題でした。「幸せ」、一生をかけて模索する大きなテーマだと思います。また人の数だけ定義があるテーマだと思いますが、先生は御自身の体験を語られつつ、幸せになるということは、自分が変わることだと話されました。幸せになりたいと思うことは、今の境遇に満足できない、今の自分が不幸であると思う時かも知れません。自分の不幸を周りのせいにする、他人のせいにする。理不尽だと思い続けて、それさえなければ、その境遇から抜け出すことができれば幸せになれるという思いを抱くものです。先生も周りの環境における自分の立場に関して、不平や不満、理不尽さを抱いていたとご自分で話されていました。そんな時に、ある修道院の方から、「自分が変わらなければ、どこへ行っても同じだ」と言われ、そこで気付かされたと話されていました。自分から変わり、相手を幸せにするということは難しいことだと思いますが、周りに期待して、自分の幸せを待ち望むということを抱き続けることには先がないように思えます。幸せな生き方というのは何を持ってして幸せだと言えるのかはわかりませんが、やはりその与えられた境遇で自分自身が積極的に変わっていく、相手を受け入れるということにおいて、そこに留まることができるのではないでしょうか。

忍耐するということも、ただひたすら我慢して留まることではなく、欠けたる自分自身に気づき、変わる事だと言えます。自分のまわりは迫害だらけ、自分を傷つける人ばかり、そんな嵐の只中に私たちの人生があります。その嵐が過ぎるのを期待する以前に、既に自分がその只中で変えられていく。傷つけられ、困難を経験し、悲しみを担い、思い通りに行かない中で、自分を見出す。普段気付かない真の自分と言う存在。そして自分の欠けを見出すのです。主イエスの御許に留まり、新しい命に生きるようにと、私たちは招かれています。その新しい命に生きるということは忍耐すること、自分自身が変えられていくことです。

主イエスは世の終りにおける、救いの完成という希望を私たちに告げています。同時に、迫害の只中、人生の嵐の只中に生きる私たちに「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と語られます。この言葉もまた希望の言葉として受け取れるのではないでしょうか。忍耐する、不平不満、理不尽だらけの只中でこそ、自分が変えられていく、真の命を生きられるようにと、主は招かれる。主イエスキリストの再臨という世の終りにおける未来においてのみ主イエスがおられるということではなく、私たちの御許に留まり、忍耐できるその確信は「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)と主イエス御自身が言われた御言葉に見出されます。

本日は教会の大晦日と言われる聖霊降臨後最終主日。来週から新しい教会暦になり、主イエスを待ち望むアドベントに入ります。本日はその準備のために、教会の大掃除を致します。教会をきれいにするということは、救い主をお迎えするという新たな思いと重なりますが、この掃除のことで小杉さんとお話をしているときに、小杉さんはこうおっしゃってくださいました。「先生、今日の大掃除は普段私たちができない、見落としている箇所を重点的にやりましょう」。見落としている箇所、気付かないところの清掃。自分の欠けになかなか気付けない私たちも、御言葉を通して、普段気付かない自分と言う存在に気付かされます。自分を知るということ、しかしなかなか自分は変えられない、そして自分を清めることはできない。自分だけでは・・・。だから、私たちのところに救い主が来て下さる。世の終りまで共にいてくださるキリスト、この方を自分の中に迎え入れ、日毎に私たちを変えて下さり、清めて下さる。そのキリストに信頼して、終末に向けて、今を生きていく。キリストと共に、私たちは古い人(自分)に死に、新しい人(自分)に生きるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。