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2013年11月17日 聖霊降臨後第26主日 「生きている者の神」

ルカによる福音書20章27〜40節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音は、サドカイ派と言われる、ファリサイ派とは異なるイスラエルの宗教的権威者たちが「復活について」主イエスに尋ねるところから始まりますが、彼らは復活について関心があり、知りたい、学びたいという意図をもっていたわけではなく、復活を「否定」していたのでありました。彼らは尋ねます。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』彼らが持ち出した内容は、結婚についての掟ですが、どちらかと言えば、家を存続させるということに焦点が当てられています。そして、サドカイ派の人たちは、7人の兄弟のお話をします。お話の結論は、ひとりのお嫁さんがこの7人の兄弟全員と結婚しますが、結局どの兄弟の夫との間にも子宝に恵まれず、その後7人の兄弟とお嫁さんは死んで、その後もし全員復活したら、このお嫁さんは誰の夫になるのかということです。お話の内容から見て分かるように、彼らにとっての復活とは、現世における掟や常識、価値観といったものを判断基準として、考えていることです。ですから、当然矛盾が生じてくるわけです。この矛盾をイエスよ、あなたはどう答えるかと、彼らは訪ねているのです。そもそも彼らは復活を否定しているのですから、7人の兄弟とお嫁さんがもし復活すれば、矛盾が生じてくると考えるわけです。Read more

2013年11月10日 聖霊降臨後第25主日 「あなたが必要だ」

ルカによる福音書19章11〜27節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「ムナ」のたとえ話が本日の福音として与えられました。主イエスがこのたとえ話を話された理由は、「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」と11節で言っています通り、神の国がすぐにでも現れるという人々の思いが根底にあったからです。彼らは神の国という救いを、主イエスのお姿とその行為に期待していた人たちでした。具体的に言えば、自分たちの国を支配していたローマ帝国を、メシア、すなわち救い主として来られた主イエスが力と知恵を持って滅ぼし、ローマ帝国からの圧政から解放をもたらしてくれるという期待を抱いていたということです。それは目の前にある困難、労苦から解放してくれる者への期待、私たちも抱く期待であります。そして思惑通りに事が進み、解決すれば良いのですが、それが期待していた結果とは大きく異なりますと、期待が裏切りに変わり、果てには憎しみを抱いてしまうことでしょう。

主イエスがこの地上に来られた目的は、今日の福音の前の箇所であります10節の言葉に「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と主イエス御自身が言われている通りです。人の子は救い主、主イエス御自身です。そしてここでは、徴税人ザアカイの物語が記されています。神の国がすぐにでも現れることに期待していた人々は、徴税人ザアカイのことを「罪深い者」であると認識していました。罪人として、人々の前に出ることが出来ず、木に登っていたザアカイは、主イエスにお声をかけられ、木から降りて主イエスの御許に行き、主イエスの要望(ザアカイの家に泊まる)に応えて、自分の家に主イエスを迎え入れました。主イエスは彼の家に救いが訪れたことを宣言します。ザアカイも「失われたもの」でした。ですから、この主イエスの救いの宣言が物語っていることは、彼が神の愛を体験し、自分と言う存在が受け入れられ、自らを必要としてくれたという思いに立つことができたことであると言えるでしょう。失われたものを彼は取り戻したのです。ローマ帝国からの解放を期待する人々の価値観は、この世の価値観、彼らから見れば、律法に生きる価値観、神様の前に信仰深く正しく生きる価値観であります。それは自分たち人間を基準とした価値観、すなわち、勝ち負けがあり、優劣における人としてのステータス、結果ありきの世界、実力のある者が生き、無き者は死ぬというこの世の常であります。私たちもその世界に生きているのです。そして私たちも、この世界で時に自分を失います。愛されない、受け入れられない、必要とされない、そういったことを経験しますし、今そういう状況にある人との出会いが与えられているのです。主イエスは私たちを、そういった人たちを尋ね求めます。力でも知恵でも理屈でもない、それらを越えた真の価値、生きる価値に救い主は私たちを招くのです。

さて、たとえ話に入りますが、ある立派な家柄の人、貴族とでも言いましょうか、彼は王様のくらいを受けるために、他国に旅立ちます。その時、10人の僕に留守を任せると同時に、10ムナというお金を彼らに託して、その利益、成果を期待しながら、旅立ちました。僕たちは10ムナを10人で、一人1ムナを預かります。しかし、この貴族は国民からひどく嫌われていました。彼が王様になることを拒んでいたというほどの拒絶感、嫌悪感を人々は抱いていたのです。わざわざその大きな国に遣いを出して、王位の称号を与えないでほしいと懇願するほどでありました。そして貴族が嫌われていたので、当然この10人の僕たちも嫌われていたでしょう。

国民の期待とは裏腹に、王様の称号を与えられた貴族が帰ってきました。僕たちが早速報告します。1人目、2人目は利益を生み出したことを報告し、王様から良い僕として認められ、褒美が与えられますが、3人目は違いました。彼は与った1ムナを布に包んでしまっておいたというのです。その理由として、彼はこの王様を恐れていたからだと弁明するのですが、王様は逆に問い返します。「本当に恐れていたなら、何でそんなただの布きれに包んでいるだけなのだ、銀行に預ければ利子を得ることができたのに」と。そしてその僕の1ムナは、10ムナもうけた僕に行き渡り、最後に王様は、自分を拒絶していた国民を打ち殺そうとするのであります。なんとも後味の悪いお話という印象を持ちますが、王様が出てくるこの譬え話の後に、28節からは、主イエスのエルサレム入場のお話が続きます。ここでも王様が描かれています。それは立派な馬に乗っている王様としての主イエスのお姿ではなく、みすぼらしい子ロバに乗った、とても王様とは思えないような姿として描かれている主イエスのお姿がそこにあります。マタイ福音書では、この主イエスのお姿を「柔和な王」という表現が預言者の言葉から取られています。ですから、一見すると、続くふたつの物語に出てくる王様は別々の人と言うイメージがあるのですが、ルカ福音書がなぜ、このエルサレム入場の前に、このムナのたとえ話を記しているのかということを考えますと、このたとえ話に出てくる王様もまた、主イエスのお姿と重なってくるからであります。しかし、国民から嫌われ、3人目の僕を叱責して与えた1ムナを没収し、挙句には自分を嫌っていた国民を打ち殺そうとする王様の姿の中に、主イエスと言う救い主、柔和な王様というイメージをどこに彷彿とさせるのでしょうか

主イエスのエルサレム入場を、歓呼の声で迎えた人々は、後に主イエスの教え、行為に失望を抱いて、主イエスを憎みます。主イエスは捕えられ、茨の冠を被せられ、その頭の上には「これはユダヤ人の王」という皮肉を込めた札が掲げられました。そして十字架につけられ、殺されます。たとえ話に出てくる王様も国民から憎まれていました。しかし、最後の27節で、王様は彼を憎んでいた人々を打ち殺そうとするのです。主イエスとはやはり違う王様だと思うのですが、27節の王様の言葉が人々に対する神様の裁きを現すならば、主イエスの十字架はその神様の裁きを、人々の代わりにご自身が受けられたということです。主イエスはこの裁きの言葉を語ると同時に、自ら身をさらけだして、十字架につかれるのです。この十字架を背景にして、たとえ話は描かれているのです。

王様は僕たちにムナという賜物を与えました。国民の憎しみの目、拒絶感、嫌悪感という鋭い眼は、僕たちにも向けられています。迫害という目を向けています。与えられたムナで利益をあげるということは、迫害の目を向けている国民たちに、この世に出て行くことです。挫折、失敗、困難の連続、そして殉教を経験したことでしょう。しかし、3人目の僕はこの世に出て行きませんでした。国民から憎まれていた王様を恐れたというよりは、それはあたかもペトロが人々の目を恐れて、主イエスを見捨てたかのように、この僕もまた、自分に対する国民たちの目、この世を恐れた故に、ムナ(賜物)を隠し、王様の僕としての姿を隠していたのかもしれません。3人目以降の僕にも、そういう人がいたのかもしれませんし、私たちもまた、この僕の姿と重なるのかもしれません。しかし、王様は10人の僕全員にムナを与えられました。3人目の僕に対しても同じように与え、この僕が王様にどんな思いを抱いていたとしても、王様はこの僕を必要とされたのです。

主イエスは失われたものを捜し求めて救われる方です。様々な動機がありますが、この教会に導かれ、この礼拝に招かれた私たちもまた、うしなわれたものであり、主イエスによって捜し求められ、見出されたものであると言えましょう。主イエスもこの王様と同じく、私たちに「ムナ」という賜物を与えられます。このムナを用いて、この世に出て行くことを命じます。このムナという賜物は人それぞれの「才能」とも言えますが、このムナは、もともとは10人の僕全員に、そのまま与えられたのです。1人1人というより、10人の群れに与えられたのです。僕たちはそれを分け与え、ある者は利益を生み出し、ある者はそれを損失したのではありませんが、無駄にしました。しかし、それが10人の群れに与えられた共通の「ムナ」という見方からすれば、このムナをどのように用いるかということは、1人目、2人目の僕と3人目の僕、どちらの姿の可能性にも見てとれることなのであります。

私たち全員に与えられたムナという賜物、そう、これは「教会」であります。教会という共通の賜物、神様から与えられた教会を通して、私たちの群れは繋がっているのです。失われた者を捜し求め、救いの御手を主イエスが指しのばされたように、教会もまた主イエスキリストの御体として、救いの御言葉を伝える、伝道していく群れであります。神の愛を伝え、この世を愛し、この世に価値観に縛られている者と寄り添い、どんな境遇の中を歩んでいようとも、神様がありのままのあなたを受け止められる、あなたを必要とされる、その御心を伝えるために、教会が与えられた、教会に与えられたミッションに生きる私たちの姿が、このたとえ話に顕されているのです。1人目、2人目の僕の姿、教会の姿は、教会伝道の発展を告げているものかも知れませんが、3人目の僕の姿、教会の姿は、神様を恐れると言いつつ、教会内部の組織、伝統に固執し、自分たち人間の笏で教会の秩序を定め、この世の教えに妥協しているというものなのかも知れません。はたまた、伝道の困難さを、時代のせいにしたり、牧師のせいにしたり、信徒のせいにしたりなど、どこかに逃げ道を作ってしまっている教会の姿があるということも受け止めなくてはならないでしょう。ムナという与えられた教会を布でくるんでしまうかのように、教会が教会としての姿に立てなくなるという出来事を、私たちは歴史から学んでいます。「銀行に預けて、利子を得なさい」というこの王様の言葉、主イエスの言葉は、どんな状況にあっても、私たちの教会を必要とされ、広い視野を私たちに与えます。誤解を受けやすい極端な例でありますが、この言葉は収益事業についても考えさせられることであります。決して収益事業を奨励するということではありませんが、それを真っ向から否定するのではなく、例えば、その利益を献金するという用い方も考えられますし、その利益で、いずれは新しい会堂を建てて、新たな伝道の基軸とするという可能性も考えられるわけです。

主から与えられたムナという教会は2000年の歴史を歩んでいます。私たちはその限られた時代で教会に生きています。教会のミッションを背負っています。しかし、この礼拝に招かれるごとに、思い越してください。あなたと主イエスとの出会いを。主に信仰告白された御自分の揺るがない決断は、主があなたを捜し、必要とされ、あなたを救いに招き入れたという神様の恵みに先行するということです。そして、今も絶えることなく、あなたに注がれているということ、そして私たちの群れを結びつける教会に注がれているということを。そして、主イエス自ら投げかけられた神様の裁きの言葉を、御自身の身に受けられた主イエスの十字架の救いに生かされているという真実に生きる私たちの群れである教会は、キリストという真の王の再臨を、希望をもって待ち望む群れであるということを祈り願います。私たちはこの真の王様を、真に恐れつつ、喜びを抱き、恐れを抱かず、柔和な方であるという信頼をもって、心を開いて、このキリストを迎え入れれば良いのです。たとえこの世が求めている教会の姿でなくとも、その求めにただ妥協するのではなく、主は教会を、私たちを必要とされるが故に、主はムナという賜物を日ごとに与え続けてくださる、その信頼に立ちづけていくことができることを願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年11月3日 全聖徒主日 「神は生かす」

ヨハネによる福音書15章1〜17節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日は全聖徒主日の礼拝を守っています。教会の伝統では、11月1日が「諸聖人の日」として守られていますが、「聖人」という概念は、16世紀の宗教改革以前の教会(カトリック)におきましては、敬虔な信仰に生き、善行を積んで社会に大きく貢献した徳の高い人(聖人崇拝)を指します。宗教改革者たちはその概念を取り除き、キリスト者は全て聖人(聖徒)であると主張したので、プロテスタント教会では聖人崇拝と言う信仰はなく、ルターが言うようにキリスト者は全て神様の御前において「義人であり同時に罪人」でありますから、人間の善行や働きによって、信仰者としての区別が成されるという概念はないのです。

さて、この全聖徒主日礼拝におきまして、私たちの教会は先に天に召されました故人を覚えて、お祈りを致しますが、召された方はどうなったのかという疑問があります。本日礼拝後に地下納骨室の祈祷会で読まれます聖書の箇所でもありますが、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章13~14節で「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」とパウロが言いますように、神様の御許で眠りにつき、やがて「イエスと一緒に導き出してくださいます」とありますように、復活の初穂となった主イエスに続いて、死者が眠りから覚め、復活に与ることが約束されています。

では、私たち日本人にとって極めて重大なことでありますが、洗礼を受けずして亡くなられた人、キリスト教以外の葬儀でお葬式をした人はどうなるのかという問いがございます。教会は長年この問いに、明確な答えを見出すことはできなかったそうです。ですから、クリスチャンでも牧師でも、答えるのに苦悩するということがよくみかけられます。ただ一つ確実に言えることは、私たちが答えようにも、人間の側には答えを知るということは事実不可能なことであるということでありますが、「答え」ではなくて、「信じる」ということ、「委ねる」ということが、ひとつの答えであると言えます。テモテの手紙Ⅰ2章1-4節にこういうことが記されています。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」4節にありますように、すべての人々が救われるということを神様は望んでおられるということ、そのために1節で願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさいと聖書は記しているのです。「執り成し」とあるように、神様にお委ねするということであります。カトリック教会では、第2バチカン公会議において定められた文書である教会憲章第16条に基づいて、次のように理解しています。「彼らは、「まだキリストの福音と教会に出会っていないので神を知らないが、誠実な心を持って神を探し求め、自分の良心を規範として神の意志を生きてる人々」なのです。神は、彼らの救いに対して必要な助けを与えてくださいます。ここで「自分の良心を規範として」とありますように、その故人の良心に神様は働きかけ、導いてくださるということであります。

ですから、死後において、キリスト者であったからどうなったか、キリスト者でなかったからどうなったかということを認識するのではなく、私たちが本日この全聖徒主日の日を守るということは、キリスト者であろうとなかろうと、共に愛する故人を覚えるということにおいて、故人がただ神様の御慈しみと愛のご支配の下におられるということに委ね、信頼して、祈りの時を持つということなのであります。しかし、それだけではありません。愛する故人の信仰、またその支えを通して、今を生きる私たちの歩みについて、神様は御言葉を通して、私たちに語りかけておられるのであります。

今年の全聖徒主日に与えられた福音は、主イエスのぶどうの木のたとえ話であります。5節で主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われておりますように、主イエスがぶどうの木で、信仰者たちがその木につながっている枝であると言うのです。主イエスというぶどうの木に繋がることによって、木からの養分を受け、豊かな実を結ぶことができる、木に繋がっていないと、木からの養分を受け取ることができず、枯れてしまうというのです。このたとえ話はわかりやすく、多くの人に愛されている箇所でありましょう。主イエスという木にただ枝として繋がっていれば、実を結んでいられるという安心感がある、また豊かな人生を歩むことができる、なんとなくそんな思いを抱くからであります。しかし、このたとえ話の冒頭は、主イエスと信仰者との関係ではなく、神様と主イエスとの関係から記されています。1節を見ますと、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」とあるように、主イエスがまことのぶどうの木、父なる神様がその木を植え、養い、育てられる農夫であるというのです。「まことの」というからには、特別な意味が込められています。主イエスこそ、神様の御子として、神様の御心をこの世界に示されるために遣われた救い主、まことのぶどうの木であるということ、その枝に繋がるということを通して、私たちは父なる神様からの恵みを知ることができるということなのです。

さて、2節で主イエスはこう言うのです。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」と。主イエスというぶどうの木に繋がっていれば豊かな実を結ぶ、安心だと思っていた思いがここで崩されるのです。「実を結ばない」ということが起こりえる、そうすると父なる神様である農夫がそれを取り除くというのです。5節の言葉と矛盾しているのでしょうか。主イエスに繋がればと言いますが、主イエスに繋がるとは具体的にどういうことなのかということがはっきりしていないと、ただ単に、絶対に実を結ぶ、安心だという思いを抱くだけで、あたかも何か御利益的な思い、都合のいい神の像を人間が抱いてしまうということではないでしょうか。主イエスに繋がるということは、その枝が取り除かれるという前提を含んでいるのです。しかし、2節の後半には「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と言うように、実を結ぶものは、より豊かに実を結ぶことができるように、農夫である神様が手入れをしてくださるというのです。そう聞きますと、あたかも実を結ばない枝と結ぶ枝という2種類の存在があるかのように、私たちもその2種類の内のどちらに属するのかと不安な思いを抱くかと思います。しかし、ここで農夫が実のならない枝を取り除くということは、神様が罪を取り除くということに示されているのです。神様がその罪なる枝を取り除き、より良い実を結ぶことができるようにと、手入れをなさるのです。ですから、罪ある枝、罪なき枝という2種類の枝があるのではなく、全て罪ある枝、そのままでは実を結ばない枝という私たちの存在があるのです。そこから手入れをしてくださる、それはどのようにしてかと言いますと、3節で「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」とあるように、わたしの話した言葉、すなわち御言葉によってということです。清くなっているというのは、2節の手入れをなさるという動詞と同じ言葉が使われています。2節の後半を口語訳聖書で読みますと、「手入れしてこれをきれいになさるのである」とありますように、神様が枝である私たちを、御言葉を通して清めてくださるというのです。それが「洗礼」に顕されているのです。そう、私たちの交わりは、まさに主イエスに繋がる枝のように、御言葉によって実を結ぶ者たちの群れであります。御言葉が聞かれるところに、キリストがおられ、私たちはその証人として、キリスト者、聖徒としての歩みを成しているのであります。ですから、先に召天された方々だけでなく、地上に生きる私たちもまた、聖徒としての歩みに神様から招かれている。地上に生きる者も御国におられる方も、主イエスと言うまことのぶどうの木を通して、繋がっているのであります。

パウロが「罪の報酬は死である」と言ったように、私たちは今ここに連なる召天者の皆様を偲びつつ、私たちもまた地上での生涯を終える「死」をいずれ経験致します。農夫が枝を取り除かれるかのように。しかし、農夫である神様はより豊かに実を結ぶようにと、私たちを清くしてくださる、手入れをしてくださいます。死の先があるのです。より豊かな実を結ぶという復活の実に与ると言うことを、神様はこのたとえを通して、私たちに語っておられます。それは何よりもこの主イエスという真のぶどうの木に繋がるということを通して、私たちがこの主イエスの十字架と復活を仰ぎ見ると言うことに、神様の救いが私たちに語られているのです。主イエスは十字架の死から復活という希望を私たちに示されました。死が終わりではない、死の先にある復活という希望のメッセージを、この聖書の御言葉を通して、また先に召された信仰の先達者たちの証しを通して、今を生きる私たちに伝えています。そして、良い実を結ぶ、それは人生における美談、成功話ではなく、あなたの人生が、破れ多く、困難にさらされつつも、真に生かしたもう神様の慈しみの中において生きる、生きているというあなたの存在自体がこの豊かな良い実、美しき実であるということであります。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。主イエスに繋がり、真に私たちを生かしたもう神様の恵みに生きる時、私たちはこの世、また自分を基準にした価値観に縛られず、与えられた命をあるがままに生きるという明日を見出して、今を精一杯に歩んでいく。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」救いは私たちが求める以前に、神様の先行する意志に基づくのです。主があなたを、ぶどうの木に繋がる枝に招いています。愛する故人の救い、故人との結びつきは、主イエスと言うまことのぶどうの木を通して、地上に生きる私たちに、真実な出来事として、聖書は証ししております。そして、私たちは神様が招かれるこの礼拝を通して、この真実を体現しているのであります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年10月27日 宗教改革主日 「自由な愛」

ヨハネによる福音書2章13〜22節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

東京分区に連なる姉妹教会の皆様と共に、この宗教改革主日の礼拝を守る時が与えられましたことを感謝致します。宗教改革、これを一言で言うなれば、「信仰の改革」であります。救いは信じることによって、いわゆる「信仰義認」という言葉が特に私たちルーテル教会の骨格となっている教えであります。信仰義認に対して、「行為義認」という言葉があります。行為、行動することによって救われる。中世キリスト教会の風習に従えば、神様に、またこの世に(社会に)「善行を積む」という教えであります。信仰がないがしろにされているわけではありませんが、ルターの生きた時代は特にこの傾向が強かった。今の時代みたいに人々の識字率が高くはなく、人々はラテン語の聖書を読むことが出来ませんでしたから、聖書の信仰に立つこともできませんでした。彼らの救いの指針となったのは、教会という「場」であり、聖人たちの善行でありました。彼らを模範とした生き方、善行を積み、道徳的な生き方が求められていた時代の中で、宗教改革は起こりました。しかし、宗教改革は、それらの風習を真っ向から否定する改革ではありませんでした。そうでなければ、人々があれだけ熱狂したことにはならなかったはずです。善行を積み、道徳的な生き方が求められるというのは、1つの秩序です。この秩序が崩壊しかけていたということです。その中の一つで、教会の聖職者たちの堕落ということがあげられます。有名な贖宥状(免罪符)の問題です。これもひとつの問題です。生涯において、善行を積めず、早死した者は、その罪の故にそのまま天国に行くことはできない(煉獄思想)という教えの背景から、教会が発行したこの贖宥状を買えば、先に死んだ者でも、罪が免除されて、天国に行ける、救われるというものです。お金で解決されるということです。明らかに商売目的でこの贖宥状が発行されていた時に、有名な「95箇条の提題」がルターによって、1517年10月31日に、ヴィッテンベルグの城教会に張り出され、人々に大きな反響を及ぼしたのです。ですから、罪が赦される。救われるということを真剣に求め、神学的な論争にまで発展したのが宗教改革であり、その過程の中で、「信仰によって救われる(罪が赦される)」信仰義認という教理に至ります。それはまた行為義認の崩壊と言いましょうか、人間の行為(善行)によって、神様の救いが確かなものとなる保証はなく、救いはただ神様からの賜物であり、先行する恵みによってのみ確かなものとなる。それを信じるということです。

さて、行為義認の崩壊とは言え、信仰義認は行為、行動するということを否定しているわけではなく、むしろ、信仰と結びつくということであります。今日の第2日課のガラテヤ書5章6節で、パウロがこう言っています。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」愛の実践を伴う信仰であるとパウロは言うのです。善きサマリア人の譬え話に見られるように、倒れた者のそばに近づき、介抱するという行為が愛の実践ということですから、信仰は愛の実践と言う行為と結びつくのです。コリントの信徒への手紙Ⅰの13章1節から2節ではパウロはこう言うのです。「たとえ、人々の異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」。山を動かすほどの完全な信仰を持とうとも、愛がなければ無に等しい、すなわち信仰はないと言うのです。信仰義認と言って、信じる、信じると言って、熱意だけはあっても、実際には何もやらない、行動しないということは、贖宥状(免罪符)を買って、信仰を得るということと何等変わりがないでしょう。愛の実践を伴う信仰、たとえ小さい働きでも、私たちは出来る限りのことをやっていく、実際に行動する。救いはただイエスキリストの十字架と復活に示されていますが、十字架によって赦され、復活するということは、新たな人生の歩みをスタートさせるということ、復活とは「立ち上がる」という意味だからです。立ち上がって、行動するものとして、愛の実践を行うということは信仰であります。

とはいえ、信じるということには、多くの誘惑、敵がつきものです。その中で、真の誘惑、敵は自身の内面に潜んでいる「無関心」というものではないでしょうか。行動に移さない、愛が伴わない信仰の誘惑が、常に私たちに向けられています。

本日ご一緒に歌いました讃美歌365番の1節の歌詞に「愛なる御神にうごかれて、愛する心は内に育つ」とあります。愛なる神様であるから、愛する心が与えられる。愛と結びつく信仰ということであれば、愛する心というのは、信じる心(信仰)とも言えます。私たちが立ち上がって愛の実践を行う前に、神様がうごかされる。私たちの思いが、心が動かされて、私たちの中に愛の実践を伴う信仰が起こされる、愛が育まれるのです。どのようにして私たちを動かれるか、それは何よりも御言葉であります。御言葉が聞かれるところに、キリストがおられる。それがこの礼拝の場、キリストの体である教会において、御言葉を通して、神様は私たちを動かされる、そして私たちの中に立ち上がる力、愛が育まれるのであります。

御言葉を通して、愛なる神様が私たちを動かされる、しかし、今日の福音は、愛なる神様と言う姿には見えない神様、怒りの神様が、主イエスを通して、現されているような気がいたします。縄で鞭を創り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と真に激しく怒っておられます。この時、ユダヤ人の過越し祭が近づいていたので、エルサレム及び、エルサレム神殿には多くのユダヤ人、巡礼者、外国人が集まり、あたりは賑わっていたことでしょう。主イエスが弟子たちと一緒に神殿に入られた時、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になられました。牛や羊や鳩は神様への供え物として、両替は、ユダヤ人の銅貨に両替をして、そのお金を神様に捧げるために、それぞれ必要なものでした。しかし、主イエスは怒り、とても過激な行動に出たのです。主イエスはこう言います。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」商売の家、そこにごく自然な人間の営み、人間の生活が描かれていますが、父の家を商売の家としてしまう人間の思いの中に、人間が抱く神の像があります。祝福の神、恵みの神、愛なる神といった、「人間の願望が描かれる神」がそこにおられ、呪いの神、怒りの神、裁きの神という神の像を排除する。神様が共におられるから大丈夫という安価な神の像、御利益的な神の像が造られてしまう時、私たちは真の神礼拝を忘れ、信じるという信仰に立てなくなるのではないでしょうか。

主イエスの過激な行動に対して、無論ユダヤ人たちも怒っていたことでしょう。「こんなことをするからにはどんなしるしを私たちに見せるつもりか。」何か力強い奇跡でも起こせるのかと主イエスに迫っています。主イエスは「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」と言われ、それが「ご自分の体の事だったのである」と弟子たちが理解したように、ユダヤ人たちのいう神殿と主イエスのいう神殿というのは違うことであるというのは明白です。

主イエスの怒りは、「商売の家にするな」という人間たちの都合の良い神の像をかかげる罪に対してのものですが、主イエスは「自分の体である神殿に対して「この神殿を壊してみよ」、「壊せ」とまで彼らに迫ります。自分の体である神殿の崩壊、すなわちここに十字架の死が、十字架の贖いが示されている。神の怒りを御自身に向けて語っておられるのです。

同じヨハネ福音書で、このすぐ後の3章16-17節で、主イエスは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と、神様の御心を語りました。神様が世を愛されているがために、この世を救いたい。そのために、独り子が与えられた。この独り子なるキリストが、どのようにして世を救うのか、それこそ「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」というメッセージであります。三日で建て直す。つまり復活するということ。主イエスの十字架と復活において、世を救うという愛なる神様の御心を、主イエスは語っておられるのです。

贖宥状における罪の赦し、救いがお金で得られるという人間の描く神の像が造られることによって、私たちは信じるということをしなくなります。不安や悩み、困難が御利益によって、立ち消えるものなのでしょうか。人間の行為(善行)によって、神様の救いが確かなものとなる保証はないというところに立つのでないならば、私たちは父の家を商売の家としてしまうのです。

46年かけて造られた彼らの立派な神殿が数十年後に、ローマに攻められて完全に崩されてしまうように、人間の営み、この世での生涯は、限りがあります。商売の家としてしまう父の家はいづれ滅びますが、聖霊によって建てられている教会、父の家であるキリストの体は滅ぶることはないのです。主イエスが言われる神殿は、46年という年月をかけて造られた目に見える父の家(教会)を越えて、そしてエルサレムから弟子たち、またパウロを通して、世界に、そして時代を超えて、今の私たちが集う教会へと続いている永遠の家であります。そこには教会を建てられた信仰の先達者の思いが詰まっている場でもあります。主イエスの御体に集う自分たちもまた、キリストの十字架と復活によって、贖われ、立ち上がった者であり、自分たちはこのキリストの御体に留まってこそ、真の神礼拝を体現し、信仰と愛を持って、日ごとの歩みが成されているという感謝の思いに立ち続けてきたことでありましょう。彼らの体験が生きた説教として、国と時代を超えて、語り続けられている。そこにキリストが現され、キリストの御体が示されています。

日毎に私たちの思い(罪ある思いから)を変えて下さる出来事が、この礼拝の中で起こっている。父の家で起こっているのであります。「商売の家とするな」、この神様の怒りは、真に愛が伴わない信仰の誘惑に陥ってしまう私たちの自覚へと向けらえています。しかし、ここを商売の家とし、自分たちの願望通りの神の像を立てるといった安価な救いにすがるのではなく、神様の怒りを顕しつつも、その根本にある私たちへの愛を示して下さった主イエスの十字架と復活という真の救い、確かな救いを御言葉から聞き、受け止め、そしてその救いを宣べ伝えるために、愛の実践を伴う信仰に生きることを願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。