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2013年9月22日 聖霊降臨後第18主日 「神の忠実さ」

ルカによる福音書16章1〜13節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日私たちに与えられた福音は、不正な管理人のたとえ話です。かなり難解なお話しです。この不正な管理人の行為には好意、共感が持てないし、主イエスの言葉も難しい。また、この物語を1つの物語として、理解しようとするから、難しくなるという注解者の解説があります。確かにたくさんの細かいテーマが盛り込まれていますが、一貫して富について語っておられることは一目瞭然であります。

聖書の中に出てくる富について、皆さんはどういう印象を持たれているでしょうか。旧約、新約共に多くの箇所で出てまいりますが、私は新約聖書の中で、主イエスが語られた言葉、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というこの主イエスの言葉が強烈な印象として残っています。富があるから救われないとストレートに受け止めてしまいそうな言葉ですが、聖書は冨に対して、本当にそういう意図を私たちに伝えているのでしょうか。今日のたとえ話からも富について学べることがたくさんあります。ご一緒に御言葉に聞いてまいりたいと思います。Read more

2013年9月15日 聖霊降臨後第17主日 「喜ぶに結ばれて」

ルカによる福音書15章1〜10節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

貧困問題、公的扶助論、社会保障論などを研究され、国立社会保障・人口問題研究所に勤めておられる阿部彩さんという研究者が書かれた著作に「弱者の居場所がない社会 貧困・格差と社会的包摂」という本があります。この本によりますと、2011年1月18日、当時の首相、官直人総理大臣直属の組織として、「1人ひとりを包摂する社会」特命チームが設置され、その結成に当たって、官首相は、所信表明にて、「誰一人として、排除されることのない社会、すなわち、『一人ひとりを包摂する社会』の実現を目指します」と述べられたそうです。この文言から、この特命チームの名前の由来が来ているのでありますが、筆者の阿部さんも、貧困、社会的排除の研究者として、この特命チームに携わっているそうです。一人ひとりを包摂する社会、すなわち、この本の題にもあります社会的包摂、英語で「ソーシャル・インクルージョン」とは、従来の貧困の考え方をより革新した「社会的排除、英語でソーシャル・エクスクルージョン」に相対する概念で、平たく言えば「社会につつみこむこと」であると解説され、また貧困が、生活水準を保つための資源の欠如(お金や物など)を表すのに対し、社会的排除とは、社会における人の「位置」や、人と人との「関係」、人と社会との「関係」に関するものであると説きます。社会的排除、社会から追い出されるということは、制度や仕組みのことを指し、人間関係であり、物理的な場所であると言います。また、貧困問題における資源の不足ということだけを問題視するのではなく、社会の一員としての存在価値を奪われる、社会の中心から、外へ外へと追い出され、社会の周縁に追いやられるという人と社会の関係を表した概念であるとも言うのです。Read more

2013年9月8日 聖霊降臨後第16主日 「より人を少なく愛する 愛」(概要)

ルカによる福音書14章25〜33節
北澤 忠蔵 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

招かれてついて来た群衆に主イエスは「父、母、妻子・・・更に自分の命であろうとも、これを憎まないならわたしの弟子ではありえない」と言われました。これを文字通り取れば聞くに堪えられないものです。並行記事のマタイ10章37節は、同じ内容が「わたしよりも、父や母を(息子や娘を)愛する者は、わたしにふさわしくない」となっています。

ルカ伝はヘブル語の用法の影響があります。つまりヘブル語は比較級がないので、「父母を憎まないなら・・・」となったのです。

いつか、日ハムのヒルマン前監督の話しを聞きました。何を優先事項として選ぶかについて。第1は神への信仰、第2が家族、第3は仕事でした。私の場合は神様を第1にしたい。第2は自分の仕事。家族は第3になっています。ヒルマンさんと違い、家族が仕事より下位でありますので、家族には不満があるかも知れません。しかし、決して家族を憎んでいるのではなく、神への信仰より少なく愛するだけなのです。人間が第1となる。偏愛、溺愛、盲信となって正しく愛するということにはならないように思います。

ぶどう園の見張りのための塔を建てる話しですが、塔が完成できなかったら、人から笑われる。だから、勝算がないなら、着工する前に早く止めなさいという話しのように取られがちですが、この箇所の最後を読むと、意図は違うと判ります。「まず腰を下ろして(座って)とは、今まで自分たちがして来た(言って来た)、「無理ではないか、駄目だろう、失敗するに違いない」と言った考えを捨てて、御破算にし、神様が力を与えてくださるから、私たちはできるということに目が開かれて、人間の経験や思いよりも、神を多く愛する。人を神様より少なく愛するということなのです。

人は、主イエスの弟子にふさわしい者であると言われているのである。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年9月1日 聖霊降臨後第15主日 「人生の立ち位置」

ルカによる福音書14章7〜14節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音のたとえ話で、主イエスは「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない(14:8)・・・むしろ末席に行って座りなさい。(14:10)」と言われました。ここで、婚宴の招待を受けた客たち、おそらくこの人たちはすぐ前の、水腫の人を癒すお話に出てきたファリサイ派の人たちかと思いますが、彼らが上席を選んで座っている様子に主イエスが気付かれ、彼らにこのたとえを話され始めたと福音書は記しています。婚宴に招待されたら、自分の名前が記されたネームプレートが置かれている席に座るという印象があるかと思いますが、主イエスのたとえ話に出てくる婚宴の席では、そういうものがありません。招かれた者たちに席次が委ねられているのです。Read more