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2013年8月25日 聖霊降臨後第14主日 「私の判断基準」

ルカによる福音書13章22〜30節
安藤 政泰 牧師

ルカによる福音書はイエスがガリラヤからエルサレムに向かう中で起こる、様々な事件を伝えています。それは 同時に人々に、神の国の到来を告げる旅でもあります。
ルカによる福音書13章22節~30 新共同訳
「22:イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 23:すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。」
イエスがエルサレムに近づくにつれて、誰の目にも 今までのイエスの言葉が
現実味を帯びてきた。それでこのような質問が出たのです。
「救われる」ことへの質問は、神のみ国に入ることが出来る人は少ないのか、
との疑問です。「神の国に入る」神の食卓に、宴会に招かれるとも解釈できます。
この「神の国」「招かれている食卓」は、すでに私たちが、招かれ参加している食卓であり同時に、これから行われる食卓-宴会でもあります。
それに参加できるのは、私の判断ではなく、神様の判断で招かれ参加を許されるのです。

24:「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
「イエスのそばにいるから 救いに入れる」
と考えている人が付近にいることを思い起こさせるようなイエスの答えです。
救いに入れるかどうかは その人の判断では無いと、ダメ押しされています。
それは、人間の与かり知り得ることではないのです。
狭い戸口から無理矢理に入れるものではなく、招かれた者のみが入れるのです。
それは人間の側の業績で決まることでは無いと明白にしるしています。
そうしますと、入れる人が少ない、それは救われる人が少ないという事なのでしょうか。

25:家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
信頼できる知人の家に入れないこの喩は、“根拠がありそうな自分の救いへの確信”への警告です。どんな根拠を私たちはもっているでしょうか。教会に熱心に通い、財政的にも支えているから、救いに入れる。一生懸命信じるようにしている。神様の手足となるように 努力している・・・・・
それらが 救いに入れる根拠でしょうか???

26:そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
イエスの主催する宴会に出席し、チョットした知り合いになったからと言って
イエスと共に生きることを保証するものでは無いようです。
イエスご自身が自分の仲間と言って下さってはじめてそれが実現みたいです。

27:しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
詩編6編の9節の引用です(翻訳が少々ちがいますが)彼らのイエスにたいする不従順を指摘されています。彼らは神との関係でも正しいことを行わず、イエスと一緒にいても、その罪を捨てることが出来ない人たちです。イエスに対する不従順 罪 それは どんなことでしょうか?

28:あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
神の国に入れると信じる者が 遅れてやって来たために 締め出される。
当時のユダヤの人たちがその直接的な対象として語られています。
ユダヤ人の運命をそこにイエスはみておられます。彼らは捨てられることだけが預言されているのはありません。救いの約束と信仰を神から与えられている当時のユダヤ人は、彼らの祖先が神を礼拝したようにイエスを受け入れていない現実をつきつけておられます。神にたいして取るべき態度を神のひとり子にたいして取っていないからです。

29:そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 30:そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
自分自身の安全だけを考えてきた者に対しての、異邦人にその救いの扉が開かれていることを示しています。異邦人に神様の約束が満たされることを示しています。

29節で「そして人々は」とあります
24節での疑問「そうしますと、入れる人が少ない、それは救われる人が少ないという事なのでしょうか。」に応えているように思えます。
人々と複数形で記されています。そして 東から西から。南から北から宴会に着く人いるのです。異邦人を含むかなりの人たちが考えられます。これは かなり多くの人が招かれていることになります
「神の国」とは別な言い方では、多分「神の意志がすべてであり、しかも、神の愛にあふれている」と考えられます。それは どこにありのでしょうか?
この世の生命の終わりに入れる場所にあるのでしょうか?そこにはいつはいれるのでしょうか?
神の国を私たちは見ています その内容もよく知っています。それは 神の独り子イエスご自身が「神の国」そのものなのです。そして、その晩餐会に招かれています。救いに入れない理由はイエスに対する不従順、罪、それはどんなことでしょうか?それは 救いに入れない本当に理由なのでしょうか。

信じられない自分が、信じるようになっている。
聖書で示されていることとは正反対のような生活をしている自分がここに居ることを自分は知っている。
そうだからこそ 私たちは主の食卓に、神の国へ招かれているのです。

2013年8月18日 聖霊降臨後第13主日 「御言葉に立て」

ルカによる福音書12章49〜53節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

主イエスは言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」また、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが分裂だ」。非常に厳しい言葉を語っておられる、いや、むしろ聞く者が拒絶したいと思うほどに、受け入れがたいことを、主イエスは語っておられるように思えます。主イエスがこのようなことを語られたのかと疑いたくなるほどの言葉です。「地上に火を投ずる」、「平和ではなく分裂をもたらす」。地上、それは私たちが暮らしているこの地上に火の雨を降らせて、焼きつくすということなのでしょうか。また、平和ではなく分裂ということは、争い、戦争を引き起すということなのでしょうか。主イエスがそれらのことを成し遂げるために、この世界にご降誕された、私たちの只中に宿られたなどと信じることができるでしょうか。主イエスがご降誕された理由、それはヨハネ福音書3章16節に「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますように、神様が私たち人間を愛するがために、この世を愛されたという御心が主イエスを通して顕されたということに他なりません。また、私たちは、主イエスはこの世に平和をもたらす平和の君、支配者として、来られるというよき知らせを、アドベント、クリスマスのメッセージから聞きます。その平和の君が「平和ではなく分裂をもたらす」と言われるのですから、やはり主イエスはこの上なく矛盾なことをここで言っていると思えてしまいます。Read more

2013年8月11日 聖霊降臨後第12主日 「神の豊かさ」

ルカによる福音書12章13〜21節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

古来中国の政治家、思想家である孔子は、ある時弟子の子(し)貢(こう)という人から、こういう質問をされたそうです。「政治の基本とは何ですか」と。孔子はこう答えました。「食糧の充足、軍備の充実、政治家と国民との信頼関係の3つである」と。すると子貢は孔子に「その3つの中で、どうしても何か1つを犠牲にしなくてはいけないとなったら、どれを犠牲にしますか」と訊きます。孔子は「軍備である」と答えました。子貢はまた孔子に訊きます。「残った2つの中で、どうしても何か1つを犠牲にしなくてはいけないとなったら、どちらを犠牲にしますか。」と。孔子は「食糧である」と答え、続けてこう言いました。「食糧の充足を欠けば、国民は飢えて死者が出るかもしれない。しかし、人は遅かれ、早かれ、死から免れることはできない。政治家と国民の信頼関係さえあれば、弱くても貧しくても国を維持できるが、信頼関係がなければ、どれほど強く豊かでも国は維持できない。」孔子が言った3つのことは、原文で「子曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」となっています。食糧は「食」、軍備は「兵」、信頼関係は「信」。信じるの「信」です。この「信」が一番大切だと孔子は言いました。Read more

2013年8月4日 聖霊降臨後第11主日 「復活の門」

ルカによる福音書11章1〜13節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「私たちにも祈りを教えてください。」(11:1)弟子の一人がこう主イエスに尋ねました。「祈りを教えてください」と。弟子の方から訪ねて、主イエスは彼らに、そして私たちに祈りを教えてくださったのです。祈りは力である。祈りは人を変える。そういったことを聞きます。自分がクリスチャンになりたての頃は、その意味がわからなかった、信じられなかったというのが私の体験です。祈りはクリスチャンの日課みたいだと、形式的というか表面上のこととしてしか理解できなかった当時の私の姿を、この弟子の質問から思い出します。

しかし、祈りは力、人を変えます。皆様の、この六本木ルーテル教会の皆様の前で、このように申す根拠は、今私がこの説教壇に立っている牧師としての姿そのものにあります。今の私の姿が証ししていると、私事で恐縮ですが、私はそう確信しております。なぜなら、それは皆様が証人、祈りの証人だからです。私のために祈って下さった。私が神学生の時から、私がこの教会で実習させて頂いた時から、祈り支えて下さった。そして、神学校を卒業し、今この教会で牧師として、この説教壇に立たせていただいている。もちろんそれは神様の導きが先導したということでありますが、その導きも、皆様の祈りが届いた、聞き入れられた故に、起こった出来事である。それ故に、ここに今の私がいる、ここにいるのだと実感しております。それ以外に、真にこのような偶然があるでしょうか。皆様への感謝の思い、嬉しさは当然のことながら、やはり祈りは力であり、人を変えるものであると、私は信じております。私たち人間の思いを越えた遥かなる力が働いているのです。

主イエスの弟子たちはユダヤ人です。彼らは主イエスに祈りについて尋ねるまでもなく、祈ることはしていたし、祈りを知っていたはずです。しかし彼らが知っていた祈りは、主イエスの祈りとどう違っていたのでしょうか。彼らが知っていた祈り、模範となり、祈る者として身近にいた人たちは、ファリサイ派の人たちではないかと思います。彼らの祈り、その姿勢を後に主イエスが批判しますが、それは大勢の人の前で祈る、人に見てもらう祈り、内容が整った立派な祈りというものだったでしょう。祈りは立派なものでなければいけない、律法の知識をしっかりともった立派な人でなければ祈るに相応しくない、そういったイメージを弟子たちはもっていたのか知れません。私たちも、人前で祈るということは気恥ずかしくて、抵抗をもつということがあるかも知れませんが、人前で祈る時、何か立派なことを言わなくてはならないという思いを抱いてはいないでしょうか。祈りが難しくて、なかなかできない、予め祈ると分かっていたら、よく考えて、文章にして、表現を整えて、万全に準備する。そうしないと人前で祈れないという思いは誰しも抱いていることなのかも知れません。

主イエスの祈りはどうだったのでしょうか。福音書を見て見ますと、朝早くに、誰にも見つからないように、人里離れた所で祈っていたと記されています。誰かに見せるためということではない、敢えて人前を避けていた。ファリサイ派の人たちとは違うあり方だったのです。主イエスはその祈りへの姿勢、思いを込めて、弟子たちに祈りを教えてくださいます。それが今日の福音、2節からの主の祈りです。

私たちが礼拝式文の中で祈る、「主の祈り」は、マタイ福音書に記されているほうの祈りです。それに比べて、このルカ福音書の主の祈りはその一部です。マタイ福音書は祈りについての具体的な手引きが、主イエスの口を通して、記されていますが、(マタイ6:5-8)このルカ福音書では、それがなく、代わりに5節からのたとえ話を通して、祈りの本質を主イエスは教えておられるのです。

この主の祈り、クリスチャンであれば、誰でも自然に祈る祈りです。暗記しているというより、自然に祈れる祈りです。故に、この祈りを集会や会合の終りに、祈る習慣があります。よく言われるのは、この主の祈りを、まるで題目を唱えるかのように、ただひたすら祈る、早く祈ろうとするということです。それでいいのかと言えば、良いわけがない、そのことはお一人お一人がお分かりになっていることだと思います。祈りとはそういうことではないということ。そう考えますと、この主の祈りも含めて、祈るとはどういうことなのかということを、私たちはわかっているようで、わかっていない気が致します。

祈りについての本や教えはたくさんあります。たとえばルターは祈りについて、1520年に書かれた彼の著作「善き業について」という書物の中で、こう言っています。「祈りは祈祷書の頁を数えたり、ロザリオの玉を数えたりするような習慣に従ってなすべきものではない。心にかかる緊要事をとりあげて祈り、それを真剣に求めるべきである。そして、この祈りにおいて、神への信仰と信頼とを練り鍛え、その祈りが聞きとどけられることを疑わないようにならねばならない。」またヤコブ書を引用しながらこうも言っています。訳は違いますが、ヤコブ書4章3節です。「あなたがたが多く祈り求めながら、何も与えられないのは、正しい求め方をしないからだ」。続けてこう言います。「信仰と信頼とが祈りの中になければ、その祈りは死んだ祈りであり、もはや重い労苦以外の何ものでもないからである」題目のようにただひたすら祈る、早く終わらせようと、早く祈る姿の中に、信仰や信頼があるのでしょうか。義務的なこととして捉えてしまっている。それこそ労苦ではないでしょうか。どこまで言っても自分たち人間のペースで、習慣づいたものとなっている。神様に何を求めているのかということを真剣に問うているのだろうかと、疑問に思うのであります。ルターが強調して言うように、信仰や信頼なくして祈りは祈りではないということ、それは自分たち人間が神様に委ねきれないということでしょう。題目のように祈る、早く祈る、またファリサイ派の人たちみたいに、立派な祈りにしようと、祈りを着飾ろうとする。対象は神様であっても、その祈る者の心は、神様ではなく、自分を向いている。やはり自然と人目を気にしているのです。

ですから、「わたしたちに祈りを教えてください」この願いは弟子たちの願いだけではありません。今の私たちの願いです。この福音書の箇所を読むたびに、いや常に私たちが問われるものです。形式化された祈りから、信仰と信頼をもった委ねる祈りへと、一人一人の祈祷者に主は御言葉を通して、教えられるのです。

そうして、主イエスは5節からのたとえを話されます。旅行中の友人が訪ねてきたが、食べるものがない。なんとか友人に食べ物を出してあげたいために、真夜中に、別の友人の家を訪れます。そこでパンを3つ貸してほしいと願いますが、友人は言います。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』(7節)この後の8節はこのたとえ話の結論へと続きますが、8節冒頭の「しかし、言っておく」という主イエスの言葉は、何かの発言があって、それに対する答えだったのではないかという解説があります。主イエスはこのお話を弟子たちにされています。途中で話を止めて、弟子たちに感想を聞いたのかもしれません。それは、旅行で尋ねた友人のために、真夜中にも拘らず、友人のもとを訪ねたが、友人はパンを貸してくれなかった。その友人を薄情者だと、弟子たちは感想を述べた、非難したのかもしれません。

そんな感想を述べたであろう弟子たちの思いとは予想を遥かに超えて、主イエスはこのたとえ話の結びを話します。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(8節)友人だからということは関係ない、しつように頼めば、何でも必要なものを与えると主イエスは言われます。しつように頼めば与えられる。そう言われます。諦めずに何度も何度も頼みこむということでしょうか。この「しつように頼む」と言う言葉、これは「強情な」とも訳せますが、元の言葉は「廉恥心」とか「恥知らず」、「厚かましい」という意味があります。しつように頼むということですが、その頼みこんでいる者の姿がここで示されています。全く遠慮なんてしていられない、恥知らずな厚かましい思いで、態度で、頼み続ける。求め続ける。人の迷惑なんて考えない、そんな姿が見えます。そうすれば、必要なものが与えられると主イエスは言うのです。このお話の後に、主イエスは「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 11:10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(9-10節)と言われました。求める者、探す者、門をたたく者。たとえ話から結びつけると、その者たちはあたかも恥知らずな、厚かましい思い、態度で求め、探し、門をたたいていると言っているようなものです。しかし、そういった者たちに、与えられる、見つかる、開かれるというのです。

主イエスがこのたとえ話をされたきっかけは、弟子たちに祈りを教えることです。正確には「祈ること」ということですが、ルターが言うように、信仰、信頼なくして祈りは祈りではない、そういった思いがなければ、ただの労苦であるということです。神様に委ねるということ、それは自分を着飾らない、自分のペースにしないということ。徹底して委ねるということ。祈り、そこに人間の意図はないのです。形式やふさわしい者などいないということなのです。

真夜中に扉を叩いて、懇願する人。願い求める姿、祈る者の姿は、この人のように見えます。しかし、家にいる友人の目から見たらそうではない。そこには恥知らずで、厚かましい思い、態度である人の姿がある。そういう人が懇願している。着飾るどころか、全く恥知らずな者の姿があるのです。そう、この恥知らずで、厚かましい者の姿、この者こそ祈る者の姿なのです。この者の祈りこそ聞いて下さるのです。その恥知らずな者の願いを聞き入れて、必要なものを何でも与えてくれる方がおられる。扉の向こうにいてくださるのです。

人に頼む態度、礼儀などはないに等しい。このように求め続ける自分の姿、この姿は空っぽの姿です。祈る者の姿、神様の目から見て、祈る者は全くの空っぽであるということ。恥知らずな、厚かましい祈る者、そんな者だからこそ神様は聞いて下さる、門を開けて必要なものを与えて下さるのです。それはこういうことです。祈る者たち、神様の御前で、祈る私たちには何もないのです。赤子同然、ただなきじゃくって、一人では何もできない者です。空っぽの自分がそこにいるだけなのです。しかし、なきじゃくる者の涙にこそ、キリストは目を向けられるのです。本当は、私たちは友人にあげるパンなどない、自分ができることなど、たかが知れている。いざとなったら誰でもそうです。この友人という愛すべき隣人が私の、あなたのもとに来た時、私たちはその人の隣人となれるのか、食べものなどを出して、その人を助けてあげられるのか。そういった保証はないのです。真夜中、そう、それはまさに突然起こるということを象徴しているかのように。右往左往し、戸惑う私たちの姿がある。自分には何もできないと思い知らされる。そんな自分を知った時、出会ったとき、「必要な糧をお与えください」。そう祈り願う自分の姿がある。ただそのように、恥知らずな思い、態度を持ってしても、しつように祈り願う。神様の御前において、その姿が示されているのです。

主イエスは13節で言います。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」恥知らずな者のように、祈り求める者に神様は聖霊を与えて下さる、神様と私たちを結び付けてくださる神様の霊を、私たちの只中に送って下さいます。神の霊、生ける主が共におられるということ。私たちの祈りを聞いて下さる生ける主が与えられ、共におられるのです。

祈りは力、人を変える力です。なぜか、それは私たち人間には全くないもの、全くない力です。この神様の霊が働かれる力だからです。祈り求める私たち、それは恥知らずな、厚かましい姿の私たちかも知れない。空っぽで裸な、無力な者の姿かも知れない。だからこそ、神様は顧みて下さる、扉を開いて、必要なものを与えて下さるために、私たちを迎えてくださいます。その信仰と信頼をもって、私たちは祈り求めるのです。門は必ず開かれます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。