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2013年7月28日 聖霊降臨後第10主日 「救い主を迎えて」

ルカによる福音書10章38〜42節
藤木 智広 牧師

※説教題変えました。
「大丈夫!やり遂げなさい」→「救い主を迎えて」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

忙しい日々を送っている方がほとんどだと思います。本当に毎日が忙しい。皆さんはしっかりと休息を取っていますか。なかなか十分に取れない方も多いかと思います。体力や精神の限界を超えて働く、活動している、そんな自分自身の姿を見つめる機会があるかと思います。休みたくても休めない、熱があっても働かなくてはならない、活動しなくてはならない、そのように無理をされている方もたくさんおられるかと思います。でも、やはり人間は生身の存在です。どこかで休まないと、脳が機能しなくなります。無理をして無理やり、働こうとすると、よけいに体調が悪くなり、倒れてしまい、他人に迷惑をかけてしまうということもありえます。

聖書には、「安息日」という日が定められています。ご存じのように、神様は6日間でこの世界を造られ、7日目に休まれました。全知全能の神様も休んだわけであります。その安息日に則して、旧約聖書の律法の規定にはこういう言葉が記されています。出エジプト記23章12節です。「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためでもある。」7日目には、休まなくてはならない。それはなぜか。あなたが休まないと、あなたより立場の低い人が休めないと、こういうのです。あなたが休まないと、周りの人たちが休めない。あなたが休まず、無理をして働いていると、周りの私たちも、あなたに常に気を配らなくてはならない。だから、私たちも休めないということです。様々な事情があって、休めない方がおられるのも事実ではありますが、それでもなんとか折り合いをつけて、休むことは大切なことだと思います。やはり、周りの人たちが休めないからです。自分では大丈夫だと思っていても、周りの人たちが、なかなか休まないあなたを見て、周りの人たちがあなたの健康を心配します。直接目には見えなくとも、さりげない言動や行動の中に、あなたの疲れを見出すかも知れません。自分でもわからないくらいに、疲れが蓄積されている。相手に指摘されて、初めて気付かされる、そういうこともよくあります。

さて、うしやろばなどの「動物」には休ませると書いてありますが、女奴隷の子や寄留者と言った「人間」については、「元気を回復するため」とあります。肉体的な面のことだけでしょうか、それとも精神的な面における回復も含まれてのことでしょうか。どちらにもとれるかと思います。聖書が言う安息、元気を回復するということは、そういった人間が考える癒し、回復に留まりません。安息日、これはモーセの十戒、その第3のいましめに、「安息日をおぼえて聖とせよ」と記してあります。安息日、神様が人間に与えた安息、元気を回復させるというのは、神様を覚え、神様をお迎えすることなのです。労働や行動を完全に中断して、神様に心を向けて、向き合うのです。しかし、私たちはこう思うかもしれません。なんで身も心も疲れているのに、神様をお迎えし、神様のことを考えなくてはならないのか。神様にご奉仕しなくてはならないのか、そんな負担をかけなくてはならないのか。家でごろごろしていたり、好きなことをしていたりしたほうが、よっぽど休むことができる、元気が回復するではないかと。確かにそうしたほうが、気軽に休めそうです。気分転換できます。しかし、それだけでは、休めない、回復しないほどの疲れを負っている時もあります。自分の力だけでは解決できない、または未だに解決の糸口が見つからないほどの悩み事や心配事を抱えていた時、そういったものを抱えたまま、休日を過ごそうとしたときに、本当に身も心も、休まるのでしょうか。そういったものに思い煩って、心の奥底からは休めず、むなしさが残るということであれば、休日の日も、結局は心の中で労働しているのです。心の中で労働し、心が休めないと、その疲れが肉体に顕れてきます。ですから、心を休め、クリアにしないと、肉体も休むことはできません。身も心も休まる、真実の安息、命の安息が人間には必要なのです。

安息日に、神様を迎える。どこにか、もちろんそれは私たちの只中、私たちの心の中に迎えるということであります。悩み事、心配事が尽きない私たち人間の只中にです。どうお迎えするのかということを、今日の福音から聞いてまいりたいと思います。

今日の福音は、マルタとマリアの物語です。主イエスと弟子たちはエルサレムへの旅の途上にあって、ある村に入り、マルタの家に迎え入れられました。マルタという名前は「女主人」という意味です。この家の主人であるマルタは主イエスと弟子たちのことを知っていたのでしょうか、快く彼らを迎え入れました。彼女にはマリアという姉妹がいました。聖書は先にこのマリアのことを記しています。39節ですが、彼女は、主イエスの足元に座って、話に聞き入っていました。マリアも主イエスのことを知っていたのかも知れません。

主イエスは72人の弟子たちを派遣する際に、彼らにこう言いました。すぐ前の10章8節からですが、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』」と言いなさい。」「神の国が近づいた」、こう告げるように、弟子たちに命じたのです。この言葉は、後に主イエスが徴税人ザアカイの家を訪れたとき(19章1~10節)、「今日、救いがこの家を訪れた」と主イエスがおっしゃった言葉と同じニュアンスです。神の国という救いの支配が、この姉妹の家に訪れた。マリアは、主イエスが語るこの救いの支配、神の国の教えに耳を傾け続けていたのです。

さて、一方のマルタですが、40節の冒頭の箇所を口語訳聖書で読みますと、「ところが」という接続詞が挿入されています。原文で読んでも、「しかし」という接続詞が、ここには挿入されているのです。「ところが、しかし、マルタは」と繋がります。マリアとは異なった行動をしたという強調が込められているのでしょう。マルタは主イエスの話を聞いているどころではなかった。旅人である彼らを、主人である自分がもてなさなくてはならないという思いにあったからです。彼女はせわしく立ち働き、主イエスと弟子たちをもてなしていましたが、姉妹のマリアは手伝おうとはしなかった。彼女はこう思ったでしょう、主人である自分だけが、なぜこんなに立ち働き、自分の言うことを聞くべき立場にあるマリアは、手伝おうとするどころか、動こうとさえしないのかと。マルタは最初、マリアの行動に驚いていたのかも知れません。別に彼女はお客さんである主イエスと弟子たちを無視しているわけではない、お話の相手をしているようには見えるけど、遠路はるばる来られた旅人に接する態度としては、不適切だった。快適なもてなしをすることが、旅人への心遣いというものではないのか、さらに人手が足りないんだから、手伝うのもあたりまえだと、マルタは思っていたことでしょう。

そして、とうとう彼女の怒りが、爆発します。でも、その怒りは直接マリアに向かって、言ったものではありませんでした。「マリア、こっちに来て、あなたも手伝いなさい」とは言わず、お客さんである主イエスに向けて彼女は言うのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています。」わたしだけにと、自分のことをマルタは言っている、いや訴えていると言えるでしょう。「わたしはこんなにあなたに尽くしているのに、このマリアは手伝おうとしない。マリアにも手伝うように言って下さい。」マリアに手伝うよう言ってほしいという思いはもちろんありますが、その思い以上に、マルタは自分の境遇を主イエスに訴っているのです。わたしはこんなに働いているのに、尽くしているのに、なぜあなたは黙っているのか。わたしはこんなに一生懸命あなたがたをもてなそうと、動き回っているのに、あなたは自分の足元にいて、手伝おうとしないマリアを迎え入れ、お話をしている。なぜ何もしないマリアをあなたは受け入れているのですか、あなたはそんなマリアの態度に怒りを覚えないのですか、そして、この私のことは何とも思わないのですかと、マルタは自分の心境を主イエスに訴っていたと言えるでしょう。

その彼女の姿を、主イエスの目にはこう映ったのです。「思い悩み、心を乱しているマルタという一人の人間。」マルタは、主イエスと弟子たちを迎え入れたのです。仕方なくでも、強制されてでもない、自分の意志で、良心とも言えるでしょうか、とにかく快く受け入れた。だから、一生懸命にもてなそうとしたのです。私たちだって、大切なお客さんがはるばる自分の家を訪ねてきたら、快く迎え入れ、もてなそうとします。相手に尽くす、奉仕しようとします。ですから、マルタの立ち振る舞いはごく自然なものなのです。しかし、彼女の心は、乱れていたというのです。最初は快く迎え入れたのに、次第にマリアの姿が気になり、自分の行動にむなしさを覚えた。やがて、途方もない義務感に駆られ、彼女は思い悩んでいたのです。そして、主イエスは彼女に言います。「必要なことはただひとつである。マリアは良い方を選び、それを取り上げてはならない」と。必要なことはただひとつで、マリアは良い方を選んだということは、マリアは最も必要なただひとつのことを選んだと言えるでしょう。主イエスの足元で、神の言葉を聞いていたマリアの姿、姿勢こそがそうでした。マリアはお客さんである主イエスに話題をふって、おしゃべりをしていたわけではない。主イエスのお話に聞き入っていただけなのです。主イエス御自身に思いを向けていた、足元に座るとうことは、自分は僕の身分であるということです。神様の御前に立つときの姿勢です。マリアこそが主イエスに迎え入れられているのです。

「もてなし」という言葉、これは英語で「サーヴィス」という意味です。サーヴィスというのは「礼拝」という意味があります。サーヴィスの他にはワーシップという礼拝を顕す言葉がありますが、今、この場で皆さんと一緒に神様から招かれている礼拝という意味のサーヴィスです。また、原語のギリシャ語で「ディアコニア」という言葉です。ディアコニア、そうです、「奉仕」という意味です。マルタは奉仕していたのです。礼拝奉仕の奉仕、私たちもする奉仕です。

礼拝はドイツ語で「Gottesdienst(ゴッテスディーンスト)」と言います。ゴッテスは神という意味です。神の奉仕、神奉仕です。神が人間に奉仕するのです。礼拝は、人間の奉仕、人間のもてなしの行為が中心にあるのではなく、神の奉仕、神の人間へのもてなしが中心にあるのです。他の宗教とは決定的に違うところです。神は人に仕えられたり、ささげられる必要もないのです。神の方から、私たちを招き、私たち人間に仕えて下さる。私たちが気苦労し、どうしたら神に喜ばれるか、受け入れてもらえるだろうかと、思い悩む必要はないのです。必要なことはただひとつなのです。この神の奉仕に招かれ、心を開いて、神の福音に耳を傾けることなのです。それが第一とすることです。

先ほども言いましたが、マリアが、主イエスの足元に座り、お話を聞いている姿は、マリアが主イエスに迎え入れられている姿です。お客さんである主イエスではなく、マリアこそが主イエスに招かれている。必要なことはただひとつ、良い方を選んだマリア、主の足元に座り、神の御言葉を聞いているマリアがいます。そう、マリアは神の奉仕に招かれているのです。マリアが主イエスに奉仕しているのではなく、主イエスがマリアに奉仕している、主イエスこそがマリアに奉仕しているのです。マリアがもてなされている、奉仕されている、サーヴィスを受けている。そう、このマリアの姿は、礼拝に招かれている者の姿なのです。ここで礼拝が行われているのです。

マリアはこのように良い方を選びましたが、主イエスはマルタの行動、働きを否定しているわけではありません。マルタも、私たちも奉仕者として、招かれているからです。でも大切なことは、それは義務感、使命感から、奉仕するのではないということ。礼拝は神の行為、神の奉仕が中心です。その恩恵を受け、救われた者たちが、神に応答する、感謝の思いを持って仕えることが奉仕なのです。神は私たちに赦しと憐れみを語りかけておられます。この語りかけに耳を傾け、喜びと感謝をもって、私たち人間は賛美し、神への信頼を持って、神に信仰告白するのです。神が私たちを受け入れ、御言葉を通して、私たちへの愛の御心を示してくださる。その愛への応答として、私たちは神と隣人とに愛をもって仕える、奉仕するのです。

マルタとマリアの家を、主イエスは訪れました。マルタは家の主人として、主イエスを迎え入れましたが、迎え入れられたのは、彼女たちだったのです。神の国が近づいた、神の救いが彼女たちの家に訪れたのです。主イエスキリストがその救いを成し遂げるために、主イエスこそが、救いの創始者として、彼女たちの家を、彼女たちの心の中を、そして、私たちの心の中を、訪れてくださったのです。そして、今もここで私たちを訪れてくださり、あなたの心に、あなたの只中に救いの御言葉を語りかけておられます。ここに礼拝があります。神が訪れ、神が奉仕して下さる礼拝に私たちが招かれているのです。

マタイによる福音書11章28節で、主イエスはこう言っています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」私たちは日々の忙しさの中で、疲れを覚えているものたちです。肉体的にも精神的にも。休みたくとも休めない、休んでも、心の疲れは取れないという現実があります。悩み事、心配事は尽きず、思い悩み、心を乱している姿がある、そういった重荷を背負って生きています。マリアもきっとそうだったのでしょう。だからこそ、主イエスの御足に座り、御言葉を聞き、もてなされて安息を得ていたのです。彼女に必要な休息だったのです。そんなマリアを、マルタを、そして私たちを主は招かれます。わたしのもとに来なさいと。休ませてあげると、言われます。元気を回復してくださるために。安息日に、礼拝に招かれ、神のもてなし、奉仕を受けて、私たちの心に安らぎが与えられるのです。主イエスは私たちを訪れて下さり、主イエスこそが私たちに奉仕してくださいます。主イエスがここにおられます。この方を自分の心に迎え入れて、元気を回復しましょう。あなたは真実の安息、命の安息日に招かれたのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年7月21日 聖霊降臨後第9主日 「あなたも同じようにしなさい」

ルカによる福音書10章25〜37節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音は「善きサマリア人のたとえ話」です。放蕩息子のたとえ話と並んで、最もよく知られている、主イエスのたとえ話だと思います。その理由としては、この物語は、内容自体にそれほど解説がいらない、解説がなくとも、理解しやすい。子供たちにもよくわかる物語であり、聖書を知らない人でも、一度は聞いたことがある物語である、といった具合に、わたしたちになじみのある物語です。私がはじめて説教をした箇所も、この善きサマリア人のお話しでしたので、とても印象に残っている箇所であります。

善きサマリア人、これは英語の辞書で「グッド・サマリタン」と記されています。良い、立派なサマリア人という意味です。サマリア人と言えば、グッドな人ということです。あたかもそれは、道徳的な民族の代表格という形で、模範化されている印象を受けるのでありますが、この物語をよく見て見ますと、通りがかったサマリア人は、倒れている人を「憐れに思って」、彼を助け出し、介護したのでした。サマリア人の行為はこの「憐れみ」の思いに先行したということです。みなさんはもう気付いておられるかと思いますが、そうです、この憐れむという言葉は、あのナインのやもめの一人息子が死に、棺が担ぎ出される時、泣いていたやもめの姿に、憐れみを抱かれた、主イエスのあの憐れみという言葉と同じです。原語のギリシャ語で「スプランク二ゾーマイ」。はらわたが痛むということです。名詞形で「内臓」という意味です。倒れている人を見かけて、サマリア人は痛みを覚えた。まるで自分自身が倒れて、痛みを患っている人であるかのように。サマリア人は憐れみを覚えたということですから、「善いサマリア人」という題よりも「憐れみ深いサマリア人」といったほうが、聖書の物語に近い印象を受けるのであります。

私たちに、このようによく知られている物語ですが、主イエスがたとえを話されたのは10章の30節からです。この物語の内容は主イエスの「答え」そのものでした。何の答えかと言いますと、すぐ前の箇所を見ればわかりますが、25節からの律法の専門家との問答における答えです。律法の専門家が主イエスを試そうとして言ったことがきっかけでした。この試すと言う言葉は口語訳聖書で「試みる」と訳されています。解釈によっては、「罠にかける」といった、あまり良いイメージがない言葉です。律法の専門家の、主イエスに対する心情そのものを指し示している言葉である言えるでしょう。この25節からの今日の物語ですが、25節も、冒頭は「すると」という接続詞から始まっているのです。ですから、いきなりこの物語がこの箇所に記されたということではなく、明らかに前の箇所と結びついているという経緯が伺えるのです。この箇所との結びつき、その軸となっているのは、主イエスが72人の弟子を派遣したことです。そして、10章17節からは、この72人が帰ってきて、その宣教の成果を主イエスに報告しています。主イエスも彼らの働きをねぎらっているかのように、その報告を聞いてます。そして、この宣教の実りを、こう喜びなさいと言いました。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。20節の主イエスの言葉です。あなたがたはこの世で生きながら、もう天に属している、神に信頼して生きているんだ。そのことを喜べと言わんばかりに、彼らに語っているのです。そして、21節では、主イエスが神様に向かって、この弟子たちが「幼子のような者」であると祈り、その後、23節から24節で、「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」幼子のような弟子たちは、幸いだと言われる。歴代の預言者や王たちが見る事、聞くことができなかったものを、彼らはそれを見て、聞くことができるのだと。それは一体何か。21節に「御心に適うこと」とありますように、天の神様の御心を見たり、聞いたりすることができる、ようするに知ることができる幸いに彼らは与っているのだということです。そして、具体的にその御心とは、今まさに彼らの前におられる主イエスキリストにおいて示されたものなのです。あたかもそれは、弟子たちは天に名をつらねている、すでに永遠の命を得ているんだと、主イエスが語っているようなものです

72人の弟子たちに語った言葉を律法の専門家も聞いていたことでしょう。きっと驚きが隠せなかったはずです。なぜ、彼らが先に救われるのであろうかと。律法の知識もたいしてないであろう彼らが、なぜ先に救われるのか。そういった不満はあったと思います。そして、22節の主イエスの言葉「主の御心は知恵ある者や賢い者には隠されている」というこの言葉に、彼は反応したことでしょう。なぜ自分には隠されて、あの弟子たちには表わされているのか。納得ができない、思わず立ち上がって、主イエスに質問した。こういう流れから、主イエスとの問答が始まったとも考えられるのです

前置きが長くなりましたが、律法の専門家の質問の内容は、彼が抱いていた疑問、不満から出た者だったのかも知れません。どうすれば、永遠の命、救いに与ることができるのですかと質問しました。「律法には何と書いてあるのか」という主イエスの聞き返しに、それは神への愛、隣人への愛であると彼は答えます。それを実行せよと主イエスは答えます。しかし、彼は引き下がらない。じゃあ隣人とは誰かという問いをぶつけます。私が愛すべき隣人とはいったい誰なんですか。その人なら、私だって当然愛しますよ。口先だけじゃなくて、行動に表わして、ちゃんと愛しますよと言わんばかりに、彼は「隣人」という概念を限定づけようとするのです。

「隣人」と言う言葉を聞いて、みなさんはまずどういう人を思い浮かべますか。私がまず思い浮かべるのは隣ご近所さん。そして、待合室などで、たまたま居合わせて、隣の席に座った人を思い浮かべます。また、そういった距離的な意味だけではないでしょう。ごく身近な人を思い浮かべるかも知れません。たとえば、家族、親戚などの身内、友人や知人と言った人たちです。では、隣人を愛する「隣人愛」というのは、どういうことでしょうか。家族や親戚などの身内、友人や知人といった人たちには、大切な人たちですから、その人たちを愛するという「隣人愛」が成立するかも知れません。しかし、近所の人や待合室の人は見ず知らずの他人です。「愛する」という思いにまでなるでしょうか。その人たちとの関わりの中で、何かしらの助け合いはするかも知れませんが、愛するなどという関係ではないと思うかも知れません。むしろ、その助け合いですらしないかも知れない。お互い無関心でいるほうがトラブルを避けることができる。だから、無関心でいようとする。どこかそんな思いが私たちにはあるのかも知れません。

30節からの譬え話。強盗に襲われ、倒れた人が登場しますが、神様にお仕えする祭司、レビ人はその人を見て、道の向こう側に行ってしまいました。その理由としては、律法で死体に触れてはいけないとあるから、それを守ろうとした、またはとばっちりを受けたくはないから、急いでいたなど、いろんな事情があったことでしょう。どうあれ、目の前で倒れている人を無視しました。この人たちの行為を私たちは攻めるかも知れません。しかし、自分もまた、彼らと同じようなことをしていたのかも知れないと思うかも知れません。そしてサマリア人が登場します。当時のユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人です。サマリア人はユダヤ人たちから罪人だと思われていました。律法にもそんなに詳しくなく、律法の規定通りには生きていない、正しくない人だと思われていました。しかし、彼は前の2人とは違いました。倒れている人を見て、「憐れに思った」、痛みを覚えたのです。そして、近づいて、倒れている人を介護した。さらに、ろばに乗せ、宿屋に連れて行き、宿代を払い、またさらに、不足分をすべて支払ってあげたのです。サマリア人は、この倒れている人に、すべてを与え尽くしたと言っていいでしょう。お金、時間、手間暇全てを。この人が怪我が治って、起き上がり、日常生活を送ることができるようにするために。この人がこの後どうなったかはわかりませんが、たとえ話はここで終わり、36節で、主イエスは質問します。だれが隣人になったかという質問です。隣人とは「誰か」ではなく、「なったか」です。「その人を助けた人です。」彼はそう答えました。敵対するサマリア人の名称は出さず、「その人」という答えでした。

彼のこの答えから、このたとえ話の背景にある憎しみに気付かされます。根深い憎しみです。先ほど、隣人とはどういう人かということについて、考察致しましたが、このお話では、律法の専門家から見て、敵であったサマリア人が隣人でした。彼から見て、あり得ない人が、隣人だった。いや、隣人となったということです。憎い相手、自分から最も離れていた人です。サマリア人だって、この倒れていたユダヤ人に憎しみを抱いていたことでしょう。今までユダヤ人が自分たちにしてきたことを許せなかったはずです。しかし、このユダヤ人は倒れて、痛みの最中にあった。祭司やレビ人といった同胞の者たちにも見捨てられて、孤独になり、痛みもがいていた。サマリア人はその悲惨さに心を打たれ、自分も痛み出したのです。憎しみ以上に、痛みが増したのです。

この痛みとは何でしょうか。当然痛むものにしかわからない感覚です。でも、私たちも痛んでいませんか。突然強盗に襲われるということはほとんどないかも知れませんが、突然の不幸や、病に襲われて、痛むことはあります。日々の生活の中ではどうでしょう。どこか、自分でも気づいていないところで、痛んではいないでしょうか。そういった自分が痛んでいる姿に、心配してくれる人、気遣ってくれる人。そういう人たちはたくさんいるかも知れません。そういう人たちが隣人なのかも知れません。でも、自分の痛みをどこまでわかってくれるのか、共に痛んでくれるのかということはわかりません。常に不安の只中の中で、歩んでいる姿があるのかも知れません。

私たちの人生の歩みは、学校の雲梯にしがみつきながら、前に進んでいるかのような歩みなのかも知れません。雲梯につかまって、自分という体を、存在を、自分自身の手でなんとか支え続けながら、歩んでいる。この雲梯とは社会の法律、この世の力、知恵、地位、名誉、財産、などです。それらのものにしっかりと結びつかないと生きてはいけない、手でつかまっていないと、雲梯から落ちでしまうのです。そこから落ちないように、てばなさないように、なんとかしがみついているのです。でも手は痛い。全身で支えている体にも負担が蓄積されています。本当はいつも痛いんだとそこで気付かされる。そして、突然の不幸や病が襲ってきて、落ちてしまう。または、何か過ちを犯して、落ちてしまうことがあります。世間は落ちた人に関心を払わない。過ちを犯した人は、落ちた所から引き揚げられるのではなく、炎上やバッシングを容赦なく浴びせられて、あたかも、もうつかむことすらできないという状況にまで追い込まれます。結局誰も助けてはくれない、雲梯から落ちた自分の痛みはどこまで行っても、自分の痛み、他人の痛みはどこまで行っても他人の痛みです。

しかし、私たちはどこかで、その雲梯から手を外して、落ちて、痛みを知っている者たちです。日々痛みを背負い、倒れているのかも知れません。ものすごく痛いし、誰も助けてくれないという境遇が、自分の傷口を広げるのです。でも、その自分の有り様を見ている方がおられる。痛みを覚えて、サマリア人が近寄ってきてくださるのです。自分に全てを与えて下さる方、生きる力を与えて下さる方です。

私たちは手をはずして、落ちたのです。痛みを覚えたのです。でも、そこで出会ったのです。介護者なるキリストに。身体も心も介護されて、再び歩んでいます。それでも現実の歩みは雲梯のようなところでの歩みかも知れない。また落ちるかも知れない。しかし、私たちは、自分が落ちて、目に見える痛みを覚えたとしても、心のクッションになってくださる方を知っています。何回落ちても、私たちの心のクッションとなって、痛みをカバーして下さる方が共におられるのです。私たちの痛みを負って下さる方の十字架を垣間見るのです。

でも、全く痛みがないということはないでしょう。その方が共に負って下さる痛みがあり、その方のくびきを共に負っていく私たちの姿が、歩みがあります。主イエスは最後に、言いました。あなたも同じようにしなさい。そう、私たちは痛みを知ったものたちです。雲梯から落ちてしまうことを知っています。痛みは痛みとしてあるけど、私たちの心のクッションとなってくださる方を、私たちは知っています。だから、私たちは動ける。生きていける。行ってあなたも同じようにしなさい。そう、私たちがキリストのクッションとなって、今落下してしまいそうな人、落下して痛んでいる人のクッションとなるのです。ひとりのクッションではすごく痛いでしょう。でも、ひとりではありません。教会という交わりの中で、教会がクッションとなって、その方の隣人となるのです。パウロは言います。ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむと。教会は倒れた人の痛み、苦しみを共に担うのです。自分の痛みだけではない、相手の痛みに気付かされる。だからこそ、この教会で、自分の痛み、相手の痛みをみんなで支えていく、助け合っていく。私の、あなたのクッションとなって。
主があなたを招かれます。「行ってあなたも同じようにしなさいと」。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年7月14日 聖霊降臨後第8主日 「天に向けて」

ルカによる福音書9章51〜62節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書には、主イエスの弟子としての在り方、従うということについて、様々な人の姿が描かれています。「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と、サマリアのたちに対して過激なことを言っているヤコブとヨハネ。また、旅の途上で出会った3人の人。主イエスから枕するところもないと言われた人、お葬式を済ませてから主イエスに従うと言った人、家族にお別れを告げてから、主イエスに従うと言った人。ヤコブとヨハネの表現は過激で、その心情は理解できない、けれど後半の3人の人の心情には同情できる、致し方ない人間の都合があるから、彼らの言い分は理解できる。今日の箇所を読んだ人は、ほとんどの方が、そのように思うのではないでしょうか。私も最初はそう思いました。ヤコブとヨハネの発言は過激だ、主イエスの弟子として問題ではないか、しかし、後半の3人の事情はわかる。端的にそう考えてしまいがちです。しかし、ヤコブとヨハネにしろ、後半の3人の人にしろ、共通しているのは、彼らは自分たち人間の都合、自分たちの解釈を第1と考えて、その後に「主イエスに従おう」としているということです。私たちもどこかしら、そういう考えをもってはいないでしょうか。自分を第1と考えるか、神を第1と考えるか。主に従うということについて、どういう認識を抱いているのかということです。改めて、いや私たちは常に向き合わなくてはなりません、主に従うとはどういうことなのかということを。そして、今日の箇所を、ただ頭ごなしに主に従うことを第1であると説くのであれば、それは単なる律法主義に過ぎないということです。人間の都合に立つのではなく、また律法主義に陥るのでもなく、「主に招かれて従う」という神様からの愛の招きに、あなたも招かれているということを今日の福音から聞いてまいりましょう。

冒頭で、主イエスは自らの旅の方向性、その目的を明確に首都エルサレムへと定めました。その旅路に向けて、準備、おそらく休息を取るために、サマリア人の村に入ろうとしたのでしょう。ところが、サマリア人たちは主イエスと弟子たちを拒絶しました。これを見たヤコブとヨハネが、主イエスに彼らに天からの火を降らせましょうかと言ったのです。サマリア人が主イエスと弟子たちを拒絶した背景としては、数百年に民族同士の対立が根深くありました。来週の良きサマリア人の譬え話で、サマリア人については詳しくお話ししますが、エルサレムに向かう主イエスと弟子たちを到底受け入れることなどできないという憎しみが、彼らの心情として、際立っていたのでしょう。

ヤコブとヨハネは、主イエスを拒絶し、神の救いを拒む彼らサマリア人が赦せなかったのです。ここで2人は「お望みなら」と、あたかも主イエスの心中を悟っているかの如く、彼らは進言するのです。けれど、主イエスは2人を戒めました。この主イエスの戒めに、2つの大きな意味があります。

1つは、主イエスが御救いを拒んだサマリアを憐れんでいるということです。あのソドムとゴモラを滅ぼしつくした裁きではなく、赦しを与えている。全世界に、余すところなく、神のご支配が、福音が行きわたるようにという主イエスの想いがあった。むしろ、それこそが神のご意志であったのでしょう。

もうひとつは、ヤコブとヨハネに対する戒めそのもの。戒めと言っても、罰を与えるということではなく、諭すということです。彼らは「主よ、お望みなら」と言いました。「お望みなら」ということです。主イエスの想いを悟っているかの如く、彼らは進言しているのですが、彼らの本心はどうなのか。主イエスの弟子である自分たちには、天から火を降らすという神の御業を起こすことができるという優越感さえ感じます。主イエスはそんな彼らの本心を見抜いたうえで、彼らを戒められたのではないでしょうか。

さて、ヤコブとヨハネの姿は、非現実的でしょうか。彼らの発言は過激なものでありますが、問題は過激かどうかではなく、主の御心を人間の都合に合わせて理解し、神の御業という権能に与っているから、それを自由に行使できるという錯覚に陥ることであります

私たち人間は、何か大きくて強い力、または人物、物など、そういったものが自分の後ろ盾となっているとわかりますと、安心感を得ることができますが、時にそういった後ろ盾となっている大きくて強い力、魅力的なものがあたかも自分の力であるかの如く、錯覚してしまうことがあります。自分の身の丈にあっていないにも関わらず、そういった力を、自分が行使できるかのように、振舞っている。そんな姿があります。
私は大学生の時に、大学の聖歌隊に所属しておりました。合唱経験のない私は、ひとりで自分のパートを歌うことすら出来なかったので、常に先輩たちに囲まれて、先輩たちの声を聞きながら歌っていました。練習には欠かさず毎回出ていたので、うまくなってきているという実感をつかむことができたのですが、その実感だけに留まらず、自分はもう満足にひとりで歌うことができるという錯覚にも陥っていました。まわりの先輩たちと一緒に歌っている時はそのように思っていたのですが、先輩たちの多くの人が卒業していなくなり、自分も学年があがって、後輩が増えてきますと、そこで全く歌えていない自分に気付かされました。今までは先輩たちが後ろ盾となって支えてくださる中で、自分は歌うことができていた。もう自分は満足に歌うことができると勘違いしていた。本当は満足に歌うことができず、自分の下手さに打ち砕かれて、初めて自分の実力を知ったのです。自分の傲慢さ、小ささ、無力さが浮き彫りとなってきた。それが、一からやり直すきっかけとなりましたが、本当の自分とやっと向き合うことができたのであります。そして、うまくなるためにも、失敗を恐れず、常に自分の実力と向き合っていなくてはならない。ひたすら努力して、練習しなくてはならないと自分に言い聞かせていましたが、本当に大事なことは何かということも、この時気付かされました。合唱ですから、当然自分一人だけが歌うわけではない。まわりの声を聞いて、合わせなくてはいけない。ひとつのハーモニーとなるように、そこに溶け込まなくてはなりません。そしてそのハーモニーを統括する者、指揮者に合わせなくてはなりません。指揮者とは英語で「コンダクター」、「支配する者」という意味があります。そのハーモニーを支配する者、指揮者こそ見なくてはならないのです。楽譜だけを見て、楽譜にかじりつきではだめだということ、その曲のハーモニーを支配する者に目を向けて、また思いを向けなくてはならないのです。強いて言えば、そのハーモニーの中に、自分の歌声を溶け込ませていく、指揮者に委ねていくということであります。

ヤコブとヨハネは主イエスを見ず、敵対者であるサマリア人と、弟子としての自分たちだけを見ていました。彼らは主イエスという自分たちの支配者を見てはいなかったのです。「主よ、お望みなら」。主イエスの望み、それは敵対者への裁きではない、サマリアに向けられた神の憐れみ。そして、弟子たちへの戒め、弟子としての誉れではなく、弟子だからこそ、神の憐れみに目を向けよという戒め、その憐れみ深い神にこそ仕えよという招きでもあるのです。

主に仕えるということ、その本質が今日の福音の後半、3人の弟子志願者との会話を通して、私たちに語られています。その姿勢が描かれています。すなわち、主に従う者には、安住の地はなく、福音宣教が優先され、後ろを振り返ることはできないという厳しい姿勢、覚悟であるということです。主イエスには安住の地がありませんでした。主イエスは飼い葉桶で誕生したのです。その後も、エジプトやガリラヤに逃れるなど、常に行先を負われました。また、主イエスはナインのやもめの息子のお葬式に立ち会い、死者を葬ったのではなく、そこに神の国を宣べ伝えました、息子が生き返ったのは、そのしるしです。死の雰囲気に満ちていたところに、神の支配を実現成されたのです。そして、主イエスはうしろをふりむくことなく、エルサレムへの行進を決意されました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活されるためです。そして、今「天に上げられる時期が近づいた」のでした。

主に従う者は、この主イエスを仰ぎ見て、「日々自分の十字架」を背負って歩むことに他なりません。人から受け入れられず、迫害され、休む間もない。主に従う者とはそういうものであります。しかし、この歩みは自分ひとりではないということ。仲間がいます。主に従う者たちがいます。それが教会です。そして、この教会の中心におられる方、私たちの福音宣教の指揮をとるお方が共におられるということです。福音宣教に伴う苦難の只中に、キリストが共におられるという慰めを受けるのであります。それは神の国、神のご支配の中に招き入れられて、初めて気付かされる恵みです。

しかし、私たちはいまだ、この世に生きる肉なる存在であります。主の招きよりも、自分自身の土台を盤石にしたい、まずは自分自身を整えたいという思いに駆られます。主の御言葉に従いえない姿があるのです。また逆に、主に従うことを誇り、主に従わない者を裁くという律法主義にさえ走ってしまいます。私たちは常に、それらの弱さを抱えている、悩みを抱えています。されど、主イエスは私たちを招き続きます。弱く、小さく、悩みに駆られて、立ち上がれなくなってしまう私たちを引き起こし、主イエスと共に歩ませてくださるようにしてくださるのは、主の御言葉であり、十字架と復活の御救いに他なりません。

主イエスは私たち人間の弱さを歩まれる。十字架への道をゆくのです。ヤコブとヨハネを含む弟子たちは、この主の十字架の御前に立つことはできませんでした。彼らは背を負けて、うしろを振り返って、逃げてしまうのです。自分たちの弱さ、惨めさ、小ささを痛感します。挫折したのでした。しかし、その絶望という暗闇の只中で、主の復活は光輝くのです。この復活の光に彼らは再び立ち上げられた。そう、福音宣教者として、主に従う者として。その出来事そのもの、その救いの体験こそが福音宣教なのです。

ですから、私たちの福音宣教は、弟子たちと同じように挫折から始まったのです。彼らは迫害され、殉教していきます。主に従う者の覚悟、その姿勢を彼らは証し、現代の私たちに問いかけられています。私たちもまた主の復活によって立ち上げられたものです。人間の都合があり、様々な事情が私たちにあります。そういうのを無視しろというわけではありません。どの場にあっても、私たちは福音を宣べ伝える者であるということです。お葬式という葬りの場に置いても、死を越えた神の恵みがある。悲しみの只中にある者たちに寄り添いつつも、それは悲しみに終わるということではない。神の国の支配は、死の世界を凌駕するのであるという確信に、福音宣教者、主イエスの弟子である私たちはそこに立ち続けるのです。

主イエスは弟子たちに、そして私たちに世界宣教、地の果てまで福音を宣べ伝えよと命じられました。その中に、あのサマリアが入っている。神に敵対する者を滅ぼせという命令ではなく、主の十字架と復活の贖い、永遠の命によって生きる新しい生の只中で、神に委ねて歩めと、全ての人を招いています。私たちは今!、ここで!主の招きを受けているのであります。私たちの働きは小さく乏しいものかも知れない。逆に、大きく、誇れるものかも知れない。そんな真の自分を知りつつも、しかし、そんな自分を見るのではなく、私たちの真の支配者にこそ目を向けてまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年7月7日 聖霊降臨後第7主日 「真の命」

ルカによる福音書9章18〜26節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

最近私は、「キリスト新聞」を購読し始めました。毎週土曜日に送られてくる新聞ですが、その新聞の記事の中に、「論壇」というコラムがあります。昨日7月6日の記事で、そのコラムの見出しのタイトルが「日本伝道について考える④ 教会は『真の救い』を語れ」というものでした。実に刺激的なタイトルです。この記事を書かれたのは、日本基督教団前総幹事の内藤留(とめ)幸(ゆき)という方で、私は、面識がないのですが、内藤先生は記事の中で、『救い』についてこう語っています。

「・・・・その(この世の)救いの内容は簡潔に言えば、『この世で生きている間は幸福でありたい』ということであり、また『できれば社会的差別・経済的不公平・政治的抑圧などから解放されて、皆が健康で安定した生活をしたい』ということであろう。そこで求められている『救い』は極めて人間主義的傾向が強い。それはキリスト教会が長い歴史を貫いて語り伝えてきた『真の救い』すなわち『永遠の救い』とは異なっている。・・・・『真の救い』とは実に永遠の命を与えられることによって完結・成就する『救い』である。・・・・永遠の命を与えられた者(信仰者)たちは、そのことをどのように自覚し、どのように世にあって生きるのだろうか。端的に言えば『信仰と希望と愛』に生きるのである。そのことはわたしたちが救い主キリストの復活を記念して守る主日礼拝で語られる神の言葉を聴き、主キリストとつながる喜びに満たされ、永遠のみ国への希望と救いの確信が新たにされるとき実現するのである」と、このように語っておられます。Read more