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2019年3月3日 変容主日の説教「闇から光への歩み」

「闇から光への歩み」 ルカによる福音書9章28~36節 藤木智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日は変容主日です。聖書には「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」とあります。それはまるで幻のようであり、非現実的な出来事のように思えます。

ただ、ルカによる福音書では、この主イエスの変容の出来事は主イエスの祈りの中で起こりました。祈り、それは天の神様との対話、交わりの只中にあることです。福音書の中で主イエスは何度も祈るために人里離れたところに行っていたとあります。夜を徹して祈っていた時もありました。夜祈っていたということと、「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると」、という記述から、一説には、この時、主イエスは夜に山に上って、祈っていたのではないかと言われています。その夜、暗い闇の中に輝くようにして、主イエスが変容し、栄光の光に包まれていたというのです。

暗い闇という意味では、弟子たちの心も暗闇の中にあったかと思います。それは、今日の冒頭で「この話をしてから八日ほどたったとき、」とありますように、8日前の出来事から続いております。8日前に何があったのか、すぐ前の箇所を読むと、9章21節、22節で主イエスはこう言われています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」人の子とは主イエスご自身のことです。主イエスとの歩みの結末、それは、排斥されて殺されることであると。弟子たちはそのことに敏感に反応し、落ち込んだことでしょう。マタイの福音書では、ペトロがそんなことがあってはなりませんと、主イエスといさめている場面もあります。さらに、23節から25節にはこうあります。「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うとまで言いますから、主イエスと歩むこれからの道は、絶望の道ではないのか、もう主イエスの最後のことが言われていて、自分たちはどうすれば良いのか、落ち込み、落胆していたことでしょう。

それが8日前にあった出来事です。弟子たちはその暗い闇とも言うべき思いで、主イエスと祈るために、この山に上ってきたのだと思います。彼らのその心と思いの中にある闇を照らすかのように、変容の出来事が起こりました。そこには自分たちの先祖であり、信仰の模範者であるモーセとエリヤの姿がありました。モーセは旧約の律法を象徴し、エリヤは旧約の預言者の中の預言者と言われる人物です。だから、この二人は旧約聖書そのものを表すと言えるでしょう。旧約聖書という神の御言葉、御心がそこで顕にされているのです。

そこで、ふたりと語っていた内容は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」というものでした。この最期というのは、やはり主イエスが排斥されて殺される十字架の死を表しています。主イエスが8日前に語られた内容と変わりはありません。しかし、そこには栄光に輝くイエスの姿があったと弟子たちは証言しています。おぼろげな目で弟子たちはその栄光の光を見つめ、ペトロは喜び勇んで言います。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を3つ立てましょう。・・・」しかし、そのペトロの言葉は、自分でも何を言っているのか、分からなかったことでした。ペトロが何を言っているのかわからないほどに、主イエスの栄光の光は眩しすぎたとも言えますが、彼はその栄光の光が真に何を示しているのかがわからなかったのでしょう。

この栄光の光は、主イエスの最期のことと決して無関係ではありません。弟子たちの思いをも暗闇に落としたその死の出来事も、主イエスの栄光を表しているのです。この最期とは、主イエスがエルサレムで遂げようとしておられることであり、成就するという目的を持っている出来事だというのです。

この最期を迎えることの何が主イエスの栄光を意味しているのでしょうか。この最期という言葉はルカによる福音書にだけ記されています。この言葉は「エクソドス」と言います。英語ではエクソダスと言います。これは実は、旧約聖書の出エジプト記のことです。出エジプト、エジプトからの脱出という意味で、エクソドスは脱出、または出発という意味があります。それは確かにエルサレムで迎える死を表します。ただ、主イエスの死を出エジプトと言い表すとき、これは奴隷状態の中からの解放を意味するのと同じように、死の闇における終わりを言い表しているのではないのです。それはこの死の闇からの出発、闇を通って、光へと続く旅立ちであります。主イエスの最期、それはこの出エジプト、闇からの解放を目指して、旅立っていく栄光への出発を意味するのです。

今日の第2日課であるコリントの信徒への手紙Ⅱ4章4~6節にはこう書いてあります。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」闇から光が輝く、それが、主イエスが成し遂げようとしておられる最期の出来事、神様の栄光です。それは人間の栄光ではなく、また自分のための栄光ではないのです。このコリントの言葉の中で、「主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」と言っています。キリストの栄光を伝えていくのであって、自分の栄光ではない。そして、その主イエスキリストの栄光のために、あなたがたに仕える下僕だと自分たちのことを言うのです。キリストの栄光を伝えるもの、キリストの栄光に生きるものは、神様と隣人に仕えるものであるというのです。キリストの栄光に関する福音の光とも言いますから、福音という喜びの光でもあるのです。主イエスが成し遂げようとしておられる最期とは、この福音の光を明らかにすることであり、それは仕えることの栄光であるということなのです。

先ほど、最期ということについて、それは死の闇における終わりを言い表しているのではなく、この死の闇からの出発、闇を通って、光へと続く旅立ちであります。と言いました。主イエスが既に「三日目に復活することになっている。」と言われた復活の光、復活の命をも明らかにされているのです。それが神様の栄光の中に生きる命の始まりでもあり、栄光への出発であります。主イエスの成し遂げようとしておられる最期は、最期まで私たち人間に仕えてくださる方として示された私たちへの愛であり、自分のためだけではなく、人のために仕えて生きるところに、神様の栄光の光が輝いていることを明らかにしてくださることなのです。

ペトロは仮小屋を立てて、主イエスの栄光をそこに記念として留めようとしました。しかし、主イエスは山に留まらず、山を降りて行かれます。最期を成し遂げるために、そして神様の栄光を明らかにするために、旅立って行かれるのです。

私たちもまた、高い山から降りて、この世で隣人と共に歩んで行きます。この礼拝から神様の祝福の内に遣わされて生きていきます。それは主イエスが栄光への出発、人に仕え、人と共に愛をもって生きていく姿の中に示された新しい生き方への始まりです。自分のためではなく、他者に仕えること、愛することにおいて、神様の栄光の光は広まっていくのです。今日ここからまた、その栄光の歩みを私たちは始めてまいりたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

☆ 3月夕礼拝のお知らせ ☆

☆ 3月夕礼拝のお知らせ ☆

今週木曜日(3/7)午後7時から。説教題「祈りを教えてください
ルカによる福音書11章1ー13節(新約127ページ)

皆さまを、お待ちしております

2019年2月24日 顕現節第8主日の説教 「我を忘れるほどの愛」

「我を忘れるほどの愛」 ルカによる福音書7章1~10節 藤木智広牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 今日の福音書の冒頭に、「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」とあります。これらの言葉というのは、前章の6章で語られた主イエスの説教のことです。そこには敵を愛しなさい、人を裁くなという内容の説教が語られていました。一見私たち人間には厳しい教えに聞こえるものですが、主イエスはそれらの内容が全て天の神様の愛と憐れみが土台に据えられていることを語られ、神様の赦しと愛の内に生きなさいという新しい生き方を私たちに語られました。
 そして、今日の百人隊長の僕を癒す福音の物語へと移るのですが、主イエスが語られたこれらの言葉、神様の御言葉に対する百人隊長の姿、そして信仰。それは主イエスがこれほどの信仰を見たことがない。と言われた言葉と重なり合っているのです。
 主イエスはガリラヤ地方のカファルナウムという町に入られました。ここはあのヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパスが治めていた地域でした。この人は洗礼者ヨハネを処刑したことで有名ですが、この町に住み、駐留していた百人隊長は、ユダヤ人ではない異邦人でありましたが、おそらくこのヘロデ王の権威の下にお仕えしていた人物だったでしょう。主イエスがカファルナウムに来られた時、この百人隊長の僕が病気で死にかかっていました。部下のためになんとかして病を癒してあげたいという彼自身の姿もそうですが、使いに送ったユダヤ人の長老の証言からも彼の人徳が伝わってきます。彼ら長老たちは、百人隊長の立派な行いの内に、神様の信仰を見出し、救いに近い人物であったと受け止めていたのでしょう。故に、百人隊長に信頼を寄せ、彼の願いを主イエスに伝えてあげたのです。
 ところが、彼らから事情を聞いた主イエスが百人隊長の僕の家に向かっている途中、百人隊長は再び使者を遣わして、「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。」と伝えたのです。病気で死にかかっているのですから、一刻を争う事態です。部下を助けに来てくださるように頼んだのは、この百人隊長です。けれど、彼は途中で主イエスの来訪を断るのです。彼のこの言葉には、神様の前にへりくだっている姿、そんな立派な人物像が描かれているように思えます。神様の前に、自分などは取るに足りない人物であり、さらに主イエスの方から来ていただくなどとんでもないことであると。
 彼がへりくだっているのは事実ですが、それは決して自分の信仰を誇っているのではないのです。一刻を争う事態、僕の苦しみを無視して、主イエスの来訪を断っているのではないのです。彼は続けて主イエスにこう伝えさせました。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」多くは望みません。せめて一言でいいからおっしゃってください。彼はそのように言っているのでしょうか。この一言というのは、まだ一言でもあれば、少しは望みが持てるという程度のものなのでしょうか。
 その一言の意味が、続く彼の言葉から明らかになってきます。自らも権威の下に置かれている、権威の下に生きている人物であると言います。彼にとっての権威の下というのは、ヘロデ王の権威の下ということを指すのでしょう。人間の権威の頂点(百人隊長にとっての)に立つ人物です。人間の権威のもとに自分は置かれていると言います。さらに、自分はまた権威を行使する立場にあると言います。百人隊長と言いますから、百人の部下、僕が彼に仕えています。その百人に向かって、一人に『行け』と言えば行くし、他の一人に『来い』と言えば来る。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにする。行け、来い、これをしろという命令の言葉は、彼らの意思には関係なく、必ず実行される。それはどんな危険なことでも、その命令には聞き従わなくてはなりませんから、命令する側にある百人隊長は彼らの命を預かっている人物、立場にある人物であると言えるでしょう。彼の一言が、部下たちの運命を決定づけるのです。
 彼はその部下たちへの一言を、主イエスからの一言、神の言葉に重ねているのです。それはせめてものの一言でなく、その一言に神の権威と力があり、確信をもつ言葉であるのだということ。さらに、百人隊長は主イエスを見ているのではなく、その姿を見たわけでもないのです。実際に会っていないのです。だから、見えているから安心して、一言おっしゃってくださいと言っているのでもないのです。その神様の言葉一言一言の権威と力は人間の権威と力を遥かに凌駕している。百人隊長としての人間の権威には及ばない、神の権威と力をその主イエスの神の一言、御言葉に全てを彼は委ねて、その言葉には必ず実現するという力と約束を信じて、主イエスに懇願しているのです。だから、彼は自分の謙虚さや信仰を誇って、僕の苦しみを無視して、主イエスの来訪を断っているのではないのです。
 主イエスは彼の言葉を聞いて感心したと言います。口語訳聖書では非常に感心され、と訳されています。これは驚くという意味の言葉から来ています。主イエスが驚く程に百人隊長の言葉を非常に感心しているのです。そして、主イエスは群衆に「言っておくが、イラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われました。これほどの信仰とは百人隊長の人徳のことはありません。彼の人の良さや業績、素晴らしい行動力のことではないのです。それこそ彼は自分の権威や人徳を用いて、主イエスを自分の下に向かわせることもできたわけです。しかし、彼はその自分の権威、人間の権威、目に見える力により頼んだのではないのです。より大きい目に見える力、魅力的な言葉に信頼したのではない。ただ一言、されど神の権威と力に満ちている、生きたただ一言の言葉に、真の確信を得ることができたのです。
 ヨハネ福音書で主イエスは弟子のトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と言われました。ここでは主イエスがトマスに感心したわけではありませんが、主イエスのトマスへの愛が示されています。その愛が分かったからこそ、受け止めたからこそ、彼は主イエスに「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と告白したのです。
 ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。この百人隊長の言葉、これほどの信仰と主イエスを驚かせたその言葉には、死にかかっている僕に対する神様の愛と憐れみを確信した言葉だったのではないでしょうか。主イエスの姿を実際に見て、実際に声をかけて癒してくれないと、信じることはできない。僕の病は治らないのではないか。そう思っても不思議ではないのです。しかし、彼は自分の権威、人間の権威を超えた神の権威における人間の絶えざる神の愛と憐れみを受け止めていたのです。それ故に、主は必ずこの僕を顧みてくださる。自分の権威にではなく、神の権威に救いはあるのだと信じたのです。神様の権威は、権威に満ち溢れている御言葉は常に人間のへの愛と憐れみに向けられているのです。
 主イエスはこうも言っています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカ21:33)権威ある神様の御言葉は決して滅びない。それは私たちへの愛と憐れみは決して尽きないという約束の御言葉であり、神様の意思です。だから、ただ一言、その御言葉の内に生きる私たちの命はそこで育まれて、生かされているのです。人間の権威の中にあって、貫いて語られているのは、神様の御言葉を通して示される私たちへの愛であり、命です。死の力をも超えて、神の愛は私たちに留まってくださっています。百人隊長の下僕はそのことを体験しました。だから、この御言葉を土台として、神様の愛と憐れみを土台とし、そこに留まって生きていくのです。
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年2月17日 顕現節第7主日の説教「岩の上に立つ」

「岩の上に立つ」ルカによる福音書6章37~49節 小杉直克 兄

本日の御言は「人を裁くな」という言葉から始まります。これは「イエスの説教」と言われるイエス様の説教の後半部分です。マタイの福音書では5章から始まる「山上の説教」と言われるものです。そうして、この説教は一般の群衆ではなく弟子達と共にイエス様に付従って来た人達に話されたものです。

この「人を裁くな」という言葉には思い出があります、それは大学3年生の時のことでした、当時、私は法学部に在籍し法律を学び出来れば法律関係の仕事をしたいと希望に胸膨らませていました。ところが、この御言「人を裁くな」という言葉に突き当たりました。将来法律関係の仕事に就くとしたら、私はどういうことになるのか考え、悩みました。「人を裁くな」という御言にはこのような思い出があります。

「裁くな」という意味は、神様の前でその人を裁く。有罪と決めるということです。裁く方も裁かれる方も共に神様の前に立つということになるのです。

イエス様は人を裁くなと言われた後に譬話をされます。始に「盲人が盲人の道案内ができようか。二人とも穴に落ち込みはしないだろうか」と言われます。「穴」の意味は井戸の穴などをいい、その意味は時に「死」を意味します。すなわち穴に落ちて二人とも死んでしまうということです。つまり、それは共に罪人として裁かれるということに繋がります。

更に、「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と言われます。自分の目の中に丸太が入っていれば、相手の目の中のおが屑などとても見えないはずです。ですから相手のおが屑を取らせてください等とはとても言えないはずです。ですからイエス様はその様な人達を「偽善者」ではないかと言われます。

「偽善者」とは元々は解説者、演説者、俳優を意味するものです、また意図的に良心に反する見せかけの行動を意味します。ですから、先ずは自分の目の中の丸太を取り除きなさいと言われます。そうすればよく見えるし、相手を理解する事も出来ると言われるのです。言葉を換えれば、先ずは自分の罪を自覚することであり、他者の罪を指摘出来るのはそれからだということです。

次に「良い実」と「悪い実」について語られます。良い木は必ず良い実を実らせます。悪い木は、即ち腐った木は悪い実しか実りません。ですから良い実の様に見せかけようとします。これも又偽善的な行為と言えます。主は言われます「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除く事が出来る。」と。

私は毎日車に乗っていますので、車の中でラジオをつけて交通情報を聞いています。すると番組で人生相談という番組があり、聞くともなしに聞いています。以前の人生相談は、相談者の抱えている悩みや、問題にどのように対処したらよいかを語っていました。しかし最近の番組の回答者は相談者自身が気づかずに持っているもの、相手に対して配慮のない一方的な思い、それらを排除して、相手を受け入れ許す道を探り出すことを勧めています。

目の見えない人が、目の見えない人を道案内する、そのようなことは不可能ですし、それは偽りの行為です。自身の目に丸太があるのに、相手の目の屑を取ることは出来ません。これも又偽りの行為です。ですから、貴方は相手を裁くことが出来るのですかと問うているのです。

主イエスは「人を裁くな」と言われます。それは人を裁くということはその裁く相手と自らも同じ 裁きによって裁かれるということです。ですから、裁くのではなく、赦し、与えなさいと教えておられるのです。

「許す」、「愛する」とは簡単なようで簡単なことではありません。この「イエスの説教」の内の27節に「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われています。そのことを行いなさいと。

46節に「わたしを『主よ、主よ、』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と、この御言は大変緊張する言葉です、この言葉は弟子達と主に付従って来た人達に語られたのです。イエス・キリストの教会に連なる人々に語られたのです。

主の教えを実行、実践することは、そんなに容易な事とは思われません。言葉では簡単に言えるかも知れません。「裁くな」とは言葉で言うだけではなく、行動で示さねばなりません。時には心の中で裁いていることもあるでしょう。言葉で言い現わさなくとも心で思うならば、それはやはり裁いていることなどです。諺に「目は口ほどにものを言い」と言います。「口では許すと言いながら、心では許していない」と言うことです。裁くことの意味するところは意味深く、その意味するところを心に尋ねなければなりません。

主イエスに従うということは、主の助けが無ければ、それは出来ないことです。初めに従ったペテロでさえ、主イエスが捕らえられた時に、「あなたはイエスと一緒にいた人だ」と言われて、三度知らないと答えました。あのペテロは私ではないと言い切れるでしょうか。

この「イエスの説教」の最後において主イエスは言われます。「わたしを、主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と。イエスを主であると呼び、従うのであれば、主イエスの言葉を実践しなさい、時には敵をも愛し許しなさい、そうして共に喜びなさいと、敵対心を捨て手を取り合いなさいと話されました。偽善者になってはならないと。

それでは、主イエスは主の言葉を実践する人とはどのような人なのかを示されています。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」と言われます。「岩」とは、主イエスご自身のことです。主の言葉に従う者であるならばこの岩の上に立ち、神様の言葉を実践し続ける限り、主は守り導いて下さるのです。旧約聖書の出エジプト記(17:6)に神様はイスラエルの民が、水がなく、争いが起きた時、ホレブの岩の割れ目から水を出しモーセを通してイスラエルの民に水を与えたように、主イエスは、求める人には霊的な命の水を渇くことなく与えて下さるのです。このイエス・キリストである岩に立たねばなりません。それには「地面を深く掘り下げ」ねばなりません。

では、僕であることを願う者たちはどうすればよいのでしょう。40節に「弟子は師にまさるものではない」という節があります。弟子は幾ら師に学んだからと言って、師そのものにはなれないが、学ぶことにより、師に似たものにはなれる。ひたすら、師に従うことで、師と同じ様な道を歩むことが出来るということです。

「師に似たものになれる」とは、主の御言、主の教えをどのように学び取り確信するのかということです。そうして何を為すべきか。そうして僕は何を行い、何を行わないのか、何が御心にかなう事なのか。「裁く」とは何を行い、何をしてはならないのか。そのためには「十分な修行」が大切であり。裁かず、赦し、愛するには何を為さねばならないか、御言が何を指し示しているかを塾考しなければなりません。そうして主の導きを待たねばならないこともあるでしょう。地面を深く掘り下げて岩に辿り着く迄です。そうして僕は御言を実践することが出来るのです。

岩の上に土台を建てれば、洪水になっても、嵐が来ても、苦しみや、苦難があっても押し流されることはないのです。しかし、岩の上ではなく、地面に建てる人もいます。岩の上に建てた人も、地面の上に建てた人も、嵐の洪水はやって来ます。ですが、岩に建てた僕はどんな嵐であろうとも、逆境であろうとも、イエス・キリストという土台を持つ僕は嵐に耐えることが出来るのです。嵐に持ちこたえることが出来るには、主イエスの言葉を実践し続けることなのです。

主イエスは、どんなときにも、主の言葉を実践できるように私たちを導いていて下さるのです。これからも、主が御顔を向け、主の導きが豊かに在りますように。 アーメン