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2019年2月3日 顕現節第5主日の説教「私の拠り所」

「私の拠り所」 ルカによる福音書6章17~26節 藤木智広牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日の説教を準備している時、私の机の脇に置いてある「日めくりマザーテレサのことば」に書いてあるマザーテレサの言葉にふと目を向けました。その日は2月1日でしたから、1日の言葉でした。こう書かれていました。「大切なのはどれだけの愛をその行いに込めるかということです。」何事も、愛を込めて行うことが大切だと、彼女は語っています。今日の第2日課も、パウロが愛について深く語っているあの「愛の賛歌」と言われるコリント書Ⅰの13章の御言葉です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」愛を込めて、愛がなければというのです。とはいえ、本来私たち人間には、愛がないということに気付かされます。自分自身を中心とした価値観の中で、他者に目を向けるからです。愛に根差す人生とは、愛なる神様に、委ねることです。この神様からの愛を受けて、その愛を初めて他者へと向けることができるのです。神様を信じて生きるとは、神様から与えられる愛に根差して生きることであり、自分本位の生き方ではないのです。パウロはこの愛に生きる人生を「最高の道」だと私たちに教えています。神様からの愛を受けて、その愛を分かち合う生き方です。それは私たち人間の力、知恵、努力といったものを越えた賜物であり、神様の恵みに基づく歩みなのです。

しかし、キリスト者であっても、神様の愛、恵みに気付かないことがあるのです。それはなぜか、神様に求めないからです。全て満たされていると思い、求める必要がないと感じたとき、祈らなくなります。私自身そのことをよく思わされます。神様の愛、恵みを見失い、自分本位に生きようとする罪の姿がそこにあります。

既に亡くなられていますが、カトリックのシスターの渡辺和子さんが、結構前に、土曜日にやっている「こころの時代」という番組に彼女が出演したとき、彼女はこういうことを言っていました。「深くて暗い井戸の底には、真っ昼間でも、井戸の真上の星影が映っている。井戸が深ければ深いほど、中が暗ければ暗いほど、星影は、はっきり映る。」肉眼では見えないものが、見えると彼女は言います。この井戸の暗闇、これは私たちの人生における様々な苦難を表しているでしょう。その苦難を通して、今まで気付かなかったものに気付くようになるというのです。暗ければ暗いほど星影ははっきり見えるように、苦難が大きければ大きいほど、見えなかったものがはっきりと見えるようになってくる。いや、本当は普段から見えているのに、それに気付かないのです。光は闇の中でこそ輝いて見えるように、私たちは様々な苦難を味わい、傷つけられた時に、はじめて本当の恵みに気付かされることがたくさんあるのです。

さて、今日の福音は、主イエスが平らな所で人々に語られたと言われる「平地の説教」といわれる箇所です。主イエスが山から降りて、平らな所に立つと、大勢の弟子とおびただしい群衆が主イエスを求めて集まってきたと記されています。しかもユダヤ全土と記されていますから、ずいぶん遠くから来た人もいたでしょう。さらに、ティルスやシドンといった異邦人の都市といわれていた地方から来た人もいたそうなので、この中には異邦人もたくさんいたことかと思います。

主イエスが平らな所にお立ちになったとはどういうことでしょうか。主イエスの方から私たちに近づき、私たちと同じところに、同じ姿勢で、同じ立場に立ち、私たちと向き合ってくれているということ。そのような人々への主イエスの愛が伝わってくるのです。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと関係なく、同じところで、同じ神様の恵みをお与えになるのです。

しかし、主イエスが立っている「平らな所」とはそういうことだけを意味しているのでしょうか。イザヤ書26章7節につぎのような言葉があります。「神に従う者の行く道は平らです。」、口語訳では「正しい者の道は平らである。」とあります。神様に従う正しい人、その人が歩む道は平らである、まっすぐであると言うのです。私たち人間の人生は、よく「道」にたとえられます。生まれたときから、死ぬまでの道のりを歩んでいます。私たちの人生の道は平らでしょうか、まっすぐでしょうか。常に順調に歩くことができるほど整備されているのでしょうか。私自身の人生の道は決してそうではありません。様々な不安や悩みを抱え、自分本位の欺瞞に満ちたでこぼことした道があります。また暗闇があり、見えない道があります。決して平らではありません。とてもじゃないけど、主イエスと同じところに立つことなどできない、と私は思っております。主イエスが立っておられる平らな所。主イエスが歩まれる道はまっすぐな正しい、神に従う者の道です。平らな道です。私たち人間本位の道ではないのです。神の道、救いに至る道なのです。主イエスは今そこに立っておられる。同じ平らな所に立っていようとも、その道は違うのです。

主イエスは今御自身が立たれている平らな所に私たちを招かれようとしています。神に従う正しき道へといざなって下さるのです。それは主イエスを信じることによって、導かれるのです。その道に導かれても、私たちの人生という道は険しいものです。決して平らではないかもしれない、辛いこと、悲しいこと、不安、悩みなどが立ちはだかります。しかし、主イエスと歩むことによって、この先の人生のゴールというのは、死ではない、永遠の命であるということがわかります。神の国のご支配に私たちの人生が組み込まれるのです。どのような壁にはばまれようと、必ずそこから救って下さる、またその道から離れそうになったとしても、悔い改めの道が常に備えられているのです。主イエスに招かれ、主イエスを信じたその時から、この救いの道を主イエスと共に歩む、信仰の道、信仰生活が始まります。

神様に従う信仰の道、それがどういう道、どういう人生なのかということを示しているのが20節以降の御言葉にあるのです。主イエスが語られた幸いと不幸のお話です。このことを、主イエスは今までいた大勢の群衆ではなく、主イエスを信じ、主イエスに従うことを決めた弟子たちに語っておられます。20節から23節の主イエスの語られる幸いと、24節から26節までの不幸の内容を見ますと、私たち人間の価値観からしたら、全く真逆のことを言っているでしょう。人間の価値観をもって理解することはできないのです。

主イエスは神の国について語っています。それは貧しい者にこそ与えられると言います。飢えている人は、いずれ満たされるようになり、泣いている人は、いずれ笑うようになると言います。神様の約束に基づいた恵みが与えられるということの徴です。しかし、私たちは、この貧しさ、飢え、悲しみということについてどう考えているでしょうか。貧困の格差が広がっています。世界の食糧配給は実にアンバランスです。多くあまる国があれば、全く足りないという国があります。他人の悲しみは他人ごとで、鈍感です。何が問題かと言えば、それは人間自身にあります。自分たちの身を第一にして、分かち合おうとしない姿にあるのです。自分の力で、知識で、努力で得たものは手放したくないのです。当然の報酬だからです。富んでいる人、満腹している人、笑っている人はそうです。それが与えられたものだとは思えないのです。しかし、神の国が完成する時、すなわち終末の時、それらは朽ちると主イエスはいいます。限界があるのです。いつその人に嵐が起こるのかわからない、ヨブのように、突然全てを失うということが起こるのです。

貧しさ、飢え、悲しみ、それらを目の当たりにして、自分自身の力量ではどうにもならないことを感じます。だから求めます。助けてくださいと祈ります。自分自身の力では、全くそこから救われる道がないからです。そのことに立ち続けるのです。主イエスはその私を幸いだといってくださる。与えられることの喜びを教えてくれます。恵みを恵みとして受けとることができる。それが神の国生きる者、幸いな者なのです。

私たちは受けるからこそ、与えることができます。分かち合うことができます。使徒言行録4章32節から35節に、初代教会の時代に、教会に集まった人たちのことが記されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していたとあります。何においてひとつとなるか、それはキリストです。キリストが私たちの只中におられるのです。キリストの愛に生かされる人は、その愛を分かち合う者として、隣人と共に生きることができるのです。

十字架の愛によって赦された私たちは、キリストの愛を証しするものです。それは神様に従う平らな道をキリストと共に歩む者の姿です。与えられることの喜びを知る者です。愛を知る者です。愛を込めて、それぞれが与えられている務めに励んでいきましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年1月27日 顕現節第4主日 礼拝の説教「罪深き者よ、神の福音に生きよ」

「罪深き者よ、神の福音に生きよ」 ルカによる福音書5章1~11節  藤木 智広 牧師
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 主イエスの一番弟子であるシモン、後のペトロが主イエスと出会い、弟子とされた物語から御言葉を聞きました。シモンの体験は神様、主イエスとの真の出会いを描いております。私たちもこのシモンの姿に自分を重ねるならば、自分が神様と出会ったきっかけ、また既に洗礼を受けている方は洗礼を受けるきっかけとなった体験を思い起こすのではないでしょうか。神様は実に不思議なやり方で、シモンと出会い、私たちと出会ってくださるのです。
 この時シモンは窮地に追い込まれていました。「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と漁師のプロがこのように嘆いていることは、死活問題に関わります。明日をどのようにして生きていけばいいのか。シモンはそのことに頭を悩ませ、疲れ果てていました。自分の船には主イエスが乗っておられますが、彼は本当の意味でまだ主イエスと出会ってはいなかったのです。
 実は、主イエスとシモンの出会いは、この場面が始めてではありませんでした。前の4章38節から41節で主イエスはシモンの家を訪ね、高熱に苦しむシモンのしゅうとめを癒し、またその家で多くの人を癒していました。主イエスはこのシモンの家を拠点に宣教活動を行い、人々を癒し、神の言葉を説教して、礼拝を行っていたのではないかと言われています。自分の家に来た主イエスのことを知らないわけがなかったでしょう。もしかしたら、シモンは主イエスと一緒に食事をしていたのかもしれません。
 そして主イエスは出かけて、ゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)におられました。そこで神の言葉を聞こうと、群集たちが集まって来ました。その傍ではシモンたちがいます。神の言葉を聞くどころではなかった。明日をどう生きていけばいいのか、これからの自分の人生を考えながら、ただ網を洗っている漁師たちの姿がありました。
 主イエスは彼らの姿をもご覧になっていたのでしょう。神の言葉を説教する場所として、主イエスはシモンの船に乗ったのです。そして、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになったと言います。シモンに手伝ってもらい、シモンとの関わりを主イエスの方から持たれたのです。自分のしゅうとめを癒してくだった主イエスが自分の船に乗っている。それこそ、漁師である彼にとって、船は彼の商売道具以上に、自分の人生を表しているものでしょう。その自分の人生の象徴とも言えるこの自分の船に主イエスほうからやってきてくださり、彼と関わりを持たれるのです。しかし、シモンは神の言葉を深く聞くことができなかったでしょう。夜通し苦労して何もとれなかったのだから、肉体的にも精神的にももう疲れ果てていたはずです。そして、主イエスが群集に話し終えると、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。漁のプロである漁師が夜通し苦労したけれど、何もとれなかったのです。漁師でもない主イエスがそのように言われる根拠は何かなどと伺い知ることは到底できなかったでしょう。
 しかし、シモンは言います。お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。お言葉ですから、これはあなたの言葉にかけて、あなたの言葉に基づいて、やってみましょうという意味です。彼にとっては、それは未知なる領域であり、本当に漁をして魚が絶対にとれるなどという確信は抱けなかったでしょう。この言葉は、漁師としての自分の力や計算ではなく、あなたの言葉にかける、あなたの言葉以外に何も委ねるものはないというシモンの告白であります。私がこれから漁をするのは、漁師としての感や経験ではない。あなたの言葉によって、あなたの言葉に突き動かされてするもの。主権は自分ではなく、主イエスであり、神様なのです。
 そして、シモンたち漁師に驚きの光景が広がります。その通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになって、船が沈みそうになるくらいに魚が取れたのです。信じられないという思いを抱きつつも、彼らの仕事は大成功を収めたわけです。互いに握手し、肩を寄せ合ってハグをし、その喜びを大いに表すでしょう。しかし、その大漁の奇跡と恵みを前にして、シモンの反応は意外なものでした。主イエスの前にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのです。漁師仲間のヤコブとヨハネも続きます。皆喜び舞踊っているのではなく、主イエスの前にひれ伏しているのです。それも、喜びや感謝来るものではありませんでした。恐れから来ているものなのです。
 私があなたの言葉に全てを委ねたから、当然このような恩恵に与ることができたなどとは微塵も思っていないのです。この大漁の奇跡がもはや自分の力や計算、自分の存在によってどうこうできる範疇を超えていることから、彼らは恐れ、そして主イエスの前に顔をあげることができず、罪人としてただひれ伏すしかなかったのです。それは、ようするに自分が正しい者ではないということです。正しさは正確さです。シモンにとっては漁師としての正確さがあり、それで生きてきたのです。自分を頼りにして、それこそ漁師としての自分の言葉に基づいて、生きてきたのです。しかし、現実は厳しいもので、夜通し苦労したけれど、何もとれなかったということが起こりました。漁師としての正確さが打ち破れ、もはや自分には何も残るものがなかったのです。この大漁の奇跡はもはや自分自身の正しさ、正確さから来るものではない。主イエスがもたらす神の大いなる恵み、その聖さを前にして、自分は汚れたものであり、罪人であるという彼の恐れがここにあるのです。むしろ、この大漁の奇跡を通して、自分の罪に気づかされたと言って良いでしょう。正しいのは私ではなく、主イエスあなたであると。
 しかし、尚主イエスはシモンたちから離れず、むしろ更に彼らに近づかれるのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と。罪人のままにいつまでも恐れることはない。むしろ、ここで主イエスは彼らを新しい人生へと導いていかれるのです。人間をとる漁師としてのキリスト者、神の言葉がもたらす福音にこれからあなたがたは生きていくのだ。その福音の恵みはあなた自身の言葉に基づく上では見えてこない、わたしの言葉、神の言葉に基づくところから、福音の恵みが見えてくるのです。神の福音に生き、その福音を伝えていく新しい生き方へと彼らを招き、導いて行かれるのです。そして、この言葉は、彼らの罪が既に神の赦しの中におかれていることを先取りしているのです。
 夜通し苦労しても何もとれなかった。この現実の厳しさ、苦難は私たちにもあります。しかし、その私たちの只中に、主イエスのほうから近づいてこられる。シモンの船に乗られたように、私たちの人生の只中に主イエスは来てくださるのです。そして、自分の罪に気づかれ、神の言葉の恵みをより一層体験するようにと導かれているのです。お言葉どおりに、そう、目に見える自分の期待、確信は打ち崩されるかもしれない。しかし私たちは神の言葉に基づくことができるのです。諦めることはないのです。わたしの船に主イエスが乗っていてくださり、共にいてくださるからです。自分の正しさ、目に見える確かさを超えて、主の偉大な驚くべき恵みは、確かに起こっているのです。だから、私たちもお言葉どおりに、お言葉に基づいて歩んでいくのです。
 ここにシモンと神様、主イエスとの真の出会いがあります。既に自分の家で出会っていたけれど、本当の意味で主イエスと出会ったのはこの時なのです。あなたこそが正しい人であり、その力強い御言葉によって私は導かれ、その中にわたしの人生があり、命があるのだと。シモンのひれ伏す姿は、そのことを彷彿とさせるのではないでしょうか。私たちも主イエスと出会います。それは自分の言葉ではなく、お言葉どおりに、神の言葉に聞き、神の言葉に基づいて、人生を歩むところに、主イエスは共にいてくださるのです。
 そして何よりも、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。この人生の苦悩、困難を主イエスは共に負って下さる方なのです。同じ状況、同じところに立ってくださるのです。でも、それで終わりではない。沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。そう、その苦難から主イエスは共に進んでくださるのです。だから、今主イエスが私たちに神の言葉を告げています。心を開いて、その言葉を聞き、お言葉どおりに前に進んでいきたい。必ずや主イエスは私たちを導いてくだいます。神様との出会いによって、皆様の歩みが祝福されたものとなるように。その祝福の内に歩んでまいりましょう。
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

使徒フィリポとヤコブの日

フィリポは同じ使徒のペトロとアンデレ兄弟と同じベトサイダの出身で、イエスの召命を受けて12使徒の一人になりました。彼はヨハネによる福音書に多く登場し、ナタナエルをイエスの弟子として導きました(ヨハネ1:43~51)。最後の晩餐では、イエスが父なる神について証しをしていた時、彼がイエスに「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」と言うと、イエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:8~9)とイエスから諭されますが、彼の質問によって父なる神とイエスがひとつであるということが明らかにされました。使徒言行録に登場する執事のフィリポは別の人物です(使徒6:5)。彼は最後フリギアで宣教して、殉教したと言われています。

ヤコブはアルファイの子ヤコブのことで、漁師でヨハネの兄弟であるヤコブとは別人です。両者を区別するため、また一方が年長者であったため、漁師のヤコブは大ヤコブ、アルファイの子のヤコブは小ヤコブと言われています。またこのヤコブは、後にエルサレム教会のリーダー的存在として、教会を導いたイエスの弟である主の兄弟ヤコブ(マタイ13:55、使徒15:13~21)と同一人物であると言われ、新約聖書ヤコブの手紙の著者はこの主の兄弟ヤコブであると言われていますが、定かではありません。彼と兄弟のヨセの母マリアは、マグダラのマリアとサロメと共に、イエスの十字架の死を遠くから見守っていました(マルコ15:40)。主の兄弟ヤコブと同一人物であれば、彼はエルサレムで62年頃に殉教したと言われています。

二人の記念日は、元は5月1日でしたが、労働者ヨセフの祝日が後から5月1日に定められると、彼らの記念日は5月3日に移されました。

使徒マティアの日

イエスキリストの昇天後、使徒と人々の間で、イエスを裏切り自殺したイスカリオテのユダに代わって、12人目の使徒が選出されました。使徒となる条件は「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、いつも一緒にいた者」(使徒1:21~22)であり、人々はユストともいうヨセフと、マティアの二人を候補者として立てました。選出の方法はくじ引きであり、その結果マティアが12人目の使徒として選出されました(使徒1:23~26)。

くじは、偶然や運などのイメージがありますが、旧約聖書箴言の16章33節によると、「くじは膝の上に投げるがふさわしい定めはすべて主から与えられる」とあるように、神がその結果を導いて、み心を示されるという信念に基づいています。神がもっともふさわしい最善の結果を与えてくれると見なされていたのがくじによる選出方法でした。初代イスラエル王サウルは、くじによって選ばれた王であり(サムエル上10:20)、また、ユダヤ教の礼拝を司る、重要な役職にあった祭司の職分の配置も、このくじによる選出方法によって取り決められたのです。

使徒となったマティアの詳細は不明です。伝承によると、彼はエチオピアで活動し、ローマで殉教したか、またはエルサレムでユダヤ人たちによって石打ちの刑にあい、斧で斬首されたとも言われています。また、彼はひとつの福音書を書きましたが、それは初代教会の時代に失われたとも言われています。

使徒マティアの祝日が定められたのは10世紀以後で、ローマの暦では5月14日です。ドイツの暦に従うルーテル教会では2月24日に定められています。