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2014年3月9日 四旬節第1主日 「自我の復活」

マタイによる福音書4章1〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「自分」という存在、自我について考えたことがあるでしょうか。一般的に、自我が目覚めるのは幼児期、およそ3歳頃で、自我が確立するのは、思春期を迎えた時だと言われています。しかし、自我の確立は個人差があるらしく、最近では「アダルトチルドレン」と言って、身体は大人でも精神的にはまだ自我が確立されていない人のことを指す人がいるそうです。このアダルトチルドレンのケアに携わった方がこういうことを言っています。「自我の確立に必要不可欠なもの、それは親の愛である」と。子供の成長に大きく影響するのが親の愛情であり、子供は親の愛情を通して情緒的に安定し、「どんな自分でも愛されている、受け入れられている」という確信をもって、初めて自分自身の人生を自我の確立をもって歩み始めることができるということです。逆に子供が親の愛情を十分に受けることができないと、肉体的には成長していっても、常に親の愛情を求め、なんとか親から愛されたい、受け入れてもらいたいと無意識のうちに考え、行動し、子供はなかなか自分自身の人生を自我の確立をもって歩み始めることができないそうです。

ですから、自我の確立というのは、決して自分自身の力だけで確立できるものではないのでしょう。外からの力、支えが必要だということです。それが親の愛であると言います。大人になって独立しても、本当の意味で自分は自分らしい、自我をもった人生を歩んでいるのか、親からまたは他人から愛されたい、受け入れてもらいたいという思いは誰しもが抱くことではありますが、そのことにばかり束縛されて、思い悩み、親から、他者から愛されるために、受け入れられるために、自分を偽って、自分自身の人生を歩んではいないだろうか。自分の人生を自分らしく歩めてはいない、そんな自分自身の姿がどこかにあるのかも知れません。

親の愛、それは様々な愛情表現があるかと思いますが、やはり真の愛というのは「どんな自分でもありのままに愛されている、受け入れられている」ということが軸にあるかと思います。愛するということでありますから、それは決して親が子供のわがままを聞いて、甘やかすということではなく、子供と真剣に向き合い、時には叱りつけることもあるでしょう。でも、絶対に子供のことを見捨てない、見放さないのです。それが、子供自身が感じる親への愛です。親への信頼です。

ルカによる福音書に、有名な放蕩息子のたとえ話があります。ある父親にふたりの息子がいて、次男の方はある日、父親がまだ生きているにも関わらず、財産の半分を分けて欲しい、相続して欲しいと願い出ます。父親が次男に財産を与えると、次男はもう一人でこれからは生きていける、誰からも束縛されない自分らしい人生を歩んでいけると思うかのように、旅に出るのです。父親を残して。話の結末はもう皆さん知っているかと思いますが、結局この次男は父親のもとに帰ってきます。放蕩の限りを尽くして、何もかも失い、世間の厳しさを存分に味わい、ぼろぼろな状態で帰ってくるのです。この時の父親と次男の再会の場面は印象に残ります。次男は自分が許されるとは思っていません。もう息子とは思われない、親子の縁を切られてもしかたないと思います。しかし、彼の予想を遥かに凌ぐ出来事が起こります。彼の姿を見た父親が遠くから走り寄って、彼を出迎えるのです。彼の姿を見て、大いに喜び、彼を愛する息子として受け入れるのです。父親は彼を家に迎え、ご馳走を出し、立派な衣服を与えました。もう生きてはいないかもしれないと思っていた息子を、愛で包んだのです。

この息子は真の親の愛をここで知ることができ、自分という存在が受け入れられたことを知ったのです。親の財産を相続し、独立して旅立っていった息子は、自我が確立されていたかのようで、しかし、放蕩の限りを尽くして誰からも相手にされなくなった時に、自我を見失っていたのだと思います。自分という存在、自分の価値は、親からの相続財産という目に見える金銭的なものにしか彼の周りの人たちには映らなかった。それでは生きていくことができないと彼は悟ったのです。彼は父親との再会、ありのままに自分を受け入れてくれる父親の愛によって、自分の存在価値を見出した、見失っていた自我が復活したのです。

今日の福音書は主イエスが荒野で悪魔の誘惑を受けたお話です。主イエスはヨルダン川で洗礼を受けた直後に、この荒野で試練を受けました。それは「霊に導かれて」とあるように、この霊というのは神様の御心でありますから、父なる神様によって、主イエスはこの場所に導かれたのです。その理由は、主イエスが洗礼を受ける際に言われた言葉「正しいことをすべて行う」ためでした。この正しいこと、それはすなわち十字架につくということです。この十字架につくための道を歩んでいくということに繋がる出来事、それがこの荒野での試練です。

主イエスは40日間の断食をしました。空腹を覚えたというのですから、過酷な試練の時であったでしょう。空腹で弱り果てていた主イエスを悪魔は3回誘惑し、試します。この時悪魔は「神の子なら」と言います。これは事実を前提にした言い回しでありますから、悪魔は主イエスの正体を知った上で誘惑しているのです。「神の子ならばどうだ」という具合に、そのままに理解できるかと思います。

神の子である主イエスは、最初の誘惑であれば、石ころをパンに変えることは造作もなかったでしょう。しかし、主イエスは全て神様の御言葉にたって、御言葉に委ねてこの悪魔の誘惑を退けたのであります。ただひたすら父なる神様への信頼を置いた姿勢を貫いたのです。私たちはこの主イエスの姿にあやかれるのでしょうか。悪魔からの誘惑、試みというのは例外ではありません。それは私たちが、私たちの弱さ、弱点を突いてくる現実的な問題と向き合わされているということです。それに打ち勝つほどの信念、または信仰というものがあるのかどうかということが問われている、そう考えるかも知れません。けれど、結局私たちが行きつく結論は、悪魔と同じ言葉を使うかもしれません。主イエスは神の子だから、だから試練に耐えることができた、誘惑に打つ勝つことができたのだと。私たちは神の子じゃない、生身の人間だから無理だという具合に。

第1の誘惑の内容は特に切実な問題です。食物に関するからです。3節と4節を読みます。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」」人はパンだけで生きるものではない。こう聞きますと、すぐにこう思わないでしょうか。人はパンがなければ生きてはいけないのだと。どんなに綺麗事を言われても、どんなすばらしい徳のある生き方を示されても、食欲には勝てない。食べなければ死んでしまう。ただそれだけのことではないか。まずは食欲を満たさなければならない、そう思います。ですから、尚更、悪魔の言葉に納得してしまうのです。神の子なら、石をパンに変えたらどうかという言葉。そうすれば世界の食糧問題は一気に解決する。問題はなくなり、人類は生きながらえる。私たちも悪魔の言葉に同意するというより、そのような私たちの思い自体が悪魔の言葉になっているのです。

しかし、ここで主イエスが言う「生きる」とはどういう意味でしょうか。ただ食欲を満たすだけの肉体的なことだけを指しているのでしょうか。主イエスは決してパンのこと、食糧のことを無視しているわけではありません。拒絶しているわけではなく、それだけでは生きられないというのです。私たちを真に活かす真の糧があると言われる、それが神の御言葉であると言われます。神様の御言葉とはどういうことでしょうか。この4節の言葉には元の言葉があります。申命記8章3節の言葉ですが、前後の2節から4節にはこう書いてあるのです。

「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」

この40年の旅というのは、モーセに率いられた旧約の民、イスラエルが経験した40年の旅、神様が与えてくださる約束の地に向けて彼らが歩んだ旅のことです。この40年の旅は、実に誘惑と試みだらけの、主イエスとは違い、その誘惑と試みに翻弄されたイスラエルの過酷な歴史です。この旅路の中で、神様は天からマナという食べ物を降らせて、人々に与えました。彼らを飢え死にさせるようなことはしなかった、その日に必要な糧を与え続けたのです。私たちが主の祈りにおいて「必要な糧をお与えください」と祈るように、私たちにはパンが必要です。けれど、このパンは石ころからたやすく変えられて手に入るパンではない、ただ食欲を満たすだけのパンではなく、人として、私が私として生きていくために必要な糧です。

イスラエルの人々がこの過酷な旅路の中で、誘惑に翻弄され、弱く、もろい姿を神様の前でさらけ出すように、私たちもそのような姿をさらけだして生きています。神様の目に留まる姿は、彼らイスラエルの民となんら変わりはないように思えます。主はこの私たちの弱さを、苦しさを見つめておられるのです。私たちに本当に必要な糧は何であるのかということを見つめておられる。だから御言葉が私たちに示されています。私として生きていく命の御言葉を。

神様の御言葉によって生きるとは、この恵みを頂いて、生きる、感謝して生きていくということです。そして、神様の御言葉によって私たちは生きるということは、神様の御言葉になんとかして与ろうと求める以前に、先に御言葉は語られているということなのです。それがマナという目に見えるパンという糧を頂いているということ、すなわちこの神様の御言葉、それは神様と私たちの交わりであり、神様が私たちを愛してくださるということにほかならないのです。神様の愛によって真に、人として生きていくことができる、ありのままの私として生きていくことができる。なぜなら、神様の愛は私たちを見捨てないからです。ありのままの私をそのままに愛されるからです。ここに、私たちの自我があります。自我をもって、そのままに私として生きていくことができる道があるのです。

パンだけで生きていけるでしょうか。ここに放蕩息子の姿が重なります。彼は財産を手に入れて、もうそれだけで生きていかれると思ったのです。父親は必要ないと思ったかもしれません。食べ物、着るもの、お金、生活に必要なものはすべて揃っていたでしょう。父親から独立して己の道を突き進む、自我をもってして自分の道を突き進むのです。しかし、彼はすべてを失って、誰も助けてくれる人がいない、受け入れてくれる人がいないことに気付かされます。もはや自分という存在は失った財産と共に消え失せてしまったかのように。自分の存在を見失ったら、自我を見失ったら、本当の意味で生きられないのです。私の自我を自我として受け止めてくれるもの、その拠り所が必要なのです。パンそのものは、その拠り所とはならないのです。

彼の自我を復活させたのは父親でした。父親の愛でした。息子の自我の拠り所はそこにあるのです。だからそこで生きられるのです。私たちは一人では生きていかれないからです。自我を確立するというのは、独立して好き勝手に生きていくことではない、むしろそこでは生きられない、自分の存在を根底から受け止めてくれる土台がないと、生きられないのです。

私たちは神様のみ前にあって、不信仰に陥ることがたくさんあります。誘惑に陥りそうなことがたくさんあります。信仰者といっても、神様のみ前にあって、信仰のアダルトチルドレンとしての私たちの姿があるのか知れません。信仰者であっても、信仰を見失っている時がある。本当に私は信仰があるのか、そういう不安がある。パンだけで生きようとする姿があります。だから私たちは毎週の主日ごとに、帰ってくるのです。この教会、キリストのみ体のもとに。放蕩息子のように、この世ではすべてを失い、疲れ果てているこの私を、主は迎えてくださるのです。主の御言葉こそが真に私たちを生かしてくださる。神様の愛を知り、キリストに繋がっているという平安が与えられます。この平安を知るからこそ、真に私は私という自我をもって新しい一週間を生きていくのです。それが信仰をもつということ、神様の愛に信頼して生きていくということです。キリストと共に、父なる神様の愛に支えられて歩みましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年3月2日 変容主日 「恐れることはない」

マタイによる福音書17章1〜9節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日は変容主日です。弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネが主イエスに連れられて、高い山に登り、そこで彼らは不思議な体験をしました。弟子たちの目の前で主イエスの姿が変わり、そこにモーセとエリヤという旧約の預言者が現れて、主イエスと語り合い、そして光り輝く雲に弟子たちは覆われて、天の声を聞いた。そして弟子たちが顔を上げて見ると、主イエスの他には誰もいなかったと言います。彼らは一体何を見たのでしょうか、そしてこの変容の出来事、物語は私たちに何を示しているのでしょうか。出来事が出来事なだけに、非常に難解な物語かもしれません。

けれど、この非日常的で、神秘的な出来事の目撃者、体現者であるペトロ、ヨハネ、ヤコブのことを、とてもうらやましく思えるのは私だけでしょうか。彼らは本当に特別な体験をした、第2日課のペトロ自身の言葉で言えば、彼は神の威光を目撃した「目撃者」であると言います。こんなに間近に神様の威光を、恵みを経験することができたと言うのです。(Ⅱペトロ1:16)普段と変わらない日常生活を送っている中で、その日が当たり前のように来て、当たり前のように過ぎ去っていくと感じてしまう私は、真剣に神様の恵みを受け止めているのだろうかと思うものです。自分自身も神様の恵みを受けて、今この時を生かされている。そのことを自覚することが既に、神様の威光、恵みの目撃者なのですが、やはりペトロたちのような体験を「特別な神体験」として見てしまうのです。目に見えることだけに縛られている私自身の愚かさであり、信仰の薄さであると感じます。しかし、ここで言われている「目撃者」という言葉。ペトロたちの体験、あの変容の出来事は、自分自身の愚かさ、信仰の薄さという次元では計りきれないほどのことだったのだと思うのです。

彼ら弟子たちが生きた初代教会の時代、それはローマ帝国のキリスト教会への迫害が特に激しかった時代でありますが、その苦難と困難の只中にあっても、この体験が彼らを、そして教会の支えとなったのです。「わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(1:18―19)この言葉から伝わってくるのは、厳しい迫害下の中で、時には不信仰になりかけ、時には希望を失い、いつ命を失ってもおかしくない、そんな暗黒に包まれた日々を送ろうとも、いずれ夜が明けて、明けの明星が登る時が来るのだ。私たちの心に輝く命の光、主イエスという光が輝く時が来るではないか。私たちは確かに天の声を聞いた。暗い所は暗いままではない、そこに輝く灯火を私たちは灯しているのだ。この灯火を消さないように、望みを抱いて生きていこうというペトロとその教会の人々の思いであります。彼らはそういう信仰、神信頼を基として、歩んでいったのでしょう。やがて、ペトロは捕まって、逆さ十字の刑に処せられたのでありますが、最後までその希望のともし火を消すことなく、後世の人々に主イエスの光を伝えていった人です。

この主イエスの変容の出来事は、弟子たちにとって、単なる良い思い出となった、記念となった過去の出来事には収まらないのです。その時代に生きた彼らの確固たる支えとなり、希望となったという真実であります。神様の威光、恵みの目撃者として、どのような状況にあろうとも、自分たちの生を真に生かしむる救い主を仰ぎ見ることができたのです。

話が少し戻りますが、この変容の出来事が起こる6日前、ペトロたちは深い絶望と悲しみの只中にあったかと思います。彼らは主イエスの受難と十字架、復活の予告の前につまづくのです。主の受難と十字架を受け止めることができないペトロは主イエスをいさめますが、主イエスから「サタン、引き下がれ」とさえ言われてしまったのです。(16:22―23)彼らからしてみれば、主と共に歩んできた宣教の旅がここで潰えてしまう、「主イエス」という希望が儚くも消え失せてしまう。その神の子の死。世の権力の前には無力なのか、どうしようもないのか。そういうあきらめの境地に立たされていたでしょう。私たちもあきらめの境地に立たされることがあります。様々な挫折、愛する者との死別。闇しか見えない。闇の先が見えないのです。だからあきらめようとする。もう無駄だと思う。自分たちの無力さに打ちひしがれてしまうことがあります。この弟子たちのように。彼らもまた、闇しか見えなかったのです。十字架の死へと続く闇の道、その先にある光、「復活」という光は見いだせませんでした。

そして、6日後です。主イエスは3人の弟子を連れて高い山に登ります。旧約聖書の時代から、山は神顕現の場所とされた、聖なる領域とされていました。日本にも「山岳信仰」という言葉がある通り、山には神様が住んでいる神顕現の場所として、特別な領域として人々に認識されてきた歴史があります。ここで突如、主イエスの姿が変わり、ふたりの預言者が現れて、主イエスと語るという光景を弟子たちは目の当たりにするのです。この時ペトロは思わず口を挟みます。「すばらしいことです」と。これは「美しい」とも訳せる言葉です。目の前には眩いばかりに、美しい光景がある。それを今自分目の当たりにしている。なんとすばらしく麗しいことであろうか。ペトロの心境は、秘境と言われる場所に遭遇した時の私たちの心境に似ているものでしょうか。とにかくそこは人間の支配など全く及ばない神様の領域、その支配の下で起こっている神秘的な出来事なのだと言うのです。そして彼は仮小屋を建てようとします。そこを記念とするのです。仮小屋というのは「天幕」という意味ですが、かつて旧約の民が神様の顕現、その御業が働いた場所を記念して、各地に至聖所を作って、祭壇を築いたように、彼はそのすばらしさ故に、神様の住まわれる場所、神顕現の記念として、仮小屋を建てようと提案しているのです。

されど、このことが、後に彼らが灯した暗闇の只中で灯された灯火だったのでしょうか。そうではないのです。世の支配が、闇が及ばない領域で、ペトロたちは安心して神様の領域だけに生きたのではないのです。記念とする場所だけにいたのではないのです。

今、目の前に姿を変えておられる方、主イエスのそのみ姿は、およそこの世の者ではないと、弟子たちは理解したでしょう。モーセとエリヤの存在がそのことを引き立てています。ようするに、受難と十字架の道を歩まれる主イエスの道はそこで終わらないということです。彼らに予告した出来事が、ここで起こっているのです。すなわち、十字架の死が終着点ではないということ、その先にある復活の光を彼らに向けているのです。だから、死の先にある復活の世界、この永遠の命という来るべき光は、来るべき時に到来する光なのです。この光を知るためにも、闇を知らなくてはならない。光が闇の中でこそ輝くように、受難と十字架という死、死の闇なくして、復活の命の光は輝かないのです。

だから、ペトロが話終わらないうちに、光り輝く雲が弟子たちを覆っていき、彼らの姿は見えなくなるのです。この時、雲の中から、声が聞こえたと言います。「これに聞け」。(17:5)その声を聞いた彼らは非常に恐れました。(17:6)顔を上げることができないのです。何が起こったのでしょうか。何が彼らを恐れさせたのでしょうか。

その声は天の声、天の声が響いている場に彼らがいる、すなわち彼らは主のみ前に立たされたのです。もはや仮小屋に収めて、記念とするという問題ではありません。恵みの主、栄光の主がそこにおられるからです。彼らの恐れは、恐れ多いという謙遜から来る思いではありません。顔を上げられぬ程に、主のみ前にあって、自分の罪深さに打ちひしがれ、恐れているのです。罪ある裸同然のままに、主のみ前に立たされているのです。その恐れです。

彼らを恐れさせた天の声は「これに聞け」。すなわち主イエスに聞けということでした。主イエスの言葉によって、すなわち御言葉に聞け、聞くということです。聞くことによって歩め、生きなさいと言われるのです。仮小屋を立てて、その記念の中に思いとどまるのではない。主の栄光、すなわち恵みは、あなたがたの目の前におられる主イエスにあるのだということです。主イエスの神の御言葉に聞き従うところにあるのだから、「これに聞け」と言われるのです。御言葉に聞き従う歩み、すなわち主イエスの道、受難と十字架への道に歩むということなのです。

主イエスは近づいて、彼らに手を触れて言いました。「起きなさい。恐れることはない」。主イエスの方から近づかれて、手を触れてくださったのです。恐れることはないと言います。自身の罪深さに打ちひしがれることはない、私があなたの罪を背負うから、担うからと言われんばかりに、その彼らの、私たちの救いのために、主イエスは十字架への道を歩まれ、私たちの贖い主となってくださるのです。主の真の栄光はそこにおいて現され、それだけではなく、三日目に復活する。確かにそう予告されたのです。モーセとエリヤと共に姿を変えられた復活の主がおられたのです。辛く険しい闇の道に見えるが、その目的地は復活の光が輝くところ。暗闇に勝る光であるということです。だから主イエスを信じて歩め、十字架の先にある復活という真の命に与りなさいと示される。先にある不安と困難ばかりが目に映ってしまうこの現実の只中で、そこで御言葉は響き渡っている。聞こえないのではないのです。私たちが聞こうとしないで、すぐに思い悩む、待つことができなくなるのです。思い悩んで、罪故に恐れを抱く。顔をあげることすらできない自分の姿がある。つまづいている自分の姿があります。そんな私たちを、助け起こし、「恐れるな」と言ってくださる主が共におられるのです。寄りそって、手を触れてくださる主のみ姿は、私たちへの愛です。私たちを決して見捨てない主の深き愛に他なりません。この深き愛は、結局最後は十字架に従うことができない弟子たち、それは私たちの姿でもありますが、それでも私たちを見放さない、私たちの小ささ弱さの只中にたって下さる主の愛です。

来週の水曜日は灰の水曜日です。この日から四旬節を迎え、日曜日を除いた40日後にイースターを迎えます。この変容の主日はちょうど顕現節から四旬節の間にあります。変容主日が独立して、この聖書の出来事を捉えているわけではありません。変容主日は顕現節と四旬節を結ぶのです。それは主の顕現が主の受難と十字架へと結ぶということであります。だから天の声は「これに聞け」、主イエスに聞け。主イエスのみ声に聞き従い、共に歩めと言われるのです。もはや仮小屋の中に、主の威光と恵みを留める必要はないのです。キリストこそ神様の威光、恵みそのものです。私たちが小屋を建てるのではなく、キリストという真の小屋の中で、私たちは生かされるのです。だから、恐れることはない。私たちもまた目撃者、主の恵みの目撃者なのです。今ここに生かされている故に。このことを信じて、四旬節を共に歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年2月23日 顕現節第8主日 「必要なものを知らされて」

マタイによる福音書6章24〜34節
藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日は午後1時30分から、この六本木教会の教会総会が開催される予定でありますが、午後4時からは、日本福音ルーテル教会の東京教会で、神学校の夕べの祈りが予定されています。神学校から卒業していく者を送り出す行事として毎年守られてきた行事で、昨年は私も他の4人の卒業生と一緒に、この神学校の夕べの祈りに出て、礼拝の中で短い説教をさせていただき、皆さんから祝福と祈り、激励の言葉を頂きました。六本木教会からも何人かの方が来て下さり、お祝いの品を頂き、六本木教会で共に信仰生活をこれから送っていく、この教会で一緒に生きていくという証しを立てた時でもありました。あれからもう一年も経ち、懐かしく思います。

今年は卒業生がいないので、「召命」をテーマに、神学生たちが奉仕してくださるそうです。ふたりの神学生が説教してくださる予定です。説教の中で自分たちの召命感が語られるでしょう。彼らは自分たちの人生を振り返りつつ、その中で人生経験を語るかもしれません。しかし、その人生経験というのは、その人自身の経験の豊かさではなく、その人の口を通して語られる神様の恵みの豊かさであります。神様がその時、その場で私を捕えてくださり、用いてくださる。そういう出来事が起こった、真に起こったという恵みの体験です。されど、その時、恐れ、迷い、不安、思い煩いを抱いたかもしれません。自分があなたに仕える資格などあろうか、ふさわしい者であろうか。私ごとで恐縮ではございますが、私自身も牧師になるために、献身を決意し、神学校に入った後も、自分は牧者としてふさわしい器になれるのか、もっと人生経験を積んで、信徒として信仰生活を送って、教会を知り、様々な知恵をつけてからのほうが良かったのではないのか。目の前の課題、困難にぶちあたった時に、そのように思い煩うことはたくさんありました。

しかし、初代教会の発展に大きく貢献し、神様の福音を大胆に力強く宣べ伝えていたあのペトロやヨハネは、使徒言行録で、他の人からこう見られていたのです。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」(使徒4:13)大胆な態度というのは、自分たちに敵対する者たち、すなわち、主イエスの福音を拒もうとする者たちに捕まって殺されてしまうかもしれないのに、そのような不安。思い煩いなど全くないかのように、彼らは神様の福音を宣べ伝えるために、そこに立ち続けていたということ姿に見られます。彼らは「無学な者」、特別に知恵のある魅力的な人間ではないのに、人々は自分たちの心に響く福音が、神様の救いの御言葉が語られている、だから人々は驚いているというのです。彼らは自分たちの口を通して、神様の恵み豊かさを証ししている。さらに言えば、そこに神様の御業の働きが彼らの口を通して示されている。彼らの牧者としての偉大さが描かれているのではありません。

ヨハネ福音書15章16節で「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と主イエスが言われるように、ペトロもヨハネも、今日説教される神学生も、私も、献身者として、牧者としてただ、神様に選ばれたという先行する導きがあったという真実、それはまた洗礼に招かれた信徒の皆様、洗礼に招かれている皆様も、同じく神様の導きの下に、神様に選ばれた存在です。神様に選ばれた者が魅力的なのではなく、選ばれた人を通して、その人の存在を通して、生き方を通して、神様の恵みが溢れ出ている、神様の栄光が現されているのです。

神学校の夕べで説教される神学生の口を通して、神様の恵みが語られ、献身の喜びが語られるでしょう。その恵み、喜びはその人だけでなく、またその神学生を送り出した教会に限らず、教会全体、信仰者の喜びであると願います。是非とも、お時間のある方は、神学校の夕べの祈りにお出かけください。キリストに捕らえられ、キリストに生かされる者の恵みを分かち合うひと時となるでしょう。私たちは神様に選ばれた者なのです。

今日の御言葉もまた、恵みに満ちております。神様の愛が示されています。御言葉を通してこの世を生きる私たちに示されています。「思い煩い」に縛られている私たちにです。私たちに主イエスは明確に「思い煩うな」と言うのです。思い煩う必要などないと言わんばかりに、主イエスは空の鳥、野の花を通して神様の恵み、神様の養いの下に生きている命を、私たちに示しているのです。

思い煩う、思い悩みとは、元は「分裂する、分裂している」という意味です。思いや心を向けるべきひとつの方向に焦点が合わず、他の不安や悩み事に心を奪われている状態を言います。先程も私は牧者としての器、そのために必要な物として、人生経験やあらゆる知恵を身につけなくてはならないという、あれもこれも必要だという思い悩みがあったことを言いました。本当に大切な者、軸となる本質を見失っている状態とも言えます。皆さんそれぞれに、思い悩みを抱えておられるかと思います。

26節で主イエスは私たちに空の鳥、野の花に注目させます。あれらのようになれとは言いません。見なさいというのです。私たちは見て、何を感じるでしょうか。単なる自然現象に過ぎないのかもしれません。されど、主イエスは29節、30節でこう言うのです。「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」ソロモンという偉大な王様と、見向きもされないような小さな花が比較され、野の花の方が美しく着飾っていると言われる。明日は炉に投げ込まれて、死んでしまうかもしれない野の草もまた美しく着飾っていると言われるのです。生きていて、命がある。それはそうです。しかし、この「着飾る」という言葉の中に、神様の特別な思いが込められています。

目に見えるような美しさ、人間の目に価値ある花や草のことを指しているのではありません。神様が着飾る装いとは何か。ソロモン以上の美しさとは何か。それは野の花、野の草が見栄を張って背伸びしているわけではなく、それらのものの命が神様の御手の中で生きながらえている、神様の恵みに生きているということです。その姿は、むき出しのその命の美しさは、ソロモンの偉業、その人間的な価値観に見られる美しさに勝るということです。

実に、単純なことを聖書は言っているでしょうか。楽観的なことを言っているでしょうか。野の草の命が保証されているということではありません。明日には死ぬのです。神様の恵みの中に生きるものはもう安心だとは言わないのです。野の草だけではありませんが、今より先に待ち構えている困難、労苦から逃れることはできないのです。

私たちは空の鳥、野の草花ではありません。ですから、目の前の苦労、困難と向き合うことも、逃れようとすることもできるでしょう。しかし、そこで思い煩うのです。思い煩いが、目の前の困難、苦労を悩みの種にします。思い煩いが、苦労や困難と向き合えない状況を作るのです。そこに私たちの生き方が問われるのではないでしょうか。喜びや楽しみだけではない人生、苦労や困難と向き合わなくてはならない、または回避しようとする。そこに働く思い煩い。困難や労苦と向き合っていく生き方の中心となるもの、その方向性とは何でしょうか。いや、中心は、方向性はあるけれど、それが明確にはならないという思いに立たされているとも言えるかもしれません。それは思いが分裂しているから、思い悩んでいるからです。何が必要で、何が大切か、そう突き詰めれば突き詰めるほど、思い悩み、不足ばかりが念頭に浮かぶのです。あれもこれも必要だと、思ってしまうのです。

このことは25節で主イエスが「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と言われる通りです。生きていく上で何が軸となるのか、基となっているのかよく考えなさいというのです。ここで命ということが示されています。この命とは「魂」とか「心」という意味の言葉です。単に肉体のこと生だけを言っているのではありません。その人の生そのもの、人生の基であります。苦労、困難を生きていく命です。自分の命のことで・・・思い悩んだところで、思い悩みはこの与えられた命を生かさないのです。真に生かされる命とは、困難、苦労の只中にあっても、実感をもって生きていく。人生の旅路として、そこで思い悩んで立ち止まろうとするのではなく、旅路としてその道を進んでいくことができる生の歩みです。この生の歩みが、主の恵みに生きていくということであります。

この命、与えられた生命を生かされるために、何が必要か。何が大切か。33節で主イエスは何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。と言われます。神様のご支配とその正しの中に、自分の命を委ねていく。信じていくということです。私たちの望むものが全て与えられるから、思い悩むなと言うのか。そうではなくて、私たち一人一人も、神様の養いのもとにあり、着飾られている。既に施されているのです。心も魂も、備えられているのです。だから、思い煩いの世にいつまでも心も魂も縛られる必要はない、神の国と神の義という神信頼の世界に、生きていく。私たちを真に活かされる創造主の御手の中にあって、私たちの思い煩いは無に等しいのです。

自分の人生の主は、もちろん自分であります。喜びも悲しみも、痛みも苦しみも、全て自分自身が体験するからです。されど、人生を歩むこの命は、この命を与えたのは、命の主は誰かと考えたときに、自分は被造物として、この世界で生かされているということを知ります。大いなる導きの中で、私たちの思い煩いを超えて、主は恵み深き御業をもって、わたしたちを選び、わたしたちを導かれます。労苦を労苦として、困難を困難として向き合っていく。この歩みは一人ではないということです。主は私たちを創られて、そのままにしているわけではありません。救い主イエスを通して、主が共に歩んでくださるということを教えてくださるのです。だから思い悩む必要はない。主は私たちの命、全人格、そしてただ私たちを創られただけでなく、全生涯に関わる方、人生の基であります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年2月16日 顕現節第7主日 「敵をみつめて」

マタイによる福音書5章38〜48節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

神学生の時に、1995年アメリカで制作され、上映された「デッドマン・ウォーキング」という映画をDVDで借りて見たことがあります。こういうお話です。

アメリカの貧困地区で働くシスターのヘレンは、強姦殺人の容疑で逮捕され、死刑宣告を受けた死刑囚マシューと、刑務所で出会います。ヘレンはマシューのスピリチュアルカウンセラーとして、彼と幾度となく向き合っていきますが、マシューは傲慢で横柄で、人をからかうような態度を彼女に向け、自らの無罪を主張し続けます。結局彼の主張は裁判で通らず、死刑は免れることができなくなるのですが、死刑執行日が近づくにつれて、彼の態度は変わります。彼は死の恐怖に怯え、犯した罪に怯え続けるようになるのです。ヘレンは彼に寄り添い、その思いを受け止めつつも、彼に罪の告白をするように解きます。そして執行日の直前に彼は罪を認めて、自分が殺人を犯したことをヘレンに打ち明けました。そして彼は彼女にこう言うのです。「僕を愛してくれてありがとう」と。そして迎えた死刑執行日の時に、独房から執行室に連れて行かれるマシューの後ろからヘレンは彼に聖書の言葉を聞かせ、彼に慰めの言葉を語りながら同行します。同行が認められない場所まで来たとき、最後の別れの瞬間に、ふたりは「I Love you」と互いに言って、別れます。執行台に縛り付けられたマシューは、死刑執行の直前に、被害者の父親にこう言いました。「僕の死が、あなたにとっての癒やしになりますように、そして僕を赦してください」と。

どうあがいても死刑は免れない彼は、最後の最後で、罪の告白に導かれ、被害者の父親に、こう言ったのでした。彼が死の恐怖、罪の怯えから、言えた言葉ではなかったでしょう。そうではなくて、彼がヘレンに言った言葉「僕を愛してくれてありがとう」という、自分が愛されているからこそ言えた言葉だったのではないかと思います。ヘレンはマシューをひたすら愛し、彼に愛を与え続けたのでした。そんな彼女に対して、彼は最初、傲慢で横柄で、人をからかうような態度をとっていた。人から憎まれても、殺人を犯しても、何とも思わなかった。彼は愛する、愛されるということを知らなかったのです。「僕を愛してくれてありがとう」。彼の生涯は、死刑という形をもって終りを迎えますが、彼は最後の最後で愛を知り、愛されて終えたのであります。

今日も山上の説教から、御言葉を聞いています。主イエスは言います。「悪人に手向かうな(5:39)敵を愛せ(5:44)」と。私たちはこの有名な主イエスの言葉を聞くと、すぐに主イエスの教えなど守れるはずがない、実現不可能な教えであるとして、気にもとめなくなってしまうことがあります。主イエスは理想を語っているだけで、現実に生きている私たちのことなど全く分かっていないとさえ思ってしまうのです。主イエスはどういう思いをもって、このようなことを言ったのでしょうか。

まず、「目には目を、歯には歯を」という律法の教えが述べられています。(5:38)いわゆる「同害報復」の教えですが、よく勘違いされるのが、これは復讐を推奨している教えではなくて、相手の目、または歯に損害を与えたら、自分は相手と同じ損害を被らないといけないという、個人的な感情に根ざした教えではなくて、公的な立場に則っている教えです。目をやられたら、目だけではなく、目全体に手をだしてしまう。歯を折られたら、歯一本に収まらず、全体を折ってやらないと気がすまないという人間の思いがあります。そういった、限りない復讐の連鎖を断つために、設けられた教えでした。

しかし、と主イエスは言うのです。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(5:39―42)
復讐してやりたい、報復してやりたいという人間の感情を抑えなさい、それどころか、損害を受けたものは更に損をしろと言っているように聞こえるのです。相手から何かやられたら、相手にも同じ境遇を味わってもらう。自分が損したままに、相手と関わっていくことなどできるのか。そういう思いを抱かないでしょうか。けれど、主イエスは、相手から何かやられて損をしたら、その損害を相手に向けるのではなく、帰って、相手を生かすようにしなさいと言うのです。

そして43節、44節では、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
隣人というのは、ユダヤ人たちにとっての親交ある人たちです。その中に異邦人は含まれませんし、同胞のユダヤ人でも、徴税人や罪人は入りません。彼らは憎むべき敵として見なされているのです。しかし、主イエスは敵を憎むのではなく、むしろ愛しなさい、その人のために祈りなさいと言うのです。

38節から43節で、主イエスが言わんとしていることは、自分が相手から何をされようとも、相手を生かしなさい、愛しなさいということです。その対象に限度がないのです。目には目を、歯には歯をという、互いに損害を被る歩みではなく、また隣人を愛して、敵を憎むという自分の軸に焦点を当てた愛だけにとどまるなと言うのです。

目には目を、歯には歯をという相手との関係、隣人を愛し、敵を憎むという関係。これらは人間の愛に限られます。部分的な愛、断片的な愛とでも言えましょうか、これらの人間の愛には条件がある愛の関係なのです。合理的な考えに基づいているでしょう。あの人はこうしたから、あの人はこういう人だから、こういうふうに愛していく、こういうふうに関わっていくと、自分を軸にして、条件をつけるのです。

主イエスはこの人間の愛、条件つきの愛を打ち破るのです。人間がつけた雁字搦めの愛の縛りを解かれるのです。部分的、断片的な愛ではない、いやむしろ、愛とはそのように条件づけられたものなのか、都合よく解釈できる範疇にあるものなのかという問いに私たちは立たされているのです。また、隣人愛と言っても、たとえば親子の愛、男女の愛、友人との愛などが挙げられるかと思いますが、これらの愛も、どこかしらに部分的なものを感じるのです。どこかに破れがある、欠点がある。自分が条件をつけてしまう。その結果、明日には親しい人が敵になってしまうこともあるのです。

愛の破れの中で、敵ができるのでしょう。相手も自分を敵として、自分を憎み、復讐の対象とされています。されど、主イエスは敵を愛しなさいというのです。憎しみを抱いて、復讐心を抱く思いから、解放されなさいと言われるのです。敵は自分に対して愛することができず、自分もまた敵に対して愛することができない状態です。互いに愛を知らないのです。そのまま憎しみをもってして、その相手と関わっていくその結末は・・・。復讐心がエスカレートし、憎しみに心を奪われ続ける滅びの結末を迎えるのです。憎む方も憎まれる方も、互いに行き着く滅びの道であります。

主イエスはその結末を望まないのです。敵を憎むのではなく、愛しなさいという主イエスの御言葉。我慢しても、忍耐しても、そんなことができるのかという葛藤の中に立たされる私たちの姿があります。人から憎まれれば、そんな覚えはない、そんなことをしたつもりはないと弁解の余地に立たされます。自分の中で敵と味方を作ってしまうのです。

憎しみの心、互いに復讐の絶えない滅びの道を突き進む私たちを主イエスが見ておられます。滅びへと向かう私たちを見過ごされて、復讐を肯定、助長するようなその場限りの人間の都合を満たす思いには立たれないのです。主イエスは滅びへと突き進む私たちの憎しみの心、復讐の道、その果てにある滅びからの救いを私たちに示しているのです。主イエスの御言葉を通して、私たちの救いということが問題となっているのです。主イエスは私たちに救いを、敵をも愛するという救いの道を宣べ伝えているのです。

それは何よりもまず、敵味方関係なく、敵味方の只中にある私たちひとりひとりが神様から愛されているということを知ることから始まります。

デッドマン・ウォーキングで、マシューは愛を知りました。愛を知らずそのまま死刑を執行されていれば、事実上それは彼にとっての人生の滅びとなっていたでしょう。しかし、彼が愛を知り、愛されていることを喜び、被害者に悔いる言葉を言うことができたということは、同じ死刑執行にして死ぬということにおいても、人生の滅びというよりは、死の瞬間に救われたということが言えるでしょう。相手から憎まれるだけの、愛される価値のない者であると思っていた死刑囚が、愛を知ることによって、大きく変えられた。被害者の痛みに気づかされたのです。

主イエスは45節でこう言います。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」自分は悪人でしょうか、善人でしょうか、正しい者でしょうか、正しくないものでしょうか。あんな人でも神様が恵みを与えてくれる存在だから、大切にしなくてはいけないということでしょうか。それは自分を軸にした思いでしかありません。相手から見たら、自分は悪人であり、正しくないものであります。私たちはどの立場にも立たされているのです。されど、神様のみ前にあっても、自分の思いを軸としてしまう罪人である自分にさえも、神様はこのようにして太陽を昇らせて光を与えてくださり、恵みの雨を降り注いでくださるのです。罪人、それは神様から離れ、敵対しているこの自分こそを、神様は自分を憎むのではなく、愛してくださる。恵みを与えてくださるのです。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5:48)私たちが完全な者となるとはどういうことでしょうか。神様みたく全知全能になれというのは不可能です。そういうことではなくて、天の父なる神様の完全さとは何かと考えたときに、父なる神様が私たちに何をしてくださったのかということです。それは罪人として敵であった私たちを愛してくださった、いや今も愛してくださるということです。だから、完全な者となりなさい、つまり魅力的な人間になりなさいという人間の完全さではなくて、神の完全さ、ようするに「愛する者」となりさないと、私たちを招かれるのです。

天の父なる神様が完全であられる、愛する方であるということ。その御心は、主イエスキリストを通して私たちに表されています。神様はその独り子を愛するほどに、この世を愛された方です。この愛の方の子供として、私たちも愛する者として生きるようにと招かれています。敵を憎む、敵から憎まれるという滅びの道ではなく、敵を憎み、敵から憎まれる私たちは、憎しみでは生きられないということを知るのです。敵味方、その只中にある私たちは、ひとりひとりを愛される神様の愛の只中で生かされているのです。この救いの道、神様の愛が示されています。この神様の愛に私たちは生きるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。