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2014年2月9日 顕現節第6主日 「和解に至る道」

マタイによる福音書5章21〜37節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日も山上の説教から御言葉を聞いております。本日は5章21~37節までが福音の日課として与えられていますが、今回は5章21~26節に焦点を当てて、聞いてまいりたいと思います。

「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」兄弟、隣人、他者に対して腹を立てる、怒るということですね。それはささいなことから生じます。怒るというのは「荒れ狂う」、「力んだ荒々しい形状があらわれる」という意味合いをもっていますから、肉体的、精神的に非常に負担のかかる人間の感情であります。気持ちが荒ぶり、時には正常な判断に、支障をきたすものでありますから、極力怒りは覚えたくないものです。

主イエスはこの怒りを他者に向けるものは、「裁き」を受けると言いました。好きで怒る人なんて誰もいないでしょう。自分を怒らせるようなことをする人が裁かれるならまだしも、なぜ自分が裁かれなくてはいけないのかと思いますし、主イエスのこの言葉を聞いて、はいそうですねと誰が素直に受け止めることができるでしょうか。

ここでまず「裁き」を受けるということに注目したいと思います。前の21節には「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。人を殺したら裁かれる。刑罰を受けるというのは当然のことですが、この殺すなという教えは旧約聖書のモーセの十戒の第5戒に当たります。ルターの小教理問答書にはこのような説明が書いてあります。「わたしたちは、神を恐れ、愛すべきです。それでわたしたちは、隣人のからだをきずつけたり、苦しめたりしないで、むしろ、あらゆる困難の場合に、その人を助け、また励ますのです。」
殺すなという神様の教えは、命を奪うということに留まりません。隣人を、つまり他者をきずつけたり、苦しめたりすること自体が、既に他者を殺しているというのです。殺すのではなく、助け、支え、励ましなさい、他者を生かしなさいという教えです。
ですから、人を殺す者は隣人との関係に破壊をもたらすと言えるでしょう。そして、人に腹を立てるものもまた、兄弟との関係に破壊をもたらすということが問われているのです。神様の裁きという視点に立たされるのです。

兄弟、隣人に対する暴言が22節に記されています。「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。ばか者というのは、「間抜けな」、「頭がからっぽ」という意味があり、取るに足りない無価値な人間という意味合いが含まれている言葉です。そして愚か者というのは、「ならず者」、「神に捨てられた者」という意味があり、神様との関係において、あなたは救いに値しない、神様と離れている者だという、いわば祝福とは反対の言葉、「呪い」の言葉でもあります。すなわち、腹を立てる兄弟に対する怒りが、人の人格を傷つけ、神様の救いには値しない者だと、言い張る言葉に示されているのです。兄弟を傷つけ、苦しめるのです。兄弟を殺す破壊の言葉、その思いそのものです。兄弟との関係に明確な破壊の印をつけるそれぞれの言葉であります。

ばか者と言う者は最高法院という裁判所に引き立てられ、愚か者と言う者は火の地獄に投げ込まれると、裁きの内容が記されています。火の地獄、それは神様の支配する天の国とは異なる領域でしょうか、愚か者と言葉を投げかけた者が、むしろ神様に捨てられる者、神様との関係に破壊をもたらすという結末を迎えると言うのです

これらの主イエスの言葉、怒りを抑えきれない私たち人間には、厳しい言葉に聞こえます。私たちは好んで相手に腹を立てる、怒りを覚えるわけではありません。自分を怒らせるのは、相手が原因、相手に非があるからだと思うものです。自分は相手を怒らせるようなことをしていないのに、相手が自分を怒らせるようなことをしてくる。腹を立てるのは当然ではないか。その怒りに満ちた思いから、あの人はおかしいんだ、ばか者だ、愚か者だ、もう関わりたくないという関係性の破壊が起こってくる、自分が相手を殺すということが起こってくるのです。自分の視点で相手を見定め、自分が正しいと思う、自分を軸とした視点に相手を立たせる。人の数だけ、怒りの数があり、人の数だけ正義があります。

主イエスはすぐ前の5章20節でこういうことを言っています。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」律法学者やファリサイ派というのは福音書に多く登場する宗教指導者たちです。神様の教え、律法を守り、律法を民衆に教える立場にあった人たちです。彼らの義、彼らの正しさというのは、律法を遵守し、律法を守れない者を諭し、律法を破るものを裁く義です。自分たちは真に熱心に、生真面目に律法を守る正しさに生きていたという自覚をもっていた人たちでしょう。それゆえに、律法を破り、神様の教えに反する生き方をしている人たちを裁く、腹を立てていたのです。

主イエスはそんな彼らの義にまさらないと、天の国には入れないと言います。彼らの義にまさるとはどういうことでしょうか。彼らの正しさを超えるということでしょうか。ばか者、愚か者と言われないように、人間としての魅力的な価値を身に付け、神様の救いに。彼らよりも熱心に神様の教えを守り、努力していくことでしょうか。

主イエスが言う、彼らの義にまさるとはそういうことではありません。彼らを超えて、より魅力的な人間、信仰者になれということではないのです。彼らの義にまさる「義」という「正しさ」、それは真にどこから来ているのかということを知ることです。人の数だけある義ではなく、真の義です。人間の内面、自分には持ち得ていない真実の義を知るとき、自分の義が欠陥だらけの未完全な義であると知ったとき、自分の義を捨てるということ、そこから導かれる義です。義を捨てて、悪人になれと言っているのではありません。自分の義を捨てて、真実の義を知り、それを受け入れる、自分から義を得るのではなく、真実の義を受け取りなさいという招きの声があるのです。この真実の義とは、律法の完成者としてこの世に来られた、私たちの只中に来てくださったキリストの義であります。このキリストの義の前に、もはや自分の義は打ち砕かれるのです。

それでは、このキリストの義は私たちに何をもたらすのでしょうか。直、怒りを抑えきれない私たちは、自分の義を捨てきることなどできるのでしょうか。主イエスは23節、24節でこう言います。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」主イエスは怒りを捨てろとは言わず、和解しなさい、仲直りしなさいと私たちを導きます。

祭壇ということですから、厳密に言うと、神様のみ前にあるということです。そこで礼拝に招かれて、供え物を捧げる時、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、まず仲直りをしに行きなさいと、和解が示されるのです。神様と自分という関係を思うときに、自分に反感を持つ、腹を立てる兄弟を抜きにして、その関係は成り立たないというのです。自分も相手に腹を立てるが、自分もまた相手から腹を立てられ、反感をもたれているということを私たちは知っています。みな自分の義を持っている、自分の正しさが怒りを正当なものとします。しかし、主イエスはそんな私たちに自分の義を捨てろと言わんばかりに、「和解しなさい」と招くのです。キリストこそが私たちを真に和解へと招かれるのです。自分の怒りという義を捨てて、和解というキリストの義を受け取りなさいと招かれるのです。

このキリストは和解に至る道を指し示す、和解の主であります。何をもってして和解に至る道を示し、和解の主となってくださるのか。それこそがあの十字架、十字架に至る道を行かれ、「彼らをおゆるしください」と、父なる神様に私たちへの怒りを執り成してくださった十字架の贖いに他ならないのです。私たちは相手に怒りを覚え、ばか者、愚か者といって、相手との関係を破壊しようとしてしまうかもしれません。その人は裁かれるというのです。相手も同じように、自分に腹を立てて、反感をもち、自分との関係を破壊しようとする。そして相手も裁きの座に立たされる。互いの義によって、滅びの道へと行ってしまう私たちを主イエスは、見捨てはしないのです。私の怒りを自分の怒りとされ、相手からの怒りを、ご自身が負ってくださるのです。私ではなく、あのキリストが、十字架上のキリストが、和解の主となって下さり、神様と人間、人間と人間の関係を回復なされる。和解は実現するのです。

十字架にはこういう言い伝えがあります。縦と横の棒が交わらないと十字架にはなりませんが、縦の一番上には神様が、下には人間が、縦の関係で結ばれている。横は人間同士の関係が結ばれていると言います。この十字架の中央にキリストがおられる。和解の主として、この十字架に示されているのです。

主イエスは怒りではなく、和解という新しい道、生き方を、十字架を通して示されました。滅びに至る怒りの義、自分の義ではなく、救いに至る和解の義、それを成してくださったキリストの義を私たちは受け止めていきたい。主イエスは私たちへの怒りではなく、神様との関係を回復されるために、愛に立たれています。怒りではなく、愛の視点に、それはこのキリストこそが和解の主だからです。怒りを抑えきれない私たち、反感を抱かれる私たちを赦してくださるからです。怒りによって行きつく裁かれる道、滅びの道ではなく、主イエスは和解における愛の道、救いの道を行かれます。このキリストの義に生きる新しい道、和解に至る道へと私たちは招かれているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年2月2日 顕現節第5主日 「地の塩、世の光」

マタイによる福音書5章13〜16節
藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「あなたがたは地の塩である・・・世の光である」。聖書になじみのない方でも、聞いたことがある言葉かもしれません。愛唱聖句にされている方も多いでしょう。しかも、主イエスは地の塩、世の光となれと言われたのではなく、「である」と言われたのです。地とか世というのは、この世界という意味ですから、あなたがたは世界の塩、世界の光であると、きっぱりと私たちに宣言しているのです。

今、この主イエスの言葉を聞いている皆さんはどう反応しますか。「地の塩、世の光」と聞くと、世界中で活躍している人、必要とされている人を思い浮かべるかもしれません。だから、あなたがまさにそうだ、と言われると、悪い気はしないけれど、なんとなくたじろいでしまうか、そんな大げさなと思って、本気にしないかも知れません。何よりも、なぜ「私なのか」ということに疑問を抱くばかりです。しかし、主イエスがここで言われる、地の塩、世の光というのは何を表わしてしているのでしょうか。

塩というのは、それこそ調味料として私たちの身近にあるものですが、塩は料理の味を引き出し、また古代から物の腐敗を防ぐ防腐剤と重用され、また多くの宗教において、清めの役割を果たしてきました。さらに、私たちの体にも欠かせないものがこの塩です。塩分をとらないと、私たちは生きていけません。塩は生命の存続に大きく関わるからです。

そして、光でありますが、光は旅の道案内をします。電気のなかった当時は、光の存在というのは、より尊いものだったでしょう。また光は人を正しい道に導きます。暗闇の中で輝き、人々の心を柔和にさせ、希望をもたらします。暗闇の中では人は生きていくことができないのですから、光もまた、私たちの生命に大きく関わるのです。

ですから、「あなたがたは地の塩である、また世の光である」と主イエスが言われるその御心は、この世界で生きるあなたがたは塩として、この世界に絶対になくてはならない存在であり、また世界に輝く光だということ、それも、彼らがもう既にそういう存在であるということです。

では、主イエスが目の前で語っている「あなたがた」とは誰を指すのでしょうか。彼らはガリラヤから主イエスに従い、ついてきた人たちでした。前の4章24節から見てみますと、「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」(マタイ4:24―5:2)とありますように、彼らはパレスチナ地方全域から集まってきた人たちでした。この中にデカポリス、ヨルダン川の向こう側という地域も記されていますから、そこにはユダヤ人に限らず異邦人も、そして男性も女性も、子供から老人に至るまで、様々な身分の人々がいたのでしょう。彼らは病を煩い、悩みを抱えて主イエスのもとに来たのです。そして主イエスに癒された彼らは、山の上で主イエスの教えに耳を傾けている、いわゆる山上の説教の場面であります。

ですから、この群衆というのは、律法学者や宗教指導者といった社会的地位の高い人たちではなかったでしょう。社会の前線で活躍している人たちではなかったのかもしれません。彼らは病に苦しみ、悩みを抱えていた生活を送っていたからです。そんな彼らに対して主イエスは「あなたがたは地の塩である、また世の光である」と言うのです。私たちが思い描く人物像とはかけ離れているのです。

けれど、主イエスがどういう思いをもってこのことを彼らに宣言しているのかということを理解しなくてはなりません。ここで主イエスは、身分の差はどうあれ、あなたたちもこの世界に必要な存在なんだよ、何かの役に立つ存在なんだよ、だから胸を張って生きていきなさいと、そういうことを言っているのではないのです。「あなたがたは地の塩である、また世の光である」というこの主イエスの御心は、もっと深いものであり、私たちの想像(人間的な思い)を超えるのです。それは、あなたがたはこの世界に「なくてはならない」存在、地の塩、世の光としてのあなたがたがいないと、この世界は生きてはいかれない、人は生きてはいかれない、滅んでしまうと、これほどの思いをもって彼らに語っているのであります。主イエスはここで単に人間の平等とか、人権問題のことを念頭に掲げて宣言しているわけではないのです。

もちろん、主イエスはここで社会の前線で活躍している人たちを否定しているわけではないし、あなたがたのほうが彼らより偉い、尊い存在であると言っているのでもありません。しかし、主イエスが言うような、地の塩、世の光としてのなくてはならない存在というのは、わたしたち人間の力や知恵、才能、お金、権力ということを指しているのではなく、それはわたしたちの命の質であり、生の質であるということなのです。それは塩としての味を引き出す隠し味として、暗闇を照らす光として存在する源であると言うのです。

確かにわたしたち人間の力や知恵、才能、お金、権力と言ったものは、大切なものです。それらは私たちを生かしむるものであります。けれど、そういったものが自分の人生を決定づけるものとなるのか、真の持ち味となるのか、または命の泉として乾くことのない永遠なる普遍的なものになるのかということはわからないことです。それらは、いつ失ってもおかしくない、先が見えるものではないということだけは言えるでしょう。

今言えることは、主イエスの下に集った群衆は、それらのものに癒しを求めたのではなく、主イエスの御言葉、招きの呼び声に癒しを求めた、救いを求めたということです。この世では魅力的で価値あるものによって、彼らは癒され、立ち上がることができたのではなかったのです。自分たちの乾きを満たすことはできなかったのです。自分の魂にまで浸透するようなことをこの世の価値観では見出すことができなかったのです。彼らは主イエスという永遠に乾かない命の泉を求めて、そこに真の生を、命を見出していったのです。それは自分の肉体や細胞の健全さ以上に、自分の魂にまで浸透する呼び声でした。その呼び声が木霊する神の世界(天の国)に彼らは招かれている、主イエスに従い、地の塩、世の光として生きているのです。

この世に生きながらも、この世に属すのではなく、神の世界に属している。主イエスに従うということは、この世に生きながら、神の世界に属しているということ。それが地の塩、世の光としてこの世に生きている彼らの姿であり、また私たちの姿でもあるのです。

では、地の塩、世の光として生きていくとは具体的にどういうことなのでしょうか。主イエスは言います。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(5:13)「山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。」(5:14~15)塩に塩気がなくなるなどいうことがありえましょうか。不自然なことです。

しかし、こう理解することができます。地の塩として生きるということは、キリストに従うということ、キリストに従うということは、この世に生きつつも、この世には属さないと言いました。この世に属さない、すなわちこの世の価値感に縛られないから、地の塩としての塩の味を引き立たせることができる。しかし、地の塩でありながら、この世に属し、この世の価値観に縛られ、染まるのであれば、もはや地の塩としての役割はない。地の塩として、味付けする必要もないと分かれば、塩として生きる必要はないと思う。その時、塩味を失うのです。

これを教会に例えるなら、神様の御言葉に立つ地の塩としての教会ではなく、この世の価値感に立ち、癒着し、もはや塩味を失った教会がそこに残る。そして地の塩、それをまた神様の御言葉に重ねるなら、塩としての神様の御言葉は、この世に属す教会では塩味を失ったように、何の味も引き立たない言葉となる。もはや、そこには聖霊の働きはなく、神の御言葉ではない、むなしく人間の言葉が木霊しているだけなのです。教会の舵取りが、キリストではなく、この世の価値感に立ってしまう時、地の塩としての神の言葉が塩味のない人間の言葉に変わってしまうのです。たとえ雄々しく力強くこの世界に神の御言葉が響き渡っても、魂に浸透してくるものがない、それは神の御言葉に思える塩味を失った人間の言葉だからです。そこに自分の中で、何か引き起こされてくるという出来事は起こらないのです。

光もまた、世の光として輝くのは、世の闇の中に輝くのであって、升の下に置くのであれば、光としての役割を果たさないのです。そのためには闇を知らなくてはなりません。受け止めなくてはなりません。教会はどこに向かって、神様の福音という光を照らすのか、そういうことが問われているのです。

光を照らすために、闇を知る。教会が闇を知るということ、受けとめるということ、それは教会自体も罪を犯すということが言われます。なぜなら、教会は清い聖徒の群れではないからです。招かれた者でありつつも、罪人の群れという姿もあるのです。誤解がないように言いますが、罪人の群れというのは、悪事を奨励している群れではありません。開き直って、悪事を働く群れでも場所でもありません。もちろん悪事を働かない群れということでもありません。私たちはこの世に生きているからです。

教会もこの世に立っています。ですから、罪を犯すのです。キリストを見失い、舵取りを間違えることはあるのです。このことを教会は知る必要があります。受け止める必要があります。そう、闇は私たちの身近にあるのです。

教会も罪を犯すということは、教会という人が集まる場所そのものが地の塩となり、世の光になるということにはならないでしょう。この世はこの世の価値感のままに、闇は闇のままに存在するからです。教会が地の塩、世の光となるのは、そこに真の地の塩、世の光が顕されているからです。それこそが主イエスキリストであります。この救い主が教会の舵取りとなってくださるからこそ、地の塩、世の光としての教会が立ち続けることができるのです。この真の地の塩、世の光というキリストを見失うという罪の必然性があります。そのことを知り、受け止めて、教会も悔い改めるのです。その時、地の塩、世の光としての福音が響き渡ってくるのです。

主イエスは16節でこう言われます。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(5:16)人々は、地の塩、世の光である私たちの行いを見て、私たちを崇めるのではなく、天の父なる神様を崇める。罪と闇の只中にある、わたしたたちを、それこそ地の塩、世の光に程遠いわたしたちを、そのままに地の塩、世の光とされ、生かしてくださる天の父なる神様こそが崇められるのは、わたしたちの行いを人々が見ているからです。私たちの行いが人々の目に、立派に映っているという保証はありませんし、そのように自分たちの力や知恵では無理なのです。キリストの光をただ私たちは自分たちを通して、光として造りかえてくださる、私たちの新しい生き方を人々は見るのです

ルターの有名な言葉に「大胆に罪を犯し、大胆に福音を伝えよ」という言葉があります。また誤解がないように申し上げますが、罪を犯すことを奨励しているのではなく、ルターの理解で言えば、私たちは罪を犯す必然性にあるということであり、罪を知り、受け止め、その罪という暗闇の只中でこそ福音を伝えよということです。地の塩、世の光とされた私たちは、罪なき義人ではなく、義人であるのと同時にむしろ罪人であり、闇を知るからこそ、地の塩、世の光として、神様の福音を恵みとして受けてとめていくことができるのです。地の塩、世の光として、この世に生きつつ罪を犯しても、この世に属すのではなく、キリストに属して福音の喜びを知り、福音を宣べ伝えていくのです。地の塩、世の光として生きていくとは、そういうことです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年1月26日 顕現節第4主日 「「自分」を明け渡す」

マタイによる福音書4章18〜25節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

私がこの教会に遣わされて、約10ヶ月が経ちました。様々な人との出会いが与えられてきました。その中で、少人数ではありますが、キリスト教に関心があるから、教会に行ってみたい、礼拝に行ってみたい、勉強したいという人たちとの出会いも与えられて、感謝でございます。しかし、日曜日働いていて、主の復活日であるこの日曜日の礼拝にお越しになれない方も多くおられます。むしろ、今や、職種を問わず、日曜日に働いておられる方は私たちの周りでも、多くいます。日曜日の主日礼拝に来られない方を前にして、私たちの伝道、宣教活動の中に、何が求められているのでしょうか。

けれど、そのような困難な伝道、宣教活動を求められている中にあろうとも、私たちが神様の福音、愛を伝えていく上で、大切なことは、神様は全ての人を招いておられるということを確信することです。そして、その神様の招きとはどこで起こるのかということについて考えるかと思います。それは果たして教会という場所に限られるのでしょうか。日曜日教会に来て、礼拝に出たことによって、神様がその人を招くということ、神様の招きが教会、礼拝、または祈っている時の中にしか起こらないということなのでしょうか。

今日私たちに与えられた福音は、決してそうではないということを私たちに教えています。主イエスがガリラヤで伝道を開始され、最初に行ったことは、ペトロたち漁師を弟子として迎えたということです。彼らを招いたのです。その時の彼らの状況について聖書は「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」と記しています。ペトロとアンデレという兄弟は漁師で、湖で網を打っていた、漁をしていたということです。彼らはせっせと働いていたという日常の出来事がただここに記されているだけです。彼らは会堂で礼拝を守っていた、またはお祈りをしていたわけではありません。どこか特別な場所で、特別な時間を過ごしていたのではなく、ただ働いていたのです。私たちと何ら変わらない、彼らの日常がそこにあるのです。

主イエスは漁をしているふたりの兄弟を「ご覧になった」とあります。このご覧になったという言葉ですが、元の言葉を調べて見ますと、「目や心を向ける」という意味があります。またさらに「訪問する」という意味もあるのです。ただ視覚的に彼らの姿を捉えたということではなく、主イエスのまなざしは彼らのもっと奥深いものを見つめていたのです。彼らの心、彼らの内面、強いて言えば、漁師としての彼らの日常、彼らの人生を見つめておられたということは、主イエスは伝道の旅路の中で、たまたま彼らの姿が目に映ったということではなかったということであります。

そして、主イエスは彼らをご覧になる、それは単に目に留まったということではなく、「訪問する(された)」彼らの深い内面、彼らの人生を見つめられ、その人生の只中に主イエスが入って行かれた、踏み込んで行かれたのです。

そして「わたしについてきなさい」と彼らを招きます。主イエスについていくとはどういうことでしょうか。この「ついてきなさい」というのは「さあ、来なさい。おいでなさい」という意味を持つ言葉です。ここに来なさい、私の下に来なさいと主イエスは言われるのです。ついてきなさい、それは私のペースについてこいとか、何かつらいことがあっても、何が何でも私についてこいということではないのです。主イエスがついてきなさいと彼らを招く時、彼らの心境を無視して、私についてこい、後に従えということではなく、彼らの心境の中に立ち、主イエスがそこで留まりつつ、待ちつつ、さあ、おいでなさいと主イエスの御許に、彼らを、そして私たちを招いてくださる、私たちの日常の只中で、招いてくださるのです

ヨハネの福音書で、主イエスはご自身が良き羊飼いであると言います(ヨハネ10:14)。私たち人間は羊にたとえられます。羊は臆病で、自衛力がなく、迷いやすい動物であると聖書で言われています。ですから、羊飼いが羊たちの世話をしないと、羊たちは生きていけないのです。羊飼いが羊たちを導いていかないと、羊たちは迷い出て、狼などの獰猛な動物に食べられてしまうのです。これは神様と人間の関係を主イエスが喩えたお話ですが、ルカによる福音書15章1―7節には、見失った羊の譬え話があります。一匹の羊が99匹の羊の群れからはぐれてしまいます。羊飼いは自分について来なかった、またはついて来られなかったその一匹の羊に愛想をつかして見捨てたのではなく、一匹くらいどうでもいいと思ったのでもなく、その見失った一匹の羊のために、命懸けで必死に探し回るのです。
「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と主イエスは話したのです。

主イエスがついてきなさいと私たちを招かれるとき、それは確かに主イエスの後についていく、主イエスが私たちの歩みを導いてくださるということですが、それでも羊のように、主イエスが招かれる主の道を見失い、迷いでる私たちの姿があります。主のみ後についていけない私たちを、主イエスは、見捨てはしないのです。私たちをひたすら招き、迷いでる私たちを見出してくださる主の愛が、「わたしについてきなさい」という呼び声に現されているからです

ペトロとアンデレはすぐに主イエスに従いました。「すぐに」ということが強調されているように、その場で網を捨てて従っていったのです。同様のことが、このすぐ後に記されているヤコブとヨハネのふたりの漁師にも起こりました。彼らもまた、主イエスに招かれ、父親と船を残してすぐに主イエスに従ったのです。

彼らは漁師という生活の支えとなるものを捨て、父親という家族を残して主イエスに従っていくのです。主イエスに従うとはこういうことだということストレートに私たちに伝えている物語です。キリスト者として、クリスチャンとして生きていくとは、主イエスの弟子となり、神様の家族として、新しい人生を歩んでいく。捨てるとありますが、家族と縁を切って、漁師という働きをもう二度とするなということを言っているわけではありません。けれど主イエスに従うことを第1として歩んでいく、そう言えるでしょう。そのように私たちを招くのは、何か特別な時や場書には限らず、私たちの日常生活の只中で起こっていることであるということを私たちは聞いてまいりました。

主イエスに従う生き方、それは人生の転機であるとも言えます。また悔い改めるということです。悔い改めるとは方向転換する、180度価値観が変わるということです。自分ではなく、神様の方を向いて歩んでいく、神様のご支配の中に生きていくということ、自分が神様のものになるということでもあります。その新しさに生きていく。「自分」という存在を主イエスに明け渡すという出来事が起こっているのです。

けれど、「自分」という存在を主イエスに明け渡す、それはどうしてできるのでしょうか。ペトロたちは特別な人間だったのでしょうか。主イエスに従うだけのすばらしい賜物をもっていたからでしょうか。決してそうではないことを私たちは知っています。それはこれから先の、福音書を通して彼らの言葉や言動を見れば一目瞭然です。一言で言えば、彼らは主イエスに叱られてばかりいるのです。主イエスの思いとは全くかけ離れたことばかり(思いをもっている)している。挙句の果てには主イエスを見捨てて逃げ去ってしまう、主イエスの十字架に従うことはできなかったのです。

ですから、彼らが主イエスのことを本当に理解していたから、主イエスに従うことができたということではないのです。主イエスが彼らをご覧になっていたのは、具体的に言えば、彼らの心に目を向けていたのは、人生の只中にある彼らのもろさであり、弱さであり、小ささそのものです。羊としての彼らの迷いそのものを見つめていた、その只中にこそ入って行かれたのです。そして、そのもろさ、弱さ、小ささのままに、主イエスは招かれる、私たちを招かれる。私のもとにきなさいと呼びかける声があるのです。

羊の如く、迷い、不安の只中を歩む私たちの人生があります。世の中の世情についていくのが精一杯、いや、むしろついていけているのだろうか、世の中から見捨てられてはいないのだろうか。そういう不安を抱えている、出口のない思い悩みを抱いて歩んでいる姿がどこかにある。はたまた、そうではないと自分を偽っている、強がっている姿がどこかにあるのではないでしょうか。主イエスはそんな私たちをご覧になっている。ついていけないから、価値のない者、捨てられる者であるというのではなく、全ての人を主は招かれる、探し出してくださるのです。私たちを招かれる主の声は時代を超えて、私たちひとりひとりに向けられているのです。

主に招かれたペトロは、後に同じマタイ福音書の中で、「あなたはペトロ。私はこの岩の上に教会を建てる」(マタイ16:18)という主イエスの言葉をいただいた人物です。教会が具体的に現されてくるのはペンテコステの時でありますが、この教会という言葉はギリシャ語でエクレシアと言います。その意味は「信仰の共同体」という意味がありますが、他には「呼び集められた者たち」、または「召し集めた群れ」という意味があるのです。まさにペトロをはじめ、弟子たちの群れは、主の声を聞いて、集められた者たちひとりひとりなのです。教会とは単純に建物や組織のことを指しているのではないのです。私たちが教会に来る動機は様々にあるかと思いますが、ここに集められたおひとりおひとりは、主イエスによって招かれた者たち、呼び集められた者たちなのです。

主が私たちの日常、人生をご覧になっています。この方は十字架に向けて歩んでおられます。私たちの弱さ、もろさ、小ささ、はたまた苦しみ、悲しみ、迷いを担って歩まれ、そのまま十字架にかかられました。この十字架のみ姿の中に、私たちの小ささが表されています。私たち人間には負うことできないような苦しみが表されているのです。私たち人間ではなく、神様が担って下さるのです。

主イエスに従うとは、何よりもこの十字架に従うことができない自分を知るということ。もはや自分がつよがって、弱さを隠すのではなく、弱さのままに招かれる主のみ前に、私たちは自分の心を開いていけばよいのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年1月19日 顕現節第3主日 「神は動く」

マタイによる福音書4章12〜17節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日私たちに与えられました福音は、主イエスがガリラヤで伝道を開始する物語であります。このマタイ福音書とマルコ、ルカ福音書の3つの福音書が共観福音書と言われる理由のひとつは、3つの福音書が主イエスの伝道がガリラヤから始まり、エルサレムまでの途上伝道、そしてエルサレム伝道という共通の伝道形態を成しているからであります。

主イエスが伝道を開始した発端は、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」(4:12)とありますように、洗礼者ヨハネが捕らえられたということでした。ヨハネを捕らえたのは、今日の福音書には直接書かれてはいませんが、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスだと言われています。クリスマス物語に登場するあのヘロデ大王の息子の一人です。ヘロデには既に妻がいましたが、彼は自分の兄弟の妻のへロディアを妻として迎えたいという願望があり、へロディアを妻として迎えていました。ふたりの間に生まれた娘がサロメです。洗礼者ヨハネの首が欲しいと父親のヘロデにねだったのは、このサロメでした。

さてヨハネは、このヘロデとへロディアの不正な結婚を糾弾します。怒ったヘロデは彼を捕らえてしまうというのです。ヨハネが捕まったことは、彼の弟子はもちろん、ガリラヤ中の人々に大きな衝撃を与えた事件でした。彼に期待し、彼を支持していた人は多かったのです。ヘロデからしたら、大物を捕まえたような心境だったでしょう。

イエスはこの情報を聞いて、ガリラヤに退かれたのですが、なぜガリラヤの領主であるヘロデの支配地域に退いたのでしょうか。「退く」というからには、方向が全く真逆ではないのか、むしろ敵地に向かってはいないのかという疑問が思い浮かびます。

マタイ福音書から、これまでの主イエスの足取りを考察しつつ、この「退く」という言葉を調べてみますと、少し前の2章13節から23節には、幼子イエスを抱いて、エジプトに逃亡するヨセフとマリアの姿が描かれているのですが、ここでエジプトを「去り」という言葉があります。この退くと同じ言葉です。事実、ここでもヘロデ大王による幼児大虐殺から逃れるために、エジプトへ逃げるのですが、この時のヨセフの行動と、主イエスの行動は共に、逃げたということでした。目の前の権力者の勢力に対して、ヨセフも主イエスも無力だったわけであります。ヨセフは夢のお告げ、すなわち御言葉に導かれて、難を逃れました。ヨセフと共に主イエスも幼子として、エジプトに去っていった(退いた)。そして、今ガリラヤに退いていくのです。

幼子の時と同じ足取りで歩まれる主イエスですが、しかし、退いたその先はガリラヤです。逃げ込む場所では到底ありませんが、13節から14節には「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。」とありますように、イザヤを通しての神様の御言葉が主イエスを導いたのであります。

主イエスの伝道は、それこそ退きから始まった。準備万端に方向性を定めて、開始したというわけではなかったのです。退かなくてはならないという絶望的な状況の中でのスタートだったのです。しかもその場所はガリラヤ、ヨハネと同じように捕まってもおかしくない状況です。しかし、主イエスもまた一人の人間として、伝道を開始するですが、それは主イエスの独断でもひとりよがりでもない、主の御言葉が導いた、神様の御業が先行したということなのです

伝道、宣教、それは人間の業ではなく、神様の御業であると言います。私たちの思惑を超えて、神様が動くのです。教会がその使命(ミッション)を担っていく大きな母体でありますが、実にたくさんの大きい教会、小さい教会があります。それらの教会に対して、小さい教会はもう教勢が伸びそうにないから、閉じてしまおう、または大きい教会は教勢がまだまだ伸びそうだから、こちらに伝道、宣教の力をより大きく注いでいこうという人間の思いは無意味なのであります。私たち人間は先に神様によって撒かれた御言葉の種を育てていくという技に仕えていくのであって、御言葉の種は全世界に撒かれているのです。この御言葉の種を成長させるか、枯らしてしまうかという私たちの信仰が求められているのです。

伝道、宣教が神様の御業であると分かりつつも、私たちは、教会は何千年という歴史を経ても、人間の思いに蹂躙されてきました。ある時は教会が戦争に全面加担し、キリストの平和を見失うという事態に陥ってまいりました。清貧で貧しさを尊重する修道院が、思わぬ富を手にしてしまったことで、修道院の教えが歪められ、腐敗していった歴史もあります。人間の思いが先行してしまい、御言葉の種を枯らしてしまうということは、現代の私たちが直面する課題であり、この六本木教会も例外ではないのです。

大きい教会があろうと、小さい教会があろうと、御言葉の種は全世界に、一人一人の心の中に撒かれているのです。神様は一人ひとりに救いの手を差し伸べている。人種や民族という隔たりなどもないのです。クリスチャンであろうとなかろうと、全ての人に対してです。だから小さい教会であろうと、教勢の伸び悩みだけを意識して、思い煩うのではなく、私たちは御言葉の種を巻かれる神様の御心を信じて、神様がこの教会を必要とされるという約束と導きに従って、胸を張って主の伝道、宣教の御業に参与していくのです。小さいものには小さいなりに、いやむしろ小さいからこそできることがある。教会の伝道、宣教とはただ単に教勢を伸ばすこと、利益を生む出すことが根本的な使命ではなく、どこまでも主に必要とされている、時代を超えて、価値観を超えて、主が導かれる、その導きの中で、神様の愛を伝えていく、仕えていくのであります。

さて、主の伝道、宣教に参与する私たちはどのような思いをもって、これに仕えていくのでしょうか。日本基督教団の牧師である深井智朗(ふかいともあき)先生という方が書かれた著書に「伝道」とい本がありますが、この中に、伝道についてこういうことが書かれていました。

伝道を語ることは美談や成功例を数えあげることではありません。また悲観的な分析を続けることでもありません。伝道の技術を説明し、伝授することでもありません。私たち自身の救いを語ることでしょう。この私たちの人生にキリストがどのように出会ってくださったのかを語るのです。証言するのです。
深井智朗『伝道』日本キリスト教団出版局 2012年 P19

深井先生は私たち自身の救いを語ること、人生におけるキリストとの出会いを証言することこそが伝道であると言います。私たちが考え、行っていく宣伝やマーケティングというよりも、私たちの救いの体験、さらには信仰告白が基軸となっているのです。

主の救いと主との出会い、おひとりおひとりに体験があることでしょう。また今その主に招かれている方々もおられるかと思います。それは決して過去の出来事に限られません。今まさに、神様の救いを体現している私たちの姿にあります。だから、私たちの伝道、宣教も変わっていく、変えられていくのです。今新たに、私たちは御言葉を通して、神様の救い、神様との出会いを受け止めるのであります。

主イエスが伝道を開始したガリラヤとは15節と16節にこう記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」とあります。マタイはイザヤ書の言葉を引用して、ガリラヤという地名と背景について詳しく記しているのです。

ガリラヤはイザヤが生きた紀元前8世紀の時代に、イスラエルが他国との戦争に負けて侵略され、戦争の傷跡が残る荒廃とした土地になってしまいました。その只中で生きる人々は暗闇に生きていたと言うのです。希望を失い、絶望と混乱に満ちていた人々はまさに死の陰が忍び寄る土地の上を歩んでいたのです。

暗闇、闇というのは根深いものであります。私たちの身近に忍び寄ってくるものです。異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民、死の大地、それはまた私たち自身の奥深いところに存在するのではないでしょうか。このガリラヤという闇を隠そうと、私たちは光を求めて生きていますが、暗闇、闇というのは根深いものであります。私たちの身近に忍び寄ってくるものです。私たちの心を閉じさせる力があるのです。

イザヤは、ガリラヤという地に芽生える暗闇にこそ輝く光を預言したのです。闇の只中を生きる民は必ず光を見ると。マタイ福音書はさらに、この光が闇に射し込むという表現を用いています。闇の只中を生きる者は、私たちはただこの光を見るということに収まらない、私たちの奥深い闇に光が射し込むように、今主イエスキリストという大いなる光は、闇を抱える私たちの人生の真っ只中に入り込んでくるということであります。

異邦人のガリラヤ、それは死の陰が忍び寄る土地、光など射しもしない奥深い闇、それは私たちが抱える闇でもあります。私たち自身が光を拒んでいるのかも知れません。誰にも見せられないような奥深い闇との葛藤を抱き続ける私たちの下に、主の伝道は始まるのです。闇にうずくまっている者を放置せずにはいられない神様の愛が迫っています。

神様の救い、神様との出会い、私たちの救いの物語は闇の只中において、主イエスが来てくださったことにおいて始まったのです。主イエスの光は、私たちの伝道、宣教の光をも射し出る導きの光でもあるのです。私たちの闇を貫き通す一条の光として、主イエスの伝道は始まりました。私たちの伝道はこの光に照らされて、初めて主の御業として形になってくるのであります。形として具体的に示されてくるのです。主イエスの伝道開始は、私たちの救いの物語の始まり。主はすべての人を訪れます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。