ヨハネによる福音書14章8〜18節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あな
一昨日の金曜日、久々に私は実家に帰り、家族と夕食を共にしてき
ヨハネによる福音書14章8〜18節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あな
一昨日の金曜日、久々に私は実家に帰り、家族と夕食を共にしてき
ヨハネによる福音書13章31〜35節
藤木 智広 牧師
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ヨハネによる福音書13章31~35節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
主イエスは言われます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」互いに愛し合うということ、そのことを主イエスは「新しい掟」として、弟子たちに、そして私たちに与えられました。互いに愛し合うという新しい掟、新しいとありますから、当然古い掟があるわけです。それは旧約聖書にある御言葉、レビ記19章18節に記されている「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という愛の掟であります。
古い掟、新しい掟、共に「愛」ということが共通しています。愛する、愛される、愛し合う。当然、それは単に恋愛感情における関係、または家族関係について言っているのではなく、また好き嫌いということについて言っているのではありませんが、私たちは、普段の人間関係において、「愛し合う」という関係、言葉をあまり思い浮かべないのではないでしょうか。協力する、支え合う、仲よくする、一緒に歩むといった言葉のほうが身近にあります。東日本大震災が起こった年では、「絆」と言う言葉をあちこちで聞きました。日本中の人がこの絆で結ばれている、苦しいのはあなただけじゃない、私が、あなたが共にいるよといった、そういうフレーズの言葉をたくさん聞きました。印象に残っている言葉です。
しかし、愛し合うと言えば、やはり恋愛関係、家族関係、または教会、聖書の中にある専門用語みたいな領域に押し込まれてしまうという気がいたします。というのも、根本的に「愛し合う」とはどういうことなのか、尊い言葉に思えて、自分には身近に感じられないから、考えないようにする。どこかそういった思いがある、私自身もそういう思いがどこかにあります。しかし、主イエスが言われた「愛し合う」ということ、愛の群れの中に、今御言葉を聞く私たちはその一人として、その場にいる、その場に立っているということをよくよく踏まえていきたいのです。というのも、「愛し合う」ということが、私たちの教会における愛の共同体としてあるということと、私たちの人生の歩みにおいて、新しい視点を与えてくださるからです。
愛する、愛し合うということが古くからの掟としてありました。ユダヤの世界では、「律法」を通じて、神様と自分、相手と自分の関係を示す大切な言葉として、浸透していました。ところが、旧約聖書の歴史を見ると、神様はどの時代においても、愛の御心を彼らユダヤ人に示し続けるのですが、彼らは神様の愛から離れて、偶像崇拝にふけり、自分たち人間の価値観に軸を置いて、神様を拝まず、その心は神様から離れていたのです。多くの預言者が遣わされましたが、彼らは神様から離れたままでした。そして、父なる神様は愛する御子をこの世に遣わされ、神様の愛を彼らに伝えているのです。主イエスは弟子たちに愛し合いなさいと、従来からの律法の掟を伝えるのですが、それだけにとどまらず、新たな愛の視点を彼らに与えるのです。それが「私が愛したように」ということです。「私が愛したように」ということが「新しい」掟というのは少し変かもしれません。というのも、長い歴史の中で、神様は人々を愛され続けてきたのですから。しかし、その愛に気付いてこなかった、生き方を変えようとしなかった。神様の愛が、どんな愛なのかということがわからないからです。
私たちもそうです。愛がわからない、だから愛し合うと言われると、戸惑うのではないでしょうか。人に優しくする、支える、与えるなどと言う言葉を思い浮かべるかも知れませんが、しかし、実は私たち自身が、まず愛されたいという気持ちが根底にあるということに気付かされます。生きていて、様々な痛み、悲しみ、嘆きを背負っているからです。そんな自分を受け入れてほしいと願うことは誰にだってあります。最近は「愛の欠如」という言葉をよく耳にしますが、私はいつの時代でも、人間は愛に欠如した生き物だと思っています。だから愛されるということを求めます。それは決して悪いということではなく、根本的な私という存在が、愛を求めて生きている存在だからです。私もあなたもそうです。聖書はそんな自分の姿を映し出してくれる鏡のようなものです。本当は愛に飢えている、愛されたいと思っている。決してはずかしいことではない。愛がなければ、私たちは育たない、命の灯を感じられない。命があり、生きているという実感は、愛され生かされているということと、相互不可欠なのです。
では、主イエスはどのようにして、私たちを愛されているのでしょうか。今日の福音書であるヨハネ福音書13章からは、主イエスの告別説教と言われる箇所です。弟子たちとの最後の語らいのとき、この章の冒頭、すなわち13章1節で、主イエスは弟子たちをこのうえなく愛し抜かれたとあります。愛のテーマがこの告別説教の中心なのです。まず、洗足の話が記されています。主イエスは弟子たちの足を洗った後、「あなたがたも足を洗い合いなさい」と言われました。それは愛し合いなさいという掟と同じ響きがあります。しかし、その直後、ユダの裏切りが発覚します。27節で、サタンが彼の中に入ったとあります。ユダはサタンの思い、すなわち人間の思いに立ち、主イエスのもとを離れていくのです。その時、夜であったと30節に記されています。ユダの裏切りが、人間の闇の部分がこの夜という暗さを表わしているかのようにです。主イエスはその闇と向き合いました。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのです。そして今日の福音書、31節で、ユダが出て行くと同時に、主イエスはご自身の栄光を顕されたのです。神様の御姿を現したということです。何が原因か、それはユダによってでした。ユダの裏切りという臨場感の中で、すなわちご自身が捕えられ、十字架の死が確定したということが、主の御心を成し遂げたということにおいて、神様の御姿がそこに顕されているのです。私たちは、この主イエスの御姿から、みすぼらしく、無残な死を遂げてしまう無力なる「人」を思い浮かべるでしょう。どうして、栄光なのか、敗北ではないのかと。しかし、福音書は語ってまいりました。主イエスご自身のお言葉を。「私は復活であり、命であると」。この栄光の中に、その甦りの主が既におられる。失われる命を通り越して、それが死という終わりではなく、永遠の命が輝いているのです。主イエスの十字架という死、その失われる命の中に、ユダの裏切りという闇の勢力が一層際立つように思えるのですが、その闇の只中で、メシアなる主イエスは栄光に満ちているのです。この闇にまさる光を顕している。ユダの裏切り、またそのことに動揺する弟子たちの不安、恐れという闇がここにある。その闇をも照らす光、闇を甘んじて受け入れる神の愛、人間の闇にまさる神の愛が、栄光のメシアとしての主イエスに顕されているのです。わたしがあなたがたを愛した、その愛とは十字架の死という命の消失において、頂点を極めるのです。すなわち、私たちを愛されるが故に、命を捨てたということなのです。
さて、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさいという主イエスのお言葉を聞いた時、私たちはどのようにして互いに愛し合うのでしょうか。神の愛が、十字架の死というメシアの命の消失において、頂点を極めるのであれば、それでは私たちも、互いに愛するというとき、命を捨てるということなのでしょうか。このヨハネ福音書と最も結びつきのあるヨハネの手紙では、互いに愛し合うということについて、こう記しています。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(ヨハネの手紙13:16-18)。
主イエスが命を捨てて、私たちに神の愛を教えてくださったように、私たちも兄弟を愛するために、命を捨てなくてはならないと、非常に厳しいことが記されています。兄弟のために命を捨てる、そのようなことができるのでしょうか、いや問いかけるまでもないでしょう。そんなことはできない、神様はなぜそのような厳しいことをおっしゃられるのかと、嘆きたくなります。
でも、ここで考えていただきたい。私たちの「命」とは何かということを。この命がどこから来たのかということを。自分で得たものなのだろうか、そうであれば、それを手放すということなどできないと思えます。しかし、この命が、神の愛の息吹によって吹き込まれた、賜物としての与えられた命であると信じるならば、この命の所有者は私ではないということ。私を創り、私に命を与えられた方のものであるということ。そう信じる時、命を捨てるということは、無駄にする、どぶに捨てるということではなくて、命を与えて下さった方に、自分の命を委ねるということ、人生の歩みを、その方に委ねるということです。兄弟のために命を捨てる、すなわち委ねるということにおいて、他者を真っ向から受け入れる。優しくする、支える、与える以上に、その人と生きるということ、そばにいて、共に歩むということに他ならないのです。そのための命、他者を生かす、他者する命として、その灯は燃え続けているのです。なぜそのようなことができるのか、それは私たちが神の愛を知り、永遠の命という希望を見据えて、歩むことが許されているからに他ならないからです。
永遠の命を見据えて、今ある命を委ねる。私たちは命を失うことを恐れます。手放すことを恐れます。安全な囲いの中で、命を守りつつ、歩んでいきたい、その思いがあります。命を粗末にするな、大切にしろ、その通りです。そのことを否定しているわけではありません。粗末にせず、大切にするからこそ、この命を豊かな命として、用いていきたい。失うことを恐れて、この命を守りたいが故に、自分自身の力量や知識に頼って、生きて行こうとする私たちの姿があります。しかし、私たちは、自分の命をコントロールすることはできないのです。いつ失われるかわからない、死という恐怖と向き合いつつ、生きていかなくてはいけないというこの世での生活があります。しかし、主イエスの死と復活によって知りえた神の愛、永遠の命の中に、自分の命、人生を委ねることができたとき、もはや死という闇に恐れることはないのです。死と墓を打ち破った復活のキリストと共に、愛の共同体の中で、羊が緑豊かな牧草地で、草を食むことができるように、その豊かな命の中で生きることができるのです。
互いに愛し合いなさい。その愛の群れの中に生きる者は、命を委ね、永遠の命という希望と喜びに満たされているものたちです。主イエスは、その愛の群れに生きるものたちをご自分の弟子とされました。そう、教会の姿がそこにあるのです。今の私たちの教会の姿、愛の群れに生きる私たちひとりひとりの姿がここにあるのです。その姿を、世にいる人たちが知るのです。豊かな命に生きる信仰者たちの姿の中に、いや姿だけではありません。その言葉、行い、業、全てが神の愛を伝える器として、目に映されているのです。神の愛がここにある、命を委ね、復活の主と共に生きる者たちの歩みがあるのです。
神様がいないかのような時代、愛の欠如だとか言われるこの時代に生きる私たち。私たちは伝道、奉仕の困難さをいやというほど経験してきました。これからもそうでしょう。しかし、それは絶望のまま終わらない、無駄に終わるということはないのです。神の愛を求めている人たちに、少しずつ、伝わっていると信じられる。私たちは神の愛を知り、互いに愛し合うことができるのです。この愛に生きられるからこそ、愛が伝わっていくという確信をもつことができるのです。神の愛を信じて、豊かな命の灯を、これからも灯してまいりましょう。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
ヨハネによる福音書10章22〜30節
藤木 智広 牧師
そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」
ヨハネによる福音書10章22~30節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
昨日の土曜日から、関東地区が主催する「信徒塾」が始まり、六本木教会からは、私とKさんが受講してまいりました。教職を含めての参加者は、全部で25名近くもいますので、かなりの反響を呼んでいます。これは大変うれしいことではあります。皆さんは、この信徒塾について、どのような想いを持たれているでしょうか。単なる勉強会というイメージを持っておられる方もいるかも知れません。また、奉仕者訓練の場というイメージも持っているでしょう。参加者の皆様の中にも、勉強目的で参加された方もいるでしょうし、実際に奉仕者として活動するために、卒業を目指して、認定者となるべく、参加されている方もいます。
授業を始める前に、開会礼拝がありました。大宮教会の梁先生が司式を務められ、メッセージをされたのですが、その礼拝の中で、梁先生は参加者の皆さんに対して、この信徒塾にはビジョン、つまり夢があると言われました。明確なビジョン、夢があるということ。希望があるということに思えます。この信徒塾が単なる勉強会や奉仕者訓練の場だけではないということ。目的がある。それも大いなる目的。つまり神様のビジョンにあなたたちが参与するということです。このビジョンを持てることはすばらしいことであると、先生は力強く語られていました。とても私は印象に残っています。
ビジョンを描くということ。会社や学校という組織体だけではなく、一人一人が人生のビジョンを持ち、それを描いていることでしょう。それは期待や願望だけで潰えるのか、実現するだけの実行力と決断力を持っているのか、人によって違います。ビジョン、そこには熱い思いがある。確固たる確信がある。決して大げさな言葉ではありません。なくてはならない指針であります。もはや私の口を通して言うまでもないのですが、六本木教会も、六本木教会のビジョンがある。4月から新しい牧師、役員が与えられ、奉仕者が与えられました。初の役員会も先週いたしました。新しさの中で、慣れないことも多く、戸惑うことも多くありますが、常に前向きにチャレンジしていきたいという皆さんの熱意が伝わってきます。ビジョンが描かれている。しかし、それは私たちだけの思いではないということ、神様の御用にお仕えするという絶大なビジョンの中で、私たちの歩みがあるということ、それに参与させていただいているということなのです。神様が描くビジョンに私たちはお仕えするのです。そのビジョンとは何か、それこそが主イエスを通して働かれる神様の愛、全き愛と、永遠の命を与えられる救いのビジョンなのです。
今日の福音書でありますヨハネによる福音書10章には、主イエスが門であり、良き羊飼いであるという有名な譬え話が記されています。羊たちは、主イエスという門を通って羊の囲いに入って牧草を見つけることができるのですが、その羊たちを導く羊飼いも主イエスであります。しかし、そこには盗人や強盗も同時に入り込んでくる。羊たちを襲うためです。羊飼いは羊たちを守るために命をかける、いやそれ以上に命を捨てるのです。羊たちが豊かに命を得るためです。羊飼いである主イエスはそのために来られたというのですが、17節と18節でさらにこう言われるのです。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」。命を捨て、命を得る。そのどちらも成し遂げられるということが、父なる神様の掟、強いて言えば、御心なのだと証しされる主イエス。この言葉を語られる主イエスのお姿の中に、十字架と復活の主イエスがおられるのです。神様のビジョンを成し遂げるために来られた主イエス。今、苦難のメシアとして、私たちの前におられるのです。
さて、それでは羊を襲う盗人や強盗は何を顕すのでしょうか。文字通り受け止めれば、害をなす者たちです。傷害となる存在。しかし、それは目に見える害だけではなく、痛み、悲しみ、嘆きを与える存在、闇そのものに他なりません。羊である私たち人間にもたらす闇、この闇の只中に生きている私たちの人生があります。この闇から救われたい、光を照らして欲しいと私たちは願う者であります。今日の福音書に出てくる、ユダヤ人たち。彼らも今、ローマ帝国という圧政者、闇を取り払ってくれる光なるメシアを求めているのです。主イエスにその姿を見いだせない彼らは、10章24節で主イエスに詰め寄ってこう言うのです。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」気をもませる、つまり不安に陥っているということです。浮き足が立ち、不安の只中にある。メシアなのか、そうでないかはっきりしてほしい。不安だけでなく、いらだっているようにも見えます。
彼らユダヤ人たちは今、22節に記されています「神殿奉献記念祭」、口語訳では今日の説教題であります「宮清めの祭り」という祭りを祝っている最中にあります。これはヘブル語で「ハヌカ」と言われるユダヤのお祭りで、「ハヌカ」とは「奉献」という意味を指します。また、このお祭りは「光の祭り」とも言われています。光の祭りと言えば、私たちはまず燭台に火を灯すクリスマスを思い浮かべるかと思いますが、ハヌカもまた、燭台に火を灯す光のお祭りなのです。それは、彼らユダヤ人たちが、過去に、自分たちの国がギリシャに支配されていた時代に、このギリシャを追い出し、首都エルサレムを救った出来事に由来します。ギリシャの支配者たちは、ユダヤ人たちに、神様への信仰を捨てさせるために、エルサレム神殿に豚や偶像を持ちこんで、それらを納めさせ、神殿を汚しました。エルサレム神殿を清めるために、ユダヤ人たちは立ち上がりますが、その反乱軍を指揮したのが、マカベヤ一家のマタテヤという人物。そう、あの「ユダヤのマカべウス」です。ヘンデルが作った「ユダス・マカベウス」という凱旋の歌はこの人物に由来します。彼らは、ギリシャと戦い、見事にエルサレム神殿を奪還することに成功しますが、その時、神殿は完全に荒れ果てていました。彼らは豚や偶像を取り除いて神殿を清めますが、燭台に火を灯そうにも、1日分しか油が見つからず、油の補充には8日間もかかるという状況でした。しかし、火は1日のみならず、補充に必要な日数である8日間も燃え続け、火は途絶えることなく、永遠の火を灯すことができたのです。彼らは神様が奇跡を起こして、8日間も油が尽きないにされたと信じ、神殿の再奉献ということで、ハヌカと呼ばれる祝典を祝うようになりました。そして、このお祭りは、「ハヌキヤ」と呼ばれる特別の燭台に8日間にわたって火を灯すため、「光の祭り」と呼ばれるようになったそうです。
主イエスの時代のユダヤ人たちが、ユダヤのマカベウスを、国を救ったメシア的な英雄として讃えていたことは目に映ります。このお祭りを祝うたびに、今の支配者であるローマ帝国を倒してくれるメシアを彼らは求めていた、そして主イエスがそのメシアなのかどうか、彼らははっきりさせたいのです。しかし、主イエスは彼らに言われるのです。25「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」
彼らユダヤ人たちは、主イエスを信じず、その声を聞くことができない。自分たちの描いているユダヤのマカベウスといったメシア像を、主イエスに見出すことができないからです。そして、28節で、主イエスは永遠の命を与えると言われるのです。武力をもって命を削る方ではなく、命を造りだす者、尽きることのない永遠の命を与える方なのです。尽きることのない、永遠の命という灯を照らされるのです。ユダヤのマカベウスたちが、神殿を清めた際、8日間も火が燃え続いて、途絶えることのなかったあの灯のように。主イエスはその永遠の灯を照らされる光のように、今、真の良い羊飼いとして、救いの門として、おられるのです。永遠の命が与えられ、そこに生きるとは、主イエスという光に照らされて、歩むことなのです。その恵みの中で、生き続けられるように、主イエスはあなたを招き、あなたに声をかけています。永遠の命を与えられる主イエスという永遠の灯を照らす光は、私たちの闇の只中で照らされているのです。目の前の困難や痛み、悲しみから逃れるということでなく、たとえそのような状況の只中にあったとしても、それは絶望のままで終わりはしない。あなたはこの光に照らされて、希望を持って歩むことができる。神様はその私たちへの愛、救いのビジョンをもって、愛する御子をこの世界に、私たちの闇の只中に、永遠の灯、光として遣わされたのです。ユダヤのマカベウスが死に、ローマ帝国が支配しようとも、この光は潰えない。私たちの人生の只中においてもそうです。主イエスは復活して、今も私たちと共におられる。永遠の命を与えるために、私たちに呼びかけられています。この命に生きるということは、闇の只中にあっても、もはや恐れることはないということです。
「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」詩編23編の作者はこのように歌います。恐れることはない、それは主が共におられるからに他ならない。迷い悩み多き、羊である私たちであっても、良き羊飼いは私たちを導くとこしえの光として輝いています。この光の道は途絶えることがないのです。
ここに復活のロウソクが灯されています。この復活のロウソクは、礼拝が終わっても、ずっとつけておくということが、教会の習慣としてあるそうなのです。今は礼拝後、この礼拝堂には誰もいなくなりますので、防犯上消しますが、このロウソクの灯が消えないということは、まさに復活の主イエスの光そのものを表わしていると言えるでしょう。この永遠なる灯、燃え続ける灯としての命に与るものとして、私たちの内に、この光を受け入れ、光の道を、共に歩んでまいりましょう。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
ルカによる福音書24章36〜43節
藤木 智広 牧師
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
ルカによる福音書24章36~43節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
皆さん、先週の日曜日は、私の按手、就任式にご参列いただき、全面的にご奉仕してくださいまして、誠にありがとうございました。本当に祝福されたすばらしい式でした。ご参列いただきました皆様からお祝いのお言葉をいただき、牧師としての心構えを改めて身に着けさせていただきました。私はこの出来事を生涯忘れるわけにはいきません。そして、六本木教会の皆さんおひとりおひとりは、私が正式に牧師となり、この教会の牧師として就任されたことの証人であります。証人となってくださった皆様と共に私は、この六本木ルーテル教会で復活のキリストを宣べ伝えながら、共に生きていくという確固たる指針を抱いております。六本木という地で、聖霊の働きに満たされながら、神様の御用にお仕えしていくのであります。そして、この六本木の地から、どこまでも、どこまでも、それは地の果てに至るまで、神様の福音を宣べ伝えていく、その使命に生きる者たちの群れであるこの六本木教会は、神様によって建てられたキリストの御体であるのです。
六本木教会では本日また、新たな一歩を踏み出します。今日の礼拝の中で、新しい役員の方々が与えられるのです。新たなるリーダーたちを迎えて、教会の秩序がこのように整えられていくということに、生まれ変わった新しさに生きる教会の姿を描きますが、それは全くの新しい姿ではありません。教会が辿ってきた信仰の歩みを、今の私たちが継承していくということに他ならないからです。遡れば、ペトロ、パウロの時代、初代教会から続く、使徒的な公同の教会の歩みを私たちは引き継いでいるのです。もちろん、時代も国も、文化も生活形態も全然異なりますが、彼らの歩みは今の私たちの歩み、復活の主と出会った出来事を証する彼らの姿は、今の私たちの姿と変わらないということなのです。なぜなら、パウロがエフェソの信徒への手紙で「主は1人、信仰は1つ、洗礼は1つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して、すべてのものの内におられます」と言いっているとおり、多様なあり方においても、本質は1つであるということだからです。時代も国も文化も生活習慣もすべてを越えて、神様はすべてのものの中におられ、すべてのものを通して働かれているのです。私たちもこの神様のご支配の中にあって、今この時を歩むことが許されている者のひとりひとりなのです。様々な事情を抱えて、問題と向き合いつつも、私たちの心と思いはひとつであるということ、そのことを信じて歩む私たちの信仰の姿が、ペトロやパウロたちの時代から引き継がれているということを覚えたいのであります。
今日の福音書は、主イエスが真の肉体を持って、弟子たちの前に現れたという復活の出来事の核心を描いております。婦人たちは主イエスのご遺体が納めてあるはずのお墓に行きましたが、ご遺体は見つからず、その時、彼女たちの前に現れた2人の天使から主イエスが復活したことを聞きます。そして、生前の主イエスの言葉を思い出し、復活を信じました。弟子たちは婦人たちの証言を信じませんでしたが、エマオへの途上で、クレオパともうひとりの弟子は、主イエスに出会います。しかし、主イエスであるとわかって、そのお姿をはっきりと見ることはできませんでした。時を同じくして、シモン、すなわちペトロたち11人の弟子たちの前にも、主イエスは現れたのでしょう。24章の33節から35節を見ても、福音書はその時の出来事を詳しく描いてはいませんが、おそらく彼ら11人も、主イエスのお姿をはっきりと見ることはできなかったのではないでしょうか。ですから、今聖書の御言葉を聞く私たちは、婦人たちや弟子たちの証言を通して、主イエスの復活の出来事を聞くのですが、いづれもこの出来事の詳細が断片的であるということに気付かされます。皆が皆バラバラの証言をしており、彼らは話し合っているのですが、彼らが共に主イエスの復活を「共に喜んでいる」という場面が、今までの箇所では描かれていないのです。婦人たちやクレオパともうひとりの弟子、ペトロたち11人の弟子、聖書には記されていませんが、その他の弟子たちも、主イエスの復活を知る体験をしたことかと思われますが、彼らの証言は、ひとつにならないのです。
彼らの証言がひとつとなった出来事を描いているのが、まさしく今日の福音書の出来事なのです。今日の福音書は、主イエスが真の肉体をもって復活されたという出来事を伝えているだけでなく、彼らが一致して、主イエスの復活を共に喜んでいる出来事を私たちに伝えているのです。冒頭の36節に、「こういうことを話していると」とありますから、すぐ前の箇所の出来事から続いていることがわかります。ここにはクレオパともうひとりの弟子、ペトロたち11人の弟子たち、おそらく婦人たちもいたでしょう。他の弟子たちもいたかも知れない。その大勢の弟子たちの真ん中に、主イエスが突然現れ、「あなたがたに平和があるように」と彼らを祝福されたのです。主イエスが彼らの真ん中に立たれて祝福されたということが、何よりもバラバラだった彼らの思いをひとつにしてくださる主イエスの愛の招きに他ならないのです。私たちはここに教会の姿を見ます。様々な思いを抱えて、私たちは集められますが、主イエスは私たちの真ん中に立たれて、私たちを祝福される。この祝福のもとに、共に交わり、共に生きよとそのように語られる主イエスのお姿があるのです。
ところが、復活の主イエスを目の当たりにして、弟子たちは恐れおののき、うろたえ、心に疑いを起こし、亡霊を見ているのだというのです。亡霊だと思った、すなわち主イエスのお姿に、生ける者として、その命を見出すことはできなかったのです。亡霊、それは単にオカルトチックな表現には留まりません。真の恐怖です。恐れおののき、うろたえ、心に疑いを起こすもの。あいまいな存在にすぎませんが、しかし、この存在が弟子たちに、そして私たちにも確固たる疑いを引き起こすのです。疑い、そう彼らは信じていなかった。彼らは各々が復活の証言をしていたにも関わらず、信じるには至っていなかったのです。主イエスのお姿を通して、彼らの復活証言、そこには同時に疑いがあったということを伝えているのです。
彼らのこの疑いの出来事、かつて彼らは湖の上を歩く主イエスのお姿にも同様の反応をしているのです。船に乗っていた彼らは、湖の上を歩く主イエスのお姿を見て、「幽霊だ」と叫びます。亡霊と同じように、彼らは主イエスだとはわからなかった。心に疑いを起こし、うろたえていたのです。しかし、その時、主イエスは弟子たちに言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。「わたしだ」と自らを現される主イエス。あながたの知っている私であると、御自身を顕される主が彼らと共にいる。ひどく怯え、恐怖のあまり自分の心を閉ざしていた彼らの心を、主イエスは開かれるのです。
復活の主イエスは今また弟子たちにご自身を顕されるのです。手と足を彼らに見せ、尚も疑う彼らの前で、魚を食べたのです。真の肉体があるということ。主イエスが真の肉体を持ち、復活したことの証明に他ならないということ以上に、主イエスが自らを顕し、彼らの疑いの心を開かれようとしておられるそのお姿の中に、弟子たちとの関わり、弟子たちへの愛がここに示されているのです。婦人たち、弟子たちの証言は真実であれ、やはり断片的であった。主イエスはエマオへの途上で、ふたりの弟子と共に歩まれたが、彼らは主イエスだと気付かなかったのです。気付いて、そのお姿を見ることはできなかった。弟子たちは、証言しますが、そこに復活の主イエスとの関係は見いだせなかったのです。
主イエスは弟子たちの真ん中に現れて、彼らを祝福しました。真ん中ということは、誰にでもわかるように、見えるようにご自身を顕し、一人一人との関係において向き合ってくださるということです。私は先ほど、この場面の中に、教会の姿があると申しました。復活の主イエスのもとで、弟子たちが祝福されている場面に、主イエスを頭とした彼らの交わり、結びつきをも見出します。彼らは真に肉体をもった主イエスの御許で、ひとつとされているのです。主イエスの復活の御体としての教会。そこには当然、手もあり、足もある。ペトロの時代から継承されてきた使徒的な教会を受け継ぐ私たちも、この復活の主と出会い、互いに交わり、関わりをもつ者たちの群れであります。それでは、私たちはどこに復活のキリストの手と足を見出すのでしょうか。
私が卒業したルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の校舎には、手と足のないキリストの像があります。学生たちはなぜ、このキリスト像に手と足がないのかと疑問を浮かべていました。復活の御体を顕してはいないと言う人もいました。この像がどこから来て、どのような由来があるのかということは詳しくわかりませんが、ある先生がこう言ったのです。「私たち一人一人がキリストの手であり、足である」と。私たち一人一人がキリストの手となり、足とされている。手と足がないというわけではない。それらは確かにある。弟子たちの前に顕れた復活のキリストがまさしくそうでありますが、この復活の、手も足もあるキリストの御体は教会であるということ。この教会に集う私たち一人一人がキリストを証する手であり、足であるいうことに他ならないのです。私たち一人一人が、キリストの御用のために、手となり、足となって、福音を宣べ伝えるべく、用いられているということ。私たち一人一人がかけがえのない存在であり、主イエスに愛される存在であります。亡霊なるあいまいな存在としてではなく、真の肉体をもち、復活された主イエス、かつて弟子たちに「安心しなさい、わたしだ。」と言われ、御自身を現されたこの主イエスと共に私たちは歩み続けるのです。
主イエスは確かに生きて、今も私たちと共におられます。復活の御体、それは私たちの目に直接見えなくとも、この御体の中で生き、歩む私たち一人一人が、キリストの手足となって、用いられる姿に見出されるのです。新しさばかりに目を奪われるのではなく、継承されてきた信仰の旅路を更に一歩一歩と前進していくことができるように、共に歩んでいきましょう。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。