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2019年10月6日 聖霊降臨後第17主日の説教 「自分自身を解放するため」

「自分自身を解放するため」ルカによる福音書17章1~10節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 「わたしどもの信仰を増してください。」困難に直面したり、行き詰ったりすると、ふとそのように願う自分の姿があります。信仰を増してください、または信仰を強くしてください、そうすれば目の前の困難を克服することができますと。信仰が小さく、弱いままではだめだと思ってしまう自分がいるように思えます。信仰が小さいから、人を愛することができないとか、主イエスの言葉を守ることができないなど、様々に思い悩むことがあるかもしれません。
 
 これは、主イエスが1節から4節で言われたことがきっかけでした。つまずきはスキャンダルとも言いますが、障害となるものであり、罪に誘う力であると言えます。誰しもそのつまずきは避けられないと言います。そして、兄弟が罪を犯したら、戒め、悔い改めるものは赦し、さらに「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とまで言われました。1日7回も罪を犯す人がいても、7回悔い改めるなら、赦しなさいと言われます。1日7回です。とんでもない数ですが、聖書で言う「7」という数字は、完全数を表しますから、完全に赦しなさい、赦しとは完全に赦すことであると主イエスは言われるのです。それならば、自分たちの信仰をもっと大きくしていただかないと、到底無理ではないか。もっと大きく、完璧な信仰がないと、自分たちには赦すことなど不可能だと。彼らはそのような思いを抱いたことでしょう。
 
 ところが、この弟子たちの願いそのものが、的外れであったかのように、主イエスは弟子たちにこう言われるのです。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。(6節)ここで主イエスがたとえているのは、からし種という最も小さい種です。手に取ってよく見ないと見えない種であると言われています。この種を植えると2メートルほどの巨木になるそうです。根がそれだけしっかり張るのでしょう。主イエスは他のたとえ話の中で、この最も小さい種が、どんな植物よりも大きくなるということを、天の国にたとえて語っておられます(ルカ13:18~19)。ここで、主イエスがからし種を用いて、その最も小さい種、それに例えられるように、そのような小さい信仰さえあれば、その種のサイズからは想像もできないほどの木が育つように、信仰も大きく育つということを言っているのでしょうか。その小さい信仰さえあれば、「桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」と言われることが実現する。そのような想像もできないことが実現するということを言っているのでしょうか。
 
 主イエスは単に「からし種一粒ほどの信仰で十分です」とは言わず、「もしあなたがたに・・・あれば」と言われました。もしあればの話であって、あなたがたはそのからし種一粒ほどの信仰すらないのではないかとも聞こえます。信仰をまし加えてくださいどころではない。信仰があるのか、ないのか。0ではないのかと思わされるほどです。つまずきは避けられないと主イエスが言われるように、彼ら使徒たちもつまずき、罪を犯してしまう現実があります。
 
 私たちはつまずきを避け、平穏な人生を歩みたいと願っております。挫折や失敗のない歩みをしたいと願っています。傷つくことを恐れ、悲しみや苦しみを避けたいと願います。しかし、生きるということにおいて、それらのことは避けようがなく、またつまずきそのものがいつ、どこで起こってくるのかということはわからないわけです。むしろ、主がここで私たちに語っているのは、私たちはつまずきを避けられない存在であり、つまずきを避けられないからこそ、この私そのものが現実のこの世を生きているということでしょう。私たちがどんなに背伸びをしても、あとこれだけの信仰があればとか、これだけのものがあれば、できるのにと思ったとしても、本来の私たちそのものの中には、自分が思い描くものはなく、ただありのままの自分という存在があるだけなのです。
 
 しかし、主イエスはそんな私たち、つまずきを避けることができず、つまずきと共にある私たちそのものを見つめておられ、そのことによって私たちの存在を否定し、私たちの存在を作り変えようとしているのではないのです。それはなぜかと言いますと、他の箇所で、この主イエスご自身がつまずきだと言っておられるからです。(マタイ11:6)パウロの言葉を借りれば、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(Ⅰコリント1:23~24)と言っているように、キリストの十字架はおよそ、私たち人間が抱いている神様からの救いの力であるとは思えないからです。キリストの十字架、それは、はたから見れば、敗北の象徴です。無力なものです。しかし、神様はこのキリストを十字架につけるために、この世にキリストを、つまずきが避けられない私たちの只中に贈られたのです。それは、つまずきがある私たちを裁くためではなく、御自身にはつまずきのない方が、つまずきの中にある無力な私たちと同じものとなることによって、私たちそのものを神様が受け止められ、愛しているからということです。
 
 パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰで、こういうことを言っています。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:2)つまずき、罪の誘惑からは避けられないかも知れません。完全な信仰どころか、むしろ、からし種の信仰すら持てない私たちのために、主イエスは主となってくださった、十字架を通して、つまずく私たちを赦し、愛する生き方へと変えてくださった。使徒は、教会はその救いの確信に立ち、真の主であるキリストを宣べ伝え、主イエスの名によって、罪の赦しを与える僕の群れであります。弟子として御言葉に立ち続ける教会の姿の中に、信仰が芽生えます。賜物としての信仰です。キリストが赦し、愛してくださる確信の中に信仰が育まれるのです。「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)と、パウロが言うように、主であるキリストの愛から、私たちが離れることはないのです。信仰の大小ではないのです。つまずきは避けられないが故に、キリストの愛も避けられてしまうことはないのです。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年9月29日 聖霊降臨後第16主日の説教 「真に頼れるもの」

「真に頼れるもの」ルカによる福音書16章19~31節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 今日の福音書には死後の世界が描かれています。ラザロはアブラハムのすぐそばの宴席に招かれ、金持ちは陰府に行きました。ラザロは天国、金持ちは地獄という領域に分けて理解される方が多いでしょう。どの時代、どの国、どの宗教でも、このような死後の世界について、一定の理解を求めますが、はっきりしたことはわかりません。生者には分かりようがないのかもしれませんが、主イエスはこの福音の御言葉を通して、天国と地獄といった死後の世界について私たちに語っているわけではありません。また、生前の行いにおいて、死後の世界はこうなっているぞと私たちに語っているわけではないのです。
 
 金持ちが毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。金持ち故のありふれた日常生活と言えるでしょう。ところが、彼の家の敷地内にラザロという貧しい人がいました。それもただ貧しいということだけでなく、「食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」という状況です。貧しくても人並みに暮らしているという生活レベルではありません。日々の食べ物にも、食卓から落ちる物で腹を満たすわけですから、必ず食事にありつけるというものではない。さらに、犬がやってきて、そのできものをなめるというのです。犬はユダヤ人にとって軽蔑の対象です。その犬にしか相手にされないというのが、この貧しい人、ラザロの生き様なのです。この貧しさとは、言ってみれば、自分の内には全く何もない、何も持っていないものであると言えるのです。裸一貫、無一文です。それも犬にしか相手にされないほどの、無価値な存在として描かれています。
 
 このラザロとは対局的な暮らしにある金持ちです。この金持ちはラザロの存在を知っていたでしょう。しかし、ラザロに施している様子はありません。それはラザロの生活、姿を見れば一目瞭然です。ようするに、この金持ちの贅沢とは、ラザロの無価値な存在が引き立たせていると言えるでしょう。金持ちはその贅沢な生活の中に、自分の存在価値を見出しているわけです。だから、ラザロには無関心だったのでしょう。
 
 やがて、二人共死んでしまうのですが、金持ちは陰府の世界に落ちました。そこでは苦しみを経験していました。しかし、ラザロはユダヤの父、信仰の父と言われるアブラハムのもとにいるのです。アブラハムはユダヤ人の父祖とも呼ばれる、神の民の祖先を表します。アブラハムは神様から祝福され、土地を与えられ、財産を与えられ、年をとり、もうあきらめかけていた時に子供が与えられます。さらにその子ども、それはイサクのことですが、そのイサクをいけにえに捧げよという神様の声にも従った神の民の創始者、信仰の模範者でした。この金持ちもユダヤ人だったのでしょう、偉大な祖先であるアブラハムに出会えたのです。
 
 しかし、彼は喜んではいられません。必死にアブラハムに懇願するのです。この苦しみから逃れさせてくださいと。しかし、アブラハムの答えは、彼に甘くありません。金持ちとラザロの生前の境遇を語り、2人の間には大きな淵があって、行き来はできないと言われます。27節で彼はまた懇願します。自分の兄弟に、こんな境遇をさせたくないから、よく言い聞かせてくれと。対して、アブラハムはモーセと預言者の言葉に耳を傾けろと言われる。モーセは神の律法、神の言葉を表します。神様の律法と、預言者を通して語られる神様の言葉に聞きなさいと言われます。尚も、金持ちは懇願します。死んだ者が生き返って、兄弟のところに行けば、彼らは悔い改めて、神様の下に帰ってくるでしょうと。アブラハムは言います。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」神様の律法、神様の言葉を聞かないものが、どうして生き返った者の話など、信じられるかと言われます。
 
 兄弟たちが今耳を傾けるべきはモーセと預言者、つまりそれらは神様の言葉、聖書の言葉を指しますので、神様の御言葉に聞き、信頼してそれに従うことなのです。実際に死後の世界に行ったものが今を生きているものたちに伝えたとしても、彼らは全く信じない。肝心なのは、今、御言葉に聞くということ、死後の世界を信じて、それに対してどうしようかということではなく、今、この命を与えられているこの世での生き様において、何を聞き、何を信じるのかということを、アブラハムは5人の兄弟、すなわち私たちに伝えているのです。
 
 私たちが御言葉を通して聞くことは、死後の世界の末路を避けるために、自分の富を慈善活動や人のために用いなさいという道徳的、教訓的なことではなく、自分に与えられている富に、具体的にはその人生、命をどのように用いて生きていくかということです。私たちの人生、命も与えられているものであって、自分で所有し、自由自在に扱えるものではないのです。与えてくださった主がおられ、その主が私たちの歩みを導いていかれるのです。
 
 そのことが示されているのが、ラザロという人、貧しい人にあります。ラザロという名前は、「神は私の助け」、または「神は私を助ける」という意味があり、神以外に助けるものは他にはないという意味の名前です。神が私を、あなたを助ける、自分が自由自在に扱える富が、自分を助けるということではないのです。そして、このラザロは貧しい人であった。しかも、その貧しさとは、私たちの目から見たら、裸一貫、無一文であり、犬にしか相手にされない無価値な者、何ももっていないものなのです。何も持たざる者、ラザロ。そう、ラザロは何も所有してはいないのです。神が助ける、神が私に与え、私を助ける方であるということ、それがたとえ悪いものであっても、それを通してでも神は私を助けるものであるということなのです。そういう意味で、このラザロこそ真に神様からの富を与えられているものであると言えるでしょう。ラザロには何もない、何も所有するものはない、空っぽ。だから、その空っぽに入れることができる、神の富がある。神様の恵みを助け手として、その生涯を歩んでいくことができるのです。
 
 パウロはエフェソの信徒への手紙でこう言います。「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」(3:6~9)キリストに約束されたもの、その恵みを最もつまらない、価値のない者に与えてくださった。そのキリストの計り知れない富を私は知っているがゆえに、その富の恵みを他者に伝えていくことができるとパウロは言います。キリストの計り知れない富とは、私たちの存在そのものが生かされていくという赦しの富であり、新しい命の歩みにおける富ではないでしょうか。このキリストの富は、キリストの貧しさの中に顕わされています。このキリストが最も貧しい方となって、私たちの只中に宿ってくださり、私たちと共にいてくださる。このキリストが神の助け手となって、私たちを導き、支えてくださるのです。いわば、キリストは命をかけて、私たちの助けとなってくださる方なのです。
 
 神様は私たちを助け、私たちに命を与える方です。私たちは金持ちの人かも知れません。全て満たされているように思えて、しかし、死んで失い、喪失してしまう姿がある。豊かさに縛られ、真の貧しさを恐れるが故に、貧しさを忘れる私たちの姿があります。死後の世界にその報いを受けなくてはならないという恐れがある。しかし、その恐れから解放してくださる方が、私たちの間に宿ったのです。キリストは陰府にまで降られたのです。私たちは陰府で、飢え苦しむのではなく、キリストの招きによって、キリストの恵みを知るのです。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年9月22日 聖霊降臨後第15主日の説教 「友を作って」

[友を作って」 ルカによる福音書16章1~13節 藤木 智広 牧師
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 本日の福音書から聞く不正な管理人の譬え話は、そのまま読んで聞きますと戸惑いを覚える内容であるかと思います。主人の財産を無駄遣いしていた管理人は、仕事を解雇されることを知らされ、窮地に陥ります。今この仕事を失ったら、どう生きていけばよいのか。「土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」それが彼の本音でした。贅沢を言っている場合ではないだろう、自分が不正を犯して、財産を無駄にしたのだから、自業自得だと私たちは思うかもしれません。何か彼の中に変なプライドがあって、それが原因で、これからを真剣に生きていこうとしない。そういう印象を持つでしょう。ただ、土を掘る力もない、強いて言えば、それがこの管理人の姿そのものとも言えます。自分一人で生きてはいけない、自業自得だとしても、いざ自分がこの管理人の立場になった時、一人でどうして行けばよいかわからない、生きていける保証はないと感じるのではないでしょうか。
 
 そこで彼は管理人としての仕事を尚、全うするのです。主人から負債を抱えている者たちの負債額を主人に黙って、軽減するという行為をします。自分を家に迎えてくれる友を、助けてくれる友を必要としたからでした。彼のしていることは誰から見ても許されざる行為として映るでしょう。当然主人の耳にもそのことが入るのですが、主人は彼の不正な行為を、その抜け目のないやり方をほめたというのです。抜け目のないやり方というのは、ずる賢いという意合いではなく、「賢いやり方」、「思慮深いやり方」とも訳される言葉で、肯定的に受け止められる言葉です。怒って、即刻彼を処罰したのではなく、むしろ彼の不正行為を、賢い行為として褒めているのです。
 
 この譬えを話された後、主イエスは弟子たちにこう言いました。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」あたかも、主イエスが不正な管理人の行為を称賛し、あなたがたも彼に習いなさいと言っているように聞こえます。ただ、管理人が友を必要としたように、主イエスもここで友達を作りなさいと言っています。富をうまく築いて、その富に頼って平穏な生活をしなさいとは言わないのです。管理人が、自分を助けてくれる友を必要としたように、永遠の住まいに迎え入れてもらえる友を作りなさい、友を頼りなさいと言います。この友とは誰のことを言っているのでしょうか。
 
 すぐ前の15章にある3つの譬え話があります。見失った一匹の羊、見失った1枚の銀貨、そして放蕩息子の譬え話です。これらの話をされたきっかけは、15章1節と2節を見ますと、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。」とあるように、ファリサイ派の人々や律法学者たちの不平不満がきっかけでした。彼らは徴税人や罪人が主イエスと一緒に食事をしているのが気に入らず、納得できませんでした。彼らと親しく関わっていることが許せなかったのです。神様の教えである律法をしっかりと守っている自分たちこそが正しく、主イエスと交わるのに相応しいと思っていたからでした。そして、3つ目の放蕩息子の譬え話では、父親の財産を生前に相続し、浪費して、お金がなくなり、誰も助けてくれなくなった息子を父親が迎え入れて、愛情を注いだ出来事を、彼らは納得できなかったでしょう。管理人が財産を無駄遣いしたというのは、放蕩息子が父親の財産を浪費したという言葉と同じです。放蕩息子も管理人も、正しく生きていない姿として、彼らの目に映ったことでしょう。そこで、放蕩息子は父親を求め、管理人は友をそれぞれ求めたのです。放蕩息子の父親も、管理人の主人も最後は自分たちの財産が損失しました。しかし、父親は一人息子を迎え入れ、主人は管理人の賢いやり方を褒めました。彼らを裁くことはなかったのです。
 
 そして、主人がほめたのは、金儲けした管理人の姿ではなく、その主人のお金で自分を助けてくれる友を必要とし、友を作ったことでした。ファリサイ派の人々や律法学者たちから見れば、彼は不正な富で不正に友だちを作っているとんでもない人だと映ったかもしれません。それほどに、彼らに頼れるものはなかった。誇るものはないのです。不正なままの姿があるのです。罪人や徴税人としての姿と重なるのです。しかし、そこで管理人は諦めたのではなく、こんな自分を助けてくれる友を必要とし、そこにかけたのです。富そのものが自分を助けてくれるのではなく、友が自分を助けてくれると。主人の財産を不正に用いてでも友を作ろうとしました。それでも、主人は管理人のその行為に、真に価値あるものを見出したのでしょう。結果的に、主人の富が友を作るきっかけになり、管理人に友が、自分を助けてくれる命の友を見出すことができたのです。
 
 主イエスはこの管理人の話を弟子たちにしています。8節で主イエスはこの世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。と言われ、弟子たちは光の子を指しています。光の子について、エフェソの信徒への手紙で、パウロはこう言います。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5:8)主に結ばれて光となる、それが光の子。だから、この光の根源は主イエスキリストそのものです。光の子は、光の基、光の主であるキリストの内にあるものです。キリストの管理のもとにある者が光の子なのです。その光の子らよりも、この世の子らのほうが賢く振舞っていると言うのです。主イエスが言われる賢さとは、自分を助けてくれる友を作り、友を信頼し、友のもとに留まることでした。しかし、弟子たちはやがてキリストを裏切り、見捨て、キリストの下から離れさってしまいます。光である主イエスのもとから離れてしまうのです。そのような愚かさがそこに映っています。
 
 この友とは単なる親しい友人関係ということではなく、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)とヨハネ福音書が記しているように、命の友となってくださる方です。そのお方は命をかけて私たちの友となってくださる方、十字架の主イエスキリストなのです。この方が真に私たちの友となってくださった方であり、命を与えてくださる人生の主人なのです。弟子たちも、この十字架の主イエスによって、真の友を見出し、友によって新しい命を与えられ、光の子としての新しい歩みを開始していったのです。
 
 徴税人や罪人、放蕩息子や管理人のように正しく富を用いることができない者たちの姿と私たちは重なることがあるのではないでしょうか。「土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」そんな弱さと無力さを身にまとった姿があります。主イエスはわたしたちひとりひとりの命の友となってくださるために、私たちの只中に来てくださいました。見失われた者、外れたものたちを見捨てることなく、招いて下さり、友となって共にいてくださるために。
 
 主イエスは私たちの命の友です。この命の内に光があるのです。不正にまみれ、暗闇の内にあろうとも、暗闇は暗闇のままでは終わらないのです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5:8)光の子として、友である主イエスと歩んでいく。そのようにして私たちの命を、人生を永遠の住まいに迎え入れてくださる友である主イエスのもとに留まっていきたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年9月15日 聖霊降臨後第14主日の説教「かけがえのないひとりとして」

「かけがえのないひとりとして」 ルカによる福音書15章1~10節 藤木 智広 牧師

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 今日の聖書の言葉は有名な見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ話です。ルカによる福音書の15章には、このふたつの話と、11節からの放蕩息子のたとえ話の3つのたとえ話があります。この3つのたとえ話をルカ福音書の見失ったシリーズとして覚えている方もおられるかと思いますが、この3つの例え話に共通していることは、天にある喜びであり、神様が喜んでいるということです。見失った一匹の羊が見つかった、見失った1枚の銀貨が見つかった、放蕩の限りをつくしていた息子が返ってきた。いずれも大きな喜びを顕にしているのが、羊飼いであり、銀貨を見つけた女主人であり、父親なのです。私たち人間の喜びが語られているのではなく、神様の喜びが語られている。その天の視点から主イエスは私たちに福音を語っておられるのです。
 
 この天の視点から福音を語りだしたきっかけは、2節にありますように、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。」という彼らの不平に対するものでもありました。ファリサイ派の人々や律法学者たちという神様の掟を忠実に守り、社会貢献をし、上席に座ろうとする敬虔で立派な人たちは、罪人や徴税人という神様の掟を守らない人たちが、主イエスと共にいて、交わることが許せなかったのです。まず、自分たちに対して神様の救いという私たちへの喜びを語るべきではないか。私たちは熱心にあなたの掟を守って、敬虔な日常生活を送っているのだから、罪人や徴税人たちとは違うのだ。私たちが模範であり、彼らは私たちの姿に習うべきではないか。その私たちの思いを主イエスの口から言ってくれることを期待しているのに、主イエスの行動は全くの的はずれであり、私たちをないがしろにしている。そういう不平不満があったのでしょう。
 
 不平があった。そう、彼らは喜べないのです。喜んでいないのです。罪人と徴税人が救われることを心から喜ぶことができないのです。主イエスよ、まず私たちが喜べるようにはしてくださらないのか。
 
 そんな彼らの不平に対して、主イエスはたとえを話されていくのです。ただ、このたとえを話されている対象は、3節で、「そこで、イエスは次のたとえを話された。」とあるように、罪人、徴税人、ファリサイ派の人々、律法学者たち、全員に対してではありますが、実は口語訳聖書やカトリック教会が出しているフランシスコ会訳聖書を見ますと、彼らに次のたとえを話されたという一文になっています。彼らにという言葉があります。それで、原文の言葉を見てみますと、彼らに向かって、例えを話されたとあります。より、対象が絞られていることがわかります。彼ら、それは確かに、そこにいた全員を指すものではありますが、具体的にはファリサイ派の人々、律法学者たち、もっと踏み込んで言えば、その彼らの不平に向かって、主イエスはたとえを話されたという構造になります。ただ神様の喜びを語ろうとされるのではないのです。彼らの、人間の不平に対して、主イエスは神様の喜びを語る。あなたがたの不平はみっともない、そんな嫉妬深い考えはだめだと言って、拒絶しているのではないのです。そんな彼らの、私たち人間の不平不満ですら、包み込んでしまう神様の喜びを主イエスは力強く語られるのです。ですから、不平を言っている彼らは拒絶されているのではなく、むしろ招かれているのです。主イエスが語る神様の喜びに。だから、彼らに向かって主は語るのです。
 
 その神様の喜びをふたつのたとえは顕にします。一つ目のたとえ話、100匹の羊を飼う羊飼いが、見失った1匹の羊を探すために、99匹のことを気にかける余裕がないほどに、この一匹のために、一生懸命になって探します。1匹をないがしろにするわけではないが、手元にいる99匹はどうするのか。まずその99匹を狼などの獰猛な動物から身を守れるように、安全な場所に移さないだろうか。1匹のために、99匹を犠牲にすることは損害であると私たちは考えるでしょう。しかし、見失った1匹が超レアもので、プレミアムな羊であれば、話は変わるかもしれません。99匹より、その一匹の方が、価値があるから、大切だと思うかもしれません。1匹か99匹か、目に見える価値でどちらを選択するのかということがこの世の価値判断です。
 
 しかし、この一匹の羊の特徴は何も描かれていません。小さいのか、大きいのか、強いのか、弱いのか、それはわからないのです。99匹の中にいた、彼らと同じ普通の羊なのでしょう。もし、そうなら、数の差で99匹のことをまず気にするはずです。しかし、この羊飼いの眼差しは、最初から見失った一匹の羊に向けられています。何が何でも探し続けるのです。一匹だけいなくなったのではなく、一匹が、その一匹という存在そのものがいなくなった。羊飼いはもはや、そこにひとつの群れとして見ることができないのです。1匹でも欠けてしまえば、それはもう群れではない。その一匹一匹が、100匹いて、100匹いて、その内の一匹は100匹と同じなのです。100匹でひとつだ。これが一匹のために、命をかけて探し回る羊飼いの眼差しです。だから、その一匹を見つけた時の喜びは、運よく見つかったという次元のものではなく、喜び以外には顕すことができない天にある喜びなのです。
 
 ふたつ目の、銀貨を10枚持っている女性が、無くした一枚の銀貨を必死になって探すたとえ話も同じです。実は、女性はこの銀貨を財布の中に入れて持っていたというわけではなく、飾りにして持ち歩いていたと言われています。首飾りか頭飾りか、それは嫁入りの時の飾りだと言われています。女性にとって、その飾りは、自分がこれから生きていくための持参金であり、大切な思い出の込もっている飾りなのです。そして、10枚の銀貨はその全部がひとつなぎになっている飾りだと言われています。だから、羊のたとえと同じように、10枚でひとつであり、ひとつの飾りなのです。一枚でも欠けてしまえば飾りではなくなってしまうわけです。
 
 だから、一匹の羊も、一枚の銀貨も必死になって探し続ける。99匹や9枚の安全を確保する以上に、その一匹が、その一枚が今どういう状況にあるのか、こうして見失っている間、どんな思いでいるのか。気が気でないのです。心を煩わすほどに、気にかけているのです。
 
 こういうお話を聞いたことがあります。ある学校の先生が生徒を遠足に連れて行きましたが、現地で一人の生徒が迷子になりました。先生と、他のクラスの先生は必死になって探すのですが、その生徒はなかなか見つかりません。大切な一人の生徒です。交番のお巡りさんにも探していただくのですが、そのお巡りさんがその生徒の特徴について先生に訪ねます。どんな服を着ていた、どんな靴を履いていた、リュックサックは何色ですか、などなど。しかし、いざその特徴を聞かれた時に、その先生は答えることができませんでした。そういえば、どうだったか。さっきまで一緒にいて、楽しくお話しをしていたのに、その生徒の特徴が思い出せないのです。もちろん、先生の大切な一人の生徒です。見つかるまでずっと探し続けています。でも、そういった細かい特徴までは思い出せないのです。その先生が母親に連絡して、その生徒の特徴を聞きます。母親は全て知っています。ああいう服を着て、ああいう靴を履いて、何色のリュックサックをしょって、元気よく家を出ていった。今頃おやつ食べてるかな、お弁当食べてるかな、友達と遊んでいるかな、そうやって我が子のことを常に気にかけているのが親です。無事にその生徒は見つかるのですが、その我が子のことを常に気にかけている母親の愛によって、その生徒を見つけることができたのだと、その先生は思ったようです。
 
 一匹の羊が、一枚の銀貨が、主人によって気にかけられている。あんな羊だ、あんな銀貨だ。その思いは主人の愛です。それらの主人だから、一匹一匹の羊、一枚一枚の銀貨がわかるのです。だから見失ったら、探さないわけにはいかないのです。今、どんな状況にあるのか、常に気にかけている。危険を犯してでも一生懸命探すのです。そんな大切な存在が見つかったら、いるのが当たり前という感覚ではなく、いて良かった、見失って、悲しんで、苦しんだからこそ、思わぬ喜びが見出されるのです。
 
 今主イエスがこの天の喜びを語っているのは、罪人や徴税人、そして不平を述べているファリサイ派の人々や律法学者の人たち、ひとりひとり、そして私たち一人一人に対してです。いろんな人がいる、いろんな立場の人がいる。でも、それは神様にとってのひとつなのです。ひとりひとりは神様の愛における絶対的なひとつの存在なのです。だから、一人でも見失ったら、神様はこの私のためにどこまでも探し求めてくださる。迷いの内に有り、喜べない自分のために、神様は命をかけて私を、あなたを探し続け、同じ迷いの淵にたって下さるのです。あなたがそこにいた、見つかって良かった。あなたを見出すことができた神様の喜び、この喜びの内に、私たちの新しい歩みは始まるのです。
 
 主イエスにある群れ、教会とはそうやって見出された一匹一匹の羊が加えられていくように、一人ひとりが主によって見出され、作られていく群れなのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰの12章26節から27節でこう言います。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」キリストの体である教会とはこうで、こうでなくてはならないということではないのです。あなたがたこそが、私たちこそがキリストの体であり、キリストの愛と命の内にあるのだと言われます。そこまでキリストは私たち一人一人のために近づいてきてくださった、迷いのうちにある私たちを探し求め、見出してくださる方なのです。あなたは他の何者でもない、私の大切な存在であると。だからあなた一人が苦しめばキリストの体全体が苦しみ、あなた一人が尊ばれれば、キリストの体全体が喜びに満ちるのです。
 
 私たちに価値があるとか、知識があるから、キリストの体に、教会の中に入っていけるということではないのです。あなたそのものの只中に、キリストの方から来てくださったのです。このキリストによって、野の草のようなこの私でさえ、丁寧に私の人生を、喜びをもって装ってくださっています。そうやって、ひとりひとりの人生を気にかけ、喜んで装ってくださる方が共にいてくださるのです。そのように神様の喜びは私たちのための喜び、私たちの不平不満をも包んで下さる寛大な喜びなのです。だから私たちも共に喜びましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。