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2013年10月13日 聖霊降臨後第21主日 「神を賛美しながら」

ルカによる福音書17章11〜19節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「大声で神を賛美しながら」1人のサマリア人が主イエスのもとに戻ってきました。賛美歌を大声で歌いながら行進している、どんな情景か思い浮かべてみますと、とても気持ちよさそうです。傍から見たら、それは異様な光景、はたまた騒音公害になりかねない状況です。しかし、誰がこの人を制止できたでしょうか、ここに「賛美するということ」が真に力強く描かれている、いきいきと描かれているのです。彼は主イエスにひれ伏しました。このひれ伏すという言葉は、「礼拝する」という言葉です。そう、彼は大きな声で讃美歌を歌い、礼拝に招かれているのです。今の私たちと同じように・・・。Read more

2013年10月6日 聖霊降臨後第20主日 「愛される僕」

ルカによる福音書17章1〜10節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

私は大学生の4年間、母教会である池上ルーテル教会に通っていたのですが、ある日曜日に、私より少し年配の他のルーテル教会の信徒の方が来られ、礼拝の後で、一緒にお茶を飲みながら話をしていました。その時、その人はこういうお話をしました。「私は自分が行っている教会で、何かイベントや行事があるごとに、お茶やお菓子を出す手伝いをします。しかし、バタバタしている雰囲気のせいか、何かとこき使われているような感じがします。また、ある人には、あれやりなさい、これやりなさいといろいろと指図され、もううんざりですよ。」その人のお話は、たまたま教会での出来事でした。教会もまた人の集まるところですから、そういう問題もたくさんあるんだなと、当時の私は「大変ですね」とひと言だけ言いつつも、あたかも他人事のような思いを抱いていた自分の姿に恥じるばかりです。

そのお方のお話を今、改めて思い起こしつつ、今日の御言葉に耳を傾けますと、これは決して些細なことではなく、まして他人事ではない、自分にも当てはまることであります。人をあごで使ってしまう自分の姿、または自分も人から使われているということから始まり、気付けば人を裁き、人から裁かれるという出来事が起きています。今日の御言葉は、「教会」という場所そのものを直接描いるわけではありませんが、このお話は当時のルカの共同体、教会を背景にして、記されたものであることは間違いないでしょう。しかし、これは教会うんぬんがどうあるべきだということではなく、自分と神様、自分と他者、自分と教会との関係を問われていることであります。その中で、自分は奉仕しているのか、それともただ単に働かされているのかという認識では、当然大きな違いがありますが、それが喜びである、苦痛であると、常にどちらか一方の思いには留まれないものであります。

今日の福音の箇所にはテーマが複数あるように思えますが、主イエスはこれらのお話を全て弟子たちにされました。1節で、主イエスはいきなりこう言うのです。「つまずきは避けられない」と。「つまずき」と聞けば、世の中の「スキャンダル」を思い越しますが、口語訳聖書、並びに他の個人訳聖書では、つまずきではなく、「罪の誘惑」とはっきりと記されているように、世の中のスキャンダルということを直接指しているわけではありません。罪の誘惑は避けられない、強いて言えば、罪を犯してしまう必然性があるという前提で、主イエスは弟子たちに語っておられる、罪の現実を共に生きる信仰の兄弟姉妹である私たちに語られています。そんな私たちの群れに、弟子たちに主イエスは言われるのです。兄弟姉妹を罪に誘惑せず、罪を犯したら、その罪を戒め、赦しなさいと。さらに、自分に対して、1日7回も罪を犯す人がいても、7回悔い改めるなら、赦しなさいとまで言われます。1日7回です。とんでもない数ですが、聖書で言う「7」という数字は、「12」と並んで、完全数を表しますから、完全に赦しなさいということを主イエスは強調しているのです。

人を赦す、これは大変なことです。表面的なことではありませんし、気分的なことでもない、そういう次元で主イエスは語っておられません。完全に赦せとは、それこそ、「敵を赦し、敵を愛しなさい」というそれだけの重みと深さをもって、主イエスは語っておられるようなものです。もちろんその前提として、戒めなさいと言われる。戒めて、その人に罪の自覚をもたせなさいと言われます。それだけの権能を、弟子たちに、後の教会にお授けになっている。託しているのです。罪を赦す権能という重大な使命を担っているのです。だから、5節で弟子たち、いや使徒たちはこう言うのです。「信仰を増し加えてください」と。福音書記者がここで敢えて「使徒たち」という言葉に変えたのも、教会として、教会の使命を担う使徒たち、それは「遣わされた者」という意味の言葉であり、使徒言行録の使徒を指し示す言葉、すなわち聖霊によって建てられる教会そのものを強調しているからです。遣わされた者、主の霊によって建てられ、主から与えられた使命に生きる群れであるということを、ルカの共同体は当時の人々に、そして現代の私たちに伝えようとしています。

信仰を増し加え下さい、すなわち力ある信仰をお与えください、そう使徒たちは懇願します。それはこういうことでしょう。自分たちは信仰者として模範とならなくてはならない、正しくあろうと思うことです。自分たちは罪を犯さず、むしろ罪にまみえる隣人を助けなくてはいけない、自分たちが背負わなくてはならない問題として立とうとしている、神様の前に正しくあろうとする、その思いです。それは私たち人間の生き方、正しい人間、道徳的になろうとする姿、模範者としての人間像を追い求める姿に似ています。失敗やミスが許されない世の中の傾向に私たちは戸惑いを覚えつつも、その流れには逆らえず、それに従わなくてはいけない現実を私たちは生きています。そして、自分たちが十分な力、知識を持ってして、初めて他人に教えることができる、他人を救うことができる、助けることができる、そういう思いをどこかで抱いています。

使徒たちの懇願に対して、主イエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば・・・」(6節)と答えました。使徒たちの懇願を一蹴するのです。増し加えるどころか、あなたがたにはからし種の信仰すらないと言われました。からし種は1mmの大きさしかない「最も小さい」という意味合いをもつ種ですが、成長すると3~4mという巨木になります。この成長の在り様を、「桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)ということに譬えています。主イエスはここで使徒たちに、あなたがたにはからし種の信仰すらないとも言っています。これは言い換えれば、あなたたちは正しくない、信仰がないということは、あなたがたもまた、罪にまみえる罪人であると、主イエスは使徒たちに語っているということです。使徒たち、すなわち教会は決して正しい人たちの集りではないということ、それこそお茶出しを指図されて、イライラしたり、自分もまた他者をこき使ってしまったりと、そういうものたちの群れ、そのままの人間存在を露呈している集団であると主イエスは言うのです。ペトロやヨハネの弟子たち、使徒たちは確かに選ばれた者たち、特別なものたちです。彼らにしかできない使命が与えられたのです。しかし、それは彼らが模範的な信仰者であったからではない、むしろ人々と同じ立ち位置にあった、いやそれどころか徴税人のマタイのように、救いには程遠いと思われていた者にこそ主は目を留められ、彼らを選び招いたのです。

「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」、からし種の信仰すら持っていない私たち、でも主イエスはからし種の信仰で十分だ、からし種の信仰さえあれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞いてしまうほどに信仰は成長するのだというニュアンスを持って言われるのです。「信仰を増し加えてください」、信仰という種を大きくしてくださいということではなく、その種の実りにこそ信仰の恵みが示されていると言われます。

だから、私たちは信仰の大きさ、小ささということをただ自分たちで理解しようとするのではなく、信仰の恵み、成長をもたらす方と私たちの関係について知るようにと、聖書は私たちを導くのです

7節からのたとえ話。これは主人と僕、いわば奴隷のお話です。僕が主人の畑でせっせと働いて、作業を終えて、食卓にありつけると思いきや、僕は主人の食卓を整えなくてはならないのです。それは僕として当然のことだと言われます。僕は主人の所有物ですから、僕の働きには何の報酬もないのです。9節の言葉はそういうことです。主人から特別褒められることなどないのです。私たちが抱く、人権という概念はありません。奴隷制度そのものの実態です。現代の私たちには理解ができないどころか、奴隷として扱われる非人間性に腹を立てたくなるようなお話です。しかし、主イエスのこのたとえ話の意図は無論そういうことではありません。

10節で、主イエスは使徒たちに言います。あなたがたもこのような僕であると。命じられたことをする僕であると。さらに自分たちはこう言いなさいと言われる。「取るに足りない僕である」と。使徒たち、教会は取るに足りない僕、その群れであると言われます。それはからし種の信仰すら持っていないものたち、すなわち自分たちには何の所有物もないということ、裸であると言っているのです。そんな自分たちが、どこに罪を赦す権能などありえるのでしょうか。

聖書の奴隷制度の掟については、旧約聖書のレビ記25章に記されています。この規定では、僕に対する配慮も結構記されているのですが、25章の最後、55節にはこう記されています。「イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。わたしはあなたたちの神、主である。イスラエル全体が神様の僕であると記されています。それは神様がエジプトの国から彼らイスラエルの民を導き出した者だからです。」出エジプトの出来事を言っていますが、これはイスラエルの民全体にとってとても大切なメッセージです。出エジプトが起こった原因は、彼らイスラエルの民が、エジプトで奴隷状態にあったからでした。彼らは神様に救いを求め、モーセを指導者に立てて、イスラエルの民を解放したのです。ですから、エジプトの国からわたしが導き出した者と言われる神様は、彼らにとっての救い主に他ならないのです。だから、わたしはあなたたちの神、主である。とイスラエルの民に言われる、あなたがたは私の僕だと言われるのです。ようするに、彼らが救われたということは、奴隷状態にあった彼らが、神様に買われたということであります。神様に見出され、神様の所有物になったのです。自分たちが神の民として、存在するのはこの出エジプトの出来事、神様の僕となり、その養いの中でこそ自分たちのアイデンティティーがあると、彼らは確信したのです。

しかし、旧約聖書は、罪の現実を描いています。罪の誘惑は避けられず、罪の奴隷状態にあったイスラエルの民、そして今、主イエスは弟子たちにも、私たちにも「罪の誘惑は避けられない」という厳しいことを言われます。だからこそ、神様は主イエスをこの遣われて、再び、イスラエルの民の主、救い主となるために、また彼らだけでなく全てのものの救い主となるために、主イエスをこの世に遣わされました。それはまた、出エジプトを想起させるだけでなく、彼らイスラエルの民を含め、罪の奴隷状態にある私たちが主イエスに買われるということです。主イエスは私たちを買われるために、自らの命を代価として、すなわち十字架を通して、私たちを買われたのであります。罪赦された僕、新しい人としての歩みを私たちに示されたのです。主は自らの命を値とした救い主であります。それはなぜか、人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来られたということ、またフィリピ書の2章にありますように、キリストこそが僕の身分となって、私たちの只中に救い主として宿ってくださったからであります。救い主イエスキリストと呼びかける私たちは、キリストの僕、キリストのものです。キリストのものとされ、その御許で、からし種の信仰すらない、取るに足りない僕であると同時に、キリストの養いの下で生かされる愛される僕であります。その真の僕となるということは、私たちがキリストに委ねるということ、信頼するということです。自分たち人間の功績、働きが評価されるのではなく、私たちは主によって用いられるものであるということです。それは罪の赦しもそうです。私たち人間の行いにおける赦しではなく、主イエスキリストの名によって、赦しを与えるという使命に教会は建てられているのです。

罪の誘惑からは避けられないかも知れません。からし種の信仰すら持てない私たちのために、主イエスは主となってくださった、十字架通して、私たちは罪の奴隷から贖われたのであります。教会はその救いの確信に立ち、真の主であるキリストを宣べ伝え、主イエスの名によって、罪の赦しを与える僕の群れであります。僕として御言葉に立ち続ける教会の姿の中に、信仰が芽生えます。賜物としての信仰です。この信仰によって私たちは生かされる主の僕となったのです。もはや正しさに縛られる必要はない、主があなたを買われたからです。誰にどんな指図をされようと、あなたを用いるのは、あなたの主人です。苦痛、苦労を伴うかも知れないけれど、主人は僕を絶対に見捨てません。パウロが申します通り、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)主であるキリストの愛から、あなたが離れることはないのです。あなたはキリストという真の主人から愛される僕なのですから

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年9月29日 聖霊降臨後第19主日 「神に望みをおいて」

ルカによる福音書16章19〜31節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

一昨日の27日、この六本木ルーテル教会で、下舘正雄先生の送葬式、納骨の祈りが執り行われました。多くの参列者にお越しいただき、真に厳かな式でありました。当初、このご葬儀の案内は、「告別式」という形で通知が成されていたのですが、別れを告げる式ではないという分区の先生方のお声があり、下舘先生を主イエスの御許に送るということ、救いの旅路を行かれる「送葬式」として守るのが適切であるということになりまして、送葬式という形で執り行われました。下舘先生が主イエスの御許に行かれる、それはもちろん先生がこの地上でのご生涯を閉じられた時点で、既に先生は主イエスの御許におられるということを信じているのでありますが、そのことはまた、送葬式などのご葬儀を通して、参列した全ての人々に、神様が御心を示しておられるということであります。すなわち、参列した私たちもまた、下舘先生の主イエスの御許に行かれる救いの旅路を通して、神様からの慰めが与えられているということ、悲しみに打ちひしがれる私たちの只中に主イエスが共におられ、共に涙を流して、私たちに寄り添ってくださるということを、受け止める礼拝、それが送葬式であり、ご葬儀であります。

その一昨日の送葬式で、ラザロの復活の場面(ヨハネ福音書11章38~44節)が福音として与えられました。驚きと同時に、希望が与えられている、神様の人間に向けられた大いなる救いが語られている御言葉です。死後の世界に約束された救いがある、主イエスの復活の命に与る希望ということでありますが、今日与えられた福音も死後の世界が描かれています。金持ちとラザロのお話です。ここでもラザロが出てきました。

死後の世界が描かれています。ラザロはアブラハムのすぐそばの宴席に招かれ、金持ちは陰府に行きました(22-23節)。ラザロは天国、金持ちは地獄という領域に分けて理解される方が多いでしょう。どの時代、どの国、どの宗教でも、このような死後の世界について、一定の理解を求めますが、はっきりしたことはわかりません。生者には分かりようがないのかもしれませんが、主イエスはこの福音の御言葉を通して、天国と地獄といった死後の世界について私たちに語っているわけではありません。また、生前の行いにおいて、死後の世界はこうなっているぞと私たちに語っているわけではないのです。

金持ちは毎日贅沢の限りをつくして、遊びほうけていました。紫の衣や柔らかい麻布を着ていたというのは、毎日がお祝いの状態にあったのかと思います。毎日がお祝い状態、満たされていた日々を送っていました。この金持ちの家の門前にラザロが横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で飢えをしのいでいました。彼は貧しく、できものだらけの人であり、不浄とされていた犬にそのできものをなめられるという過酷な生活を送っていたのです。しかし、死後の世界で2人の立場は逆転します。金持ちは陰府でさいなまれていた、つまり苦しんでいました。生前のような贅沢な暮らしはもうできない、その富を死後の世界に持っていくことはできず、頼りにしていたものが全て失われて、喪失状態にあります。ところが、23節を見ますと、この死後の世界、2人の境遇は違えど、金持ちはアブラハムと共にいるラザロの姿を見ることができるのです。遥か彼方に、彼らの姿を見ることができたのです。アブラハムはユダヤ人の父祖とも呼ばれる、神の民の祖先を表します。アブラハムは神様から祝福され、土地を与えられ、財産を与えられ、年をとり、もうあきらめかけていた時に、子供が与えられ、さらにその子ども、それはイサクのことですが、そのイサクをいけにえに捧げよという神様の声にも従った神の民の創始者、信仰の模範者でした。この金持ちもユダヤ人だったのでしょう、偉大な祖先であるアブラハムに出会えた。しかし、彼は喜んではいられない、必死にアブラハムに懇願するのです。この苦しみから逃れさせてくださいと。しかし、アブラハムの答えは、彼に甘くありません。金持ちとラザロの生前の境遇を語り、2人の間には大きな淵があって、行き来はできないと言われます。27節で彼はまた懇願します。自分の兄弟に、こんな境遇をさせたくないから、よく言い聞かせてくれと。対して、アブラハムはモーセと預言者の言葉に耳を傾けろと言われる。モーセは神の律法、神の言葉を表します。神様の律法と、預言者を通して語られる神様の言葉に聞きなさいと言われます。尚も、金持ちは懇願します。死んだ者が生き返って、兄弟のところに行けば、彼らは悔い改めて、神様の下に帰ってくるでしょうと。アブラハムは言います。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」神様の律法、神様の言葉を聞かないものが、どうして生き返った者の話など、信じられるかと言われます。確かにその通りでしょう。そして、ここでたとえ話が終わるのです。この金持ちはどうなってしまったのでしょうか、主イエスのたとえ話らしい、何か結論がわからない終わり方です。

金持ちの人物像を見て見ますと、彼はそこまで傲慢で、自分勝手な人間ではなかったかと思います。門前にいるラザロを受け入れ、食卓からこぼれ落ちる食べ物を与えていた。また、死後の世界で、兄弟たちのことを思いやっています。彼は別に悪人ではありません、むしろ他人を思いやる人物であったかと思うのです。そんな彼がなぜ陰府の世界に行ってしまったのか、それは具体的にはわかりませんが、彼はそこでさいなまれていた、苦しんでいたのです。今までの満たされた生活を奪われた苦しみ、贅沢に遊ぶ生活に慣れてしまっていた彼は、その損失を受け入れることができないのです。アブラハムとのやりとりから分かるように、彼は生前よいものをもらっていたが、神様の律法、神様の言葉を真剣に聞いてはいなかった、受け止めてはいなかったのでしょう。それらを聞くよりも、死者が生き返ったことを示したほうが兄弟も理解できると考えたわけです。

彼は生前によいものをもらっていました。このよいものが彼の生活を支えていたわけです。そのよいもの、有り余る物の中から、ラザロに施しをしていた。自分は贅沢に暮らしていた。このよいものを、自分の功績、労力に見合った報酬として、自分の財産としていたでしょう。思い通りにできたのです。ラザロに施しをする良い人、立派な人物に見えるこの人でも、自分の命は思い通りにできない、よいものを失った象徴が、陰府に行ったということに示されています。彼はラザロに不当な仕打ちをしていたから、陰府に行ったのではないのです。

さて、ラザロは、アブラハムに言わせれば、生前に悪いものをもらっていました。おそらくそれは、できものだらけの貧しさ、そのできものを犬がなめるということを指しているのでしょう。彼は食卓から落ちる物で腹をやっと満たしていたのです。金持ちとは境遇が全然違うのです。目に見えるものでは、何も頼りにするものがない、自分の思い通りになるものがないのです。彼は物乞い、乞食でした。しかし、多くの聖書学者、説教者はこう問うのです。なぜ、この貧しい人には「ラザロ」という名前があって、金持ちにはないのか。どちらにも名前があって、どちらにもないというわけではない、どちらか一方、しかも貧しい人の方に名前があるのです。私も、皆さんもきっと疑問に思ったかも知れません。このラザロという名前、冒頭にも言いましたが、他の福音書にも出てくる名前です。そして、このラザロという名前は「神が助ける」という意味があります。神が助ける、神ぞのみを頼りとする、その恵みのみに望みをかける、そういう思いが込められた名前の人物です。ラザロは金持ちの家から落ちた物で腹を満たしていた。金持ちから施しを受けていた、その通りでありますが、この金持ちはよいものをもらっていたもので、施しをしていた。施しができたのです。このよいものは、金持ちの死と共に、金持ちのものではなくなりました。自分の思いどおりにはできなかった、恵みであったわけです。神様からの賜物です。ラザロはただこの恵みを頼りとしていたのです。この恵みをもたらす方にぞのみ望みを置いていた人生でありました。

ルターは、自身が亡くなる二日前に、このような言葉を残しています。「わたしたちは神の乞食である。それはほんとうだ。」自分は乞食に過ぎないとルターは言います。それを晩年に言ったということに、彼の全生涯の思いがここに示されているように思えます。神の乞食、それは神様からすべてのものをいただくことによってのみ、私は生き続けることができるというルターの信仰、神様からの恵みを願い求め、祈り求める信仰者としてのルターの生涯を表している言葉でありましょう。恵みのみ、その恵みをもたらす神の言葉、キリストのみを信じて歩んだルターの全生涯の結びの言葉として、今の私たちに語られているように思えます。

しかし、私たちはラザロのように、そしてルターの信仰のように、神様の恵みのみに望みを置いて、歩んでいるのでしょうか。そこに立ち続けることができるのでしょうか。全てをなげうって、神様に自分を委ね続けることができるのでしょうか。むしろ、私たちは、この金持ちのように、施しをする、他人を思いやるという善意を抱きつつも、自分に与えられているものを当然のものだと認識してしまってはいないでしょうか。当然持っているものとして、不足はすぐに補えるという感覚に陥ってはいないでしょうか。この豊かさ、贅沢に縛られている姿がどこかにある、自分でも気づいていないところで。そうすると、私たちは神様からの恵みを恵みとして受け取れなくなる、神様への感謝を忘れてしまうのです。神様の言葉を聞いているようで、聞いていない。与えられたものを、全て自分のものとして、それに頼り続けます。しかし、命は思い通りにならない、頼りにしていたものを失ってしまうあの金持ちと同じように、私たちもまた、陰府で、さいなまれなくてならないのでしょうか。そして、アブラハムの厳しい言葉を聞いて、それを受け入れなくてはならないのでしょうか。

決してそうではありません。アブラハムはモーセと預言者を私たちに示しています。アブラハムは神様の祝福、約束、モーセは神様の律法、預言者は神様の言葉、私たちはそれらを全て受け入れることができないのです。それらを受け入れることができるほどに、神様の恵みには委ねられない姿がどこかにあるのではないでしょうか。そんな罪認識を背負ってはいないでしょうか。だからこそ、私たちは救い主を迎え入れるのです。主イエスキリストのご降誕、なぜ主はこの世に来られたか、それはこの救い主イエスこそが神様の律法の完成者だからです。私たち人間には完全に遵守できない律法、神様の恵みを恵みとして受け止められない私たちのために、主イエスは救い主として、律法の完成者としてきてくださった。そして、それはあの十字架において顕わにされました。私たちの罪の贖いを通して、神の恵み、神の愛を、御自らの十字架の御姿を通して、私たちに示されたのです。使徒信条で信仰告白するように、キリストは陰府の国にまで降りられた。さいなむ私たちのところにも来て下さった、共にいてくださる方です。そして三日目に復活された。陰府の国から高くあげられた、復活の命に与った方です。私たちはこのキリスト、復活のキリストによって、このように礼拝に招かれ、神様の言葉を聞くのです。キリストの恵みはそこで語られ、示されているのです。

神様は与える方、私たちの命をも与える方です。私たちは金持ちの人かも知れません。全て満たされているように思えて、死んで失い、喪失してしまう姿がある。豊かさに縛られ、真の貧しさを恐れるが故に、貧しさを忘れる私たちの姿があります。死後の世界にその報いを受けなくてはならないという恐れがある。しかし、その恐れから解放してくださる方が、私たちの間に宿ったのです。陰府にまで降られたのです。私たちは陰府で、飢え苦しむのではなく、キリストの招きによって、キリストの御恵みに包括されるのです。その旅路を行くのが、死後の世界、復活の命という希望へと続く救いの旅路なのです。大丈夫だ、あなたの不足は私が補う、あなたは私の乞食だ、だからこそ私はあなたに与える、あなたを飢えさせることができようかと、キリストはそのようにして私たちに寄り添って下さる方です。そのように信じられる時、私たちはラザロになるのです。あなたはラザロ、神があなたを助けます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年9月22日 聖霊降臨後第18主日 「神の忠実さ」

ルカによる福音書16章1〜13節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日私たちに与えられた福音は、不正な管理人のたとえ話です。かなり難解なお話しです。この不正な管理人の行為には好意、共感が持てないし、主イエスの言葉も難しい。また、この物語を1つの物語として、理解しようとするから、難しくなるという注解者の解説があります。確かにたくさんの細かいテーマが盛り込まれていますが、一貫して富について語っておられることは一目瞭然であります。

聖書の中に出てくる富について、皆さんはどういう印象を持たれているでしょうか。旧約、新約共に多くの箇所で出てまいりますが、私は新約聖書の中で、主イエスが語られた言葉、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というこの主イエスの言葉が強烈な印象として残っています。富があるから救われないとストレートに受け止めてしまいそうな言葉ですが、聖書は冨に対して、本当にそういう意図を私たちに伝えているのでしょうか。今日のたとえ話からも富について学べることがたくさんあります。ご一緒に御言葉に聞いてまいりたいと思います。Read more