2014年3月30日 四旬節第4主日 「真実の眼」

ヨハネによる福音書9章13〜25節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

春の日差しが心地よくなってまいりました。この礼拝堂の正面の障子を開けますと、麗しい桜並木に思わず目を奪われます。心地よいこの春の日差し、新しい年度の歩みに向けての希望の光であるかのように、私たちを照らしています。

ですが、本日の第2日課エフェソの信徒への手紙5章8節から9節の中で、パウロは光についてこう言うのです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」「以前に」と「今は」という状況が語られています。以前は暗闇、闇だった。見えなかったのだ。でも今は違う。今は光となっている、光が見える。それも、その光は「ただあなたがたを照らしている」と言っているのではなく、むしろ「あなたがた自身が光となっている、だから光の子として歩みなさい」とパウロは言うのです。闇から光への転換。ここに主との結びつきがある。私たちは主に結ばれて光とされているということです。私たちが自然に光とされているということではなく、主の御心が、暗闇に輝く光であるキリストとして、このキリストに結ばれることによって、私たち一人一人がキリストの光を反射して生きていると言えるのであります。主に結ばれて、私たち自身が希望の光として、光の子として歩んでいく、新しい年度を歩んでいく。主はそのようにして、私たちを新しい歩みへと遣わされていくのです。Read more

2014年3月23日 四旬節第3主日 「我が魂は主を慕い求む」

ヨハネによる福音書4章5〜42節
木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「ツイッターで自分の悪口を書かれ、腹を立てた」。そんな動機から起こる様々なトラブル、果てには殺人事件、殺人事件、そんなニュースを日常的によく聞きます。悪口を書いた方も、書かれた方も、両者の間には深い憎しみが背景にあるのでしょう。その憎しみが殺人という形で現実のものとなってくる。そんな悲劇が起こる前に、彼らの深い憎しみを止めるもの、和らげるもの、治めるものは何かなかったのかと、私たちは考えさせられます。

どんなに物質的に豊かであっても、満たされ、潤っていても、私たちは渇きを覚える存在であり、常に潤いを求める存在であります。潤いが満たされず、渇いたままでいますと、脱水症状を起こし、生き物の生死に関わります。また、肉体的な渇きだけではありません。精神的な渇き、すなわち心、魂にも渇きを覚えます。憎しみ、悲しみ、孤独、不安、疑い、無関心。傷つけられ、罵られ、愛されない・・・他にも数え切れないぐらい多くの魂の渇きを私たちは覚えるのであります。それらの渇き故に、魂が脱水症状を起こし、死の危険にさらされた時、自分の理性や意思はコントロールが効かなくなります。自分自身を見失うのであります。

私たちはそのような肉体的にも精神的にも多くの渇きを覚えて生きている、時には脱水症状を引き起こして、苦しみます。自分の渇きを満たすもの、潤ってくれるものは何でしょうか。何を思い浮かべるでしょうか。自分自身でそれを知り、見つけているでしょうか。聖書は人間の渇きを真に満たすものを私たちに啓示しています。それが、今日の福音書にある主イエスが与えてくださる「生きた水」であり、永遠に渇かぬ命の水であります。私たちはこの水、真の渇きを潤ってくれるこの命の水をどのようにして受け止めて行けば良いのでしょうか。ご一緒に御言葉から聞いてまいりたいと思います。

主イエスと弟子たちはユダヤを去り、ガリラヤに行く途上で、サマリア地方に足を運び、休息を取っていました。正午ごろの時間でした。パレスチナ地方は熱帯の地でありますから、この時間帯はものすごい炎天下で、誰一人そのような暑さの中、外を歩く人などいなかったでしょう。主イエスも日差しを避けるために、井戸のそばで休息を取っていたのだと思います。そこに一人のサマリア人の女性が、通りがかりました。主イエスは彼女に声をかけ、渇きを満たすために、一杯の水を願い出ますが、彼女は大変驚くのです。サマリア人とユダヤ人の先祖は同じイスラエルの民でありますが、当時サマリアとユダヤは敵対関係にあり、その憎しみ故に、お互いの交際、交わりは全くなかったと言えます。だから、ユダヤ人の主イエスからそのようなお願いをされること自体、彼女には主イエスの行動が全く信じられなかったのです。なぜ何の関わりもない私に、しかも敵である私に声をかけたのか。

彼女の質問に対して主イエスは答えます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(10節)水を飲ませて欲しいと頼んだ私が誰であるか分かれば、あなたの方から求めてくるはずだと主イエスは言うのです。私が誰であるかというこの主イエスの問い、その問いから彼女は主イエスがユダヤ人であるということしか分からなかったと単純に推測できますが、主イエスはなぜ敵であるサマリアの女性にこのようなことを言われたのでしょうか。主イエスが彼女と出会った時、声をかけたのは主イエスの方からです。それもただ声をかけたということではない、主イエスは真に疲れ果て、喉に渇きを覚えていたのです。敵対する者の前で、そのような人間としての弱さ、あたかもすぐに襲われてもおかしくないような状況の中で、声をかけたのです。主イエスの方から声をかけ、水を要求したけれど、実は主イエスこそが彼女の渇きを知っていたのでした。その渇き故に、私からではなくあなたの方から渇きを満たすために頼んでくるはずだ、求めてくるはずだと。あなたが真実の神様からの賜物、恵みを知り、受け取れるならば・・・。そう、彼女はその状況になかったのです。自分の真の渇きを潤す、満たす水を知らなかったのです。そんな彼女の、渇きという心の空洞の只中に、主イエスは入っていかれたのです。水を飲ませてくださいと、自らも彼女と同じように、渇きの空洞の中に立たされたのであります。自らが生きた水として。

主イエスが言われる生きた水、それを彼女は理解できませんでした。ユダヤ人とサマリア人の共通の先祖、ヤコブが与えてくださったこの井戸の水で、多くの子孫と家畜たちは生きながらえてきた。井戸の深さもさる事ながら、この井戸からもたらしてくださる水も、そのような長年の歴史を経て、恩恵も深いのです。まさにヤコブの井戸からは生きた水が湧き出ているのです。今の私もこの水で生きている。あなたが与えてくださる水は、この井戸の水よりも恩恵深い生きた水なのか、どこからそんな水を手に入れるのか。先祖ヤコブよりもあなたは偉いから、そのようなことができるのかと彼女は問います。主イエスは言います。あなたが飲んでいるその井戸の水は、恩恵深いその水を飲んでも渇きは避けられない。渇きを覚える水であって、生きた水ではないと。私が与える水は違う。私が与える水は渇かない、渇きを覚えない生きた水である。それはなぜか、この水を与えられる者は、その人の内で泉となって、永遠に湧きい出る水となる、渇くことのない命の水となるからだと主イエスは言われるからです。彼女は、その水を求めますが、それはもうこの井戸まで、人目を避けて水を汲みに来なくてもよくなる、そのような便利な水に見えたのです。しかし、主イエスは「その人の内で」とこう言われたのです。どこか具体的な場所を指し示されたのではない。どこか特別な水脈源を教えたわけでもないのです。その永遠に渇かぬ水はどこに湧きいでるのか、それはまさしく私、主イエスという生きた水を知り、受け取る者、その者の内で湧きいでるのだ。すなわち、主イエスは今、この生きた水を、彼女の内に、心の空洞の只中で、湧きいでさせようと、彼女を招いているのです。いや、むしろ、既にこの招きは起こっていたのです。主イエスが渇き、彼女に水を求めた頃から、彼女の心、魂の渇きの元に主イエスはおられるのです。いてくださるのです。そして、この主イエスという生きた水の水脈源を、彼女の心、魂の渇きの元に造られようとされているのです。

されど、彼女は直、この生きた水を理解しません。彼女が自分の真の渇きに気づかないのです。主イエスは彼女の、真の渇きに生きた水を、その水脈を造るために、彼女の渇き、彼女の夫との問題に触れていきます。彼女にはこれまでに5人もの夫がいました。単に分かれたのか、死別したのか、またどのような夫婦の歩みを成していたのかわかりませんが、誰にも言えない深い事情があったのでしょう。今連れ添っている人は、夫ではないということです。彼女が夫婦関係、夫婦生活の中で、5人も夫が変わっても、むしろ変わり続けるからこそ、常に渇きを覚えていた。幸せな夫婦生活に渇いていたのかも知れません。具体的な背景はわからなくても、ここに彼女の深い悲しみ、孤独があります。主イエスはそんな彼女を、どういう事情があったかを深入りさせるようなことは言われない。彼女の人格を否定し、叱り、裁くようなことは言わないのです。彼女は主イエスに答え、主イエスは彼女に「あなたはありのままを言っただけだ」と言われたのです。心を開いて、ただありのままに、本当の自分をさらけだした。主イエスという神の御子、生きた水を与えてくださる方のみ前で、自分の真の渇きに彼女は気づくのです。真に渇かぬ水を知り、求めていくようになるのです。主イエスは、そのありのままの彼女を、ありのままにただ受け取めておられるのです。なぜ主イエスはそのように受け止められるのか、それは主イエスが彼女を愛しているからにほかなりません。そして彼女の渇きを、自らの渇きとされ、共におられるからです。

そして彼女は、真剣に神様との交わりを求めます。なぜか、それは自らの渇きは、夫が変わったところで、ヤコブの井戸から水を汲み飲んだところで、満たされるものではなく、また。根本的な渇きが起こるのは、神様から離れて、自分の渇きを自分で満たしていこうとするからであると気づかされるからです。それでは満たされない、絶対的な渇きには気づかないと思い知らされる。彼女は、自分自身、人間の真の渇きを知っておられる、受け止めてくださる方と出会ったのです。自分の渇きの只中に入ってきてくださった主イエスによって、彼女は開放されていくのです。

神様との交わり、礼拝を通しての交わり、その礼拝すべき場所はエルサレム、自分と敵対するユダヤ人の神殿の中にしかないと彼女は思っていました。それはあたかも自分は神様との関わりからはかけ離れている、ふさわしくない自分の姿があると、自覚しているかのようです。されど、主イエスはまことの礼拝について彼女に言います。場所とか自分のあり方とかは関係ない、まことの礼拝とは霊と真理をもって父を礼拝することであると。それは真に神様と向き合って、ありのままの自分と向き合う時であるということです。そして主イエスは今こそがその時であると彼女に言いました。彼女は既に礼拝に招かれ、神様との交わりの中にある、そこで生かされている。既に神様からの賜物、恵みはあなたに向けられている。あなたはその真実を知り、ありのままに私に委ねなさい、求めなさい、私の愛の中で生きなさい、私はあなたを決して見捨てないと、主イエスは彼女に愛の眼差しを向けているのです。そして彼女はいずれ来る、メシアというキリスト、救い主を待ち望みますが、主イエスは自らの存在を彼女に、今お示しになられたのです。彼女は主を求めて、また主の救いを、このありのままの自分を受け入れて、生きた水を自分の内に湧きいでてくださる主の愛、この喜びを人々に伝えていくのです。

主イエスと出会ったあの正午の時間帯、あたかも人を避けていた彼女は人が変わったかのように、彼女は新しい歩み、真に生きた水を受け入れて、新しい生命に生きていくのです。もはや井戸の水を汲む水がめは必要ないのです。自らの渇き、それは不安、苦しみ、悲しみ、孤独の中に、主が来られ、永遠に渇かぬ生きた水として、共にいてくださるからです。彼女はこの恵みを受け入れたのです。ありのままに、自分の存在を主に委ねて。

詩篇42編2節にこういう歌があります。「枯れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、私の魂はあなたを求める。」
この魂という言葉は原語(ヘブライ語)で調べて見ますと、もとの意味は「喉」という意味です。鹿の喉が渇くように、人間の魂も渇くということです。喉が渇いて飲み水を求めるように、神様を求めるということも、そのように魂が渇く、喉がかわいて飲み水を求めるように、神様との交わりを求めるということであると、詩篇の作者は思いを込めてこのように美しく歌っているのです。

この礼拝において、私たちは主に出会い、交わりが与えられています。生きた水、それはまさに御言葉を通して、あなたの魂に注がれています。命の水として、あなたの中に主がおられ、渇くことがない永遠の命の水は湧き出ているのです。サマリアの女性が水がめを置いて、人々のところに行ったように、私たちもこの生ける水が与えられています。神様は私たちの渇きを知っておられます。だから、私たちを招いてくださる。神様の方から、この礼拝に招いてくださるのです。

この神様からの賜物、主イエスという生きた水を受け取り、そこから始まる新しい生命に生きてまいりましょう。渇きだらけの世界に生きる私たちですが、私たちは誠の渇きを満たしてくれるものを知っています。喉が渇いて飲み水を求めるように、私たちは、私たちの魂は、主を慕い求めるのであります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年3月16日 四旬節第2主日 「支えを必要として」

マタイによる福音書20章17〜28節
木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

東日本大震災から3年が経ちましたが、今も26万7419人の方々が避難者として、仮設住宅での避難生活を余儀なくされています。加えて、原発問題、復興問題、防災の問題、または風評被害の問題などが山積みです。これらの現実的な課題を祈りつつも、先日の11日にルーテル救援活動の拠点でありました日本福音ルーテル教会仙台教会で、東日本大震災記念礼拝が執り行われ、同時中継で、東京のルーテルセンター教会でも記念礼拝が執り行われました。私はこの仙台での記念礼拝に出席し、その後続けて行われた紀伊半島沖の震災、所謂「南海トラフ巨大地震」に備えた防災に向けての実務研修に参加して参りました。実にたくさんの驚きと気づきが与えられた実りある研修でありました。防災に向けての教育、防災対策に取り組むことの大切さは、無論承知しておりますし、教会単位で皆さんと一緒に考えていかなくてはなりません。

しかし、今回の研修では、いづれ来る巨大地震に向けての防災対策ということだけでなく、東日本大震災において、ルーテル教会が被災地で活動した記録を辿り、ルーテル教会がなぜ救援活動をするのかという根本的な理念、または神学について考えさせられる研修のひと時でもありました。私は研修の中でこのことが一番印象に残っています。

なぜ教会が救援活動をするのか、皆さんはそのように聞かれたら何て答えますか。単純に、目の前で困っている人がいたら助けるのが普通だと思う方が多いかと思いますし、聖書の言葉を思い浮かべながら、答える方もおられるでしょう。ルーテルの救援活動、その活動の母体名は「ルーテルとなりびと」です。他の支援団体と同じように、物資を送ったり、支援活動をし続けてきましたが、まず第1にルーテルとなりびとは、被災に遭われた方々のとなり人、隣人となるということであります。被災者の方々と共に寄り添い、共に生きていくということです。それは他の支援団体とどう違うのか、何ら変わりはないではないかと思うかもしれません。されど、今回の研修で学んだことの中で、支援と言っても、様々な支援のあり方があるということです。その中でルーテル教会は隣人として被災者の方々に支援していく、というより被災者の方々と共にあって、彼らに仕えていく、いわゆるディアコニアの働き、奉仕していくということです。奉仕する者、奉仕者というのは今日の福音書にも記されていますが、「ディアコノス」と言います。

主イエスは26節から27節でこう言われます。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」先程も言いましたが、仕える者というのは奉仕者「ディアコノス」という意味で、僕というのは「奴隷」という意味です。ルターはキリスト者の自由の冒頭で「キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する」と言い、また最後の命題のところでは「キリスト者は自分自身においては生きないで、キリストと隣人とにおいて生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのである。」と言っています。隣人に仕えるということが愛するという時、それは仕える側の意志によって「自分は隣人に仕えている」というのではなく、「仕えられる他者」が主体であり、他者が仕えてくれていると思ったときに、奉仕ということが現されてくるのであります。ですから、奉仕者というのは他者主体であり、自分の意思とは関係なく、他者の僕として仕えていくということに他なりません。

主イエスがこのように語られた背景には、ゼベダイの2人の息子、すなわち主イエスの弟子であるヤコブとヨハネの母親の願いがありました。主イエスの3度目の受難と十字架の死、復活の話は12弟子だけが聞いたことでしたが、ヤコブとヨハネはふたりの息子からその詳細を聞いた彼らの母親はいてもたってもいられなくなったのか、主イエスに願い出ます。主イエスが王座に着くときに、自分のふたりの息子をそれぞれ王座の近いところに着かせて欲しいと。主イエスはきっぱり言います。あなたがたは何を願っているのかわからないと。そして、これから私が飲むことになる杯を飲むことができるか。主イエスが飲む杯、それは来る受難と十字架の死を受けいれるという苦しみの杯です。あなたがたもこの杯、十字架に従うことができるのかと問うのです。母親もふたりの息子も主イエスの言わんとしていることを理解できなかったでしょう。しかし、主イエスと共に歩んでいく、従っていくということに迷いはない。弟子として立派に役に立ちたい、誰よりも主イエスの王座、すぐ近くにいて、仕えていきたいという思いが彼らの中にはあったのかもしれません。

けれど、他の弟子たちは彼らに腹を立てます。自分たちだけ抜け駆けして、偉くなろうとしている、目だとうとしている。ましてこれから先のことを願っていると聞けば、気にしないわけにはまいりません。自分たちだって、主イエスのそばにいて、主イエスに従っていきたい、共に歩んで行きたいと願うからです。立派に奉仕したいと思う。彼らのそんな思いに際して、主イエスは26節から27節で、弟子としての新しい生き方を示されました。主イエスは「偉くなりたい者は」と言います。この「偉い」という言葉は、「大きい」という意味です。弟子として、神様に仕える者として、また人々の中で精力的に活動する者として、大きくされたい、人々から注目されたい、弟子としての様々な願いがあったかも知れません。

偉くなりたいと直接そのように思う人は少ないかもしれません。人に偉そうに振る舞えば当然ひんしゅくを買うことはわかっているからです。でも、自分の人生は大きなものでありたい、充実した人生を歩んで、自分という器を磨いて、大きくなりないと思うのは誰しも抱くことです。ほどほどに偉くなりたいと思う自分もあります。そのような大きい器を重ね備えた自分だからこそ、相手を助けることができる、支援することができると考えるかもしれません。しかし、主イエスが語る「大きさ」というのはそういうことではないのです。26節から27節で主イエスが語る大きさというのは、仕えなさい、僕となりなさいということ、それもここで主語になっているのは「皆に」ということ、すなわち「人々に」仕える、「人々の」僕ということです。じゃあ、人に仕えていれば、頭を下げていれば、自分は偉くなれる、大きくされるのかということでしょうか

人に仕えるということは、その人の僕になるということです。自分はこうこうこうして、この人を支える、この人を支援するという自分の思いは二の次であります。目の前にいる人がこうして欲しい、こういう状況であるという声にまず耳を傾けるのです。自分がどんなに相手よりも見識が豊かで、器が大きくとも、相手が自分に求めることは、相手にしかわからないのです。そのような大きい器を重ね備えた自分だからこそ、相手を助けることができる、支援することができると考えるよりも先に、相手に仕える、僕になるということは、自分がどのような器を持っていようとも、相手の心、魂の中に自分という存在を、その相手の枠に入れていくのです。

ですから、およそこの世では、仕えるということは、自分が大きくされるどころか、小さくされるものであると言えるでしょう。この世の賞賛など全くない、みじめな姿になる。その人と同じ立場に立たされる、むしろその人よりも小さい存在になるかも知れません。だから主イエスは25節で「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言われるのです。異邦人の間、すなわちこの世では・・・・支配者たちが偉い大きい存在なのだということです。支配者たちはその大きな力をもってして、その力に頼って人々を支配し、国を治めるのです。そして、この後の主イエスの言葉は、全くの逆転が起こっているのです。主イエスが26節でいう「あなたがたの間では・・・」この言葉によく注目して欲しいのです。この世ではなく、あなたがたの間、あなたがたの世界では、弟子たちの間、もっと具体的に言えば「教会」ではということです。さらにもっと具体的に言えば、「御国では」ということです。神様の支配されるあなたがたの間(世)では、・・・とこうなります。ですから、ここで大きくされるということは、この世の価値ではない、神様の眼によってということ。皆に仕えるあなたは大きい、大きい者として映るのだということであります。神様のご支配の中において、ここに生きる私たちは、私たちの存在を大きくする方は、主において他にはないということ、大きくされることを望むのは、主であります。

28節で主イエスは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と言います。人の子、すなわち主イエスは人々に仕えるために来られたのだと言います。人々が受けなくてはならない杯を主イエスが一身に引き受けてくださる、すなわち十字架の死を遂げるように、私こそ、あなたがたに仕える、主がまず私たちに仕えてくださると言うのです。私たちの何に仕えてくださるのか、それは私たちの人生においてです。もっと言えば、命を与えてくださる贖い主としてです。キリストが仕える者として、真に小さな者となられたのです。そして私たちの支えとなってくださるというのです。だから、共にいる、共に生きようと招いてくださるのです。

私たち人間に仕えてくださる神様として、キリストは私たちの只中に宿られました。私たちもまた苦しみの多い人生を歩んでいます。こうして欲しい、この「苦しみの声を聞いて欲しい」と願います。主は私たちの祈りを聞かれます。主が何よりもまず私たちの隣人となってくださった、この真実において、私たちもまた仕える者として、隣人と共に歩みなさいと招かれているのです。

被災者への支援、それが隣人として仕えていくということは、被災者の方々の人生に関わるということ、一時的な支援物資を指すことではないのです。本当に長丁場です。でも、彼らは支えを必要としています。支援物資という支えでしょうか、本当に必要とする支えは、その人が一人で歩み始めていくための道を整えていくということです。それは被災者の方々だけでなく、私たちにも必要な支えです。私たちも主によって、日々助け起こされているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年3月9日 四旬節第1主日 「自我の復活」

マタイによる福音書4章1〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「自分」という存在、自我について考えたことがあるでしょうか。一般的に、自我が目覚めるのは幼児期、およそ3歳頃で、自我が確立するのは、思春期を迎えた時だと言われています。しかし、自我の確立は個人差があるらしく、最近では「アダルトチルドレン」と言って、身体は大人でも精神的にはまだ自我が確立されていない人のことを指す人がいるそうです。このアダルトチルドレンのケアに携わった方がこういうことを言っています。「自我の確立に必要不可欠なもの、それは親の愛である」と。子供の成長に大きく影響するのが親の愛情であり、子供は親の愛情を通して情緒的に安定し、「どんな自分でも愛されている、受け入れられている」という確信をもって、初めて自分自身の人生を自我の確立をもって歩み始めることができるということです。逆に子供が親の愛情を十分に受けることができないと、肉体的には成長していっても、常に親の愛情を求め、なんとか親から愛されたい、受け入れてもらいたいと無意識のうちに考え、行動し、子供はなかなか自分自身の人生を自我の確立をもって歩み始めることができないそうです。

ですから、自我の確立というのは、決して自分自身の力だけで確立できるものではないのでしょう。外からの力、支えが必要だということです。それが親の愛であると言います。大人になって独立しても、本当の意味で自分は自分らしい、自我をもった人生を歩んでいるのか、親からまたは他人から愛されたい、受け入れてもらいたいという思いは誰しもが抱くことではありますが、そのことにばかり束縛されて、思い悩み、親から、他者から愛されるために、受け入れられるために、自分を偽って、自分自身の人生を歩んではいないだろうか。自分の人生を自分らしく歩めてはいない、そんな自分自身の姿がどこかにあるのかも知れません。

親の愛、それは様々な愛情表現があるかと思いますが、やはり真の愛というのは「どんな自分でもありのままに愛されている、受け入れられている」ということが軸にあるかと思います。愛するということでありますから、それは決して親が子供のわがままを聞いて、甘やかすということではなく、子供と真剣に向き合い、時には叱りつけることもあるでしょう。でも、絶対に子供のことを見捨てない、見放さないのです。それが、子供自身が感じる親への愛です。親への信頼です。

ルカによる福音書に、有名な放蕩息子のたとえ話があります。ある父親にふたりの息子がいて、次男の方はある日、父親がまだ生きているにも関わらず、財産の半分を分けて欲しい、相続して欲しいと願い出ます。父親が次男に財産を与えると、次男はもう一人でこれからは生きていける、誰からも束縛されない自分らしい人生を歩んでいけると思うかのように、旅に出るのです。父親を残して。話の結末はもう皆さん知っているかと思いますが、結局この次男は父親のもとに帰ってきます。放蕩の限りを尽くして、何もかも失い、世間の厳しさを存分に味わい、ぼろぼろな状態で帰ってくるのです。この時の父親と次男の再会の場面は印象に残ります。次男は自分が許されるとは思っていません。もう息子とは思われない、親子の縁を切られてもしかたないと思います。しかし、彼の予想を遥かに凌ぐ出来事が起こります。彼の姿を見た父親が遠くから走り寄って、彼を出迎えるのです。彼の姿を見て、大いに喜び、彼を愛する息子として受け入れるのです。父親は彼を家に迎え、ご馳走を出し、立派な衣服を与えました。もう生きてはいないかもしれないと思っていた息子を、愛で包んだのです。

この息子は真の親の愛をここで知ることができ、自分という存在が受け入れられたことを知ったのです。親の財産を相続し、独立して旅立っていった息子は、自我が確立されていたかのようで、しかし、放蕩の限りを尽くして誰からも相手にされなくなった時に、自我を見失っていたのだと思います。自分という存在、自分の価値は、親からの相続財産という目に見える金銭的なものにしか彼の周りの人たちには映らなかった。それでは生きていくことができないと彼は悟ったのです。彼は父親との再会、ありのままに自分を受け入れてくれる父親の愛によって、自分の存在価値を見出した、見失っていた自我が復活したのです。

今日の福音書は主イエスが荒野で悪魔の誘惑を受けたお話です。主イエスはヨルダン川で洗礼を受けた直後に、この荒野で試練を受けました。それは「霊に導かれて」とあるように、この霊というのは神様の御心でありますから、父なる神様によって、主イエスはこの場所に導かれたのです。その理由は、主イエスが洗礼を受ける際に言われた言葉「正しいことをすべて行う」ためでした。この正しいこと、それはすなわち十字架につくということです。この十字架につくための道を歩んでいくということに繋がる出来事、それがこの荒野での試練です。

主イエスは40日間の断食をしました。空腹を覚えたというのですから、過酷な試練の時であったでしょう。空腹で弱り果てていた主イエスを悪魔は3回誘惑し、試します。この時悪魔は「神の子なら」と言います。これは事実を前提にした言い回しでありますから、悪魔は主イエスの正体を知った上で誘惑しているのです。「神の子ならばどうだ」という具合に、そのままに理解できるかと思います。

神の子である主イエスは、最初の誘惑であれば、石ころをパンに変えることは造作もなかったでしょう。しかし、主イエスは全て神様の御言葉にたって、御言葉に委ねてこの悪魔の誘惑を退けたのであります。ただひたすら父なる神様への信頼を置いた姿勢を貫いたのです。私たちはこの主イエスの姿にあやかれるのでしょうか。悪魔からの誘惑、試みというのは例外ではありません。それは私たちが、私たちの弱さ、弱点を突いてくる現実的な問題と向き合わされているということです。それに打ち勝つほどの信念、または信仰というものがあるのかどうかということが問われている、そう考えるかも知れません。けれど、結局私たちが行きつく結論は、悪魔と同じ言葉を使うかもしれません。主イエスは神の子だから、だから試練に耐えることができた、誘惑に打つ勝つことができたのだと。私たちは神の子じゃない、生身の人間だから無理だという具合に。

第1の誘惑の内容は特に切実な問題です。食物に関するからです。3節と4節を読みます。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」」人はパンだけで生きるものではない。こう聞きますと、すぐにこう思わないでしょうか。人はパンがなければ生きてはいけないのだと。どんなに綺麗事を言われても、どんなすばらしい徳のある生き方を示されても、食欲には勝てない。食べなければ死んでしまう。ただそれだけのことではないか。まずは食欲を満たさなければならない、そう思います。ですから、尚更、悪魔の言葉に納得してしまうのです。神の子なら、石をパンに変えたらどうかという言葉。そうすれば世界の食糧問題は一気に解決する。問題はなくなり、人類は生きながらえる。私たちも悪魔の言葉に同意するというより、そのような私たちの思い自体が悪魔の言葉になっているのです。

しかし、ここで主イエスが言う「生きる」とはどういう意味でしょうか。ただ食欲を満たすだけの肉体的なことだけを指しているのでしょうか。主イエスは決してパンのこと、食糧のことを無視しているわけではありません。拒絶しているわけではなく、それだけでは生きられないというのです。私たちを真に活かす真の糧があると言われる、それが神の御言葉であると言われます。神様の御言葉とはどういうことでしょうか。この4節の言葉には元の言葉があります。申命記8章3節の言葉ですが、前後の2節から4節にはこう書いてあるのです。

「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」

この40年の旅というのは、モーセに率いられた旧約の民、イスラエルが経験した40年の旅、神様が与えてくださる約束の地に向けて彼らが歩んだ旅のことです。この40年の旅は、実に誘惑と試みだらけの、主イエスとは違い、その誘惑と試みに翻弄されたイスラエルの過酷な歴史です。この旅路の中で、神様は天からマナという食べ物を降らせて、人々に与えました。彼らを飢え死にさせるようなことはしなかった、その日に必要な糧を与え続けたのです。私たちが主の祈りにおいて「必要な糧をお与えください」と祈るように、私たちにはパンが必要です。けれど、このパンは石ころからたやすく変えられて手に入るパンではない、ただ食欲を満たすだけのパンではなく、人として、私が私として生きていくために必要な糧です。

イスラエルの人々がこの過酷な旅路の中で、誘惑に翻弄され、弱く、もろい姿を神様の前でさらけ出すように、私たちもそのような姿をさらけだして生きています。神様の目に留まる姿は、彼らイスラエルの民となんら変わりはないように思えます。主はこの私たちの弱さを、苦しさを見つめておられるのです。私たちに本当に必要な糧は何であるのかということを見つめておられる。だから御言葉が私たちに示されています。私として生きていく命の御言葉を。

神様の御言葉によって生きるとは、この恵みを頂いて、生きる、感謝して生きていくということです。そして、神様の御言葉によって私たちは生きるということは、神様の御言葉になんとかして与ろうと求める以前に、先に御言葉は語られているということなのです。それがマナという目に見えるパンという糧を頂いているということ、すなわちこの神様の御言葉、それは神様と私たちの交わりであり、神様が私たちを愛してくださるということにほかならないのです。神様の愛によって真に、人として生きていくことができる、ありのままの私として生きていくことができる。なぜなら、神様の愛は私たちを見捨てないからです。ありのままの私をそのままに愛されるからです。ここに、私たちの自我があります。自我をもって、そのままに私として生きていくことができる道があるのです。

パンだけで生きていけるでしょうか。ここに放蕩息子の姿が重なります。彼は財産を手に入れて、もうそれだけで生きていかれると思ったのです。父親は必要ないと思ったかもしれません。食べ物、着るもの、お金、生活に必要なものはすべて揃っていたでしょう。父親から独立して己の道を突き進む、自我をもってして自分の道を突き進むのです。しかし、彼はすべてを失って、誰も助けてくれる人がいない、受け入れてくれる人がいないことに気付かされます。もはや自分という存在は失った財産と共に消え失せてしまったかのように。自分の存在を見失ったら、自我を見失ったら、本当の意味で生きられないのです。私の自我を自我として受け止めてくれるもの、その拠り所が必要なのです。パンそのものは、その拠り所とはならないのです。

彼の自我を復活させたのは父親でした。父親の愛でした。息子の自我の拠り所はそこにあるのです。だからそこで生きられるのです。私たちは一人では生きていかれないからです。自我を確立するというのは、独立して好き勝手に生きていくことではない、むしろそこでは生きられない、自分の存在を根底から受け止めてくれる土台がないと、生きられないのです。

私たちは神様のみ前にあって、不信仰に陥ることがたくさんあります。誘惑に陥りそうなことがたくさんあります。信仰者といっても、神様のみ前にあって、信仰のアダルトチルドレンとしての私たちの姿があるのか知れません。信仰者であっても、信仰を見失っている時がある。本当に私は信仰があるのか、そういう不安がある。パンだけで生きようとする姿があります。だから私たちは毎週の主日ごとに、帰ってくるのです。この教会、キリストのみ体のもとに。放蕩息子のように、この世ではすべてを失い、疲れ果てているこの私を、主は迎えてくださるのです。主の御言葉こそが真に私たちを生かしてくださる。神様の愛を知り、キリストに繋がっているという平安が与えられます。この平安を知るからこそ、真に私は私という自我をもって新しい一週間を生きていくのです。それが信仰をもつということ、神様の愛に信頼して生きていくということです。キリストと共に、父なる神様の愛に支えられて歩みましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。