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2013年8月18日 聖霊降臨後第13主日 「御言葉に立て」

ルカによる福音書12章49〜53節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

主イエスは言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」また、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが分裂だ」。非常に厳しい言葉を語っておられる、いや、むしろ聞く者が拒絶したいと思うほどに、受け入れがたいことを、主イエスは語っておられるように思えます。主イエスがこのようなことを語られたのかと疑いたくなるほどの言葉です。「地上に火を投ずる」、「平和ではなく分裂をもたらす」。地上、それは私たちが暮らしているこの地上に火の雨を降らせて、焼きつくすということなのでしょうか。また、平和ではなく分裂ということは、争い、戦争を引き起すということなのでしょうか。主イエスがそれらのことを成し遂げるために、この世界にご降誕された、私たちの只中に宿られたなどと信じることができるでしょうか。主イエスがご降誕された理由、それはヨハネ福音書3章16節に「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますように、神様が私たち人間を愛するがために、この世を愛されたという御心が主イエスを通して顕されたということに他なりません。また、私たちは、主イエスはこの世に平和をもたらす平和の君、支配者として、来られるというよき知らせを、アドベント、クリスマスのメッセージから聞きます。その平和の君が「平和ではなく分裂をもたらす」と言われるのですから、やはり主イエスはこの上なく矛盾なことをここで言っていると思えてしまいます。Read more

2013年8月11日 聖霊降臨後第12主日 「神の豊かさ」

ルカによる福音書12章13〜21節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

古来中国の政治家、思想家である孔子は、ある時弟子の子(し)貢(こう)という人から、こういう質問をされたそうです。「政治の基本とは何ですか」と。孔子はこう答えました。「食糧の充足、軍備の充実、政治家と国民との信頼関係の3つである」と。すると子貢は孔子に「その3つの中で、どうしても何か1つを犠牲にしなくてはいけないとなったら、どれを犠牲にしますか」と訊きます。孔子は「軍備である」と答えました。子貢はまた孔子に訊きます。「残った2つの中で、どうしても何か1つを犠牲にしなくてはいけないとなったら、どちらを犠牲にしますか。」と。孔子は「食糧である」と答え、続けてこう言いました。「食糧の充足を欠けば、国民は飢えて死者が出るかもしれない。しかし、人は遅かれ、早かれ、死から免れることはできない。政治家と国民の信頼関係さえあれば、弱くても貧しくても国を維持できるが、信頼関係がなければ、どれほど強く豊かでも国は維持できない。」孔子が言った3つのことは、原文で「子曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」となっています。食糧は「食」、軍備は「兵」、信頼関係は「信」。信じるの「信」です。この「信」が一番大切だと孔子は言いました。Read more

2013年8月4日 聖霊降臨後第11主日 「復活の門」

ルカによる福音書11章1〜13節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「私たちにも祈りを教えてください。」(11:1)弟子の一人がこう主イエスに尋ねました。「祈りを教えてください」と。弟子の方から訪ねて、主イエスは彼らに、そして私たちに祈りを教えてくださったのです。祈りは力である。祈りは人を変える。そういったことを聞きます。自分がクリスチャンになりたての頃は、その意味がわからなかった、信じられなかったというのが私の体験です。祈りはクリスチャンの日課みたいだと、形式的というか表面上のこととしてしか理解できなかった当時の私の姿を、この弟子の質問から思い出します。

しかし、祈りは力、人を変えます。皆様の、この六本木ルーテル教会の皆様の前で、このように申す根拠は、今私がこの説教壇に立っている牧師としての姿そのものにあります。今の私の姿が証ししていると、私事で恐縮ですが、私はそう確信しております。なぜなら、それは皆様が証人、祈りの証人だからです。私のために祈って下さった。私が神学生の時から、私がこの教会で実習させて頂いた時から、祈り支えて下さった。そして、神学校を卒業し、今この教会で牧師として、この説教壇に立たせていただいている。もちろんそれは神様の導きが先導したということでありますが、その導きも、皆様の祈りが届いた、聞き入れられた故に、起こった出来事である。それ故に、ここに今の私がいる、ここにいるのだと実感しております。それ以外に、真にこのような偶然があるでしょうか。皆様への感謝の思い、嬉しさは当然のことながら、やはり祈りは力であり、人を変えるものであると、私は信じております。私たち人間の思いを越えた遥かなる力が働いているのです。

主イエスの弟子たちはユダヤ人です。彼らは主イエスに祈りについて尋ねるまでもなく、祈ることはしていたし、祈りを知っていたはずです。しかし彼らが知っていた祈りは、主イエスの祈りとどう違っていたのでしょうか。彼らが知っていた祈り、模範となり、祈る者として身近にいた人たちは、ファリサイ派の人たちではないかと思います。彼らの祈り、その姿勢を後に主イエスが批判しますが、それは大勢の人の前で祈る、人に見てもらう祈り、内容が整った立派な祈りというものだったでしょう。祈りは立派なものでなければいけない、律法の知識をしっかりともった立派な人でなければ祈るに相応しくない、そういったイメージを弟子たちはもっていたのか知れません。私たちも、人前で祈るということは気恥ずかしくて、抵抗をもつということがあるかも知れませんが、人前で祈る時、何か立派なことを言わなくてはならないという思いを抱いてはいないでしょうか。祈りが難しくて、なかなかできない、予め祈ると分かっていたら、よく考えて、文章にして、表現を整えて、万全に準備する。そうしないと人前で祈れないという思いは誰しも抱いていることなのかも知れません。

主イエスの祈りはどうだったのでしょうか。福音書を見て見ますと、朝早くに、誰にも見つからないように、人里離れた所で祈っていたと記されています。誰かに見せるためということではない、敢えて人前を避けていた。ファリサイ派の人たちとは違うあり方だったのです。主イエスはその祈りへの姿勢、思いを込めて、弟子たちに祈りを教えてくださいます。それが今日の福音、2節からの主の祈りです。

私たちが礼拝式文の中で祈る、「主の祈り」は、マタイ福音書に記されているほうの祈りです。それに比べて、このルカ福音書の主の祈りはその一部です。マタイ福音書は祈りについての具体的な手引きが、主イエスの口を通して、記されていますが、(マタイ6:5-8)このルカ福音書では、それがなく、代わりに5節からのたとえ話を通して、祈りの本質を主イエスは教えておられるのです。

この主の祈り、クリスチャンであれば、誰でも自然に祈る祈りです。暗記しているというより、自然に祈れる祈りです。故に、この祈りを集会や会合の終りに、祈る習慣があります。よく言われるのは、この主の祈りを、まるで題目を唱えるかのように、ただひたすら祈る、早く祈ろうとするということです。それでいいのかと言えば、良いわけがない、そのことはお一人お一人がお分かりになっていることだと思います。祈りとはそういうことではないということ。そう考えますと、この主の祈りも含めて、祈るとはどういうことなのかということを、私たちはわかっているようで、わかっていない気が致します。

祈りについての本や教えはたくさんあります。たとえばルターは祈りについて、1520年に書かれた彼の著作「善き業について」という書物の中で、こう言っています。「祈りは祈祷書の頁を数えたり、ロザリオの玉を数えたりするような習慣に従ってなすべきものではない。心にかかる緊要事をとりあげて祈り、それを真剣に求めるべきである。そして、この祈りにおいて、神への信仰と信頼とを練り鍛え、その祈りが聞きとどけられることを疑わないようにならねばならない。」またヤコブ書を引用しながらこうも言っています。訳は違いますが、ヤコブ書4章3節です。「あなたがたが多く祈り求めながら、何も与えられないのは、正しい求め方をしないからだ」。続けてこう言います。「信仰と信頼とが祈りの中になければ、その祈りは死んだ祈りであり、もはや重い労苦以外の何ものでもないからである」題目のようにただひたすら祈る、早く終わらせようと、早く祈る姿の中に、信仰や信頼があるのでしょうか。義務的なこととして捉えてしまっている。それこそ労苦ではないでしょうか。どこまで言っても自分たち人間のペースで、習慣づいたものとなっている。神様に何を求めているのかということを真剣に問うているのだろうかと、疑問に思うのであります。ルターが強調して言うように、信仰や信頼なくして祈りは祈りではないということ、それは自分たち人間が神様に委ねきれないということでしょう。題目のように祈る、早く祈る、またファリサイ派の人たちみたいに、立派な祈りにしようと、祈りを着飾ろうとする。対象は神様であっても、その祈る者の心は、神様ではなく、自分を向いている。やはり自然と人目を気にしているのです。

ですから、「わたしたちに祈りを教えてください」この願いは弟子たちの願いだけではありません。今の私たちの願いです。この福音書の箇所を読むたびに、いや常に私たちが問われるものです。形式化された祈りから、信仰と信頼をもった委ねる祈りへと、一人一人の祈祷者に主は御言葉を通して、教えられるのです。

そうして、主イエスは5節からのたとえを話されます。旅行中の友人が訪ねてきたが、食べるものがない。なんとか友人に食べ物を出してあげたいために、真夜中に、別の友人の家を訪れます。そこでパンを3つ貸してほしいと願いますが、友人は言います。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』(7節)この後の8節はこのたとえ話の結論へと続きますが、8節冒頭の「しかし、言っておく」という主イエスの言葉は、何かの発言があって、それに対する答えだったのではないかという解説があります。主イエスはこのお話を弟子たちにされています。途中で話を止めて、弟子たちに感想を聞いたのかもしれません。それは、旅行で尋ねた友人のために、真夜中にも拘らず、友人のもとを訪ねたが、友人はパンを貸してくれなかった。その友人を薄情者だと、弟子たちは感想を述べた、非難したのかもしれません。

そんな感想を述べたであろう弟子たちの思いとは予想を遥かに超えて、主イエスはこのたとえ話の結びを話します。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(8節)友人だからということは関係ない、しつように頼めば、何でも必要なものを与えると主イエスは言われます。しつように頼めば与えられる。そう言われます。諦めずに何度も何度も頼みこむということでしょうか。この「しつように頼む」と言う言葉、これは「強情な」とも訳せますが、元の言葉は「廉恥心」とか「恥知らず」、「厚かましい」という意味があります。しつように頼むということですが、その頼みこんでいる者の姿がここで示されています。全く遠慮なんてしていられない、恥知らずな厚かましい思いで、態度で、頼み続ける。求め続ける。人の迷惑なんて考えない、そんな姿が見えます。そうすれば、必要なものが与えられると主イエスは言うのです。このお話の後に、主イエスは「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 11:10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(9-10節)と言われました。求める者、探す者、門をたたく者。たとえ話から結びつけると、その者たちはあたかも恥知らずな、厚かましい思い、態度で求め、探し、門をたたいていると言っているようなものです。しかし、そういった者たちに、与えられる、見つかる、開かれるというのです。

主イエスがこのたとえ話をされたきっかけは、弟子たちに祈りを教えることです。正確には「祈ること」ということですが、ルターが言うように、信仰、信頼なくして祈りは祈りではない、そういった思いがなければ、ただの労苦であるということです。神様に委ねるということ、それは自分を着飾らない、自分のペースにしないということ。徹底して委ねるということ。祈り、そこに人間の意図はないのです。形式やふさわしい者などいないということなのです。

真夜中に扉を叩いて、懇願する人。願い求める姿、祈る者の姿は、この人のように見えます。しかし、家にいる友人の目から見たらそうではない。そこには恥知らずで、厚かましい思い、態度である人の姿がある。そういう人が懇願している。着飾るどころか、全く恥知らずな者の姿があるのです。そう、この恥知らずで、厚かましい者の姿、この者こそ祈る者の姿なのです。この者の祈りこそ聞いて下さるのです。その恥知らずな者の願いを聞き入れて、必要なものを何でも与えてくれる方がおられる。扉の向こうにいてくださるのです。

人に頼む態度、礼儀などはないに等しい。このように求め続ける自分の姿、この姿は空っぽの姿です。祈る者の姿、神様の目から見て、祈る者は全くの空っぽであるということ。恥知らずな、厚かましい祈る者、そんな者だからこそ神様は聞いて下さる、門を開けて必要なものを与えて下さるのです。それはこういうことです。祈る者たち、神様の御前で、祈る私たちには何もないのです。赤子同然、ただなきじゃくって、一人では何もできない者です。空っぽの自分がそこにいるだけなのです。しかし、なきじゃくる者の涙にこそ、キリストは目を向けられるのです。本当は、私たちは友人にあげるパンなどない、自分ができることなど、たかが知れている。いざとなったら誰でもそうです。この友人という愛すべき隣人が私の、あなたのもとに来た時、私たちはその人の隣人となれるのか、食べものなどを出して、その人を助けてあげられるのか。そういった保証はないのです。真夜中、そう、それはまさに突然起こるということを象徴しているかのように。右往左往し、戸惑う私たちの姿がある。自分には何もできないと思い知らされる。そんな自分を知った時、出会ったとき、「必要な糧をお与えください」。そう祈り願う自分の姿がある。ただそのように、恥知らずな思い、態度を持ってしても、しつように祈り願う。神様の御前において、その姿が示されているのです。

主イエスは13節で言います。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」恥知らずな者のように、祈り求める者に神様は聖霊を与えて下さる、神様と私たちを結び付けてくださる神様の霊を、私たちの只中に送って下さいます。神の霊、生ける主が共におられるということ。私たちの祈りを聞いて下さる生ける主が与えられ、共におられるのです。

祈りは力、人を変える力です。なぜか、それは私たち人間には全くないもの、全くない力です。この神様の霊が働かれる力だからです。祈り求める私たち、それは恥知らずな、厚かましい姿の私たちかも知れない。空っぽで裸な、無力な者の姿かも知れない。だからこそ、神様は顧みて下さる、扉を開いて、必要なものを与えて下さるために、私たちを迎えてくださいます。その信仰と信頼をもって、私たちは祈り求めるのです。門は必ず開かれます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年7月28日 聖霊降臨後第10主日 「救い主を迎えて」

ルカによる福音書10章38〜42節
藤木 智広 牧師

※説教題変えました。
「大丈夫!やり遂げなさい」→「救い主を迎えて」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

忙しい日々を送っている方がほとんどだと思います。本当に毎日が忙しい。皆さんはしっかりと休息を取っていますか。なかなか十分に取れない方も多いかと思います。体力や精神の限界を超えて働く、活動している、そんな自分自身の姿を見つめる機会があるかと思います。休みたくても休めない、熱があっても働かなくてはならない、活動しなくてはならない、そのように無理をされている方もたくさんおられるかと思います。でも、やはり人間は生身の存在です。どこかで休まないと、脳が機能しなくなります。無理をして無理やり、働こうとすると、よけいに体調が悪くなり、倒れてしまい、他人に迷惑をかけてしまうということもありえます。

聖書には、「安息日」という日が定められています。ご存じのように、神様は6日間でこの世界を造られ、7日目に休まれました。全知全能の神様も休んだわけであります。その安息日に則して、旧約聖書の律法の規定にはこういう言葉が記されています。出エジプト記23章12節です。「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためでもある。」7日目には、休まなくてはならない。それはなぜか。あなたが休まないと、あなたより立場の低い人が休めないと、こういうのです。あなたが休まないと、周りの人たちが休めない。あなたが休まず、無理をして働いていると、周りの私たちも、あなたに常に気を配らなくてはならない。だから、私たちも休めないということです。様々な事情があって、休めない方がおられるのも事実ではありますが、それでもなんとか折り合いをつけて、休むことは大切なことだと思います。やはり、周りの人たちが休めないからです。自分では大丈夫だと思っていても、周りの人たちが、なかなか休まないあなたを見て、周りの人たちがあなたの健康を心配します。直接目には見えなくとも、さりげない言動や行動の中に、あなたの疲れを見出すかも知れません。自分でもわからないくらいに、疲れが蓄積されている。相手に指摘されて、初めて気付かされる、そういうこともよくあります。

さて、うしやろばなどの「動物」には休ませると書いてありますが、女奴隷の子や寄留者と言った「人間」については、「元気を回復するため」とあります。肉体的な面のことだけでしょうか、それとも精神的な面における回復も含まれてのことでしょうか。どちらにもとれるかと思います。聖書が言う安息、元気を回復するということは、そういった人間が考える癒し、回復に留まりません。安息日、これはモーセの十戒、その第3のいましめに、「安息日をおぼえて聖とせよ」と記してあります。安息日、神様が人間に与えた安息、元気を回復させるというのは、神様を覚え、神様をお迎えすることなのです。労働や行動を完全に中断して、神様に心を向けて、向き合うのです。しかし、私たちはこう思うかもしれません。なんで身も心も疲れているのに、神様をお迎えし、神様のことを考えなくてはならないのか。神様にご奉仕しなくてはならないのか、そんな負担をかけなくてはならないのか。家でごろごろしていたり、好きなことをしていたりしたほうが、よっぽど休むことができる、元気が回復するではないかと。確かにそうしたほうが、気軽に休めそうです。気分転換できます。しかし、それだけでは、休めない、回復しないほどの疲れを負っている時もあります。自分の力だけでは解決できない、または未だに解決の糸口が見つからないほどの悩み事や心配事を抱えていた時、そういったものを抱えたまま、休日を過ごそうとしたときに、本当に身も心も、休まるのでしょうか。そういったものに思い煩って、心の奥底からは休めず、むなしさが残るということであれば、休日の日も、結局は心の中で労働しているのです。心の中で労働し、心が休めないと、その疲れが肉体に顕れてきます。ですから、心を休め、クリアにしないと、肉体も休むことはできません。身も心も休まる、真実の安息、命の安息が人間には必要なのです。

安息日に、神様を迎える。どこにか、もちろんそれは私たちの只中、私たちの心の中に迎えるということであります。悩み事、心配事が尽きない私たち人間の只中にです。どうお迎えするのかということを、今日の福音から聞いてまいりたいと思います。

今日の福音は、マルタとマリアの物語です。主イエスと弟子たちはエルサレムへの旅の途上にあって、ある村に入り、マルタの家に迎え入れられました。マルタという名前は「女主人」という意味です。この家の主人であるマルタは主イエスと弟子たちのことを知っていたのでしょうか、快く彼らを迎え入れました。彼女にはマリアという姉妹がいました。聖書は先にこのマリアのことを記しています。39節ですが、彼女は、主イエスの足元に座って、話に聞き入っていました。マリアも主イエスのことを知っていたのかも知れません。

主イエスは72人の弟子たちを派遣する際に、彼らにこう言いました。すぐ前の10章8節からですが、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』」と言いなさい。」「神の国が近づいた」、こう告げるように、弟子たちに命じたのです。この言葉は、後に主イエスが徴税人ザアカイの家を訪れたとき(19章1~10節)、「今日、救いがこの家を訪れた」と主イエスがおっしゃった言葉と同じニュアンスです。神の国という救いの支配が、この姉妹の家に訪れた。マリアは、主イエスが語るこの救いの支配、神の国の教えに耳を傾け続けていたのです。

さて、一方のマルタですが、40節の冒頭の箇所を口語訳聖書で読みますと、「ところが」という接続詞が挿入されています。原文で読んでも、「しかし」という接続詞が、ここには挿入されているのです。「ところが、しかし、マルタは」と繋がります。マリアとは異なった行動をしたという強調が込められているのでしょう。マルタは主イエスの話を聞いているどころではなかった。旅人である彼らを、主人である自分がもてなさなくてはならないという思いにあったからです。彼女はせわしく立ち働き、主イエスと弟子たちをもてなしていましたが、姉妹のマリアは手伝おうとはしなかった。彼女はこう思ったでしょう、主人である自分だけが、なぜこんなに立ち働き、自分の言うことを聞くべき立場にあるマリアは、手伝おうとするどころか、動こうとさえしないのかと。マルタは最初、マリアの行動に驚いていたのかも知れません。別に彼女はお客さんである主イエスと弟子たちを無視しているわけではない、お話の相手をしているようには見えるけど、遠路はるばる来られた旅人に接する態度としては、不適切だった。快適なもてなしをすることが、旅人への心遣いというものではないのか、さらに人手が足りないんだから、手伝うのもあたりまえだと、マルタは思っていたことでしょう。

そして、とうとう彼女の怒りが、爆発します。でも、その怒りは直接マリアに向かって、言ったものではありませんでした。「マリア、こっちに来て、あなたも手伝いなさい」とは言わず、お客さんである主イエスに向けて彼女は言うのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています。」わたしだけにと、自分のことをマルタは言っている、いや訴えていると言えるでしょう。「わたしはこんなにあなたに尽くしているのに、このマリアは手伝おうとしない。マリアにも手伝うように言って下さい。」マリアに手伝うよう言ってほしいという思いはもちろんありますが、その思い以上に、マルタは自分の境遇を主イエスに訴っているのです。わたしはこんなに働いているのに、尽くしているのに、なぜあなたは黙っているのか。わたしはこんなに一生懸命あなたがたをもてなそうと、動き回っているのに、あなたは自分の足元にいて、手伝おうとしないマリアを迎え入れ、お話をしている。なぜ何もしないマリアをあなたは受け入れているのですか、あなたはそんなマリアの態度に怒りを覚えないのですか、そして、この私のことは何とも思わないのですかと、マルタは自分の心境を主イエスに訴っていたと言えるでしょう。

その彼女の姿を、主イエスの目にはこう映ったのです。「思い悩み、心を乱しているマルタという一人の人間。」マルタは、主イエスと弟子たちを迎え入れたのです。仕方なくでも、強制されてでもない、自分の意志で、良心とも言えるでしょうか、とにかく快く受け入れた。だから、一生懸命にもてなそうとしたのです。私たちだって、大切なお客さんがはるばる自分の家を訪ねてきたら、快く迎え入れ、もてなそうとします。相手に尽くす、奉仕しようとします。ですから、マルタの立ち振る舞いはごく自然なものなのです。しかし、彼女の心は、乱れていたというのです。最初は快く迎え入れたのに、次第にマリアの姿が気になり、自分の行動にむなしさを覚えた。やがて、途方もない義務感に駆られ、彼女は思い悩んでいたのです。そして、主イエスは彼女に言います。「必要なことはただひとつである。マリアは良い方を選び、それを取り上げてはならない」と。必要なことはただひとつで、マリアは良い方を選んだということは、マリアは最も必要なただひとつのことを選んだと言えるでしょう。主イエスの足元で、神の言葉を聞いていたマリアの姿、姿勢こそがそうでした。マリアはお客さんである主イエスに話題をふって、おしゃべりをしていたわけではない。主イエスのお話に聞き入っていただけなのです。主イエス御自身に思いを向けていた、足元に座るとうことは、自分は僕の身分であるということです。神様の御前に立つときの姿勢です。マリアこそが主イエスに迎え入れられているのです。

「もてなし」という言葉、これは英語で「サーヴィス」という意味です。サーヴィスというのは「礼拝」という意味があります。サーヴィスの他にはワーシップという礼拝を顕す言葉がありますが、今、この場で皆さんと一緒に神様から招かれている礼拝という意味のサーヴィスです。また、原語のギリシャ語で「ディアコニア」という言葉です。ディアコニア、そうです、「奉仕」という意味です。マルタは奉仕していたのです。礼拝奉仕の奉仕、私たちもする奉仕です。

礼拝はドイツ語で「Gottesdienst(ゴッテスディーンスト)」と言います。ゴッテスは神という意味です。神の奉仕、神奉仕です。神が人間に奉仕するのです。礼拝は、人間の奉仕、人間のもてなしの行為が中心にあるのではなく、神の奉仕、神の人間へのもてなしが中心にあるのです。他の宗教とは決定的に違うところです。神は人に仕えられたり、ささげられる必要もないのです。神の方から、私たちを招き、私たち人間に仕えて下さる。私たちが気苦労し、どうしたら神に喜ばれるか、受け入れてもらえるだろうかと、思い悩む必要はないのです。必要なことはただひとつなのです。この神の奉仕に招かれ、心を開いて、神の福音に耳を傾けることなのです。それが第一とすることです。

先ほども言いましたが、マリアが、主イエスの足元に座り、お話を聞いている姿は、マリアが主イエスに迎え入れられている姿です。お客さんである主イエスではなく、マリアこそが主イエスに招かれている。必要なことはただひとつ、良い方を選んだマリア、主の足元に座り、神の御言葉を聞いているマリアがいます。そう、マリアは神の奉仕に招かれているのです。マリアが主イエスに奉仕しているのではなく、主イエスがマリアに奉仕している、主イエスこそがマリアに奉仕しているのです。マリアがもてなされている、奉仕されている、サーヴィスを受けている。そう、このマリアの姿は、礼拝に招かれている者の姿なのです。ここで礼拝が行われているのです。

マリアはこのように良い方を選びましたが、主イエスはマルタの行動、働きを否定しているわけではありません。マルタも、私たちも奉仕者として、招かれているからです。でも大切なことは、それは義務感、使命感から、奉仕するのではないということ。礼拝は神の行為、神の奉仕が中心です。その恩恵を受け、救われた者たちが、神に応答する、感謝の思いを持って仕えることが奉仕なのです。神は私たちに赦しと憐れみを語りかけておられます。この語りかけに耳を傾け、喜びと感謝をもって、私たち人間は賛美し、神への信頼を持って、神に信仰告白するのです。神が私たちを受け入れ、御言葉を通して、私たちへの愛の御心を示してくださる。その愛への応答として、私たちは神と隣人とに愛をもって仕える、奉仕するのです。

マルタとマリアの家を、主イエスは訪れました。マルタは家の主人として、主イエスを迎え入れましたが、迎え入れられたのは、彼女たちだったのです。神の国が近づいた、神の救いが彼女たちの家に訪れたのです。主イエスキリストがその救いを成し遂げるために、主イエスこそが、救いの創始者として、彼女たちの家を、彼女たちの心の中を、そして、私たちの心の中を、訪れてくださったのです。そして、今もここで私たちを訪れてくださり、あなたの心に、あなたの只中に救いの御言葉を語りかけておられます。ここに礼拝があります。神が訪れ、神が奉仕して下さる礼拝に私たちが招かれているのです。

マタイによる福音書11章28節で、主イエスはこう言っています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」私たちは日々の忙しさの中で、疲れを覚えているものたちです。肉体的にも精神的にも。休みたくとも休めない、休んでも、心の疲れは取れないという現実があります。悩み事、心配事は尽きず、思い悩み、心を乱している姿がある、そういった重荷を背負って生きています。マリアもきっとそうだったのでしょう。だからこそ、主イエスの御足に座り、御言葉を聞き、もてなされて安息を得ていたのです。彼女に必要な休息だったのです。そんなマリアを、マルタを、そして私たちを主は招かれます。わたしのもとに来なさいと。休ませてあげると、言われます。元気を回復してくださるために。安息日に、礼拝に招かれ、神のもてなし、奉仕を受けて、私たちの心に安らぎが与えられるのです。主イエスは私たちを訪れて下さり、主イエスこそが私たちに奉仕してくださいます。主イエスがここにおられます。この方を自分の心に迎え入れて、元気を回復しましょう。あなたは真実の安息、命の安息日に招かれたのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。