タグ Archives: ルカ

2013年6月23日 聖霊降臨後第5主日 「もう泣かなくともよい」

ルカによる福音書7章11〜17節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

星野冨弘さんの詩集の中に、こういう詩があります。

いのちが 一番大切だと
思っていたころ
生きるのが、苦しかった。

いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった

いのちより大切なものがある。星野さんはこう言われます。いのちより大切なもの、本当にそういうものがあるのでしょうか。いのちあっての私があり、あなたがある。いのちがあるから、この世界のあらゆる生命体の鼓動を感じとることができますし、赤ちゃんを見て、いのちの輝きに思いを深く寄せることができます。「いのち」が土台となってその存在を認識するのです。それ以上に大切なものがあるなどと考えられるのでしょうか。

この詩の中で、星野さんは「生きる」ということについて語っています。生きるのが苦しいか、嬉しいかと思えるのは、この「いのち」について、自分がどう思っているか。与えられたいのちを生きなくてはいけないという義務感に駆られた生涯を過ごすのか、それとも、与えられたいのちに喜びを抱いて生きていくという解放感に満たされた生涯を過ごすのか。いのちに対する考え方は個々人で異なるでしょう。前者はいのちを消極的に、後者はいのちを積極的に捉えています。しかし、結果的に私たちが命についてどのような想いを抱こうと、いづれは肉体的な死を迎えて、いのちの終焉があるという答えにいきつくかと思います。いづれ迎える「死ぬ」という出来事。その出来事に向かって私たちはただ生きているだけなのか、生きるためのいのちが与えられているだけだと考えてしまうのでしょうか。星野さんが言われるように、そこには苦しみしか見いだせないと思います。喜び、楽しみだけでなく、痛み、苦しみ、悲しみを背負って生きている私たち。この世のいのちを生きるとはそういうことの連続です。

私たちはどんなに自分のいのちに目を向けても、それをコントロールすることはできません。医学の発達によって、「延命治療」という一時的にいのちを長らえさせるという技術が存在する現代世界の中で私たちは生きていますが、それはやはり一時的なことなのです。自分のいのちに目を向け続ける限り、このいのちに苦しむ自分自身の姿がそこにあるのではないでしょうか。この「いのち」より大切なものがあるという。改めて考えさせられます、いのちについて。そしてひとつの答えに私はいきつきました。それは、このいのちをもたらされる方、私たちの創造主である神様です。どうして私たちはいのちを与えられたのか、それは神様が「良し」とされたからです。良しとされた神様の御心の中にこそ、いのちが見出されるのです。それは耐えず、神様が私たちを愛されているということ、憐れまれ、顧みてくださるということに、生きていく力が湧き立たされるということです。生きているのが嬉しいと受け止められる時、私のいのちをこのお方に委ねることができる。いのちを、自分の力ではどうすることもできないけど、このいのちに生きる力を与えてくださる方が、今も私たちと共にいてくださるのです。

今日の福音は、ナインの町で、やもめの一人息子を生き返らせる奇跡物語です。主イエスと弟子たち、その他大勢の群衆がその町の門に近づいた時、やもめの一人息子が納められた棺が担ぎ出されるところでした。お墓は町の門を出た郊外、人里離れた場所にあったと言われています。今まさに、その墓地に向かって、棺が担いで行かれ、やもめが泣きながら、町の人たちに付き添われながら、行進しようとしていたのです。この時、ナインの町の人々が主イエスのことを知っていたのかどうかはわかりません。ナインという町は、ナザレから南東に10キロほど離れたところにある、ガリラヤ地方の南端にある町であったと言われています。主イエスの噂がそこまで広がっていたのかも知れませんが、人々の方から主イエスに声をかけることはなかったでしょう。息子は既に「死んでいた」からです。死者を生き返らせることなど誰にでもできようがないと人々は思っていたからだと思います。町の人々はやもめの女性に付き添い、彼らもまた、やもめと同じように、悲しみの只中にあったことでしょう。やもめというのは、夫に先立たれた未亡人です。旧約聖書のルツ記をお読みいただければ分かるかと思いますが、当時の社会の中で、夫に先立たれた女性が生きていくことは大変なことでした。再婚して新しい夫に養ってもらうか、息子に養ってもらうかしないと生きてはいけませんでした。ですから、自らが愛し、頼りにしていた一人息子を失うということは、その悲しみを背負いつつ、困窮した生活をこれから送っていかなくてはならないということを意味するのです。

愛する息子を失った悲しみに暮れるこのやもめという遺族に、町の人たちはきっと何も声をかけることはできなかったかのかも知れません。寄り添い、すすり泣くことしかできなかったでしょう。一人息子がどんな亡くなり方をしたのかはわかりませんが、母親より早く亡くなったという深い痛みと悲しみが、その場に満ちていました。死ということに対して、どうすることもできない者たちの姿、現代に生きる私たちと同じ姿です。私たちも、人生において、愛する者を失った遺族に付き添い、共に泣き悲しむ経験をし、また自分自身が愛する者を失った遺族となり、深い悲しみの只中に突き落とされる経験を誰しもが致します。目に見える死が全ての終焉を迎えると理解しているからです。そして、自分たちもまた、他者の死を経験しつつ、死に向かって生きている存在であるというところに立たされます。やもめや町の人々、棺を担ぐ人々が墓に向かって行進していくが如く、私たちの人生も、墓に向かって歩んでいる。その終着点である「死の世界」に日々近づいていると実感させられます。この死の行進は誰にも止められないのです。それが自然だ、ありのままだ。それで良いのかもしれません。でも、死の訪れは、そんな生易しい人間の認識を越えて、突如として現れるのです。「死」を受け止めるという心の準備など間に合わない、本当に一瞬のうちにです。このやもめのように、ただ泣き叫ぶことしかできない境地に立たされます。

しかし、今この死の行進を前にして、主イエスがそこにおられます。葬列者は主イエスを通り過ぎようとしたかも知れない、でも、主イエスはこの行進を引き留めたのです。墓地という死の世界への行進を引き留めた。そして、何をされたか。まず何をされたかということです。このやもめを「憐れんだ」のです。前の説教でお話ししましたが、ここで使われている「憐れむ」という言葉の元の意味は、「はらわたが痛む」という意味です。主イエスが痛まれる、神が痛む思いを持って、このやもめに愛の目を向けている、主イエスを通して出会って下さっている。そして「もう泣かなくともよい」と言われた。これから一人息子が埋葬されるという究極の悲しみの只中で、主イエスはやもめに言われたのです。死の行進を引き留めただけではない、それを押しかえそうするほどの力と慰めのあるお言葉。死の力に対するいのちの御言葉として、このやもめに語られ、人々は聞いているのです。主イエスは棺に手を触れて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われ、一人息子を生き返らせました。その一人息子にいのちを与えられ、やもめにお返しになったのです。死の力を打ち破ったキリストが、今このやもめを憐れまれ、共におられる。死に向かって歩むいのちを見出すのではなく、このキリストと共に歩むいのちを見出すようにと、このやもめに目を向けているのです。ただ生きるだけのいのちではなくて、生きていく力を与えられた希望のいのちに新しく生きなさいとこのやもめを招いておられるのです。

主イエスの力に驚きの反応を示したのはやもめではなく、人々でした。彼らは主イエスを恐れ賛美しているのです。自分たちもまたこのやもめに付き添い、寄り添いつつも、人生の途上において、ただ死へと向かう道のりを歩んでいた。やもめと共に死の行進を進まざるえなかった自分たちにも、はっきりと神の憐れみを見出した。死の行進を引き留め、これを押し返したいのちの御言葉を聞くことができた。「神はその民を心にかけてくださった」のです。神が顧みてくださったのです。主イエスの視点はやもめだけに留まらなかった。自分たちイスラエルの民にも、神は痛まれ、その救いの御手を差し伸べておられる。神から離れ続けてきた、罪にまみれた民を、神様は顧みて下さると喜んでいたことでしょう。人々は方々に、このキリストを伝えて行ったのです。

私たちも彼らと同じように、死への行進を突き進んでいる途上で、それは人生における様々な痛み、悲しみ、苦しみを担いながら生きている途上で、主イエスを横切って通りすぎようとする私たちに、主イエスは出会って下さり、私たちは憐れみを知りました。憐れみの中に、真のいのちを知りました。そして、主イエスを信じ、招かれて洗礼を受け、古い自分に死に、キリストと共に新しい生を歩んでおられる方がいます。まだ洗礼を受けておられない方も、今このキリストの憐れみが向けられ、真のいのちに招かれているのです

私たちはいづれ、肉体的な死を迎えなくてはなりません。この生き返った若者もいづれはまた死んだことでしょう。目に見える肉体的な死を経験するということにおいて、私たちは死への行進を歩んでいるのです。しかし、この行進の行きつく先は墓ではありません。キリストの下へと繋がっています。キリストの下に向かう希望への道、その信仰の旅路を私たちは歩んでいるのです。

私たちはいついのちを失うかわかりません。そのいのちより大切なものはないと思い、そのいづれは失われるこの世のいのちにだけ目を奪われるならば、私たちは痛み、悲しみ、苦しみを体験するごとに、生きる力をなくすでしょう。私たちにいのちを与え、ただありのままに私たちを憐れまれ、愛される方、主イエスキリストと出会い、このお方にいのちを委ねるならば、私たちはいづれ朽ち果てるこの世のいのちに優る尊き恵み、真のいのちを知ることができます。真に私たちを生かしてくださる恵みを知り、生きる力を得ることができるのです。それは決して平坦な道ではありません。試練の連続かも知れません。みすぼらしくて、愚かで、無力な自分と常に向き合わなくてはなりません。とても辛いかも知れない。辛いけれど、それは私たちの生きる力の本質ではありません。それらは表面的なことに過ぎないのです。主の憐れみはどれほど深い事か。私たちの心に、魂の奥底にいのちを与える方なのです。

だから私は最後に言います。いのちよりも大切な賜物を私は知った。主と共に生きているのが嬉しいと。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年6月16日 聖霊降臨後第4主日 「好きになれない人と気持ちの良い関係を築くには」

ルカによる福音書7章1〜10節
白井 幸子先生 (講壇奉仕、ルーテル学院大学臨床心理学科教授)

1.好きになれないと思う時には理由があります。
(1)S.フロイト「その人を見ると子どもの頃、好きになれなかった人(両親、祖父母、親戚の人など)の嫌な部分を無意識のうちに思い起こすからだ。もっと深く読みますと、その人を見ると自分自身の嫌な面を思い起こすから」だと。
(2)やり取りが交差しているか、隠されたやりとりをしているから
1)相補的なやり取りーー期待した自我状態から期待した反応が得られる
2)交差したやり取りーー期待した自我状態から期待した反応を返さず、
交差してしまう。その時点でコミュニケーションは中断するか、話題が変わる。
(3)隠されたやり取りー言葉に表現された社会的メッセージの裏に、言葉に表現さ
れない、心理的メッセージが非言語的に飛び交い、隠された心理的メッセージ
が相手行動に駆り立てる。
(4)絞首台の交流
(5)メーラビアンという言語学者によるとコミュニケーションにおいて相手に理解してもらえる程度は:
言語―7%、準言語―38%、身体言語―55%

2.人格適応論
「6つの親の養育スタイル」があり、「6つの人格適応タイプ」がある。
(1)創造的夢想家(スキゾイド型)――親があてにならなかった
(2)魅力ある操作者(反社会型)――親が子どもと権力闘争
(3)一貫性欠如(パラノイド)――同じことをしても親の気分次第で受容的であった
り、拒否的であったりする。
(4)おどけた反抗者(受動攻撃型)――支配的で子どもへのコントロールが強すぎた。
(5)目的達成重視型(強迫観念型)――目的を達成しようと絶えず、努力する。
病気になるまで辞めない。
(6)熱狂的過剰反応者(演技型)――可愛いこと、人を喜ばすことを強調する。

3.気の合う適応タイプと気の合わない適応タイプがある。
強迫(男性)――受動攻撃型(女性)
パラノイド(男性)――演技型(女性)
反社会性(男性)――パラノイド(女性)

4.代表システムの違い

5.理解すれば受け入れられるようになります。人は自分を受け入れる程度に応じて人をも受け入れるし、自分を好きになる程度に応じて人を好きになります。理解すれば受け入れられるし、また、ゆるすこともできます。

6.気持ちのよい人間関係とは
自分の欲するストロークをいつも人から得られ、人にもその人の欲しているストロークを与え、互いに肯定的ストロークを交換し合うこと。

7.キリスト教を信じるものは、人からストロークを得られなくとも、神から、絶対的なストロークを得ている。今、これからの時も

2013年6月9日 聖霊降臨後第3主日 「自分を知る」

ルカによる福音書6章37〜49節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

私が高校生の時、マザーテレサの特集がテレビで放送されていたのを見たことがあります。その特集の中で紹介されていたのですが、ある時、彼女はある人に こう語ったそうです。「人は私のことを聖人だとか敬虔深い人だと言いますが、私はただの罪人です」。「私はただの罪人です。」当時この言葉を聞いた私は、 彼女のような立派な人でも、このように謙虚な態度でおられるということに感銘を覚えたものでした。当時私自身はまだキリスト教に少し関心を持ち始めていた だけなので、「罪人」という意味をよく理解はしていなかった故にそう思ったことでした。しかし、彼女は謙虚な態度であの言葉を述べたのではなく、(もちろん謙虚さもあるでしょうが)他人から聖人と言われようと、自分は神様との関係において、自分自身は神様から離れている罪人に過ぎないという告白をしていた、強いて言えば悔い改めていたのだと、後になって私は理解致しました。Read more

2013年6月2日 聖霊降臨後第2主日 「敵を愛す」

ルカによる福音書6章27〜36節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「敵を愛しなさい、憎む者に親切にしなさい、悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」主イエスはこう言われました。包括して、「敵を愛しなさい」という教えです。キリスト教の「崇高な教え」として、まるで天然記念物を扱うかの如く、この教えが大事にされているというイメージを、まずは取り払い、御言葉に集中していただきたい。世間のイメージと重ね合わせますと、ますますこの教えの意味がわからなくなり、混乱するからです。そのイメージがこの教えをより「難解」なものに作り上げられてしまっている気が致します。これは御言葉を聞く私たちの問題なのです。そして、愛するということは好き嫌いではないということです。

さて、御言葉に聞いてまいりますが、ルーテル教会が発行している「聖書日課」の今日の箇所には、このような解説が記されています。「27節に敵を愛すと書かれています。直訳はあなたがたは愛しなさい、あなたがたの敵たちをです。敵というギリシャ語は憎しみという言葉から派生していて、憎まれているとか敵視されているという意味での敵です。あなたがたが敵視しているではありません。あなたがたが敵視されているのです。そのあなたがたの敵たちをあなたがたは愛せとイエスさまは言われます。」と解説しています。直訳の解説を含めて、「あなたがたが敵視されている」という解説は的を得ていることだと私も思います。その根拠は、この福音書が書かれた時の時代背景、特に教会をとりまく周囲の状況から察することができるからです。当時は、まだキリスト教が公認されていない、激しい迫害の只中にあった時代です。周りはキリスト教会を敵視、憎んでいる勢力だらけであった。ローマ帝国やユダヤ教は特にそうでした。自分たちを憎み、迫害する者たちが後を絶たない状態です。それはまた、外部だけに存在した問題ではありません。教会内部でもたくさんの問題があり、意見の違いなどから会員同士で敵視、憎み合うことはよくあったことでしょう。コリントの手紙などを読みますと、よくわかりますが、実にパウロは、生涯の宣教活動の中で、この外と内からの勢力、圧力に常に苦悩されていたことかと思います。

主イエスのこの教えを聞いた当時の教会の人々は、どのような想いにあったのでしょうか。今日の福音書の箇所は、主イエスの「平地の説教」と言われる場面です。マタイ福音書の山上の説教とは異なり、ルカ福音書では、主イエスは山から降りてきて、弟子たちと群衆に教えておられます。そしてすぐ前の6章20節の「幸いと不幸」の教えからは、特に弟子たちに目を向けて主イエスは話しておられます。群衆もたくさんいたでしょうが、まず何よりも初めに、弟子たちに語るのです。「敵を愛せ」と。当時の教会の人々は、自分たちの姿をこの弟子たちに重ね、この教えを聞いていたことでしょう。自分たちを敵視し、迫害するローマ帝国やユダヤ教の人々を愛せと。そう彼らは受け取ったはずです。そして、私たちと同じように、この教えを聞いて、彼らも戸惑ったかも知れないですし、困惑したかもしれません。でも、この教えを無視して、敵を憎み、武器を取って立ち上がろうとはしなかったのです。もちろん、ささいや小競り合いはあったかも知れない、しかし、彼らの信仰告白は、この主イエスの教えを土台としていたに違いないでしょう。その結果彼らは何をしたか、いやされたのか、それは殉教していったということです。殉教、それは単に「死」を意味することではなく、その人を通して、キリストを証ししたということです。殉教した人の姿を通して、キリストが真にそこにおられると人々は受け止めたことでしょう。あの敵を愛せと言われたキリストがそこにおられる。十字架を通して、とことん敵を愛し抜かれたキリスト、このキリストの十字架こそが私たちの救いとなった。赦しとなった。神に敵対していた私たちへの赦し、それが愛の実践となって、生きる活力となった。そう断言できるのは、キリストが復活したからです。敵を愛し抜き、敵から殺されてそれで終わったのではないということです。敵を愛すその「愛」は敗北し、死んでしまったのではない。最後に残ったのは、憎しみではなく、愛だからです。復活がまさにそのことを語っています。愛が憎しみに勝ったのです。人々は信じたことでしょう。そこに希望を抱いたことでしょう。敵を愛せと言われた主イエスの言葉の中に、人々は真理を悟ったはずです。

しかし、現代の私たちはキリスト教の歴史を知っています。それもキリスト教が公認されてから現代に至るまで、キリスト教が、教会がやってきた様々な問題と向き合わなければなりません。十字軍は掠奪と侵略の歴史を作りました。キリスト教国は互いに愛し合うどころか、戦争を繰り返してきました。今もそうです。敵を憎む歴史、その歩みそのものです。主イエスの教えと全く反対の歩みを成してきているではないかと、批判される。真にその通りです。罪の歴史があります。でも大切なことはその罪を知る事です。敵を愛せないという罪です。そう、私たちは真に敵を愛せない、人間の力では、その思いの中ではそうです。愛であられる方のとりなしなくして、愛の世界には生きれない、いやその愛の世界を見出すことができないのです。ここはエデンではない。エデンの園から追放された人たちが生きる世界です。憎しみに満ちている世界です。クリスチャンであろうと、なかろうと全て肉なる存在は、この世界に生きています。憎しみがあり、憎しみが増す世界。その勢力は偉大で、人間の心もそこに縛り付けられているのです。だから、自分を愛してくれる人を愛することで、精一杯なのです。さらに、精一杯どころか、自分がその人に愛されていると確認しなくては不安で不安でしょうがないという思いに苛まれることだってあります。さらにまた、時に自分を愛してくれる人でさえ、愛せなくなることがあります。その逆もあります。愛の領分というものを、自分のはかりではかってしまうからです。そこにはやはり、「憎しみ」という力が働くからでありましょう。憎む者をも自分のはかりで作ってしまうという現実があるのです。

改めて、考えさせられます。私たちは「敵を愛する」ことなど到底できないと判断してしまいます。だからと言って、「敵を憎む」ということを願っているのでしょうか。憎まずにはおられないということはわかります。その思いは私にもあるからです。しかし、「憎む」ということを心の底から願っているわけではない。「致し方なく」と言う思いがどこかにあるはずなのです。憎しみに歯止めが利かなくなり、敵を増やしてしまうという状況にあっても、それを決して望んでいるわけではない。むしろ、本当は敵を憎まざるえない、敵を愛せないという自分自身こそが、まず愛されたいという思いがあるのではないでしょうか。愛を受けたい、愛を知りたい。愛の只中に生きていきたい。敵を愛すなんて不可能だと一蹴してしまう自分の思いの中に、むしろ自分こそ愛されたいと思っている。自分も敵から憎まれている。そういった緊張関係を感じる中でこそ、神経を尖らせている時にこそ、真の愛をお互いが、憎み合う者同士が願っているのです。

私たちが生きる世界、憎しみが蔓延している闇の世界に、神の御子イエスキリストは光としてこの世界に降ってきてくださいました。その父なる神様の御心、ご意志を聞いてください。ヨハネによる福音書3章16節―17節です。「03:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 03:17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」この世界を愛されるがために、私たち一人一人を愛されるがために、愛する自分の子どもを送って下さった。大切な宝物を贈って下さった。罪故に神様から離れ、神様に敵対していた人間を愛するためにです。敵を愛する、それこそがこの世を救うことであると、父なる神様は愛のご意志を、主イエスを通して示されました。主イエスのご生涯、それは愛のご生涯とも言えるでしょう。パウロはフィリピの信徒への手紙2章6-8節でこう言います。「02:06キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 02:07かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 02:08へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」自分を無にして、へりくだって、死に至るまで、その道を歩まれた。誰のためにか、無論私たちのためにです。この信仰告白とも取れる御言葉の中に、主イエスの、神様の全き愛が示されているのです。そして、大切なことは、主イエスは「人となった」ということです。私たちと同じように。それどころか、何の力ももたない「無力な人」として。でも、主イエスはただ私たちに愛を携えに来られたということだけでなく、御自身が父なる神様から愛されているということを生涯語られるのです。主イエスはその愛に信頼していたと言えるでしょう。

またパウロは、コロサイの信徒への手紙3章14節でこう言います。「愛は全てを完成させるきずな」であると。この全てということの中に、敵への愛が込められています。主イエスのご生涯、それが愛のご生涯であるということは、御自身の十字架と復活によって明らかになるのです。愛だけが残り、愛が全てに勝る。好き嫌いはあっても、愛だけが真実を諭してくださいます。

主イエスは36節でこう言われます。「06:36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」父なる神様の憐れみ、その深さはこの方、キリストを通して私たちに示されています。愛に困窮し、憎しみに縛られる私たちを救われるために、キリストは同じ人となって、私たちに絶ええない愛を、御言葉と行いを通して、どこまでも憐れみを持って教えてくださるのです。その憐れみを知った者、弟子たちにまずキリストが語られているということに注目してください。あなたがたも憐れみ深い者となりなさいと言われます。主イエスは弟子たちに憎しみに縛られている人に、愛を示しなさいと言われるかの如く、弟子たちに語られます。弟子たちは愛を知っているからです。

敵を愛しなさい。どこまでいっても、私たち人間には到底守れそうにない教えです。自分の思いの中ではきっとそうかも知れません。しかし、主イエスは私たちを、敵を愛するという新しい愛の歩み、生き方を教えてくださいました。そう、新しい教え、新しい歩みです。それができるのは、すべてを完成させる愛のきずなに他ならない。自分自身がこの愛のご支配の中で生かされていると信じたい。敵を愛する、それができるのは、愛に信頼することです。憎しみに勝る愛を信じる時、私たちは敵を愛することができるのです。

主イエスの十字架と復活を通して、御自身が私たちのためにどこまでもへりくだってくださる御姿を通して、憎しみに勝る者を私たちは知っています。未だに、憎しみはあります。至る所であります。しかし、愛の灯はそれに勝る。主イエスの愛を知る私たちが、その愛の灯を灯し続けるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。