2012年3月18日 四旬節第4主日 「永遠の命を得る」

ヨハネによる福音書3章13〜21節
説教: 高野 公雄 師

天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

ヨハネによる福音書3章13〜21節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、イエスさまとニコデモとの問答の後半部分です。ニコデモという人は、3章1に、ファリサイ派の属する者、ユダヤ人たちの議員であったと紹介されています。つまり、ユダヤ人の国会である最高法院の議員七十人のひとりで、当時のユダヤ人社会の有力者です。そのニコデモが、人目をはばかって夜ひそかにイエスさまに会いにきます。教えを受けるためでしょう。イエスさまは彼に《はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない》(3節)と教えを説きます。《するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか》(9~10節)。こういう会話の続きとして、きょうの福音は語られています。

ところで、二千年前のギリシア語原文には句読点もカギ括弧もなく、白文つまり返り点などの付いていない漢文と同じようにべた書きです。聖書学者が、白文のどこが文の切れ目か、どこが段落の切れ目か、また、どこが話者のセリフで、どこが著者の地の文か、と著者の思いを読み解いて、各国語に翻訳する元になる校訂本を作っているのですが、きょうの福音は解釈が分かれ、検討が続けられている個所です。私たちが用いている新共同訳聖書では16節で改行されてはいるものの、21節まで全部がイエスさまの言葉とされています。しかし、新改訳聖書とか岩波書店版などでは、イエスさまの言葉は15節で閉じられ、16~21節はカギ括弧の外に出されて、著者ヨハネがイエスさまの言葉の真意を解き明かす地の文とされています。「人の子」がイエスさまの自称なら、16節以下は地の文なのかも知れません。どちらを採るか、微妙です。

《天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである》。

ここで、イエスさまはご自分の使命を、旧約聖書にある故事を引き合いに出して述べています。先ほど第一朗読で聞いた個所、民数記21章に書かれている出来事です。紀元前13世紀のことですが、イエスラエルの民はエジプトで塗炭の苦しみにあえぐ奴隷でした。彼らの嘆きの叫びを聞いた神は、モーセを指導者として送り、エジプトから脱出させます。イスラエルの人々は、エジプト人の奴隷から自由な身分へと解放されます。ところが、脱出した先は、荒れ野です。彼らは水にも食べ物にも不自由し始めます。そのとたんに、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、エジプトにいた時の苦難も、そこから救い出された喜びも忘れて、目先の苦労からただ逃れたくて、彼らは「何のために自分たちをこんなところに引っ張り出したのだ」とモーセと神に食ってかかります。神は毒ヘビを送って民をいましめます。民はモーセに助けを求め、モーセは神にとりなします。すると、神はモーセに「青銅でヘビを造り、旗竿の先に掲げよ、ヘビに嚙まれた者がこれを見上げると救われる」と約束されました。

民は、空腹な自由人であるよりも、奴隷でもいいから旨いものを食いたいと言います。なんと卑しい根性なんだろうと思いますが、私たちも自分の思いを振り返ってみれば、本音は同じようなものではないでしょうか。旗竿に掲げられた青銅のヘビは、そういうげすな者、不信実な者をも見捨てず、なおも愛し続ける神の信実な心の現われです。この昔の出来事は、「人の子」つまりイエスさまの十字架に人間に対する神の究極の愛を見、信頼を持って十字架を仰ぐ者は皆、救われる、神の国に入る、永遠の命を得ることを前もって証ししていたのです。

ここで、もうひとつの点に目を向けたいと思います。《人の子も上げられねばならない》とは、イエスさまが十字架の木に架けられることを指しているのですが、その前に《天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない》という言葉があります。これはイエスさまが天に上げられて誉れを得たこと、高挙を意味しています。「上げる」という言葉は、物理的にものを持ち上げるという意味と、精神的に人格が高く評価されるという意味とを持っています。著者ヨハネは、二重の意味をもつ言葉を利用して、イエスさまが十字架に釘づけにされて高く上げられたことと、イエスさまが天に上げられて神の右の座を与えられたこととはひとつであるという理解を示しています。首を垂れて瀕死の十字架像の他に、しっかり顔を上げて、両手を大きく広げて、私たちに祝福を与えているような、私たちをみ許に招いているような十字架像があるのをご存じでしょう。それがヨハネが強調する十字架像です。イエスさまは人間の救いのために天から降って人となり、十字架上で救いのわざを完成して、再び神の許へと帰っていたお方である、とヨハネは言っているのです。

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。

これが福音中の福音と言われる有名なヨハネ3章16です。キリスト教とは何か、それを一言で表わすのがこの一節です。創世記22章に、神がアブラハムに一人息子のイサクを献げ物としてささげよとお命じになった記事がありますが、ここでは神自らが独り子を与えて、私たちを永遠の命へと招いてくださっている、と説かれています。十字架は人に対する神の愛の究極の姿です。イエスさまはモーセのような偉大な指導者であるどころか、全人類に対する神からの唯一無比の、最善の贈り物であり、いのちの言葉そのものだ、これが著者ヨハネの信仰です。

《神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである》。

この言葉は、前節の言い換えですが、新しい考え方をも含んでいます。それは、「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」という言葉に如実に表われています。どういうことかと言いますと、どの宗教でも、「救い」とか「裁き」は、将来死んだ後で天国に入るとか地獄に落ちることと教えています。ところが著者ヨハネによりますと、神の御子イエスさまのことが宣べ伝えられている今この時、将来の裁きが今すでに行われるのだというのです。イエスさまを救い主と信じる者は今すでに救われ、私たちの有限な命において、神の永遠の命にあずかれるし、信じない者は救いのなさを手にして生きることになるというのです。このことを、ヨハネはさらに次のように言い直して述べています。

《光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために》。

私たちは、ものごとを判断するとき、何が神のみ心であるかまっさきに考えるでしょうか、それとも、そんなことは無視して、他人を蹴落としてでも、自分がしたいこと、自分が得をすることを第一に考えるでしょうか。神の愛、神の信実な心を自分のためと知り、それを喜びと感謝をもって受け入れる人は、つまり信じる人は救われます。物の見方、考え方が変わり、自分が変わります。人生が明るくなります。イエスさまの福音は、誰か他人が救われるか裁かれるかという問題ではありません。徹頭徹尾、自分が問題です。神の愛、イエスさまの恵みが自分に注がれていること、そこに自分の光と救いと命があると信じることが問題です。それに目が開かれること、気づくことがすべてです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年3月11日 四旬節第3主日 「真の神殿とは」

ヨハネによる福音書2章13〜22節
説教: 高野 公雄 師

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

ヨハネによる福音書2章13〜22節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、イエスさまがエルサレムの神殿で犠牲として捧げる動物を売っている店や両替の店を境内から追い出した出来事とその意味について、イエスさまご自身が語っている個所です。この事件は従来、「宮潔め(みやきよめ)」という名で呼ばれてきました。

聖書に親しんでいる人はすでにお気づきでしょうが、他の福音書では、イエスさまはずっとガリラヤ地方で活動していて、最後に一度だけエルサレムの都に上り、そこでこの「宮潔め」を行ないます。そして、そのことが直接のきっかけとなって逮捕され、十字架刑によって殺されることになります。このことは、小見出しの下にある参照個所、つまりマタイ21章、マルコ11章、ルカ19章に共通して描かれています。

ところが、ヨハネ福音では、イエスさまは活動の初期に、過越祭のころエルサレムに上り、この事件を引き起こします。また、過越祭はほかにも6章と11章に現われますし、最後も過越祭でした。このことから、昔からイエスさまの活動期間は三年間とみなされてきました。しかし近年、福音書に描かれた出来事の順序は必ずしも年代順ではないと考えられるようになり、活動期間は一年とか二年とか短かめにみなされています。

《ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた》。きょうの福音は、この言葉から始まります。過越祭はユダヤ教の巡礼祭です。ユダヤ人の男子はこの祭には毎年エルサレムの神殿に巡礼することが求められていました。なぜなら、過越祭が記念する出来事こそが、イスラエルの民をユダヤ人とし、ユダヤ教徒とした、大事な祭りだからです。

その出来事は、旧約聖書の出エジプト記12章その他数か所に記されています。神はモーセを指導者として立てて、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を紅海を渡ってエジプトを脱出させてくださいました。エジプトを脱出できる決め手となったのは、春分の後の満月の日に神の怒りが降り、エジプト人の初子が殺されるという出来事でした。合理的に考えれば、伝染病が広がったのかも知れません。その際、ユダヤ人たちにはあらかじめ、しるしとして子羊の血を家の入口の鴨居と柱に塗っておけという命令が伝えられており、神はそのしるしの付いた家は通り過ごしたので、ユダヤ人の初子は神の怒りを免れました。この出来事によってユダヤ人たちはエジプトを脱出できたのです。出エジプトの出来事は、奴隷身分の者たちが自由身分への解放された出来事であり、彼らがこの救いの神を信じるユダヤ教徒として新たに自分たちの社会と国を形成する基礎となったのです。

あの日、過越しのために子羊が屠られ、その血が家の入口に塗られて、その家の者たちが救われました。後にイエスさまは過越しの子羊として十字架上で殺されます。これを私たちを救うための出来事、神の愛の真実を証しするわざと信じる者は救われると宣べ伝えられるようになります。ユダヤ教の過越祭と、それに代わるキリスト教の復活祭が対比して並べられているのです。

《そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」》。

ユダヤ人たちは巡礼の旅をして過越祭に神の宮であるエルサレム神殿に上ってきます。そして、神殿に感謝の献げ物をささげます。そのための牛や羊や鳩が、境内で売られていたのです。お賽銭を献る人は、そのために当時流通していたギリシアやローマの通貨を昔のユダヤの貨幣に両替する必要がありました。ローマの通貨には、神として礼拝することを求める皇帝の肖像が刻まれていたからです。それで両替商もいたのです。動物商も両替商も神殿には必要なものではありました。

では、なぜイエスさまはこのような乱暴狼藉を働いたのでしょうか。悪徳商人を懲らしめて、神殿を本来の祈りの場とするためだったのでしょうか。確かにそういう思いもあったでしょう。しかしむしろ、イエスさまは、「宮潔め」において、当時の宗教家たち、政治家たち、実業界の者たちが日頃の対立を越えて利害を共有し、ユダヤ教の行方を、国の行方を危うくしている神殿体制に「否」を言い、新しい信仰、新しい社会のあり方を教えているようです。

イエスさまの行為自体は小さなものに過ぎず、その日のうちに何事もなかったかのように、すっかり元に戻ってしまったことでしょう。イエスさまの行為そのものよりも、ここではその行為に託した象徴的意味を読み取ることが大事なのです。

《弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した》。これは詩編69編10の言葉です。ユダヤ社会の上層にいた人たちは、彼らは主観的には神を思い、国を思っていると自覚していたのでしょう。しかし、実は彼らは神殿を食い物にしていたのです。そういう神殿は必ず滅びてしまいます。彼らは立場の違いを越えて手を結び、イエスさまを亡き者としました。さらに彼らは、祖国が戦争に走るのを止められず、神殿体制は完全に崩壊しました。ユダヤ人たちがローマ帝国に対して仕掛けたユダヤ戦争(66~70年)の結末です。ヨハネが福音書を書いたときには、このことはすでに起こっていました。イエスさまが在世当時は分からなかったのですが、イエスさまの宮潔めは、神殿礼拝の終わりを告げていたのです。イエスさまの出現とともに、すでに新しい神礼拝の時代が始まっていたのです。

《ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである》。

イエスさまにおいて示された神の真実を受け入れない指導層の者たちは不信仰の道を突き進んで、イエスさまを殺すが良かろう、神殿を破壊するが良かろう。だが、イエスさまは十字架上の死と三日目の復活によって、救いの完成を告げる新しい時代を切り開く、新しい神殿を造ると宣言なさっています。この神殿ではもはや牛も羊も鳩も要りません。イエスさまが犠牲となられたからです。

そもそも神殿とは、神の住まいであり、神と人がそこで出会う場所を意味しています。死んで復活したイエスさまにおいて、神は人と共におられ、人は神に出会うことができるのです。神を信じる者が集まって、真の礼拝を献げることができるのは、イエスさまのからだとしての神殿においてです。この神の宮、父の家、イエスさまの身体として教会を、ふたたび商売の家としてはなりません。

私たちのこの世の旅路は、このイエスさまの十字架と復活によって与えられた神の命を求める歩みです。ものが溢れ、また、いろんなシステムが私たちの周りにある中で、私たちはただそれらに流されて生きてしまいます。今あらためて神を見つめ、イエスさまの十字架への歩みに従い、復活に希望を置く生き方をしたい、また、そこからこの世を見つめ直して歩んでいきたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年3月4日 四旬節第2主日 「第三の受難予告」

マルコによる福音書10章32〜45節
説教: 高野 公雄 師

一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

マルコによる福音書10章32〜45節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

いま私たちはイエスさまの死と復活の恵みを深く思う四旬節を迎えていますが、ただ今はマルコ福音書から、第三の受難予告とそれに続くイエスさまが受難と死の意味を語る個所を聞きました。

きょうのマルコ10章の受難予告に前に、8章に第一の、9章に第二の受難予告が記されています。この三回ともイエスさまの予告の後には、弟子の誤解とイエスさまの説明が続きます。8章ではペトロがイエスさまをいさめる大間違いを犯して

2013年3月3日 四旬節第3主日 「悔い改めか滅びか」

ルカによる福音書13章1〜9節
高野 公雄 牧師

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

ルカによる福音書13章1~9節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

《ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。》

ピラトは、ローマ帝国皇帝ティベリウスによってユダヤの総督として任命され、派遣されたローマ人貴族で、イエスさまに十字架刑を言い渡したことで、使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、ニケア信条に「ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけられ」と、その名を残しています。ピラトの統治の仕方が残忍であったことは有名で、その統治に抵抗するユダヤ人が殺されることはよくあったのですが、今回のガリラヤ人グループの事件は特別でした。彼らはただ殺されただけではなく、その血が犠牲動物の血とともに祭壇に注がれたというのです。

このような惨事を私たちはどう考えるべきでしょうか。まず第一に、これはピラトの非道を責めるべきでしょう。私たち自身が殺されることだってありえるのです。ところが、人々はかえって、ガリラヤ人たちがそれに値する悪事をしているのに違いない、「自業自得」なのだ、自分たちはそんな目に遭うはずはない、と死者にむち打つことで自分の不安を打ち消そうとします。「自業自得」とは、自分の行いの報いを自分が受けなければならないという意味の言葉です。同じ意味合いで、「因果応報」とも言います。人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあることを言います。しかし、イエスさまは、ガリラヤ人たちが遭遇した災難は、彼らが悪かったからではない、決してそうではない、とはっきりと否定します。

《また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。》

エルサレムはシオンの丘の上に建つ城壁に囲まれた堅固な町ですが、有事に備えて城壁の中まで地下水道で水が引かれました。それがシロアムの池です。シロアムとは城壁内の南東部の地名です。イエスさまがそこで生まれつき目の見えない人を癒した話がヨハネ福音9章に書かれています。シロアムの池の水は、東の城壁の外のキドロンの谷にあるギホンの泉から地下の水道トンネルによって引かれていました。エルサレム住民にとって水は非常に大切なものですから、池には見張りの塔が建っていたようです。その塔が倒れる事故で18人の命が失われました。彼らは水道トンネルの拡張工事をしていたのであろうと言われています。この事件についても、イエスさまは犠牲者の死は彼らの罪深さゆえの自業自得であるという考えに、「決してそうではない」と強く否定しています。

《言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。》

ピラトの事件も、塔の事故も、自己責任という言葉で片付けることはできません。イエスさまは繰り返して、「決してそうではない」と言っています。ヨハネ9章3に、《本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである》とあったように、不幸に見舞われた人が神の恵みに浴することができるように、私たちは福音の証し人として、また良き隣人として奉仕する課題が示されていると受けとめるべきでしょう。

「あなたがたも悔い改めなければ」という文は、犠牲者たちは悔い改め(神への立ち帰り、回心)がなかったから死んだ、だから、あなたがたも悔い改めなければ同じような目に遭うと読んでしまいそうです。しかし、イエスさまはそういう考え方を明確に否定しています。イエスさまはこの文で、犠牲者の罪深さとは関係なく、「あなたがたは悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と、私たち自身の神への立ち帰り、回心を呼びかけているのです。他人の問題ではなく、私たち自身が問題なのです。また、「滅びる」は、個々人の死よりも、もっと大きな滅びを意味していますが、不幸なことに、この預言は実現してしまいます。紀元70年にエルサレム神殿はローマ軍の攻撃によって崩壊し、ユダヤ人国家は消失してしまいました。著者のルカは、このことはユダヤ人が神に立ち帰らなかった、イエスさまを信じなかった罪の結果として起こったことと考えたようです。

このように、イエスさまは悲惨な出来事の報に接して、それを回心の機会としてとらえよ、と人々に回心を呼びかけています。しかし、問題は、悔い改め、回心を促す方法です。イエスさまが証ししている神は、人に罰を下して、それによって回心を促す、あたかもしごきとか体罰によって鍛えるかのような方法はとりません。そうではなくて、イエスさまは、人々の罪をあがなうご自分のわざを通して一人ひとりに対する神の愛、神の信実を人々に示し、その神の愛、神の信実の力によって人々の心がひるがえるのを促す、そういう仕方をとります。きょうの福音の後半は、このことを「実をのならないいちじくの木」のたとえ話によって強調しています。

《そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」》

ぶどうといちじくは、オリーブとデーツ(なつめやしの実)とともにパレスチナ地方の代表的な産物です。ぶどう畑の隅にいちじくの木を植えることはよくあったようです。畑の主人は三年間待っても実をつけないいちじくを切り倒せと園丁に命じます。しかし園丁は「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」と答えます。園丁は最後に「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言っていますが、これは文字通りの意味にとる必要はなく、待ってやってほしいという願いの篤さを強調する表現と受け取ってよいと思います。

この園丁の態度は何を意味しているでしょうか。洗礼者ヨハネの説教にも同じ比喩を使った言葉があります。《悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる》(ルカ3章8~9)。神に立ち帰り、神の子にふさわしい生活を取り戻しなさい、いまが最後のチャンスだと言っているようです。そして悔い改めに導く方法が、イエスさまのたとえでは、園丁が木の周りを掘って肥しをやってみたいという主人にたいする執り成しです。園丁のこの木への奉仕、それはイエスさまの人々に仕える地上の生活、とくにも罪人をあがなう行為としての十字架上の苦難を表わすものです。斧による裁きが実を結ばない私たちの上に降らず、私たちの裁きが免除されるために、良い園丁であるイエスさまはご自分が斧の裁きを受けたのです。実を結ぶように私たちに施される肥しは、イエスさまの御体と御血にほかなりません。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである》(ヨハネ3章16~17)。

私たち一人ひとりに対するイエスさまの深く大きな愛、それは人間に対する神の信実を表わしています。神さまのこの篤い思いに促されて、私たちは神に立ち帰り、神の子としてふさわしく、神を敬い、隣人に奉仕する生活へと成長させていただけるように、イエスさまの心を私たちのうちに注入してくださるように、神に祈りましょう。

「神よ、私のために・・」と毎週うたう奉献唱の言葉を思い出します。《神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください》(詩編51編12~14)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。