2011年2月6日 顕現節第6主日 「新しい戒め」

マタイによる福音書5章21〜37節
説教: 安藤 政泰 牧師

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
マタイによる福音書5章21〜37節


私達は律法により救われるのではなく、信仰によって救われるのである、と言うことは良く知っています。信仰さえ持てばどのような事をしても良いのでしょうか。私達には律法は必要無いのでしょうか。よく律法は私達に罪を示してくれる、と言います。しかし、律法の役割はただそれだけなのでしょうか。

私たちには律法と福音が共に同じ様に与えられています。今日はその律法について考えてみましょう。

日曜ごとに聖餐に預かっています。礼拝式文を見ていただくと、アグヌスデイの直前に平和の挨拶を交わします。それは文字通り23・24節の聖書の言葉の具体化です。

「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇のまえに残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」

主の聖餐に預かる前にまず互いに主の平安を願い祈り、安らかな気持ちで聖餐を受けます。この聖餐はわたくしたちが、神による家族である証明です。私達はこの主イエスの食卓を囲む家族なのです。前提とされる事は人と人との和解です。しかも、神の前における和解です。このように聖書が示す律法は礼拝の中で具体的に表現されています。それでは聖書が示している律法は私達の日常の生活にどのように拘わり合ってくるのでしょうか。

マタイによる福音書はユダヤ人を対象にして記されたと言われています。律法を守ことに誠実なユダヤの人々を対象としただけあって、特に律法にはきびしくなっているように感じられます。一方、主イエスは神の許しを私達に示しておられます。そのイエスの教えに、ユダヤ人たちは、律法を無視して、自分達の努力を評価しない、として、イエスを十字架にまで追いやるのです。

主イエスの示される律法の成就とは、神の主権の宣言です。

律法は人間の自己完成の道具ではありません。

神のみ心を行う道人が心をこめて歩く道です。

それによって直接救いに入れるか否かにわかれる、そのようなものではありません。律法は人が心をこめて歩く道、それはルターの小教理問答書の十戒の解説によくあらわされています。禁止として記されている律法を前向きに、積極的に受け止めようとしています。どうかこのルターの精神を私達の日常の生活の中で実践したいと願います。

2011年1月30日 顕現節第5主日 「山の上にある町」

マタイによる福音書5章13〜16節
説教: 北川 逸英 神学生

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
マタイによる福音書5章13〜16節


「あなたがたは地の塩である」山の上でイエスさまは弟子たちに対して語られました。塩とは、一体、何を意味するのでしょう。料理にとって塩は大切なものです。私たちは塩気のない料理を味気なく感じます。しかしまた、塩気の強い料理は食べることが出来ません。塩味を決めることが、料理人の大きな仕事です。そのために料理人は、さまざまな塩を、その食材と調理法に合わせて選びます。海の塩、山の塩、塩はそれぞれ、色も味も多種多様であります。料理の塩加減は、食べる時の温度と、食材の口触り、そして食材全体の甘さや、辛さ、酸味、苦み、全体の調和で決まります。そして塩加減は、使う塩の種類によって、大きな違いが出ます。海から取られた塩でも、その海域や製法によって様々な味の違いがあります。岩塩も、その採取場所によって、色も味わいも様々です。料理人は作る料理に合わせて、ふさわしい塩を選び、適量を、適所に加えます。塩は素材に溶け込んで働きます。肉や魚に当てる塩は、味付けだけでなく保存の働きもします。塩は他の食材を引き立てる存在なのです。塩だけでは料理になりません。また塩は毒性も持っています。定量以上の塩を取ると、生物は死にます。しかし全く塩を取らなければ、また私たちは動くことが出来ません。塩は私たちの生命に深く関わるものなのです。

 

塩が大切なものであることはわかりました。しかし、いまや私たちはいながらにして、上はヒマラヤ山脈のマグマ塩から、下は死海の海底にある塩まで世界中のさまざまな塩を買うことができます。では「あなたがたは地の塩である」とイエスさまが言われている、地の塩とはどんな塩なのでしょう。どうも私は消費文化に毒されたようです。「地の塩」とは、商品ブランドのように、他と区別する言葉ではありません。イエスさまは地の塩を、世の光と並べて言い表されます。それはこの世のどこにでもある、しかし大切なものです。そして互いに個性を持ちながら、その場で用いられるために、神さまによって用意されたものです。そしてあなたがたはそれであると、イエスさまが私たちに語られたみ言葉です。

「地の塩」は特別などこかの場所で見つかるものではありません。どこの家にも置かれている、普通の塩壺に入れられた塩なのです。食塩は器に入れて置かないと湿気ってしまいます。そして使われる時に取り出されて、食材と混ぜ合わされるのです。ですから塩が料理に用いられる時には、塩が素材とよく解け合うことが大切です。それが塩の役目です。ですから「地の塩」であるとは、調和をあらわします。塩がいつまでも固い結晶のままでは、口触りも悪く、味も強過ぎます。塩は自らの形を消して、全体にまんべんなく行き渡らなければなりません。そして素材の中に染み込んで鮮度を保ち、その持ち味を邪魔することなく、引き出す働きが求められます。

しかし光は違います。光は闇の中をまっすぐに進みます。光が闇に溶け込んでいくことはありません。そしてそこに置かれた物とぶつかって、その形や色をはっきりと照らし出します。闇と光は混じり合うことはありません。光は闇に向けて放たれていきます。そして闇を切り裂いていくのです。ですから、ともし火は燭台の上に置かれて、すべてを照らし出します。当時のともし火はオリーブオイルの中に灯芯を置いて、火を付けていたようです。そしてこのともし火は燭台の上に置かれます。この世の光をイエスさまは「山の上にある町」と表現されました。そして「山の上にある町は隠れることができない」と言われるのです。山は聖なる場所です。人はそこで神と出会います。モーセもアブラハムも、山の上で神と出会いました。山の上にある町とは聖なる光のある場所、私たちのこの教会です。聖霊によって集められた教会こそが、山の上にある町なのです。

私がこの教会にはじめて来た時は夜でした。翌朝カーテンを開いてけやき坂を望んだ時、「ここは山の上にある」そのように思いました。この六本木教会こそ「山の上の町」であります。60年前、主はこの地を選んで、聖霊の働きによって人々を集められたのです。それは今ここにおられる方々皆様が、今日ここで読まれた「地の塩、世の光」となられるためです。「山の上にある町は、隠れることができない」そのように主は言われます。教会は隠れることができません。それは光を放って、輝いているからです。教会の中に灯された聖霊の火は、消えることがありません。

確かに私たちは今、試練の中にあります。様々な思いもよらない出来事が、私たちを取り囲み、私たちは不安になります。闇が周りを囲んでいる。いっそどこかに隠れようか。そのように思うことすらあります。しかし主は言われます。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。またともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」

主は私たちに信仰をあたえて下さいました。主は私たちに希望を与えて下さいました。そして主は私たちに愛を与えて下さいました。私たちがともし火として、主によって燭台の上に置かれるのです。すでにみことばによって、信仰の火はともされています。私たちに新しい希望も示されています。私たち教会はいま互いに愛をもって仕え合うことを、主によって求められております。そしてこれこそが「家の中のものすべてを照らす」とイエスさまが、私たちに与えられた約束の言葉です。いま見える力が確実に働いて下さるのです。そして主は言われます。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」

私たちの光とは何でしょう。それは私たちのイエス・キリストです。私たちの立派な行いとは何でしょうか。それは私たちのイエス・キリストへの服従です。私たちのイエス・キリストの十字架による救いの業です。これにより私たちの主イエスは「あなたがたの天の父を、人々があがめるようになる」と言われています。私たちはこのみことばによって、もっと大胆に、私たちの光であるイエス・キリストを、人々の前に輝かせて行きましょう。私たちは塩のように、この世に溶けて行き用いられるのです。私たちの中心にはいつでも、イエスさまのみことばがあります。それを説き明かす説教と、見える形で分かち合われる聖礼典があります。私たちは今、屋根に輝く十字架の下に集まって、一つのテーブルを囲み、聖餐の喜びを共にします。主よどうかこの教会を祝してお守り下さい。私たちの教会がこの試練の時を乗り越えて一つとなり、さらに大きな発展を遂げる事ができますように、私たちに宣教の賜物をお与え下さい。私たちがただ、主を信頼し、いかなる時も、愛をもって互いに仕え合う群れとしてください。そして私たちのひとりひとりをあなたの道具として用いてください。あなたからの光をお与え下さい。

2011年1月23日 顕現節第4主日 「弟子の召命」

マタイによる福音書4章18〜25節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆四人の漁師を弟子にする

4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

◆おびただしい病人をいやす

4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。

4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

マタイによる福音書4章18〜25節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

おおよそ30歳頃、イエはいよいよご自分の使命に進むこととなり、その準備の場面が今日の福音書です。イエスはガリラヤでの伝道を開始します。その準備とはご自分働きを助ける弟子を集めることでした。最初の弟子の召命がありました。召命とは、ある使命を果たすよう神から呼びかけられることを言います。イエスの弟子とはイエスと共に福音を述べ伝えるために呼ばれたものです。イエスは弟子たちと共に、各地に福音を伝えて歩かれました。それは福音書という書物に書かれています。

少し学問的なことを話します。新約聖書には四つの福音者があります。順番に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。ふつう、最初の福音書はマルコといわれています。(AD70年)。私はそうは思いませんが、学者の一般的な意見です。福音書には「~~による福音書」と書いた人の名前がありますが、元々はなかったようです。後から付いたものです。ですから、著者について疑問視出来ますが、マルコの福音書は、昔からマルコが書いたと伝承されていますから、そう取ってもいいでしょう。マルコは伝説ではパウロやペトロと共に働いています。のちにペトロの通訳として働き、ペトロから聞いたイエスの言行を記憶する限り正しく書き記したので。彼はマルコの福音書の記者といわれています。(エウセビオス・教会史)。マタイは徴税人マタイ・・イエスに召された・・と言われています。ルカは医師ルカが、使徒言行録と共に書いたと言われています。ヨハネは最初の弟子ヨハネと言われています。異論がありますが、古くからの伝承です。

それぞれの福音書は、単にイエスの伝記(ただ、個人一生の事績を中心とした記録)を書こうというのではなく、確信を持って「イエスは神の子であり、キリストである」ということを伝えようとして書かれました。イエス・キリストはBC6年前後に生まれ、AD33年から32年の間に、エルサレムの西北のゴルゴダの丘で処刑・十字架刑・されたのですが、そのイエスを「救い主」として信じるという意味です。イエスこそがキリストであり、神の光と恵みとに満ちた方であるのです。「神の子」とか「キリスト」とはですが、これらの福音書を読んで行くと分かりますが、今は、イエスは「神から遣わされた決定的な人類の救い主」というくらいに理解しておきます。

イエスは「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われ」(マルコ1:15)て、伝道を始めています。「神の福音」ですが、神から、神についての「福音」です。「福音」とはギリシャ語で「エウアンゲリオン」ですが、英語ではGospel・Good News です。日本語では「良い知らせ・喜ばしいしらせ」です。この言葉は人々が戦争やマラソンの結果はいかにと待っているときに、「勝ったぞ!、優勝したぞ!」という喜びの知らせ、それが「福音」と言う意味です。福音書を書いた弟子たちは、イエスの喜びの知らせ、あるいは、イエスに関する本当の喜びの知らせを・・自分たちの見た、経験した喜びの知らせを書いたのです。

私たちは福音書を通してイエスを知り、見ることが出来ます。そのイエスは二千年前にローマ帝国の広大な支配の片隅・パレスチナで、当時の人々が持っていた問題と真っ向から向かい合っていた一人の人でした。貧し姿ですから、救い主という感じをしないようであったでしょう。しかし、イエスは多くの人々に救いの希望を与えましたが、最後には、弟子たちに裏切られ、死刑になったのです。

私たちはそのイエスを見つめていこうとしています。イエスを どんな目で見るかですが、イエスを過去の方・・二千年前に「神の喜びの言葉を語り、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、あらゆる病人をいやされた(マタ4:24)過去の偉大な宗教家・・と見ているわけではありません。イエスの出来事は「終わった出来事」ではないのです。イエスの言葉は過去のメッセージではないのです。

私たちはイエスを過去の方ではなく、今 私たちの中にイエスは生きていて、私たちに語りかけ、救いの手を差し出している神からの救い主として受け止めるのです。あのイエスが二千年前にガリラヤで語ったこと、イエスの周りに集まった人たちに起こったことが、今も、私たちに語られ、私たちの間で起こるのだということです。私たちは過去のイエスを喜んでいるのではなくて、今共にいるイエスを信じて喜びに満たされるのです。ペトロは「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。私たちも同じではないでしょうか。

私たちは偉大な哲学者や宗教家を知っています。その教えを、人生の導きとして多くの人が信じています。しかし、イエスがその人たち違う一点は、その人たちは死んだが、イエスは復活し、今も生きているということです。パウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(コリント15:3-5)と断言しています。福音とは「キリストが死んで、葬られたこと」です。また「キリストが復活した」ことが福音なのです。

教会はこの福音を伝えていますが、今日の福音書でも、イエスはご自分と共に神の招きを廣く伝えるために弟子を集めています。普通は12使徒がいます。弟子とは「わたしについて来なさい」イエスの言葉を受け入れた者です。そして。その役目は「人間をとる漁師に」なることです。「ガリラヤ湖のほとりを歩いているとき」とありますが、東北約22キロ、南北約18キロ相等の湖で、茨城の霞ヶ浦くらい。私は鹿嶋市に住んでいましたから、良く行きました。四季には色とりどりの花が咲いたそうです。「野の花を見よ」がイエスの言葉にあります。旧約聖書では「キンネレテ湖」といいました。

イエスはそこで、シモンとアンデレを弟子にしました。シモンは後に「ケファ」といわれましたが、「ケファ」とはアラム語(当時のヘブル語の方言)で「岩」です。で、シモンは「ペトロ」と呼ばれるようになりました。ペトロとはギリシャ語で「岩」を意味します。シモン、アンデレはギリシャ名ですが、当時の人はヘブ名とギリシャ名の二つ持っていたようです。仲間内ではヘブル名、公式にはギリシャ名と思います。次に、イエスはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネを招きました。最初の二人も、後の二人も、「網を捨てて従った」、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して・・イエスの後についていった」のです。生計の道である「網」を捨てて、あるいは「家族を残して・・」イエスについていった。イエスの最初の弟子は・・イエスの片腕として働いたのはガリラヤ湖の漁師でした。普通の人・・「無学で普通の人」(使徒言行録4:13)でした。優秀な人を選ばれたとは言えません。

彼らは声を掛けたイエスにすぐに従った・・ちょっと考えると、軽率な行動ともとられます。招いた人が悪人だったら大変です。オウム真理教では、多くの若い方が犠牲になりました。」ここでマタイが言いたいのは、弟子のあるべき姿です。弟子になるのは能力や資格は問題ではないのです。問題は声を掛けるのはイエスです。それにどう応えか、なのです。弟子とはイエスと共に歩き、生きて、神の国の現実の様を示すものです。彼らは、確かに初めはイエスを落胆させた弟子でしたが、後に、イエスのために命を捧げる者になりました。神の聖霊の助けで使命を果たしましたが、彼らの多くは殉教しました。(殉教とは自分の信ずる宗教のために命を捨てることです)。

12使徒の名前を記しておきます。マルコ、マタイとルカにあります。*「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」。(マルコ13:13-19)。*ルカ「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである」。(マタイ6:13-16)。

現在は牧師が使徒の働きを受け継いでいます。今は人手不足です。そして、優秀な牧師をという声があります。いい説教をし、いい牧会をして欲しいと会員は願います。だいぶ前に、「教会だより」に匿名の投書が載っていました。説教で教会の批判をし、文句をいわない教会に行きたいといい、また、会員を攻撃する説教をする牧師がいました。その投書をした方は「心にしみる説教を!」と言いました。それへの反応がありません。しーんとしています。私は読んで、このような牧師がいたことに複雑な気になりました。牧師は説教壇を降りるとき、貧しい内容だと感じることが多いです。勉強不足を思います。でも、精一杯語るので聖霊の働きを祈るのです。会員から今日の説教は「よかったです」と聞くと元気になります。この投書とは別ですが、牧師はなかなか批判・意見・・教会や会員への・・は言えないのです。言うことで対立が生じ、牧師が辞めるか、会員が出ていくで、決着します。そして教会はさらに小さくなります。牧師の経験です。

あの投書では牧師と会員がお互いにきつく批判し合っているようです。普段でも牧師にきつい言葉を掛けていると思います。お互いに気にくわないでしょうか。肌が合わないとか気が合わない人がいるものです。意外と会員は・・役員とか有力者は牧師を厳しく批判します。牧師は反論し難い点あります。ある時期はそうかも知れませんが、その後はお互いに話し合って行くとき、教会は成長します。全部牧師任せはいいようですが、感心しません。教会に制度があるのは・・牧師、役員などが・・あるのは、教会が正しく運営されて、聖霊がその人々を通じて働くためなのです。牧師も役員も、神様の働きを妨げる、下手な牧会や教会運営をしない限り、教会は成長していきます。 最近は信徒の方が勉強します。神学書など読んでいますから、不勉強な牧師の説教は聞くに堪えないものになります。ですから、もっとよい説教を願うのです。牧師はそれに応えて、勉強をすべきです。そういう私も恥ずかしいですが。

イエスが選んだ弟子たちは、本当にイエスを理解し、世界に福音を伝えるようになったのは、イエスの復活の後、イエスが弟子たちに現れた時からです。弟子たちはそれまでは恐れと不安に落ち、自己嫌悪に・・イエスを裏切ったという・・ありました。しかし、復活したイエスが弟子たちに前に現れたとき、彼らはイエスに愛の眼差しと赦しの心を知ったのです。復活後のイエスが弟子たちとともにいるとき、イエスの厳しい叱責の言葉でなく、愛の眼差しと赦しの眼差しを感じます。弟子たちはそれ触れ、回心し、キリストのために、立ち上がり、主のために生きる決心をしたと思います。彼らは自分の生涯をイエスの福音のために捧げたと考えても間違いでないと思います。

私たちはかって「私に従ってきなさい」というイエスの声を聞いて、従ってきました。50年、60年、あるいは数年か数十年ですが、その間私たちは決して平坦な信仰生活でなかったと思います。ある方がいいました。人間には三つの坂があると。「上り坂」「下り坂」そして、「まさか」という「坂」だと。振り返ると分かるような気がします。しかし、にもかかわらず、今も主と共にあると言うことは、私たちが主の愛と赦しの眼差しを見て来たからではないかと思います。至らぬ弟子ですが、イエスは見放すことなく、愛の目で見守ってくださるのです。だから私たちはそこから立ち上がることが出来るのではないでしょうか。私たちが変わっても、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。(ヘブル13:8)。そのイエスを見上げて生きたいと思います。

アーメン

2011年1月16日 顕現節第3主日 「多くの子を産んだ貧しい羊」

マタイによる福音書4章12〜17節
説教: 安藤 政泰 牧師

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
マタイによる福音書4章12〜17節


イザヤ書9章の予言に「ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」と言う言葉に続いて暗闇の中に住む人達に光が照らされる、と言う約束が語られている。主イエス・キリストはヨハネが捕らわれたと聞き、ガリラヤに退かれた。旧約聖書を見ると、神は常にイスラエルの民にのみ働いておられるように受け取れる。私達はいつも旧約聖書を新約聖書の光の中で読む事をしなければ、真実を見る事は出来ない。それはイエス・キリストによる新しい約束、新約聖書の時代に今私達は生きているからである。

さて、新約聖書に於いて、イエス・キリストの初めの働きは、異邦人の町から始められている。み子の誕生は、貧しいベツレヘムの馬小屋で、働きは、辺境の地カファルナウムからである。この事は異邦人とは、関係ないようにみられるが、 当時異邦人と言う表現は、貧しい人、神から離れている人の意味があった。

主イエスはこの町をこのカファルナウム地方を自分の町、自分の土地として愛され、この町で過ごされた。この地から、兄弟であるシモン・ペテロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ達が育った。そして、彼らが主の福音を全世界に伝えるのである。

当時の世界の中心は勿論ローマであった。その時の世界観からすれば、ユダヤ自体が、辺境の国であり、その中でも最も辺境な地であるカファルナウム地方が、神から選ばれた地方になったのである。なぜ、この地方が旧約聖書の予言に現れ、神に選ばれたのか。しばしば外敵からの侵略を受け、人々の心も生活も荒廃して居るような地方。この地方に住む人々は、いつしか、純粋のユダヤ人ではなくなり、多くは異邦人の血の交ざっている混血の人々が多くなったと言われている。国の中央に生活する人々はこの地方の人々を軽蔑し「異邦人のガリラヤ」と呼んでいたようである。その言葉の背後の意味は「神から見捨てられた地方」ということである。主イエスは、神は、あえてこの地方を選ばれたのである。この神の選択に私達は新約聖書のメッセージを読み取る事ができる。私達を選び、ご自分の民とされた、ご自分の子とされる神の深い愛を見ることが出来る。

私達も又、イエス・キリストのあの弟子、ヨハネ、ペテロ、アンデレ、ヤコブたちと同じように神に用いられる器とされるのである。イエス・キリストは弟子を整えて、その宣教のわざに遣わされた。

人々が軽蔑した「異邦人のガリラヤ」出身の学歴も財産も無い弟子たちが、働き、子を生み出したのである。貧しい羊が多くの羊の子を産んだのである。主が私達羊に何を望んでおられるかを知り、その働き人の教会に成りたい。