2011年10月9日 聖霊降臨後第17主日 「報酬と恩恵」

マタイによる福音書20章1〜16節
説教:高野 公雄 牧師

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
マタイによる福音書20章1〜16節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

きょうの福音の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、マタイ福音書だけが伝えるマタイの特ダネ記事ですが、マタイはこのたとえをお気に入りの言葉《しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。(19章30)と《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》(20章16)とで囲むことによって、マタイ福音の基調に則った意味合いを持たせました。そこで、私たちはまず、たとえそれ自体が何を述べているかを読み、その後でマタイがそれによって何を言おうとしているのかを考えることにしましょう。

《天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った》。
この7節までがたとえ話の場面設定です。パレスチナ地方のぶどう園では、収穫は霜の降りる前に終わらせなければならないので、一週間くらいで、一挙にすべてのぶどうの実を収穫するのだそうです。それで、この時期だけ大勢の日雇い労働者を必要としたのです。主人は、夜明けつまり午前6時ころ、続いて午前9時ころ、正午ころ、午後3時ころ、午後5時ころと、五回も広場に出かけています。12節に《最後に来た連中は、一時間しか働きませんでした》とありますから、仕事を終えた夕方は午後6時ころということになります。

《夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」》。
さて、夕方になり、きびしい一日の労働もやっと終わりになりました。《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》、とある通り、主人は監督に最後の人から順番に賃金を渡すよう指示します。こうして、後から雇われた他の人たちが1デナリオンずつもらっているのを、朝早くから働いた人たちが、見ていたことになります。もし彼らが先に賃金をもらえば、初めから1日1デナリオンの約束だったのですから、それをもらって満足して帰ったことでしょう。しかし、彼らは、たった1時間しか働かない人が1デナリオンもらうのを見ていました。そこで自分たちは当然もっと多くもらえるだろうという期待を抱くことになり、不満を訴えることになったのです。
ところで、ぶどう園の主人が1日に5回も働き手を探しに行くのはいかにも無計画です。現実には、ありそうもない話です。このように異例の求人活動を述べるのは、別に目的があるからです。3~4節と6~7節のどちらにも《何もしないで立っている》と《あなたたちもぶどう園に行きなさい》とがあります。「何もしないで」いるのは、怠惰だからではありません。7節にあるように、だれも雇ってくれなくて仕事がないからです。しかし、「何もしないで」いるのは人間にとって望ましい状態ではありません。労働は無為な生活から人を救い出します。ただ1時間だけ働く人にも「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ったのは、雇用が贈り物であることを強調するためです。マザーテレサは「現代の最大の不幸は、病気や貧しさではなく、いらない人扱いされること、自分はだれからも必要とされていないと感じることだ」と言いました。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」という人の立場からこのたとえ話を読めば、これはまさに「福音」です。日当1デナリオンは、「人が1日生きていくために必要なもの」でした。この主人は、1時間しか働かなかった人にも《同じように払ってやりたい》と言うのです。ルカ15章の「放蕩息子のたとえ」で、父親が帰ってきた弟息子のために宴会を催したのを見て、兄のほうが不平を言ったとき、その兄息子に向かって父が言う言葉も良く似ています。神はすべての人が生きることを望まれ、すべての人をいつも招いてくださる方なのです。
ところが、早朝から働いた人には雇用のありがたさが分からず、それは賃金を得る手段にすぎませんでした。たった1時間しか働かない人が1デナリをもらったのだから、《まる一日、暑い中を辛抱して働いた》者がそれ以上をもらうのは当然だと主張します。一生懸命働いてきたことが問題なのではありません。ただ《わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ》というぶどう園の主人(神さま)の心を分かってほしい、と語りかけているのです。
ぶどう園の主人は、労働者たちに対して、彼らの功績に基づいてではなくて、自分自身の憐れみの念に基づいて支払うという権利を主張します。《父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》(マタイ5章45)。このような気前の良さを、どうして不公平と非難できるでしょうか。イエスさまは「神はどんな人にも必要な恵みを与えてくださる」ということを強調しています。このような神を礼拝する私たちは、神の寛大さを模倣すべきなのであって、それに対して不平を言うべきではありません。このような不平は、すべての人々に気前良くしたもう神の良さにしっかりと私たちの目をすえることによってのみ、克服することができるのです。

《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》。
このたとえは、もともとは貧しい労働者を思う話だったのでしょうが、マタイはこの句を付けることによって、話しの趣旨を変えました。マタイ福音全体の基調の一つは、最初にユダヤ人が招かれ、キリスト信者は最後に招かれたのだが、いまはその順序が逆転してしまっているとい理念があります。マタイは、同じキリスト者の間でも、これと同じことが起こりうると説きます。
実際、イエスさまはファリサイ派であれ、自分に忠実な弟子たちであれ、「自分はこんなに苦労して働いてきた」と思っている人に向けてこのたとえを語ったはずです。彼らは、神さまに称賛されるだろうけれども、その報酬は、払った犠牲をはるかに凌駕しているので、まったくの恩恵であると見なければなりません。
「神は人の働きに応じて報いを与える」という考え方(応報思想)は間違いではありません。しかし、イエスさまは当時の人々が持っていたそういう応報的な考え方は問題をはらんでいます。人間の働きばかりに目が行ってしまい、人を生かす神の大きな愛を見失うからです。また、人と人との比較にばかり目が行ってしまい、人をさげすんだり、逆に人に嫉妬する世界に落ち込むからです。朝早くから働いた人の陥った問題はまさにこれでした。そして、私たちもまた、他人と自分を比較して「自分のほうがよくやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのにいい思いをしている」というようなことをいつも気にしてしまいます。きょうの福音は、そういうところから私たちを解放し、もっと豊かな生き方へと私たちを招いているます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年10月2日 聖霊降臨後第16主日 「無限の赦し」

マタイによる福音書18章21〜35節
説教:高野 公雄 牧師

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18章21〜35節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、「赦し」ということが主題となっています。
クリスチャンであろうがなかろうが、私たちは日常ほとんど毎日、赦しを求めたり、赦しを与えたりして生活しています。人の罪と言っても、たいていの場合、それは単なる過失であって、故意のものでも大したものでもありません。したがって、「赦し」が問題になるときというのは、その罪がもっと大きなもの、それらが意図的なもの、そしてとくにそれらが繰り返される場合だということになります。
その場合には、「人に対して寛容であれと言われるけれど、被害を受けた者の忍耐にも限界があるはずではないか。どうしてもあの人だけは赦せない」。また、「人に罪を犯した者はこころから反省と謝罪をしているのであろうか。赦してはいけないことだってあるはずだ」。こういう思いを抱くことがあります。それは当然のことではありますが、被害者の側、また加害者の側についての、こうした問題は、先週の礼拝でこの前の段落つまりマタイ18章15~20で扱いました。きょうの段落では、ふつうの人間関係とは別の問題を扱うことになります。

《そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」》。
マタイによる福音書18章は、教会における兄弟姉妹の交わりのあり方についての教えがまとめられていますが、きょうの箇所はその結びになります。弟子のペトロが、兄弟が罪を犯したときは、何回赦すべきでしょうか、と質問すると、イエスさまが答えます。7の70倍。「7」という数は「完全さ」を表す数だと言われます。「7の70倍」はもちろん「490回まで」という意味ではなく、「無限に赦せ」という意味です。
また、この表現は創世記4章23~24のレメクが妻たちに得意になって語った言葉《アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。》を思い起こさせます。イエスさまは、ここで弟子たちに復讐の放棄を求めておられるとも言えるでしょう。

《そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》。
続く23節以下でイエスさまは「仲間を赦さない家来のたとえ」でもって「赦し」のキリスト教的根拠を語ります。「赦し」は神さまの本性と深く関わることです。そのことが、《そこで、天の国は次のようにたとえられる》という始めの言葉で表されています。
たとえは、大きな国の王と、その国の州や属州を任された役人との決算処理の場面を描いています。王と役人はたとえでは「主君」と「家来」と呼ばれていますが、「主君」と訳された言葉は、神さまやイエスさまを指す「主」と、また「家来」と訳された言葉は、信者を指す「僕」と同じ言葉であり、これが神さまと私たち人間をたとえていることが分かります。
大きな税収のある大きな州の総督(役人)が王に納める莫大な額のお金一万タラントンを横領していたことが発覚しました。一タラントンは6000デナリオン、一デナリオンは労働者の一日の賃金ですから、日雇い6000万人分です。仮に日当一万円としますと、彼は王に6000億円を負ったわけです。返せと言われても返せません。王は立腹してその家来に、自分も妻も子供たちも持ち物も全部売って返せと命じます。全部売っても間に合うはずはありません。王は家来に屈辱的な罰を与えようとしているのです。家来は必死で「どうか待ってください」と懇願します。すると、《その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》とあります。王は家来の「きっと全部お返しします」という言葉を信用したのではありません。王はその家来を「憐れに思って」赦してやったのです。王はこの家来から莫大な金額の損害を受けましたが、より大きな損害はこの家来との信頼に満ちた主従関係が損なわれたことです。王は損害を取り戻すことよりも、その負債を棒引きにして、それまで共に歩んできたこの家来との親密な関係を維持することを優先させました。このように、「赦し」とは損害を我慢することよりも、人と人との絆を大事にすることなのです。

《ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した》。
たとえの第二幕では、あの横領を働いた家来が仲間に貸した100デナリオンの返済を迫って、乱暴にも投獄してしまったというのです。日当1万円として100万円です。これは王に赦された金額の60万分の1です。彼も王の役人であってみれば返せない金額ではありません。これを知った仲間たちは非常に心を痛めて、王に告げます。王はその横領した家来を呼びつけて、恩赦を取り消し、投獄した、という話です。
このたとえの王は三度、心を変えますが、そのように神さまは気紛れだと言っているのではありません。たとえの中心は、あくまでも王の異常に寛大な行為であり、私たちもその忍耐と寛容に学ぶべきだというところにあります。
また、イエスさまは「無限に赦せ」と教えたのに、王はあの横領した家来を一度しか赦さないのでは、話が違うではないかと思われるかも知れません。でも、あの王に赦された家来が、仲間の窮状に同情せず、金を惜しんだことは、王が絆を大事にしたことをまったく理解していないことを示しています。それは彼が王との交わり、また仲間との交わりを無用のこととして交わりの外に出ていくに等しい行為です。たとえの第二幕は、主君の家来として留まろう、天の国に連なる者であろうとするならば、自らその絆を断つようなことをしてはいけないと語っているのです。それゆえ、きょうの福音は、この言葉で締めくくられます。《あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう》。

《主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか》、私たちにもこう言いたいときがあると思います。人の罪を赦すことは容易なことではありません。そのときには、イエスさまとの愛の絆、大いなる赦しのありがたさを思い起こして、その絆と共に兄弟姉妹の絆をも大事にするために、この絆を壊さないために、いま一度赦すことができないものか、自分自身に問うてみようではありませんか。そのとき、神の大いなる赦しの愛の中で、人を赦そうとしない自らの醜い罪の魂をはじめて知るようになるのです。
《わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように》(マタイ6章12)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年8月28日 聖霊降臨後第11主日 「湖の上を歩く」

マタイによる福音書14章22〜33節
説教:高野 公雄 牧師

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

マタイによる福音書14章22〜33節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、《それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた》と始まります。「それからすぐ」の「それ」とは、先週読みました、イエスさまが五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人の飢えを満たしたという出来事を指します。
きょうの福音は、「それ」に続くもう一つの不思議な出来事です。《ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた》。イエスさまが水の上を歩いたという物語です。
しかし、先週の五千人にパンを与える物語と同様に、この水の上を歩く物語も、現代のキリスト者にとっては、つまずきの石です。おそらく一世紀の人々にとってもつまずきだったことでしょう。もっとも、当時は、自然法則も、超自然的なものが介入することによって留保されると広く信じられていましたから、聖書の民にとって、出エジプトを導いた神ならイエスさまにそのような力を与えることができたということについては、疑いはなかったと思われます。
ほんとうにイエスさまは湖の上を歩いたのでしょうか。聖書に書いてあるのだからそのとおりに違いないと考える人もいるでしょうし、どうしてもそれは信じられないという人もいるでしょう。事実はどうだったのか、と議論してもあまり実りはなさそうです。それで、ここではこの出来事の歴史性の問題はわきに置いて、この物語がマタイにとってどういう意味があったかという点に、焦点を合わせて見ていきましょう。

結論を先に言ってしまいますが、マタイの意図では、イエスさまは神からの授与によって、奇跡的な能力を発揮されたのです。イエスさまが、《わたしは天と地の一切の権能を授かっている》(マタイ28章16)と言っておられるとおりです。ただし、奇跡的な能力が、イエスさまが神であることの証拠だとするのであれば、ペトロも同じように湖の上を歩いたことを書き加えるのはまずいことになります。ですが、この物語では確かに、ペトロもまた同じように力を与えられています。
イエスさまは自分が誰であるかを見せびらかすために水の上を歩いたのではありません。そのとき、舟は岸から遠く離れていて大波に悩まされていました。イエスさまが水の上を歩かれたのは、危機に陥った弟子たちを助けるためでした。つまり、この物語は、イエスさまが何者であるかではなく、イエスさまは何を行なう方なのかを強調しているのです。イエスさまはメシアとして、神の民を牧するように、またその群れに配慮をするようにと、神から委託を受け、それを果たす力を与えられているお方なのです。

弟子たちに恐れを生じさせるのは風と水ですが、聖書では水は、神に敵対する悪を象徴しています。例えば、詩編69編はこう歌います。《神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流がわたしを押し流します。叫び続けて疲れ、喉は涸れ、わたしの神を待ち望むあまり、目は衰えてしまいました。理由もなくわたしを憎む者は、この頭の髪よりも数多く、いわれなくわたしに敵意を抱く者、滅ぼそうとする者は力を増して行きます》。
この物語は、嵐を静めた物語(マタイ8章23~27)とテーマが似ています。どちらも舟は、自分の弱さや試練、迫害という海の大しけに翻弄されている教会を表しています。高波をぬって生き延びるには、《主よ、助けてください》(8章25、14章30)と主に呼びかけるほかありません。どちらの物語でも、イエスさまは、ご自分を呼び求める人々を救うに十分な力を持って教会を見守ってくださっています。したがって、「弟子たち」と書くことが予期されるところで、マタイが《舟の中にいた人たち》(14章33節)と書いているのは、読者たちを念頭に置いてのことです。すなわち、単に使徒たちだけでなく、すべての信仰者たちが、危険にさらされた舟の中にいるのであり、イエスさまに依り頼んでいるのです。

《弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」》。イエスさまは恐怖のどん底にいる弟子たちに向けて、《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》と呼びかけます。「わたしだ」とは、「わたしはあなたたちと共にいる」という意味です。イエスさまは今もさまざまな恐れに囚われている私たち一人一人にそう呼びかけています。

《すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ》。
イエスさまが湖の上を歩かれる物語は、マルコ6章45~52とヨハネ6章15~21にもありますけれども、マタイだけがペトロについての物語を付け加えています。この追加の物語は、信仰と懐疑のただ中にとらわれつつキリスト者として生きるとはどういう意味があるかを鮮やかに描き出しています。ペトロは信仰による大胆な一歩を踏み出したのは良かったのですが、逆巻く波に目を奪われてしまい、イエスさまから目を離してしまった私たちすべての信仰者を代表しています。私たちもペトロのように水の上を、あるいは水の上でなくともイエスに従う道を歩みたいのです。しかし強い風、さまざまな困難のために怖くなって、《「主よ、助けてください》と叫びたいのです。ペトロに代表されるように、すべてのキリスト者は、不確実な状態の中で生きぬくことを学びつつ生きるのです。イエスさまの救いの力を信じるということは、危険を冒して歩み出すことなのです。

《イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた》。マタイによれば、弟子たちは信仰が小さいために、恐れが生じるのです。その恐れとは、直接には、当時マタイの教会に襲い掛かっていた迫害のことでしょう。弟子は師のようであるべきですから、ペトロは自分も水の上を歩こうと願います。危険を承知で敢えて歩み出そうとします。しかし、強い風に目を移してイエスさまから目を離すと、おぼれかかります。ペトロのこの姿こそ、あらゆる時代のイエスさまの弟子の現実の姿です。信仰が無くはないのですが、小さいのです。小さいので失敗を繰り返します。ですが、イエスさまは「すぐに」手を伸ばし救い出してくださいます。
この物語のテーマは「恐れと疑いから信頼へ」と言えでしょう。聖書の「信仰」という言葉は、「信頼」と訳すこともできます。「信仰」というと「神の存在を信じる」ことだと考えがちですが、信仰の本質は、「神が存在するか否か」ということではなく、「神に信頼を置くかどうか」ということです。神に信頼せず、自分の力だけで危険に立ち向かおうとするとき、疑いや恐れに陥るのです。《信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか》、kのイエスさまの問いかけは、もっと大きな信頼を持って大丈夫というイエスさまの私たちへの励ましです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年8月21日 聖霊降臨後第10主日 「パンを増やす」

マタイによる福音書14章13〜21節
説教:高野 公雄 牧師

イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

マタイによる福音書14章13〜21節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音、聖書の小見出しに「五千人に食べ物を与える」と題された出来事です。小見出しの隣のカッコ書きで書かれた対照個所で分かるように、この記事はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書すべてに共通して伝えられています。しかも、四福音書にそろって記されている唯一の記事なのです。きょうの福音は、初代教会のキリスト者がこの信仰に立ち、励まされて、さまざまな迫害や困難の中をくぐり抜けていった物語です。

《イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた》、という言葉から始まります。「これを聞くと」の「これ」とは、この個所の前の段落を指しています。前の段落は「洗礼者ヨハネ、殺される」と小見出しにありますように、イエスさまの先駆けである洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデに首をはねられて殺されたことが記されています。イエスさまは洗礼者ヨハネがヘロデによって殺されたことを聞いて、ひとり人里離れた所に退かれたのです。

《しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた》。イエスさまは自分にも危険が及びそうな状況を見て、身を隠そうとされたのではないでしょうか。ところが、そんなさびしいところまで、人々はイエスさまを慕い求めてやってきました。そういう群衆をご覧になって、彼らを深く憐れまれたゆえに、この出来事は起きたのです。

この「深く憐れむ」と訳された言葉は、「はらわた(腸)」を動詞化したもので、「目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたがゆさぶられる、自分のはらわたが痛む」ことを意味します。これは、聖書では大事な言葉です。たとえば、「善きサマリア人」のたとえです。旅の途中、追いはぎに襲われて半殺しにされ、道端にうずくまっている人がいました。《ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した》(ルカ10章33~34)。ここでは「憐れに思う」と訳されていますが、元の言葉は同じです。

また、「放蕩息子」のたとえでも使われています。放蕩に身を持ち崩した息子が帰ってきたとき、《ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した》(ルカ15章14)。ここでも「憐れに思う」と訳されています。

また、「仲間を赦さない家来」のたとえにも表れます。王に莫大な借金をした家来が返済を迫られるが、返せないのでしきりに待ってくださいと頼みます。すると、《その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》(マタイ18章27)。この「憐れに思う」も同じ言葉です。

これらのたとえで、善きサマリア人も慈悲深い父も柔和な王も、神を象徴しています。そして今日の福音ではメシアであるイエスさまの心を表す言葉として使われています。イエスさまが病人をいやし、食べ物を与えるのは、この「苦しむ人への共感」から出た行動なのです。

《夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」》。人々はイエスさまの跡を追って、人里離れたところに来ています。イエスさまの話しを聞き、なさることを見ている間に夕暮れになりました。弟子たちはイエスさまに進言します。もう群衆を解散させて、各自が村で食べ物を手に入れるようにさせましょう。これは良い考えではないでしょうか。

ところが、《イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」》。イエスさまは人々に買いに行かせるのではなくて、人々の食事を心配しているあなたがた自身が与えなさいと答えます。《食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった》とありますから、女と子供を入れると二万人ほどにもなったでしょう。マルコ福音によると、《弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と》(6章37)イエスさまに反問しています。そんな大金は持っていないし、持っていたとしても、そもそもそんなに大量のパンは売っていないでしょう。ですから、《弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」》。イエスさまは「あなたがたが与えなさい」とおっしゃるけれど、弟子たちの手にあるのは、五つのパンと二匹の魚だけです。こんなわずかなものが何の役に立つだろうか。東日本大震災また福島の原発事故の報道を見聞きして、私たちもこの弟子たちと同じ思いにとらわれるのではないでしょう。問題の大きさに比べて、私たちの持てる能力・手段はあまりにも小さいのです。

《イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した》。イエスさまは、どんなに少しのものでも、それをここ、イエスさまのところに持って来なさいとおっしゃいます。そして、それを手に取って、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られました。イエスさまのみ手の中で、そのパンを用いた奇跡が起こり、人々の必要が満たされました。

この出来事から学ぶことは、第一に、「私たちに今日もこの日の糧をお与えください」という祈りは必ず聞かれるということです。この物語は、その昔、荒野において神がナマを与えられたことをも思い起こされます(出エジプト16章)。ここにはぶどう酒や肉のごちそうは出てきませんが、いま必要最小限のものはすべての者に満たしてくださる神さまの深い憐れみが表されています。イエスさまが天を仰いで賛美するのは、このパンが神から与えられたものであることを強く意識するからです。

第二に、イエスさまは「あなたたちが食べ物を与えなさい」と言われ、ここで弟子たちは給仕役として働いています。この弟子たちの姿は、古代のキリスト者にだけでなく、私たちにも、人々の必要のために働く神の道具として召されていることに気づかされます。「私たちに今日もこの日の糧をお与えください」と祈り、その祈りの聞かれることを望む者は、その祈りに積極的に関わることが求められているのです。

第三に、たとえ小さなパン五つと魚二匹しかないとしても、神はそれを用いられました。神の国のみわざのために、自分たちの持てる小さなものを提供するよう励ましておられます。「パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」とあるますが、「パンを裂く」のは、自分ひとりで食べるためではなく、他人と分かち合うためです。すべてのものは神から与えられたものであり、だからこそ人と人とが分かち合って食べる、これがイエスさまの食事の豊かさです。

第四に、この物語は、《そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった》ということで締め括られます。パンは五千人または二万人に配られたことを思うと、裂かれたパンの残りが十二籠であったことは、「足りないかと心配したけど、何とか全員に配ることができた。良かった、良かった」と安堵する、その程度のぎりぎりの余りです。ヨハネ福音では、《人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた》(6章12)とも書かれています。「無駄を出すな。もったいないことをするな」ということです。さもないと、その分だけ誰かが飢えたままでいることになるのです。

聖書は、神の恵みを伝えると共に、私たちが神と出会うことを通して、神が私たちの人生の主となり、私たちの人生を掬い上げてくださることを教えています。