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2013年5月12日 昇天主日 「永遠の祝福」

ルカによる福音書24章44〜53節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

渡辺和子さんという方をご存知でしょうか。ノートルダム清心学園の理事長であり、テレビにもよく出られ、講演されている方です。私はNHK教育番組「こころの時代」という番組を見ていた時、この番組に出演されている渡辺さんを知りました。彼女の著作の中で「置かれた場所で咲きなさい」という本があります。この言葉は、彼女自身の言葉ではなく、彼女が修道士として生活していた時に、ある宣教師が彼女に渡した詩の言葉でした。詩の言葉は「置かれた場所で咲きなさい」に続いて、「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」と書いてあったそうです。この詩を頂いた背景には、当時、渡辺さんが、修道院生活の中で抱いていた不平や不満がたくさんあったということを著作の中で語られています。真に印象深い言葉です。「置かれた場所で咲く」それは、各々が与えられた状況の中で、行動する、歩む、今与えられている道を突き進むということでしょう

私たちは自分の生まれた環境を受け入れるしかありません。また自分の思い描く通りに人生を歩んでいる人は少ないでしょう。今置かれた状況の中で生きるしかないということ。それをポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかはその人次第ですが、私たちはやはり何かしらの不平不満を抱いて生きています。それが当たり前だと言われるでしょう。わかっていることだけど、でも実はわかっていないことも多くあるものです。その一つは「私」という存在、「あなた」という存在です。私たちは自分の意志で、生まれたのではなく、また自分が望んだ通りの命の在り方が与えられているわけでもないのです。今この場に私を、あなたを植えらえた方を通して、今の私、あなたがある。その置かれた場所があるのです。私たちの置かれた場所。そこで花を咲かすようにと植えられた方の御意思がある。その方は言うまでもなく、主なる神様です。

当然ですが、花を咲かせるには、養分と水が必要です。人間を花に譬えるなら、水や養分と言った神様の恵み、祝福なくしては生きられない、率直な問題です。養分や水といったそれを受ける土台、それこそがキリストという土台でありますが、その土台の中で培われていても、真に花が咲けないことがある。それはつまり、人生における苦難や困難、それだけでなく、先ほど言いました不平不満がつきまとうわけです。それでも、「置かれた場所で花を咲かす」ということ。どのような状況、環境の中にあってでもです。満足に水や養分が与えられていないと思える時でも、それを受けるキリストという土台の上で怒りや悲しみで揺れ動こうとも、その根元に秘められている喜び、そう、大きな喜びがある。笑顔で幸せに生きれるという希望、その確信が持てるなら、花を咲かせることができるのだと思えるのです。

本日は、主イエスの昇天を覚える、昇天主日です。今日の第1日課、及び福音書に主イエスの昇天の出来事が記されています。これらの聖書箇所によりますと、主イエスは復活して40日間弟子たちと共におられ、彼らが見ている内に天に上げられて、雲に覆われて彼らの目から見えなくなったとあります。そしてこのとき弟子たちは天を見上げて立っているのですが、白い服を着た2人の人が弟子たちに「あなたがたから離れて天にあげられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有り様で、またおいでになる」と言われ、主イエスとのお別れであるのと同時に、また私たちのもとに来られるという約束を彼らに伝えたのでした。つまり、主イエスの再臨と言われる出来事の約束です。

主イエスの昇天、それは確かに、見た目には主イエスとのお別れであると言えるでしょう。弟子たちは主イエスが天に昇って、自分たちの目には見えなくなった有り様を確かに見たのです。この主イエスの昇天が私たちに何を意味しているのか、伝えたいことなのかということについて、毎年この昇天の箇所を読み、聞くごとに、考えさせられることであります。

ローマ教皇フランシスコ1世は主イエスの昇天について次のようなことを人々に宣べ伝えたそうです。記事の一部ですが、「なぜ天を見上げて立っているのか」という白い服を着た2人の人の言葉を受け止めて、教皇はこの聖書の諭しを、「天を見上げたままでいないで、天に昇るのを見たのと同じ有様で、イエスがまたおいでになるという確信を生活と証しの中で育むように」との励まし、「イエスの統治を観想し、そこから福音を告げ、証しするための力を得るように」との招きとして解説。「観想すること、行動すること」その両方がキリスト者の生活に必要と説かれた。と記事は紹介し、さらに「主の昇天は、イエスの不在をいうのではなく、イエスがわたしたちの間に新しい方法でおられることを意味する」と教皇は述べ、わたしたちを守り、導き、天に引き上げるキリストの愛を世界に伝えていこうと、信者らを励まされた。とありました。主の昇天を通して、主イエスの統治、その御業に心と思いを向け、祈り、そして積極的に行動していく、伝道、奉仕していくということ。そして、主の昇天は、主イエスの不在ではなく、今も私たちと共におられるということだと言われ、それは新しい方法でおられると言われました。この「新しい方法」ということに関しては、具体的に記されてはいなかったので、わからないのですが、今日の第2日課でありますエフェソ書には「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」とあります。昇天されたキリストは、神の右の座につき、この私たちが生きる世界を統治されている、支配下におかれているということです。続いてエフェソ書には「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」教会がこのキリストの頭であると言うこと、復活の御体を示しているということです。つまり、教会を通して、キリストと一つであるということ、教会生活を通して生きると言うことは、キリストと共に生きる、歩むということに他ならないことなのです。

福音書には、ベタニアに連れて行った弟子たちの前で、主イエスが昇天されたことが記されています。その時、主イエスは弟子たちを祝福された、いや祝福しながら天に昇られたとあります。祝福しながらです。終わりがないのです。常に祝福しているのです。その光景を見た彼ら弟子たちは、主イエスを拝み、大喜びでエルサレムに帰り、神殿で神をほめたたえていました。

祝福を受け続けている彼らの弟子たちの姿、それは後の教会の姿と重なります。つまり、主イエスの祝福は、絶えることのない永遠なる祝福は、彼ら弟子だけに限らず、後の教会、そして今の教会の中で生きる私たちへと向けられているのです。この祝福の御手の中で生きるものとして、弟子たちは大喜びしていた。神様をほめたたえていました。主イエスとの別れを経験しつつも、その別れは主イエスの不在を意味するのではない。目に見えるという限りある存在としてではなく、全世界の主として、目には見えなくとも、自分たちとつながっていると確信できた。イスラエルだけでなく、全世界の救い主として、このキリストは自分たちとつながり、今も自分たちを祝福していてくださる。主イエスと目に見えて離れ離れになっても、そして残された自分たちがどんな境遇の只中に立たされようとも、苦しみを受け、悲しみを受けても、この復活のキリストの祝福は自分たちを離れないということが確信できたとき、喜ばずにはおられないだろうか。弟子たちの気持ちが、彼らの心深くから、魂の声が響いてくるのです。

もちろん、彼らは自分たちがこれから受ける境遇を予想していたに違いないのです。迫害が起こる。同族のユダヤ人から憎まれる。殉教する。社会の権力者に付け狙われる。現実は暗いとしか言いようがない状況が彼らを待ち受けていると言えるでしょう。しかし、彼らの喜びは喜びそのもの。希望を見据えている喜びです。もう安心できるという状況では全くないのに、彼らは救いの完成を、神様の約束がすべての人に与えられていることがはっきりと分かったのです。

今を生きる私たちに、この時の弟子たちの喜びが、教会の姿を通して伝わってきているでしょうか。主イエスの絶えざる祝福を受け取っていると確信していますか。この喜び、祝福の内にあっても、私たちは弟子たちが受けた境遇と同じところに立っています。時代は変わろうとも、不平不満が絶えない、苦しみ、悲しみがあり、矛盾だらけの現実世界で、神様の御言葉を聞き、恵みを受けています、いや受け続けているのです!今この時も!!

私たちには、ちゃんと養分も水も与えられている。教会というキリストの土台に連なって、今という時代に蒔かれ、その置かれた場所で花を咲かすことができるのです。さらに、神様の御業を証しし、御言葉を通して、周囲の人を幸せにすることができる、なぜならあなたは既に主イエスと繋がり、その命に生きる者として、幸せの只中にあるからです。その喜びの希望が与えられているからです。

ですから、大喜びでエルサレムの神殿で、神様を賛美している弟子たちの姿は、私たちの今この時の姿そのものです。現実を忘れ、理想の世界の中で喜んでいるのではなく、むしろ現実世界の只中で、私たち一人一人を救おうと、愛の祝福の御手を常に指しのばしてくださる方が今私たちの真ん中におられます。キリストの福音という香り豊かな花が満開となって、咲き誇っています。あなたの人生の只中で、あなたの置かれた場所で。この福音に生きる時、私たちは置かれた場所で、花を咲かすことができるのです。キリストの永遠の祝福が、今を生きる私たちへの養分となり、水という糧として、私たちを生かし続けてくださいます。どのような境遇にあろうとも

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年4月14日 復活後第2主日 「主の復活顕現」

ルカによる福音書24章36〜43節
藤木 智広 牧師

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

ルカによる福音書24章36~43節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

皆さん、先週の日曜日は、私の按手、就任式にご参列いただき、全面的にご奉仕してくださいまして、誠にありがとうございました。本当に祝福されたすばらしい式でした。ご参列いただきました皆様からお祝いのお言葉をいただき、牧師としての心構えを改めて身に着けさせていただきました。私はこの出来事を生涯忘れるわけにはいきません。そして、六本木教会の皆さんおひとりおひとりは、私が正式に牧師となり、この教会の牧師として就任されたことの証人であります。証人となってくださった皆様と共に私は、この六本木ルーテル教会で復活のキリストを宣べ伝えながら、共に生きていくという確固たる指針を抱いております。六本木という地で、聖霊の働きに満たされながら、神様の御用にお仕えしていくのであります。そして、この六本木の地から、どこまでも、どこまでも、それは地の果てに至るまで、神様の福音を宣べ伝えていく、その使命に生きる者たちの群れであるこの六本木教会は、神様によって建てられたキリストの御体であるのです。

六本木教会では本日また、新たな一歩を踏み出します。今日の礼拝の中で、新しい役員の方々が与えられるのです。新たなるリーダーたちを迎えて、教会の秩序がこのように整えられていくということに、生まれ変わった新しさに生きる教会の姿を描きますが、それは全くの新しい姿ではありません。教会が辿ってきた信仰の歩みを、今の私たちが継承していくということに他ならないからです。遡れば、ペトロ、パウロの時代、初代教会から続く、使徒的な公同の教会の歩みを私たちは引き継いでいるのです。もちろん、時代も国も、文化も生活形態も全然異なりますが、彼らの歩みは今の私たちの歩み、復活の主と出会った出来事を証する彼らの姿は、今の私たちの姿と変わらないということなのです。なぜなら、パウロがエフェソの信徒への手紙で「主は1人、信仰は1つ、洗礼は1つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して、すべてのものの内におられます」と言いっているとおり、多様なあり方においても、本質は1つであるということだからです。時代も国も文化も生活習慣もすべてを越えて、神様はすべてのものの中におられ、すべてのものを通して働かれているのです。私たちもこの神様のご支配の中にあって、今この時を歩むことが許されている者のひとりひとりなのです。様々な事情を抱えて、問題と向き合いつつも、私たちの心と思いはひとつであるということ、そのことを信じて歩む私たちの信仰の姿が、ペトロやパウロたちの時代から引き継がれているということを覚えたいのであります。

今日の福音書は、主イエスが真の肉体を持って、弟子たちの前に現れたという復活の出来事の核心を描いております。婦人たちは主イエスのご遺体が納めてあるはずのお墓に行きましたが、ご遺体は見つからず、その時、彼女たちの前に現れた2人の天使から主イエスが復活したことを聞きます。そして、生前の主イエスの言葉を思い出し、復活を信じました。弟子たちは婦人たちの証言を信じませんでしたが、エマオへの途上で、クレオパともうひとりの弟子は、主イエスに出会います。しかし、主イエスであるとわかって、そのお姿をはっきりと見ることはできませんでした。時を同じくして、シモン、すなわちペトロたち11人の弟子たちの前にも、主イエスは現れたのでしょう。24章の33節から35節を見ても、福音書はその時の出来事を詳しく描いてはいませんが、おそらく彼ら11人も、主イエスのお姿をはっきりと見ることはできなかったのではないでしょうか。ですから、今聖書の御言葉を聞く私たちは、婦人たちや弟子たちの証言を通して、主イエスの復活の出来事を聞くのですが、いづれもこの出来事の詳細が断片的であるということに気付かされます。皆が皆バラバラの証言をしており、彼らは話し合っているのですが、彼らが共に主イエスの復活を「共に喜んでいる」という場面が、今までの箇所では描かれていないのです。婦人たちやクレオパともうひとりの弟子、ペトロたち11人の弟子、聖書には記されていませんが、その他の弟子たちも、主イエスの復活を知る体験をしたことかと思われますが、彼らの証言は、ひとつにならないのです。

彼らの証言がひとつとなった出来事を描いているのが、まさしく今日の福音書の出来事なのです。今日の福音書は、主イエスが真の肉体をもって復活されたという出来事を伝えているだけでなく、彼らが一致して、主イエスの復活を共に喜んでいる出来事を私たちに伝えているのです。冒頭の36節に、「こういうことを話していると」とありますから、すぐ前の箇所の出来事から続いていることがわかります。ここにはクレオパともうひとりの弟子、ペトロたち11人の弟子たち、おそらく婦人たちもいたでしょう。他の弟子たちもいたかも知れない。その大勢の弟子たちの真ん中に、主イエスが突然現れ、「あなたがたに平和があるように」と彼らを祝福されたのです。主イエスが彼らの真ん中に立たれて祝福されたということが、何よりもバラバラだった彼らの思いをひとつにしてくださる主イエスの愛の招きに他ならないのです。私たちはここに教会の姿を見ます。様々な思いを抱えて、私たちは集められますが、主イエスは私たちの真ん中に立たれて、私たちを祝福される。この祝福のもとに、共に交わり、共に生きよとそのように語られる主イエスのお姿があるのです。

ところが、復活の主イエスを目の当たりにして、弟子たちは恐れおののき、うろたえ、心に疑いを起こし、亡霊を見ているのだというのです。亡霊だと思った、すなわち主イエスのお姿に、生ける者として、その命を見出すことはできなかったのです。亡霊、それは単にオカルトチックな表現には留まりません。真の恐怖です。恐れおののき、うろたえ、心に疑いを起こすもの。あいまいな存在にすぎませんが、しかし、この存在が弟子たちに、そして私たちにも確固たる疑いを引き起こすのです。疑い、そう彼らは信じていなかった。彼らは各々が復活の証言をしていたにも関わらず、信じるには至っていなかったのです。主イエスのお姿を通して、彼らの復活証言、そこには同時に疑いがあったということを伝えているのです。

彼らのこの疑いの出来事、かつて彼らは湖の上を歩く主イエスのお姿にも同様の反応をしているのです。船に乗っていた彼らは、湖の上を歩く主イエスのお姿を見て、「幽霊だ」と叫びます。亡霊と同じように、彼らは主イエスだとはわからなかった。心に疑いを起こし、うろたえていたのです。しかし、その時、主イエスは弟子たちに言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。「わたしだ」と自らを現される主イエス。あながたの知っている私であると、御自身を顕される主が彼らと共にいる。ひどく怯え、恐怖のあまり自分の心を閉ざしていた彼らの心を、主イエスは開かれるのです。

復活の主イエスは今また弟子たちにご自身を顕されるのです。手と足を彼らに見せ、尚も疑う彼らの前で、魚を食べたのです。真の肉体があるということ。主イエスが真の肉体を持ち、復活したことの証明に他ならないということ以上に、主イエスが自らを顕し、彼らの疑いの心を開かれようとしておられるそのお姿の中に、弟子たちとの関わり、弟子たちへの愛がここに示されているのです。婦人たち、弟子たちの証言は真実であれ、やはり断片的であった。主イエスはエマオへの途上で、ふたりの弟子と共に歩まれたが、彼らは主イエスだと気付かなかったのです。気付いて、そのお姿を見ることはできなかった。弟子たちは、証言しますが、そこに復活の主イエスとの関係は見いだせなかったのです。

主イエスは弟子たちの真ん中に現れて、彼らを祝福しました。真ん中ということは、誰にでもわかるように、見えるようにご自身を顕し、一人一人との関係において向き合ってくださるということです。私は先ほど、この場面の中に、教会の姿があると申しました。復活の主イエスのもとで、弟子たちが祝福されている場面に、主イエスを頭とした彼らの交わり、結びつきをも見出します。彼らは真に肉体をもった主イエスの御許で、ひとつとされているのです。主イエスの復活の御体としての教会。そこには当然、手もあり、足もある。ペトロの時代から継承されてきた使徒的な教会を受け継ぐ私たちも、この復活の主と出会い、互いに交わり、関わりをもつ者たちの群れであります。それでは、私たちはどこに復活のキリストの手と足を見出すのでしょうか。

私が卒業したルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の校舎には、手と足のないキリストの像があります。学生たちはなぜ、このキリスト像に手と足がないのかと疑問を浮かべていました。復活の御体を顕してはいないと言う人もいました。この像がどこから来て、どのような由来があるのかということは詳しくわかりませんが、ある先生がこう言ったのです。「私たち一人一人がキリストの手であり、足である」と。私たち一人一人がキリストの手となり、足とされている。手と足がないというわけではない。それらは確かにある。弟子たちの前に顕れた復活のキリストがまさしくそうでありますが、この復活の、手も足もあるキリストの御体は教会であるということ。この教会に集う私たち一人一人がキリストを証する手であり、足であるいうことに他ならないのです。私たち一人一人が、キリストの御用のために、手となり、足となって、福音を宣べ伝えるべく、用いられているということ。私たち一人一人がかけがえのない存在であり、主イエスに愛される存在であります。亡霊なるあいまいな存在としてではなく、真の肉体をもち、復活された主イエス、かつて弟子たちに「安心しなさい、わたしだ。」と言われ、御自身を現されたこの主イエスと共に私たちは歩み続けるのです。

主イエスは確かに生きて、今も私たちと共におられます。復活の御体、それは私たちの目に直接見えなくとも、この御体の中で生き、歩む私たち一人一人が、キリストの手足となって、用いられる姿に見出されるのです。新しさばかりに目を奪われるのではなく、継承されてきた信仰の旅路を更に一歩一歩と前進していくことができるように、共に歩んでいきましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年4月7日 復活後第1主日 「エマオへの旅人」

ルカによる福音書24章13〜35節
藤木 智広 牧師

24:13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 24:14この一切の出来事について話し合っていた。 24:15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 24:16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 24:17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 24:18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 24:19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 24:20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 24:21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 24:22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 24:25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 24:26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 24:28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 24:29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 24:30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 24:31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 24:32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 24:33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 24:34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 24:35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

ルカによる福音書24章13~35節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

皆様、改めまして、イースターおめでとうございます。先週の復活祭は3月31日、2012年度最後の主日の日でした。その日、私は母教会である池上ルーテル教会に行き、復活祭の礼拝に与り、教会員の皆様と主の復活の喜びを分かち合うことができました。復活祭の礼拝ですけど、礼拝に来られたのは、10人にも満たなかったです。新来者も誰もいませんでした。本当に小さい群れで、この復活祭をお祝いしました。ですから、復活のお祭りという活気にあふれた雰囲気はまったくありませんでしたけど、私自身、本当に嬉しかったです。遠方におられて、中々教会に来ることができない方とも、何年振りかに再開することができました。一緒に礼拝を守り、一緒に復活を喜び、一緒にお話をしました。離れていても、私たちは神の家族として互いに結ばれている、繋がっている、喜びを共にすることができるという尊い恵みが与えられているということを改めて実感することできた、祝福されたひと時でした。

この日は牧師として仕事を始める一日前に、私の信仰生活の礎となった場所、母教会の池上教会に行ったことに、導きを感じます。池上教会に通い始めたことを思い返しました。私がこの池上教会に通い始めたのは、今から約9年前です。その時は牧師になろうなどとは全く考えつきませんでした。当時はキリスト教に関心があっただけでしたから。しかし、9年の道のりを経て、今私は牧師として、この説教壇に立っています。六本木教会のホームページにある、牧師紹介の項目のところでも少し書かせていただきましたが、この9年間、本当にいろいろなことがありました。いろいろあったけど、常に自分は生かされてきた、神様の愛のご支配の中で、歩み続けることができたということを実感いたします。なぜなら、自分でも気づいていないところで、キリストが共にいて、共に歩んできてくださったからだと、その一言に尽きるからです。そして、私はどれだけこのキリストを見失っていたことであろうか、自分の思いばかりが全面に出て、意固地になっていた私の姿を思い返します。いや、今でもそうです。でもキリストは一歩一歩、着実に私を変えてくださっています。いろんな人との出会いを与えて下さり、様々な視点が与えられ、私を養い育ててくださったのであります。六本木教会の皆様との出会いもそうです。今から約4年前に、この教会で実習をさせていただきました。今皆さん一人一人とこう向き合っていますと、あの時はこうでしたねと、たくさんの思い出を語りたくなります。一緒に過ごさせていただきました。そして今も、これからも、私たちの只中にキリストがおられ、キリストと歩み続けられることを願います。

このように願うことができる根拠は、キリストが復活し、今も生きて私たちと共におられると信じる事にあります。

教会はキリストの復活の御体であります。キリストの御体に連なる者として、キリストと共に歩む時、私たちの思いと心はひとつとなり、一致の信仰を告白し、祈る者たちの群れとなるのです。

キリストの復活なくして、私たちの群れは存在しません。弟子たちもそうでした。婦人たちの証言を信じることができなかった彼らの思いはバラバラだったのです。

今日の福音書に出てくるエマオへの旅路にあったふたりの弟子たちも同じような心境にあったでしょう。彼らは一切の出来事について、つまり主イエスの十字架と婦人たちの証言である空の墓の出来事について、あれこれと論じ合っていたとあります。いろんな憶測が飛び交ったでしょうが、その時2人は暗い顔をしていたのです。彼らもやはり主イエスの復活を信じてはいませんでした。

エルサレムからエマオまでの60スタディオン、これは約11キロ半という距離だそうですが、この帰郷の道のりを彼らはさぞかし憂鬱な心境で持って、歩いていたことでしょう。自分たちの教師である主イエスは、イスラエルを救うメシアであると信じていたけど、主イエスは死んでしまった。かつてはこのような長い道のりも、主イエスと共に歩いてきたけど、今はもう自分たちしかいない。全てが終わってしまった。また元の暮らしに戻るために、彼らは神の都エルサレムから離れていく、つまり神様の宮から離れていく途上にあるのです。掘り下げて言えば、神様から離れていくということです。自分たちの期待は潰えてしまった。彼らの暗い顔は暗い道を造りだしているのです。

しかし、主イエスは彼らと、彼らの心境が造りだしているこの暗き道を共に歩まれるのです。その主イエスに気付かないほど、彼らの目はさえぎられていた、暗い闇しか見えてはいなかったのです。

そのような彼らの闇の深さを見る時、私たちもまたこの現実世界の闇の深さ、また人生において遭遇する自身の闇の深さに目を向けます。救いの手は差し伸べられているのに、それに気付かないほどの闇の深さに絶望します。どんな慰めや励ましも全く届かない、人に対しても自分に対しても。そういう経験を私たちはするでしょう。目の前の事実という普遍的な代わり映えのない思いだけに縛られるなら、この闇は闇のままなのです。私たちは理想や願望を追い求めれば求めるほど、挫折や裏切りにあったとき、目の前は真っ暗闇に覆われてしまうのです。

主イエスはイスラエルを、敵国のローマ帝国の圧政から解放してくれるメシア(救い主)として、人々から期待されていました。弟子たちにとっての希望でした。主イエスは彼らにとっての、行いにも言葉にも力のある預言者としてのメシア像だったのです。このメシアである主イエスに希望を抱きつつ、共に過ごした日々を彼らは忘れることはなかったでしょう。主イエスのご生涯の歩みに、自分たちの人生を重ねていた。主イエスとの出会いによって、自分たちは変えられていった。真のメシアに出会い、自分たちは救いの道を歩むことが約束されたと、主イエスのお姿の中に、彼らはその希望を抱いていました。しかし、彼らは主イエスの受難と十字架に従うことができませんでした。世の権力の前に、無力であった主イエスを前にして、自分たちの弱さ、もろさをさらけだして、彼らは逃げ出していったのです。主イエスの死によって、全てが終りだという心境へと突き落とされた彼らは、婦人たちの証言を信じることができず、エマオへの途上にあるこの弟子たちは、復活の主イエスにすら気づかないほどの絶望を経験しているのです。

しかし、その絶望の只中にある彼らに、主イエスは聖書全体の御言葉を通して、自らのメシア像を彼らに解き明かすのです。2人の弟子に、主イエスは言われます。物わかりが悪く、心の鈍い者たちだと。物わかりが悪く、心の鈍い者。それは単に要領の悪さや頭の悪さを言っているのではなく、根本的な真理から目を背け、目の前の事実だけに目を留めて、自分たちの思いだけに踏みとどまろうとすることです。こうこう、こうでなくてはいけないという善悪の判断基準を、人間の価値観において捉えようとする。生きる者にとって、その判断基準は大切かもしれないけど、その基準には必ず欠点があるのです。死角が存在するのです。それこそ、彼らの目がさえぎられて、物わかりが悪く、心の鈍い状態を表している人間の思いそのものなのです。

主イエスが示されるメシア、それは「メシアとはこういう苦しみをうけて、栄光に入る」と語られた苦難のメシア、すなわち十字架のメシアに他なりません。こういう苦しみとは私たちの苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きに他ならない。それらを担い、私たちと共にいてくださる主イエスは、力ではなく、苦しみの中にこそ、神の栄光を表わしたのです。そして、その苦難のメシアである主イエスは、もはや死の只中におられず、墓を打ち砕き、死を打ち滅ぼし、復活のメシアとして、この弟子たちと共におられる。復活という永遠の命に生きる者として、彼らと共に歩んでいたのです。

皆さんはFootprints(あしあと)という賛美歌をご存知でしょうか。ワーシップソングとして知られる、大変有名な賛美歌で、一度は聞いたことがある賛美歌かと思います。Footprintsというのは「あしあと」という意味です。こういう歌詞です。

主と私で歩いてきたこの道
あしあとは ふたりぶん
でもいつの間にかひとりぶんだけ
消えてなくなっていた
「主よ あなたはどこへ行ってしまったのですか?」
「わたしはここにいる あなたを負ぶって歩いてきたのだ
あなたは何も恐れなくて良い わたしが共にいるから」

私も大学生の時、学校の聖歌隊でよく歌った賛美歌でした。ある人は、この歌を聞いて、寂しくなるから、この歌は好きじゃないと言っていました。共に歩んできた主のあしあとがいつのまにかなくなって、自分のあしあとしかなかったという寂しさを感じるからと言っていました。今まで一緒に歩いてきたのに、いつの間にかいなくなってしまった。「どこへ行ってしまったのか」という歌詞だけを見れば、確かにこの歌のせつなさ、悲しさ、寂しさだけが伝わってまいります。自分たちの目にはもう見えないところに主は行ってしまった。もう会えない。主イエスがもう共におられないと感じるかのように、悲しさだけがただ自分を支配しているのです。しかし、この歌詞の後半に私たちは慰めを受けます。「わたしはここにいる、あなたを負ぶって歩いてきたのだ」わたしは確かにここにいるのだと。あしあとがひとつしかないのは、あなたを負ぶってきたのだからと。あなたを負ぶる、主が私を負ぶってくださるということです。もう辛くて歩けない、人生という道の途上で、屈みこみ、苦しみの中にあったあなたを、私は抱えて、負ぶってきたんだよという主の愛が示されています。あなたを負ぶるということは、私の苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きを負ってくださるということ。十字架のメシアとして、あなたを救うために、あなたを負ぶって、どこまでも歩むことができるんだよと。だから恐れなくて大丈夫だ。こう語りかける主。そしてまた最後に「わたしが共にいる」と言われるのです。

私が共にいる、それは何よりも、十字架の死から復活を遂げた主イエスが今も生きておられるということの言葉に他なりません。弟子たちの目はさえぎられ、物わかりが悪く、心にぶくとも、暗い顔をしている彼らと確かに共におられる。エマオへの村に近づいた彼らは、主イエスを引き留め、一緒に食卓につきました。パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らに渡すと、彼らの目は開け、そこでやっと主イエスだと分かったが、その時には既に主イエスの姿は見えなくなっていたのです。彼らは復活の主イエスと出会い、復活を信じました。主は生きておられると、もはや暗い顔ではなく、確信に満ちた顔で他の弟子たちに告げていったことでしょう。

主イエスはどこまでも私たちと共に歩んでくださる。苦しみの只中にあり、もう前に進めないと思って、屈んでいる時でも、主イエスは私たちの苦しみを担われ、私たちを導いてくださる。復活、この言葉には「立ち上がる」という意味があります。そう、立ち上がるのです。あの徴税人のマタイが主イエスと出会い、立ち上がって主イエスに従っていったように、主の復活によって、私たちも立ち上げられたのです。

苦しみや痛み、悲しみ、嘆きを経験しなくてはいけない私たちの人生です。その人生の歩みの中で、救いなどないと思えてしまうほどの闇が、この世界を覆っています。しかし、主イエスはこの闇の中に来られ、私たちを救うために十字架にかかって死に、三日目に復活して、死という最大の苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きに打ち勝ちました。今、この復活の主は私たちと共におられます。主を見失いかけてしまう時もあるでしょう。でも、主はいつまでもあなたの傍らにおられ、御言葉を語り、聖餐の恵みを通して、私たちに神様の愛を示してくださいます。

主の復活の喜びを知る時、私たちの目に遮るものは、もはやないのです。主が私たちの目を開いて下さり、御自身を顕されました。本当に主は復活したのです!

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年3月24日 受難主日 「主イエスの受難」

ルカによる福音書23章1〜49節
高野 公雄 牧師

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

ルカによる福音書23章32~43節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

二千年前の今日、イエスさまは子ろばに乗って都エルサレムに入りました。人々は手に手に棕櫚(なつめやし)の枝をかざし、ホサナ、ホサナと歓呼の叫びで迎えます。また、上着を脱いでイエスさまの通る道に敷いて敬意を表します。今日の礼拝のはじめの歌は、この日を記念しています。今日からの一週間、代々の教会は、エルサレム入城に始まるイエスさまの受難の道を覚えて、私たちへの愛と赦しのために十字架にかかってくださったことに感謝し、罪を悔いて神に立ち帰ってきたのです。

現代人の生活は忙しくてウィークデイの集会が持ちにくくなったため、復活祭の前の日曜日は、昔のように棕櫚主日(枝の主日)として守るよりも、今日では聖金曜日のイエスさまの受難を先取りして、受難主日として守るようになっています。

本日は、ルカ福音23章1~49節を配役に分けて、全員で朗読しました。そうすることによって、イエスさまの受難の物語を観客として聞くのでなく、私たち自身がイエスさまの受難劇に参加していることを体験するためです。

イエスさまは枝の主日に民衆の大歓迎を受けてエルサレムに到着した後、毎日神殿に通って人々に教えを説かれました。しかし、人々はわずか数日のうちに彼に躓いて、口々に「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶようになります。そして、聖木曜日にイエスさまは弟子たちとともに過越の食事をし、オリーブ山で祈った後、逮捕されて、まずユダヤの最高法院で裁判を受けました(ルカ22章14~71)。その後、ローマ総督ピラトのもとに連れて行かれて、ローマ側の裁判を受けるところから、23章は始まります。

きょうの福音は、ローマ総督ピラトによる裁判の場面(1~25節)とイエスさまが十字架にかけられる場面(26節以下)とに分けられます。前半のピラトによる裁判の場面では、《「ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう》と、ピラトは三度(4節、14~15節、22節)も「イエスは無実であるから、釈放すべきだ」と語ったというように、イエスさまが何の罪もないのに処刑されることになった様子が描かれています。この「三度」という数は、完全を表わします。ペトロは「三度」イエスさまを知らないと言い、パウロは「三度」肉体のトゲを取り去ってくださいと祈りました。ここでは、ピラトがイエスさまは無罪であることをはっきりと宣言したことを意味しています。福音書の著者ルカはこのピラトの裁きを通して、無罪であるイエスさまが十字架にかけられたこと、つまり、イエスさまが十字架にかからなければならなかった原因は別のところにあったことを示しているのです。

後半のイエスさまが十字架にかけられる場面では、ルカ福音書に特有の話が含まれていて、印象的です。そこで、今日はルカ福音に特有の三つの事柄に目を留めることで、イエスさまの十字架上の死と私たちとの関係について考えて見たいと思います。

その一つは28~31節です。イエスさまはご自分のために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰めます。29~30節はこれから起こる大きな災いを予告する言葉です。31節の《「生の木」さえこうされるのなら、「枯れた木」はいったいどうなるのだろうか》の「生の木」は、火にくべられるはずのないもの、つまり罪のないイエスさまを指し、「枯れた木」は火にくべられるはずのもの、つまり罪びとである普通の人間を指します。イエスさまはここで私たちに対して、「わたしのために泣くな」、むしろ、自分の本当の姿を見つめ、厳しい裁きに運命づけられている自分のために嘆けと言っています。イエスさまの受難の出来事を通して、自分が本来受けるべきだった裁きの姿を知ることによって、その裁きを自分に代わって受けてくださったイエスさまの愛と恵みを悟ることができるのです。

次にルカだけが伝えるのは、34節の祈りです。《そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」》これはイエスさまが語られた言葉としてとても有名ですが、重要な写本でこの言葉がないものがあるので、新共同訳聖書では亀甲カッコ〔 〕で囲まれるようになりました。この祈りは、無実のはずのイエスさまを殺した犯人は誰か、ユダヤ人の側かローマ人の側か、と問うていては理解できません。イエスさまはこの祈りを私たちのために祈っているのだからです。イエスさまを十字架につけた犯人は、神に背き、自分勝手に生きている私たちすべての人間なのです。毎年、聖金曜日に、私たちはイザヤ書の「主の僕の歌」を読みます。そこに、《彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた》(イザヤ53章5~6)とあります。ここに、イエスさまの死は私たちの罪を負うためのものであることが明らかに示されています。

40~43節の、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエスさまに救いを願う話もルカだけが伝えるものです。イエスさまと一緒に、二人の強盗が一人はイエスさまの右に、一人は左に十字架につけられました。その一人がイエスさまをののしって《「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ》と言います。もう一人はそれをたしなめて、《お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない》と言います。彼は、罪のないイエスさまが神の裁き、神の下す罰として十字架刑についていることに衝撃を受けて、神への恐れを抱いた、つまり、彼は生ける神と出会ったのでしょう。そして、自分は十字架につけられて死ななければならない罪びとであることに気づかされました。それと同時に、罪なくして自分と同じ十字架の刑を引き受け、共に苦しみを受けているイエスさまを知りました。イエスさまが《父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです》と祈るのを聞いていたはずです。

彼は、《イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください》と、イエスさまをキリスト(神が油注がれた王)として認め、その救いにあずかることを願います。すると、イエスさまは《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》と約束します。「回心した今」、苦しみの中でイエスさまが共にいてくださることに気づいたとき、もうそこに御国が実現しています。救いとは、イエスさまと共にいる者とされることです。その救いをイエスさまは彼に約束してくださったのです。「あなたは、私が実現する罪の赦しの恵みにあずかり、私と共にいる者となる」、と救いを宣言してくださったのです。私たちもまたイエスさまに出会い、神の前における自分の罪に気づき、イエスさまの十字架による救いにあずかりました。その点では、回心した強盗と同じです。私たちは決して、行いが立派だったから、心がけが立派だったから救いにあずかったわけではありませんでした。

この回心した強盗は「天国泥棒」と呼ばれることがあります。生きている間は盗んだり、殺したりしていたのに、最後の最後にイエスさまの救いにあずかり、天国への切符を手に入れてしまった、天国をも盗んでしまったというわけです。この回心した良い強盗は、伝説によると、ディスマス Dismas または聖ディスマスと呼ばれます。イエスさまの右手の十字架に架けられたそうで、彼に救いの言葉をかけているために、十字架のイエスさまは首を右手の方に向けているのだそうです。

しかし、この天国泥棒という言葉を否定的な意味にとってはいけません。この強盗において、イエスさまの十字架の死によって成し遂げてくださった救いがどのようなものであるかが、印象的に描かれているのです。イエスさまによる救いは、人がどれだけ善い行いを積んできたかによるものではありません。この救いにあずかるのに、こんな罪を犯してしまったからだめだとか、こうなったらもう遅いということはありません。私たちは皆、この天国泥棒と同じように、イエスさまと出会い、その救いにあずかるのです。イエスさまは私たちのために十字架を負っていてくださいます。イエスさまが私たちのために備えてくださった聖餐の食卓を囲んで、私たち一人ひとりがイエスさまに連なる肢体として、豊かな養いをいただくことのできる幸いに感謝しましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。