2001年2月25日 変容主日 「イエスさまがお姿を変えられたことの私たちにとっての意味は」

第1日課   申命記34:1-12

モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡されるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。主はモーセに言われた。 「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」 主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。 ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行なわせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。

第2日課   コリント人への第2の手紙4:1-6

こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

福音書   ルカによる福音書9:28-36

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

説教 「イエスさまがお姿を変えられたことの私たちにとっての意味は。」

ルカによる福音書、9章28節から36節のお言葉でございます。

イエスさまがお姿を変えられたと言うこと、これは瞬間的なことだとわたくしは思っております。そこで、弟子たちはイエスさまの神の子として本当のお姿を見たと思います。これは、弟子たちにとってもまた、わたしたちにとっても大切なことでございます。
イエスさまと共にそこへ現れたのは、旧約時代の二人の人です。一人はエリヤ、もう一人はモーセでした。聖書をよく読んでみると、大きく神さまのご用を果たした二人です。そして、リーダー格の人たちです。なお、エリヤは神様が直接天国へお連れになったのです。そしてモーセの場合は、聖書では死んだと書いてあり、神さまが葬られたのですが、どこに葬られているかは今もって分かっておりません。ちゃんと場所も指摘されているのですが、それはわからないと言うことで、きっと神さまが天国へ彼もお連れになったと考えられます。とにかく、彼らもイエスさまと同じ状態で、弟子たちの前に現れたことは、わたしたちにとって、ちょっと先のこと、わたしたちが天国へ行くときはこのような状態でないでしょうか。イエスさまの顔も、姿も変わったのです。弟子たちはイエスさまを見てあんまり輝いていたので、それを良く見ることができませんでした。そこに弟子たちは三人いたのですが、その三人の話によりますと、「服が真っ白に輝やいて、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9:3)と、これはマルコの福音書の言葉でございます。ペトロの弟子であるマルコがそう告げております。マタイも「服は光のように白くなった。」ルカは「服は真っ白に輝いた。」とあります。わたしたちもそこにいたら見ようとしても見ておられないほど輝いて美しかったでしょう。そこでわたしたちが考えさせられることは、イエス様の本当のお姿はどんなものでしょうかです。
弟子たちはその素晴らしい姿を見て、ペテロがすぐに思いついたことは、ここに祭るところを作ろうと考えていたと思います。そう考えているうちに、大きな雲が彼らを包んで、その雲の中から声が聞こえたのです。それは「これはわたしの子。選ばれた者、これに聞け。」でした。これと同じ言葉が聞こえた時がもう一回以前にありました。その時ペトロやヤコブはいたと思いますが、ヨハネはどこにいたかははっきりしていません。イエス様が洗礼をお受けになったときに、その同じ声が聞こえたのです。天の父なる神様の声です。「わたしの愛する子です」と仰っておられます。ペトロが勝手にここを大切な場所にしましょう。拝むようなところにしましょうと思っていると、神さまの「イエスさまに聞きなさい。彼に聞け」というお言葉でした。
ペトロは後になりますが、手紙を初代教会の方々のために二通も書き残しております。その第二の手紙の一章のところに彼はこう書いております。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけでありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』と言うような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは聖なる山にいたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものになっています。夜が明け、明けの明星があなた方の心の中に昇るときまで、暗いところに輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。何よりもまず心得て欲しいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないと言うことです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく。人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」
それで、わたしたちもこの世の中にいる間、いろいろな体験をして、一つは、わたしたちの力で、神さま、イエスさまを信じることもできない者です。それは罪人としての状態を示しております。その罪の状態のわたしたちを救うためにイエスさまがこの世に来られたのです。わたしたちと同じような人間になってくださって、私たちの体験するいやなことも結構御覧なさって、最期には罪もないのに、死刑を受けて十字架に磔られたのです。
わたしたちはイエスさまの変わったお姿を見ていませんが、わたしたちはその場で見たと言う人のお言葉を信じるほかございませんが、イエスさまは甦られて、再び生きておられたことは、わたしたちに大きな希望を与えるものです。わたしたちも甦るでしょうと。
そして、弟子たちが見たイエスさまの本当のお姿が、目で見られないほど輝いて美しいかったので、勝手に記念するように、なにかを造ろうとしたほどでした。いずれはわたしたちもそのように変わるのです。イエス様がわたしたちの罪を贖ってくださって、それをお赦しになったということはこのようなことを意味するのです。わたしたち人間はすっかり変わってしまう。その時は勿論天国の門をくぐったときでございますが、今、わたしたちが想像もできないほどの素晴らしさです。本当のイエスさまのお姿と一緒になるという時が来るという約束がございます。そのように変わったら、イエスさまと最も親しく、一緒にいることができるのです。変貌というこの記事の大切な意味がここにございます。それはイエスさまが素晴らしいと言うことだけではなく、いずれわたしたちも同じような者になると約束されているのですから、イエスさまと共に永遠に良いところへ行って生きるのです。
ペトロも「丁度暗いところから光の輝きを見てびっくりしているところでしょう。あんまりにも明るくて、あんまりにも美しくて、わたしたちの目にはそれに耐えられないほどでないでしょうか」と言っております。
その美しさはわたしたち人間がつくったものではございません。かえってわたしたち人間はそれを描く言葉も足りないのです。そのように変わることをわたしたちの希望として、 後の楽しみとしておりましょう。わたしたちはこれを見たということ、聖書の記事の中で見るのですが、その言葉がわたしたちにとって、先のことを意味しているのです。今既に大きな喜びを与えてくださるものでございませんでしょうか。イエスさまがこの時、瞬間的ではございますが、何秒、何分間かはわかりませんが、ちょっとだけですが、大きな大きな希望をわたしたちに与えてくださっておられるのです。ことにわたしたちは理屈でははっきりと説明出来ないのですが、わたしたちの十字架上のイエスさまのお姿、その意味は何であるかと言うこと。イエスさまがそこまでわたしたちを愛して、自分を惜しまずに身代わりになってくださって、私たちの払うべきものを全部払ってくださって贖ってくださったことは聖書の教えです。それは、繰り返しわたしたちに聞かされているところです。わたしたちは喜んで、それを聞いて、今はこうですが、いずれはもっとわたしたちも素晴らしい者になるのです。自分の力ではなくそこまでわたしたちには力はないのです。だから、イエスさまに救われたとはっきり証拠するものでございませんでしょうか。かえってそれがわたしたちにとって大きな喜びです。自分では出来ないのですが、イエスさまがそれをしてくださったことでもっと確かなことです。
ちょびっとイエスさまの輝いた素晴らしいそのお姿を見せられて、先の時に私たちもそれに加わることを思えば、わたしたちはもっともっと大きな期待を持って、今の私たちは出来るだけ多くの人々にそれを伝えて、沢山の人に、出来れば全部の人間にこれを聞かせたいと思うほどでございませんでしょうか。そのために私たちはイエスさまについて学んでいます。毎週集まって祈りをしたり、聖書の言葉を聞いて、少しずつイエスさまに近寄ろうとしておりますが、勿論私たちの力ではなく神さまがそうしてくださらなければ私たちには到底出来ないことです。ただその大きな愛に包まれていることを人々へ伝えたいだけでございましょう。

2001年2月18日 顕現節第7主日 「全部のものがなくなったら、私たちはどうなるの」

第1日課   エレミヤ書7:1-7

主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ。皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行ないを正せ。そうすれば。わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行ないを正し、お互いの内に正義を行ない、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。」

第2日課 コリント人への第1の手紙15:12-20

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

福音書 ルカによる福音書6:37-49

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人と決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか、二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください。』と、どうして言えるのだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことが出来る。」

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野バラからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

「わたしを『主よ、主よ』 と呼びながら、なぜわたしの言うことを行なわないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行なう人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

説教 「全部のものがなくなったら、私たちはどうなるの。」

ルカによる福音書の6章37節から49節のお言葉でございます。

今日の福音書の日課では、イエスさまがしっかりとした家を建てて、その土台が堅いものでしたら、たとえ洪水が起こってもその家は崩れないというお話でございます。

そこで、エルサレム近辺、パレスチナというところを考えてみますと、洪水が起きるところはどこかちょっと思いつきません。あるかもしれませんが、私の知識ではないのです。ヨルダン川は深いところを流れているので、あふれ出るようなところでございません。それでは、イスラエル人がイエス様のお言葉を聞いて、もしも洪水が起こったらあなたの家は大丈夫ですかという話はどういうことでしたでしょうか。彼らはきっともっと昔の話しを思い出したことでしょう。大洪水が起こった時、この地球全体に水があふれて、ほとんどの人がそれで亡くなったということを思い出したでしょう。ということは、この話しはただの水が出るということではなく、これは地獄の話ではないでしょうか。最後の審判にわたしたちはどうなっているでしょうかと考えさせるお言葉でないでしょうかと思っております。ノアの時代は世の中がとっても乱れていたのです。そして、神さまが人間を造ったことを後悔なさったのが見えます。そして、全部を無くそうと考えなさったのですが、でも一家族だけは、彼に忠実であったことで、その家族だけを、八人だけを、ノアとノアの妻と三人の息子とそのよめさんたち合計八人が残ったのです。日本の文字の中に、[船]という字がありますが、舟へんに八口と、八つの口を書くのです。大きな船、汽船などにその船の字を使うのです。やはり、神さまのお救いを記す言葉であるのです。そういうことをイエスさまがこの話しをなさった時、皆が思いついたことでないでしょうか。

わたしたちの世の中には人を批判することが結構あるのです。批判をしないという人は少ないでしょうね。「裁くな」あるいは「人を罪人だと決めること。定めること。」この罪人と決めることは法廷で使う言葉です。犯罪人と決めてしまうそれほどきつい言葉です。でも、新聞を見るとほとんど毎日、誰かが訴えられて、悪い者となっていることが目立ちます。そして、この世の中で本当によいこと、勿論批判している人は自分が正しいから、他の人を批判しているのです。そして、自分が悪かったら、人を批判できないのです。それで、そういう世の中ですから、実際にわたしたちが世の中を良く見ると人は皆罪人であることがよく分かります。それで家を建ててもきっと大洪水で流されてしまうでしょうと考えなければなりません。どうしたら良いでしょうか。何が、岩盤の固い基礎として、家を建てる所でありましょうか。良く探してみると、イエスさまが教えておられるのです。彼自身が模範となって私たちを愛してくださった。その愛そのものがその基礎でないでしょうか。それで、わたしたちはそこからまず考えなければなりません。いろいろ世の中を見るほど、よくないことや、わたしたちの考えが間違っていることが結構あるのです。人間は人の批判をしながら自分がそんなに良くなくてもそれを隠して、他の人間を悪く言ったりするのが癖のようになっているようです。それと同時にとんでもない夢を持っています。ここに素晴らしい木があって、そこにおいしい甘い果物が実るものだと思い込むということがありますが、イエスさまのおっしゃることは根本的に良い木であったら、良い実を結ぶでしょう。しかし、悪い木でしたら、その類の実を結ぶということです。根本ということをわたしたちは考えさせられます。

神さまが人間を造られたときは良い者でした。そして、一人の人間が罪を犯したから、全部がその結果を負わなければならないのです。これはアダムとエバの話になりますが、そこで、わたしたちの本当の考え方をどう変えられるのでしょうか。これも神さまがご心配なさって、御独り子をこの世にお送りなさったのです。主はわたしたちと同じような世の中にしばらくいらして、いろいろなことを見て、ただし彼は罪を犯さなかったのです。罪を犯していないのに裁かれて十字架につけられたのです。それによって、主イエスさまがわたしたちの身代わりをしてくださったのです。それを、わたしたちは繰り返し繰り返し聞かされているのです。そればかりではなくイエスさまは甦りなさった。復活なさったのです。元のものと違うものになられた。その意味をわたしたちは良く考えなければなりません。この世の多くの人たちは復活ということを考えていないでしょう。勿論、ある宗教では、よみがえりとは言わないが生まれ変わると言っています。その生まれ変りはこの世の中へまた生まれてくることで、形は少し違っているが、それが良いか悪いかはわたしたちは判断できませんが、でも、面白いことには、あんまり良い生活をしていなかったら、次の時には動物や犬に生まれ変ってくると、最悪の場合は女に生まれ変わるという宗教もあるのです。ですからある人は生まれ変る復活は考えたくなくて、それは嘘でしょうと言い、またそれはどうやってそう完全に変わることが出来るのでしょうかと、理屈をもって考えているのです。そしてそれを否定しています。

でも、パウロが今日わたしたちに聞かせてくださっているのは、「復活がなかったら、主イエスも復活しない。また、わたしたちも復活をしません。その復活無しでしたら、わたしたちの信仰もむなしいものだ。」と言っております。いくら良いことを一生懸命にやろうとして、自分を改善して良い習慣を身につけようとしても、勿論それは足りないことです。完全まではいかないと結論が分かりながら望んでいるのです。自分の力で自分を救うというのが大体の人間の考え方です。わたしたちも本当に復活はあるのでしょうか。ちょっと夢ではないでしょうか。神さまは本当ですと言われます。そのために、主イエスさまをこの世に送られて、十字架に磔けられたイエスさまが、またその後復活されて皆の前に現れなさって、生きたお姿をお見せになったのです。そのイエスさまが昇天なさるのを目の前で、人の目の前で神さまがお見せになったこと。だからわたしたちは復活が可能だと、神さまがなさるのなら可能だと、わたしたちの力では出来ないのです。だから、わたしたちはイエスさまにすがりついて、イエスさまの救いを心に留めてそれを信じようといたしております。

これは、使徒言行録二章のイエスさまが復活なさって、昇天なさるところの記事ですが、「わたしはいつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。」とあります。今日の交読文の詩編にも同じような言葉があります。[動揺しない。しっかりとしている。基礎が確かだ。]と。わたしたちがそう思い込んでいるから確かだと言うのではなく神さまがわたしたちにそれを教えてくださっておられるから確かであると言えるのです。これを今日、わたしたちは考えたいことです。

エレミヤのときも大変な時でした。ユダヤの国が、以前はイスラエルと言って、半分以上はバビロニヤへ捕虜としてすでに連れて行かれ、次にエルサレムを中心とした残りの者も攻められていて、同じようにバビロニヤへ連れて行かれるでしょうということが目の前にあったのです。それをエルサレムの人たちは、大丈夫だと、エルサレムにこの神殿がある限りきっと神さまがそれを守ってくださると言う迷信を信じていたのです。エレミヤは、まずわたしたちはもっと真面目な生き方をしていなければならない。できるだけ正しいことをやろうとしていなければならない。勿論完全な者ではないから、完全には出来ないが、第一には神様を信じることで、建物ではなく組織でもなく、彼らユダや人は選民だと言って神さまが選ばれた輩であることを誇りにして、一つの迷信にしていたのです。エレミヤはそれに対して、とんでもないことだと言っています。エレミヤは長生きをした人です。バビロニヤが攻めてきて、全部征服をすると預言していたので、バビロニヤの人たちもそれを知っていたのでエレミヤを捕虜にはしなかったのですが、だいぶ歳になってよぼよぼしていたのでしょう。彼を心配する人たちによって、無理やりに彼を連れてエジプトへ逃げてしまったのです。だから、エルサレムの災害を彼は実際には見なかったのでしょう。当時の人たちは随分苦しいことを経験しました。エレミヤの言葉の通りに、と言っても神さまが言わせた言葉です。エレミヤはそんなに厳しい話をする人ではなかったのです。ちょっと体も弱い人でしたから、あんまり大きな声も出さなかった人ですが、神さまに選ばれて、預言をしたのです。また、その国の人に一番声が届くように神殿の入り口で預言者として「神さまの言葉を聞こう。神さまのおっしゃることを受け入れて、ただ、一部だけを頂いてそれにすがりつくことではなく、神さまのおっしゃることは全部正しいと受け入れること」と話したのです。その中には救いの言葉もあったのです。神さまが約束の救い主をこの世に送ってくださるということ。その約束の救い主は、わたしたちはもう知っております。主イエスさまです。だから一番しっかりとした堅い地盤はそこにあるのです。主イエスさまを信じていたら、わたしたちの家は崩れないと。この世の中がなくなってしまっても、地球、宇宙が変わってしまって、無くなってもわたしたちは生きて、生きるところがちゃんとあるということをわたしたちは信じられるのです。これが今日の聖書の日課でないでしょうか。

わたしたちが今与えられている住み家は神様から頂いたもので、その地盤は神さまのお言葉、神さまの約束のお言葉でございます。わたしたちはどんなことがあっても、イエスさまを救い主と信じておりましょう。

2001年2月11日 顕現節第6主日 「キリストの意外なお言葉」

第1日課   創世記45:3-15

ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることが出来なかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることがないようになさらなければいけません。』さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」

ヨセフは弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。

第2日課   コリント人への第1の手紙14:12-20

あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。

兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。

福音書   ルカによる福音書6:27-36

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返えそうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして、貸したところで、どんな恵があろうか。罪人でさえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

説教  「キリストの意外なお言葉。」

ルカによる福音書、六章の二十七節から三十六節のお言葉でございます。

イエスさまは弟子たちに意外な言葉を使っておられます。「敵を愛しなさい。」と。また、「悪口を言う人を祝福しなさい。頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を盗ろうとするものには下着も拒まないように、求める者には誰にも応えなさい。」このような、イエスさまの意外なお言葉。これには大事な一つの目的があると思います。それを今日はちょっと考えてみたいと思うております。

まず、旧約聖書の例を取り上げてみたいと思います。

ヨセフは、十二人の兄弟の十一人目の人でした。でも、複雑な家庭でした。お父さんのヤコブは、ラケルと結婚したかったのです。その娘の親と約束をして、七年間働いたのです。そして、いざ、結婚式をしましたら、後でわかったことは、自分が好きであったラケルではなくその姉レアと結婚をしてしまったのです。知らずに結婚式をしてしまったのです。 騙されたのです。それは、彼も悪かったのです。ヤコブは後継ぎのことで父親を騙して、兄さんから取り上げたことが前にあったのです。それで彼はまた七年働いて好きな女と一緒になるのですが、そのラケルには子供が出来ないで、お姉さんには何人も出来たので、その代わりに自分の使っている女によって、子供をつくったのです。お姉さんもまた自分の使っていた者の子供をつくるのです。とにかく十人もの子供が出来たのですが、やっと、ラケルが子供を産みます。その子供がヨセフでした。ですから、お父さんにとってはとっても可愛い子供でした。その後にもう一人が生まれたのです。ベニヤミンです。このベニヤミンが生まれた時に、ラケルは亡くなるのです。なおさらお父さんにとっては大事な子供でした。だから、その思いを隠さずにその二人の子供を特別に可愛がっていたのでしょう。お兄さんたちはそれを嫉妬していたので、ある時ヨセフがお父さんのご用で、お兄さんの様子を見に行かさせられたところ、お兄さんたちがヨセフを殺そうとたくらんで、洞穴の中に一時入れたのですが、通りかかった商人へヨセフを奴隷として売ってしまいました。ヨセフはエジプトへ連れて行かれたのです。この時ヨセフはだいたい十七才であったでしょう。青年といってもまだ若いヨセフはいろいろ苦労を重ねます。ついに、ヨセフは悪い事をしないのですが、そこの家庭の奥さんに嫌われて、獄やへ入れられてしまいます。獄やでは真面目に働いて、かえって囚人の世話をしたりしていたようです。囚人として苦労があったでしょう。その中に王様の召使が二人いました。その二人がある時夢を見て、それをヨセフが解きました。一人は大変だ。死刑になるだろうで、もう一人はもとの職へ戻されるだろうと解釈をしたのです。その後エジプトの王様が夢を見て誰もそれを解釈出来なくって困っていた時に、この獄やに入れられていた者がヨセフを思い出して、王さまにそのことを話したので、ヨセフが解釈をしたところそのとおりになって喜んだ王様が彼を今日の聖書では「顧問」にしたとありますが、ある聖書ではファラオの父親としたとあります。それはファラオが自分よりも上の者としたのです。その夢の解釈は、七年間国は大いに恵まれて、後の七年間は不作でみん困るでしょうということで、その通りになりましたので、豊作のときに充分に蓄えて後の7年のために準備をすることが出来たのです。王様は喜んで、ヨセフをその係りとしたのです。そのために助かるのですが、ヨセフの兄弟はすぐ近くの、隣の隣の国という程度のところにいて、飢饉が起こって、どうしても食べる物がなくって、エジプトへ買いに来るのです。ヨセフはすぐ気がついていたのですが、穀物を充分に与えて、その上お金を一人一人の袋へ隠して入れておいたのです。翌年また、兄弟たちが買いに来た時には、ヨセフは必ず弟を連れて来させるためにたくらんだのですが、十二人の兄弟の一人は亡くなって、一番若いのはお父さんの所へ残してきたのですという兄弟たちに、今度来る時には必ずその弟を連れてくるようにと約束をさせたのです。その次の時に、お父さんは、大事な子供を亡くすのを心配して反対したのですが、兄弟たちは約束した通りにエジプトへベニヤミンを連れて行くのです。買い物をして、帰る途中に王様の使い人が後を追っかけてきて、誰かが王様のコップを盗んだと言って、みんなの袋を調べさせたのです。するとベニヤミンの袋にそれが入っていたのです。これは、また戻ってくるようにとヨセフが計画的に入れておいたものです。使いの者は「盗んだ者はエジプトへ帰って奴隷にならなければならない」と言ったので、兄さんたちはお父さんに必ず連れて帰ると約束してきたので、皆で、またエジプトへ戻るのです。そこで、ヨセフは兄弟の顔を見て、他の人を遠ざけて、兄弟だけの所で、「わたしはヨセフです。」と言って一人一人を抱いて、涙を流すのです。ヨセフは「これは、わたしに対して君たちがたくらんだことですが、神さまがわたしをみんなより先にエジプトへ来るようにご計画をなさったのです。今、この通りに、わたしが皆を救うことが出来たのです。これは神さまのおかげです」と言って、ヨセフが兄弟たちを赦したのです。二十年以上たっていたでしょう。ヨセフはエジプトで苦労をしたのです。それでも、赦したのです。このように、これは神様のご計画なさったことと彼が解釈をしたところはわたしたちが教えられるところです。

ルカによる福音書で、「敵を愛しなさい。」と同じように、罪人が、悪い者が、仲間を許すことは、これは当然のことでしょう。でも、あなたが悪いことをしないで、悪い者にされても、あなたがたが親切にしていたら、それで親切にされた人は考えさせられることでしょう。それによって、彼らの目を神様に向けさせるでしょう。クリスチャンはそういう者だと神様にそう教えられているから、彼らも、もっと愛することを考えるべきだと人に教えることが出来るのでないでしょうか。当たり前の事をしていたら、全然そのような思いは起こらないのですが、でも、思いがけないことをしていたら、きっと、それで導かれるのでないでしょうか。

わたしたちが生きていることは、人を神様の方に目を向けさせることが大きな役割です。わたしたちが生かされている目的です。神様が、ヨセフをエジプトへ行かせた。行くようにいろいろ工夫をなさった。結局、家族兄弟を助けることが出来たように、わたしたちも普通考えればそこまでは思っていませんが、わたしたちはクリスチャンとして、繰り返し聖書を通して教わっていることがあるのです。例えば、ローマ人の十二章ですが、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい。出来れば、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:17-21)そのほかにガラテヤ書の五章に「神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤ5:4-5)

今日のお話のポイントは、神さまがわたしたちに意外なことをしてくださったことです。わたしたちは、世の中の他の人に比べたらいくらかはよいと思うかもわかりませんが、でも本当を言えばわたしたちはそんなに素晴らしい人ではないのですね。神さまの望まれるような人ではないのです。わたしたちは結構欠点があって、間違ったことを繰り返ししています。わたしたちの心が嫌なことを思いついたりしているのです。それで、神さまがよくわたしたちのことを憐れんでくださって、御独り子をこの世にお送りなさったことを考えさせられます。神さまが本当はわたしたちに酷い刑罰を、わたしたちは地獄へ送られるべきでしょう。そのように神さまが考えられても、わたしたちは、決して神さまを悪くは言えません。良い神さまでしたら、悪を嫌われるはずでしょう。それに報われることをなさるのが当然でしょう。にもかかわらず、神さまはわたしたちを愛してくださって、その愛は、わたしたちを赦してくださるという事です。そのためにただで赦すことが出来ない神さまですから、その身代わりとして、独り子のイエスさまをこの世に送られたのです。そこまでわたしたちは良く考えていなければなりません。神さまがわたしたちを地獄へ送られても不思議ではない。それが当たり前のことで、わたしたちは一人も永遠に生きることは出来ません。天国へ行けません。充分に良い者ではないのです。でも神さまはわたしたちに対して本当の親心を持っておられます。わたしたちを赦して、愛して、わたしたちを子供にしておられるのです。だから、このように神さまが、『その独り子を女から、わたしたち人間と同じようになられて律法の下に生まれた者として、お遣わしになりました。これは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。』と、このガラテヤ人への言葉を繰り返し申します。これを心に留めていましょう。神さまに対して感謝をして、毎日をそのようにいたしておりましょう。できれば、神さまに倣って、人が意外と思うこと、いじめられてもいじめ返すことなく、憎まれても憎み返すことをしないで、敵を愛することを、わたしたちは出来たらそれによって、その人たちの目を神さまに向けることが出来たら、本当にわたしたちは嬉しいと思います。イエスさまがそのようにわたしたちに教えてくださっております。

2001年2月4日 顕現節第5主日 「中途半端でない将来」

第1日課   エレミヤ書17:5-8

主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。

第2日課   コリント人への第1の手紙12:27-13:13

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行なう者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行なう者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来た時には、部分的なものは廃れよう。幼子だった時に、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくてとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で、最も大いなるものは、愛である。

福音書   ルカによる福音書6:17-26

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じ事をしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなた方はもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

説教  「中途半端でない将来。」

ルカによる福音書の六章17節から26節のお言葉でございます。

主イエスさまのお言葉も、また最初の旧約聖書の言葉にも、完全に逆で、違う立場にある人々について話しておられます。そして、勿論わたしたちは良い方に属したいと思っておりますが、このことについて、わたしたちは今日考えさせられるのでございます。

言葉としては、「幸いと不幸」となっております。旧約聖書の言葉はもっと厳しく、「呪われる人と祝福される人」という言葉を使っております。どちらにしても、正反対ですから、ある程度ということではなく、こっちか、あっちかとはっきりとしております。私たちの世の中では難しいこともあり、悲しいこともあって、何時も私たちは[ある程度]ということを考えています。この時と、あの時とはいくらか違う。それほどではない。或いは、もっとすごいというように考えるのですが、ここでのイエスさまのお言葉では、[幸い]とは完全な幸いです。完全な幸福です。わたしたちは、少しはこちらで良い、またあちらではそれほど大変ではないと考えがちですが、この言葉は今の時の話ではないようです。勿論、今からそういうことが私たちに関連しているのですが、でも、本当に幸いである時が来るのです。それは限りの無いものであって、本当に祝福される時です。わたしたちが天国へ移されて、イエスさまの兄弟として、神さまの家族となる時のことです。

イエス様がいらっしゃった国は地中海に面していたところです。地中海の柔らかい良い風が普段は吹いているのです。でも、たまに東側からアラブの、今はサウジアラビヤとなっているところですが、砂漠を通る風が吹いて来るのです。すると、青いものが全部焼けてしまってその年は植物が駄目になって人々は飢饉で苦しむのです。そのことを、譬えとしてイエスさまは用いられています。また、エレミヤもその当時の人たちに聞かせています。だから、ある程度ではなく完全に駄目と言うことなのです。東から風が吹いて来たら。そしてまったく砂漠のようなところになるというのです。土地が駄目になることです。実際にそのようなところがあるのでしょうかと思いましたが、わたくしはそれには会っていないのですが、第二次戦争中、日系人たちは太平洋側から他のところに移されてしまったのです。わたしの母や親類の人たちが移されたところは、土地の塩分が多くて雑草も生えないところでした。少し風が吹くとわあっと埃が立って嫌なところでした。日本人は一生懸命に働いて工夫をして上手に畑を作ることが出来たのですが、ラデッシュを植えたら余り塩分が強いので、塩をつけなくても食べられると冗談を言ったほどでした。また、もう少し木陰が欲しいと男たちは大きな葉っぱがあるエルムという木陰を作る木をそこへ植えたのですが、土地が悪いので小さい葉っぱしかならないで、全然木陰は出来なかったのです。

エレミヤ書の中でそのような飢饉が起こる状態のところでも、そばに水かが流れていたらそこから根が水分をすって木が何時までも青々としていると聞かせています。そのように全然違うということです。

わたしたちの信仰のことを考えれば、わたしたちが救われるか、または、救われないかという大きな差があるということ。救われる者は、完全に救われる。そのある程度までと言うことではない。天国へ行ったら完全なものに変わっているということです。イエス様の兄弟となっているのです。でも、もしもわたしたちが、不幸の方になれば、不幸といったら、日本の言葉では死ぬと言う話になってしまうのですが、その通りに本当に苦しい時が来るのです。それには、終わりのが無いのです。今の世の中でしたら、一時は苦しいでしょう。痛いでしょう。でも一時的なことです。永遠の時でしたら、どっちかという本当に幸福であるか、あるいは不幸であるかをイエス様が聞かせておられるのです。

その中にいろいろな例がございますが、その「幸せ」の基になることは何かといいますと、パウロはわたしたちに愛というものを考えさせるのです。愛というものは限度がないものです。最後には信仰と希望と愛と三つのものが残るのですが、天国へ行ったら、もう希望は既に与えられて、完全な者ですので、これからもっとよくなるということはないのです。希望は必要なくなる。信仰は先への大きな望みを持って信じることです。でも、現実が完全であったら信仰はいらないのです。わたしたちは当然愛し合っていますので、残るものは愛であると、パウロの言っていることでわたしたちに愛ということを考えさせます。そのように、わたしたちが愛を考える時は神様の愛を考えるべきです。

勿論、人間にも愛はありますが、最近は余り聞きません。わたしの若い時代でしたら、愛というものは、愛国であったのです。あるいは親を愛しなさいという命令だったのです。戒めだったのです。愛国もそうでしたが、必ずしも美しいものではなかったのです。ただ、恋愛の内にも使われています。男と女が心を寄せ合って、夫婦となり一緒に生活をすることを意味するものですが、それもここに、コリントの十三章にある愛とは大分違うものでないでしょうか。はじめは恋愛をして、ボーイフレンドかガールフレンドに心を寄せているのです。余り好きでないところもあるが、人はみな欠点があるのですから、完全ではない。それはおぼろげにちょっと思っているのですが、でも心を寄せているのですから、恋愛をしている時には夢中になっているのです。結婚をして、しばらくは続くのですが、だんだんに相手のいけないところが目立ってくるのです。そのうちに嫌に思って最近は随分離婚が多く行なわれているようです。その愛というものとは全然わたしたちの今言っている愛とは違うものと考えなければなりません。ただ、感情的に神様がある人を好きと言っているのではないのです。かえって、聖書によりますと、わたしたちはまだ罪人である時に神様が愛してくださって、独り子をこの世にお送りになってわたしたちの身代わりをなさったのです。それによってわたしたちの払うべきものをイエス様が受けてくださって払ってくださったから、わたしたちは一文も払う必要がないのです。そういう神様の愛とはわたしたちが普段考えている愛とは、例えば恋愛というものとは全然違うのでないでしょうか。わたしたち人間は本当に愛というものがわかっているのでしょうか。

コリントへの手紙の中にある愛についての一つ一つの言葉も、愛は決して滅びない、終わることはない。預言や異言や知識は廃れるが、わたしたちは良い話を聞いたり、どんな素晴らしい話を聞いてもそれは無くなるが、愛はそうではない。愛は一部分ではなく完全なものです。わたしたちにはその一部しか分かっていないのです。人に聞かせることも一部分だけです。パウロは子供を例にして、幼い時に考えていたことは、いろいろ夢のようなものがあったのでしょうが、大人になったら現実にぶつかってそれほど甘いものではないと私たちも分かってくるのです。だから、昔の鏡は今のとは違って、ガラスは当時ありませんので、おそらく鉄分や銅を磨いてそれを鏡として使っていたようです。それで、完全には映らなかったのです。ですから顔と顔を見合わせれば本物がわかるのですが、当時の鏡でしたら自分の顔もよくわからないのです。はっきりと分かる時、その時は、永遠の命が始まった時で、その時、わたしたちははっきり知ることになるでしょうと、そういう大きな希望を与えてくださっているのです。そして、希望ばかりではなく、わたしたちの信仰も大事にしているのですが、最後は愛しか残らないものだと。わたしたちは神様の愛に包まれて永遠に生きることであって、それには限りがなく何時までも続くと、わたしたちは今日聞かされて、その素晴らしいことを心に留めておきたいと思います。

皆さん、この基になるものは、わたしたちの主イエス様が教えてくださったことでございませんでしょうか。主のお言葉を良く聞いて心に留めておきましょう。今のところは、全部は分かりませんが、信じて希望を持っていましょう。その信じることと希望を持つということの基は愛である。神様の愛であると覚えておりましょう。