2004年6月6日 三位一体主日 説教「幸いの道」

詩篇第1篇

 
説教  「幸いの道」  大和 淳 師
 私たちの想像できないことは全て変ってしまうということです。例えば今日はとても良いお天気です。太陽が照っていることは、私たちの好みはこのような風景でしょう。太陽も無く、月も無くなる、私たちの知っている宇宙もなくなると、まず寂しい思いになります。そこで主イエス様がまったく太陽のようにわたしたちを明るくして下さると共に私たちも明るく輝くものになって、もう太陽は要らないほど明るくなっているでしょうと考えられます。そのような中で私たちは、主イエス様がどう私たちを審判してくださるか心配ですが、こっちへ行くか、あっちかと、天国か地獄かとそれを決めてくださるのですから、それはちょっと心配ですが、でも、神様の約束の言葉は決して変らないと、全てのものが無くなっても神様が私たちに聞かせてくださったことは、絶対に変らないということを私たちは聞かされて、安心できるのです。

 イエス様はいちじくの木の話をなさっておられますが、その葉っぱが大きくなってきたら、実がなってくると、私たちはそう期待できるのです。一年で暖かい一番気候の良い夏が来るとそのようになると、先のことを思うことが出来るのです。それをイエス様が私たちに聞かせておられるのです。全てが無くなっても絶対に神様の教えられたことは、

すなわちわたしたちが主イエスさまを信じていれば必ず天国へお連れくださると言うことは変らない。私たちは罪を赦されて、イエス様が贖ってくださったから罪の無い人と、これは私たちが自分を見て考えますと考えられないほどの素晴らしいことです。罪が無い、欠点が無い、完全なものになっている。今のところ、私たちはどんなに一生懸命にしても、何かちょっと欠かしたり、忘れたところがあったりで、充分でないことばかりを経験して、「これは人間的である」と言う言葉を使うのです。自然にちょっと足りないところが必ずある。聖書の言葉でしたら罪人であると言うことでしょう。私たちがこのようなものあっても神様は愛してくださって、わたしたちのために主イエスさまをこの世に送ってくださって、なお、最後のときには私たちを迎えに来てくださるのです。「おいで」「こっちへいらっしゃい」と。あっちではなく。あっちとは恐ろしい所ですがね。わたしたちは限りなく、一時ではなく、いつまでも、永遠に立派な者に、病気もしない、痛いところも無い、お腹も空かない、充分に生きる事が出来る状態になるのです。勿論、その逆もあるのです。イエスさまを信じない者、また自分勝手に天国へ行くためにその道を決めて、何をしたら行けるかを決めた人たちはきっと失望するでしょう。失望だけではなく、恐ろしいことにあいます。その恐ろしさが永久に続くものだということです。神様はあまり聖書の中で、私たちを脅して天国へ行かせようとしておられません。でもはっきりと罪のために捨てられた人たちは大変だと仰るのです。そんなに数はないのですが、その苦しみをわずかの言葉で描いておられます。おもに、私たちが救われたら、どんなに楽しいかを私たちに聞かせておられます。本当に私たちは今どんなに努力してもほとんど失敗に終わる事が多いでしょう。あるいは一生懸命にやってもこれが出来る限りの良いものだと思っても、誰かそれを見て批判することが出来るのです。完全ではないのです。でもその完全でない私たちのために主イエスさまを神様が送りなさった。その御独り子、一番親しくしておられた方を救い主として送られたのです。主イエスさまは本当に大変であったでしょう。私たちも出来るだけ良い人間として努力していたら、それほど努力をしていない人を見たらちょっと嫌な感じがするのです。完全な方が汚い私たちをご覧になったらどう思われるでしょうか。心配しますが、でも、神様はこのような私たちであっても愛してくださっておられます。

 ただイエスさまを信じるだけですね。イエス様のなさったことをわたしたちが有難く思っていたらそれだけでよろしいのです。完全なところへまで神様が連れて行ってくださる。これが私たちの信仰ですね。神様がそう約束なさったのですから、その通りになるのです。
  「これらのことがみな起こる今日、日課を離れて、詩編交読の詩編第1編から、み言葉を聴きましょう。
  「いかに幸いなことか・・・・」、マタイ5章の主イエスの山上の祝福「心の貧しい人々は、幸いである」と同じ祝福でこの詩編は始まります。「幸い」です。恐らく誰もが思う「幸い」、その幸いの道、聖書の語る「幸い」とは、歩まない、とどまらない、座らないと、具体的ふるまい、生き方の問題です。わたしたちが、如何なる者、どんな人間であるかより、どんな人であれ、神の御前でどう生きていくか、生きようとするかにかかっているのです。わたしたちは誰も人生の幸いを願います。人生は、しばしば旅にたとえられますが、詩篇は、わたしたちを旅人のように見ていると言っていいでしょう。旅には、いつも危険があります。苦しみもあり困難が続くこともあります。思わぬ災難が、身に降りかかってくる。だからこの人生の旅の無事を願わずにはいらないわたしたちです。しかし、聖書の語る「幸い」は、そのような危険、災難、苦難がない旅が幸いであるというよりも、何よりわたしが危険、災難、苦難のときもどう生きるかを指し示すのです。ですから、わたしたちは、単に「何事もなく無事でありますように」とただ単に祈るのではない、むしろ、もしそれが避けられないのなら「たとえ、どのようなことが起ころうとも、わたしが、あなたの御前でこう生きられるように・・・・」、そのように祈るものだと言っていいでしょう。

  さて、その出発点、最初にまず「神に逆らう者の計らいに従って歩ま」ない、まずは「神に逆らう者の計らい」から始まります。この「計らい」は、要するに「唆かし」、「誘惑」です。聖書は、そのようにわたしたちがたえず「誘惑」を受ける者であることを知っています。罪の道は「誘惑」から始まるのだと。誰も最初からあえて間違ったことを平気でする者はいない訳です。よく「ほんのできこごろで」というように、誘惑される。本心ではないけど、つい何かの誘惑に負けて、そしてだんだん深みにはまっていく、そして、結局どうにもならないようになっていく。ある人は、この1節は、次第に高まっていく罪人の3つの段階を表していると言います。「誘惑」からやがてその道を次第に「歩き」始め、そこに「とどまり」、ついには、どっぷりと腰を落ち着けて「座る」、浸ってしまう、そういう段階です。聖書は、そういうわたしたちの弱さを、本当によく知っている訳です。その第一歩は、「計らい」、「誘惑」から始まる。主の祈りを想い起こしましょう。「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ6章13節)。この詩篇は、その主の祈りの祈り、キリストの祈りなのです。

  わたしたちが幸いな道を歩む、それは何よりそういうわたし自身の弱さ、本当に誘惑に弱いものであるということ、そのことから出発するのです。自分はそうではない、わたしは道を一人歩んでいける、そういう人はない訳です。むしろ、そんな弱さをもった自分を受け入れない、それが、この最終段階の「傲慢な者と共に座る」ことなのです。自ら誘惑を克服し得るような強い意志、力をもっているから、幸いなのではない。むしろ、弱い、本当に弱いものなんだ、それを受け入れる、そこに幸いの道があるということです。

  だから、わたしたちは幸いを願うけれど、その背後にはいつも不安があるのだと言っていいでしょう。本当に大丈夫だろうか、もしかしたら、と言う恐れがある。そしてまさにこの「神に逆らう者の計らい」とは、その不安、恐れに働きかけてくる。そして「計らい」、「誘惑」ですから、決して、わたしたちには、それが「神に逆らう道」であるとは、決して見えない。巧妙に働きかけくる訳です。(創世記3章の、あのエバに働きかけた蛇の巧妙な言い回しのように)むしろ、そっちの方が、どう見ても真実だ、確実安全に思えてくる、いやそれしかないと、確かに思えてくる、そういうものです。しかし、決して真実ではない以上、本当には安心を与えない、確かなものではない、それ故、だんだんと、まさにこの詩篇が語るように、深みにはまっていく、次から次へと、どうにもならないかのように、抜き差しならず罪人の道を歩んでいく、そして、遂には、「傲慢な者の座に座る」、つまり、「傲慢」な者の仲間になるというのです。

  そうするとどうなるのか。「傲慢な者の座に座る」、いわば、虚勢を張る以外にはない。人間、居直る、居座る訳です。しかし、それは決して本当の強さ、確かさではないのだと詩篇は語ります。「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻」と4節に言われるように、いくら、虚勢を張っても所詮虚しい道であると言うのです。もみ殻のようにはかない、これは強い言葉です。しかし、現実のわたしたちの目には、「神に逆らう者」の道、その方がいつも強く、立派でもあり、確かなものであるように見えるものだということを忘れないようにしましょう。

  どんな人でも裸のわたし、ありのままの自分というのは、本当にみすぼらしいのです。不安の中にあり、たえず恐れ、おじまどうあまりにも弱々しく思える(だから「神に逆らう者の計らい」の方がよく見える、頼もしく見えるのですが)。しかし、この詩篇の力強さは、まさに、その裸の自分を、ありのままにみつめることから来るのです。あの誘惑の前に、その道に対して自分自身をみれば何もない、そのような裸のわたし、しかし、詩篇は、そのような自分の弱さ、そこにこそ、主の道が開けていることを語ります。

  何故なら、6節「神に従う人の道を主は知っていてくださる」、主が知っておられるからです。主に知られているのです。主がわたしたちを知られるとは、単に知っているということではなく、この知るは、あなたを守り、支え、導き、あなたと共にいるという、そのように知ることなのです。つまり、神は、わたしたちをインマヌエル、神我らと共にいます方、イエス・キリストを通して知られるのです。何より、ご自身、飼い葉桶の中の裸のあかんぼうになり給い、本当にみすぼらしく、あまりにも弱々しくなられたきリスト。そのようにして、わたしたちの低みまで下り、わたしたちのために苦しみを受け、十字架におかかりになったキリスト、このお方がわたしたちを支え、わたしたちを導いて下さる。このキリストが共におられる、このキリストと共に歩む、それを示してくれるのが聖霊の力ですが、父、子、聖霊の神のもとで、その者は「なんと幸いなことか」と詩篇は呼かけているのです。

  聖書は、決して人はひとりでは生きるものではないと一貫してみています。わたしたちは、常に何かに従って生きるものだ、と。何かと共に生きずにはいらない存在なのです。そういう人間理解を、現代の人間は失いかけています。と言うのも、やはり、自分は、自分で生きている、自分が主人公のようにして生きてしまっている訳です。だから、納得がいかない、理不尽な訳です。自分の思い通りということが自由であると思い込んでいる訳です。しかし、よく考えれば、人は、常に何かに支配されている、ということはそれでも分かる訳です。自分の人生の選択、たとえ、自分で自分の人生を選んだと思っても、たとえば、やはりお金がなければとか、良い学校でなければとか、力がなければ、と、そういう考えそのものには、自分の本来のものではない、価値観とか世界観、そういうものに従っている訳です。はっきり言えば、他人の眼の中で生きている訳です。そこには自分が自分を、本当にどう見るか、ということがない。最近そんなCMが流れていますが、結局は他人に左右されている。だから内にはいつも不安、恐れがある訳です。

  ですから、神を信じないという人も結構星占いとかのようなものをもてはやす、あるいは、縁起をかつぐ。私たちの周囲は、この縁起の固まりみたいなものではないでしょうか。勿論、中には生活の知恵と言ったものがありますが、とにかく縁起から始まって、縁起で貫かれていく。これは、やはり、自分の人生は、確かに自分で選んでいかなければならないという一面、その人生そのものが、自分以外のものに選ばれていく、そういう面があることを物語っている訳です。運命と呼ぶ、宿命と呼ぶ、そういうものです。

  それで共同訳では、「神に逆らう者」となっていますが、そういう風に訳するのは、大変分かり易いのですが、しかし、ここで「神に逆らう者」と訳され、また「罪ある者」、あるいは「傲慢な者」というのは、決して、信じない者という意味ではない。神を信じない者という意味ではないんです。むしろ、彼らも彼らなりに「神を信じている」のだと言うべきでしょう。ルターは、その人の心が拠り所にしているところのものが、その人の神なのである、そう言っています。神を持たない人間はいないのだ、と言っていい。誰もが自分の神を持っている。その意味では、誰が「神に逆らう者」であるか否かは見分けがつかない。しかし、ただ一つあるのは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」、そのことだけが、いわば、眼に見える決め手だと詩篇は言うのです。

  この「教え」とは口語訳では、掟と訳されていたように、ここでは律法、戒め、つまり十戒ですが、その掟を愛する。この「愛する」というのは、もともと「慕う」とか「喜ぶ」、「求める」、そういう意味の言葉です。そのようにして生きる人、その人こそ幸いであると。ただ、それを聞いただけで、わたしたちは、何か不自由な、固い凝り固まった生き方を想像してしまうかも知れません。しかし、聖書は、そういう生き方こそ、本当に自由で、活き活きとした生き方、「流れのほとりに植えられた木」のようだと歌っている訳です。それは、どういうことか。

  十戒を、ここで思い出して戴きたいのですが、あの十戒は、「あなたは、わたしの他なにものをも神としてはならない」、その第一戒から始まって、「・・・・してはならない」、この詩篇と同様ほとんど一切否定形、否定、禁止です。つまり、主なる神は、人間、わたしたちに「否定」「禁止」をもって臨む神なのです。その神の否を「愛する」ということ。しかし、わたしたちが、わたしたちが自分の心のままに神と呼ぶのは、決して否を言わない。何故なら、自分が主となっているからです。その限り、それは偽りである、つまり、人間、自分が主となっているそれが預言者たちが厳しく糾弾した偶像、偶像礼拝ということの罪、問題なのであり、そして、その道は「滅びに至る」のです。何故なら、その主人公たる自分、それは、たえず不安の中にある、裸の人間というのは、人はひとりでは、本当に弱いもの、脆い者であるからです。その限り、滅んでいくしかない者になってしまう訳です。ですから、最後に「傲慢」、強がり、あるいは、開き直りというか、居直りの道を歩むしかない。そういう風にして、人は、自分の中にこもってしまう、それが神を失ってしまった姿だ、そういうことをこの詩篇は、明らかにしている訳です。そうして、結局人は神のみならず、他人、隣人をも、何より自分自身を見失っていくのです。

  「傲慢」というのは、「脅え」の裏返しです。いらいらしている、たえず、流されていく生き方です。一皮向けば、どうしたらいいか、本当は分からない、諦めている、そういう生き方です。この第1篇の言葉は、注意深く読むと、本当に慎重に言葉を使い分けているのですが、5節「神に逆らう者は裁きに堪えず」と言う、その「堪えない」という言葉はもともと「立てない」、立ち続けることができないという意味であり、1節の「傲慢な者と共に座る」という言葉にちょうど対応するようにまさに「座り続ける」ことが強調されているのです。立ち上がることができず、最後に崩れ込んでしまう。へたっている、そう言ってもいいでしょう。

  しかし、「神に従う者はそうではない」のだ、と詩篇は高らかに告げてくる。立ち上がることができるんだ、「流れのほとりに植えられた木のように」、立つことができる、葉を青々と繁らせ、すくすくと伸びていく、自分の弱さ、脆さ、そういうものに崩れ落ちることはない、何故なら、「主が知っていてくださる」、主が、その弱さの中から、不安と恐れの中で、共にいて下さり、それのみならず、立ち上がらせ、必ず「幸い」を備え、そこへと導いて下さる。それが、「主の教えを愛する」、「昼も夜も口ずさむ」ということ、そういうことです。

  苦しみがある、災いがある、そういう中で、本当に暗澹たる思いの中で、途方にくれてしまう、苦しみに耐えがたいように思ってしまうのがわたしどもです。しかし、そういう中で、この「主の教え」、神の否は、たとえ、どれほどわたしに困難が大きいように思えても、わたしを救うのは、この主である、その他のものは何も頼りにならない、わたしが、あなたの主である、わたしがあなたを導く、そのことを、わたしどもに知らせるわけです。だから、あの十戒「あなたは、わたしの他なにものをも神としてはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない」、その「あなた・・・・してはならない」は、結局、「あなたは、わたしの他なにものをも神とする必要はない」、「あなたはいかなる像も造る必要はない」、殺す必要はない、姦淫する必要はない、もう盗まなくていい、そういうことなのです。

  それだから、この「主の教え」を「昼も夜も」心に止めていく、詩編はそう語ります。ルターは、それはいつも中心、生、命の中心に留まることであり、そして、その生の中心とは、イエス・キリストであり、「昼も夜も」心に止めていくということは、この中心、キリストによって揺り動かされていく、つまり、座り込んでいた、あるいは座り込もうとするそこから新たに立ち上がっていくことだ、というのです。み言葉こそ、わたしたちを立ち上がらせる力を持っている、いや、み言葉だけが、わたしたちを立ち上がらせる力なのだ、と。

  しかし、このことは、決して自明のことではありません。絶えず、先に申しましたように、誘惑にさらされるわたしたちであるからです。だから何より神の否を、わたしたちは、それ故、昼も夜も聞くのです。「神に逆らう者の計らい」、「誘惑」、その「慕い求め」から、あらゆる自分の思いに逆らって、み言葉に耳を傾ける、即ち、キリストに全存在を委ねることです。この「昼も夜も」は、ルターは、単に絶えず、ということだけではなく、「悪い時にも、良い時にも、恵みの時も、罪の時も、健康な時も、死に瀕する時も、働く時も、休息の時も、安全である時も、危機にある時も、いつ如何なる時も、どんな大きな困難であれ、いや、自分にとってささやかな危険に見える時も、いや、それどころか、全く危険がないと思える時も、主のみが助けである、そのことを心の中心とすることだ、そのようにして、大胆に主のみを信頼することだ」と述べるのです。更にルターはローマ書講義の中で「希望に反して希望するcontra spem spero」と、わたしの希望に反しての希望をわたしは持つ、そしてそれが本当の希望なのだ、と教えています。

  それが「流れのほとりに植えられた木のよう」であると言っていいでしょう。命の流れ、キリストの命、「まことのぶどうの木」につがれるのです。それは、「すべて、繁栄をもたらす」。詩篇は、そのような木は「すべて、繁栄をもたらす」と言い切ります。「すべて」「ことごとく」です。神さまの恵み、祝福、キリストの救いに、万一、例外は決してない、ということです。このわたしは、主の恵みに決してもれることはない、ということです。したがって、わたしたちは、自分の弱さにもかからわず、いや、何もないにもかかわらず、そこから、必ず立ち上がっていくことができるということです。愚かに見えても、貧しく、みすぼらしく見えても、しかし、わたしたちは、窮することがないということです。この詩篇に溢れている力強さは、まさしく、そこから来るのです。主は共におられる、インマヌエルの光です。わたしは、ひとりではないのです。

  だから、パウロは2コリント 5章11節で「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います」と述べている、それがこの詩篇の心、そして、神にはありのままに知られていことこそ「さいわいの道」なのです。

2001年11月11日 「信徒でまもる礼拝説教集1」

佐々木謙一兄

2001年11月11日ルカによる福音書 19:11~27

本日の聖書の個所は、「ルカの旅行記」といわれる第9章51節から、第19章27節の最後の個所に位置しています。これは、イエスがガリラヤからエルサレムにむけて旅をする個所であります。9章51節では「天にあげられる日がちかづいたので、エルサレムへ行こうと決心して」、エルサレムへの旅がはじまります。ここでこの旅はクライマックスをむかえ、「エルサレムに近づいて」こられたのです。この聖書の個所は、イエス様が、私たちのために命を捧げてくださる、そのエルサレムに近づいてこられていることが、契機となっているのです。

1節から13節にご注目ください。
「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために旅立った」とありますが、この「立派な家柄の人」とはイエス様をあらわしています。これはイエス様のエルサレムへの旅、そしてさらに十字架の死を遂げて、復活し、父なる神のみもとにおいて覆いを受けるという旅を表しています。
ここで主人は旅立ちに際し、10人の僕たちに1ムナというお金をプレゼントします。この10ムナはただプレゼントとして渡されただけでなく、この1ムナをもとに、もっと増やしなさいというメッセージがこめられています。つまり1ムナとは、単にお金を意味するのではなく、いろいろな賜物と解釈することができます。
それは神様が私たちに与えてくださった体力であったり、知力であったりと、その人の能力を意味しているかもしれません。そういった能力を生かしなさいという意味にもとることができるかもしれません。しかし、この世の現実をみるとき、みなさんは「全ての人に1ムナを与えられてはいない、それぞれ異なったムナを与えられている、この世は不公平、不平等ではないか」と思われるかもしれません。私たちに平等に与えられているこの1ムナとは何を表しているのでしょうか。
日野原重明という方の著書で「生の選択」という本がございます。この方はご存知のように様々な重い病にかかって苦しんでいる方々に接っするお仕事をなさり、人間の命の尊厳についてたくさんのことを教えてくれている方であります。この本のなかで氏は、次のようにいっています。
「もし平等ということがありうるとすれば、与えられた人生のなかで、各人の「宝」を最高度に社会のなかで活かす、あるいは社会に還元する機会がすべての人に与えられている。言い換えると「どのようにして自己を活かすか」という自由とその機会が与えられているという意味では、平等はすべての人の上にあるように思われます」
10章42節では「無くてはならないものは、多くはない。いや。1つだけである」とイエスは教えておられます。これらのことを考えると、この1ムナとは、まさに「神のことば」であるとは考えられないでしょうか。そしてこの各人にあたえられた「神のことば」によって、弟子たちつまりは我々が「使徒的」な働きをすることをイエス様はのぞんでおられるのです。
15章で主人が帰ってきたとき、僕たちが呼ばれ、渡した1ムナをどのようにしたか、決算が始まります。そこで第一の僕は「あなたの1ムナは、10ムナをもうけました」といい、第二の僕も「あなたの1ムナは5ムナをつくりました」といいます。ここで主語が「私」ではなく「あなたの1ムナ」であることに注目していただきたいと思います。彼らが自分が労苦と努力を重ねた結果、もうけたのだとは言わず、また自分の業務について語ろうとはしません。ムナそのものが新しいムナを生み出したかのようにいっています。コリント人への手紙第一でパウロも「私に賜った神の恵みは無駄にはならず、むしろわたしは彼らのなかのだれよりも多く働いてきた。しかしそれは私自身ではなく、私と共にあった神の恵みである」といっています。私という小さな人間とその人生や活動を舞台にしてムナが生きて働く、人の思いを超えて働く神の力がおおきなものを生み出していくのです。そしてそれはムナを活かすものにのみ経験できる大きな驚きなのです。
私が社会人になりたてのころ、私はとても自分に自信があり、自分に力があるように感じていました。会社でも上下の関係にとらわれず、力のあるものがこの社会を勝ち抜いていくのだと信じて疑いませんでした。しかし自分の力に頼っている自分に次第に疲れを感じてきたように思います。私の仕事は営業ですので、毎月自分が売り上げていかなければならないノルマがあります。
ある日、私はあまりにも多くのノルマをかせられているように感じて、上司に文句をいったことがあります。ある一定のノルマを達成すると、さらに多くのノルマを与えられ、だんだんとやらなければならない仕事の量を増やされるのです。私はこれでは疲れきってしまう、みんなと同じくらいのノルマに戻して欲しいと訴えました。そのとき上司から「おまえからそれをとってしまったら何が残るのか」といわれました。これはひとつの例えですが、この話を自分の生活に置き換えて考えることがあります。私から教会生活をとってしまったら、一体なにが残るのだろうか。何故教会生活を私は続けているのだろうか?いや、何故続けられるのだろうかと。私たちはそのあたえられた役割や仕事、いってみればノルマによって自分らしさを保っていけるのではないかと感じることがあります。私たちにはそれぞれ神さまから与えられた「ムナ」があり、その恵みが私たちを生かしているのではないでしょうか。それを考えたときに、私の意志だけでここにいるのではないように思います。何かが私に働き、私を超えた力が働いて、自分がその道に進んでいるようにさえ感じられます。逆にいえば、私から信仰がなくなるということがあるのだろうかと思います。私を越えた何かがあるとすれば、それは何でしょうか。私にとって大切なムナとは信仰であると思います。私から信仰や教会生活をとってしまったら、私は私でなくなると思います。つまり、ただむなしく生きていくだけだと。神への仕事とは、牧師として働くということではなく、日々祈りの中で人を思うこと、自分を優先させず愛をもって人に接すること、これこそが一番大切な神への奉仕であると思います。なぜなら聖書にあるとおり、「神は愛である」からです。愛のあるところに、必ず神様がともにいてくださるからです。その反面、愛のないところにはサタンが存在し、我々を常に誘惑しようとしています。今年、世界では大変なテロ事件が相次ぎ、深い悲しみが私たちを支配しました。これもサタンの仕業であるかもしれません。その原因はタリバンという勢力とアメリカという勢力の間に生じた憎しみから起こったもので、愛とはかけ離れたものです。
22節で「善い僕」、「悪い僕」とでてきますが、この善い、悪いは主人のために役立つかどうか、その行いが問題とされます。よく私たちは善い、悪い、ときくと「欠点がある、ない」というように解釈しがちですが、ここでは失敗をおそれて何もしないことが良いのではないのです。何か行動を起こして、悪いことをすると罪が増し、罰が与えられると考えられがちですが、そうではないのです。イエスさまが生涯をかけて、受難と十字架において示した神の愛は、私たちを臆病にさせる恐怖の神ではありません。つまり、キリスト教の神とは、単なる物理的な創造者ではなく、また人間の生活や富の上にその摂理を働かせて、自分を崇拝するものに幸福を与えるにすぎない神でもありません。そういった神は私たちのために、十字架にかかって死んでくださった愛の神ではありません。異教徒の神です。私たちの愛する神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリストの神は愛となぐさめの神なのです。この神様はご自身のとらえたもう人々の魂とこころを満たしてくれる愛の神、我々が自分の力のなさ、惨めさを感じるときに、ご自身の限りない自愛を与え、それを身にしみて感じずにおれないようになさる神です。そして自らへりくだり、私たちと魂の奥底においてひとつとなってくださる神なのです。
我々が今ここに礼拝を守り、一週間安心して進むことができるのはこの神がいてくださるからです。キリスト者の神は希望の神です。神は十字架にかかり、復活し、天に昇られ、そして今日、私たちとともにいてくださいます。最後に次の言葉を紹介しておわりにします。J.Jルソーという人のことばです。「生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。最も長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ」私たちも慈悲深い神が生きて働いておられることを覚え、このような人生を体験する幸いを感謝して今日の日をすごしましょう。

2001年10月7日 「シャローム・レーケム」

“シャローム・レーケム”

(ヨハネによる福音書14:27;16:33;20:19,21)

  シャローム―――ご存知のように、ヘブライ語の中でも最も美しいことばの一つであります。旧約聖書の中でもそうでありますし、現代ヘブライ語でも同じといえましょう。 今日、最も争いの絶えることのないあのパレスチナにおいて人々は、“シャローム・アレイへム(こんにちは、さようなら)”――“アレイへム・シャローム”と挨拶を交わしているのであります。

  シャローム―――聖書では、平和、平安と訳されます。 戦争と平和といえば、戦争の反対が平和のように考えられるかも知れませんが、シャロームというときの平和は、ただ戦争や紛争の無い状態のことではありません。 なるほど平和を破壊する最大のものは戦争でしょう。 しかし、戦争はあくまでも平和を破壊するものの一つに過ぎません。 平和を壊す最大のものといえますが、そのうちの一つにすぎないことには変わりないのです。 シャロームの敵には、戦争の他に、身近なところから挙げれば、病気と死、事故、盗みと殺人、災害と環境破壊などがあります。 これらによって平和はいつも脅かされています。

  ですから、平和の反対語を強いて挙げれば、それは世界の混乱、つまりカオスとなります。 ある方の定義によりますと、シャロームという言葉は、「全体が統合された状況、つまり、神と他者と自然とに調和して生きる状態を指し示す」 のだと言います。 神と人との関係だけでなく、自然との関係を問題にするところは、極めて今日的な見解といえるでしょう。

  さて、ヨハネによる福音書のことばにご注目ください。 この福音書では、平和という言葉が意外と少ないのに驚かされます。 まるでこの言葉を惜しみながら、大切そうに使っているようにさえみられます。いちばん大事なときにだけ使いたいとでもおもっているのでしょうか。 ではどんなところに平和という言葉でてくるでしょうか。 “平和”と訳されている個所が4箇所ございます。 いずれも現代ヘブライ語訳の新約聖書をみますと“シャローム”と訳されています。

  そのうち2箇所は、14章から16章に及ぶイエスさまの告別説教と呼ばれる二つの説教のそれぞれの結びのところ、すなわち、14章27節と16章33節に出てきます。お読みいたしましょう:

   「平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。 わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。 心を騒がせるな。 おびえるな。」(14:27)

   「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。 あなたがたには世で苦難がある。 しかし、勇気をだしなさい。 わたしはすでに世に勝っている。」(16:33)

あとの2箇所は、20章19節と21節、すなわち、復活のイエスが弟子たちのところに現れたときの挨拶のことばとして出てくるのです。 次のように記されています。 お聴きください:  

   その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、 自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」 と言われた(19) イエスは重ねて言われた。 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21)
 
  つまり、こういうことになります:イエスさまは、十字架の死の前に、別れの説教で弟子たちに 「平和を与える」 と約束されたとおり、復活されたとき、まず、死と復活をとおして自ら平和の主として現れてくださったというのです。 なんという見事な一致でありましょう。

  14章27節: 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」 とあります。 「世が与えるように与えるのではない」、「この世が与える平和」 と 「イエスさまの与える平和」 とでは、その“平和の与え方”が違うというのです。 新約聖書時代のことなら、当時は、“パックス・ロマーナ”、「ローマの平和」 といわれた時代です。 しかし、それは表向きのこと、その裏舞台は、血で血を洗う権力抗争の歴史でもありました。 一般市民にとっては戦争の火の粉が直接降りかかることはありませんでしたが、決して自由とはいえない奴隷制社会であり、また皇帝礼拝の強要される社会でした。 さらには、重い税金に苦しみつつやっと保たれた平和にすぎなかったのです。 だからといって、本当の自由を得るために戦わなければならないといって戦争が正当化されてはなりません。 最初にも言いましたが、戦争は平和を破壊する最大の敵です。 戦争は人間の魂と肉体を絶滅させ、神さまの啓示を見えなくしてしまうからです。今年は56回目の8月15日を迎えたわけでありますが、平和の共同体として神さまからこの世に遣わされているキリストの教会に連なるわたしたちは、改めてこのこと―――戦争を繰り返してはならない―――ということを自らも自覚し、戦争の悲惨さを風化させてはならないと思います。

  マタイ福音書5章の有名な 「山上の説教」 の初めに、八つの祝福が語られていますが、ご存知のとおり、その一つに 「平和を実現する人々は、さいわいである」 とあります。 キリスト者にとって、「平和を実現する人々」 とは何をする人のいことでしょうか。 何か旗を振って、平和運動のような行動を起こすことを求められているのでしょうか。 そこで問題は、ここでいう平和とは何かということです。 聖書でいう平和、神のシャロームはどのように実現されたかということです。

  ローマの信徒への手紙5章のはじめに、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」 とありますように、またエフェソの信徒への手紙2章14節に 「実に、キリストはわたしたちの平和であります」 と告白されていますように、人間にとって根元的な平和は、創造の主である神さまとの間に築かれた平和、それはイエス・キリストの十字架の死による赦しと復活の命によってもたらされたものであります。 ですから、復活のイエスは、はじめて弟子たちのもとを訪れたとき、“シャローム・レーケム(平和があなたがたにあるように)”と宣言され、自ら弟子たちに約束されていたとおり、その実現として平和をもたらされたのでした。

  これがキリストの平和(パックス・クリスティ)の与え方です。 この世の平和は、多くの場合、人々の犠牲の上にかろうじて保たれる平和ではないでしょうか。 広島、長崎の何十万人の尊い生命が失われてはじめてあの戦争が終結したことを忘れることはできません。 しかし、キリストの平和はどうでしょう。 キリストご自身の犠牲によってもたらされたのです。 なんという大きな違いでしょう。

  イエス・キリストにおける神の平和、神のシャローム、聖書によれば、それは、あくまでも神さまの側からの働きかけ、つまり、ヨハネ福音書3章16節の有名なことばにあるとおり、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛され」、自ら人間になられたこと、人間はそのように神さまから目をかけられ、神さまの下に生きる被造物であるということです。  聖書によればまた、神と人間との間に越えがたい、深い溝が存在します。 罪によるさけめです。 遠藤周作氏の言い方を借りるなら、人間の「狂える心」、その奥底にひそむ 「罪の母胎の影」 の存在であります。 ところが、今や、人間の側からどうしても越えられないこの溝が越えられ、克服できないこの影が克服されたというのです。 あの十字架において、それは実現しました。 人間の側からではりません。 神と人間との両方からというのでもないのです。 ただ神さまの側からだけ越えて来られました。 和解、平和とは、実にこのような神さまの一方的な恵みによる救いなのです。 イエス・キリストにおける神さまの愛と力による働きかけです。 わたしたちは、今朝も新しくこの福音を、わたしたちに語られている福音として聴くのです。

  ですから、「平和を実現する」 とは、実に、このイエス・キリストの十字架とその平和を証しすること、そしてその証しをとおして、このイエス・キリストが真の主として、人々のあいだに支配者となることであり、キリストの平和の御国が実現することにほかなりません。
マザー・テレサのことばに:
    沈黙の実は祈りであり、祈りの実は信仰であり、
    信仰の実は愛であり、愛の実は奉仕であり、
    奉仕の実は平和である。
とあります。
「奉仕の実は平和である」。 ご自身のすべてを与え尽くされて神との平和を実現してくださったイエス・キリストに従う者の奉仕によって、平和が実を結ぶというのです。 奉仕する人と奉仕を受ける人との間に神の平和を分かち合うことが生まれるのだとマザー・テレサはいいます。 これこそ平和の実現以外の何でありましょう。 こうして、彼女たちのグループにとって、最も大切な祈りは、あのアッシジの聖フランシスコが祈ったといわれる 「平和の祈り」 だそうです:
    わたしをあなたの平和の道具としてお使いください、
    憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに許しを、
    分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
    誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
    闇に光を、悲しみのあるところに喜びを、もたらすものとしてください。
    慰められるよりは慰めることを、
    理解されることよりは理解することを、
    愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
    わたしたちは、与えるから受け、許すから許され、
    自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから。

  今、世界の人々が最も必要としている祈りは、これではないでしょうか。 ご自身の生涯と死と復活をとおして、平和を実現してくださった主イエスは、復活者として、最初に弟子たちに現れたとき、こうおっしゃいました: 「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」 と。 そうです:キリストの教会は、こうして世に遣わされた 「平和の使者」 なのです。

  私たちキリストに従う者は、平和を“与えられている、持っている”だけではありません。 それと同時に、平和を“実現する”者と言われています。そして、それはまずわたしたち一人一人が 「平和の祈り」 を祈ることから始まるのではないでしょうか。

  どうか今週も問題の多い世の中に生かされてはおりますが、家庭にあって、職場において、あるいは学校にあって、人々と出会うとき、キリストの平和に生かされた者として、その平和がわたしたちの人間関係において互いに分かち合うものとなりますように!祈りましょう:

2001年3月25日 四旬節第4主日

第1日課   イザヤ書12:1-6

その日には、あなたは言うであろう。

「主よ、わたしはあなたに感謝します。

あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった。」

あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。

その日には、貴方たちは言うであろう。

「主に感謝し、御名を呼べ。諸国民の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。シオンに住む者よ叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる方。」

第2日課   コリント人への第1の手紙5:1-8

現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行ないがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行ないで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。

それにもかかわらず、あなた方は高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって。あなた方とわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。あなたがたが誇っているのは、よくない。僅かなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現在あなたがたはパン種がはいっていないものなのです。キリストが、わたしたちの過ぎ越しの子羊として屠られたからです。だから、古いパン種の悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実なパンで過ぎ越しを祝おうではありませんか。

福音書   ルカによる福音書15:11-32

イエスは言われた。「あるひとにむすこが二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日も立たないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物を暮れる人はだあれもいなかった。そこで、彼はわれにかえって言った『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にをしそうだ。ここを発ち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、また、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」 と。』 そして彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』 そして、祝宴を始めた。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これは一体何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんがかえってこられました。無事な姿で迎えたと言うので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。しかし、兄は父親に言った。『この通り、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけにそむいたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子やぎ一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの心象を食い潰して帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしの物は全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』。」