2009年7月5日 聖霊降臨後第5主日

マルコ3章20節~30節

 
説教    大和 淳 師
それからイエスが家に入られると、再び群衆が集まって来たので、彼らはパンを食べることさえできなかった。
イエスの身内の者たちはそれを聞くと、彼を取り押さえに出て来た.人々が、「彼は気が狂っている」と言ったからである。
さて、エルサレムから下って来た聖書学者たちは、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「彼は悪鬼どものかしらによって、悪鬼どもを追い出しているのだ」と言った。
イエスは彼らを呼び寄せ、たとえで彼らに言われた、「どうしてサタンがサタンを追い出すことができるのか?
もし国が自ら分かれ争えば、その国は立ち行かなくなる.
もし家が自ら分かれ争えば、その家は立ち行かなくなる.
もしサタンが自分自身に逆らって分裂するなら、彼は立ち行かなくなり、滅びてしまう。
だれでもまず強い人を縛り上げなければ、その強い人の家に入って、彼の家財を奪い取ることはできない.縛ってはじめて、彼の家を徹底的に奪い取るのである。
まことに、わたしはあなたがたに言う.人の子らは、すべての罪と、彼らが冒とくするどのような冒とくも赦されるであろうが、
だれでも聖霊に逆らって冒とくする者は、永遠に赦されず、永遠の罪を負う」。
これは、彼らが「彼は汚れた霊にとりつかれている」と言ったからである。

 今日の福音書には、主イエスが「あの男は気が変になっている」とか「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、あるいは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」、「彼は汚れた霊に取りつかれている」、そう言われたということが記されています。「気が変になっている」はともかく、「ベルゼブルに取りつかれている」とか「汚れた霊に取りつかれている」というようなことは、現代のわたしたちには違和感を覚えるかも知れません。それだけで何か非科学的、迷信のように思ってしまう、おぞましいわけです。確かにそうであるかも知れません。それだけ、今日の箇所は難解な箇所の一つに挙げられています。

  しかし、それでは、この聖書の時代、およそ約2千年前の時代、その頃の人々にとって「悪霊」、「汚れた霊」、そして「サタン」という存在がもっと身近にいた、信じられていたと言うことでしょうか。もちろん、こういうことは言えます。この聖書の時代、その舞台はとりわけ砂漠圏の世界ですから、広大な不毛な大地が広がり、そこでは常に死と隣り合わせに生きている、という厳しい環境にあったのですから、否応なしに人間の小ささ、無力さ、はかなさを実感しなければならなかったでしょう。つまり、もはや人間の知恵、力を超えた、しかも怖ろしい、神に反する力が常に自分たちを脅かす、常にそれを身近に実感していた、とは言えるでしょう。かたや、わたしたち現代の人間は、もはや、科学や知識の発展によって、人間以上に優れており、力を持った存在はない、言うなれば、もはや、そういう風に考えている、すべてのことにおいて、そのことが前提となっているわけです。だから、おおよそほとんど科学によって、それはとどのつまり人間によって証明されない、克服し得ないものなど存在しない、だから、人間に理解できないものなど存在しないし、そういうものがあるということは、ともかく頭から馬鹿げてる、そう思うわけです。ですから、「悪霊」、「サタン」、そういうものがわたしたちの心に占める余地はなくなっている、そう言っていいでしょう。いすれにせよ、わたしどもは、この聖書の時代の人々ほど、そういう存在を実感できなくなっていることは確かであり、何かおぞましいものにしか感じない、したがって、いや、そういうものが今もいて、働いているのだ、そういう風にはっきりと断言できることはできないでしょう。第一、「悪霊」とは何か、知ったところで意味がない。もちろん、いつの時代でもそういう存在に熱中する人たちは絶えないのですけれども。しかしながら、だからといって、現代のわたしたちと、聖書の時代の人間とはもはや根本的に違うのだ、そういう風にも言えないのではないか、そう思うのです。と言うのは、この今日の福音書をあらためて考えますと、イエスを「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた、と言うのは、「エルサレムから下って来た律法学者たち」、つまり、宗教家であり、そして、実は、その「ベルゼブル」にせよ、「悪霊の頭」にせよ、よく分からないで言っていることになるわけです。しかし、まず、ここにイエスの「身内の人たち」のこと真っ先にが出てきますが、彼らはただイエスは「気が変になっている」、そう聞いて取り押さえに来た、まずそう記されている。つまり、このイエスの「身内の人たち」や民衆は、イエスが「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」、そんな風に考えたのではなく、実に普通に「気が変になっている」、そう考えて、イエスを「取り押さえに来た」と言うわけです。これは、ある意味で、わたしたちもそう考えることに実に近い、いや、同じ感覚と言えるのではないでしょうか?とは言え、彼らもまたよく分からないでいるわけです。誰も本当にはこのイエスを理解し得ない、あるいは信じ得なかったということです。
 つまり、福音書がここで何より第一にわたしたちに伝えようとしていることは、わたしたちは、わたしたち自身からイエスを理解したり、信じたりはできないということです。と言うのも、この福音書において、イエスが誰か、理解し知っているのは、何とその当の「悪霊」自身だけだと言うのです。この悪霊について福音書は、「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」(1章34節)と記しています。ところが人間は、イエスが誰か、誰も知らないのです。しかし、イエスが誰か知らないだけではなくて、言ってみれば、問題は、それは結局、自分が何ものなのか分からないのだということなのです。何より、自分が何ものなのか分からない、それがここでの根本的人間の姿なのだ、ということ。実は、今日の福音書のイエスのたとえを通してのことば、分かりやすく言えば、それはそういうことを語っている、そう言えるでしょう。そして、わたしたち、この二十一世紀の現代のわたしたちは、自分が何ものか、わたしは誰なのか、この聖書の人々以上に本当に分かっているでしょうか?いったい、わたしたちは誰、あなたは何ものなのでしょうか?実は、分からない、それが聖書の時代であろうと現代であろうと、変わらぬわたしたち人間のありのままの姿なのです。
 だから、たとえば、親は自分の子に対して「自分が産んだ子供だから」と何でも知っているつもりになっていて、そのような眼で子どもを見てしまうなら、挙句の果てに現在だけではなく、将来まで子供が安全であるような保証を求めて、自分で心配を作り出していきます。だから、子どもが自分の思いとは違っていくと、どうしてこんな子に育っちゃったんだろうとか、こんな子に育てた覚えはないとか。そうしてどうすればいいのか、途方に暮れるということがあるわけです。けれども親はただ親だということを忘れているわけです。親は子供を、いわば「作り直せる」力もなければ、子供の将来まで知り、それを保証できる神のようなものでもありません。親として子供のそばに立って、要求されたときにそのニーズに答えることぐらいしかできないという自分の限界を認めることが必要なのです。自分の教育のしかたのために悩み、自分を責めたりすることは意味のないことです。神経質になって、うるさく子供にあれこれさせようと思っても、子供にとってはますます負担になり、子供自身のやりがいを失わせていきます。親にとって子供はたしかに大事な宝ではありますが、それに対して親としての自分の、いわば全面的な絶対的な責任をもつ所有物ではありません。子供は親と違った個性であり、自由をもっているユニークな存在です。子供は人に頼りたいときもあれば、一人でやっていきたいときもあると思います。頼りたいのは、母親だけではありません。父親も子供のそばに自分の「場」を持ち、かけがえのない役割を果たす「責任」がある、そう言えるでしょう。そして、それは実は親子の関係だけではない、夫婦、兄弟、いやもっと広く、ようするに他者に対するわたしたちの根源的あり方であり、もっと言えば、いや、そこで何より重要なのは、神に対する責任なのです。それもしかし、将来まで知り、それを保証できるような絶対的責任と言うより、明日は分からなくてもしかし今このときの限界の中の責任なのです。
 ここであらためて聖書に戻って考えさせられるのは、先に申したとおり、実に「エルサレムから下って来た律法学者たち」、つまり、宗教家がイエスが「ベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」、そう解釈した、そう断定していることです。これは単なる宗教家と言うより、わざわざ「エルサレムから下って来た」、そう記されていますから、言うなれば、権威をもった指導者たちという風に考えるべきでしょう。その彼らは、実に、そういう断定をしたということ。「彼は汚れた霊に取りつかれている」と。最初に、現代のわたしたちには、こういうことに違和感を覚えるかも知れない、そう申し上げましたが、しかし、では、この現代にそういう考えはなくなったのか、というと、そうではないわけです。最近では、たとえば北朝鮮が悪魔の国だとか、その指導者を悪魔呼ばわりするわけです。つまり、自分に敵対する、そして何か計り知れないような力を感じる、その行動が理解し得ないものに対し、そういう断定が働くわけです。あの人は何かに取り憑かれている、そんな風に考えたり、言ったりする。これが国家同士だと、互いに相手を悪魔の手先とみなし、戦争になる、それが今のテロ戦争でしょう。つまり、悪魔とか悪霊をわたしたちが持ち出すのは、結局は自己正当化なのです。何故、自己正当化するのか?自分が分からない、つまり、どう生きるべきか、本当には分からないからです。自分が分かっていれば、どんな相手、状況だろうと、冷静に対処できるはずです。
 一体、わたしたちは何ものなのか?聖書はどうわたしたちに語りかけるのか?それは今日最初に読んだあの創世記3章、いわゆる堕罪後の人間に、「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」という問いを聴き、応えることです。あなたはどこにいるのか、原語ではアイェーカとただ一語、しかし、この一言から神の人間の救済、人間を取り戻す闘いがはじまり、そしてこの一語にすべては尽きていくと言っていいでしょう。それにその時々にひたすら応えていく、それが人間なのです。それ故、創世記では、神はその取って食べるなと命じられていた木から食べてしまった男と女に対して ― 彼らは自己正当化を試み、それによって神ご自身に反発さえるするのですが ― それにも関わらず、いきなり裁いたりされないのです。応答を求めるのです。と言うのも、かたや蛇に対しては、何の弁明も要求せず、応答を求めることなく、その裁き、運命を告げるのです。そして、そのことを一層明らかにするのが、創世記3章21節です。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。なるほどアダムとイブはエデンの園を追われます。しかし、神はその彼らに、自ら衣を作って着せられるのです。それは、彼らが何処にいようとも、どのような苦難にあろうとも、神はご一緒におられるしるし、あなたはどこにいるのか、アイェーカと求めつづけられることを暗示しているのです。そして、人間とはそれに結局その時々の姿で、そまさに罪にまみれた存在であっても、そのままに応えていく存在である、そうあることが許されているということです。そのような責任をもっている、そうあることが許されているのです。
 ところで「責任」というのは英語でresponsibility(リスボンシビリティ)ですが、この名詞はrespond(リスボンド)という動詞から作られていて、その意味はただ「応える」ということです。たとえば親の「責任」というのは子供のニーズに応えることだと思います。子供の代わりになって、何でも考え、してあげる「責任」ではない。そういう意味でも、母親にとって父親にとって「あなた、だれ、何者か」という質問は、自分自身を顧みると同時に、逆に言えば、その問いをもつ限り、その限界の中にとどまるからこそ、必ず新鮮な生きる喜びを与えられるのです。それは他者と出会うわたしたちの根本的あり方です。他者への尊敬と感謝をもつ続けるからです。福音書の中で、群衆は主イエスのわざにしばしば驚き、感動しつつ敬意を込めて「この人は何者か」と声をあげています。しかし、ここでの律法学者は、もはや応答responseではありません。心で受けとめる責任responsibilityを忘れている、失っています。「彼は汚れた霊に取りつかれている」、それは同時に、限界を踏み越えた絶対的責任を追及する、つまり、同時にどこまでも自己正当化を試みる、わたし自身を失った人間の声です。それ故、大変厳しい断言を主イエスはなされるのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。それにしても聖霊を冒涜する者は永遠に赦されない、何故でしょうか。
 青野太潮先生という新約の先生が「どう読むか、聖書」というご著書のなかで、それについて、こう述べています。全ての罪も神を汚す言葉も許される。しかし、その許しが成立するためには、<その許しそのものを否定すること>だけは、決して許されるわけにはいかない。」(同書P52より)「サタンの支配を既に打ち破り、その支配下の悪霊どもを現に追い出しているイエスを指して、<ベルゼブルに取り付かれている>と言うものは、イエスに働いている聖霊を汚すもので有り、<現に出来事となっている救いを拒むもの>である。他のどんな事も許されるとしても、<この拒絶だけ>は致命的なのだ。」(同書P202より)つまり、全てのことが許されている。しかし、だから、どんな罪を犯してもいいというのではない。赦し、救いを拒むことは許されない、ということ。聖霊を冒涜するとはそういう意味だというのです。
 今若い人々、また子どもたち自身のみならず、大人も老人もそこで本当に悩んでいる、苦しんでいることは「わたしは何者なのか」ということ、「わたしは誰」ということではないでしょうか。その答えが見えない、応えることができない、聖書から言えば、「あなたは何処にいるのか」という問いが聴こえないことからくるのではないでしょうか。そして、「わたしは何者なのか」ということ、わたしは、この神の愛に応えて生きるようにされているいうことが実感できたとき、たとえ、どんな苦難の中にあろうと、重荷を負うていようと、いえそうであるからこそ、希望をもち、喜びに溢れることができるのです。そのことをパウロはこう語っているのです、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。それはこういうことです。苦しみの底で、自分自身を失ってしまう、したがって神を失ったわたし、神無きわたしとなるそこで、しっかりとあの「あなたは何処にいるのか」という声が聴こえるということです。その自らの限界を引き受けるとき、それは真実が見えるときなのです。「”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」、わたしの口からはうめきに過ぎない、無残な弱きわたし、だが”霊”自らが執り成してくださる、そこに神はおられる!わたしと神はいっしょなのだ!「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章35-39節)。これが、あの「あなたは何処にいるのか」への神からの応答なのです。神ご自身から与えられている、わたし自身なのです。この神の「あなたは何処にいるのか」、「あなたは何者なのか」、それは、どこか高みからなされる問いかけではないからです。わたしたちは、この問いがまさにこの方キリストの十字架において起きていることを知ります。それはわたしたち一人残らず、この十字架のもとに見出されるためです。それはどれほどわたしがこの神から離れようとも、いや実際見失い、打ち捨てられた者のようなわたしであろうと、今や、この神は「あなたは何処にいるのか」と探し、追い求め、私を見出してやまないのです。パウロは言います、「人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます」、神はわたしたちのその心を見抜き、見抜きながら、見抜くが故に、裁くのではなく、見捨てるのではなく、”霊”の思いが何であるかを知っておられる、”霊”の思い、キリストの十字架、その心を真中にしてわたしたちを受け止めてくださるのです。だから、聖霊、この”霊”を冒涜してはならないのです。なぜなら、聖霊はこの神の愛の力、愛そのものだからです。自ら神のこの愛を拒んではならないのです。わたしの犯す罪、わたしの不信仰が、この”霊”の思い、この愛、この十字架のキリストはもはや克服されないと思ってはならないのです。断じて私たちは誰一人救われないと思ってはならないのです。いえ、むしろ、そうであればあるほど、この十字架のもとにある人間なのです。たとえすべての人が私を見捨てようとも、今この瞬間死がわたしを襲おうとも、主よ、わたしはここにおります、主よ、わたしはあなたに見出されてここにいます!それが、わたしなのです。
 わたしたちは、自分が誰か、つまり、どうこれから生きていく人間か、本当には分からないし、またすっかり分かる必要もない。そんな責任、応答を神は求めておられない。それは、まったく「神様のお仕事」です。だから、分からない、できないことも、自己正当化ももはやする必要もない。ただ、この神が愛する、その愛に見出されるがままに生きる!それが、わたしなのであり、あなたなのであり、いや、今、ここにいる一人、誰一人、もれることなくそうなのす。

2009年6月28日 聖霊降臨後第4主日 「手を伸ばしなさい」

マルコ3章1-12節

 
説教    「手を伸ばしなさい」     藤木智広神学生
それからイエスは再び会堂に入られた.すると、そこに片手のなえた人がいた。
人々は、イエスが安息日にその人をいやすかどうか、注目していた.それは、彼を訴えるためであった。
イエスは手のなえている人に言われた、「起きて、真ん中に立ちなさい」。
そして彼らに言われた、「安息日に善を行なうのと悪を行なうのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいのか?」。しかし、彼らは黙っていた。
イエスは怒りを含んで彼らを見回し、彼らの心のかたくなさを深く悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい!」と言われた。彼は手を伸ばした.すると、その手は元どおりになった。
パリサイ人は出て行って、さっそくヘロデ党の者たちと、イエスに敵対して、どのように彼を殺そうかと相談した。
さて、イエスが弟子たちを連れて海のほうに退かれると、おびただしい人がガリラヤからついて行った.またユダヤから、
エルサレムから、イドマヤ、ヨルダンの向こう、ツロとシドンのあたりからも、おびただしい人が、イエスの行なわれたことを聞いて、彼の所にやって来た。
そこでイエスは弟子たちに、群衆が押し迫らないために、身近に小舟を一そう用意しておくようにと言われた.
それは、彼が多くの人をいやされたので、すべて病苦に悩む者が、彼に触ろうとして押し迫ったからである。
また汚れた霊どもは、イエスを見ると御前に倒れ伏し、「あなたは神の子です!」と叫んで言った。
イエスは再三、ご自分のことを知らせないようにと、彼らに命じられた。

 安息日に主イエスはご自身を「訴えよう」とする人々の陰謀が渦巻いている、その会堂の真ん中で片手の萎えた人を癒されました。それは、先週に引き続き安息日の問題がからんでいます。この人々にとっては、片手の萎えた人を癒すことは、一切の労働をしてはならない安息日規定の重大な掟なのです。しかし、主イエスは会堂の真ん中で癒されました。それは、十戒を通して、安息日を守るよう、命じられた、その神さまの真のみ心、わたしたちへの深い愛をあらわされるためであったのです。

  この日、安息日には神様を礼拝するために多くの人々がこの会堂に集まっていたでしょう。そこに片手の萎えた人がいました。キリスト教会の古いある言い伝えによれば、この人は石工として伝えられています。もしそうなら、生計を立てて生きていくためには、両手が必要不可欠です。その彼の片手が不自由になった。それは、当時の医療技術では治ることもなかったでしょう、しかし、そんな彼は決して絶望せず、この安息日に会堂に来て祈っていたのです。主イエスは、そんな苦しみをおった彼と一対一で出会ってくださるのです。

 ところが、会堂の中にいた人々、恐らくファリサイ派の人々は、この人をただ主イエスを陥れようとして、利用するのです。片手の萎えた人はその人々の思惑に巻き込まれます。礼拝の場、祈りの場であるはずの安息日は一転して人々の悪意に満ちたものとなってしまったのです。しかし、主イエスはその中で片手の萎えた人を会堂の真ん中に立たせました。密かに悪意を抱く人々に対して、主イエスが敢えて会堂の真ん中という一番注目される場所にその人を招かれたのは、この安息日の中心的な出来事を示すためでもありました。人々の心の中を見抜いて、彼らに言います。

 『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』(3:4)

 主イエスは何より彼ら自身の生き方を問うておられるのです。しかし、人々はこたえません。彼らには、片手の萎えた人の苦しみ、痛みも、そして、何よりそんな彼を深く憐れまれているこの主イエスの御心も見えない、決してその心にそれは届かない、それほどに彼らの心こそ萎えてしまっているのです。

  安息日の律法を守ることに熱心なあまり、それは結局自分たちの自己正当化のためであった、そして、もはや神さまの真のみ旨を顧みようとはしないものとなっていることが明らかにされたのです。そんなこの人々の萎えた心は、堅く冷たく閉じています。この人々の冷たく閉じた萎えた心を持って真の安息日は迎えられないのです。

 それゆえ、みなさん、私たちもまたこの主イエスに問われているのです。今この安息日を迎える私たちに呼びかけているのです。私たち自身もまた神様の御心を行うことができない、萎えた心を持っているからです。主イエスのこの言葉に対して黙ってしまう自分の姿があるのです。自分を着飾り、さも自分だけは正しいと思う心。都合が悪くなると、自己正当化し、その問題から目を背けようとしてしまう思い。自分は善を行い、悪は働かないとどこかで思い込む心がわたしたちにはあるのです。いかにもこの安息日にふさわしく、自分だけは安息を得ることができるとどこかで思い込む心があるのです。自分を認め、他者を裁く姿があるのです。しかし、そのような私たちにも呼びかけてくださるこの主イエスの言葉は、私たち誰にでも聞こえる会堂の真ん中から聞こえてくるのです。そして、これは単に善を行う、悪を行う以上の問題、私たちの「命」にかかわる問題なのです。それは安息日によって救われる命です。私たちひとりひとりの命は決して掟や規則の問題ではないのです。主イエスが私たちの安息日の主であることによって新しく命が与えられるからです。そしてこの命こそ、主イエスの十字架を信じることによって得る永遠の命なのです。その命に生きるものの心は、神様の御言葉を聞くことによって開かれるのです。安息日に心を開いて命への解放のみ言葉を聞くことができるのです。

 しかし、人々のかたくなな心に対して、主イエスはまず怒られました。

 『そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。』(3:5)

 かたくなな心によって人の痛み、苦しみも分かろうとしない彼らの無関心さにまずお怒りになった。しかし、主イエスのこの怒りはわたしたちにとっても決して他人事ではないのです。わたしたち全てが持っている冷たく閉じた心に直接呼びかけているのです。親が子供を叱りつけて正しいことを教えるように、この怒りには、決して私たちを無視し、見捨てない、私たちを掴んで放さない神様の御心が表れているのです。だからこのお方は、その怒りを貫くのではなく、それを超えて悲しまれます。本当は彼らの、その萎えた心こそ癒されなければならないからです。主イエスのこの悲しみこそ神様の憐れみです。主イエスは怒りを超えて悲しまれます。怒りの裁きによって人々を断罪し、見捨てたのではなく、愛によって、人々に神の国と神の義を示されたのです。その奇跡は今この会堂の真ん中で起こっているのです。全ての人々の冷たく閉じた萎えた心を開こうと呼びかけてくれるのです。

 私たちも人生を歩む中で、萎えた心を背負っているからです。そんな私たちに主イエスは怒りではなく深い嘆きを示された。今尚、会堂ならぬ、この社会の片隅でわたしたち人間の萎えた心が引き起こす様々な事件や事故をとおして、この主イエスのその嘆き、悲しみは起こっているのです。萎えた心―それは、この片手の萎えた人のように自分もまたこの社会の片隅で苦しめられている、虐げられている、無視されている、しかし誰も助けてはくれない、気づいてくれない、そんな思いでいるのです。自分の苦しみを分かってくれない。孤独であり、誰も手を差し伸べてはくれない。誰を信じればいいのか、どの人もみんな自分のことしか考えていない。疑いと絶望しかない。しかし、主イエスはそんな私たちのために怒り、悲しんでくれるのです。私たちを真ん中へと導き、はっきりと私たちの姿を見てくれるのです。そして私たちを深く憐れんでくださるのです。

 「手を伸ばしなさい」

 会堂の真ん中で奇跡が起こります。主イエスはただ一言いいました。片手の萎えた人はその萎えた手を伸ばしました。伸ばすことができたのです。主イエスが片隅にいた自分を真ん中へと招き、呼びかけてくれたからです。自分から近づいて、立ち上がり、手を伸ばしたのではない。ただその御声があったからです。すると、手を伸ばすことができたのです。深い苦しみから救われたのです。どんなに見捨てられていても、神様は自分を真ん中に招き、呼びかけてくれます。私たちもその呼びかけに信頼してただ手を、心を伸ばすのです。縛られた不自由な片隅の世界から、神様の愛と自由に満ち溢れた真ん中の世界へと神様はいざなってくれるのです。

 しかも、主イエスは安息日の掟を破ってはいません。目に見える医療行為を施して片手の萎えた人を癒したのではないのです。人々は、主イエスが癒されるとすれば、それは行為を行うこととして見ていました。実際、他の多くの癒しの物語では、主イエスが手を伸ばされたのです。しかし、ここでは手を伸ばしたのはこの癒された人であり、主イエスは何の行為も行わなかったのです。ただ御言葉を通して主イエスは安息へと招いたのです。そして、今もみ言葉を通して、つらい現実に心を萎えさせてしまう私たちの心をその深い憐れみによって開いてくれるのです。安息日の律法という規定から命の福音という安息日へと私たちを招いてくれるのです。この安息日の主と共に、私たちは心から今真の安息日を迎えているのです。

 私たちがたとえどんなに萎えた心をもっていようとこの深い神様の愛に招かれている。神様の安息に招かれているのです。主イエスが3日後に復活し、それがわたしたちの安息日となった今日。私たちはその深い愛に招かれて、聖なる礼拝へ招かれ、共に聖なる奉仕に仕え、私たちに真の安息を与えてくださる方を讃美する。その安息の時を今またこうして過ごしているのです。

 「手を伸ばしなさい」

  私たちはただこの神様の愛に応えればよいのです。主イエスは必ず私たちの萎えきってしまった心を癒すために、いつでも共にいて、呼びかけてくださるのです。片隅にいる私たちを真ん中へと引き上げてくださるのです。決して見捨てはしない、私たちと深く結ばれているのです。安息日は全ての人のためにあるのです。片隅にいる必要はないのです。安息日の灯は全ての人に万遍なく照らされるのです。安息日の主となってくださった方の御声を信じ、そのようにわたしたちを愛し通してくださる方に全てを委ね、伸ばしましょう。

2009年6月21日 聖霊降臨後第3主日

マルコ2章23-28節

 
説教    大和 淳 師
それから安息日に、イエスが麦畑を通られると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
すると、パリサイ人は彼に言った、「ご覧なさい! なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをしているのですか?」
イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデが欠乏して飢えた時、共にいた者たちと何をしたか、読んだことがないのか?
アビアタルが大祭司であった時、彼は神の家へ入り、祭司のほか食べてはならない供えのパンを食べ、共にいた者たちにも分けてやったではないか」.
イエスはまた彼らに言われた、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある」。
 
先週の木曜のクラスは、ジャン・フランソワ・ミレーの『落ち穂拾い』の画を通して、聖書の学びをしました。ミレーの代表作であり、誰もが知っている画ですが、この画が、申命記24章19節の「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される」、この旧約聖書の戒めに関わっていることは、あまり知られていないかも知れません。そもそも旧約聖書の掟、律法には、寄留者、孤児、寡婦、弱い、貧しい小さな者への配慮に満ちていました。
 さて、ある安息日に道すがら、イエスの弟子たちが、歩きながら畑に実っていた麦の穂を摘んでいた、それをファリサイ派の人々に咎められるというところから今日の福音書は始まります。しかし、今述べた申命記の、収穫のとき、落ち穂まできれいに刈ってはならない、むしろ、刈り残せといいう戒めと同様、そもそも畑に実っている穂を、通りかかった人が摘んで食べてよいことは、申命記23章26節に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあり、旅人や貧しい人への配慮として、飢えた人が手で摘んで飢えを満たすことまで禁じてはならないというのです。つまり、貧しい人々のためだ、空腹の旅人のために気配りを持て、そういう優しさ、命へのいたわりを求めているわけです。

 しかし、この福音書において、ファリサイ派の人々が非難したのは、それが安息日であったので、許されない、律法・聖書に反する行為であったというのです。そもそも、ユダヤ教の安息日は、金曜の日没から、土曜日の日没までですが、その間、会堂に行って礼拝する他の労働行為は一切の労働が禁じられていました。この安息日は、わたしたちにとってはそれは日曜日にあたるわけですが、欧米諸国にならって、この国でも日曜日は休日なわけです。それで日曜日は休日、休む日だ、そうわたしたちは当然考えているわけですが、ところが、このユダヤ教の安息日というのは休みの日、つまり、仕事をしなくてもいい日ではなく、厳密に仕事・労働をしてはならない日、休まなくてはならない日なのです。そこで、彼らはイエスに「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」そう問うた訳です。

 ファリサイ派の人たちは、この安息日の掟を厳密にまもるために、どの程度までが仕事であり、仕事でないか、詳細な規定を作りました。急病人が出たときはどうするかとか、我々の目には、実になんと杓子定規、不自由なんだろうと思うほどです。たとえば、その急病人が出たときはどうするか、時代によって多少変移があるようですが、命に関わる場合には、治療は認められる。しかし、そうでない場合は安息日が終わるまで待たなくてはならない。つまり、どんなに歯が痛くとも、骨折しても我慢するわけです。そんなことから、たとえば花瓶が倒れてしまったとき、それを直したら、それは違反となるとか、前日調理したものを食べるのはいいが、安息日にそれを暖め直してもいけない。つまり火をおこすのは労働にあたるわけです。現代で言えば、電気のスイッチを入れることも火をおこすと同じ労働と見なされています。

 もちろん、現代のイスラエルの大分の人々は、そのように厳格に守っているわけではなく、むしろ厳格に守る人々は少数であると言ってもいいでしょう。しかし、今でもこの安息日規定は生きていて、そうした人々が住む地域には、安息日に車で通行することもできないし、金曜の日没までに、一切の公共機関、商店は閉まってしまい、交通機関も止まってしまうそうです。火を炊いてもいけないし、売買してもいけない。何かを書くのもよくない。その火を炊いてはならないという規定は、更に暗いからといって灯りをともしたり、調理をしたり、煙草を吸ったりもできないこと意味します。電気は火の一種と考えられるので、厳格に安息日を守ろうとすれば、電気製品のスイッチにさわることもできない。事の運転もだめだし、電話もだめです。冷蔵庫を開けると明りがつくので、その明かりをつかないようにしない限り、開けてはいけない。またホテルや病院には「安息日用」エレベーターがあって、ボタンに触らなくても昇ったり降りたりできるようにはしていますが、その代わり自動で一階ずつ止って行くわけです。イスラエルに旅行された方はそういうことを体験されたかも知れません。わたしたちの眼には、何とも理解しがたい、何と不自由なと思ってしまうわけです。

 しかし、ただそういう眼で、ここでのイエスの言葉を考えると、誤解が生まれるまでしょう。主イエスはそういう杓子定規さ、不自由さを否定しておられかのように、わたしたちは受け取ってしまうわけです。けれども注意して読むと、イエスは、そういう些細なことに目くじらをたてるな、と言っているのではありません。あるいは、もっと大目に見ろと言うのでもないし、規則には例外があるのだというように論じておられるのでもないのです。ダビデの例をあげて答えられるのですが、問題はその後の27節以下の言葉です。

 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、確かにこれは、わたしたちにとってはそのままでよく分かるような言葉、なるほどそうだと思える言葉と言えるでしょう。確かにファリサイ派の人たち、彼らは、結局人間を十杷一絡げにしてしまっているからです。 彼らはこのたいせつなことを見落としてしまっている、気がつかないのです。ですから、そういう意味ではこのキリストの問いは、「あなたがたに、本当に安息があるのか。安息、安んじる、そういうものがあるか」、そう逆に問うておられると言っていいでしょう。

 ここで主イエスが問いかけ給うこと、それは言い換えれば、ファリサイ派の人たちは、安息日が疑心暗鬼で人を見るようなものになってしまっていることではないでしょうか。イザヤ58章13節には、こんなことが言われています、「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする」。安息日は、本来、喜びの日と呼び、尊ぶべき日と呼べる日なのだ、とイザヤは言うのです。しかし、まさしく、どこかで誰か、こっそり料理しているのではないか、隠れてうまいものを食ってる奴がいるんじゃないか、そういう目で他人を見てしまっている、あるいは、そういう眼で他者をいつのまにか見ている人間がいる。けれど、そういう目の中で、安息日を守ったところで、そこに本当に安息があるのか、主イエスの問いはそこにあるのではないか。逆に言えば、他人の目を気にし、恐れながら、そういう風に休めと言われたって、そこに本当に自由はあるだろうか。安息があるでしょうか。まるで、縄で縛られ、鞭で叩かれて、無理矢理休まされているようなものです。つまり、このキリストの言葉の背後には、あの麦の穂を積んでもいいぞ、あるいは、飢えた人々、貧しい人々のために収穫のときには、わざと刈り残せ、落ちた穂はそのままにしておきなさい、という神の優しさ、貧しい者、飢えた者への配慮、あるいは命への無条件のいたわりがあるのです。人間を十杷一絡げに扱うのではない、自由があると言っていいでしょう。

 しかし、わたしたちは、ここで言われている主イエスのもう一つの言葉を忘れてはならないのです。「だから、人の子は安息日の主でもある」。それは、決して「だから、人は安息日の主でもある」ではない。そうではなく、「人の子」、このお方、主イエスが「安息日の主」である。そして、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから・・・・・」、この「だから」を見落としてはならないのです。「だから」、「そのためにこそ」、「人の子」、ご自身は「安息日の主でもある」とイエスは言われる。だから、キリストは安らぎの主である、と。つまり、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、「人の子は安息日の主でもある」、この二つは決して切り放せないと言っていいでしょう。どちらか一方だけであるのではないのです。このふたつの言葉を結ぶ、この「だから」、この「だから」に、あの腹がすかした人に、そっと麦の穂を残しておく神のあわれみが注がれている、わたしたちにあふれ通っていくのです。

 ですから、キリストは、わたしたちにも問うておられるのです。あなたは本当に安んじているか。そうではなくて、先入観というものにからめ取られたように、他人の目を恐れる恐れの中で、かんじがらめになってはいないか。結局人の考えることは分からない、あの人だってこうに違いない、ああに違いない、そのように疑心暗鬼になって、十杷一絡げに人を見てしまうような恐れの中にあなたはいないか。だから、わたしがあなたの安らぎの主となろう。あの麦の穂を摘むことが許される心のゆとり、安らぎを与えよう。あなたが苦しんでいるのなら、わたしが苦しもう。あなたが痛んでいるのなら、わたしが痛むのだ。だから、わたしは主である。そのような主である。あなたは一人ではない。あなた一人の苦しみ、あなた一人の痛みでは最早ない。あなたの苦しみ、あなたの痛みはわたしの苦しみ、痛みとしよう。そのように、わたしはあなたの主となろう。だから、恐れではなく、愛することを、あなたはこの日、知りなさい、と。

 とは言え、それ言われても、それでもわたしたちは本当に納得するということがないかも知れません。むしろ、そうは言っても安らげないのです。もちろん、つかの間の安らぎなら、わたしたちにもあるでしょう。何か責任ある仕事を終えたとき、あるいはやっかいなこと、問題が解決したり、病気が直ったりする、気にかかったいたことがなくなるとホッとする。問題がなくならない限り、あるいは忘れない限り、本当には安らぐことのないのです。しかし、わたしが言うまでもなくそれ以上に人生は過酷です。また直ぐに予想もつかない事態が起きてくる。親であれば子どものことが、あるいは病気のことが、責任が重ければ重いほど、気になればなるほど際限もなく不安にさせるのです。

 そういう自分をあらためて見つめると気づくことがあります。不安、安らぐことのないとき、大概わたしは、ともかく何もかも自分ひとりで考え、ひとりで何かをしよう、成し遂げようとしているのです。「もしかしたら、自分に出来ないことまでしようとしているのではないか」、そういうゆとり、先のことを考えたり、あるいは周囲を見回すゆとり、心の余裕をなくしているのです。一見がんばってとても健気なわけです。でもそのとき他者が見えない。自分しか見えない。だから、ひとりでパニックになり、あるいは誰もわたしのことを分かってくれないとひがんだりしている。そうして、疑心暗鬼で物事を見出すのです。

そうすると、見えてくることがあります。見えるというより、わたしたち一人ひとりに注がれているこのキリストのまなざしに気づくのです。「すべて重荷を負うている人は、わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」、そのように言い給うキリストのまなざしが、重荷を負うたわたしたちを包んでいるのです。苦労が耐えない、不安のなくならないわたしでも、それがどんなに重荷でも、それがなくなったのではないのに、安らぐときがあります。それは、そのわたしを思いがけず喜んでくれる誰かがいるときです。痛みも苦労も、そのときすっ飛んでいくのです。それは、わたしの人知れぬ、見えない、隠れた苦労を見ていてくれる、ああ、見ていて、知っていてくれたんだ、それが苦労を吹き飛ばすのです。

 安息日、わたしたちにとってのこの日曜日は、主イエスが、そのようにわたしたちを知り、喜んでいてくださる日だと言っていい。あの麦の穂を積んでもいいぞ、あるいは、飢えた人々、貧しい人々のために収穫のときには、わざと刈り残せ、落ちた穂はそのままにしておきなさい、という神は、わたしたちのそのような人知れぬ働き、その心を、隠れたところを見ていてくださるお方なのです。そして、誰よりわたし自身を、あなたそのものを慈しみ、喜んでくださるのです。安息日は、その喜びの日なのです 。

 そして、この福音書で、この主イエスが何をなしておられるかで、更に気づくことがあります。これも、何をなしておられるかと言うより、キリストだけがしておられないことです。それは、こういうことです。弟子たちは麦の実を食べました。ダビデも、その共の者たちもパンを食べたと言われています。しかし、キリストは、ダビデは食べても、主イエスは何も食べておられないのです。それが「安息日の主」なのです。この箇所でまるで弟子たちは、そのような主イエスにさえ何も気づいていないかのようです。

 しかし、何より、そのように主イエスが、わたしたちを支えてくださっているのです。わたしの重荷、苦しみ、人知れぬ苦労、しかし、主はそこにもそのまなざしを注ぎ、そこに、ご自身の愛を注ぎ込んでくださっているのです。

2009年6月14日 聖霊降臨後第2主日 「新しい生き方を」

マルコ2章18節~22節

 
説教  「新しい生き方を」  大和 淳 師
さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人が断食していた。彼らは来てイエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちが断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか?」
イエスは彼らに言われた、「婚宴の間にいる子たちは、花婿が一緒にいるのに、断食することができようか? 花婿が一緒である限り、彼らは断食することはできない。
しかし、花婿が彼らから取り去られる日が来る.そうなれば、彼らはその日に断食するであろう。
だれも、縮ませていない布切れを古い衣に縫いつけはしない.そんなことをしたなら、継ぎ当てた新しい布切れは、古い衣を引き裂き、破れはもっとひどくなる。
まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない.そんなことをしたなら、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋も駄目になる.新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れるものである」。

  今日からまたマルコ福音書の御言葉に耳を傾けてまいりたいと思いますが、ここには断食ということが出てきます。そもそも旧約聖書のレビ記には、年に一度、贖罪日の時に断食することだけが規定されていましたが、イエスの時代の頃には、今日の箇所にあるファリサイ派の人々は週二度、月曜日と木曜日に断食していたようです。またルカ18章には、そのことを誇りとするファリサイ派の人々のことが書かれています。また同じく挙げられている洗礼者ヨハネの弟子たちもやはり厳しい断食していたようです。そもそも洗礼者ヨハネの教えは、何より悔い改めでしたが、その悔い改めの行為として、断食を行っていたのでしょう。これもマタイ11章18節を見ますと、その彼らの断食を評して、「悪霊につかれている」と人々が言っていたようです。つまり、正気の沙汰ではないと思われたほどであったのでしょう。

   ところが、イエスは、そのように断食を弟子たちに課さなかったし、自らも断食の習慣を持とうとはされなかったようです。それどころか、今日の直ぐ前の箇所にあるように、むしろ、食事を絶つのではなく、共に食事をする人でした。ですから、先のマタイ11章には、〈ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。〉、イエスについて、こう人々が評していたと記されています。ですから、ここで「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」、というこの問いも、非難の意味がこめられていたのかも知れません。つまり、弟子たちのことを取り上げつつ、しかし、そこには徴税人や罪人の仲間であるイエスに対する非難を遠回しにしているのでしょう。

   しかし、それに対するイエスの答え、それは、実に意表を突くたとえでした。〈イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。〉(19-20節)。今は、いわば結婚式、婚礼の真っ最中なんだ、このイエスと共にある人々は、その婚礼の客なんだ。だから、どうして、そんな時に断食する必要があるだろうか、と。そして、しかし、「花婿が奪い取られる時が来る」。その時には、嘆き悲しむであろう、と。

   この「花婿が奪い取られる時」とは、ご自身の十字架にかかられることであると言います。それは、この言葉はイザヤ書53章8節の「私の民の背きの故に、彼が神の手に掛かり、命ある者の地から絶たれた」の預言、この「奪い取られる」とイザヤ書の「絶たれる」は、ギリシャ語では同じ言葉なので、つまり、十字架にかかられたことを意味しているというのです。そこから、キリスト教が断食をするのは、キリストの十字架にかかられた日、聖金曜日である、マルコは、そのことを教えているのだ、と解釈する人もいます。しかし、ここで明らかなこと、それはこの主イエスの言葉は、断食をするかしないか、あるいは、いつするのかということではなく、何よりこのキリストと共にあること、共に生きること、キリストと共に喜び、そして、キリストと共に苦しむこと、それがご自分の弟子たちであることを語っている、そう言っていいでしょう。言い換えれば、わたしたちの喜びも苦しみも、このキリストから来るのだということです。パウロは、フィリピの手紙の中でこのことを端的に次のように言います。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1章29節)。苦しむことも、恵みとして与えられているだよ、わたしたちは、とパウロはそこで語りかけています。喜びも苦しみも、このキリストから来る、いやそれどころか、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている、と。

   しかし、苦しいときに、それは恵みとして与えられている、わたしどもはなかなかそう思えない、いえ、苦しみが恵みと思えないから苦しむだ、そう言っていいでしょう。だから、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている、とは到底思えない、かえってつまずく、そう言っていいでしょう。けれども、いずれにせよ、そんなわたしどもの思いは、いわば実は自分は変わろうとせず、言うなれば、自分ではなく、神の方を変えようとする、あるいはまた自分の周囲、他者や環境だけが変わることを押しつけてようとしているわたしであると言えるかも知れません。そして、この自分を変えようとしない、変えたくない、その背後には、実際自分を変えようとしても、なかなか自分の思うとおりには変われない、変わらなかった、そういう思いがあるからでしょう。

   だから、ここで主イエスは〈だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ〉、そう言われますが、この言葉を、決して変わらない、まだ〈古い革袋〉であるわたし自身が、み言葉、イエスさまという〈新しいぶどう酒〉を受け入れてもだめになるだけだ、そんな意味にしかとれないわけです。つまり、〈新しい革袋〉になれない自分なのだから、もし、このことを真剣に受け取るならば、どうしたら〈新しい革袋〉になれるだろうと悩み苦しむ以外にないわけです。しかし、それは、自分、わたしの思い通りに変わりたい、つまり、自分で自分の思い通りに変わろうとしているだけなのです。そうして、そのような自分の弱さ、貧しさ、惨めさ、それはわたし自身、わたしのものではない、そう思い続けているからではないでしょうか。

   ところで以前、渡辺和子先生の御著書からニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に残されているという、一人の患者が書いた言われるというこんな詩を知りましたが、これは紹介したこともあるので、ご存じの方もおられるかも知れません。

   〈大きなことを成し遂げるために/力を与えてほしいと神に求めたのに/謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった/偉大なことができるように/健康を求めたのに/よりよきことをするようにと 病気を賜わった/幸せになろうとして/富を求めたのに/賢明であるようにと 貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして/成功を求めたのに/得意にならないようにと 失敗を授かった/求めたものは一つとして与えられなかったが/願いは すべて聞きとどけられた/神の意に添わぬ者であるにもかかわらず/心の中の言い表わせない祈りは/すべて叶えられた/私は 最も豊かに祝福されたのだ〉それで、この詩を記した人は思わぬ病や事故で体が不自由になってしまったのでしょうか。かつて健康を願い、成功と賞賛を求めたこの人の祈りは、求めたものは一つとして与えられなかったのに、しかし、神の意に添わぬわたしなのに、わたしの心の中の願いはすべて叶えられたと言うのです。それで、〈新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ〉というその〈新しい革袋〉とは、結局、わたしが想い描く立派な自分、有能である、常に正しく、あるいは強く、他から尊敬されるような、そういう新しい自分なのではなく、まことに弱さ、貧困、あるいは病気、失敗・・・そのようなわたしである、いや、それを通してこそ、神は恵みをわたしに与えてくださる、ということ ― 喜びも苦しみも、このキリストから来る、いやそれどころか、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。だから、そのように自分を、わたしを変える、変えてくださるよう祈る、まことにそこにこの十字架のキリストが立っておられる。そのことが〈新しいぶどう酒は、新しい革袋に〉ということである、そう言えるのではないか、と思うのです。〈新しいぶどう酒〉、〈新しい革袋〉とは〈永遠に変わらないぶどう酒〉、〈永遠に変わることのない革袋〉、そう言い換えてもいいでしょう。と言うのも、聖書において、新しいということ、これはもちろん、今までなかったと言う意味で新しい、そのように使われますが、しかし、聖書がいう本当に新しいとは、もっと根本的に決して変わらないもの、永遠に変わらないもの、つまり、神ご自身のみ、あるいはその神から来るものだけなのです。

   それで、渡辺先生はこう言われていますが、先の詩を書き残した人も、直ぐにそのように受け止められたわけではないでしょう。きっと、眠れない夜を幾夜も送り、時に絶望し、嘆き悲しみながら、祈り求め続けたのでしょう。でも求めたものは一つとして与えられなかった、だが神さまは心の中の願いをすべて叶えてくださった、わたしの思いではなく、本当に意に添わないはずの、そのわたしに必要なもの、永遠に変わらないものをいつも与えてくださるのだ、心の中の願い、わたしがわたしである安らぎを与えてくださったと。だから、弱さを通してこそ、神さまはわたしに本当に必要な新しい革袋、決して永遠に失われることのない革袋を用意し、与えてくださる。それがキリスト者としての新しい生き方、このキリストと共に喜び、キリストと共に泣く生き方なのです。

   だから、わたしたちが経験する出来事のひとつひとつ、たとえ、それがどれほど辛い、悲しいことに思えたとしても、それらは無意味なものでも、不条理なものでもない。それも神が与えた出来事と考えられる時に、今は恵みとは分からない、思えないけれどもそれでも自分の人生として受け入れて生きていくことができるようになるということでしょう。わたしたちには、今恵みとは分からなくても、共にいてくださる神においては神のご意志、愛、み恵みが変わることなく貫かれている ― そのことを信ずることができるなら、あるいは、その愛、神のご意志が貫かれることを祈り求めるならば、その時にこそ、わたしたちは不安を乗り越えることができるのではないでしょうか。
そもそも、わたしたちは神の御手の中にある全体の一部を知っているに過ぎないのです。しかし、それは逆に言えば、神は全てを知っておられる、ということ。全ては神の御手の中にあるということ。その神の御手、ご意志とは、決して冷たい運命や宿命、あるいは暴君のようなものではない、このわたしをただひたすら愛するが故に、このわたしの全てをご存じである ― このことを信じる、この身に帯びていく ― そこに既に〈新しい革袋〉、新しい生き方が始まるのです。もっと言うならば、どんなことにおいても、喜びも、苦しみも神が与えてくださったことだと信じることが、私たちの人生を新しい、どんなことにおいても決して変わらない生き方にするでしょう。キリストが変わらずにそこに立ち、共にいてくださるのです。

   さまざまなことがあるでしょう。受け入れがたい現実に直面することだってあるでしょう。しかしこの試練も、自分の思いに反するようなことが続くときでも、この人生は神に与えられたものなのなのです。だから、あなたの人生は無意味であるはずがない、理不尽のまま、不条理のままであるはずはないのです。〈新しいぶどう酒は新しい革袋に〉、そういう生き方が既にわたしたちの中に始まっているのです。