2009年6月7日 三位一体主日 「風は愛するままに吹く」

ヨハネ3章1節~12節

 
説教  「風は愛するままに吹く」  大和 淳 師
ところが、パリサイ人の一人で、名をニコデモというユダヤ人の指導者がいた。
この人が、夜イエスの所に来て言った、「ラビ、わたしたちは、あなたが神から来られた教師であることを知っています.神が共におられるのでなければ、あなたが行なっておられるこれらのしるしを、だれも行なうことはできないからです」。
イエスは彼に答えて言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたに言う.人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年老いてから、どうして生まれることができるでしょう? もう一度、母の胎内に入って、生まれることができるのでしょうか?」
イエスは答えられた、「まことに、まことに、わたしはあなたに言う.人は水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることはできない。
肉から生まれるのは肉であり、その霊から生まれるのは霊である。
わたしがあなたに、『あなたがたは新しく生まれなければならない』と言ったことを、不思議に思ってはならない。
風は思いのままに吹く.あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない.その霊から生まれる者もみなそうである」。
ニコデモは彼に尋ねて言った、「どうして、そのような事があり得るのでしょう?」
イエスは答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師であるのに、このような事がわからないのか?
まことに、まことに、わたしはあなたに言う.わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
わたしがあなたがたに、地上の事柄を告げても信じないとしたら、天の事柄を告げたところで、どうして信じるだろうか?

 子どもの頃、故郷では山の向こうに富士山が見えました。晴れた日に、その美しい姿が見えると何か憧れのような思いでじっとよく見つめていたことを覚えています。そして、曇りや雨で見えない時も、ふと、ああ、あそこに富士山があるんだ、そう思ってその方向を見ていたことがありました。さて今日、ご一緒に読む福音書、そこには、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、そういうキリストの言葉が記されています。大変不可思議な言葉であると言っていいでしょう。「新たに生まれる」 ― 私たちもこのニコデモのように、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」、あるいは「どうして、そんなことがありえましょうか」、そう困惑しながら問うてしまうでしょう。けれども、わたしたちは、これらの言葉の上に、ちょうどあの富士山のように高く聳え立っているキリストの言葉を仰ぐことが出来ます。それは、今日の福音書の日課の後3章16節以下に、こう記されている言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16-17)。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、したがって、このニコデモもまた「愛された」者であり続けるのです。そして、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」、わたしどもは、ここでこのキリストが語っておられること、それはまさにそこから語っておられるのであり、そのようにニコデモに相対しておられるのだということを知るのです。

  もちろん、「夜」、キリストの下に訪れたニコデモの眼にはちょうど夜には見えないあの富士山のように見ることができないのです。したがって、「どうして、そんなことがありえましょうか」と声をあげてしまう彼なのです。そのように「新しく生まれる」、それはこの地上に生きるわたしたちにとっては、全く疑わしく思えることです。だが、ニコデモ、そして、わたしたちの眼にはたとえ見えなくても、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである・・・」、この御言葉は、常に富士山はそこにそびえ立っているように、いや神の言葉は永遠であるが故に、それ以上確かに、そして吹いてくる風のようにわたしたちに働きかけてくる、そのことが心にくっきりと浮かび上がってくる出来事なのです。そして、この3章16節以下のこの御言葉と今日の個所の真中には、こういうことが語られています。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(3:13-14)。わたしたちが、まさにニコデモのように、この地上で、わたしたちは誰一人「失われていく」「滅びていく」、そのようにこの眼には写るこの現実、まさに「夜」そのもののような生活、「どうして、そんなことが」とため息をもらす、苦悶している私たちのこの現実、だが、見上げるものがそこにある、「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」 ― キリストは、ご自身の十字架をはるか指差しておられるのです。復活の命、そして、昇天の出来事を!ペトロはその手紙の中で、この富士山のようにそびえる私たちの希望についてこう記しています、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(1ペトロ1:3-4)。この望みのもとにある生活!

   だが、しかし、ニコデモはそこを見上げることが出来ません。ただ下を、地上を見続けるのです。ニコデモは、そのときこの方イエス・キリストご自身を見る代わりに、自分自身を見つめてしまうのです。それが、神が、したがって、この方が愛されておられるこの世の姿なのです。しかし、キリストはそんな彼の不可能さに対して更に助け舟を出すようにご自身を示されます、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「水と霊とによって生まれる」。つまり、「新しく生まれる」それは全く雲をつかむようなことではなく「水から生まれる」ことなのだ、と。もちろん、この水とはわたしたちにとって洗礼の水のことですが、「ファリサイ派に属する」、「ユダヤ人たちの議員であった」この「イスラエルの教師」ニコデモ、したがって、聖書を熟知し、人々を教え続けてきたニコデモ、その彼もまた、生まれた赤ん坊が産湯につかるように、水から生まれなければならない。今や彼に必要なのは、この地上のことにどれだけ熟知しえるか、ということではなく、またどれだけ確かな、そして豊かな知識と経験があるか、そういうことでもなく、まったくに子どものように、「水から生まれ」なくてはならない。彼に必要なのは、根本から必要なこと、それは霊、霊から裸で生まれることなのです。

   ところで、福音書は、このニコデモがキリストを訪れたのは「夜」であったとわざわざ記しています。それが夜であったというのには、色々な意味が込められているのでしょう。ある人は、その立派な肩書き、そして指導者と呼ばれる地位も名誉もあるニコデモが、夜、キリストを訪ねたのは、彼がそのような特別な地位にあるが故に、人目を避けてのことであったからと述べています。確かにそのような皮肉な眼をもって読むことも出来るでしょう。けれでも、また別の人は、彼がキリストを訪ね、そして、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」、そう告白するのは勇気がいったことであろう、そう言うのです。すでに彼の属するファリサイ派の人々は、このキリストと対立していたからです。ニコデモが勇気のある人であったのか、あるいはそうでないのかはともかく、そのようにわたしたちが考える「勇気」とは、何かに敢然として立ち向かい、征服・克服していこうとする、逆境に負けない気持ち、変えていく力、それを勇気と考えます。つまり、ともかく何かを変えようと立ち上がることです。若い時はそれでいい、と言うより、そのような勇気こそ若さの特権であり、向上心ということでしょう。

   けれども、人生にはもっと違った勇気が必要です。それは、一言で言えば、受け入れがたいものを受け入れる勇気と言ったらいいでしょうか。それで、このニコデモのことですが、彼は、結局、人は生まれ変わることは出来ないと言う。そういう意味では自分は変われない、そう言っているのだと言えるでしょう。では、そのことをニコデモが自分自身に本当に受け入れているかと言えば、むしろ、そうではないのではないか。ニコデモがここで受け入れられなかったこと、それは、キリストのこれらの言葉以上に、彼自身が言う他ならないこのこと、わたしは自分で新たに生まれることはできません、それを本当に率直に受け入れてはいない、本当にはできなかった、結局そういうことではないでしょうか。

   でも、キリストは、決してあなたは、あなた自身で変われ、そうおっしゃってはいないのです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」、あなたは肉から生まれたものに過ぎないのだ、と。なるほど、そうなのです。しかし、その「母親の胎内」から生まれたのも、決して、わたしたちは、わたしたち自身で、自分から生まれたのではない。そのようにして母の胎を通して命を与えられたもの、だから同じように、霊から生まれる、同じように命を与えられる、キリストはそうおっしゃっている。
そして、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と。これは確かに全く禅問答のように捕らえどころがないように思えるかも知れません。しかし、そのような者であることをただここで率直に認める、受け入れるしかない。ありのままの姿で、このキリストの前に立つ以外にない。でも、それは決して、恐らくニコデモにとって承伏しがたかったように、いわば情けないことではないのだ、むしろ、そのような裸の自分、何々に属して、何々をしている、出来る人間であるとか、こういうことを知っている、分かっている、そんな背伸びをもうしなくていいのだ、ということ。

   更にそれをもっと身近に言い換えれば、どんな姿の自分も嫌うことなく、その自分と仲良く生きる勇気といったらいいでしょうか、他人の助けなしには結局生き得なくなっていく、情けない自分を受け入れる勇気、年と共に休型が変わり、背も丸くなったり、しわが増えていくような、そんな自分を惨めに思わない勇気、そしてあれこれの病に無力になっていく自分を、しかしそれでも生かされていることを喜ぶ勇気、そのように、さまざまに味わう悲しさを一つひとつ〝我が物″として認める、受け入れがたいものを受け入れる勇気、キリストは、まさにそれをニコデモに与えようとしている、そう言えるのではないでしょうか。

  なるほど、「風は思いのままに吹く」、わたしたちがこっちだ、あっちだ、そう定めようとしても、決してその通りにならない。ではどうするのか、風の吹くままに生きる、ありのままにその風に身をさらす以外にない。そのように言うと、まことに無責任といいうか、心許ない思いをなされるかも知れません。吹けば飛ぶような自分を思わざる得ないのです。しかし、その「風は思いのままに吹く」、その風の思い、あるいは、「、それがどこから来て、どこへ行くか」、風の心 ― キリストは、そのことについて、はっきりとこう語っておられるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

   みなさん、これが、風の思い、キリストの風なのです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、「一人も滅びない」、まことにそれが今日、わたしたち、吹けば飛ぶようなわたしに向けられた言葉、風なのです。つまり、こういうことです、「風は思いのままに吹く」、それは風は勝手気ままに、ということではなく、まさに風は〈愛するがままに吹く〉。それ故、「一人も滅びない」、決して滅びることはない、この風の中に、わたしもあなたもあるのだ、ということ。そして、単に「滅びない」というだけでなく「永遠の命を得る」。命、このわたしが生きるものとされている。

   まことに自分自身を真に見つめれば、情けない自分、みじめな自分、しかし、今やそのわたしに「風は思いのままに」〈愛するがままに吹く〉、生きるものとされている、そのような力を与えられるのです。わたしどもは、新しく生まれる、生まれ変わる、それを、まさにニコデモのようにまことにとてつもない、途方もないことのように思うのです。あるいは、あのまことに小さな自分、この平凡な生活、つまり、今わたしたちが実際に生き、そこで愚痴をこぼしたり、途方に暮れたりしながら、自分のわがまま、情けなさを感じているその生活と切り離して考える、あるいは、その自分がまことに見事な、堂々たる自分に変わるかのように。

   しかし、キリストのおっしゃることは、実は本当にささやかなこと、全く確かに目立たないことです。何故なら、このわたしたちのその平凡な生活、小さな自分を受け入れることだからです。そのようなわたしに途方もない大きな愛が注がれている、失われてはならないかけがえのないものとして慈しみ、命につないでくださっているからです。それを信じること!この受け入れがたいものを受け入れること!何故なら、神こそ、この受け入れがたいもの、受け入れがたいわたしをあるがままに受け入れてくださっておられるからです。それは具体的に言えば、たとえば人を笑顔で迎えようとか、あるいは他人と比較しないで自分の生活を大切にするという決意、実はそのようなほんのささやかな勇気、決意ではないでしょうか。日常生活の中でどんな自分も受け入れる、受け入れていこうとする勇気です。この大きな愛、命の流れの中に生かされているからこそ、わたしどもは、まことにこ些細な、小さな、取るに足らないと思えることにも忠実に生きていくのです。

   それ故、わたしたちに与えられている永遠の命とは、単に死後のことではありません。今をわたしたちが生き生きと生きていく力、希望です。希望は、常に誰か自分以外の者と共に持つもの、愛し、愛されているが故に生まれるものです。共に苦しみ、共に喜ぶこと、それが希望です。そのように永遠の命とは、わたしひとりの命のことではありません。キリストが与えてくださるように、キリストと、神と分かち合って生きる命のことです。そして、あなたなしにわたしが生きるのではなく、<一人も滅びない>と言われるように、わたしもあなたも共に生きる命です。一緒にキリストと共に生きることです。そこに教会の原点があるのです。共に生きるからこそ、苦しみもある、悲しみもあるでしょう。だからこそ、かつて旧約の民は、モーセが主の命令に従って造った<炎の蛇>を見上げて<命を得>ました。わたしたちは今、このキリスト、十字架を見上げましょう。主はこう言われるのです、「あなた自身の中を見下ろすのはではない。耐えきれないときに、憎しみに負け、不安、恐れに戦くとき、もう歩けないと立ち止まり、崩れ落ちてしまうとき、わたしの十字架を見上げよ、あなたは滅びてはならない、あなたはわたしと共に生きるのだ。<わたしが生きるのであなたがたも生きる>」と!

   今日も、あの富士山のように、わたしたちにこの御言葉が聳え立っているのです。だから、見えなくても、いや、見えないからこそ「新しく生まれる」― わたしたちはそれを信じる!この世の力がわたしたちを今わたしたちを脅かし、苦しめるこのとき、たとえ、わたしの眼には何も見えなくても、あのニコデモのように、「どうして、そんなことがありえましょうか」、ただ出てくるのはそのような結論だけだとしても(実際、わたしたち自身からはそれ以外の結論はないのですから)、そうであるが故に、そのニコデモの前に立っておられる方、共に立ち続ける方、見捨てることのない方、イエス・キリストを仰ぐのです。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」、まさに、わたしたちはどこへ行くかをなるほど知らない。この身が明日どうなるか知りません。すでに齢を重ねてきたわたしにはできないことがある。しかし、そうだとしてもわたしには今なし得ることがあるのです!何故なら「風は吹いている」のです、わたしに、あなたに!キリストの風は、愛するままに吹くからです。

2009年5月31日 聖霊降臨祭 「神さまのバリア・フリー」

使徒2章1節~21節
大和 淳 師

さて、ペンテコステの日が満ちた時、彼らはみな同じ場所に集まっていた。
すると突然、激しい風が吹いてきたように、天から音が聞こえ、彼らが座っていた家中を満たした。
そして、火のような舌が彼らに現れ、それが分かれて彼らめいめいの上にとどまった.
すると、彼らはみな聖霊で満たされ、その霊が彼らに語り出させるままに、さまざまな言語で語り始めた。
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国から来た信心深いユダヤ人が住んでいた。
この物音が起こると、群衆は集まって来た.そして困惑してしまった.なぜなら、めいめいが、自分たちの方言で弟子たちが語るのを聞いたからである。Read more

2009年5月24日 昇天主日 「天」

ルカ24章44~53節

 
説教  「天」  大和 淳 師
イエスは彼らに言われた、「わたしがまだあなたがたと一緒にいた時、あなたがたに語ったわたしの言はこうである.すなわち、わたしについて、モーセの律法と預言者の書と詩篇とに書かれているすべての事は、成就されなければならない」。
それから、イエスは聖書を理解させるように、彼らの思いを開かれた.
イエスは彼らに言われた、「こう書かれている、『キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から復活する.
そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、彼の御名の中で、エルサレムから始まって、すべての国民に宣べ伝えられる』。
あなたがたはこれらの事の証人である。
見よ、わたしはわたしの父が約束されたものを、あなたがたの上に送る.ただ、あなたがたは、高い所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」。
イエスは彼らに言われた、「わたしがまだあなたがたと一緒にいた時、あなたがたに語ったわたしの言はこうである.すなわち、わたしについて、モーセの律法と預言者の書と詩篇とに書かれているすべての事は、成就されなければならない」。
それから、イエスは聖書を理解させるように、彼らの思いを開かれた.
イエスは彼らに言われた、「こう書かれている、『キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から復活する.
そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、彼の御名の中で、エルサレムから始まって、すべての国民に宣べ伝えられる』。
あなたがたはこれらの事の証人である。
見よ、わたしはわたしの父が約束されたものを、あなたがたの上に送る.ただ、あなたがたは、高い所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」。

   東京にいますと、東京には空がないという智恵子抄ではないですが、空と言っても、ビルなどの建物に区切られた、本当に背景の一部でしかなわけです。そういう風なところで生活していると、自然、視線は上を向かない、やっぱりどうしても下、うつ向いて生きてしまいますね。せいぜい水平にしか視線は行かない。あるいはむしろこう言うべきだと思うのですが、ともかく空と地上が完全に区切られた世界である、と。

   それで、天を見上げることのない生活ということ、それは、ややもすればどうしても下を向いていく、あるいはうつむいていってしまう生活となっていうのですけれど、けれども、本当にこうして空があるということ、わたしたちの上には、わたしたちが見上げることのない天があるということ、そのことを思うわけです。わたしたちの上には天、空がある、これは勿論、全く当たり前のことです。自然ではないか、そう言われるかも知れない。でも、現代の人間は、果たして、本当に空のもとで生きているか、空を見上げながら生きているか、そういうことを思います。空と一体となっているか、と。

   そういうことを思いますと、あらためてわたしたちが水平に見ている町並みとか、道とか、山並み、そういう地上のもの、景色、それは実は本当にこの空の模様を反映しているということを思うのです。明るいまぶしいような太陽の光が降り注ぐ、そうして抜けるような青空、その光がどんなにこのわたしの居る地上と一体になっているか、あるいは曇り空、その柔らかな光、その下にあって見ている、それがこの地上であるということ、その光によって、一本一本の木がいろんな色に、それぞれ違って染まっている。まさに空無しにはないのだ、ということ、そういうことを思うのですが、勿論、この聖書が語るキリストは天に昇られたという、その天というのは、そんな風に目で見えるところの空ではなく、あるいはこの空の向こう、はるか彼方のどこかということではない、むしろそれは、最早わたしどもの考えを超えてしまっているのですが、端的にただ神のいまし給うところ、そういう意味です。そういう天、キリストがおられるところ、それはわたしたちが意識していようといまいと、使徒書の日課、エフェソ書が「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。・・・」、そう語っている、そのようにわたしたちのこの地上は、このキリストの下に今やあるのだ、ということ、つまり、本当に、今やこの世界、そして何よりもこの教会、それはこのキリストと一体なのだ、ということ。そのことをもっと端的にパウロは、こう語るわけです、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章34~39節)。

  「キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」、そして、パウロは、それを「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、キリストが天に昇られたということ、それは、それほどにわたしたちと一体となられたのだ、そう語っている。

   そのことをルターは、1525年5月14日の昇天主日説教 ― わたしは毎年この説教を読み、また毎回のようにこうして紹介しているのですが ― その中でこう語っています。「キリストは上にましそしてそのはるか上からここにいる我らを治め給うために、天に昇られた、そのように考えてはならない。そうではなく、キリストはそこでこそ最も多くのことを創造し、治めることが出来るが故に天に昇られたのだ。何故なら、もし彼がこの地上に人々に目に見える仕方で留まり続けられるとしたら、彼はこれほど多くのことを創造したりはできないであろう。全ての人々が彼の傍らにあり、彼に聴くことはできないであろう。・・・だから、彼は今や我々と遠く離れてしまっているのだと、くれぐれも考えないようにしないさい。むしろ、事実は全く逆に、彼が地上におられたとき、彼はわれわれと遠く経だっていたのだが、今や彼はわれわれの近くにいまし給うのである。」

  つまり、わたしたちが、そういう風にキリストのおられる天を見上げる、仰ぐということ、それは即わたしたち凡てのものの足下、土台、それがどれほど確かなのもであるか、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、そのことを知ることだ、そう言っていい。

   けれども、そうであればあるほど、本当にわたしどもは、それにも関わらず、本当に自分自身の弱さというものを実感せざる得ないわけです。揺れ動く。あるいは、こんな風に疑いを抱く、もし、そのようにキリストが今やわたしたちと一体となっておられるなら、何故、わたしの生はこんなにも脆いのか、と。その中で感じるのは、ややもすると、あの天と区切られ、切り離されたようなわたしどもの生であるわけです。あるいは、そういう風に、わたしたちの中、互いにまた、このキリストの愛によって、わたしたちもまた一つとされている、まさにパウロは「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ2章27,28節)、そう語っているのに、やはり現実には教会もバラバラではないか、と。

  そういうとき、わたしたちは、それはやはり自分たちの信仰の弱さなんだ、と、そう考える。信仰が弱いから揺れ動く、と。でも、本当にそうなのか。信仰が強ければ、たとえば、あの愛する長谷川さんの死は、悲しくないのか、痛みとならないのか。勿論、聖書の中には例をあげるまでもなく至る所で、そういうわたしたちの姿を不信仰、信仰の弱さであると、確かにそういうことも語っています。だから一面、そうなのですけれど、たとえば、あのパウロはまた、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」、そう率直に語り、「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ローマ7章15-19節)と。ここで言われていることの厳密な意味はともかく、パウロもまた、自分のしていることが分からない。あるいは、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」、悪を行っている、つまり、それほど逃れようもなく自分は不信仰なのだ、そう言っているわけです。あるいは自分は罪人の頭であるとまで言うのです。

   しかし、同時にその弱いパウロは、また「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12章10節)、まさにそのように「強さ」についても語り得るのです。あるいは、「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(〃11章29-30節)。一体それはどういうことなのでしょうか。

   「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、それほど確かな土台に据えられているということ、それは、だから即わたしたち自身がもう決して揺れ動くことはない、どんなことにもびくともしない、そういうものにキリスト者はなったということではないのです。むしろ、揺れ動く。いや、揺れ動いていいんだ。いや、土台がしっかりしているからこそ揺れ動くのだ、ということ。

   だから、本当に悲しいことの中で、本当に悲しむ、それどころか、何故、神さま、こんなことがあるのですか、あなたはあなたの右に座しておられるキリストによって、この世を支配されているのではないですか、と叫んでいい。痛ければ、痛いと泣いていい。でも、信仰とは、その揺れが大きければ大きいほど、まさに土台はびくともしない、全く強い力で、わたしを支えているのです。わたしどもは、自分の弱さを知れば知るほど、そのキリスト、その愛の強さを知るのです。まさに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12章9節)ということ、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(〃)そうパウロは呼びかけているのです。

   それゆえ、それは全く自然体、キリスト者の生き方は自然体の生き方である、そう言い換えた方がいいかも知れません。まことに苦難がある、あるいは行き詰まるようなことが起こる。まことに揺り動かされる、けれども、そういう時にこそ、この土台、キリストの昇天とは、まさに土台となられたということですが、その強さを仰ぐ、つまり堪え忍ぶということ。その時、わたしたちは、本当に驚くほど揺るぎないもの、力を知るのです。

   このキリストの昇天という主日、昇天、それは、なるほど、わたしたち自身は、痛み、悲しみ、苦しみに揺れ動くかも知れない、しかし、「神を愛する者 凡てのもの相働きて 益となる」、キリスト者はそのことを知り、また仰ぎ望んで生きる者であることを。
ルカ福音書は、キリストが天にあげられていく、いわば別離であるはずなのに「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」、彼らは悲しむどころか、大喜びで帰っていったのだ、とそう伝えています。

   それはまったく今やわたしどもの命はしっかりとこのキリスト、その命につながっている。そして、またこのキリストを通して、わたしたち一人ひとりとしっかりとつなげられているのです。わたしたちは今ここで既にありのままに一つの命に生きている。だからこそエフェソ書が語るように教会が生まれたのです。そこに教会があるのです。それが、キリストが天に昇り、父の右に座し給うということの意味です。自らは揺れ動くとも天を仰ぎつつこのキリストを証し続ける、それが教会なのです。だからこそ、あの弟子たちは彼らは喜んだのです。
さぁ、わたしたちもまた、今あるがままに大喜びで帰り、絶えず神をほめたたえていきましょう。

2009年5月17日 復活後第5主日 「喜び」

ヨハネ15章11~17節
大和 淳 師

これらの事をあなたがたに語ったのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい.これがわたしの戒めである。
人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛を、だれも持つことはない。
わたしが命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友である。
わたしはもはや、あなたがたを奴隷とは呼ばない.奴隷は主人が行なっていることを知らないからである.わたしはあなたがたを友と呼んだ.わたしは父から聞いたすべての事を、あなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない.むしろ、わたしがあなたがたを選んだのである.そしてあなたがたを立てた.それは、あなたがたが出て行って実を結び、あなたがたの実が残るためであり、あなたがたがわたしの名の中で父に求めるものは何でも、彼があなたがたに与えてくださるためである。
わたしがこれらの事をあなたがたに命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節) ― 「わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるため」、そのために、キリストはわたしたちにみ言葉を語られる、全てはこのためであると言うのです。キリストの言葉、わたしたちがそれを聞くのは、まさにこの喜びのためなのだ、と。つまり、これは「今あなたがたの持っている不確かな喜びを全く揺るがない、確かな喜びとするために、わたしはこれらの言葉を語ったのである」、そういうことです。

と言うことは、キリストは、当然わたしたちの喜び、わたしたちが今持っている喜びとは、如何に弱く、不確かなものであるかを、わたしたちは本当には喜べないものであるということを、この方は本当によく知っておられるのです。いや、それどころかもっと直接に、19節では「世はあなたがたを憎む」、あるいは16章20節では「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」、その16章の終りでは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、そのようにキリストは言われるように、わたしたちが、今ここでは苦しみを持ち、泣き悲しむような人間であり、憂いて生活し、悩みを抱えて生きている、それがわたしちの真の姿であることを、本当に御存知であり、それ故、「喜びが満たされるため」、そうおっしゃっておられるのです。

ですから、わたしたちが、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」、このキリストの言葉に耳を傾け、自分のものにするということ、それは、でも自分のことを振り替えれば、どうしたって本当には喜べない、むしろ悩んだり、悲しんだり、苦しんでいるものであること、そういう自分であることを忘れて、謂わば無理にでも喜ぶ、喜ばなければならない、そういうことではないのです。

むしろ、それはこういうことです。わたしたちは、やはり喜べない、喜びたい、本当の喜びが欲しいのに、いやそれ故に悩んだり、苦しんだりする、悲しまなければならない、そういう自分であるということ、そのことを、この方の前に隠す必要はない、むしろそのようなありのままの自分を本当に思っていいのだ、ということです。それ故にこそ、キリストはあなたに言われるのです。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」「わたしの喜びがあなたがたのうちにある」ようにして下さるのです。キリストご自身の喜びを、またあなたのものに、あなたの喜びとして下さるというのです。

ですから、思い切って主に言っていいのです。「でも主よ、どこに喜びがあるのでしょうか。このわたしの中に・・・。主よ、喜びを求めて様々なことをしてきたのです。でも、いつも喜びは裏切られました。泡のように浮かんでは消えました。だから思い悩むのです。苦しいのです。人一人も愛し通せない自分です。いや、自分自身さえ本当に大事にできないのです。だから、本当は忘れていたいのです。そんな自分を真剣に考えることは、ただあまりにも悲しいからです。あまりにも自分が惨めだからです。汚れてしみだらけの自分を取り替えることはできないからです。主よ、だから、あなたの言われるような、一点の曇りもない喜びは、今更どこにもないのです。わたしの中にも、わたしの周囲にも。」と。

そもそも、わたしたちが本当に喜べない、それは、たとえば、希望、本当に確かな希望を持っていない、それゆえ、今ある喜びも全くつかの間の喜びになってしまう、そう言えるでしょう。だから、それこそ今あること、周囲のことに常に引きずり回されてしまう訳です。他人と比べて、ああ何て自分は不幸だろうと思ったり、あるいはこの方はるかにが多いかも知れませんが、自分より不幸な人、みじめな境遇な人を見て、自分はまだましだ、いい方だとか思ったりする、そういうどこか気楽な人生を歩んだりする訳です。しかし、本当に確かな希望を持っていないがゆえに、たとえば災難や、あるいは周囲にちょっとした暗いことがあると、もう動揺してしまって、自分を見失ってしまう訳です。それは明日がない、本当の希望がないからです。だから、重い過去を引きずるようにしか、人生を感じられなくなってしまう、そう言えるのです。言い換えれば、本当の意味で明日がない、明日を感じられない、そういうところでは、逆につかの間の喜びというか、刹那的な人生観しか持てなくなる。人生が投げやりになっていく。それは今が楽しければそれでいいという風な生き方になりかねません。つかの間の喜びでしかなくなるわけです。

しかし、何と言ってもわたしたちが喜びを失うのは、この後、キリストが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)と言われている、このことに関わります。つまり、わたしたちが喜びを失うのは、「たがいに愛し合う」ような、愛し、愛される、共にいる人間がいないときです。独りぼっちであるからです。つまり、こういうことです。たとえば、宝くじで一億円当たったところで、やっぱり自分ひとりだけでそれを使うことを考えれば、最初は嬉しいでしょうが、むしろ、大金を独り占めしようとし始めるなら、一億円は喜びであることから、苦痛、重荷になっていくでしょう。何故なら、喜びとは、本来誰かと一緒に喜ぶことだからです。あなたを喜んでくれる人がいる、あるいはまた一緒に悲しんでくれる人がいるということです。もっとも、それにも関わらず、一億円あったら、そんな浅ましい思いを持ち続けるわたしがいるわけですが・・・。

それで、9節でキリストは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」、そのように言われ、そして、だから「わたしの愛にとどまりなさい」と命じておられます。原文を見ますと、この「愛にとどまりなさい」という「とどまりなさい」という言葉と、この「わたしの喜びがあなたがたの内にあり」の「内にある」は同じ言葉です。一方でキリストの愛のうちに留まりなさいと言われ、同じように、ここではキリストの喜びが留まるためである、そう言われているわけです。実に愛と喜びは切り離せないものなのです。それが、このキリストであり、この神の愛なのです。そして、ここでキリストの言われる愛にしろ、喜びにしろ、ともかく主語は、全くキリスト、つまりこの喜び、あるいは愛する主体は常にキリストです。その意味では、わたしたちは、その愛、喜びを徹底してただ受けるだけなのです。つまり、一方的に、このキリストから、わたしたちに与えられる、やってくるものである訳です。実は、そのことがこの15章のはじめから一貫していることなのです。

少し振り返りますと、キリストは、はじめに「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、わたしたちに言われました。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と。わたしたちは、このキリストにおいて、キリストと言う「ぶどうの木」の枝であるとされていました。だから、このキリストにつながっていれば「豊かな実を結ぶ」(〃)けれど、もしキリストから離れるなら「あなたがたは何一つできない」(〃)。ここで、ともかくわたしたちはキリストから離れることはできないと言われている。「あなたがたは何もできない」、これは実にはっきりとした、強い言葉です。全く、ことごとく何もできないと言われるのです。したがって、もし、わたしたちが喜べない、喜びのないものに人生がなってしまっている、あるいは端的に愛することができないということ、それはただ、わたしたちは決して幹、木そのものではなく、一本の枝、折られてしまったら「投げ捨てられて枯れる」枝だからだと言うのです。しかし、わたしたちは、既にキリストというぶどうの木の枝なんだということ、いや、わたしだけではない、一人ひとり、わたしたちの目にはバラバラに見える一人ひとりが、同じ幹から命をもらって生きている、実がなるよう支えられている同じ木の枝なんだということ。 ですから、わたしたちはこの自分自身、この自分で「実を結ぶ」、そういう風に、あたかも自分自身が「ぶどうの木」であるかのように考え、生きている訳ですが、しかし、実はその自分の足元、その下に、このわたしが今このありのままで「実を結ぶ」ようにしっかりとわたしをつないでいるキリストという命の木、支えがあるのだ、ということ。だから、「喜びが満ちあふれる」、それはただこのキリストの愛、大きな力強い、そのぶどうの木に、枝として留まる、ただそれだけがここで求められている、あえて言えば、それだけでいいのだと。このキリストの愛のうちに生きる、しかも、わたしだけではない、すべての人が愛され、大切な枝として、わたしと共に生かされている、そのことを知ることが求められているわけです。

もちろん、最初に申しましたとおり、わたしたちの内には絶えず不安がある訳です。そうは言ってもこの木から、自分は離されてしまっているのではないか、というような不安、あるいは苦しみがあるわけです。あるいは、やはり自分は本当に人を愛することはできない、あるいは、むしろ、愛されていないのではないかという苦しみ、不安です。希望がないと感じる悩みです。孤独を感じる悲しみです。わたしたちの眼には、何と言っても闇の深さしか写らないからです。

しかし、そういうわたしたちに、このキリストは力強く、そのわたしたちのぶどうの木として、わたしと共にい給うのです。十字架という死の苦しみ、その深い人生の谷底まで降り給い、死さえも、この方から、わたしたちを離すことができないほどに、わたしを結び付けていてくれる、その愛を貫かれたのです。あなたの苦しみ、悲しみ、悩み、それはあなたひとりの、その枝だけの痛みではないのです。一つの枝、一本の枝の痛みは、そのまま木全体の苦しみであり、このキリストの苦しみであるのです。

全くに、このキリストは、それだからこそ、枝であるわたしたちなしには存在し給わない。幹のない、幹から離れた枝は枯れるように、しかし、またその幹、ぶどうの木は、枝なしには存在しないのです。キリストは、あなたなしにい給わないのだということ。わたしたちは、キリストというぶどうの木の枝であるということ、それは、キリストかわたしたちなしには存在しようとされないし、それ故にこそ、わたしたちはこのキリストなしには存在しないということなのです。 それ故、今日のみ言葉の真ん中で、こういうことが語られています。キリストは、このように言われるのです。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」 ― この15章の少し前、同じヨハネ福音書10章では主イエスはご自身を「わたしは良い羊飼いである」とされ、わたしたちを羊にたとえられていました。そして、この15章の冒頭では今度は、ぶどうの木とぶどうの枝にたとえられました。それで、この羊飼いとぶどうの木の比喩を比較してみますと、羊飼いと羊の関係より、ぶどうの木とぶどうの枝は、更にキリストとわたしたちとの関係がよりはるかに緊密な、強く結ばれた関係として語られていると言えるでしょう。羊飼いと羊は、何と言っても別々の二つのもの、つまり、導く者と導かれる者、師と弟子の関係のように、親密であっても、しかし、両者には決定的に相違があると言わなくてはならないのですが、しかし、ぶどうの木とぶどうの枝は、何と言っても同じ一つのもの、どちらも一方を欠いては存在し得ないような、まさに一体化された、羊飼いと羊の関係より一層強い緊密な関係として、主イエスはわたしたちを見ておられるということ。そして、それに続く今日のこの箇所では、更に強まって更にその緊密さ、密接さを増すように「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、この方は、ご自身とわたしたちを更にもっと暖かな親密さの中に立たれる、そのようにわたしたちに中に踏み行って来られてくるのです。そのようにして、十字架のキリスト、復活された方は、わたしたちの希望、支えとしてわたしたちの中に立っているのです。

わたしたちの愛は喜びよりも、あるいはそれと同時に、どこかに必ず悲しみ、痛みを伴います。何と言っても不完全だからです。そのことは本当は、わたしたちを全くぶちのめすようなことです。どんなに人を愛そうとも、限界がある。相手に届かない、苦しんでいる兄弟姉妹を前に無力にならざる得ないのです。私事で恐縮ですが、長女を授かったとき、この子を愛する深い喜びを与えられました。しかし、まだその小さかった命を抱いていたとき、あぁ、やがて、この子と別れる時が来るのだ、そういうことを思ったのです。どんなに愛しても、限界がある、そのことにあらためて愕然としたのですが、だが、しかし、この子を、わたしを導くのは、このわたしではない、このお方がおられる。このお方が必ず、このわたしの不完全さ、いや、どんなに罪にまみれた愛であろうと、最もよきことを必ずしてくださる、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、だから、お前はなし得ることを最善を尽くすがいい。そのことを知ったとき、むしろ、限界があり、不完全であるが故に、弱さの故に、感謝と喜びがあることを知ったのです。「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、この主があなたの足元で、あなたを支え、いつくしみ、養ってくださっています。勇気をもって、わたしたちの前に立ちはだかる困難、闇に立ち向かっていきましょう。あなたはひとりではないのです。