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2012年10月21日 聖霊降臨後第21主日 「天に富を積む」

マルコによる福音書10章17〜31節
高野 公雄 牧師

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
マルコによる福音書10章17~31節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

場面は先週に続いて、ガリラヤ地方から都エルサレムに向かう旅の途上のできごとです。金持ちの男がイエスさま一行に走り寄って、ひざまずいて尋ねました。《善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか》。この男との会話のテーマは、イエスさまの弟子の生き方についてです。

「永遠の命を受け継ぐ」は、「神の国に入る」とか「救いを得る」と同じ意味です。「受け継ぐ」つまり「相続する」という表現は、永遠の命は昔からユダヤ人の先祖たちに約束されていたものですから、それを自分たちは遺産相続するように受け継ぐのだという感覚です。イエスさまは、何をすればよいかという掟についてならばあなたは知っているはずだと言って、十戒の後半を数え上げます。すると彼は《先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました》と答えます。彼が言うとおり、彼はユダヤ教の倫理をまじめに守って生活してきたし、人々からも善い人として高い評判を得ていたのでしょう。

だったら、なぜ彼はイエスさまに教えを乞うのでしょうか。たぶん彼は何か善い行いをもう一つプラスして、相続者の資格を確かなものにしようと願っているのでしょう。イエスさまは答えます。《あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい》。金持ちの男が予感していたとおりです。十戒を守っていても、まだ欠けているものがあったのです。「持っている物を売り払って、貧しい人々に施しなさい。そして、わたしに従いなさい」。この言葉を、《イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた》とあります。「慈しんで」は神の愛を指す言葉アガペーの動詞形が使われています。イエスさまは厳しいことを言いますが、それは彼を拒否したり軽んじたりしてのことではないことは明らかです。しかし、彼は《この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである》。彼に欠けている一つのこと、それは財産を手放すことができなかったことでした。

ルターは、神を信じるとは何ものよりも神を畏れ、愛し、信頼することだと言いました。そして、唯一のまことの神よりも、畏れ、愛し、信頼する人や物、それが当人にとっての他の神々つまり偶像だ、とルターは言います。きょう登場した金持ちの男にとっては、財産が、律法を守ってきたことが、良い評判が最終的な信頼を置く彼の神または偶像ということになります。彼はイエスさまの言葉を聞いて、今初めて自分の内面を見ることになりました。そして、今初めて彼は自分が頼りにしてきたものが実は神ご自身ではなく偶像であることを悟ったことでしょう。この人に限らず、私たちは神の救いは善行の報酬として与えられるものだと考えがちです。そうすると、この人のように、神の救いを確かにするために、自分の側の拠り所をその保証としてしっかりと握っていることが大事だと考えてしまいます。しかし、自分が持っているものを救いの拠り所にすることは、本当の神信仰ではありません。救いを神の恵みとして、人に対する神の信実から出た無償の賜物として待ち望むこと、それが真の神を信じることであり、また神の信実にのみ救いの確かさがあるのです。

ですから、仮に彼が持っている物を売り払うことができたならば、その善行のゆえに永遠の命の相続人の資格を得ることができるのでしょうか。そうではありません。その場合でも、イエスさまの招きに応えて、空の手でもって神の救いをいただく信仰をもってイエスさまに従うことが求められるのです。その場合、従うことは自分の資格や能力によるのではなく、従うこと自体がすでにイエスさまの招きの力、イエスさまの恵みです。このことに気づくことによって、人ははじめて持ち物を手放すことができるようになるのです。手放すことができないのは、貪欲のためだけではありません。他に拠り所となるものを知らないから、神の恵みを知らないからです。

弟子たちもこの金持ちと似たような状態だったようです。《ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした》。マルコ福音ではこれだけの文章ですが、マタイ福音ではペトロがこう言い出した訳がもっと露骨に書き込まれています。《すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」》(19章27)。これに対して、イエスさまはご自分に従う者への報酬を約束なさいます。しかし、ほんとうは人の功績が問題でなく、ここでもイエスさまはすべての人に対する神の愛を説いているのです。使徒のパウロはこう書いています。《あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》(Ⅱコリント8章9)。

この金持ちが悲しみながら立ち去ったあとのことに、話を少し戻します。イエスさまは弟子たちに言われます、《財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか》。山上の説教でも《あなたがたは、神と富とに仕えることはできない》(マタイ6章24)と言っておられます。神さまを信じることと、神ならざるもの(この世の人や物)を頼りにすることとは両立できません。

しかし、神と富とは両立するという考えもあります。事実、イエスさまの時代、富みは神の祝福だという見方もありました。むしろ、それが一般的な見方でした。弟子たちの中に金持ちは少なかったと思いますが、やはりそのように考えていたようです。イエスさまの言葉に驚いて《それでは、だれが救われるのだろうか》と互いに言ったと書かれています。

日本のことわざに「衣食足りて礼節を知る」とあります。生活に余裕ができて初めて礼儀や節度をわきまえることができる、という意味です。その反対に、「貧すれば鈍する」、貧乏すると生活の苦しさのために精神の働きまで愚鈍になる、という言葉もあって、貧乏を貶める見方がある一方で、少数派ではありますが、清貧の思想というのもあって、金の有る無しにかかわらず私欲を捨てて質素な生活を理想とする見方もあります。心豊かに暮らすためには、金品に固執しない生活をすることが必要だという考えです。物質的な生活が安定すると、神への感謝の心を失う危険が増大するのは事実ではないでしょうか。これが人の現実ですから、イエスさまの言葉にこういうのがあります。《人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる》(マタイ4章4、申命記8章3)。また、《どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである》(ルカ12章15)。

《弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」》。これらの聖句はすべて、救いの根拠は、「人間にできること」ではなく、人に対する神の信実、一人ひとりの人を大切に配慮する神の大いなる愛にあることを強調するものです。イエスさまの言行のすべてはそのことを証ししています。イエスさまを信じることによって、確かな救いを得られることを、それが心豊かに生活する基であることをしっかりと受けとめたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年10月14日 聖霊降臨後第20主日 「男女創造の原点」

マルコによる福音書10章1〜16節
高野 公雄 牧師

イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
マルコによる福音書10章1~16節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた》。

イエスさまは弟子たちにご自分の死と復活の予告を三度なさいましたが、9章で二度目の予告をなさったあと、きょうの個所10章では、いよいよガリラヤ地方を去って、ヨルダン川の東側を通ってユダヤ地方にあるエルサレムへと南下する旅が始まったと記されています。

この旅の途上で出会う人々との対話を通して、福音書はイエスさまに従うとはどういうことかということを描いていきます。きょうの福音は、新共同訳聖書では、「離縁について教える」と「子供を祝福する」という小見出しがついていますが、このふたつの段落は、社会的な弱者である女と子供に対する神の篤い配慮と、私たちのとるべき態度について教えるという共通点をもっています。イエスさまはその言葉と行いにおいて、弱い者に配慮する神の信実を伝えようとしました。きょうは両方を取り上げる時間がありませんので、最初の段落だけを取り上げます。

《ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った》。

結婚・離婚・再婚にかかわる諸問題は、いつの時代でも人の幸・不幸を左右する重要なテーマです。イエスさまの時代も同じで、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが異母兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したことに端を発して、洗礼者ヨハネがその結婚を律法違反であると強く批判したために、かえって領主に捕えられ、首を刎ねられるという事件が書かれています(マルコ6章16~28)。

イエスさま時代には、どんな場合に離婚が許されるかについて、律法学者たちは活発に議論していました。離婚についての聖書の規定は、《人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる》(申命記24章1)です。条件は二つ、妻の恥ずべき行為つまり不倫と離縁状を渡すことです。この聖書の規定は、家父長制のもとで弱い立場に置かれた女性を保護するものでした。当時は協議離婚などありえず、離婚とは夫が一方的に妻を追い出すことでした。聖書は離婚理由を限定し、また家を出された女性が再婚できるように離縁状を渡すことを求めています。離縁状は再婚許可状でした。夫と離別した女性がひとりで生活することは非常に困難であったからです。

律法学者たちの間では、この律法の「何か恥ずべきこと」という言葉の解釈をめぐって、シャンマイ派とヒレル派の意見が分かれていました。シャンマイ派はこれを妻の結婚前の不品行と結婚後の不倫と限定して解釈しましたが、ヒレル派では離婚理由を「何か」と「恥ずべきこと」の二つに分け、「何か」には夫が離婚理由と考えることはどんな些細なことも該当すると解釈していました。こうなれば、第一の条件はあってもないのと同じで、第二の条件つまり離縁状を渡しさえすれば良いことになります。事実、律法学者たちの答えには、第一の条件が欠けています。

ファリサイ派の人々が「イエスを試そう」としてこの議論を仕掛けたのは、イエスさまがシャンマイ派に近いのかヒレル派に近いのか明らかにして、反対派からの批判を強めさせようとしたのかも知れません。または、イエスさまから離婚を認めないという、モーセの律法に反する答えを引き出して、批判の材料にするつもりだったのかも知れません。

《イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」》。

イエスさまの答えはこうです。人は心のかたくなさのゆえに神のおきてを守れず、離婚は必ず起こってしまう。しかしその場合でも、できる限り弱者を救済しようという意図で離婚の律法が定められているのだ。したがって、離婚はその合法性を堂々と主張できるようなことではなく、神が離婚を認めるのは、おきてを守れない人間に対する寛大なる譲歩なのだ、ということです。神のおきてを守れないのは、ユダヤ教徒であろうとキリスト教徒であろうと誰であろうと同じです。

イエスさまは、モーセの律法ができる前に、神が結婚を定められたもともとの意図からこのことを見ています。きょうの第一朗読、創世記2章18~24は、神が《人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう》と言って、人からあばら骨をとって女を造り、彼女を人のところへ連れて来ると、人は《ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉》と叫んで、自分に合う助け手を与えられたことを喜んだ、と伝えています。昔から「助け手」という訳語を当てているので、聖書は女を男の助手と見ているように読まれますが、これは伴侶、パートナーと訳すべき言葉であって、この個所は上下関係ではなく、男女を対等の関係として書いています。

イエスさまは男女の創造と結婚の制定について創世記の1章と2章の言葉を引用して語ったあと、最後に「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と、ご自分の言葉で神の原初のお心を示しています。人が離婚とか不倫をしないことができないという現実から出発するのでなく、この点における神のおきてが何であるかに立ち戻るべきことをイエスさまは主張しました。こうした議論の仕方によって、ファリサイ派の人々も沈黙を余儀なくされたのです。

《家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる》。

ファリサイ派との論争から場面が変わって、弟子たちに教えを述べる場面です。ここでは再婚の問題性が説かれています。イエスさまは、法のレベルでの良し悪しをいうのではありません。別れた人との人格的関係の側面を見て、再婚は前の妻、前の夫の人格を無にする不品行だと言います。律法に適ったことだとはいえ、離婚・再婚は神の創造の秩序に反することなのです。これは弟子たちにとって考えてもみなかったことでした。マタイ福音によると、《弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った》(19章10)とあります。

《監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません》(Ⅰテモテ3章2)。

ここの「一人の妻の夫」という言葉は、一見してそう考えるように重婚を否定しているのではありません。キリスト教徒が重婚をしないのは当然のことで、この言葉は、離婚ではなくて妻が先立った場合でも再婚を禁じるものでした。結婚は一回限りのことと考えられていたのです。結婚は双方が生きている間にだけ有効な契約であって、配偶者の死によってその契約は解消されるという理解は、あとになってから生じた考え方です。

《神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない》、この言葉にかぎらず、イエスさまの言葉が、人に希望と励ましを与えるのは、罪ある人間の現実を超えて、神の根源的意志を語るからだと思います。「まず神の国と神の義を求めよ」、「何を食べようか何を着ようかと思い悩むな」、「己のごとく隣人を愛せよ」、「すべての人に仕える者となれ」、「持ち物を売り払って、貧しい人々に施せ」、「己を捨て己が十字架を背負って我に従え」などなど。こう言い切って神の恵み深い計画と人間の価値ある目標を示すイエスさまの言葉を聞くと、人間として背筋がしゃんと伸びるように感じます。私たちは現実にはこれらの言葉を実行できなくて、罪に沈んでいますが、これを言うイエスさまを仰ぐとき、わたしたちは人間にはまだ希望があることを示されます。歩むべき道を示されて、目の前が明るくなり、足取りが軽くなる気がします。ヨハネ福音16章33でイエスさまが弟子たちに、《あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》と言われた言葉を思い出します。

夫婦のあり方について、《夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい》(Ⅰペトロ3章7)という言葉があります。男と女が「命の恵みを共に受け継ぐ者」として共に生きること、これにまさる幸福な人間関係はないのではないでしょうか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年10月7日 聖霊降臨後第19主日 「地の塩」

マルコによる福音書9章38〜50節
高野 公雄 牧師

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
マルコによる福音書9章38~50節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、先週の福音に直接に続く個所です。先週はイエスさまの死と復活についての二回目の予告と、「いちばん偉い者とは誰か」という弟子のあり方についての教えでした。今週の福音も弟子のあり方についての教えという点では、先週に続いていますが、前後の脈絡の途切れた断片的な話が四つ寄せ集められている個所です。これらの四つの断片を、なんとかまとまった話として理解できるように努力してみます。

《ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」》。

むかし「宗論」という落語を聞いて、「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」という言葉を聞き、なるほどと思い覚えました。「宗論」とは、もともと仏教の諸宗派の違いを明らかにして、どの宗派が優れているかを論じる宗派争いのことですが、仏教であればどの宗派であってもお釈迦さまを信じているわけで、仲間喧嘩をしていること自体がお釈迦さまの意に沿わない、お釈迦さまに恥を負わせることだ、と言っているのです。これは、そのままキリスト教についても言えることです。伝道を妨げる大きな原因の一つが、キリスト教がいくつもの教派に分裂していて、互いに批判し合うことだと思います。

二千年の昔、イエスさまの時代や弟子たちの時代、イエスさまの名によると病気が治る、悪霊が追い出されるという話しが広まりますと、イエスさまの仲間に加わるでもなく、イエスさまの名を使って奇跡を行う人たちが現われました。弟子のヨハネはそれに義憤を感じて、イエスさまに訴えます。ヨハネは、当然イエスさまが「やめさせなさい」と言うものと期待していたのでしょうが、案に相違して、イエスさまはこう言われます、《やめさせてはならない。・・・わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである》。イエスさまの名を使って身体を癒し、心を癒す人が弟子たちに従わないから止めさせようとすることには、自分たちこそイエスさまの直系の弟子だという、他の者たちに対する優越感がひそんでいるように思います。イエスさまは弟子たちの狭い仲間意識を否定し、他者に開かれた広い心を示して、彼らを「わたしたちの味方」と言います。

弟子たちのこの特権意識は、先週の福音で弟子たちが誰がいちばん偉いかと言い争ったことと一脈通じるところがあります。私たちには、自分の欲望を満たし、他者に自分の意志を押し通す力のある人にあこがれるような面があります。そういう力の裏付けとなるのは、体力の強さ、口の達者さ、悪賢さであり、家柄や財力や地位などです。人はそういうものを競って、誰がいちばん偉いかを計ろうとします。でも、イエスさまは言います。《いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい》(マルコ9章35)。力ずくで他者を従わせるのでなく、他者が自ら進んで従うような指導者になりなさい。その秘訣は、他者の益となるように他者に奉仕ことだ、イエスさまはそうおっしゃっているのです。きょうの週報に挿んである先週の説教録に書きましたように、それが他者に奉仕する指導者のあり方、世にサーヴァント・リーダーシップとして知られるあり方です。外部の者がイエスさまの名を用いることをやめさせるような仕方で、自分が彼らの指導者となろうとする態度をイエスさまは否定なさいます。

なお、《わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである》という言葉と一見矛盾するようなイエスさまの言葉があります。《わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている》(マタイ12章30)。しかし、マルコ福音の言葉は「わたしたち」つまり弟子たちに従わないことを問題としており、こちらマタイ福音の言葉は「わたし」つまりイエスさまに従わないことを問題にしています。この二つの言葉は必ずしも矛盾するものではありません。これは、イエスさまに従う決断の厳しさを述べているのです。

《はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける》。

福音書が書かれた時代、イエスさまを信じる者たちはユダヤ教の側からも、皇帝礼拝を強いるローマ側からも迫害を受けるきびしい状況にいました。苦難のうちにある信者に一杯の水を差し出す厚意を示す人は、それが信者であるなしにかかわらず、神はその人に報いてくれる、そうイエスさまは言います。神は人を偏り見ることはありません。この言葉も、イエスさまの他者に開かれた広い心を示しています。それと同時に、小さな者、弱い者である信者を支える神さまの深い愛と配慮を約束します。

《わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。†もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。†もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない》。

いままでの二つの言葉は、優越感や競争意識をもったりしないで、他者に開かれた寛容な態度を身に着けよ、という教えでしたが、今度は「つまずき」を問題にしています。

「小さな者」とは、ここでは子供のことではなく、信仰に入って間もない者を指しています。「つまずかせる」とは、口語訳聖書が「罪を犯させる」と訳していたように、「罪に誘う、神への道から引き離す」ことを意味しています。

イエスさまは、弟子のあり方を説いていますが、ここでは、小さな者、弱い者を軽んじたり、彼らの歩みを妨げたりしないで、彼らを大切にすべきことを教えておられます。そのことを強調するために、「大きな石臼を首に懸け」とか「海に投げ込む」とかという誇張した表現を使っています。

次にイエスさまは、わたしたち弟子の生き方のうち、他者に対する態度ではなく、自らの内面の罪に目を向けさせます。「つまずき」は自分の外に置かれているものであると同時に、より根本的には自分の中に巣食っているものです。

ここでも誇張した表現が使われています。まず《もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい》とあり、次に《もし片方の足が・・・》、そして《もし片方の目が・・・》と、三重に言われます。文字通りに受け取るべき言葉ではなく、どんな犠牲を払っても救いを達成することが大切なのだと強調している表現です。この言葉は、《人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか》(マルコ8章36~37)という言葉に通じます。それだけでなく、この言葉は、受難と復活の預言、《それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた》(マルコ8章31)とも強いつながりをもっています。まことの命への道を切り開くために、ご自分の命を懸けてエルサレムに向かって歩むイエスさまの口から出た言葉として理解すべきでしょう。

なお、この段落で44節と46節が抜けていて、その代わりに短剣符(ダガー dagger)が付いています。短剣符は注のしるしです。マルコ福音書の最後の98頁に、その説明があります。その注によると、新約聖書に節番号を付けた当初の16世紀には44節と46節は本文と見なされていましたが、今日ではそれは本文ではなく、三重の警告の形をそろえるために、後から加筆されたものと考えられて、空節となっています。どんな加筆だったかというと、実は48節と同じ《地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない》という言葉で、イザヤ66章24からの引用です。

《人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい》。

きょうの福音の最後のことばです。この「自分自身の内に塩を持ちなさい」という表現は、祭壇への供え物に関係しています。《穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ》(レビ2章13)とあります。供え物に塩をかけることは、供え物が火で浄化されること、ひいては殉教をも連想させる表現です。イエスさまはご自分の十字架の死によって、すべての人の罪をあがなってくださいました。わたしたちはそのイエスさまのあがないの功徳にあずかって永遠の命に入る希望を与えられているのです。

したがって、「自分自身の内に塩を持ちなさい」という、イエスさまに従おうとする者の生き方を教える言葉は、《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである》(マルコ8章34~35)という言葉とも通じる教えです。最後にもう一度言います。イエスさまは、どんな犠牲を払っても救いを達成しなさい、それが何をおいても大切なことだと言っておられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年9月30日 聖霊降臨後第18主日 「いちばん偉い者」

マルコによる福音書9章30〜37節
高野 公雄 牧師
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
マルコによる福音書9章30~37節


今年、当教会は、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の教員たちによる講壇奉仕を希望しておりまして、本日、それが実現しました。ジョナサン・ブランキ准教授が来てくださいまして、主日礼拝では、「いちばん偉い者」と題する説教をし、また午後は、先生のご専門である新約聖書学の観点から、「聖書をどう読むか Reading the Bible with understanding」というテーマの講演をしていただきました。毎年の秋分の日に行われている「一日神学校」に参加して先生方の講義を聞く機会のない者たちにとって、得難い機会を与えてくださった大学・神学校に感謝し、主日礼拝の献金をお献げすることとし、先生に託しました。

このような事情により、今週の説教録では、当日の説教のテキストとなった聖書個所の、牧師による解説を載せることにしました。

先週は、フィリポ・カイサリアにおけるペトロの信仰告白とイエスさまの第一回の受難と復活の予告(マルコ8章27~38)を聞きました。その時以来、福音書では、イエスさまがどのような救い主であるかとテーマと共に、イエスさまに従うとはどういうことかという新しいテーマが採りいれられるようになります。

きょうの福音は、先週に続いて、受難と復活についてのイエスさまによる二回目の予告に記事ですが、予告だけにとどまらず、それに続いて、ふたたび弟子のあり方についての教えが記されています。

《一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った》とあって、《一行はカファルナウムに来た》と続いているように、第一回の予告は国外で行われましたが、イエスさま一行は、そこからガリラヤ地方に戻って来て、カファルナウムに到着しました。カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸の町で、イエスさまはそこをガリラヤ伝道の拠点としていました。イエスさまは、ここガリラヤで「わたしに従いなさい」と弟子たちを招いたのですが、カファルナウムでの活動の後、イエスさまはガリラヤを去り、一路、エルサレムに向かって旅を続けます。それが、イエスさまに従う道となります。

《家に着いてから》(33節)という言葉は、カファルナウムがイエスさまたちの活動拠点であったことを表わすだけでなく、これからイエスさまが話すことを、弟子たちは腰を据えてしっかりと聞くべきことを示しています。

《人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する》。

簡潔なことばですが、これはただごとではありません。《弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった》とあります。弟子たちはこの予告の意味を十分には理解できなかったけれども、何かしら感じるものがあったのでしょう。「それはどういうことですか」と尋ねるのが怖くて黙っていました。それだけならまだ良いのですが、あろうことか、道々、《だれがいちばん偉いかと議論し合っていた》ということです。それと知って、

《イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」》。

自分と他者とを見比べて、いちばん偉い者になりたい、いちばん先になりたい、そのような思いは、弟子たちにかぎらず、私たちだれもが心に抱くのではないでしょうか。しかし、人間に共通するこの思いに、イエスさまは挑戦します。イエスさまは、私たちの偉くなりたい、一番になりたいとい思いそのものを否定はしませんが、私たちの考える「偉い」とか「一番」とかの理解を逆転させます。

この点について、イエスさまの考えを良く表しているのが、三回目の予告のあと、弟子のヤコブとヨハネが高い地位を願い求めたときに、弟子たちに言われた、このことばです。

《そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」》(マルコ10章25~28)。

イエスさまに従う者は、人々の上に権力を振るうのではなく、人々に仕えなさい、それが私たちの生き方だとおっしゃっています。そして、それは、イエスさまご自身が主でありながら人々の救いのために僕となり、ご自身の命を献げられた、その生き方にならうものだと説明されています。

イエスさまはまた、聖木曜日に弟子たちの足を洗ったあと、こう言っています。

《さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。》(ヨハネ13章12~17)。

使徒パウロもまた「キリストの模範に従う」ことについて、こう書いています。

《そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです》(フィリピ2章1~8)。

このような、「奉仕こそがリーダーシップの本質だ」というイエスさまが教える人間のあり方は、世に「サーバントリーダーシップ Servant Leadership」という言葉で知られています。この説教録のしめくくりに、同名の書物からの一文を紹介したいと思います。それは、ロバート・K・グリーンリーフ著『サーバントリーダーシップ』(英治出版)の前書きにあるバーナード・ショーの言葉です。

「人生における真の喜び。それは,素晴らしいと思える目的のために自分を捧げることである。不平不満を抱えて大騒ぎする利己的な小心者になって、世界は自分が幸福になるために何もしてくれないなどと文句を言うのはやめよう。自分の人生がコミュニティ全体のものであると、私は考えている。そして、命ある限り、コミュニティのためにできるだけのことをすることが、私にとっての栄誉だ。私というものを使い尽くされて、最後を迎えたい」。