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使徒ペトロの日

イエスの一番弟子であるペトロは兄弟アンデレと一緒に、ガリラヤで漁師をしていました。ある日、彼がゲネサレト湖で網を打っていると、イエスが彼に近づいてきて「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)と言われ、彼はすぐに網を捨ててアンデレと一緒にイエスに従いました。そして彼はイエスの12人の弟子の一人に選ばれ、さらにイエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われ、「天の国の鍵」を授けられるなど(マタイ16:13~20)、弟子たちの中でも特別な位置にありました。彼は興奮しやすい性急な性格として知られ、イエスの教えを間違って受け止め、度々イエスから叱責される姿も描かれていますが、彼は大胆且つ忠実にイエスに従って行動し、他の弟子たちも彼の後についていきました。

イエスの受難と十字架を前にして彼は「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と固い決意を述べますが、その数時間後にはイエスと一緒にいた人だと言ってきた人々に対して「イエスのことは知らない」と3度否定し、悲しみと苦しみを伴ってイエスから離れてしまいます。しかし、婦人たちの復活の証言から空の墓を目撃し、その後すぐにペトロを含む弟子たちの真ん中に復活のイエスが現れて、イエスから平安を与えられます。そしてペトロはイエスから「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)と言われ、教会の指導者となって、福音を宣べ伝えるようにという新しい使命を与えられ、立ち直って行ったのです。

イエスの昇天後、彼は使徒たちをまとめてエルサレムにいました。すると、彼らは聖霊に満たされて、様々な国の言語で神の言葉を語り、ペトロの説教を聞いた3000人の人がそこで洗礼を受けました(使徒2:1~42)。それからペトロは使徒たちと共にエルサレムに教会を建てて福音を宣べ伝え、人々を癒し、ユダヤ人たちから捕えられるという苦悩を味わいつつも、彼を中心に教会は大きくなっていきました。また、異邦人との食事のことで使徒となったパウロから批判されることもありましたが(ガラテヤ2:11~21)、後に異邦人にも聖霊が降り、信仰によって彼らは清められていると語り、異邦人キリスト者を受け入れました(使徒15:7~11)。

晩年、彼はローマにも渡り、そこで殉教したと言われ、その殉教に関する様々な伝承が伝えられています。彼はローマ皇帝ネロの激しい迫害から逃れて、ローマから離れていこうとする道すがら、キリストに出会い、「主よ、どこにおいでになるのですか(クオ・ヴァデイス・ドミネ)」と尋ね、キリストは彼に「わたしはもう一度十字架につけられるために来たのだ」と答え、そしてローマに引き返して、殉教したと言われています。殉教する時、彼もキリストと同じように十字架につけられるのですが、キリストと同じように死ぬことは畏れ多いとして、頭を下にして、逆さまに十字架につけて欲しいと自ら要求したとも言われています。彼が殉教したのは紀元64年頃で、同じくローマで殉教したパウロ(紀元67年頃)とほぼ近い時期でした。

ペトロの祝祭日はパウロと同じ6月29日です。3世期中期に、ローマでペトロとパウロの二人を覚えて、合同の記念式が行われたことをきっかけに、4世紀から6世紀にかけて東西の教会にこの日を祝祭日とする伝統が伝えられていったと言われています。

福音書記者・使徒ヨハネの日

 ヨハネによる福音書の著者ヨハネと12使徒の一人であるヨハネは別人とも言われています。他にも、新約聖書ヨハネの手紙(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)とヨハネの黙示録の著者ヨハネと同一人物であるかどうかということは今日でも学者たちの間で議論されていますので、定かではありません。

 ヨハネは漁師ゼベダイの子で、ヤコブの兄弟です。ペトロ、アンデレ、ヤコブと共に、ゲネサレト湖でイエスと出会い、イエスの弟子となりました。彼は兄弟ヤコブと共に、ボアネルゲス「雷の子ら」というあだ名を付けられ(マルコ3:17)、ヤコブと共にイエスの変容の出来事(マルコ9:2~8)を目の当たりにするなど行動を共にし、ペトロを含めて弟子たちの中心人物でした。

 ヨハネによる福音書で、彼はイエスの愛した弟子のひとりとして登場し(13:23、19:26等)、イエスは十字架上で彼にご自分の母親の世話を託しました(ヨハネ19:25~27)。彼はまた、マグダラのマリアからイエスの復活を聞いた時、ペトロと共に墓が空であるのを発見して復活を信じ(ヨハネ20:1~10)、またティベリアス湖畔で復活のイエスを最初に認めました。

 イエスの昇天後、彼は十二使徒の一人としてエルサレム教会を支え、ペトロと共にエルサレムの神殿で足の不自由な男性を癒します(使徒3:1~10)。またソロモンの回廊でペトロと説教をしているところで、ユダヤ人たちに捕らえられ、議会で取り調べを受けて牢に入れられますが、釈放されて、教会の信徒たちを励まし、大きな働きを担っていきました(使徒3:11~4:31)。後にパウロは、ヨハネをペトロ、ヤコブと共に、エルサレム教会の柱として名前を上げています(ガラテヤ2:9)。

 後にヨハネはエフェソで宣教し、皇帝ドミティアヌスの迫害によってパトモス島に流され、そこでヨハネの黙示録を書いたと言われています。そして再びエフェソに帰還し、福音書と手紙(ヨハネの手紙)を書き、紀元100年に高齢で死去したと言われています。

 紀元200年頃にエフェソで彼の墓が建てられ、4世紀頃に東方教会でヨハネを記念する日(祝祭日)が定められたと言われています。

殉教者ステファノの日

 ステファノは、エルサレム教会が使徒たちの伝道活動(祈りと御言葉の奉仕)を補佐するために立てた7人の奉仕者の一人で、彼らはギリシア語を話すユダヤ人でした。彼らの務めは、エルサレム教会内のギリシア語を話すユダヤ人、特にやもめなどの社会的地位の低い人々の食事、生活の世話をすることでした。彼ら7人は人々から評判を得ていた(霊と知恵に満ちた)良い人たちで、特にステファノは信仰と聖霊に満ちていた人でした(使徒6:1~6)。彼らの活躍もあって、エルサレム教会は「神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」(使徒6:7)と記されているように、大きな発展を遂げていきました。

 その最中、彼は食事の世話に限らず、「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。」(使徒6:8)とあるように、名が知れ渡るほどに大きな働きをしていきます。しかし、彼と議論をしたユダヤ人たちはステファノの言葉が神の名を汚し、さらに神殿と律法を汚す冒涜者として彼を告発し、ステファノはユダヤ人の議会(最高法院)に連れて行かれます(使徒6:11~15)。

 彼は議会に集まった多くの人々の前で弁明(説教)をします。先祖アブラハムから始まるイスラエルの歴史における神の働きと、神と先祖たちの関わり、そして神の言葉を語る預言者たちを迫害し、殺害したことを批判しつつ、キリストへの信仰を告白し、キリストを拒むことが律法を拒むことであると締めくくります(使徒7:1~53)。

 彼の説教を聞いたユダヤ人たちは大いに怒り、耳を塞いで彼を都の外に連れ出して石を投げつけます。その間、彼は神に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:59~60)と大声で叫び、殉教しました。

 ステファノはキリスト教の最初の殉教者として、また敵をも愛する愛の模範者として、多くの人々から崇敬され、彼を記念する多くの修道院や教会が建てられていきました。彼の聖遺物が5世紀にエルサレムで発見されと言われており、その頃から彼を記念する祝祭日が定められて、記念礼拝が執り行われるようになったと言われています。

使徒トマスの日

 使徒トマスはディディモ(双子)と呼ばれる12使徒の一人です。イエスの復活を疑ったことから、「疑い深いトマス」(「doubting Thomas」)という呼び名までありますが、ヨハネによる福音書には、一途にイエスを愛し、イエスに従っていこうとする彼の姿が描かれています。

 ラザロの死と復活の物語(ヨハネ11:1~44)の中で、ラザロの死について語ったイエスは、彼が住んでいる村ベタニアに向けて出発しようとしますが、それを聞いたトマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)と言います。最後まで主イエスと共にいるということを決断した彼の一筋な性格が伺えます。また、イエスの受難と十字架の直前に、イエスは弟子たちに「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(14:4)と語ります。するとトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうして、その道を知ることができましょうか。」(5節)と訪ねます。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と言われました。ここでも彼はイエスと共にいたい、イエスの行かれるところならば、どこへでも行くという一途な姿が描かれています。

 しかし、彼はイエスの復活をすぐには信じませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:25)と言い張ります。彼が弟子たちと共にいたある日、彼らは戸に鍵をかけていましたが、イエスは彼らの前に現れて、彼らを祝福します。その時、イエスはトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)と言い、十字架の傷跡を彼に見せて、トマスを招きます。そしてトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と答えて、イエスの復活を告白しました。

 後にトマスはインドとペルシアで宣教し、インドでは自分たちのことを「聖トマスのキリスト教徒」と呼ぶ人たちがいます。彼はそのインドで殉教したと言われています。祝祭日は12月21日ですが、4世紀の7月3日にシリアのエデッサに遺骨が移されたことから、ローマ・カトリック教会ではこの日をトマスの祝祭日として記念しています。