マルコによる福音書6章45〜52節
高野 公雄 牧師
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
マルコによる福音書6章45~52節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
きょうの福音は、イエスさまが湖の上を歩くという奇跡が語られています。これは先週の主日礼拝ときのうの開会礼拝で聞いた五千人にパンを与えた物語とともに、現代的な教育を受けてきた私たちにとって一番受け入れにくい物語だと思います。それで、きょうはまず、福音書の奇跡を読むときに承知しておいたほうが良いと思われることを、前置きとしてお話しすることから始めようと思います。
福音書に書かれた物語が歴史的事実であることは、十七世紀までは疑う人はほとんどいませんでした。ところが十八世紀に入ると啓蒙主義の思想の時代となります。福音書を読むとき何が歴史的な事実であったのかを見極めようとする見方が広まりました。それにともなって、福音書は単なる伝記ではなくて、イエスさまが救い主であることを証しする書物であることが明らかになりました。つまり、十字架と復活のあとで弟子たちがイエスさまこそ救い主であることを悟ったその信仰を証しするために、イエスさまの生前の出来事をふりかえり、信仰上の意義を、つまり福音を解き明かしている書物であると再認識することになりました。
次に、奇跡についてですが、古代の人々は奇跡は起こりうるものと考えていました。事実、奇跡を行う人は、イエスさまに限らず、ローマ帝国中に結構いたのです。当時の人々の感覚からすれば、この世は神々とか悪霊が動かしてものでした。したがって、イエスさまが水の上を歩いたこの奇跡は、救い主である証拠だとは言えません。イエスさまだけが奇跡を行っていたわけではありませんから。このような当時の人々の感覚と、この世界は自然法則に従って動いているのであって、奇跡など眉に唾つけて騙されないように気を付けなければと考える現代人の感覚とのずれが、奇跡物語の理解を難しくしているのだと思います。福音書にとってはイエスさまの奇跡のわざはひとつのしるしであって、そこからイエスさまが誰であるか、その福音を聞きとってほしいと願っているのです。では、きょうのテキストに入ります。
《それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた》。
五千人に食事を与えた出来事のあと、イエスさまは先に弟子たちをベトサイダへと送り出し、群衆を解散させると、ご自分はひとり祈るために山に行かれました。民衆のご自分への期待がふくらむ中で、いっそう神との交わりの時を必要とされたのでしょう。
ベトサイダはガリラヤ湖北岸の町で、ヨルダン川の東側にあります。川をはさんだ西側にはイエスさまのガリラヤ伝道の拠点となった町、カファルナウムがあります。
《夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた》。
日本語の「夕方」は日没前後のまだ明るさの残っている時間帯を意味すると思いますが、ここでの「夕方」と訳された言葉「オプシア」はすでに暗くなっているけれど人がまだ起きている時間帯を指しますから、日本語ではもう「夜」と言って良いでしょう。平行記事であるヨハネ6章17には「既に暗くなっていた」と書かれています。
ガリラヤ湖は世界一深い地溝帯にあり、その湖面は地中海の海面より200メートル以上も低く、また水深も200メートル以上ありました。東岸は断崖が迫っています。ときに夕方からは峡谷から強い風が吹き降りてきました。逆風のために漕ぎ悩んでいる遠くの弟子たちを暗闇の中で見ることができたことも不思議ですが、「夜が明けるころ」(これは3時から6時の時間帯を指す用語が使われています)、もっと不思議なことにイエスさまは「湖の上を歩いて」弟子たちのところに行きます。そして、さらに不思議なことに、彼らの「そばを通り過ぎようとされた」とあります。助けに来たように見えて、実際には通り過ぎて行ってしまうのでしょうか。
さて、意外と思われるかもしれませんが、この物語の中心聖句は、このイエスさまが彼らのそばを「通り過ぎようとされた」という言葉にあります。じつは、「通り過ぎる」という言葉は、神がある人にご自分を現わすことを意味する言葉なのです。つぎに、この言葉の三つの用例を挙げたいと思います。
《また(主は)言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」》(出エジプト記33章20~23)。神を見たいというモーセの願いに答えて、神はご自分の手でモーセを覆いながら通り過ぎました。「通り過ぎる」は神が人にご自分を現わすことを指す言葉であることが分かります。
《エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた》(列王記上19章9~13)。アハブ王の追及を恐れて逃げ回っているエリヤを力づけるために、神は彼の前を通り過ぎて行かれました。ここでも「通り過ぎる」は、神が人にご自分を現わすことを指しています。
《「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」》(ルカ福音書12章35~38)。これはイエスさまの訓示ですが、「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」の「そばに来て」と訳された言葉が、実はギリシア語原文では「通り過ぎる」と同じ言葉「パレルコマイ」です。イエスさまは終末の宴では私たちのところに来て、自ら給仕してくださるというのです。
《夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた》という文章は、イエスさまがそばを通って去って行ってしまうということを言っているのではなく、漕ぎ悩んでいる弟子たちにイエスさまがご自分を神として救い主として現わして、励まし助けてくださったことを表わしています。
《弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである》。
逆風に遭って苦しんでいる弟子たちにご自分を救い主として現わされたことは、激励の中の「わたしだ」という言葉からも証明できます。
《モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」》(出エジプト記3章13~14)。これはモーセがエジプトに遣わされるときの神との会話ですが、ここで「わたしはある」と訳された言葉と「わたしだ」は同じ言葉「エゴー・エイミ」です。これは神の名でもあり、また、神はいつもあなたと共にいるという神の人に対する信実を表わす言葉でもあります。
イエスさまは弟子たちに「わたしは幽霊ではなく、イエスだよ」と言っているのではなく、「わたしは神であり救い主である。いつもあなたがたと共にいて、あなたがたを救う」、だから「安心しなさい。恐れることはない」のです。《イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた》とあるとおりです。
私たちもまた、弟子たちと同じように、暗くて行く先も定かに見通せない旅の途上にあって、逆風に漕ぎ悩んでいる者たちです。そういう私たちにとって、イエスさまは救いの神です。必ずや無事に対岸の波止場に導いてくださいます。私たちはそう信じて生きて行きます。この物語に、アーメン、アーメンと応えたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン