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2014年4月20日 復活祭 「復活の主に結ばれて」

マタイによる福音書28章1〜15節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

救い主イエスキリストの復活を心からお慶び申し上げます。イースター、これは英語から来ている名称で、この名称の由来を巡っては未だに様々な学説があり、定かではありませんが、復活祭はキリスト教会の一番古い最も重要な祭典であります。それはパウロが、コリントの信徒への手紙Ⅰ15章14節で「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」と言うように、私たちは何か過去の偉大な人物の紹介をしているわけではないし、伝説を伝えているわけではないのです。キリストの復活を宣教し、信じるとは、何よりも私たち自身が復活のキリストと共に生きているということ、共に生きて、結ばれて、始めて宣教へと遣わされる、信仰が与えられるということであります。Read more

2014年4月13日 受難主日 「命の杯」

マタイによる福音書26章36〜46節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

受難主日を迎えました。主イエスの受難の出来事を覚えて、伝統的に教会では、この受難主日に、マタイによる福音書26章―27章という非常に長い主イエスの受難物語が礼拝の中で朗読されてきました。私たちは本日の受難主日からイースターまでの平日の一週間を聖週間として過ごしてまいります。聖週間、それは単に受難と十字架を覚えるということではなく、主イエスの受難と十字架が、私のため、私のために担ってくださった主イエスのお姿を仰ぎ見る期間です。ですから、教会によっては主イエスの受難に思いを向けて、断食や節制に励む人がいます。けれど、これは形の問題ではありません。中身の問題であります。心とか魂というより、「霊的に」、すなわち「霊性」のことではないかと思います。深い沈黙、祈りの中にあって、神様と対話する交わりの時、繋がる時です。喪に服するということではありません。私のための受難とは、十字架とは何か。改めて思いを深め、神様の御心を受け止める特別な時であります。ですから、断食や節制はそこから形となって表れてくるのであって、断食や節制をすることが目的ではないのです。

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2014年3月16日 四旬節第2主日 「支えを必要として」

マタイによる福音書20章17〜28節
木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

東日本大震災から3年が経ちましたが、今も26万7419人の方々が避難者として、仮設住宅での避難生活を余儀なくされています。加えて、原発問題、復興問題、防災の問題、または風評被害の問題などが山積みです。これらの現実的な課題を祈りつつも、先日の11日にルーテル救援活動の拠点でありました日本福音ルーテル教会仙台教会で、東日本大震災記念礼拝が執り行われ、同時中継で、東京のルーテルセンター教会でも記念礼拝が執り行われました。私はこの仙台での記念礼拝に出席し、その後続けて行われた紀伊半島沖の震災、所謂「南海トラフ巨大地震」に備えた防災に向けての実務研修に参加して参りました。実にたくさんの驚きと気づきが与えられた実りある研修でありました。防災に向けての教育、防災対策に取り組むことの大切さは、無論承知しておりますし、教会単位で皆さんと一緒に考えていかなくてはなりません。

しかし、今回の研修では、いづれ来る巨大地震に向けての防災対策ということだけでなく、東日本大震災において、ルーテル教会が被災地で活動した記録を辿り、ルーテル教会がなぜ救援活動をするのかという根本的な理念、または神学について考えさせられる研修のひと時でもありました。私は研修の中でこのことが一番印象に残っています。

なぜ教会が救援活動をするのか、皆さんはそのように聞かれたら何て答えますか。単純に、目の前で困っている人がいたら助けるのが普通だと思う方が多いかと思いますし、聖書の言葉を思い浮かべながら、答える方もおられるでしょう。ルーテルの救援活動、その活動の母体名は「ルーテルとなりびと」です。他の支援団体と同じように、物資を送ったり、支援活動をし続けてきましたが、まず第1にルーテルとなりびとは、被災に遭われた方々のとなり人、隣人となるということであります。被災者の方々と共に寄り添い、共に生きていくということです。それは他の支援団体とどう違うのか、何ら変わりはないではないかと思うかもしれません。されど、今回の研修で学んだことの中で、支援と言っても、様々な支援のあり方があるということです。その中でルーテル教会は隣人として被災者の方々に支援していく、というより被災者の方々と共にあって、彼らに仕えていく、いわゆるディアコニアの働き、奉仕していくということです。奉仕する者、奉仕者というのは今日の福音書にも記されていますが、「ディアコノス」と言います。

主イエスは26節から27節でこう言われます。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」先程も言いましたが、仕える者というのは奉仕者「ディアコノス」という意味で、僕というのは「奴隷」という意味です。ルターはキリスト者の自由の冒頭で「キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する」と言い、また最後の命題のところでは「キリスト者は自分自身においては生きないで、キリストと隣人とにおいて生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのである。」と言っています。隣人に仕えるということが愛するという時、それは仕える側の意志によって「自分は隣人に仕えている」というのではなく、「仕えられる他者」が主体であり、他者が仕えてくれていると思ったときに、奉仕ということが現されてくるのであります。ですから、奉仕者というのは他者主体であり、自分の意思とは関係なく、他者の僕として仕えていくということに他なりません。

主イエスがこのように語られた背景には、ゼベダイの2人の息子、すなわち主イエスの弟子であるヤコブとヨハネの母親の願いがありました。主イエスの3度目の受難と十字架の死、復活の話は12弟子だけが聞いたことでしたが、ヤコブとヨハネはふたりの息子からその詳細を聞いた彼らの母親はいてもたってもいられなくなったのか、主イエスに願い出ます。主イエスが王座に着くときに、自分のふたりの息子をそれぞれ王座の近いところに着かせて欲しいと。主イエスはきっぱり言います。あなたがたは何を願っているのかわからないと。そして、これから私が飲むことになる杯を飲むことができるか。主イエスが飲む杯、それは来る受難と十字架の死を受けいれるという苦しみの杯です。あなたがたもこの杯、十字架に従うことができるのかと問うのです。母親もふたりの息子も主イエスの言わんとしていることを理解できなかったでしょう。しかし、主イエスと共に歩んでいく、従っていくということに迷いはない。弟子として立派に役に立ちたい、誰よりも主イエスの王座、すぐ近くにいて、仕えていきたいという思いが彼らの中にはあったのかもしれません。

けれど、他の弟子たちは彼らに腹を立てます。自分たちだけ抜け駆けして、偉くなろうとしている、目だとうとしている。ましてこれから先のことを願っていると聞けば、気にしないわけにはまいりません。自分たちだって、主イエスのそばにいて、主イエスに従っていきたい、共に歩んで行きたいと願うからです。立派に奉仕したいと思う。彼らのそんな思いに際して、主イエスは26節から27節で、弟子としての新しい生き方を示されました。主イエスは「偉くなりたい者は」と言います。この「偉い」という言葉は、「大きい」という意味です。弟子として、神様に仕える者として、また人々の中で精力的に活動する者として、大きくされたい、人々から注目されたい、弟子としての様々な願いがあったかも知れません。

偉くなりたいと直接そのように思う人は少ないかもしれません。人に偉そうに振る舞えば当然ひんしゅくを買うことはわかっているからです。でも、自分の人生は大きなものでありたい、充実した人生を歩んで、自分という器を磨いて、大きくなりないと思うのは誰しも抱くことです。ほどほどに偉くなりたいと思う自分もあります。そのような大きい器を重ね備えた自分だからこそ、相手を助けることができる、支援することができると考えるかもしれません。しかし、主イエスが語る「大きさ」というのはそういうことではないのです。26節から27節で主イエスが語る大きさというのは、仕えなさい、僕となりなさいということ、それもここで主語になっているのは「皆に」ということ、すなわち「人々に」仕える、「人々の」僕ということです。じゃあ、人に仕えていれば、頭を下げていれば、自分は偉くなれる、大きくされるのかということでしょうか

人に仕えるということは、その人の僕になるということです。自分はこうこうこうして、この人を支える、この人を支援するという自分の思いは二の次であります。目の前にいる人がこうして欲しい、こういう状況であるという声にまず耳を傾けるのです。自分がどんなに相手よりも見識が豊かで、器が大きくとも、相手が自分に求めることは、相手にしかわからないのです。そのような大きい器を重ね備えた自分だからこそ、相手を助けることができる、支援することができると考えるよりも先に、相手に仕える、僕になるということは、自分がどのような器を持っていようとも、相手の心、魂の中に自分という存在を、その相手の枠に入れていくのです。

ですから、およそこの世では、仕えるということは、自分が大きくされるどころか、小さくされるものであると言えるでしょう。この世の賞賛など全くない、みじめな姿になる。その人と同じ立場に立たされる、むしろその人よりも小さい存在になるかも知れません。だから主イエスは25節で「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言われるのです。異邦人の間、すなわちこの世では・・・・支配者たちが偉い大きい存在なのだということです。支配者たちはその大きな力をもってして、その力に頼って人々を支配し、国を治めるのです。そして、この後の主イエスの言葉は、全くの逆転が起こっているのです。主イエスが26節でいう「あなたがたの間では・・・」この言葉によく注目して欲しいのです。この世ではなく、あなたがたの間、あなたがたの世界では、弟子たちの間、もっと具体的に言えば「教会」ではということです。さらにもっと具体的に言えば、「御国では」ということです。神様の支配されるあなたがたの間(世)では、・・・とこうなります。ですから、ここで大きくされるということは、この世の価値ではない、神様の眼によってということ。皆に仕えるあなたは大きい、大きい者として映るのだということであります。神様のご支配の中において、ここに生きる私たちは、私たちの存在を大きくする方は、主において他にはないということ、大きくされることを望むのは、主であります。

28節で主イエスは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と言います。人の子、すなわち主イエスは人々に仕えるために来られたのだと言います。人々が受けなくてはならない杯を主イエスが一身に引き受けてくださる、すなわち十字架の死を遂げるように、私こそ、あなたがたに仕える、主がまず私たちに仕えてくださると言うのです。私たちの何に仕えてくださるのか、それは私たちの人生においてです。もっと言えば、命を与えてくださる贖い主としてです。キリストが仕える者として、真に小さな者となられたのです。そして私たちの支えとなってくださるというのです。だから、共にいる、共に生きようと招いてくださるのです。

私たち人間に仕えてくださる神様として、キリストは私たちの只中に宿られました。私たちもまた苦しみの多い人生を歩んでいます。こうして欲しい、この「苦しみの声を聞いて欲しい」と願います。主は私たちの祈りを聞かれます。主が何よりもまず私たちの隣人となってくださった、この真実において、私たちもまた仕える者として、隣人と共に歩みなさいと招かれているのです。

被災者への支援、それが隣人として仕えていくということは、被災者の方々の人生に関わるということ、一時的な支援物資を指すことではないのです。本当に長丁場です。でも、彼らは支えを必要としています。支援物資という支えでしょうか、本当に必要とする支えは、その人が一人で歩み始めていくための道を整えていくということです。それは被災者の方々だけでなく、私たちにも必要な支えです。私たちも主によって、日々助け起こされているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年3月9日 四旬節第1主日 「自我の復活」

マタイによる福音書4章1〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「自分」という存在、自我について考えたことがあるでしょうか。一般的に、自我が目覚めるのは幼児期、およそ3歳頃で、自我が確立するのは、思春期を迎えた時だと言われています。しかし、自我の確立は個人差があるらしく、最近では「アダルトチルドレン」と言って、身体は大人でも精神的にはまだ自我が確立されていない人のことを指す人がいるそうです。このアダルトチルドレンのケアに携わった方がこういうことを言っています。「自我の確立に必要不可欠なもの、それは親の愛である」と。子供の成長に大きく影響するのが親の愛情であり、子供は親の愛情を通して情緒的に安定し、「どんな自分でも愛されている、受け入れられている」という確信をもって、初めて自分自身の人生を自我の確立をもって歩み始めることができるということです。逆に子供が親の愛情を十分に受けることができないと、肉体的には成長していっても、常に親の愛情を求め、なんとか親から愛されたい、受け入れてもらいたいと無意識のうちに考え、行動し、子供はなかなか自分自身の人生を自我の確立をもって歩み始めることができないそうです。

ですから、自我の確立というのは、決して自分自身の力だけで確立できるものではないのでしょう。外からの力、支えが必要だということです。それが親の愛であると言います。大人になって独立しても、本当の意味で自分は自分らしい、自我をもった人生を歩んでいるのか、親からまたは他人から愛されたい、受け入れてもらいたいという思いは誰しもが抱くことではありますが、そのことにばかり束縛されて、思い悩み、親から、他者から愛されるために、受け入れられるために、自分を偽って、自分自身の人生を歩んではいないだろうか。自分の人生を自分らしく歩めてはいない、そんな自分自身の姿がどこかにあるのかも知れません。

親の愛、それは様々な愛情表現があるかと思いますが、やはり真の愛というのは「どんな自分でもありのままに愛されている、受け入れられている」ということが軸にあるかと思います。愛するということでありますから、それは決して親が子供のわがままを聞いて、甘やかすということではなく、子供と真剣に向き合い、時には叱りつけることもあるでしょう。でも、絶対に子供のことを見捨てない、見放さないのです。それが、子供自身が感じる親への愛です。親への信頼です。

ルカによる福音書に、有名な放蕩息子のたとえ話があります。ある父親にふたりの息子がいて、次男の方はある日、父親がまだ生きているにも関わらず、財産の半分を分けて欲しい、相続して欲しいと願い出ます。父親が次男に財産を与えると、次男はもう一人でこれからは生きていける、誰からも束縛されない自分らしい人生を歩んでいけると思うかのように、旅に出るのです。父親を残して。話の結末はもう皆さん知っているかと思いますが、結局この次男は父親のもとに帰ってきます。放蕩の限りを尽くして、何もかも失い、世間の厳しさを存分に味わい、ぼろぼろな状態で帰ってくるのです。この時の父親と次男の再会の場面は印象に残ります。次男は自分が許されるとは思っていません。もう息子とは思われない、親子の縁を切られてもしかたないと思います。しかし、彼の予想を遥かに凌ぐ出来事が起こります。彼の姿を見た父親が遠くから走り寄って、彼を出迎えるのです。彼の姿を見て、大いに喜び、彼を愛する息子として受け入れるのです。父親は彼を家に迎え、ご馳走を出し、立派な衣服を与えました。もう生きてはいないかもしれないと思っていた息子を、愛で包んだのです。

この息子は真の親の愛をここで知ることができ、自分という存在が受け入れられたことを知ったのです。親の財産を相続し、独立して旅立っていった息子は、自我が確立されていたかのようで、しかし、放蕩の限りを尽くして誰からも相手にされなくなった時に、自我を見失っていたのだと思います。自分という存在、自分の価値は、親からの相続財産という目に見える金銭的なものにしか彼の周りの人たちには映らなかった。それでは生きていくことができないと彼は悟ったのです。彼は父親との再会、ありのままに自分を受け入れてくれる父親の愛によって、自分の存在価値を見出した、見失っていた自我が復活したのです。

今日の福音書は主イエスが荒野で悪魔の誘惑を受けたお話です。主イエスはヨルダン川で洗礼を受けた直後に、この荒野で試練を受けました。それは「霊に導かれて」とあるように、この霊というのは神様の御心でありますから、父なる神様によって、主イエスはこの場所に導かれたのです。その理由は、主イエスが洗礼を受ける際に言われた言葉「正しいことをすべて行う」ためでした。この正しいこと、それはすなわち十字架につくということです。この十字架につくための道を歩んでいくということに繋がる出来事、それがこの荒野での試練です。

主イエスは40日間の断食をしました。空腹を覚えたというのですから、過酷な試練の時であったでしょう。空腹で弱り果てていた主イエスを悪魔は3回誘惑し、試します。この時悪魔は「神の子なら」と言います。これは事実を前提にした言い回しでありますから、悪魔は主イエスの正体を知った上で誘惑しているのです。「神の子ならばどうだ」という具合に、そのままに理解できるかと思います。

神の子である主イエスは、最初の誘惑であれば、石ころをパンに変えることは造作もなかったでしょう。しかし、主イエスは全て神様の御言葉にたって、御言葉に委ねてこの悪魔の誘惑を退けたのであります。ただひたすら父なる神様への信頼を置いた姿勢を貫いたのです。私たちはこの主イエスの姿にあやかれるのでしょうか。悪魔からの誘惑、試みというのは例外ではありません。それは私たちが、私たちの弱さ、弱点を突いてくる現実的な問題と向き合わされているということです。それに打ち勝つほどの信念、または信仰というものがあるのかどうかということが問われている、そう考えるかも知れません。けれど、結局私たちが行きつく結論は、悪魔と同じ言葉を使うかもしれません。主イエスは神の子だから、だから試練に耐えることができた、誘惑に打つ勝つことができたのだと。私たちは神の子じゃない、生身の人間だから無理だという具合に。

第1の誘惑の内容は特に切実な問題です。食物に関するからです。3節と4節を読みます。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」」人はパンだけで生きるものではない。こう聞きますと、すぐにこう思わないでしょうか。人はパンがなければ生きてはいけないのだと。どんなに綺麗事を言われても、どんなすばらしい徳のある生き方を示されても、食欲には勝てない。食べなければ死んでしまう。ただそれだけのことではないか。まずは食欲を満たさなければならない、そう思います。ですから、尚更、悪魔の言葉に納得してしまうのです。神の子なら、石をパンに変えたらどうかという言葉。そうすれば世界の食糧問題は一気に解決する。問題はなくなり、人類は生きながらえる。私たちも悪魔の言葉に同意するというより、そのような私たちの思い自体が悪魔の言葉になっているのです。

しかし、ここで主イエスが言う「生きる」とはどういう意味でしょうか。ただ食欲を満たすだけの肉体的なことだけを指しているのでしょうか。主イエスは決してパンのこと、食糧のことを無視しているわけではありません。拒絶しているわけではなく、それだけでは生きられないというのです。私たちを真に活かす真の糧があると言われる、それが神の御言葉であると言われます。神様の御言葉とはどういうことでしょうか。この4節の言葉には元の言葉があります。申命記8章3節の言葉ですが、前後の2節から4節にはこう書いてあるのです。

「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」

この40年の旅というのは、モーセに率いられた旧約の民、イスラエルが経験した40年の旅、神様が与えてくださる約束の地に向けて彼らが歩んだ旅のことです。この40年の旅は、実に誘惑と試みだらけの、主イエスとは違い、その誘惑と試みに翻弄されたイスラエルの過酷な歴史です。この旅路の中で、神様は天からマナという食べ物を降らせて、人々に与えました。彼らを飢え死にさせるようなことはしなかった、その日に必要な糧を与え続けたのです。私たちが主の祈りにおいて「必要な糧をお与えください」と祈るように、私たちにはパンが必要です。けれど、このパンは石ころからたやすく変えられて手に入るパンではない、ただ食欲を満たすだけのパンではなく、人として、私が私として生きていくために必要な糧です。

イスラエルの人々がこの過酷な旅路の中で、誘惑に翻弄され、弱く、もろい姿を神様の前でさらけ出すように、私たちもそのような姿をさらけだして生きています。神様の目に留まる姿は、彼らイスラエルの民となんら変わりはないように思えます。主はこの私たちの弱さを、苦しさを見つめておられるのです。私たちに本当に必要な糧は何であるのかということを見つめておられる。だから御言葉が私たちに示されています。私として生きていく命の御言葉を。

神様の御言葉によって生きるとは、この恵みを頂いて、生きる、感謝して生きていくということです。そして、神様の御言葉によって私たちは生きるということは、神様の御言葉になんとかして与ろうと求める以前に、先に御言葉は語られているということなのです。それがマナという目に見えるパンという糧を頂いているということ、すなわちこの神様の御言葉、それは神様と私たちの交わりであり、神様が私たちを愛してくださるということにほかならないのです。神様の愛によって真に、人として生きていくことができる、ありのままの私として生きていくことができる。なぜなら、神様の愛は私たちを見捨てないからです。ありのままの私をそのままに愛されるからです。ここに、私たちの自我があります。自我をもって、そのままに私として生きていくことができる道があるのです。

パンだけで生きていけるでしょうか。ここに放蕩息子の姿が重なります。彼は財産を手に入れて、もうそれだけで生きていかれると思ったのです。父親は必要ないと思ったかもしれません。食べ物、着るもの、お金、生活に必要なものはすべて揃っていたでしょう。父親から独立して己の道を突き進む、自我をもってして自分の道を突き進むのです。しかし、彼はすべてを失って、誰も助けてくれる人がいない、受け入れてくれる人がいないことに気付かされます。もはや自分という存在は失った財産と共に消え失せてしまったかのように。自分の存在を見失ったら、自我を見失ったら、本当の意味で生きられないのです。私の自我を自我として受け止めてくれるもの、その拠り所が必要なのです。パンそのものは、その拠り所とはならないのです。

彼の自我を復活させたのは父親でした。父親の愛でした。息子の自我の拠り所はそこにあるのです。だからそこで生きられるのです。私たちは一人では生きていかれないからです。自我を確立するというのは、独立して好き勝手に生きていくことではない、むしろそこでは生きられない、自分の存在を根底から受け止めてくれる土台がないと、生きられないのです。

私たちは神様のみ前にあって、不信仰に陥ることがたくさんあります。誘惑に陥りそうなことがたくさんあります。信仰者といっても、神様のみ前にあって、信仰のアダルトチルドレンとしての私たちの姿があるのか知れません。信仰者であっても、信仰を見失っている時がある。本当に私は信仰があるのか、そういう不安がある。パンだけで生きようとする姿があります。だから私たちは毎週の主日ごとに、帰ってくるのです。この教会、キリストのみ体のもとに。放蕩息子のように、この世ではすべてを失い、疲れ果てているこの私を、主は迎えてくださるのです。主の御言葉こそが真に私たちを生かしてくださる。神様の愛を知り、キリストに繋がっているという平安が与えられます。この平安を知るからこそ、真に私は私という自我をもって新しい一週間を生きていくのです。それが信仰をもつということ、神様の愛に信頼して生きていくということです。キリストと共に、父なる神様の愛に支えられて歩みましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。