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2014年2月2日 顕現節第5主日 「地の塩、世の光」

マタイによる福音書5章13〜16節
藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「あなたがたは地の塩である・・・世の光である」。聖書になじみのない方でも、聞いたことがある言葉かもしれません。愛唱聖句にされている方も多いでしょう。しかも、主イエスは地の塩、世の光となれと言われたのではなく、「である」と言われたのです。地とか世というのは、この世界という意味ですから、あなたがたは世界の塩、世界の光であると、きっぱりと私たちに宣言しているのです。

今、この主イエスの言葉を聞いている皆さんはどう反応しますか。「地の塩、世の光」と聞くと、世界中で活躍している人、必要とされている人を思い浮かべるかもしれません。だから、あなたがまさにそうだ、と言われると、悪い気はしないけれど、なんとなくたじろいでしまうか、そんな大げさなと思って、本気にしないかも知れません。何よりも、なぜ「私なのか」ということに疑問を抱くばかりです。しかし、主イエスがここで言われる、地の塩、世の光というのは何を表わしてしているのでしょうか。

塩というのは、それこそ調味料として私たちの身近にあるものですが、塩は料理の味を引き出し、また古代から物の腐敗を防ぐ防腐剤と重用され、また多くの宗教において、清めの役割を果たしてきました。さらに、私たちの体にも欠かせないものがこの塩です。塩分をとらないと、私たちは生きていけません。塩は生命の存続に大きく関わるからです。

そして、光でありますが、光は旅の道案内をします。電気のなかった当時は、光の存在というのは、より尊いものだったでしょう。また光は人を正しい道に導きます。暗闇の中で輝き、人々の心を柔和にさせ、希望をもたらします。暗闇の中では人は生きていくことができないのですから、光もまた、私たちの生命に大きく関わるのです。

ですから、「あなたがたは地の塩である、また世の光である」と主イエスが言われるその御心は、この世界で生きるあなたがたは塩として、この世界に絶対になくてはならない存在であり、また世界に輝く光だということ、それも、彼らがもう既にそういう存在であるということです。

では、主イエスが目の前で語っている「あなたがた」とは誰を指すのでしょうか。彼らはガリラヤから主イエスに従い、ついてきた人たちでした。前の4章24節から見てみますと、「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」(マタイ4:24―5:2)とありますように、彼らはパレスチナ地方全域から集まってきた人たちでした。この中にデカポリス、ヨルダン川の向こう側という地域も記されていますから、そこにはユダヤ人に限らず異邦人も、そして男性も女性も、子供から老人に至るまで、様々な身分の人々がいたのでしょう。彼らは病を煩い、悩みを抱えて主イエスのもとに来たのです。そして主イエスに癒された彼らは、山の上で主イエスの教えに耳を傾けている、いわゆる山上の説教の場面であります。

ですから、この群衆というのは、律法学者や宗教指導者といった社会的地位の高い人たちではなかったでしょう。社会の前線で活躍している人たちではなかったのかもしれません。彼らは病に苦しみ、悩みを抱えていた生活を送っていたからです。そんな彼らに対して主イエスは「あなたがたは地の塩である、また世の光である」と言うのです。私たちが思い描く人物像とはかけ離れているのです。

けれど、主イエスがどういう思いをもってこのことを彼らに宣言しているのかということを理解しなくてはなりません。ここで主イエスは、身分の差はどうあれ、あなたたちもこの世界に必要な存在なんだよ、何かの役に立つ存在なんだよ、だから胸を張って生きていきなさいと、そういうことを言っているのではないのです。「あなたがたは地の塩である、また世の光である」というこの主イエスの御心は、もっと深いものであり、私たちの想像(人間的な思い)を超えるのです。それは、あなたがたはこの世界に「なくてはならない」存在、地の塩、世の光としてのあなたがたがいないと、この世界は生きてはいかれない、人は生きてはいかれない、滅んでしまうと、これほどの思いをもって彼らに語っているのであります。主イエスはここで単に人間の平等とか、人権問題のことを念頭に掲げて宣言しているわけではないのです。

もちろん、主イエスはここで社会の前線で活躍している人たちを否定しているわけではないし、あなたがたのほうが彼らより偉い、尊い存在であると言っているのでもありません。しかし、主イエスが言うような、地の塩、世の光としてのなくてはならない存在というのは、わたしたち人間の力や知恵、才能、お金、権力ということを指しているのではなく、それはわたしたちの命の質であり、生の質であるということなのです。それは塩としての味を引き出す隠し味として、暗闇を照らす光として存在する源であると言うのです。

確かにわたしたち人間の力や知恵、才能、お金、権力と言ったものは、大切なものです。それらは私たちを生かしむるものであります。けれど、そういったものが自分の人生を決定づけるものとなるのか、真の持ち味となるのか、または命の泉として乾くことのない永遠なる普遍的なものになるのかということはわからないことです。それらは、いつ失ってもおかしくない、先が見えるものではないということだけは言えるでしょう。

今言えることは、主イエスの下に集った群衆は、それらのものに癒しを求めたのではなく、主イエスの御言葉、招きの呼び声に癒しを求めた、救いを求めたということです。この世では魅力的で価値あるものによって、彼らは癒され、立ち上がることができたのではなかったのです。自分たちの乾きを満たすことはできなかったのです。自分の魂にまで浸透するようなことをこの世の価値観では見出すことができなかったのです。彼らは主イエスという永遠に乾かない命の泉を求めて、そこに真の生を、命を見出していったのです。それは自分の肉体や細胞の健全さ以上に、自分の魂にまで浸透する呼び声でした。その呼び声が木霊する神の世界(天の国)に彼らは招かれている、主イエスに従い、地の塩、世の光として生きているのです。

この世に生きながらも、この世に属すのではなく、神の世界に属している。主イエスに従うということは、この世に生きながら、神の世界に属しているということ。それが地の塩、世の光としてこの世に生きている彼らの姿であり、また私たちの姿でもあるのです。

では、地の塩、世の光として生きていくとは具体的にどういうことなのでしょうか。主イエスは言います。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(5:13)「山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。」(5:14~15)塩に塩気がなくなるなどいうことがありえましょうか。不自然なことです。

しかし、こう理解することができます。地の塩として生きるということは、キリストに従うということ、キリストに従うということは、この世に生きつつも、この世には属さないと言いました。この世に属さない、すなわちこの世の価値感に縛られないから、地の塩としての塩の味を引き立たせることができる。しかし、地の塩でありながら、この世に属し、この世の価値観に縛られ、染まるのであれば、もはや地の塩としての役割はない。地の塩として、味付けする必要もないと分かれば、塩として生きる必要はないと思う。その時、塩味を失うのです。

これを教会に例えるなら、神様の御言葉に立つ地の塩としての教会ではなく、この世の価値感に立ち、癒着し、もはや塩味を失った教会がそこに残る。そして地の塩、それをまた神様の御言葉に重ねるなら、塩としての神様の御言葉は、この世に属す教会では塩味を失ったように、何の味も引き立たない言葉となる。もはや、そこには聖霊の働きはなく、神の御言葉ではない、むなしく人間の言葉が木霊しているだけなのです。教会の舵取りが、キリストではなく、この世の価値感に立ってしまう時、地の塩としての神の言葉が塩味のない人間の言葉に変わってしまうのです。たとえ雄々しく力強くこの世界に神の御言葉が響き渡っても、魂に浸透してくるものがない、それは神の御言葉に思える塩味を失った人間の言葉だからです。そこに自分の中で、何か引き起こされてくるという出来事は起こらないのです。

光もまた、世の光として輝くのは、世の闇の中に輝くのであって、升の下に置くのであれば、光としての役割を果たさないのです。そのためには闇を知らなくてはなりません。受け止めなくてはなりません。教会はどこに向かって、神様の福音という光を照らすのか、そういうことが問われているのです。

光を照らすために、闇を知る。教会が闇を知るということ、受けとめるということ、それは教会自体も罪を犯すということが言われます。なぜなら、教会は清い聖徒の群れではないからです。招かれた者でありつつも、罪人の群れという姿もあるのです。誤解がないように言いますが、罪人の群れというのは、悪事を奨励している群れではありません。開き直って、悪事を働く群れでも場所でもありません。もちろん悪事を働かない群れということでもありません。私たちはこの世に生きているからです。

教会もこの世に立っています。ですから、罪を犯すのです。キリストを見失い、舵取りを間違えることはあるのです。このことを教会は知る必要があります。受け止める必要があります。そう、闇は私たちの身近にあるのです。

教会も罪を犯すということは、教会という人が集まる場所そのものが地の塩となり、世の光になるということにはならないでしょう。この世はこの世の価値感のままに、闇は闇のままに存在するからです。教会が地の塩、世の光となるのは、そこに真の地の塩、世の光が顕されているからです。それこそが主イエスキリストであります。この救い主が教会の舵取りとなってくださるからこそ、地の塩、世の光としての教会が立ち続けることができるのです。この真の地の塩、世の光というキリストを見失うという罪の必然性があります。そのことを知り、受け止めて、教会も悔い改めるのです。その時、地の塩、世の光としての福音が響き渡ってくるのです。

主イエスは16節でこう言われます。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(5:16)人々は、地の塩、世の光である私たちの行いを見て、私たちを崇めるのではなく、天の父なる神様を崇める。罪と闇の只中にある、わたしたたちを、それこそ地の塩、世の光に程遠いわたしたちを、そのままに地の塩、世の光とされ、生かしてくださる天の父なる神様こそが崇められるのは、わたしたちの行いを人々が見ているからです。私たちの行いが人々の目に、立派に映っているという保証はありませんし、そのように自分たちの力や知恵では無理なのです。キリストの光をただ私たちは自分たちを通して、光として造りかえてくださる、私たちの新しい生き方を人々は見るのです

ルターの有名な言葉に「大胆に罪を犯し、大胆に福音を伝えよ」という言葉があります。また誤解がないように申し上げますが、罪を犯すことを奨励しているのではなく、ルターの理解で言えば、私たちは罪を犯す必然性にあるということであり、罪を知り、受け止め、その罪という暗闇の只中でこそ福音を伝えよということです。地の塩、世の光とされた私たちは、罪なき義人ではなく、義人であるのと同時にむしろ罪人であり、闇を知るからこそ、地の塩、世の光として、神様の福音を恵みとして受けてとめていくことができるのです。地の塩、世の光として、この世に生きつつ罪を犯しても、この世に属すのではなく、キリストに属して福音の喜びを知り、福音を宣べ伝えていくのです。地の塩、世の光として生きていくとは、そういうことです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年1月26日 顕現節第4主日 「「自分」を明け渡す」

マタイによる福音書4章18〜25節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

私がこの教会に遣わされて、約10ヶ月が経ちました。様々な人との出会いが与えられてきました。その中で、少人数ではありますが、キリスト教に関心があるから、教会に行ってみたい、礼拝に行ってみたい、勉強したいという人たちとの出会いも与えられて、感謝でございます。しかし、日曜日働いていて、主の復活日であるこの日曜日の礼拝にお越しになれない方も多くおられます。むしろ、今や、職種を問わず、日曜日に働いておられる方は私たちの周りでも、多くいます。日曜日の主日礼拝に来られない方を前にして、私たちの伝道、宣教活動の中に、何が求められているのでしょうか。

けれど、そのような困難な伝道、宣教活動を求められている中にあろうとも、私たちが神様の福音、愛を伝えていく上で、大切なことは、神様は全ての人を招いておられるということを確信することです。そして、その神様の招きとはどこで起こるのかということについて考えるかと思います。それは果たして教会という場所に限られるのでしょうか。日曜日教会に来て、礼拝に出たことによって、神様がその人を招くということ、神様の招きが教会、礼拝、または祈っている時の中にしか起こらないということなのでしょうか。

今日私たちに与えられた福音は、決してそうではないということを私たちに教えています。主イエスがガリラヤで伝道を開始され、最初に行ったことは、ペトロたち漁師を弟子として迎えたということです。彼らを招いたのです。その時の彼らの状況について聖書は「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」と記しています。ペトロとアンデレという兄弟は漁師で、湖で網を打っていた、漁をしていたということです。彼らはせっせと働いていたという日常の出来事がただここに記されているだけです。彼らは会堂で礼拝を守っていた、またはお祈りをしていたわけではありません。どこか特別な場所で、特別な時間を過ごしていたのではなく、ただ働いていたのです。私たちと何ら変わらない、彼らの日常がそこにあるのです。

主イエスは漁をしているふたりの兄弟を「ご覧になった」とあります。このご覧になったという言葉ですが、元の言葉を調べて見ますと、「目や心を向ける」という意味があります。またさらに「訪問する」という意味もあるのです。ただ視覚的に彼らの姿を捉えたということではなく、主イエスのまなざしは彼らのもっと奥深いものを見つめていたのです。彼らの心、彼らの内面、強いて言えば、漁師としての彼らの日常、彼らの人生を見つめておられたということは、主イエスは伝道の旅路の中で、たまたま彼らの姿が目に映ったということではなかったということであります。

そして、主イエスは彼らをご覧になる、それは単に目に留まったということではなく、「訪問する(された)」彼らの深い内面、彼らの人生を見つめられ、その人生の只中に主イエスが入って行かれた、踏み込んで行かれたのです。

そして「わたしについてきなさい」と彼らを招きます。主イエスについていくとはどういうことでしょうか。この「ついてきなさい」というのは「さあ、来なさい。おいでなさい」という意味を持つ言葉です。ここに来なさい、私の下に来なさいと主イエスは言われるのです。ついてきなさい、それは私のペースについてこいとか、何かつらいことがあっても、何が何でも私についてこいということではないのです。主イエスがついてきなさいと彼らを招く時、彼らの心境を無視して、私についてこい、後に従えということではなく、彼らの心境の中に立ち、主イエスがそこで留まりつつ、待ちつつ、さあ、おいでなさいと主イエスの御許に、彼らを、そして私たちを招いてくださる、私たちの日常の只中で、招いてくださるのです

ヨハネの福音書で、主イエスはご自身が良き羊飼いであると言います(ヨハネ10:14)。私たち人間は羊にたとえられます。羊は臆病で、自衛力がなく、迷いやすい動物であると聖書で言われています。ですから、羊飼いが羊たちの世話をしないと、羊たちは生きていけないのです。羊飼いが羊たちを導いていかないと、羊たちは迷い出て、狼などの獰猛な動物に食べられてしまうのです。これは神様と人間の関係を主イエスが喩えたお話ですが、ルカによる福音書15章1―7節には、見失った羊の譬え話があります。一匹の羊が99匹の羊の群れからはぐれてしまいます。羊飼いは自分について来なかった、またはついて来られなかったその一匹の羊に愛想をつかして見捨てたのではなく、一匹くらいどうでもいいと思ったのでもなく、その見失った一匹の羊のために、命懸けで必死に探し回るのです。
「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と主イエスは話したのです。

主イエスがついてきなさいと私たちを招かれるとき、それは確かに主イエスの後についていく、主イエスが私たちの歩みを導いてくださるということですが、それでも羊のように、主イエスが招かれる主の道を見失い、迷いでる私たちの姿があります。主のみ後についていけない私たちを、主イエスは、見捨てはしないのです。私たちをひたすら招き、迷いでる私たちを見出してくださる主の愛が、「わたしについてきなさい」という呼び声に現されているからです

ペトロとアンデレはすぐに主イエスに従いました。「すぐに」ということが強調されているように、その場で網を捨てて従っていったのです。同様のことが、このすぐ後に記されているヤコブとヨハネのふたりの漁師にも起こりました。彼らもまた、主イエスに招かれ、父親と船を残してすぐに主イエスに従ったのです。

彼らは漁師という生活の支えとなるものを捨て、父親という家族を残して主イエスに従っていくのです。主イエスに従うとはこういうことだということストレートに私たちに伝えている物語です。キリスト者として、クリスチャンとして生きていくとは、主イエスの弟子となり、神様の家族として、新しい人生を歩んでいく。捨てるとありますが、家族と縁を切って、漁師という働きをもう二度とするなということを言っているわけではありません。けれど主イエスに従うことを第1として歩んでいく、そう言えるでしょう。そのように私たちを招くのは、何か特別な時や場書には限らず、私たちの日常生活の只中で起こっていることであるということを私たちは聞いてまいりました。

主イエスに従う生き方、それは人生の転機であるとも言えます。また悔い改めるということです。悔い改めるとは方向転換する、180度価値観が変わるということです。自分ではなく、神様の方を向いて歩んでいく、神様のご支配の中に生きていくということ、自分が神様のものになるということでもあります。その新しさに生きていく。「自分」という存在を主イエスに明け渡すという出来事が起こっているのです。

けれど、「自分」という存在を主イエスに明け渡す、それはどうしてできるのでしょうか。ペトロたちは特別な人間だったのでしょうか。主イエスに従うだけのすばらしい賜物をもっていたからでしょうか。決してそうではないことを私たちは知っています。それはこれから先の、福音書を通して彼らの言葉や言動を見れば一目瞭然です。一言で言えば、彼らは主イエスに叱られてばかりいるのです。主イエスの思いとは全くかけ離れたことばかり(思いをもっている)している。挙句の果てには主イエスを見捨てて逃げ去ってしまう、主イエスの十字架に従うことはできなかったのです。

ですから、彼らが主イエスのことを本当に理解していたから、主イエスに従うことができたということではないのです。主イエスが彼らをご覧になっていたのは、具体的に言えば、彼らの心に目を向けていたのは、人生の只中にある彼らのもろさであり、弱さであり、小ささそのものです。羊としての彼らの迷いそのものを見つめていた、その只中にこそ入って行かれたのです。そして、そのもろさ、弱さ、小ささのままに、主イエスは招かれる、私たちを招かれる。私のもとにきなさいと呼びかける声があるのです。

羊の如く、迷い、不安の只中を歩む私たちの人生があります。世の中の世情についていくのが精一杯、いや、むしろついていけているのだろうか、世の中から見捨てられてはいないのだろうか。そういう不安を抱えている、出口のない思い悩みを抱いて歩んでいる姿がどこかにある。はたまた、そうではないと自分を偽っている、強がっている姿がどこかにあるのではないでしょうか。主イエスはそんな私たちをご覧になっている。ついていけないから、価値のない者、捨てられる者であるというのではなく、全ての人を主は招かれる、探し出してくださるのです。私たちを招かれる主の声は時代を超えて、私たちひとりひとりに向けられているのです。

主に招かれたペトロは、後に同じマタイ福音書の中で、「あなたはペトロ。私はこの岩の上に教会を建てる」(マタイ16:18)という主イエスの言葉をいただいた人物です。教会が具体的に現されてくるのはペンテコステの時でありますが、この教会という言葉はギリシャ語でエクレシアと言います。その意味は「信仰の共同体」という意味がありますが、他には「呼び集められた者たち」、または「召し集めた群れ」という意味があるのです。まさにペトロをはじめ、弟子たちの群れは、主の声を聞いて、集められた者たちひとりひとりなのです。教会とは単純に建物や組織のことを指しているのではないのです。私たちが教会に来る動機は様々にあるかと思いますが、ここに集められたおひとりおひとりは、主イエスによって招かれた者たち、呼び集められた者たちなのです。

主が私たちの日常、人生をご覧になっています。この方は十字架に向けて歩んでおられます。私たちの弱さ、もろさ、小ささ、はたまた苦しみ、悲しみ、迷いを担って歩まれ、そのまま十字架にかかられました。この十字架のみ姿の中に、私たちの小ささが表されています。私たち人間には負うことできないような苦しみが表されているのです。私たち人間ではなく、神様が担って下さるのです。

主イエスに従うとは、何よりもこの十字架に従うことができない自分を知るということ。もはや自分がつよがって、弱さを隠すのではなく、弱さのままに招かれる主のみ前に、私たちは自分の心を開いていけばよいのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年1月19日 顕現節第3主日 「神は動く」

マタイによる福音書4章12〜17節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日私たちに与えられました福音は、主イエスがガリラヤで伝道を開始する物語であります。このマタイ福音書とマルコ、ルカ福音書の3つの福音書が共観福音書と言われる理由のひとつは、3つの福音書が主イエスの伝道がガリラヤから始まり、エルサレムまでの途上伝道、そしてエルサレム伝道という共通の伝道形態を成しているからであります。

主イエスが伝道を開始した発端は、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」(4:12)とありますように、洗礼者ヨハネが捕らえられたということでした。ヨハネを捕らえたのは、今日の福音書には直接書かれてはいませんが、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスだと言われています。クリスマス物語に登場するあのヘロデ大王の息子の一人です。ヘロデには既に妻がいましたが、彼は自分の兄弟の妻のへロディアを妻として迎えたいという願望があり、へロディアを妻として迎えていました。ふたりの間に生まれた娘がサロメです。洗礼者ヨハネの首が欲しいと父親のヘロデにねだったのは、このサロメでした。

さてヨハネは、このヘロデとへロディアの不正な結婚を糾弾します。怒ったヘロデは彼を捕らえてしまうというのです。ヨハネが捕まったことは、彼の弟子はもちろん、ガリラヤ中の人々に大きな衝撃を与えた事件でした。彼に期待し、彼を支持していた人は多かったのです。ヘロデからしたら、大物を捕まえたような心境だったでしょう。

イエスはこの情報を聞いて、ガリラヤに退かれたのですが、なぜガリラヤの領主であるヘロデの支配地域に退いたのでしょうか。「退く」というからには、方向が全く真逆ではないのか、むしろ敵地に向かってはいないのかという疑問が思い浮かびます。

マタイ福音書から、これまでの主イエスの足取りを考察しつつ、この「退く」という言葉を調べてみますと、少し前の2章13節から23節には、幼子イエスを抱いて、エジプトに逃亡するヨセフとマリアの姿が描かれているのですが、ここでエジプトを「去り」という言葉があります。この退くと同じ言葉です。事実、ここでもヘロデ大王による幼児大虐殺から逃れるために、エジプトへ逃げるのですが、この時のヨセフの行動と、主イエスの行動は共に、逃げたということでした。目の前の権力者の勢力に対して、ヨセフも主イエスも無力だったわけであります。ヨセフは夢のお告げ、すなわち御言葉に導かれて、難を逃れました。ヨセフと共に主イエスも幼子として、エジプトに去っていった(退いた)。そして、今ガリラヤに退いていくのです。

幼子の時と同じ足取りで歩まれる主イエスですが、しかし、退いたその先はガリラヤです。逃げ込む場所では到底ありませんが、13節から14節には「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。」とありますように、イザヤを通しての神様の御言葉が主イエスを導いたのであります。

主イエスの伝道は、それこそ退きから始まった。準備万端に方向性を定めて、開始したというわけではなかったのです。退かなくてはならないという絶望的な状況の中でのスタートだったのです。しかもその場所はガリラヤ、ヨハネと同じように捕まってもおかしくない状況です。しかし、主イエスもまた一人の人間として、伝道を開始するですが、それは主イエスの独断でもひとりよがりでもない、主の御言葉が導いた、神様の御業が先行したということなのです

伝道、宣教、それは人間の業ではなく、神様の御業であると言います。私たちの思惑を超えて、神様が動くのです。教会がその使命(ミッション)を担っていく大きな母体でありますが、実にたくさんの大きい教会、小さい教会があります。それらの教会に対して、小さい教会はもう教勢が伸びそうにないから、閉じてしまおう、または大きい教会は教勢がまだまだ伸びそうだから、こちらに伝道、宣教の力をより大きく注いでいこうという人間の思いは無意味なのであります。私たち人間は先に神様によって撒かれた御言葉の種を育てていくという技に仕えていくのであって、御言葉の種は全世界に撒かれているのです。この御言葉の種を成長させるか、枯らしてしまうかという私たちの信仰が求められているのです。

伝道、宣教が神様の御業であると分かりつつも、私たちは、教会は何千年という歴史を経ても、人間の思いに蹂躙されてきました。ある時は教会が戦争に全面加担し、キリストの平和を見失うという事態に陥ってまいりました。清貧で貧しさを尊重する修道院が、思わぬ富を手にしてしまったことで、修道院の教えが歪められ、腐敗していった歴史もあります。人間の思いが先行してしまい、御言葉の種を枯らしてしまうということは、現代の私たちが直面する課題であり、この六本木教会も例外ではないのです。

大きい教会があろうと、小さい教会があろうと、御言葉の種は全世界に、一人一人の心の中に撒かれているのです。神様は一人ひとりに救いの手を差し伸べている。人種や民族という隔たりなどもないのです。クリスチャンであろうとなかろうと、全ての人に対してです。だから小さい教会であろうと、教勢の伸び悩みだけを意識して、思い煩うのではなく、私たちは御言葉の種を巻かれる神様の御心を信じて、神様がこの教会を必要とされるという約束と導きに従って、胸を張って主の伝道、宣教の御業に参与していくのです。小さいものには小さいなりに、いやむしろ小さいからこそできることがある。教会の伝道、宣教とはただ単に教勢を伸ばすこと、利益を生む出すことが根本的な使命ではなく、どこまでも主に必要とされている、時代を超えて、価値観を超えて、主が導かれる、その導きの中で、神様の愛を伝えていく、仕えていくのであります。

さて、主の伝道、宣教に参与する私たちはどのような思いをもって、これに仕えていくのでしょうか。日本基督教団の牧師である深井智朗(ふかいともあき)先生という方が書かれた著書に「伝道」とい本がありますが、この中に、伝道についてこういうことが書かれていました。

伝道を語ることは美談や成功例を数えあげることではありません。また悲観的な分析を続けることでもありません。伝道の技術を説明し、伝授することでもありません。私たち自身の救いを語ることでしょう。この私たちの人生にキリストがどのように出会ってくださったのかを語るのです。証言するのです。
深井智朗『伝道』日本キリスト教団出版局 2012年 P19

深井先生は私たち自身の救いを語ること、人生におけるキリストとの出会いを証言することこそが伝道であると言います。私たちが考え、行っていく宣伝やマーケティングというよりも、私たちの救いの体験、さらには信仰告白が基軸となっているのです。

主の救いと主との出会い、おひとりおひとりに体験があることでしょう。また今その主に招かれている方々もおられるかと思います。それは決して過去の出来事に限られません。今まさに、神様の救いを体現している私たちの姿にあります。だから、私たちの伝道、宣教も変わっていく、変えられていくのです。今新たに、私たちは御言葉を通して、神様の救い、神様との出会いを受け止めるのであります。

主イエスが伝道を開始したガリラヤとは15節と16節にこう記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」とあります。マタイはイザヤ書の言葉を引用して、ガリラヤという地名と背景について詳しく記しているのです。

ガリラヤはイザヤが生きた紀元前8世紀の時代に、イスラエルが他国との戦争に負けて侵略され、戦争の傷跡が残る荒廃とした土地になってしまいました。その只中で生きる人々は暗闇に生きていたと言うのです。希望を失い、絶望と混乱に満ちていた人々はまさに死の陰が忍び寄る土地の上を歩んでいたのです。

暗闇、闇というのは根深いものであります。私たちの身近に忍び寄ってくるものです。異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民、死の大地、それはまた私たち自身の奥深いところに存在するのではないでしょうか。このガリラヤという闇を隠そうと、私たちは光を求めて生きていますが、暗闇、闇というのは根深いものであります。私たちの身近に忍び寄ってくるものです。私たちの心を閉じさせる力があるのです。

イザヤは、ガリラヤという地に芽生える暗闇にこそ輝く光を預言したのです。闇の只中を生きる民は必ず光を見ると。マタイ福音書はさらに、この光が闇に射し込むという表現を用いています。闇の只中を生きる者は、私たちはただこの光を見るということに収まらない、私たちの奥深い闇に光が射し込むように、今主イエスキリストという大いなる光は、闇を抱える私たちの人生の真っ只中に入り込んでくるということであります。

異邦人のガリラヤ、それは死の陰が忍び寄る土地、光など射しもしない奥深い闇、それは私たちが抱える闇でもあります。私たち自身が光を拒んでいるのかも知れません。誰にも見せられないような奥深い闇との葛藤を抱き続ける私たちの下に、主の伝道は始まるのです。闇にうずくまっている者を放置せずにはいられない神様の愛が迫っています。

神様の救い、神様との出会い、私たちの救いの物語は闇の只中において、主イエスが来てくださったことにおいて始まったのです。主イエスの光は、私たちの伝道、宣教の光をも射し出る導きの光でもあるのです。私たちの闇を貫き通す一条の光として、主イエスの伝道は始まりました。私たちの伝道はこの光に照らされて、初めて主の御業として形になってくるのであります。形として具体的に示されてくるのです。主イエスの伝道開始は、私たちの救いの物語の始まり。主はすべての人を訪れます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年1月12日 主の洗礼日 「天地を結ぶ使者」

マタイによる福音書3章13〜17節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日は主の洗礼日として、礼拝を守っています。主イエスの洗礼は私たちに何を告げているのでしょうか。16節から17節に「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」と、ありますように、天が開いた、地に向かって開いた。天という神様の領域と地に住む私たち人間の領域が結び合わさった出来事、主イエスキリストを通して、神の救いが全世界の人々に告げ知らされる、そのときが来たという大いなる出来事を私たちに伝えています。

今、聖書を分かち合う会では創世記を読んでいますので、記録に新しいかと思いますが、アダムとエバは天のエデンの園を追放されたことによって、彼らは地に属すものとなりました。天が閉じたのです。ここから地に住む人間の歴史が始まり、それは同時に罪の歴史の始まりでありました。また、つい最近までノアの洪水を読んでまいりました。洪水の後、神様はノアと契約を結び、二度と洪水によって人間を滅ぼすことはしないと約束し、ノアを祝福します。その印として、神様は虹を置きます。神様はノアにこう言いました。「すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」(創世記9:13)。わたしというのは神様であり、天であります。大地というのは私たちが住むこの地上、人間を指します。すなわち神様と人間の和解の印として、虹が置かれました。そしてこの和解の印である虹は、イエスキリストという真の神の子、真の人間として、私たちに関わるものとなったのです。

主イエスの洗礼の出来事は、天と地が再び結びついた壮大な出来事として語られているのでありますが、その真髄は何かということであります。天と地、神様と私たちの関係を結ぶ者として来られたキリスト、このキリストが神様の救いを人々に宣べ伝える前に、地上での最初の出発点をこの洗礼の出来事に記すとはどういうことなのでしょうか。

この主イエスの洗礼の記事は、4つの福音書に記されています。ヨハネ福音書は少し視点が違いますが、内容は重なります。この4つの中で、今日お読みしましたマタイ福音書だけには、洗礼者ヨハネと主イエスとの会話があります。主イエスの受洗は気まぐれでも偶然でもない、最初から目的をもっていました。その主イエスに対してヨハネは14節でこう言います。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

ヨハネにとって、このことは信じられない出来事でした。ヨハネは悔い改めの洗礼を授け、アブラハムの子孫で、自分たちは神様の救いから近いという認識をもっていたユダヤ人たちを激しく批判し、自分自身を含め、悔い改めて、洗礼を受けるべきであると人々に訴えていたからです。そして、ヨハネは、主イエスの存在を知っていました。いずれ自分より後から来る人こそがキリスト、真に洗礼を授ける資格のある方であると。

しかし、ここに福音の驚きとでも言いましょうか、価値観の大逆転が起こるのです。主イエスご自身が、ヨハネから洗礼を受けると。洗礼を受けるというその姿は、一人の罪人以外に他なりません。罪があるから洗礼を受ける、それは全ての人に当てはまる、洗礼を真に執行できる方以外、ヨハネを含め全ての人にあてはまること。それが洗礼であり、罪を告白して、神様の方向に自分の人生を方向転換するということであるとヨハネは考えていたのです。

ここにあの占星術の学者たちと同じものを感じます。それはキリストとはどういう方か、どういう救いを与えてくれるのかという人間側の思いです。占星術の学者たちがストレートに幼子イエスと出会うことができなかったように、救い主というキリストの本質を見いだせなかったのです。ヨハネもここでひたすら、主イエスの要求を思いとどまらせた、すなわち妨げたのであります。

マタイ福音書は特にこのことを強調しています。占星術の学者たち、ヨハネ、そして私たちもまた、地に属する者です。人間の思いを基軸として生きている者です。はたまたそれは自分自身の思いです。他者とは異質な存在であり、どこかしら誰とでも隔たりをもっているものです。立場が違うとまでは言わなくても、何か同じ場所に、自分と相手を置くことができない。人間関係の複雑さ、地球という同じ屋根の下に住む者同士でありますが、しかし、実は同じフィールには立っていない、ああ、あの人と私は違うんだなと、後ずさりしてしまうものです。

もちろんヨハネはここで、他の人と主イエスを同じ立場に置いているわけではありません。主イエスに対してあとずさりしているわけでもなく、主イエスに対して恐れ多いというか、ありえない心境を語っています。主イエスは異質な存在なのです。自分たち人間とは全く別の存在、天と地ほどの存在であると。しかし、主イエスはこういうのです。

しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

正しいことというのは、「義」という言葉です。マタイ福音書には特にたくさんでてくる重要な言葉でありますが、義というのは、神様のめにかなう正しいこということです。神様のめにかなうということは、救われるということです。そしてここでいう正しいことというのは、主イエスが洗礼を受けるか否かということにかかっているのです。神様の目にかなうこと、神様の御心が成就するためには・・・・とヨハネにこう語っているのです。

ヨハネは、この主イエスの言葉に、福音を見出しました。主イエスが罪人、すなわち私たちと同じように、歩まれていくということのご決断。罪なき方が罪をまとっていく生き方をする。それは人間と生きていくということ、天に属する者が地に属する者となったという出来事です。地に属する罪あるものたちと共に生きていくという道を選ばれた。否、天はその道を望んだということです。地に属する私たち一人一人の罪の只中で共に歩んでいくということであり、わたしたちの罪の中に入り込んでこられたキリストであります。

そして、主イエスが洗礼を受けると、天が開いたのです。地が天に近づいたのではなく、天が地に近づいたのです。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえたのです。主イエスという天の者が地に属する者として歩むこと、それは神様の御心に適うものであると言います。この方を通して、天と地は再び結びついた。神と人間がひとつになることを望まれた。その妨げとなっている罪を取り除くために、主イエスは天と地を結ぶ使者、キリストとして、その罪を負われるのです。罪の重石に苦しむ私たちの苦しみを担うかたとして、私たちと同じフィールドに立たれました。主イエスの宣教は、この立ち位置、地に属する罪人たちの立ち位置から始まるのです。

皆さんはダミアン神父というベルギーのカトリック司祭をご存知でしょうか。彼は1864年から、ハワイの宣教師として活動していましたが、当時この地では多くのハンセン病にかかった人々がいました。当時ハンセン病は伝染病だと言われ、ハワイ政府はハンセン病患者たちをモロカイ島に移住させ、他の人々との交流を一切絶たせ、彼らは誰からの世話も受けることがなく、死ぬまでその地で過ごさなくてはなりませんでした。社会と家族から見捨てられ、肉体的にも精神的にも、どん底の状態だった彼らの中には、多くのカトリック信者がおり、彼らは、ハワイの司教に司祭を送って欲しいと手紙を出します。彼らの願いに対して、同地に派遣を願い出たのがダミアン神父でした。彼は単独モロカイ島に渡り、同地の宣教師として、彼らの世話をし、生活を助け、次第に交わりをもつことができたのですが、島の人々は唯一健康な彼を、心から受け入れることはできませんでした。ダミアン神父自身も、その隔たりに胸を痛めており、ミサの説教の時には「患者であるあなたがたは・・・」という言い方しかできなかったそうです。

しかし、患者と直接触れることをためらうことなく、彼らと関わる生活を続け、ある日、ダミアン神父は足に湯をこぼしても熱さを感じず、手首に黒い斑点が表れたのを見て、ハンセン病のしるしだと思い、翌朝のミサの説教で彼は「患者であるわたしたちは・・・」と、心から喜びにあふれて人々に語りかけたそうです。

彼は数年後にハンセン病を発症し、1889年49年の生涯を閉じました。ハンセン病を研究する学者の見解によると、彼がハンセン病にかかった原因はモロカイ島で患者と毎日直接触れていたことだけでなく、彼自身の免疫状態が発病に感染しやすい環境を作っていたそうです。

主イエスは「わたしたち」として、わたしたちと歩まれるのです。主イエスがわたしたちと関わってくださったから、主イエスが人間となったのではなく、天に属している時から、この世を愛するがために、人となる御心があったのです。人として、心から喜ぶことを教えてくださいました。共に生きるということの喜びです。共に生きてこそ、同じ立ち位置に立ってこそ、知りえることができない深い喜び、神秘がどれほど私たちの周りにあることでしょうか。ダミアン親父はその出来事を経験したのではないでしょうか。今日の福音もまたその大いなる喜び、神秘を私たちに伝えています。天が地に近づいた、天と地がひとつとなったそれは人間が神様のものなり、愛されるということです。それはわたしたち同じように、洗礼を受けられたこの主イエスを通して、真実となったのであります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。