「我を忘れるほどの愛」 ルカによる福音書7章1~10節 藤木智広牧師
「我を忘れるほどの愛」 ルカによる福音書7章1~10節 藤木智広牧師
「岩の上に立つ」ルカによる福音書6章37~49節 小杉直克 兄
本日の御言は「人を裁くな」という言葉から始まります。これは「イエスの説教」と言われるイエス様の説教の後半部分です。マタイの福音書では5章から始まる「山上の説教」と言われるものです。そうして、この説教は一般の群衆ではなく弟子達と共にイエス様に付従って来た人達に話されたものです。
この「人を裁くな」という言葉には思い出があります、それは大学3年生の時のことでした、当時、私は法学部に在籍し法律を学び出来れば法律関係の仕事をしたいと希望に胸膨らませていました。ところが、この御言「人を裁くな」という言葉に突き当たりました。将来法律関係の仕事に就くとしたら、私はどういうことになるのか考え、悩みました。「人を裁くな」という御言にはこのような思い出があります。
「裁くな」という意味は、神様の前でその人を裁く。有罪と決めるということです。裁く方も裁かれる方も共に神様の前に立つということになるのです。
イエス様は人を裁くなと言われた後に譬話をされます。始に「盲人が盲人の道案内ができようか。二人とも穴に落ち込みはしないだろうか」と言われます。「穴」の意味は井戸の穴などをいい、その意味は時に「死」を意味します。すなわち穴に落ちて二人とも死んでしまうということです。つまり、それは共に罪人として裁かれるということに繋がります。
更に、「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と言われます。自分の目の中に丸太が入っていれば、相手の目の中のおが屑などとても見えないはずです。ですから相手のおが屑を取らせてください等とはとても言えないはずです。ですからイエス様はその様な人達を「偽善者」ではないかと言われます。
「偽善者」とは元々は解説者、演説者、俳優を意味するものです、また意図的に良心に反する見せかけの行動を意味します。ですから、先ずは自分の目の中の丸太を取り除きなさいと言われます。そうすればよく見えるし、相手を理解する事も出来ると言われるのです。言葉を換えれば、先ずは自分の罪を自覚することであり、他者の罪を指摘出来るのはそれからだということです。
次に「良い実」と「悪い実」について語られます。良い木は必ず良い実を実らせます。悪い木は、即ち腐った木は悪い実しか実りません。ですから良い実の様に見せかけようとします。これも又偽善的な行為と言えます。主は言われます「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除く事が出来る。」と。
私は毎日車に乗っていますので、車の中でラジオをつけて交通情報を聞いています。すると番組で人生相談という番組があり、聞くともなしに聞いています。以前の人生相談は、相談者の抱えている悩みや、問題にどのように対処したらよいかを語っていました。しかし最近の番組の回答者は相談者自身が気づかずに持っているもの、相手に対して配慮のない一方的な思い、それらを排除して、相手を受け入れ許す道を探り出すことを勧めています。
目の見えない人が、目の見えない人を道案内する、そのようなことは不可能ですし、それは偽りの行為です。自身の目に丸太があるのに、相手の目の屑を取ることは出来ません。これも又偽りの行為です。ですから、貴方は相手を裁くことが出来るのですかと問うているのです。
主イエスは「人を裁くな」と言われます。それは人を裁くということはその裁く相手と自らも同じ 裁きによって裁かれるということです。ですから、裁くのではなく、赦し、与えなさいと教えておられるのです。
「許す」、「愛する」とは簡単なようで簡単なことではありません。この「イエスの説教」の内の27節に「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われています。そのことを行いなさいと。
46節に「わたしを『主よ、主よ、』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と、この御言は大変緊張する言葉です、この言葉は弟子達と主に付従って来た人達に語られたのです。イエス・キリストの教会に連なる人々に語られたのです。
主の教えを実行、実践することは、そんなに容易な事とは思われません。言葉では簡単に言えるかも知れません。「裁くな」とは言葉で言うだけではなく、行動で示さねばなりません。時には心の中で裁いていることもあるでしょう。言葉で言い現わさなくとも心で思うならば、それはやはり裁いていることなどです。諺に「目は口ほどにものを言い」と言います。「口では許すと言いながら、心では許していない」と言うことです。裁くことの意味するところは意味深く、その意味するところを心に尋ねなければなりません。
主イエスに従うということは、主の助けが無ければ、それは出来ないことです。初めに従ったペテロでさえ、主イエスが捕らえられた時に、「あなたはイエスと一緒にいた人だ」と言われて、三度知らないと答えました。あのペテロは私ではないと言い切れるでしょうか。
この「イエスの説教」の最後において主イエスは言われます。「わたしを、主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と。イエスを主であると呼び、従うのであれば、主イエスの言葉を実践しなさい、時には敵をも愛し許しなさい、そうして共に喜びなさいと、敵対心を捨て手を取り合いなさいと話されました。偽善者になってはならないと。
それでは、主イエスは主の言葉を実践する人とはどのような人なのかを示されています。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」と言われます。「岩」とは、主イエスご自身のことです。主の言葉に従う者であるならばこの岩の上に立ち、神様の言葉を実践し続ける限り、主は守り導いて下さるのです。旧約聖書の出エジプト記(17:6)に神様はイスラエルの民が、水がなく、争いが起きた時、ホレブの岩の割れ目から水を出しモーセを通してイスラエルの民に水を与えたように、主イエスは、求める人には霊的な命の水を渇くことなく与えて下さるのです。このイエス・キリストである岩に立たねばなりません。それには「地面を深く掘り下げ」ねばなりません。
では、僕であることを願う者たちはどうすればよいのでしょう。40節に「弟子は師にまさるものではない」という節があります。弟子は幾ら師に学んだからと言って、師そのものにはなれないが、学ぶことにより、師に似たものにはなれる。ひたすら、師に従うことで、師と同じ様な道を歩むことが出来るということです。
「師に似たものになれる」とは、主の御言、主の教えをどのように学び取り確信するのかということです。そうして何を為すべきか。そうして僕は何を行い、何を行わないのか、何が御心にかなう事なのか。「裁く」とは何を行い、何をしてはならないのか。そのためには「十分な修行」が大切であり。裁かず、赦し、愛するには何を為さねばならないか、御言が何を指し示しているかを塾考しなければなりません。そうして主の導きを待たねばならないこともあるでしょう。地面を深く掘り下げて岩に辿り着く迄です。そうして僕は御言を実践することが出来るのです。
岩の上に土台を建てれば、洪水になっても、嵐が来ても、苦しみや、苦難があっても押し流されることはないのです。しかし、岩の上ではなく、地面に建てる人もいます。岩の上に建てた人も、地面の上に建てた人も、嵐の洪水はやって来ます。ですが、岩に建てた僕はどんな嵐であろうとも、逆境であろうとも、イエス・キリストという土台を持つ僕は嵐に耐えることが出来るのです。嵐に持ちこたえることが出来るには、主イエスの言葉を実践し続けることなのです。
主イエスは、どんなときにも、主の言葉を実践できるように私たちを導いていて下さるのです。これからも、主が御顔を向け、主の導きが豊かに在りますように。 アーメン
「憐れみを忘れぬ為に」 ルカによる福音書6章27~36節 藤木智広牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今日の福音書の中で、主イエスは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」と言われます。それを35節でも繰り返して言われます。敵を愛しなさいと。これは非常にむずかしい主イエスの教えであると受け止めるかと思います。キリスト者であっても、主イエスのこの教えを理解しているようで、しかし、心の奥底から敵を赦し、敵を愛しているのか、そのように自分自身に問いかけると、自信がなくなるのではないでしょうか。先週の説教の中でお話ししましたが、亡くなられたシスターの渡辺和子さんの父親は二・二六事件で殺された当時の教育総監の渡辺錠太郎(わたなべ じょうたろう)です。二・二六事件が起こった時、まだ幼い和子さんの目の前で父親は銃殺されました。ある時、渡辺さんは二・二六事件の特集をテレビでやるために、事件の生き証人として出演してほしいと依頼され、その番組に出演されました。その時、出演者の中に自分の父親を殺した犯人がいたそうです。事前に何の断りもなく、その犯人が出演し、自分と同じテーブルに座っていたので、ご本人は相当焦られ、目の前にあったコーヒーを飲もうにも、喉にコーヒーが通らなかったそうです。本当に辛いという気持ちと、「自分は、本当は心から許していないのかもしれない、頭で許しても体がついていかないことがある」ということを味わいましたと語っておられます。そして、せめて、その犯人の今後の人生の幸せを願うことが、私にとっての敵を愛することの精一杯の主イエスの御言葉を守ることだと思いますとも語っておられます。「頭で許しても体がついていかないことがある」。コーヒーが喉を通らないという拒絶反応は正直な自分の気持ちであり、思いであるかと思います。敵を愛しなさい、この主イエスの言葉は私たちに単に拒絶反応を引き起こすことを目的としているのでしょうか。そこまでして敵を愛するということの大切さ、その本質はいったい何なのでしょうか。
「敵を愛する」というまずこの「敵」という言葉ですが、この言葉を辞書で調べてみますと、「あるものにとって,共存しえない存在。滅ぼさなければ自分の存在が危うくなるもの」とあります。共存しえない、それは憎しみがあるから、共に生きることができない存在であり、その存在を滅ぼさないと、自分の命が脅かされるということでしょう。
次に愛するという言葉ですが、これは好意を寄せる、好きになるという情愛からくる意味ではありません。この言葉は「アガペー」という言葉で、無条件の愛とか、神の愛という意味の言葉です。ですから、主イエスはここで単純に敵を好きになりなさいと言っているわけではありませんが、敵を憎むのではなく、 敵と共存し、敵を愛するという生き方を私たちに示しておられるのです。しかし、主イエスの言葉も、やはり敵を好きにならない限り不可能ではないかという印象を与えます。悪口を言うものに、祝福を祈れるでしょうか。悪口を言うものには、呪われてほしいと思ってしまいます。侮辱する者のために祈りなさいと言いますが、本当に真心を込めて祈ることができるのでしょうか。それこそ拒絶反応が起こるのではないかと思います。それは相手の悪事をなすがままに全て受け入れ、相手のいいなりになって、何も抵抗してはいけないということを主イエスは言っておられるのでしょうか。そういうことではありません。主イエスは敵を憎むのではなく、愛しなさいと私たちに教えているのです。愛するということをするのです。何もしないわけではないのです。
先ほど、辞書の意味から、敵とは共存しえない存在であると言いました。その敵を愛するということは、敵と共存して共に歩みなさいということになるでしょう。そうなると、共存するということ自体が、もはや敵ではなくなるということかもしれませんが、主イエスは敵を作るな、敵を好きになれと言っているわけでもないのです。現実的に敵がいるからこそ、敵を作ってしまうからこそ、このみ言葉を私たちに言っているのです。共存しえない存在である敵を愛し、共存していく。一見矛盾しているように思えますが、敵と共存していくということは、その敵を憎しみにおいてだけ知るのではなく、憎しみを含めて、全体を見つめ、知っていくということではないでしょうか。または向き合っていくということではないでしょうか。祝福を祈り、また相手に与えるということはそのことを示しているように思えます。具体的には、愛するということは、相手を赦すということです。憎しみをもたらす悪事をなかったことにするのではなく、その悪事がその人のすべてはないということを知り、受け止めることです。憎しみに対して、憎しみに返し、更なる憎しみを生み続けるのではなく、赦すことによって、憎しみに捕らわれ、苦しみ続けている自分が解放され、愛し、赦すことによって、敵の憎しみに本当の意味で勝利するということです。憎しみに対して、愛するということをもってして、制し、敵としての他者から隣人としての他者を受け止めるのです。
隣人というのは、必ずしも味方や善人という意味ではありません。そこには敵も悪人も含まれるのです。先週の木曜日の夕礼拝では、有名な善きサマリア人のたとえ話(ルカ10:25~37)から御言葉を聞きました。このお話の中で主イエスに質問した律法の専門家は、「私の隣人とは誰ですか」と言いました。ユダヤ人における隣人とは、同じユダヤ民族の同胞しか当てはまらなかったのです。それ以外の異邦人と言われる人々は、罪人であり、敵とされていました。つまり、隣人とは見なされなかったので、愛する対象にはなかったわけです。彼の質問に対して、主イエスはたとえ話の最後に、追いはぎに襲われて倒れている人を助けたのは、同じユダヤ人ではなく、ユダヤ人と敵対するサマリア人であると話したうえで、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったのか」と律法の専門家に言いました。この違いは明白ですが、隣人かではなく、隣人になったのかということです。倒れている人はサマリア人から見て憎きユダヤ人であったのかもしれません。けれど、そのサマリア人は、倒れている人の姿を見て、助けが必要だと思い、行動に出たのでした。その行動が、その人を愛するということになったのです。味方だから、敵だから、善人だから、悪人だから、隣人か愛するかということではないのです。何であろうとその人の隣人になるのかどうか、愛するか憎むかということなのです。
敵を愛しなさい、それは憎しみをもってして接するのではなく、愛をもってして憎しみと向き合い、その人が本当に必要としていること、望んでいることを見つめ、その人の隣人になるということです。敵として映り、敵に対して憎しみで返していくところには何も生み出さないのです。その人のために祈り、その人のために必要なものが備えられ、なすべきことが示されることを祈り願うのです。自分に対して、また相手に対する憎しみの中に希望はないからです。
しかし、私たちの現実は憎しみのただ中にあります。敵を愛するということからはほど遠い現実の中にあります。敵を作り、敵の死をもって、自分の生をなんとか確保しようとしている私たちの姿があります。憎しみという壁を隔てて、生と死が区別されてしまっているのです。だから、共存しえない存在としての自分と敵の存在が生まれてしまうのです。
されど、主イエスは35節でこのように言われます。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」敵を愛しなさい、それはいと高き方の子となるためだからです。主イエスははっきりとその目的を言われるのです。いと高き方の子、すなわち、あなたがたが神の子となるためであると言われるのです。ローマの信徒への手紙でパウロは「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(5:8~10)神の敵であった私たちが、主イエスの十字架によって、神と和解し、その関係が愛にある関係となって回復したというのです。さらにパウロは「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(ローマ8:14~17)と言います。私たちは神の子として招かれているのであって、神様に敵対するものではないのです。そして、敵を愛する、その生き方、歩みを通して私たちは神の子としての姿が現実のものとなるのです。
私たちの現実には、味方も敵も善人も悪人もいます。それらの人は皆隣人なのです。私たちが隣人となれるように、愛するようにと主は導かれます。それ以前に主は私たちが敵であろうと、罪人であろうと、何であろうと、隣人として、そして神の子として愛してくださっているのです。敵を愛せず、憎しみに縛られてしまう私たちに対して、キリストが死んでくださり、復活して神の子となる道を示してくださいました。このキリストに結ばれることによって、もはや私たちは憎しみに縛られることはないのです。キリストに祈り求め、敵を憎むむなしさから、敵を愛する喜びの内に生きる道が与えられました。憎しみではなく、愛の中から、生まれる命、希望を私たちに示されているのです。
主イエスは最後にこう言われます。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」憐れみとは、他者の痛みを自分のものにするという意味です。父なる神様が敵を愛するために思い悩み、拒絶反応すら起こすこの私たちの痛みを共に担ってくださっている。「頭で許しても体がついていかないことがある」けれど、相手の幸せを願うことの精一杯な私たちの気持ちを受け止めてくださる父なる神様の愛がここにあります。憎しみではなく、愛の中で共に共存することを主は望まれるのです。この主の憎しみの壁をもぶちこわす深い憐れみを新たに受け止めて、この憐れみを忘れぬ為に、敵を愛することの幸いに望みをもって生きてまいりたいと願います。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
「私の拠り所」 ルカによる福音書6章17~26節 藤木智広牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
本日の説教を準備している時、私の机の脇に置いてある「日めくりマザーテレサのことば」に書いてあるマザーテレサの言葉にふと目を向けました。その日は2月1日でしたから、1日の言葉でした。こう書かれていました。「大切なのはどれだけの愛をその行いに込めるかということです。」何事も、愛を込めて行うことが大切だと、彼女は語っています。今日の第2日課も、パウロが愛について深く語っているあの「愛の賛歌」と言われるコリント書Ⅰの13章の御言葉です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」愛を込めて、愛がなければというのです。とはいえ、本来私たち人間には、愛がないということに気付かされます。自分自身を中心とした価値観の中で、他者に目を向けるからです。愛に根差す人生とは、愛なる神様に、委ねることです。この神様からの愛を受けて、その愛を初めて他者へと向けることができるのです。神様を信じて生きるとは、神様から与えられる愛に根差して生きることであり、自分本位の生き方ではないのです。パウロはこの愛に生きる人生を「最高の道」だと私たちに教えています。神様からの愛を受けて、その愛を分かち合う生き方です。それは私たち人間の力、知恵、努力といったものを越えた賜物であり、神様の恵みに基づく歩みなのです。
しかし、キリスト者であっても、神様の愛、恵みに気付かないことがあるのです。それはなぜか、神様に求めないからです。全て満たされていると思い、求める必要がないと感じたとき、祈らなくなります。私自身そのことをよく思わされます。神様の愛、恵みを見失い、自分本位に生きようとする罪の姿がそこにあります。
既に亡くなられていますが、カトリックのシスターの渡辺和子さんが、結構前に、土曜日にやっている「こころの時代」という番組に彼女が出演したとき、彼女はこういうことを言っていました。「深くて暗い井戸の底には、真っ昼間でも、井戸の真上の星影が映っている。井戸が深ければ深いほど、中が暗ければ暗いほど、星影は、はっきり映る。」肉眼では見えないものが、見えると彼女は言います。この井戸の暗闇、これは私たちの人生における様々な苦難を表しているでしょう。その苦難を通して、今まで気付かなかったものに気付くようになるというのです。暗ければ暗いほど星影ははっきり見えるように、苦難が大きければ大きいほど、見えなかったものがはっきりと見えるようになってくる。いや、本当は普段から見えているのに、それに気付かないのです。光は闇の中でこそ輝いて見えるように、私たちは様々な苦難を味わい、傷つけられた時に、はじめて本当の恵みに気付かされることがたくさんあるのです。
さて、今日の福音は、主イエスが平らな所で人々に語られたと言われる「平地の説教」といわれる箇所です。主イエスが山から降りて、平らな所に立つと、大勢の弟子とおびただしい群衆が主イエスを求めて集まってきたと記されています。しかもユダヤ全土と記されていますから、ずいぶん遠くから来た人もいたでしょう。さらに、ティルスやシドンといった異邦人の都市といわれていた地方から来た人もいたそうなので、この中には異邦人もたくさんいたことかと思います。
主イエスが平らな所にお立ちになったとはどういうことでしょうか。主イエスの方から私たちに近づき、私たちと同じところに、同じ姿勢で、同じ立場に立ち、私たちと向き合ってくれているということ。そのような人々への主イエスの愛が伝わってくるのです。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと関係なく、同じところで、同じ神様の恵みをお与えになるのです。
しかし、主イエスが立っている「平らな所」とはそういうことだけを意味しているのでしょうか。イザヤ書26章7節につぎのような言葉があります。「神に従う者の行く道は平らです。」、口語訳では「正しい者の道は平らである。」とあります。神様に従う正しい人、その人が歩む道は平らである、まっすぐであると言うのです。私たち人間の人生は、よく「道」にたとえられます。生まれたときから、死ぬまでの道のりを歩んでいます。私たちの人生の道は平らでしょうか、まっすぐでしょうか。常に順調に歩くことができるほど整備されているのでしょうか。私自身の人生の道は決してそうではありません。様々な不安や悩みを抱え、自分本位の欺瞞に満ちたでこぼことした道があります。また暗闇があり、見えない道があります。決して平らではありません。とてもじゃないけど、主イエスと同じところに立つことなどできない、と私は思っております。主イエスが立っておられる平らな所。主イエスが歩まれる道はまっすぐな正しい、神に従う者の道です。平らな道です。私たち人間本位の道ではないのです。神の道、救いに至る道なのです。主イエスは今そこに立っておられる。同じ平らな所に立っていようとも、その道は違うのです。
主イエスは今御自身が立たれている平らな所に私たちを招かれようとしています。神に従う正しき道へといざなって下さるのです。それは主イエスを信じることによって、導かれるのです。その道に導かれても、私たちの人生という道は険しいものです。決して平らではないかもしれない、辛いこと、悲しいこと、不安、悩みなどが立ちはだかります。しかし、主イエスと歩むことによって、この先の人生のゴールというのは、死ではない、永遠の命であるということがわかります。神の国のご支配に私たちの人生が組み込まれるのです。どのような壁にはばまれようと、必ずそこから救って下さる、またその道から離れそうになったとしても、悔い改めの道が常に備えられているのです。主イエスに招かれ、主イエスを信じたその時から、この救いの道を主イエスと共に歩む、信仰の道、信仰生活が始まります。
神様に従う信仰の道、それがどういう道、どういう人生なのかということを示しているのが20節以降の御言葉にあるのです。主イエスが語られた幸いと不幸のお話です。このことを、主イエスは今までいた大勢の群衆ではなく、主イエスを信じ、主イエスに従うことを決めた弟子たちに語っておられます。20節から23節の主イエスの語られる幸いと、24節から26節までの不幸の内容を見ますと、私たち人間の価値観からしたら、全く真逆のことを言っているでしょう。人間の価値観をもって理解することはできないのです。
主イエスは神の国について語っています。それは貧しい者にこそ与えられると言います。飢えている人は、いずれ満たされるようになり、泣いている人は、いずれ笑うようになると言います。神様の約束に基づいた恵みが与えられるということの徴です。しかし、私たちは、この貧しさ、飢え、悲しみということについてどう考えているでしょうか。貧困の格差が広がっています。世界の食糧配給は実にアンバランスです。多くあまる国があれば、全く足りないという国があります。他人の悲しみは他人ごとで、鈍感です。何が問題かと言えば、それは人間自身にあります。自分たちの身を第一にして、分かち合おうとしない姿にあるのです。自分の力で、知識で、努力で得たものは手放したくないのです。当然の報酬だからです。富んでいる人、満腹している人、笑っている人はそうです。それが与えられたものだとは思えないのです。しかし、神の国が完成する時、すなわち終末の時、それらは朽ちると主イエスはいいます。限界があるのです。いつその人に嵐が起こるのかわからない、ヨブのように、突然全てを失うということが起こるのです。
貧しさ、飢え、悲しみ、それらを目の当たりにして、自分自身の力量ではどうにもならないことを感じます。だから求めます。助けてくださいと祈ります。自分自身の力では、全くそこから救われる道がないからです。そのことに立ち続けるのです。主イエスはその私を幸いだといってくださる。与えられることの喜びを教えてくれます。恵みを恵みとして受けとることができる。それが神の国生きる者、幸いな者なのです。
私たちは受けるからこそ、与えることができます。分かち合うことができます。使徒言行録4章32節から35節に、初代教会の時代に、教会に集まった人たちのことが記されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していたとあります。何においてひとつとなるか、それはキリストです。キリストが私たちの只中におられるのです。キリストの愛に生かされる人は、その愛を分かち合う者として、隣人と共に生きることができるのです。
十字架の愛によって赦された私たちは、キリストの愛を証しするものです。それは神様に従う平らな道をキリストと共に歩む者の姿です。与えられることの喜びを知る者です。愛を知る者です。愛を込めて、それぞれが与えられている務めに励んでいきましょう。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。