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2014年1月5日 顕現主日 「別の道を通って」

マタイによる福音書2章1〜12節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

新年最初の主日を迎えることができ、感謝でございます。新年を迎えるということについて、先日の新年礼拝で私は、ルターの言葉を引用して「主イエスのご降誕日こそが新年の始まりである」ということを申しました。それはただ1月1日という暦に限られたことではなく、主イエスが私たちの只中に宿られた、その喜びをもって、その喜びから新年を迎えるということです。無論、新年を歩んでいくという歩みの中には喜びだけがあるわけではありませんし、聖書も主イエスの降誕の喜びだけを語ってはいないのです。先週の降誕後主日に聞いたヘロデ王による幼児虐殺という悲惨な現実を、それが殺された子供の母親の心情を代弁するかのように、イスラエルの母親的存在であるラケルの嘆き声として木霊している、そういう闇、現実の闇を語っているのです。この現実の闇の只中に輝く光、この光を見出す喜びを聖書は私たちに語りかけています。

さて、新年最初の主日を顕現主日として守っています。この日は主イエスがこの世に生まれて最初に成された礼拝を記念しています。それも幼子イエスを最初に拝み、礼拝に招かれたのは、神の民であるユダヤ人ではなく、神の民からは程遠いと言われていた異邦人、それも占星術という星占いの学者たちでありました。聖書には9節から11節で「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とありますように、彼らは星の導きによって、幼子の下に止まった星を見て「喜びにあふれた」、口語訳では「非常な喜びにあふれた」とありますように、自分たちの力、知恵といった見解を超えて、この世では理解のしようがないほどの大喜びをしたというのです。そう、拝むこと、礼拝とは喜びです。喜びの出来事です。それが今起こっているのです。主イエスの降誕をもって迎える新年の喜びは、この礼拝において具現化していると言えるでしょう。

しかし、学者たちが喜ぶ喜びは一言で言えば、「見出される喜び」とでも言いましょうか、例えばルカ福音書15章にある3つのたとえ話には、共通して失ったものが見つかるという喜びがテーマとして語られています。この喜びは何か私たちが思い描く楽しげな、全てことがうまくいくような喜びではないのです。そしてこの喜びの背景には、「失った」ということもそうですが、やはり人間の挫折、苦難といった闇が語られているのであります。

学者たちは何を経験し、喜びを見出したのでしょうか。彼らは星を研究する占星術の学者で、エルサレムの東の方から来たペルシャの人だと言われています。後世になって、彼らは異邦の王様としてそれぞれ名前がつけられと言いますし、または東方から来た博士として、伝えられていき、今の私たちが知るところとなりました。彼らは専門家としての自分たちの知恵を働かせて、ユダヤの方に光る曙の星を発見します。ただならぬその星の輝きから、それが救い主が宿ったというしるしをみたのでしょう、彼らは早速その星を見に旅立ちます。今日の聖書日課にも記されていましたが、彼らがその星を頼りに、救い主に会うために旅立っていったというこの出来事は、相当な覚悟と決断があったのではないかと思いますが、彼らの胸の内は喜び勇んでいたことでしょう。けれど、彼らはそのまま救い主の下にたどり着くことはなかった、というより、できなかったのです。彼らが訪れたのは首都エルサレムのヘロデの王宮、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と人々に聞く彼らの姿、その心情の中に、あの飼い葉桶に宿ったみすぼらしい幼子を救い主として、喜びをもって見出すことなどは到底できなかったでしょう。

彼らはなぜストレートに幼子の下にたどり着くことができなかったのでしょうか。彼らが見た星はどこにいったのでしょうか。この時学者たちは星を見失って、迷子になったのだと言う人がいます。また学者たちは自分たちの知恵ばかりに頼ったから、ヘロデの王宮を訪ねてしまった、または彼らは不信仰に陥ったから、星を見失ってしまったのだと、様々な説を聞いたことがあるのですが、少なくともこの学者たちの旅、救い主を求める旅路は一度中断されてしまったということであります。

自分たちの研究で、まばゆく星の輝きを見つけたとき、それが救い主のしるしであるとして彼らは大いに喜んだでしょう、希望をもったことでしょう、覚悟と決断を伴ったこの旅路には、そういう彼らの心情があってもおかしくはないと思います。ある意味では、自分たちの長年の研究が功を奏し、報われた、これからはうまく行く、自分たちはとんでもない発見をしたんだからという自信もあったことでしょう。自分たちが求めていたものに出会える、見ることができる、そんな期待を抱いていたはずです。

私たちも人生において彼らのような体験を何回もしたことがありませんか。初めて教会を訪れようとしたとき、今まで忙しくて全然いけなかったけど、やっとその忙しさから解放されて、行く機会が与えられた。小さい頃から憧れていた教会のイメージ、素敵なイメージが頭に浮かぶ。きっと教会にいけば素敵な出会いがあり、幸せになれる。もちろん求めるものが教会だけに限った事ではありません。また、人生において、何かしら好機が訪れる、チャンスにめぐり合う、何かやりがいがある仕事にめぐり合う、そんな可能性がある。今やらなくてはいけない、今がまさにその時だと言えることだってたくさんあります。時、場所、内容など様々な次元の中で、小さいことから大きいことまで、私たちの人生は留まることを知りません。

しかし、私たちはまた途中で歩みを止めざるえない体験をします。挫折したとき、苦難に遭遇したとき、傷つけられて、身体的にも精神的にも動けなくなったとき、こんなはずではなかったと失望したとき、予想外の出来事など、たくさんあります。それらの出来事が、その時に良いこととして受け止めるか悪いこととして受け止めるか、どちらにせよ、そこで自分の歩みが一旦止まる。自分の考えが、思考が、計画が、止められてしまうのです。新年に立てた計画が機能しない、それどころか台無しになることがある。一見、何か目に見えない力が働いて、自分たちの歩みを妨害しているように思えてくる、そんなことがよくあります。けれど、そのことは果たしてメリット、デメリットという二択だけで処理できることなのでしょうか、受け止めることができるのでしょうか。

学者たちは、自分たちの研究で探し当てた星を頼りに、旅に出ましたが、それでは救い主に出会うことができませんでした。確かに彼らはそこで歩みを止めざるえなかったのです。そこに彼らが抱く救い主はいなかったのです。ユダヤ人の王として生まれた、あたかもそれはダビデやソロモンといった、力や知恵に満ちた王という救い主というしるしではなかったのです。彼らは確かに星を見失ったのかもしれませんが、見失う必要があったのです。その必然性に立たされのです。

そして、途方にくれていたであろう彼らを導いたのは、神の御言葉でした。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」(2:4~6)この御言葉は彼らが歩みを中断した、いや中断させられた彼らにこそ響き渡った御言葉だったのでしょう。御言葉を聞くと彼らはすぐに立ち上がって、あたかもその御言葉の力によって立ち上がったかのように、彼らの歩みは、旅は再会するのです。救い主を求めて

星が彼らの目に止まりました。星は確かに彼らと共にあったのです。星が彼らを確かに招く、その確信を抱くことができたのは、神の御言葉です。歩みを中断し、己を無にして、心の奥底に御言葉を戴いた、すなわち恵みとして受け止めることができたのです。彼らの挫折から、思わぬ人生のブレーキがきき、自分の思いが打ち砕かれたとき、その時にこそ開かれる道がある、しばしの中断が時に必要だったのです。彼らは救い主を拝む、礼拝に招かれています。

そう、今の私たちと同じように。私たちもしばしの中断です。悩み事、心配事は尽きないかもしれない、何か解決策を考えているかもしれない。しかし、それらの思いをしばし中断して、一度今行くべき歩みにブレーキをかけて、神の御言葉、神の導きに思いを向ける。それがこの日曜日、礼拝に集う私たちに神様が呼びかけておられる声です。救い主を受け入れるためにも、幼子という小ささ、無力さ、そこに神は御旨を向けて下さるその声を聞くためにも、私たちは今この場に留まっているのです。救い主が確かに私たちの只中に宿ってくださった、その救い主が共におられるという真実、この神の真実こそが神の顕現です。神は無力さの中に、留まることを知らない私たちの人生、思わぬブレーキが働き、中断した時に、見えてくるものがある、聞こえてくるものがある。自分の無力さに打ち砕かれ、御言葉を聞き受け止めるときに、その自分の無力さの中に、救い主は宿る、顕れるのです。

学者たちはまた、夢のお告げ、すなわち神の御言葉に従って、別の道を通って帰って行きました。ブレーキがきき、方向転換していくように、神の御言葉が示す神の道へと方向を定める。この幼子イエスと共にある道。この幼子イエスは後にこう言います。「私は道であり、真理であり、命である」と。彼らが通っていった別の道、この新しい道こそが主イエスの道です。

新年を迎え、新しい道が私たちに広がっています。私たちに救い主の道が与えられました。救い主と共に歩む道です。この道の主は主イエスです。私たちが今立っているところは、御言葉が読まれ、聞かれるところは、星に導かれてたどり着いた幼子がいるところであります。学者たちが喜びにあふれたように、新年を歩んでいく私たちも、幼子の救い主に出会い、この喜びにあふれつつも、そこでまた立ち止まるのではなく、一度立ち止まった、中断したからこそ、御言葉が力強く幼子の下に、礼拝に招かれたという真実を受けとめて、喜びに見出される別の道、新しい道を歩んでまいりましょう。そして、自分の思いにかられ、この道をふみはずしそうになったときは、一度立ち止まって、中断して、神の御言葉に聞く時です。幼子の救い主の下に、礼拝に招かれる時なのです

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年12月29日 降誕後主日 「私たちの苦難を生きる神」

マタイによる福音書2章13〜23節
藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 2013年最後の主日を皆様とお迎えすることができました。感謝でございます。世の中は年末年始の慌ただしさの中にありますが、今はクリスマスの時期であります。

 御子イエスキリストが私たちの救い主として与えられ、その喜びを分かち合うように、祝会の時をもつことができました。様々なご事情があって、教会に来られない方とも、再会のひと時が与えられ、真に祝福に満ちた時を過ごしてまいりました。この喜びの只中に、真ん中に主イエスがおられるということではありますが、主イエスはあの飼い葉桶にご降誕されたのです。私たちと同じ人として、人となった神様である主イエス。それは布にくるまった幼子、無力な人間として、飼い葉桶という貧しさ、みすぼらしさの中に宿られた救い主であります。

 今日私たちに与えられた福音もクリスマス物語です。この箇所を読み、聞いた人は、悲しみに満ちたクリスマス物語だという人もいますが、神秘的で喜びだけに包まれているのがクリスマスではありません。クリスマスはこの世という現実、人間の苦難、闇をそのままに語っているのです。ここに大きな悲劇が語られています。ヘロデ王による幼児虐殺事件です。2歳以下の男の子が、理不尽にも権力者の手によって親から突き放され、彼らの手によって殺されていくのです。「ヘロデによる幼児虐殺」として知られる新約聖書の中でも、特に悲劇的な物哀しい出来事であります。その時の母親の嘆きの声が木霊しているかのように、17節から18節にこういう言葉が記されています。

こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」

 ラマという地名は諸説ありますが、ベツレヘム周辺の古代の町のことだと言われています。ここにアブラハムの孫にあたるヤコブの妻ラケルのお墓がありました。ヤコブは神様と格闘して、「イスラエル」という名前を神様から授けられた人です。イスラエルの12部族の祖先はこのイスラエルと言われるヤコブから来ているのです。そのイスラエルの妻であるラケルは、イスラエル民族の母親的存在とも言えるでしょう。このラケルが子供を失った母親の嘆きとして、エレミヤが預言しているのです。この言葉はエレミヤ書31章15節に記されています。こういう言葉です。

「主はこう言われる。
ラマで声が聞こえる。
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む。
息子はもういないのだから」。

 エレミヤは主イエスが生まれる約600年前のイスラエルの預言者でした。当時イスラエルは北と南の2つの王国に分裂していて、この時代に南のユダ王国はバビロニアという外国に攻め滅ぼされてしまいます。その際、多くのユダヤ人、イスラエルの民がバビロニアに奴隷として連れて行かれてしまいました。いわゆる「バビロン捕囚」と言われる出来事です。バビロニアに連れて行かれる時の通過点がラマでした。もう故郷には帰ってこられないイスラエルの子孫たちの姿を、墓の中から先祖のラケルが嘆き悲しんでいると、エレミヤは言うのです。もう子供達、子孫は戻ってこないのだから、慰めてもらっても仕方ない、慰めすら拒否をするという真に深い嘆きであります。

 マタイはヘロデ王による幼児虐殺事件をこのエレミヤの言葉と重ねました。ラケルが子孫のため、子供のために嘆き悲しんでいる。その声は今まさに聞こえてくるというのです。主イエスがお生まれになったこのクリスマスの只中で聞こえてくるのです。そしてこの嘆きの声が、今の私たちの世界でも木霊しています。イスラエルとパレスチナの対立から、多くの人が犠牲になり、子供たちが無残にも殺されています。それは遠い外国の出来事に過ぎないとは言い切れません。この日本を含め世界中で、不可解で、理不尽な事件に巻き込まれて、子供の命が失われている。子を失った親たちへの慰めなんてどこにあるのかと、叫びたくなるような出来事が繰り返し起こっています。ラケルの嘆き声は現代へ叫び続けられているのです

 幼子イエスは、救い主として、飼い葉桶に宿られ、このラケルの嘆き声が木霊する、すなわち慰めなんてどこにあるのかと嘆くこの現実の只中ですくすくと育ち、成長していくのです。この救い主を拒む敵対勢力がヘロデを筆頭に描かれています。この敵対勢力に対して、幼子は無力です。敵対勢力、いわば権力者に振り回されながら生きていていく。それは理不尽さの中で、人間の苦難を背負って生きていくということです。しかしそれは一種のあきらめというか、運命を受け入れていくしかないという生き方ではありません。この幼子、キリストの一生を一言で歌っているフィリピの信徒への手紙2章6―8節にこう記されているからです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 十字架の死に至るまでとありますように、キリストの生涯は生まれた時から十字架へと向けられています。それも人間としての弱さ、小ささを背負いながら、へりくだって、その道を歩まれていくのです。このキリストを十字架につけて殺したのは、ヘロデ王ではありませんが、あのラケルの子孫であるイスラエルの民、ユダヤ人たちがキリストを十字架につけるのです。

 この幼子、キリストもラケルの嘆き声が叫ばれるかのように、無残に殺されるのですが、このキリストの死は十字架の死、贖いの死です。ヘロデなどの敵対勢力に対して、武力でも神の子としての奇跡的な力をもってして反抗したのではなく、十字架をもってして、対抗したのでした。真にこの嘆き声の只中に、慰めなども見いだせないような闇の只中に、その身を置かれ、嘆きを受け入れた、すなわち死の嘆きを受け入れたのです。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く者となられたのです。ただ泣き叫ぶことしかできない現実の私たちの世界で、神も共に泣き叫ぶ。神もまた嘆くのです。あの十字架上でのキリストの言葉を思い出してください。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」そう叫ばれたのです。そう嘆かれたのです。どうして私がこんな目に、どうして私の子供が、私の子孫がこんな目に合わないといけないのかと、私たちと同じように嘆かれました。

 しかし嘆きは嘆きのままで終わらないのです。十字架の死は復活へと続いているのです。パウロはコリントの信徒への手紙15章55節から58節で言います。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しようわたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないのです。主に結ばれる、それは主と共にあるということです。この世の理不尽さの中に、慰めなど見いだせようか、そのように嘆く私たちの姿があります。しかし、主イエスは私たちが抱く嘆き、究極的には嘆きの試金石である死を打ち破った、復活によって打ち破る救い主として、「神は我々と共におられる」救い主として、私たちの只中に宿られ、幼子として、私たちの前にみ姿を現されているのです。

 この救い主の父親として、幼子を抱いて、母マリアと共に、ヘロデから逃れるヨセフの姿があります。彼は夢で天使のお告げを聞いて、その言葉、すなわち神様の御言葉に導かれて、幼子と共に、ラケルの嘆きが絶えないベツレヘムの途上を歩み続けました。彼はマリアと共に、この幼子をおぶって、必死に逃げ続けました。幼子イエスはただこの父親であるヨセフに抱かれているだけなのです。幼子を抱いている、おぶっているヨセフの姿は私たちに何を示しているのでしょうか。

 今日の第一日課のイザヤ書63章8―9節にこう記されています。主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。

 彼らというのはイスラエルの民を指しますが、ここでは苦難を共にする者ですから、今の私たちの姿でもあります。わたしの民と主が言われるとき、それは私たちが神の子として招かれている、受け止められている、神の愛する子として、私たち一人ひとりを忘れることなく、憐れんでくださる神の恵みに他なりません。そのために私たちの救い主となられた御心は、私たちの苦難、嘆きを、ご自分のものとされるために、幼子としてこの世に宿られたということです。この幼子は神の御言葉に導かれるヨセフに抱かれ、逃げ続けます。神の御言葉がヨセフを通して働かなければ、幼子イエスは殺されていたでしょう。

 幼子は神の子です。しかし、人間の苦難をご自分のものとして生きていくと決断されたということは、目の前にある現実には、幼児虐殺という苦難の現実が待ち受けている。その苦難の前には、この真の人としての幼子ではどうすることもできない、それは私たちの人生と同じように、目の前の苦難を前にして、時にどうあらがっても、どうすることもできない現実の壁、苦難の壁を乗り越えることができないという状況にたたされること同じことです。幼子は神の子として、人間の苦難をそのままに、自分の歩みとして生きていかれる。けれどヨセフを、神の御言葉に導かれるヨセフなくして生きていくことはできないのです。だから、この幼子を抱いているヨセフ、神の御言葉に導かれるヨセフを必要するということは、この幼子が神の御言葉と共に生きていく、真の人として苦難の只中を生きていくというとき、神の御言葉こそが、自分を導く、働かれる、担われるということであります。ヨセフは幼子を抱いていますが、彼を導くのは神の御言葉であり、マリアとこの幼子との歩みを真に担ってくださるのは、神様にほかなりません。

 そして神の御言葉に導かれて、ヨセフが幼子を抱いて歩む姿は、主に従って歩んでいく、自分の十字架を背負って、主と共に歩んでいくということに映されています。もちろんそこには苦難があり、嘆きがあり、理不尽さが付きまといます。しかし、それらの困難と共に、むしろ私たちの苦難をご自分の苦難として、主は歩まれる、共に歩んでくださる。それがこの無力な幼子の姿に示されています

 キリストは私たちの苦難をご自分の苦難とされました。それが今、私たちの目の前に示されている幼子の姿に表されています。今年一年を振り返った時、思い出したくもない苦難があったかもしれない、また新しい年もどんな苦難が待ち受けているかわかりません。しかし、幼子イエスは私たちと共におられます。私たちの苦難をご自分の苦難とされる神様が共におられます。この悲しみの物語の中に、クリスマスの喜びは、この幼子を通して、私たちにはっきりと示されているのです。新しい年もまた、このキリストが共にいてくださると固く信じて、希望をもってこの救い主と共に歩んでまいりたいと節に願います。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年12月15日 待降節第3主日 「人となりし神」

マタイによる福音書1章18〜23節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

アドベントクランツの3つめのロウソクに火が灯り、待降節第3主日の礼拝を私たちは迎えました。アドベントも中盤を過ぎた今日では、各地でクリスマスコンサートが開催され、お出かけになって聞かれた方や、演奏された方がたくさんおられるかと思います。この六本木教会でも今年は実に多くの団体の方がこの会堂でクリスマスコンサートをされ、既に2つのコンサートが一昨日、昨日と行われました。また本日もハンドベルの皆様が礼拝の中で演奏していただき、また礼拝後にコンサートをしていただきます。
クリスマスの喜びを、コンサートで聞き、または演奏しつつ受け止めながら、この喜びをコンサートだけでなく、改めてこのアドベントの時を過ごす私たちは御言葉を通して、来るべきクリスマスの喜びを聞いてまいりたいと思います。

マタイによる福音書1章18節~23節が本日の福音として与えられました。最後の23節の御言葉「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」という救いのメッセージが記されている箇所であります。インマヌエル、神様が人間と共におられる、それが真となる、本当に起こる、それは人間の想像を超えた出来事、思いもよらぬ喜び、そして何よりも神様の決断という御心が真に示されている、全知全能の創造主なる神様が、被造物と共に歩む、そのような壮大なご決断をされた神様の御心がここで明確になっているのです。神が共におられる、それは神が真の人間となったという出来事に顕されています。共にいる、共にいてくれるということ。ひとりではない、孤独ではない。これは非常に嬉しいことです。詩篇もこう歌っています。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(133:1)そう、共にいてくれるということは、恵みであり、喜びであるということです。一緒にいてくれる存在と聞いてすぐ思い浮かべる人は、親、親戚、友人、恋人、またはペット(人ではありませんが)でしょうか。他にもいろんな仲間の存在を思い描くかと思います。しかし、常に一緒にいるのが当たり前だという感覚に私たちはついつい陥ってしまい、喜びとか恵みというものを見失ってしまうものです。あの放蕩息子のたとえ話に出てくる兄のように。でも、私たちを支え、助けてくれるという存在、共にいてくれる存在があって、今の自分がいる、今の自分が生かされているということに気付かされるのです。他者の存在が、わたしの存在理由ということです。それを共にいる、共に関わるということを通して、私たちは知るのです。そして神が共におられるとは、関わってくださるとは真にどういうことなのでしょうか。私たちはその真実において、どう変えられていくのでしょうか。ご一緒に御言葉から聞いてまいりたいと思います。

神は我々と共におられる。その救いのメッセージをヨセフは夢の中で、天使から聞かされました。それはヨセフがある大きな決断をした後の出来事でした。ヨセフはマリアと婚約していました。結婚の約束をしていました。しかし、まだ同居は許されていません。体の関係を持つことは禁じられていたのです。ふたりはいずれ一緒に暮らして、夫婦仲良く、幸せな家庭を築いていきたいと願っていたことでしょう。誰しも普通に願う人間の幸せです。ところが、ふたりが一緒になる前に、マリアが聖霊によって赤ちゃんを身ごもってしまったというとんでもないことが起こりました。「夫ヨセフは正しい人であった」とありますから、マリアと関係を持つということはなかったはずです。自分には全く身に覚えがない、ありえないことが起こった。「そこでヨセフはマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」というのです。マリアとのことを表ざたにする、つまり公にすれば、マリアが姦淫の罪を犯したことになり、マリアが罰せられる。社会的に抹殺されるというのです。公になればマリアは行きてゆけないことは確実です。それでヨセフは密かに縁を切る、離縁を申し出ようとするのです。申命記24章1節に「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」という掟に従って、マリアと離縁する。そうすればヨセフは自分の都合でマリアと離縁した。マリアは子供を産みますが、再婚の可能性は十分にあるのです。ヨセフは正しい人だったので、という正しさは、社会通念としての正しさ、宗教的な正しさに縛られたものではなく、相手の立場にたち、相手を思いやった正しさ、すなわち愛するという正しさでした

福音書はヨセフの心情について何一つ記してはいません。たった2節しか記していないこの出来事の中で、ヨセフの苦悩は計り知れないものだったはずです。なんとか自体を収拾しようと、それもマリアを思って、本当ならマリアを疑ってしまうはずなのに、マリアを愛し、マリアを見捨てることなく、事を収めようとした。公にすることができないのですから、親にも友人にも言えない、本当に心の奥深くで悩み苦しんだヨセフの姿があるのです。親にも友人にも言えない、身近にいるものでさえ、言えない出来事、自分の思いを抱えていく。一人で抱えていく。正しい人、愛する人故に、正しさを全うするが故に、抱え込まなくてはいけない思い悩みをヨセフは背負っている、そして背負っていこうと決心したことでしょう。

このヨセフとマリアに起こった出来事、旧約聖書のヨブ記を連想させるかのように、真に理不尽な出来事だった。そう言えるでしょう。特に何か悪いことをしたわけではない、静かにひっそりと暮らしていた二人、普通の幸せを願っていた二人に突如襲った理不尽な不可解な出来事。そこには嘆きがあったはずです。誰にも理解してもらえないという嘆きです。私たちも嘆きます。自分を分かってくれない、自分の状況を分かってくれない、受け止めてくれないということに、嘆きます。本当に自分のことを助けてくれる人、共にいて寄り添ってくれる人、たとえその人が物凄く頼りになる人でも、本当に自分の心の奥深くにある闇を照らしてくれる光となってくれるのか、自分の闇を分かってくれるのかと悩みます。ヨセフの内面的な心情は定かではありませんが、彼は真に孤独だったでしょう。事を収めようと決心する傍ら、彼の心は深く傷つき、その傷を背負っていくこととなる。誰にも分かってもらえないこの傷を背負うという孤独感があるのです。

そのヨセフの内面的な心情、孤独を表しているかのように、主の天使は、彼の夢に現れて、御言葉を告げるのです。そこは彼の思いそのもの、深い深い彼の心に迫るものです。そこに御言葉が語られる。「恐れるな、マリアを妻として迎えなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿り、その子供をイエスと名づけよ。その子は自分民を罪から救うからというのです。そして乙女が身ごもって、男の子を産むという神の御業が告げ知らされる。旧約の預言がここに成就する、つまり神の言葉は必ず成就するという約束の御言葉でした。ここでもヨセフは驚きを隠しきれなかったはずです。しかし、今日の日課の後で、24節では天使の言われた通りに、マリアを妻として迎え入れ、主イエスの父親として、主イエスを迎え入れるのです。神は我々と共におられる、そのインマヌエルなる救い主が、今マリアの中に、宿っている。密かに縁を切ろうとして、孤独のただ中にあった自分の思いの中で、不思議なことが起こった。恐れるな、この神様の導きがヨセフを変えていったのです。真に孤独な只中で、神が出会ってくださる、共にいてくださる。そのしるしが真の人となりたもう神、神が人となり、私たちと同じように、汗を流し、血を流し、泥沼の中に自分の人生の中に宿られた。共におられる神として、救い主が与えられた。新しい生がヨセフに与えられたのです。

ルカ福音書にザアカイの物語(ルカ19:1-10)があります。もちろん彼はヨセフのように、「正しい人」とは記されていない「徴税人」と言われている人です。彼はその職業柄、人々から忌み嫌われていました。誰も彼に近づこうとはせず、彼を受け止める人はいなかったのかもしれません。彼も孤独でした。主イエスが来られても、彼だけは木の上から眺めるだけで、近づけなかった。人々と、そして神様との距離が彼にはあったのです。しかし、彼の下に主イエスが近づいていかれます。そこで主イエスは彼を更生させるような言葉でもなく、「悔い改めよ」と言われたわけではありません。彼にこう言ったのです。「ザアカイ、あなたの家に泊まりたい」。家に訪れたい、ただその一言です。しかし、その一言が彼を変えた。財産の半分を貧しい人に施し、だれかからだまし取っていたら、4倍にして返しますと、主イエスの前で約束するのです。今日、救いがこの家を訪れた。主イエスはそう言います。「家」、それは日常生活の場、自分の生活する場であり、そのまま人には見せられないものがある自分の住まいです。安心していられる場所であり、同時に最も奥深い自分のスペースです。その人の内面が示されているといっても過言ではない。その内面、奥深いところに主イエスは語りかけられた。訪れたのです。ザアカイの内面、孤独のただ中にこの主イエスが訪れた。そこにこそ救いが訪れたのです。主がザアカイと共にいてくださる、また、それだけではなく、ザアカイは変えられたということです。自分の富を隣人に、すなわち天に富を積むかのごとく、神様の救いの御業に、自分も巻き込まれていくかの如く、関わっていくのです。

ヨセフもそうでした。マリアを妻として迎え、主イエスの父親として、神様の救いの御業にヨセフ自身も関わっていくのです。ヨセフもザアカイも、もちろんマリアみたく直接主イエスを宿らせたというわけではありません。しかし、彼らの姿、その思いの根底には神様の御言葉を宿らせた人として、神様と共にいる人としての姿があるのです。コロサイの信徒への手紙3章16節で「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」という御言葉に示されている通りです。また20世紀の神学者であり、牧師であったディートリッヒ・ボンヘッファーは「共に生きる生活」という著作の中でこう述べています。
「神が、わたしたちの今日の生活の見守り手であり、参与者であることではなく、わたしたちが、聖なる歴史における神の行為に対し、地上におけるキリストの歴史に対して、心を傾けた聞き手となり、また参与者となることが重要なのであり、そしてわたしたちがそこにいる限りにおいて、神もまた今日、わたしたちと共におられるのである。」
「参与者」と言われます。それは「神が」ではなく、「わたしたちが」と、主語が変わっています。神が共におられる、それは生活の見守り手、お守りみたいな存在ではなく、神様と出会い、そしてわたしたち自身が変えられていく、つまり「神様と共に」自分たちも行動し、実践していくということ。神が共におられる、共に歩んでいくということがそこに示されている。インマヌエルなる神が私たちの歩みの土台となり、私たちを導いていかれる。困難の只中で、孤独の只中で「恐れるな」と言って、導かれるのです。

このマタイによる福音書は「インマヌエルの福音書」と呼ばれています。このインマヌエルの預言に始まり、そして最後の28章18―20節で主イエスご自身がこう言われるからです。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
あなたがと共にいる、だからあなたがたは~と招かれるのです。主イエスが共におられるという真実の下で、私たちも変えられていく、困難や苦悩、孤独に思えるような状況の只中でも、真に孤独ではない。恐れるな、私が共にいる、その確信の只中で歩んでいくのです。

アドベント、クリスマスの只中で、御言葉が聞かれ、ヨセフやマリアと言った人物に焦点が当てられている救いの物語が語られています。私たちも様々な思いを抱いて、時には人にも言えないような孤独の只中で、このアドベント、クリスマスに招かれています。私たちはただ外野に座って、好奇心だけでこの救いの物語を聞いているのではなく、私たちもこの救いの物語に巻き込まれていく、そして変えられていくのです。この物語は私たちのストーリーでもあるのです。2000年たっても変わらない一人一人のストーリーであり、神と出会う時であります。どうぞ、その思いを心に抱いて、共におられる神として、私たちのただ中に宿って下さる救い主を待ち望みましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年12月8日 待降節第2主日 「荒れ野で叫ぶ者の声」

マタイによる福音書3章1〜12節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

待降節第2主日の礼拝を迎え、アドベントクランツに二つ目の火が灯されました。先週も言いましたが、アドベントとは「近づく」という意味です。今日の日課、洗礼者ヨハネの記事の冒頭でも「悔い改めよ、天の国は近づいた」とありますように、「近づく」という聖書のメッセージが記されています。ヨハネは天の国、すなわち神の国が近づいたと言うのです。天の国とはこの世の特定の時や場所を指すものではなく、神様のご支配、ご意志、その御心を指し示します。その御心は救い主イエスキリストを通して示されているのでありますから、キリストのご降誕を待ち望むこのアドベントの時に、聖書はヨハネを通して、天の国が近づいた、すなわち神様の御心であるキリスト(救い主)が近づいた、そのように語っているのであります。そして「天の国が近づいた」、このメッセージから、ヨハネの伝道と、主イエスのガリラヤでの伝道が始まったのです。何よりもまず神様の方から近づいてくださったというこの確信、救いの確かさを信じているからこそ、伝道していくことができる。私たちの伝道の出発点も、この救いの確かさを信じ、委ねるところから始まるのです。

天の国が近づいたという神様の先行する御心を聞いている私たちに、ヨハネとそして後に主イエスも言います。「悔い改めよ」と。天の国が近づいた、だからもう大丈夫だ、安心していいとは安易に言わないのです。「悔い改めよ」、と言われる。「悔い改め」、それは「方向転換」するということです。何からの方向転換かと言いますと、「罪」からの方向転換です。罪の悔い改めです。神様の方に方向転換する、立ち返るということであります。自分の所業を反省するとか、悪い習慣を改善していくという自分自身の出来事ではなく、自分の存在そのものを神様に向けていくということ、生き方そのものが変えられていく、180度思いが変えられていくということです。そのような壮大かつ厳格な神様からの中心的なメッセージを、ヨハネは「荒れ野」で説いたというのです。荒れ野という場所は、砂漠ではありませんが、旧約聖書の記述によれば、草も木も作物も実らない荒涼とした土地を指します。そして「荒れ野」とは、「寂しい、人里離れた」という意味がありますように、人々が全然住んでいない活気のない場所でもあります。ですから、この荒野とは、命の兆しというものをほとんど感じない、人が避ける場所、伝統的に悪魔が住む場所とされてきた所、闇であり死の象徴を指し示している、まして神様の恵みなどなく、神様など存在しないかのような雰囲気に満ちた場である、そう言えるでしょう。しかし、ヨハネは3節で「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』という旧約の預言者イザヤの預言をここで語るのです。荒れ野という命の兆しとは皆無な、まして神様の存在などほとんど見いだせないような場所で、ヨハネは神様の言葉を、叫び続けたのです。私たちは自分の住まいを考えるとき、または商売をされる方は、その土地を徹底的に調べます。立地の良い場所を探します。人が集まるところ、交通の便が良いところ、買い物が便利なところ、または作物が豊かに育つのどかなところ、いづれも荒れ野とは無縁なところに住みたい、お店を出したいと考えます。人々が賑わう場所、作物が豊かに実る場所に神様の恵みを感じます。神様がそこにいてくださると感じます。神様との出会いがそこにあると感じることがあります。しかし、神の御言葉は、ヨハネの叫び声を通して、荒野で響いているのです。人々が関心を持たない、この世で価値を見いだせないような場所でこそ、神は語られる、神様との出会いがそこにあるのです。そのためには私たちが荒野に行かなくてはなりません。荒野に目を向けなくてはなりません。荒野という闇、死を覚える、さらに自分たちもその只中で歩んでいる、この世の価値観とは異なった、いや全く逆の世界に目を向けるのです。私たちの思い、イメージからかけ離れた神の世界です。そこに立ち返れとヨハネは言うのです。

不思議なことに、このヨハネの叫び声を聞いて、パレスチナとユダヤ全土、ヨルダン川の地方一帯という広範囲における人々がヨハネのもとに来たのです。その中には、神様の律法を守り、敬虔な信仰生活を送っているファりサイ派やサドカイ派の人もいたのでした。罪を告白し、悔い改める人々にヨハネは洗礼を授ける一方で、大勢のファりサイ派やサドカイ派の人に対して、ヨハネは厳しい言葉を投げかけます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(7―9節)このヨハネの言葉は、彼らの思いをそのまま露呈していると言えるでしょう。彼らの思いの中には「悔い改める」ということがなかった。自分たちは神様から選ばれた神の民イスラエルの民であり、神様の怒りからは遠く免れている。アブラハムという信仰の父を祖先に持つのだから、自分たちは神様から近い、救われるに値する者だと自負していた。彼らにとってヨハネの洗礼は水という清めの徴、神様の祝福というイメージだけがあったのかもしれません。だからヨハネは彼らに迫った、いやむしろ彼らのその思いの中にこそ、罪深さがあると、彼らの罪を指摘したのです。場所は荒野でも、彼らの思いは、荒野にあらず。もう神様の救いが自分たちの中で自己完結している、ヨハネから洗礼を授かっている人を日和見しているかの如く、自分たちを特等席に置いた。ヨハネは彼らのそんな思いを打ち砕くのです。神様は荒れ野に転がっているその辺のちっぽけな石からでも、アブラハムの子ら、すなわちあなたがたをいともたやすく作られると言います。それはすなわち、アブラハムという信仰の父を祖先に持とうと持たなかろうと、あなた方は信仰深いという存在どころか、その辺のちっぽけな石、信仰なんて全く持っていない存在であるとヨハネは言うのです。さらに、ヨハネは神様について語っています。石からも作られる、すなわち「創造主」であるということ、命の神であるということを証ししているのです。ヨハネがここで証ししている創造なる神様ということは、当然彼らを含めた私たち人間は神様の「被造物」ということでありますが、それは大きな意味があります。それは関係するということです。神と人との関係です。神様と一人一人との関係です。関係する神、交わる神が証しされている。関係する、交わるということは、時間的、場所的な有限性というものはないのです。信仰の父、アブラハムの子孫であるイスラエルの民、選ばれた神の民ということは、それはもう救いが約束されていて、安全が約束されている、だから神様から自立していくということではない、絶えず神様との関係において、共に歩んでいく、その過程において、救いが示されている。だから絶えず神様の元に立ち返れとヨハネは言うのです。救われるということは、ただ一回きりの神様からの恵みを受けるということではなく、神と共にある今の自分、神に従う今の歩みの中で、体験している出来事、すなわち信仰の旅路、救いの道への只中で経験していくことなのです。

繰り返しますが、天の国が近づいた、ヨハネも主イエスもこの言葉をもって、宣教を開始しました。しかし、ヨハネはその神様の御心を10節で「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と受け止めたのです。斧は既に木の根元にあり、いつ切り倒されてもわからない、こう譬えられるように、神様の裁きはいつきてもおかしくないと、それほどまでに激しいことを語られているのです。自分が授ける水の洗礼が救いの徴となるとは言わない、だから次の11節でヨハネは「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが」、とここまでしか語らないのです。悔い改めに導くとまでしか言わないのです。だから大勢のファリサイ派やサドカイ派の人に対して、悔い改めにふさわしい実を結べというのです。実を結べということも、まだ実がなっていない、悔い改めになっていないというのです。ヨハネは自分が、キリストでない、救い主ではないと断言しています。だから、11節の続き、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」そしてヨハネは、救い主の御業について「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と預言します。真の洗礼を授けられる方、聖霊と火における洗礼、真の洗礼は、実った麦は倉に入れられ、使い物にならない殻は火で焼き払われるように、神様の裁きというふるいにかけられる。使い物にならない殻、それは神様に悔い改めない罪人はその火で焼き払われる、とこう言うのです。しかし、この差し迫る神様の裁き、火で焼き払われるように、十字架の死を遂げたのは、「天の近づいた」と自ら宣言なされた救い主イエスご自身に他ならないのです。

天の国が近づいた、ヨハネは悔い改めに導く洗礼を私たちに伝え、主イエスご自身は、十字架の死という自らの御身をもって、罪の贖いという救いの完成を実現されたのです。そのキリスト、その救い主こそが私たちが待ち望む主イエスであります。今この時を待つ私たちは、洗礼者ヨハネを通して神様に悔い改める時でもあるのです。それは荒野において、闇に覆われた只中で、自らの罪と向き合いつつ待ち望むという時であります。

私たちは、この礼拝に招かれ、罪の告白を通して、洗礼という恵みを日毎に思い返します。まだ洗礼を受けておられないかたは、神様が今あなたを招いています。洗礼を受けてからも、わたしたちは神と共に歩む、悔い改めにふさわしい実を結んでいく、それは絶えず神と共に歩む、神に対して生きていくということなのであります

昨日は大高芭瑠子姉の納骨の祈りが執り行われ、次の御言葉が与えられました。
イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネによる福音書11章25~26)
この御言葉を聞き、死という闇の只中で、まさに荒野の只中にある私たちに、復活の光、希望が神様から示されました。そして納骨の際に、骨壷や写真だけでなく、おふたりの洗礼章がいっしょに収められたのです。私はそのときローマの信徒への手紙6章1節~12節の、言葉を思い起こしました。ここでは罪に死に、復活のキリストに生きるという新しい命に生きる、その出来事が洗礼であるということをパウロが語っているところでありますが、6章10―11節の言葉にこういう言葉があります。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
キリストに結ばれて、神に対して生きている、肉体的な死を遂げた後も、神の側では生きている。神に対して生きているという慰めの言葉が同時に与えられました。私たちが自分の洗礼を思い起こすということは、日毎に悔い改めて、神様の方に向き、神に対して生きていく、そういうことであります。逆に言えば、私たちが神様と共に歩み、神様に対して生きていくということは、悔い改める、神様の元に立ち返っていくということの繰り返しであります。

神様の御言葉は「荒野」で叫び続けられています。私たちも闇を経験し、人の死を経験します。命の兆し、その輝きを見失う時がある。生きる希望を失う時がある。そこは荒野です。荒野の中を歩んでいる私たちの姿がある。そこにこそ神様の御言葉が聞こえてくる。そして、クリスマスの時、あのみすぼらしい「飼い葉桶」というところで、そこもまた荒野に象徴されるように、夜、闇という暗闇の中で、神様の御言葉が肉体となった救い主イエスキリストが降誕されたのです。「荒れ野で叫ぶ者の声」が救い主となって実現する、今その希望を抱いて、このアドベントのひと時を共に過ごしてまいりましょう。天の国は近づいたのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。