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2019年5月12日 復活後第3主日の説教「愛する者の声」

「愛する者の声」ヨハネによる福音書10章22~30節 藤木智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  今日の福音書の冒頭に「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」(22節)とあります。「神殿奉献記念祭」とは、現在も、クリスマスの頃に祝われているユダヤ人の祭りで、ハヌカと言われる光のお祭りです。ハヌカという言葉が奉献と訳されている言葉ですが、口語訳聖書では、「宮清めの祭り」となっています。神様に捧げる奉献とは、聖別され、清められるということでもあります。過去にはソロモン王が神殿を建てて奉献したこと、バビロニア捕囚によって神殿が壊され、そこから帰還する時に、神殿を再建したこともありましたが、この冬に行われた神殿奉献記念祭とは、一度神殿が汚され、荒らされてしまったのを聖め直すという意味が含まれています。再び聖別され、奉献されたことから、「宮清めの祭り」とも言われているのでしょう。

どのようにして聖め直されたのか。そもそもなぜ汚され、荒らされるようなことがあったのでしょうか。そしてなぜ、光のお祭りとも言われているのでしょうか。歴史のお話になりますが、このお祭りの起源は紀元前2世紀前半に遡ります。当時のユダヤはシリア帝国に支配され、そのシリアの王であるアンティオコス・エピファネスは実に暴力的な人物であったと言われています。彼はユダヤ教の教えの要である割礼や安息日の遵守を禁止し、さらには律法の書である聖書を取り上げて、それを引き裂いたとも言われています。そして彼は異教の宗教を強要して、エルサレムの神殿に偶像や豚を持ち込みました。反発するものは殺され、死刑に処せられました。ユダヤ人の信仰の中心である、神殿と、律法が、異邦人達の手によって荒らされていたのです。ユダヤ人たちはこれに反抗し、礼拝の自由、ユダヤの独立を求めて闘争を展開し、遂に紀元前164年、マカバイオスのユダが率いる軍勢が、エルサレム神殿を奪回することに成功しました。彼らは豚や偶像を取り除いて神殿を清め、ようやく神様にお返しすることができました。この時彼らは神様の臨在を思い起こすために、神殿の燭台に火を灯し、常に火を絶やさようにとするのですが、そこには1日分の油しか見つからず、油を補充するまでには8日間かかる状況でした。ところが、その少量の油で奇跡的に火は8日間も燃え続け、油はなくならなかったと言われています。そのことに由来して、このお祭りの時は、ハヌキヤと呼ばれる特別の燭台に8日間に渡って火を灯すことから「光の祭り」とも言われています。

信仰の拠り所であるエルサエム神殿が汚され、荒らされたことは、ユダヤ人たちにとって、悲劇であり、絶望そのものを経験されたということです。希望を失い、闇の中にいる絶望的な状況でありました。そこに、マカバイオスのユダが力で神殿を取り返し、ろうそくに灯された火が消えず、光を放ちづけていたことに、大きな喜び希望を抱くことができたのでしょう。出エジプトの出来事と同じように、彼らにとって忘れられない歴史です。

しかし、主イエスの時代は、シリア帝国に代わって、ローマ帝国がユダヤを支配していました。自分たちの宗教こそ認められていましたが、ローマの圧力もかつてのシリア帝国に匹敵するほどのものでした。だから、ユダヤ人たちは、主イエスに対して「もしかしたらこの人が、マカバイオスのユダのような救い主、キリストかもしれない」と期待を抱いていたのでしょう、その期待の大きさは、主イエスを取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」(24節)と言ったほどでした。「気をもませる」という言葉は、他の聖書の訳では「不安にさせるのか」または、「中途半端にしておかれるのか」という意味になっています。彼らはやきもきしているほどに、主イエスに期待しているわけです。

しかし、主イエスは彼らにこう答えました。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」(25~27節)主イエスはここで「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言います。わたしの羊という時、その羊を飼う羊飼いが主イエスであるということを言われています。このヨハネ福音書10章の冒頭から羊飼いのことが述べられています。3節に「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」、また14節では、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言います。羊飼い、すなわち主イエスは羊である私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのであります。個人的に知っているのだから、私たちが日々何を考え、何をし、何を必要としているのかご存知です。それはどれほど知っていてくださるのか、11節ではこう言っています。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」羊のために命を捨てる、羊ではなく、羊の代わりに羊飼いが命を捨てるのです。命を捨てられるほどに、羊飼いである主イエスは羊である私たちを知っておられる、それもただ離れたところから私たちの状況を知っているのではなく、実際に私たちの中にあって、ご自身が私たちの思いを担ってくださっているのです。

主イエスは実際に十字架によって死に、命を失うのです。マカバイオスのユダのように、力でローマ帝国のような支配するものを制圧したのではないのです。主イエスの声はそのことを語り、私たちを導くのではないのです。主イエスがもたらす声、羊を生かす命の声は、十字架の死を超えた復活の命を指し示しているのです。

主イエスは「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」(26節)と言われます。こう言われると、誰が主イエスの羊で、羊ではないのかという不安を私たちは抱きます。されど、主イエスはここで「あなたたちは信じない」とも言われます。信じることができないものたちがいる、その者たちは羊飼いの声を聞き分けることができないのでしょう。そういう者たちは見捨てられるのでしょうか。ただ、信じることができないものたち、それはここにいるユダヤ人たちに限った事ではないのです。何よりもあの弟子たちが信じることができなかったのです。主イエスの十字架に従うことができず、逃亡し、さらに主の復活をすぐに信じることができませんでした。あなたたちは信じない、信じることができない弟子たち、その姿と重なるように私たちの姿があるのです。信じることができない私たちのために、主は十字架にかかられるのです。そのことを主イエスはご存知なのです。信じられないものに対して、主は十字架の赦しと復活の命をもってして答えられたのです。

そして主は復活され、尚信じることができない弟子たちを、ご自身の羊として新しく招かれるのです。このヨハネ福音書の最後のところで、「私の羊を飼いなさい」(21:17)と、主は弟子のペトロに言われ、その役割を、遣わされて生きる道を与えられるのです。主イエスがもたらした彼らへの光は、復活の光、誠に彼らに命の光を指し示し、立ち直らせるための希望の光だったのです。

過去に神殿が汚され、荒らされ、闇の只中にいたのはユダヤ人だけでなく、主イエスに従えず、絶望の内にあった弟子たちでもありました。彼らもまた主イエスの復活の光によって清められ、命を得ることができたのです。主イエスと共にある命です。主イエスに従って共に歩む命の道であります。

コリントの手紙Ⅰでパウロはこういうことを言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」あなたがたの体はあなたがた自身のものではない、私の体は、命は神様から与えられている体であり、命であるということ。復活によって示された命、永遠の命がそこにあるのだということです。主イエスの復活の光によって、私たちも清められ、主イエスと共にある命を生きているのです。

今も主イエスは復活の光として、私たちを照らしています。現実の闇に荒らされ、打ち崩されているものの心に、命の光をもたらして立ち直らせてくださるために、主はいつまでも共にいてくださるのです。この方は私たちの命を救うために、命を失い、死に勝利されて、命を明らかにしてくださいました。この命の声を、聖書のみ言葉を通して今も私たちに語っていてくださるのです。光は闇の中で輝いています。羊である私たちひとりひとりを慈しみ、決して見捨てることのない命の光として。この光を喜びとし、キリストの愛の内に、その豊かさに生きてまいりたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年5月5日 復活後第2主日の説教「復活の香り」

「復活の香り」ルカによる福音書24章36~43節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今週の主日もまた主イエスの復活について、私たちは弟子たちや婦人たちの証言を通して、聖書の御言葉から聞いています。そして今日の福音は、主イエスの御姿を弟子たちが明確に目撃する箇所であり、いよいよ、主イエスの復活についての核心に迫っていくのです。

今日の福音の箇所を見る前に、改めてこれまでの弟子たちの心境と、主イエスの復活についての様々な証言について見ていきたいと思います。主イエスが捕えられて死刑に処せられ、そして死んだことを聞いてから三日後に婦人たちから驚くべきことを聞かされました。その時までは、おそらく彼らは主イエスが死んだことの悲しみと、自分たちも捕まってしまうという恐ろしさを抱いていたかと思います。そんな心境にある彼らにもたらされた報告、それは主イエスの遺体が、墓穴に見当たらなかったこと、そして、ふたりの神様の御遣いの言葉でした。それは『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』という内容の言葉でした。それは生前の主イエスご自身が弟子たちに語られた御言葉であるということを私たちは思い浮かべると思います。今まさに、その御言葉が実現したという知らせだったのです。しかし、彼らは婦人たちの報告をたわ言だと思って、信じませんでしたが、ペトロは墓まで走り、遺体が見当たらないことを確認して驚いています。この空虚な墓の出来事、御遣いたちの言葉、ペトロはそれが嘘ではなく、本当に復活されたという思いを抱きます。

そして、次の復活の報告は、エマオでの出来事です。クレオパたちの前に現れた一人の人が主イエスご自身であったということ。彼らの目は最初、遮られていましたが、食事の席で主イエスが賛美の祈りを唱えて、パンをお渡しになると、彼らの目が開け、主イエスだとわかった。しかし、その姿は見えなくなってしまったという出来事。彼らは結局主イエスだと認識して、その姿を見たわけではありませんでしたが、聖書の説明を受けている時、自分たちの心は燃えていたという心境を語っています。そしてエルサレムにすぐ戻り、ペトロたちと合流して、彼らと分かち合います。空虚な墓、御遣いたちの言葉、エマオで現れたという出来事と、私たちは改めて主イエスの復活の経過を辿ってきました。どの出来事も、人間の業によるものではないことを私たちは知ります。

しかし、まだ私たちは多くの疑問を抱きます。主イエスの復活の本質は何であったのか、ただの象徴にすぎなかったのかと、考えてしまうかも知れません。弟子たちの証言は断片的で、現実性を帯びてはいないのです。弟子たち自身も、外見は主イエスの復活を理解しようとしていますが、実際はまだ復活した主イエスには出会っていなかったのです。彼らは復活したという出来事に喜んでいたのではなく、むしろ驚いているのです。その心境は非常に複雑で、冷静さを失って戸惑っていたのかもしれません。

さて、その心境にある彼らの前に、主イエスは現れ、彼らの真ん中に立ち、弟子全員がその姿を見ます。『あなたがたに平和があるように』と言って彼らを祝福されます。口語訳聖書ではただ一言『安かれ』といって、彼らを慰めています。主イエスは単に挨拶しただけではなく、まず彼らの複雑な心境を慰められたのです。その姿は、主イエスを見捨てた弟子たちに対する不信仰さを咎め、怒る神様としての姿ではなく、何よりもまず、彼らの心境を慰め、憐れんだ主イエスの愛の神様としての御姿だったのです。しかし、弟子たちはその姿が亡霊に見えて、恐れおののく、つまり取り乱しているのです。マタイによる福音書14章26節とマルコによる福音書6章49節でも彼らは湖の上を歩く主イエスが亡霊のように見えて、恐怖のあまり叫び声をあげています。その実体のない姿に恐れ、取り乱すのは、おおよそ主イエスがこの世の者ではないという印象があったからでしょう。まして、主イエスが実際に死んで埋葬された後にその姿を見れば、誰もが取り乱します。この世の者ではない、つまり生きていない者、死んだ者を認識することなど、不可能なのです。弟子たちの中には確かに遺体が見当たらない空虚の墓を見た者がいたし、エマオで現れた主イエスに出会ってはいましたが、今目の前にいる方が、墓に埋葬された遺体であり、エマオに現れた主イエスだという確証は全くないのです。死者がそのままでの姿で復活するとは彼らは考えもしなかったでしょう。それは彼らが死後の世界がはっきりわからないように、私たちにもわからないのです。死ぬことは人生の終わりであり、肉体は消滅し、お墓に埋葬される。霊だけの見えない姿になって、その後は天国とか地獄とかの別次元の世界にいき、生きている者たちの世界と切り離されていくと思うかも知れません。

私たちはそのように理解して、生きている者たちの世界と、死んだ者たちの世界を区別します。それはやはり、死後の世界がわからないがゆえに、私たちは不安になり、恐ろしくなり、また悲しくなるという心境からくるものでしょう。だから、お化けや幽霊などの実体がないものの話を聞いたり見たりしてしまえば、怖くなり、冷静さを失って取り乱したり、死んだ人間が生き返ったと聞けば、何か魔術的な力によるものであるとか、非現実的なことを連想してしまいます。しかし、主イエスの復活、キリストの復活は、実体のないあいまいな姿として恐れられる存在としての復活ではないのです。弟子たちと同じ肉の体においてではないが、生きている者なのです。主イエスは彼らに手と足を見せ、そして触らせます。肉や骨がある実体だからこそ、弟子たちは見ることができたし、触ることもできる。亡霊のような存在ではない。復活した体が本当にあったのです。弟子たちが恐ろしさのあまり証拠を確かめるために、主イエスを観察したり、触ったりして、確信したのではなかったのです。主イエス自身から、彼らを導いて復活の証を示したのでした。それによって、彼らの心境は一転して、喜びへと変わっていきます。喜びのあまり、信じられず、不思議がっている彼らですが、それは心を乱すような恐ろしさをもう抱いてはいないのです。ただ、今目の前で起こっている出来事に、本当に喜んでよいのかという戸惑いを感じるのです。まるで夢でも見ているかのように、目の前の出来事が都合よく突き進んでいくのです。

しかし、これらの出来事は全て、彼らにとっての能動的な動作ではなく、受動的な動作なのです。彼らの視点から見ると、見せられ、触らせてもらっているのです。そして、さらに主イエスは自ら一匹の魚を食べて見せるのです。手や足があることと、亡霊であれば、食事をすることなど、不可能であるということをはっきりと示されたのです。これらの出来事は主イエスが生前弟子たち共に食事をし、生活をし、共に旅に出た方であるということをはっきりと示されたということでした。主イエスが真の体を持っていること、食事をし、本当に生きていることを示したこの復活の出来事を、後に弟子たちは人々に宣べ伝えて行くのです。

主イエスの復活は、真に命ある体を持った姿であり、死者の中から甦ったことを、私たちに伝えています。『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』という聖書の御言葉の実現は、そのようなキリストの復活へと焦点が向けられているのです。コリントの信徒への手紙1の15章20節ではこう記されています。『実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』死後の世界では、キリストを信じる者が、初穂となったキリストと共に復活するのです。その時は終末の日であり、キリストが再臨し、キリストを信じ、キリストに属する者がよみがえることを示しているのです。ローマの信徒への手紙6章4―5節ではこう記されています。『わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からさせられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となって、その死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。』

私たちはいずれ肉体的な死は迎えますが、その死はすべての終わりを指すのではなく、むしろ、キリストが再臨する終わりの時に、新しい命をもって、霊の体をいただいて復活するのです。死後の世界において、その肉体が失われ、亡霊のような存在になるのではないのです。キリスト共に復活する時を待ち望むのです。その完成された日に向かって、私たちは死後の世界を恐れることなく、復活を信じて日々をキリスト共に歩んで行くことができるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年4月28日 復活後第1主日の説教「燃える心」

「燃える心」ルカによる福音書24章13~35節 藤木 智広 牧師

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先週のイースターにおきまして、主のご復活の喜びを皆で分かち合い、お祝いできたことを嬉しく思います。先週も言いましたが、パウロが「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1514と言うように、主の復活がなければ私たちの群れは存在しません。キリストの復活によって、私たちの思いと心はひとつにされるのです。

復活物語は弟子たちの不信仰の物語とも言えます。弟子たちは婦人たちから主が復活されたという証言を聞きますが、彼らはその証言をたわごとだと言って、信じることができなかったのです。彼らは主を失い、自分たちの歩みもこれで終わりだと思っていました。また、ユダヤたちを恐れて、身を隠していました。そのような絶望の只中にあって、希望を見出すことができなかったのです。しかし、先週のイースター、主の空の墓を見た婦人たちに、神様のみ言葉であるみ使いたちは、彼女たちにこう言いました。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」(ルカ24:6~8)思い出しなさい。過去にあった出来事を単に記録として呼び覚ますのではなく、それは必ず実現するという神様の約束でありました。その約束が今、彼女たちへの神様からの答えとなって明らかにされている。彼女たちの恐れ、動揺、弟子たちの不信仰物語と切り離されたところにある主の復活ではなく、その不信仰の只中に主の復活は明らかになったのでした。そこで復活の主イエスと彼らは出会っていくのです。

今日の復活物語は有名なエマオ物語です。多くの画家がこの物語を描き、私たちの心をぐっとつかむ見事な描写で描かれています。二人の弟子の暗い顔、目が遮られて、大切なものを見失っている姿。そこから、二人の目が開け、燃える心を宿していた。主イエスは最初からふたりと共にいて、共に歩き続けてくださっていました。時間はかかっても、主イエスはずっとふたりと共にいました。このエマオでの途上も、二人の弟子たちに対して、「思い出しなさい」という神様からのメッセージが、主イエスによって終始ふたりに語り続けられていたのです。

エルサレムからエマオまでの60スタディオン、これは約11キロ半という距離だと言われています。結構な距離です。かつてはこのような長い道のりも、主イエスと共に歩いてきたけど、今はもう自分たちしかいない。「この一切の出来事を話していた」彼らの心境が重い足取りとなって、この長い道のりを歩いていたのでしょう。そこに主イエスの方から彼らに近づかれて、彼らと共に歩かれていったのです。

彼らは暗い顔で、それまでのことを主イエスに話しました。自分たちが期待していた救い主が死んでしまったことと、婦人たちの復活の証言のことを。自分たちには何のことかわからず、信じることもできない。ただ大切なものを失い、それは目には見えなくなってしまったという現実だけを見つめて、受け止めている彼らの思いがあるだけです。そこで主イエスは彼らに言われるのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(2526節)彼らの後ろ向きの歩み、その闇深き思いに対して、主イエスは同情の言葉を投げかけたのではなく、むしろあなたがたは根本的にわかっていない、真実からそれていると言うのです。物わかりが悪く、心の鈍い者とはそういう意味です。根本的な真理から目を背け、目の前の事実だけに目を留めて、自分たちの思いだけに踏みとどまろうとすることです。彼らの目を遮っていたのは、自分たちの思いだけに踏みとどまっていたことでした。

弟子たちの思いに対して、主イエスは「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われ、ここでもこの弟子たちに、主の言葉を思い出しなさいと言われているようです。こういう苦しみとは、主イエスの受難と十字架の死です。それは彼ら弟子たち、そして私たちの苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きを我がこととして担われた十字架の死でした。それらの不幸を避けて神様の栄光、救いを顕そうとされたのではなく、まさにその只中を突き進んで、神様の救い、愛を完成されたのです。私たちが避けたい事柄、避けたい道、理不尽だと思うことからの救いではなく、そのただ中をこそ主が共に歩んで下さり、そのような荒れ狂う大嵐の中で舵取りをして、導いてくださるのです。主イエスは、力ではなく、苦しみの中にこそ、神の栄光を顕そうとされたメシア(救い主)だったのです。そして、その栄光は十字架の死で終わったのではなく、墓を打ち砕き、死を打ち滅ぼし、復活のメシアとして、私たちに示されたのです。主イエスはその神様の約束の言葉を彼らに語り続けました。

そして、エマオへの村に近づいた彼らは、主イエスを引き留め、一緒に食卓につきました。パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らに渡すと、彼らの目は開け、そこでやっと主イエスだと分かったが、その時には既に主イエスの姿は見えなくなっていたと言います。主イエスとの食卓、聖餐の恵みを体現して、ここでもまた彼らは主の言葉を思い出しました。それが真実として自分たちに明らかにされていることを体現し、生きて働かれている主を見出し、復活の主イエスと出会うことができたのです。聖書の御言葉と聖餐の恵みによって、復活の主を体現したのです。今も生きて自分たちと共に復活の主がいてくださると。そのことを私たちは毎週の礼拝において確認し、復活の主との交わりをいただくのです。

弟子たちは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。主と歩いていた時、聖書の御言葉を聞いていたとき、彼らの心は燃えていました。気分が高騰し、熱狂的に燃え上がっていたのではなく、確かに命の鼓動を感じさせるような熱が自分たちに伝わってきたのだということでした。暗く、遮られていた彼らの心境、その闇の只中に光り輝くように、主イエスの復活の命の光が輝いていた。暗い顔をし、遮られていた目をしていた彼らの姿の中に、歩みの中に、既に主イエスは、彼らの心に神様の言葉、その約束は必ず実現するということを語り伝えていたました。彼らとは無関係の、冷めた言葉ではなく、彼らの歩み、命を生かす燃えた言葉となって、彼らの心、魂の中に燃えているのです。それは何よりも、このエマオでの途上で、一緒に歩き続けてくださる中で、主イエスご自身が彼らの心に復活の命の灯を灯してくださったのです。彼らのペースに合わせて、心境に合わせて、同情するわけでもなく、確信と愛をもってして彼らに寄り添い、これで終わりではなく、ここからまたあなたがたの歩みは始まっていくという神様の約束を明らかにしてくださったのです。

今日の詩篇交読は16編でした。この中でこういう言葉があります。主(しゅ)は右(みぎ)にいまし、わたしは揺(ゆ)らぐことがありません。」共に歩いてくださる主は右にいると言います。これはただ近くにいてくださるというだけではありません。右というのは、右腕と言われるように、信頼に足る存在だと言われます。そこに主がいてくださる。主が私たちの右腕となって保護してくださるのです。心が燃えるとは、目に見える事実からの心地よさ、感動ではなく、見えなくても信じて信頼できることです。今この時も、主イエスが私の人生を共に歩んで下さっている。主イエスが一緒に歩いてくださっている。主が私の右腕、私の信頼できるところに共にいてくださる。厳しい現実の只中にあって、私の歩みを共に歩いてくださり、確かに導いてくださる。主イエスご自身が「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われた苦難の救い主だからです。どのような時でも、主が私たちの右腕となってくださり、自分ではつかむことができない命を、主はしっかりとつかんでいてくださいます。弟子たちの燃える心、そして私たちの燃える心の根拠は、信頼できるところに、常に主が共にいてくださることにつきるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年4月21日 復活祭の説教「射し込む命の光」

「射し込む命の光」ルカによる福音書24章1~12節 藤木智広牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

イースターおめでとうございます。復活の喜びを喜びとして受け止めるようにと、私たちは四旬節、受難週を過ごしてまいりました。死の闇を受け止めて、復活の光を知るのです。光が闇の中で輝くように、主の十字架と復活は決して別々のものではなく、切っても切り離せないものなのです。死の闇の中で、命の終着点と思われるところで、キリストの復活を通して、新しい命のありかとなりました。私は復活であり、命である(ヨハネによる福音書11:25)。死者の復活のために、キリストが神様によって復活させられたということです。そして、パウロの言葉を借りれば、このキリストは「復活の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」方であり、(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:20)私たちもこのキリストに結ばれることによって、復活の命に与るということが約束されているのです。また、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:14)とも言いました。だから、このイースター、復活祭はキリスト教教会の最も重要な祝祭で、一番古い祝祭なのです。このイースター、復活祭を中心に、クリスマスやペンテコステなど祝祭と教会の暦が作られていきました。

さて、今年はルカによる福音書から、復活の物語を読みました。ルカ福音書には、多くの婦人が描かれています。10節には「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」とあります。名前の記されている3人の婦人たちは、前の8章1節から3節に登場しています。そこにはこう記されています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(8:1~3)この女性たちも主イエスと出会い、主イエスと共に、神の国を宣べ伝える途上にありました。自分の持ち物を出し合って、主イエスと弟子たちを助けていたのです。しかし、主イエスが捕らえられ、十字架上で死なれたことによって、神の国を宣べ伝える宣教も頓挫してしまったかのように思われました。

また彼女たちは、逃げてしまった弟子たちとは違い、主イエスが十字架上で死なれたその一部始終を見届けていました。すぐ前の23章にこう記されています。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」(235556)」愛する主の無残な死を見つめ、さらに翌日が安息日ということで、ちゃんとした埋葬もできないまま、墓に葬られてしまいました。そのことがより一層彼女たちの悲しみを大きなものにしていたでしょう。

ですから、「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」もうだいぶ日が経ってしまったけれど、やっと香料を塗ってあげられる、愛する主が死に、その死に報いるように、埋葬してあげられるという思いが顕されているのです。

しかし、墓に着いた彼女たちは、衝撃的な光景を目の当たりにします。「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」(2423他の福音書とは少し描き方が違いますが、彼女たちはその時途方に暮れていました。主のご遺体はどこにいったのか。そしてルカ福音書が描く状況から察すると、墓が荒らされ、誰かにご遺体が持ち去られたのではないのか。そのように彼女たちが考えてもおかしくはないでしょう。香料を塗ってあげられるどころか、ご遺体すらない、主の面影そのものが全くなくなってしまったのです。もうどうしていいのかわからなくなっていたでしょう。

彼女たちが途方に暮れ、絶望する中で、神様の御言葉が聞こえくるのです。ふたりの神様の御使いが現れて、神様の言葉を告げます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(2556)。ここというのはお墓ですが、ご遺体があるところ、人生の終着点、命の終着点と言われるこの墓にはいないというのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」、それは見当違いの場所を探しているということを意味します。あなたたちはなぜそこを探しているのかというこの御使い、主の言葉の問いかけは、もうだめだ、もうここにしか行き着くところがない、もうこの手段しか思い浮かばないという私たちの歩みに、私たちの目を真に開かれるきっかけとなります。神様、もうこれしかないではないですか、ここにしか自分たちのたどり着くところはないではないですか、その私たちの問いに、神様は、180度違う視点、見える世界の限界を超えて、見えない世界に触れさせようとするのです。今あなたが描いている全く真逆のところに答えは示されている。それがあなたを生かす道となり、糧となる。そのように主は私たちを導かれ、私たちの目を見開かれるのです。

御使いはこうも言います。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」。(2467ガリラヤ、それは先ほどお読みした8章の場面で、彼女たちが主イエスと出会った場所です。神の国の宣教を共にしていた時です。そのガリラヤで既にお話になっていたこと、それは「十字架につけられ、三日目に復活することになっている」ということでした。十字架と復活のことが既に予告されていました。神の国という福音、その本質は実は、主イエスの十字架と復活であるということ。十字架の死によって、神の国の宣教が頓挫したのではないのです。十字架の死を通って、復活の命が明らかとなったのです。

神の国は神の愛に満ちているところです。この神の愛は十字架と復活を通して完成しました。神の愛は死んだのでなく、今も生きているのです。またそれは、婦人たちに、そして私たちにも「思い出しなさい。」とみ使いは言います。それはただ過去の出来事をなつかしむのではなく、主が絶えずあなたがたと共にいるということをくり返し思い起こしなさいということを伝えているのです。既に神の愛の只中にあったこと、そして今もその中にあるということを受け止めることです。それは主イエスが今も生きているからに他なりません。生きていて、彼女たちのことを忘れてはいないのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。・・・・その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。」(ルカ1474854とマリアの賛歌は歌います。身分の低い、取るに足らないこの私にも目を留めて慈しんでくださる神の愛は、決して忘れ去られるものではない。この時も、今も神様の愛と共に、自分は生きている。生かされている。罪のとりこに苛まれ、立ち直れなくなってしまうものたちに、主の復活はそのものたちを、再び神の愛の希望の内に立ち上げてくれることを意味するのです。

聖書は旧約聖書、新約聖書と言います。約というのは、約束の言葉です。神様の約束の言葉が記されているのが、聖書であり、神様の御言葉です。ただ、道徳の本や、歴史の書、教訓の書という類のものではないのです。一見理不尽に感じることも書いてあります。しかし、これらはすべて神様の愛の約束が記されており、それはひとりひとりを慈しみ、忘れることのない神様のご計画が表されているのです。だから、打ちひしがれ、傷つき、倒されてしまっても、それで終わりではないということなのです。今私たちは、その神様の愛の約束を「思い出したい」。主が今も生きて私たちと共にいてくださるからこそ、私たちは絶えず、主の愛を思い出し、繰り返し繰り返し、主の愛に立ち返ることができるのです。主の復活は、神様の愛を明らかにした神様の私たちへの答えです。だから、この神様の愛は決して死ぬことはないのです。私たちは忘れ去られてしまうことはなく、主の愛の中にあります。主は生きて、私たちと今も共にいてくださるからです。神の国の宣教は続いています。神の愛は死なず、今も生きているからです。私たちの宣教も、主の復活と共に、再び始まったばかりなのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。